戦国時代の日本列島において、関東地方、とりわけ下総国は、複雑かつ流動的な政治情勢の中心地であった。古河公方、関東管領上杉氏、そして相模国から急速に勢力を伸張させた後北条氏という三つの大勢力が、覇権をめぐり激しい角逐を繰り広げていた 1 。このような権力闘争の渦中にあって、在地の中小領主、いわゆる「国衆」たちは、自らの存亡を賭けて巧みな戦略を駆使する必要に迫られていた。本報告書が主題とする高城胤辰(たかぎ たねとき)は、まさにこの激動の時代を象徴する人物である。
当初、高城氏は下総の名門千葉氏の有力被官であった原氏に仕える重臣という立場にあった 2 。しかし、主家である原氏、さらにはその主筋である千葉氏の権勢が衰退し、後北条氏の勢力が関東一円に及ぶという権力構造の地殻変動の中で、高城氏は次第に自立的な国衆へと成長を遂げる。そして、胤辰の時代には後北条氏の関東支配体制において、極めて重要な戦略的役割を担うに至るのである 5 。
高城胤辰の生涯を追うことは、単に一地方武将の興亡を解明するに留まらない。それは、戦国時代における「中間権力」が、いかにして大勢力の狭間で自らのアイデンティティを形成し、存続と勢力拡大を図ったかという、より普遍的な問いに光を当てる作業でもある。主家の衰退と新たな覇者の台頭という歴史の転換点にあって、胤辰が見せた巧みな戦略と領国経営の手腕は、彼が単なる武人ではなく、先見の明を持った政治家・領主であったことを示唆している。本報告書は、現存する多様な史料を丹念に読み解き、この下総の雄、高城胤辰の歴史的実像を多角的に解明することを目的とする。
高城氏の出自は、単一の系譜に収斂されるものではなく、複数の伝承が並立している。これは、一族が自らの正統性や権威を、その時々の政治的状況に応じて構築し、あるいは再編してきた歴史の反映と考えられる。本章では、主要な説を根拠史料と共に批判的に検討し、その歴史的背景を探ることで、高城氏の原像に迫る。
江戸時代に入り、高城氏が徳川幕府の旗本として仕える過程で、公式の系譜として提出されたのが「藤原姓二階堂氏説」である 1 。高城胤則の子・重胤(胤次)が幕府に提出したとされる『高城胤次申状下書』や、それを基に編纂された『寛政重修諸家譜』には、高城氏の祖が藤原氏の流れを汲む名門・二階堂氏であり、紀州熊野、あるいは奥州高城保を名字の地とすると記されている 1 。
この系譜は、一見すると高城氏に輝かしい権威を与えるものである。しかし、その成立背景には政治的な意図が色濃く反映されている可能性が高い。戦国時代、高城氏が属した後北条氏は、最終的に徳川家康と敵対した勢力である。また、その主家筋にあたる千葉氏も、徳川氏にとっては旧敵であった。旗本として新たな支配者である徳川幕府に仕えるにあたり、これらの経歴は好ましいものではなかったであろう。そこで、千葉氏との関係を隠蔽し、より権威ある藤原姓を名乗ることで、旗本としての家格を確立しようとしたと考えられる 1 。これは、戦国大名としての滅亡後、新たな支配体制下で生き残るための「系譜の戦略的選択」であったと解釈でき、戦国期の実態とは区別して考察する必要がある。
一方で、戦国期における高城氏の自己認識を反映していると考えられるのが、「千葉氏一族・原氏庶流説」である。江戸時代中期に成立した『八木原文書(小金城主高城氏之由来)』などによれば、高城氏は九州千葉氏の分流であり、同じく千葉氏から分かれた原氏の庶流にあたるとされている 1 。
この説は、高城氏が長らく被官として仕えた主家・原氏との同族関係を強調するものであり、高城氏が原氏の重臣として台頭し、その所領の一部を継承していく過程を正当化する意図があった可能性が指摘されている。しかしながら、『八木原文書』自体は後世の編纂物であり、その内容には時代考証上の矛盾点が多く含まれているため、史料としての信憑性には大きな疑問が呈されている 1 。この系譜は、史実そのものというよりは、高城氏が原氏の被官から独立した領主へと立場を変えていく中で、その権力移行を円滑にし、正当化するためのイデオロギーとして機能した「物語」であったと捉えるべきであろう。
出自をめぐる伝承とは別に、同時代の信頼性の高い史料から、高城氏の初期の動向を窺い知ることができる。その代表が、下総国平賀(現・松戸市)にあった本土寺の過去帳『本土寺過去帳』である。この史料には、永享9年(1437年)6月19日に「高城四郎右衛門清高」という人物が「クリガサワ(栗ヶ沢)」で没したという記録があり、これが高城氏の活動を具体的に示す、現存する最古の確実な史料とされている 1 。
この記録から、15世紀前半には既に高城一族が現在の松戸市栗ヶ沢周辺を拠点としていたことがわかる。さらに過去帳には、馬橋(マバシ)や我孫子(アビコ)といった地名と共に高城姓の人物が登場し、一族が葛飾郡北西部に広く分布していた様子が確認できる 1 。
特筆すべきは、初見史料に登場する「清高」という名が、千葉氏一族の通字(代々用いられる特定の漢字)である「胤」を含んでいない点である。この事実は、高城氏が当初は千葉氏の中核的な一族とは比較的縁の遠い、新参の家臣であった可能性を示唆している 1 。
これらの史料的根拠を総合すると、高城氏の出自に関する最も妥当な結論は、次のように考えられる。すなわち、高城氏は特定の高貴な出自を持つ一族というよりも、15世紀初頭に下総国葛飾郡に根を下ろした在地領主であり、千葉氏の家臣団に組み込まれ、特にその中でも有力であった原氏の被官として活動する中で、徐々に実力を蓄え、勢力を伸長させていった、いわば「成り上がり」の国衆であった。そして、その後の政治的地位の上昇に伴い、自らの権威を高めるために、前述のような系譜伝承が後付けで創られていったと解釈するのが、最も合理的であろう。
説の名称 |
主な根拠史料 |
概要 |
史料的・歴史的評価 |
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藤原姓二階堂氏説 |
『寛政重修諸家譜』 1 |
『高城胤次申状下書』 7 |
藤原氏の流れを汲む名門・二階堂氏の末裔で、紀州熊野または奥州を名字の地とする。 |
徳川幕府に旗本として仕える際、旧主・千葉氏や後北条氏との関係を隠蔽し、家格を高めるために創作された可能性が高い。戦国期の実態とは乖離している。 |
原氏庶流説 |
『八木原文書』 7 |
千葉氏の分流である原氏の、さらに分家にあたる。九州千葉氏にルーツを持つとされる。 |
原氏の被官から独立する過程を正当化する意図か。根拠史料は後世の編纂で矛盾点が多く、信憑性に乏しい。 |
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常陸国人説 |
『千葉大系図』 1 |
千葉氏の家臣団リストの中で、常陸国の国人領主らと共に名が挙げられている。 |
直接的な証拠はなく、あくまで状況証拠からの推測に留まる。 |
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史料に基づく実像 |
『本土寺過去帳』 1 |
15世紀前半に松戸市栗ヶ沢を拠点とした在地領主。当初は千葉氏との血縁は薄い新参の被官であった。 |
同時代の一次史料に近く、最も信頼性が高い。伝承ではなく、在地領主としての着実な勢力拡大の過程を示す。 |
高城胤辰の活躍を語る上で、その父・胤吉(たねよし)の時代を抜きにすることはできない。胤吉の治世は、高城氏が主家・原氏の有力被官という立場から、小金領一帯を支配する自立した国衆へと飛躍を遂げた、極めて重要な画期であった。本章では、拠点城郭の変遷と周辺勢力との関係性の変化から、その権力基盤確立の過程を明らかにする。
高城氏の運命を大きく左右する最初の転機は、永正14年(1517年)に訪れた。古河公方の分家である小弓公方・足利義明が、下総における勢力拡大を目指して、原氏の拠点であった小弓城(現・千葉市)を攻撃したのである。この戦いで原氏は敗北し、城を失った。『快元僧都記』には、この時「家郎高城越前守父子滅亡、同下野守逐電」との記録があり、高城一族も当主クラスの人物が討死・逃亡するという甚大な被害を受けたことがわかる 4 。
この主家の危機に際し、高城胤吉は離散した原氏の残存勢力をまとめ、自らの拠点であった栗ヶ沢城に迎え入れている 2 。この時点での胤吉は、あくまで原氏の代官的な地位にあって、主家の再興を支える立場にあったと推定される。
主家の動揺が続く中、胤吉は次なる一手として、大胆な行動に出る。享禄3年(1530年)から天文6年(1537年)までの7年もの歳月をかけて、本拠地として新たに巨大な城郭、小金城(大谷口城)を築城したのである 12 。
この築城は、単に手狭になった従来の居城・根木内城からの移転というだけではなかった。小弓公方や、その背後にいる房総の雄・里見氏の軍事的脅威に対抗するための、大規模な戦略的拠点構築という側面が強かった 12 。これにより、旧来の根木内城は、本城である小金城の東方を防衛する支城として、防衛網の一翼を担うことになった 16 。
小金城の築城は、高城氏の歴史における権力移行の象徴的出来事であった。主家である原氏が敗走し、その権威が揺らぐ中、胤吉が自らの主導で「東葛飾地域で最大規模」 15 とされる新城を築いたという事実は、彼がもはや単なる代官ではなく、小金領の事実上の支配者として自立を宣言したに等しい行為であった。城の物理的な規模そのものが、胤吉の政治的野心の大きさを物語っているのである。
胤吉の次なる戦略は、新興勢力である後北条氏との連携であった。天文7年(1538年)、小弓公方・足利義明と後北条氏綱が国府台(現・市川市)で激突した第一次国府台合戦において、胤吉は後北条方として参戦し、その勝利に大きく貢献した 1 。
この戦功は、高城氏の地位を決定的に向上させた。後北条氏からは、その褒賞として相模国小園(現・厚木市) 2 や海老名 1 といった、本領から離れた地に所領を与えられた。これは、後北条氏との間に直接的かつ強固な主従関係(両属関係)が結ばれたことを意味する。そして、この合戦で足利義明が討死した結果、旧主・原氏は念願であった小弓城に復帰することができ、その一方で、高城氏は名実ともに小金城主として、葛飾郡東部における支配権を確立したのである 2 。胤吉の巧みな立ち回りによって、高城氏は主家の危機を乗り越え、より強固な権力基盤を築き上げることに成功した。
代 |
名前 |
生没年 |
略歴 |
4代 |
高城 胤吉 |
????-1565 |
下野守。小金城を築城し、後北条氏に従属することで高城氏発展の基礎を築く。 |
5代 |
高城 胤辰 |
1537-1582 |
下野守。胤吉の子。本報告書の中心人物。後北条氏の「他国衆」として活躍。 |
6代 |
高城 胤則 |
1571-1603 |
下野守。胤辰の子。幼くして家督を継ぐ。小田原征伐で没落するが、妻(柴田勝家養女)の縁で家名存続の道を開く 20 。 |
7代 |
高城 重胤 |
1599-1659 |
清右衛門。胤則の子。佐久間安政の推挙により、徳川幕府旗本となる 4 。 |
本章は、本報告書の核心部分として、高城胤辰の生涯を詳述する。父・胤吉が築いた強固な基盤を継承した胤辰は、上杉、北条、里見という三大勢力が覇を競う、戦国関東の最も激動した時代を生きた。その中で、彼がいかにして自らの領国と一族を守り、発展させたのか。その巧みな軍事・外交戦略の軌跡を追う。
高城胤辰の生没年については、天文6年(1537年)に生まれ、天正10年12月16日(西暦1583年1月9日)に没したとする説が、本土寺過去帳などの記録から通説となっている 3 。
家督を相続した正確な時期は明らかではないが、永禄7年(1564年)に、父・胤吉が中山法華経寺に認めた諸権利を追認する内容の文書を自ら発給していることから、この頃には家督継承がなされていたとみられている 3 。胤辰は、父・胤吉の権威の象徴であった「胤吉」の名義が入った黒印(印判)を、自らの代、さらにはその子・胤則の代に至るまで使用し続けた 2 。これは、胤吉が高城氏発展の礎を築いた偉大な当主であったことを示すと同時に、胤辰自身がその正統な後継者であることを内外に強く誇示する、計算された政治的演出であったと考えられる。
胤辰が当主となって間もない永禄3年(1560年)、越後の「龍」上杉謙信が、関東管領職の継承を大義名分として大軍を率いて関東へ出兵するという、未曾有の事態が発生する。当初、胤辰は父・胤吉と共に、同盟者である後北条氏方としてこれに対峙した 1 。
しかし、上杉軍の勢いは凄まじく、関東の諸将が次々と降伏。高城氏の主君筋にあたる千葉氏の当主・千葉胤富も上杉方に降ったため、胤辰もこれに従い、一時的に上杉方に属することとなった。この時の上杉方の編成を記した『関東幕注文』(永禄4年成立)には、数ある下総の国衆の中で唯一「高城下野守」の名が記されており、高城氏が既に一介の家臣ではなく、下総を代表する有力な独立勢力として認識されていたことが窺える 2 。
この一連の行動は、単なる日和見主義や変節と断じるべきではない。主君である千葉氏の動向に表向きは従いつつも、無益な籠城戦によって兵力を消耗し、領国を焦土と化すことを避けるための、極めて現実的かつ合理的な判断であった。そして、謙信が越後へ帰国し、その軍事的圧力が弱まると、胤辰は即座に後北条氏へ再帰属している。このことから、彼の本心が一貫して後北条方にあったことは明らかである。この一時的な離反の代償として、上杉方に追われていた古河公方・足利義氏を、後北条氏の命令で自らの居城・小金城に仮の御所として迎え入れているが、これもまた、関東の政治秩序の中で生き残るための巧みな代償であった 1 。胤辰の対応は、忠誠心といった観念論ではなく、自らの勢力維持を最優先する戦国国衆の、したたかな生存戦略の典型例と言えよう。
上杉謙信の脅威が一段落した永禄7年(1564年)、今度は房総の里見氏が北上し、後北条氏と国府台で再び激突する(第二次国府台合戦)。この合戦において、高城胤辰は後北条軍の中核として、その真価を発揮した 3 。
胤辰は約千騎の兵を率いて参陣し、地元の地理に精通した武将として、後北条軍の勝利に大きく貢献したと伝えられている 1 。合戦の緒戦では、北条方の先陣が突出して里見軍の罠にはまり敗走するなど、作戦に狂いが生じる場面もあったが 23 、最終的に勝利を掴んだ北条氏にとって、胤辰の働きは極めて大きなものであった。この目覚ましい戦功により、胤辰は後北条氏からさらなる恩賞として、江戸湾岸の戦略的要地である葛西、亀井戸、行徳、船橋といった広大な地域を知行として与えられた 7 。これにより、高城氏の勢力は、経済的にも軍事的にも飛躍的に増大することとなった。
高城氏の後北条氏に対する関係性を理解する上で、極めて重要なのが「他国衆(たこくしゅう)」という立場である。永禄2年(1559年)に後北条氏が作成した家臣団のリストである『小田原衆所領役帳』において、高城氏は原氏などと共にこの「他国衆」に分類されている 1 。
「他国衆」とは、伊豆以来の譜代家臣である「小田原衆」や、各支城に属する家臣団とは異なり、元々は後北条氏の領国外に勢力基盤を持つ独立した領主(国衆)でありながら、同盟・従属関係に入った有力者を指す 25 。このことは、高城氏が後北条氏の家臣団の中で、単なる一被官ではなく、一定の独立性を保持した特別な地位にあったことを明確に示している。
一方で、その独立性は完全なものではなかった。江戸城の城代であった遠山綱景を通じて軍事的な命令が下されるなど 2 、後北条氏の軍事指揮系統には明確に組み込まれていた。例えば、永禄11年(1568年)には、武田信玄との関係が悪化したことを受け、江戸城防衛のために常盤橋付近にあったと推定される「江城大橋宿」への駐屯を命じられており、対外的な軍事行動において中核的な役割を担っていたことがわかる 3 。
この「他国衆」という立場は、後北条氏の支配体制が、強力な中央集権体制ではなく、地域の有力者との同盟ネットワークに大きく依存していたことの証左である。胤辰は、後北条氏の軍事力に積極的に貢献することで自らの地位と所領を保障させつつ、自らの領国経営においては高い自律性を維持するという、絶妙なバランスの上に立っていた。彼は「後北条ファミリー」の一員ではなかったが、最も信頼される強力なパートナーの一人として、その地位を最大限に活用したのである。
高城胤辰の評価は、戦場における武功や外交戦略に留まるものではない。彼はまた、領国の安定と発展に尽力した優れた統治者でもあった。その政策の中には、後の江戸時代の発展の礎となるような先駆的な取り組みも見られる。本章では、軍事指揮官としてではなく、領国経営者としての胤辰の側面に光を当てる。
戦国時代の領主にとって、広大な寺社領と宗教的権威を持つ寺社勢力をいかに統制するかは、領国経営上の重要課題であった。胤辰は、領内の有力寺社である本土寺、東漸寺、そして船橋大神宮などに対し、制札(禁制)や判物(公的文書)を積極的に発給し、その寺社領を保護する一方で、自らの権威下に置くことに成功している 3 。
特に、元亀2年(1571年)に船橋大神宮に対して発給した判物は、彼の巧みな統治術をよく示している。その中で胤辰は、「船橋大神宮は我が先祖代々からの信仰の対象であるから、万事介入はしない」と約束して懐柔する一方で、「近年、宮内での争論が度々起きていると聞くので、今後は自分が裁定を下す」と宣言し、最終的な司法権が自らにあることを明確にした 31 。さらに天正6年(1578年)には、船橋大神宮の門前町の諸役を免除し、一定の自治を認めるなど、アメとムチを巧みに使い分けることで、地域の安定を図った 3 。
胤辰の時代、高城氏の支配領域は大きく拡大した。その一つが、ユーザーの知る「栗原6カ郷」を含む地域である。これは、かつての主家であった原氏が、里見氏の脅威などから本拠をより内陸の臼井城へ移したことに伴い、原氏による直接支配が困難となった沿岸部の栗原・船橋の所領が、胤辰に譲与されたものである 3 。
胤辰の領国拡大は、単なる面積の増大を意味しなかった。第二次国府台合戦の恩賞で得た葛西・行徳 7 、原氏から譲られた船橋・栗原、そして自らの支配下に置いた市川宿 3 といった地名を地図上に配置すると、それらがいずれも太日川(現・江戸川)下流域や東京湾の奥に位置する、水運・陸運の結節点であることがわかる。胤辰はこれらの交通の要衝を確実に掌握し、治安維持にも努めた。天正9年(1581年)に市川宿に対して発給した制札では、喧嘩口論や盗賊行為はもとより、賭博(双六)や、当時問題となっていた人身売買に繋がる借金の担保(国質・郷質)を厳しく禁じている 3 。これは、物流と商業こそが領国経営の根幹であると、彼が深く理解していた証左と言えよう。その統治思想には、中世的な武断主義を超えた、近世的な経済重視の視点が窺える。
胤辰の先見性は、産業の育成にも見られる。後の江戸幕府が軍馬の供給源として重要視した広大な放牧地「小金牧」や、江戸の食生活を支えた「行徳塩田」による製塩業は、その萌芽が胤辰の統治時代に既に存在していたと考えられている 3 。これは、高城氏が単に年貢を徴収するだけでなく、軍事・経済上の戦略物資である馬や塩の生産管理にも着手し、領国の富国強兵を体系的に目指していたことを示唆している。
実力でのし上がった胤辰であったが、自らの支配を正当化するための「権威」の重要性も熟知していた。彼は、後北条氏という強大な後ろ盾に加え、関東における伝統的権威である古河公方との関係構築にも努めた。かつて居城の小金城に一時滞在させた古河公方・足利義氏との関係を維持し、天正5年(1577年)、義氏に手賀沼周辺で捕獲したとみられる白鳥を献上した際、その返礼として正式に「下野守」の官途名を授けられた 3 。
これは、単なる名誉ではなく、後北条氏という新興勢力の武威だけでなく、室町幕府以来の伝統的権威からも公認された正式な領主であるというお墨付きを得ることで、自らの支配の正統性を内外に示威する、高度な政治的戦略であった。
絶頂期を築いた高城胤辰の死後、高城氏は歴史の大きな渦に飲み込まれていく。若年の当主の下、主君である後北条氏と運命を共にし、戦国大名としては滅亡の道をたどる。しかし、一族はそこで途絶えることなく、巧みな処世術によって徳川の世で旗本として家名を存続させることに成功した。本章では、その劇的な転換の過程を追う。
天正10年(1582年)、甲斐・信濃の支配者をめぐる「天正壬午の乱」が勃発し、後北条軍が徳川軍と対陣する中、高城胤辰は病に倒れ、陣中にてその生涯を閉じた 3 。46歳であった。死に際し、後北条氏当主の北条氏政から、嫡男である龍千世(後の胤則)への家督相続が正式に認められた 3 。しかし、この時、新当主の胤則はわずか12歳であった 20 。戦国の世にあって、経験豊富な指導者を失い、若年の当主が立ったことは、高城氏の将来に大きな不安の影を落とすことになった。
胤辰の死から8年後の天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉が、22万ともいわれる大軍を率いて関東に侵攻する(小田原征伐)。当主・高城胤則は、後北条氏の主要な家臣の一人として、主君と共に小田原城での籠城を余儀なくされた 20 。
その間、本国の小金城は、豊臣軍の別動隊を率いる浅野長政によって包囲された 15 。小田原城で豊臣軍の圧倒的な兵力と物量、そして支城が次々と陥落していく様を目の当たりにした胤則は、もはや抵抗は無益と判断する。彼は密かに本国へ使者を送り、小金城を守る家臣たちに無血開城を命じた 15 。やがて小田原城も開城し、後北条氏は滅亡。主家と運命を共にした高城氏もまた、全ての所領を没収され、胤則は会津の蒲生氏郷に預けられる身となった。ここに、下総に威勢を誇った戦国大名・高城氏は、事実上終焉を迎えたのである 4 。
所領を失い、流浪の身となった胤則は、家名の再興を悲願としていたが、生来病弱であったと伝えられ、その機会を掴めないまま慶長8年(1603年)に伏見の地で33歳の若さで病没した 20 。
しかし、高城氏の血脈はここで途絶えなかった。その背景には、胤辰の代から続く巧みな婚姻政策が、数十年後、全く予期せぬ形で実を結んだという事実がある。胤則は、織田家の宿老・柴田勝家の養女を妻としていた。この妻の縁で、胤則は柴田勝家の甥であり、賤ヶ岳の戦い後に後北条氏を頼り、その後徳川家康に仕えていた佐久間安政と親交を結んでいたのである 20 。
家康からの信任が厚かった佐久間安政らの働きかけにより、胤則の死後、その遺児である胤重(重胤)が徳川家康に召し出され、700石の知行を与えられる旗本として、高城家の再興を果たすことに成功した 4 。戦国大名としての地位は失ったものの、胤辰、そして胤則が築いた人脈、特に婚姻を通じた縁が、一族を滅亡の淵から救い出したのである。これは、戦国期の婚姻が、当面の軍事同盟という側面に加え、未来の不測の事態に対する一種の「保険」としても機能し得たことを示す、極めて興味深い事例と言える。
高城胤辰は、戦国時代の関東地方、特に下総国において、類稀なる政治感覚と戦略的思考をもって一族を率いた傑出した領主であった。彼の生涯は、主家の衰退と新興勢力の台頭という、戦国期の典型的な権力移行期を生き抜いた国衆の、最も成功した事例の一つとして評価することができる。
胤辰の行動原理は、旧来の主従関係や信義といった観念論に縛られることなく、常に一族の存続と領国の安寧という現実的な利益を最優先する、戦国武将のプラグマティズム(実用主義)を体現していた。上杉謙信の侵攻に対する一時的な降伏と迅速な復帰、そして後北条氏の「他国衆」という立場を最大限に活用し、従属と自立の狭間で巧みに立ち回ったその外交手腕は、特筆に値する。
また、彼の評価は軍事・外交面に留まらない。領国経営において、彼は交通の要衝や商業・流通路の掌握を重視し、後の小金牧や行徳塩田に繋がる産業の育成にも着手するなど、近世大名にも通じる先見性のある統治者としての一面を持っていた。さらに、古河公方から「下野守」の官途を得ることで、武力だけでなく伝統的権威をも自らの支配の正当化に利用したたかかさも併せ持っていた。
高城胤辰は、父・胤吉が築いた基盤の上に、自らの才覚で高城氏を単なる原氏の被官から、後北条氏も一目置く有力な戦国大名へと飛躍させた。彼の死後、一族は後北条氏と運命を共にし没落するが、その巧みな縁組政策が遠因となって旗本として家名を存続させた事実は、彼の戦略が如何に長期的視点に立っていたかを物語っている。高城胤辰の生涯は、戦国期関東の複雑な権力構造と、その中で生きる国衆の実像を理解する上で、極めて示唆に富む貴重な歴史事例であると結論付けられる。
西暦 |
和暦 |
高城胤辰の動向 |
関連事項(関東・中央の情勢) |
1537年 |
天文6年 |
高城胤辰、生まれる 3 。 |
父・胤吉が小金城を完成させる 12 。 |
1538年 |
天文7年 |
(1歳) |
第一次国府台合戦。父・胤吉が後北条方として参戦し勝利 1 。 |
1559年 |
永禄2年 |
(22歳) |
『小田原衆所領役帳』に高城氏が「他国衆」として記載される 2 。 |
1560年 |
永禄3年 |
(23歳) |
上杉謙信が関東に出兵。当初は後北条方として対抗 1 。 |
1561年 |
永禄4年 |
(24歳) |
主君・千葉氏に従い、一時的に上杉謙信に降伏。『関東幕注文』に名が載る 2 。 |
1564年 |
永禄7年 |
(27歳) |
家督を相続したと推定される 3 。第二次国府台合戦で後北条方として参戦し、武功を挙げる 3 。 |
1566年 |
永禄9年 |
(29歳) |
上杉軍に本佐倉城が攻められ、援軍として派遣される。小金城も一時包囲される 3 。 |
1568年 |
永禄11年 |
(31歳) |
後北条氏の命により、江戸城防衛のため「江城大橋宿」に駐屯する 3 。 |
1571年 |
元亀2年 |
(34歳) |
船橋大神宮に対し、判物を発給する 31 。 |
1577年 |
天正5年 |
(40歳) |
古河公方・足利義氏より**「下野守」**の官途名を授けられる 3 。 |
1581年 |
天正9年 |
(44歳) |
市川宿に対し、治安維持のための制札を発給する 3 。 |
1582年 |
天正10年 |
(46歳) |
天正壬午の乱の最中、陣中にて病没。子・胤則が家督を継ぐ 3 。 |
1590年 |
天正18年 |
- |
(胤辰没後) |
1603年 |
慶長8年 |
- |
(胤辰没後) |
1616年頃 |
元和2年頃 |
- |
(胤辰没後) |