戦国乱世が終焉を迎え、徳川幕府による泰平の世が確立されつつあった安土桃山時代から江戸時代初期。この激動の時代は、武士、とりわけ武芸を生業とする者たちに、その存在意義の変革を迫った。戦場での武功が絶対的な価値を持った時代から、武芸が心身を鍛錬し、主君に仕えるための「道」として体系化されていく過渡期に、一人の傑出した槍術家がその名を歴史に刻んだ。その人物こそ、「槍の又兵衛」と称えられた高田又兵衛吉次(たかた またべえ よしつぐ)である。
彼の名は、二天一流の開祖・宮本武蔵と並び称されることが多い 1 。剣の武蔵、槍の又兵衛。二人は同じ時代、同じ藩主のもとでその技を競い、互いを認め合ったと伝えられる。又兵衛の名声は小倉藩にとどまらず、時の将軍・徳川家光の耳にまで達し、江戸城でその奥義を披露する栄誉に浴した 3 。彼の生涯は、豊臣家の滅亡と共に牢人へと身を落としながらも、不屈の精神と比類なき技量をもって再起し、一介の武芸者から大藩の師範、七百石取りの武士へと立身を遂げた、まさに時代の転換期を象徴する物語である 4 。
本報告書は、高田又兵衛の生涯を、その出自から修行時代、戦場での活躍、小笠原家への仕官、そして後世への影響に至るまで、現存する史料や伝承を網羅的に調査・分析することで、その実像に迫るものである。特に、宮本武蔵との関係や、史料間に見られる記述の相違などを多角的に検討し、単なる武勇伝の紹介にとどまらず、一人の武芸者の生涯を通して、当時の社会や文化、武士の精神性を立体的に再構築することを目的とする。
高田又兵衛、本名を吉次という彼は、天正18年(1590年)、伊賀国阿拝郡白樫村(現在の三重県伊賀市白樫)に生まれた 4 。父は高田喜右衛門吉春といい、この地域に根差した郷士であった 5 。幼名は八蔵、あるいは八兵衛と呼ばれ、長じて又兵衛と改め、晩年には「崇白(そうはく)」と号した 4 。
彼が生まれた伊賀国は、四方を山に囲まれた盆地に位置し、古くから中央の権力から半ば独立した特異な風土を持っていた。柳生新陰流の柳生家や、忍術の伊賀流など、数多の武芸流派や武人を輩出したこの土地の気風は、若き日の吉次の精神形成に少なからぬ影響を与えたと考えられる 7 。自らの技を頼りに道を切り拓く独立自尊の精神は、後に彼が独自の流派を大成させる精神的土壌となったであろう。
又兵衛の並外れた才能を物語るものとして、その出生地には一つの伝説が残されている。「幼くして白樫八幡(岡八幡宮)の杜に棲む天狗について武芸の奥義を伝授された」というものである 6 。この伝説によれば、彼は年少にして既に大人も敵わぬほどの技量に達していたという 6 。
この種の天狗伝説は、源義経をはじめとする英雄譚にしばしば見られるが、単なる荒唐無稽な物語として片付けるべきではない。これは、彼の天賦の才を説明し、その技に権威と神秘性を付与するための文化的な装置であったと解釈できる。人知を超えた技量の源泉を、通常の修行の範疇を超えた超自然的な存在、すなわち天狗に求めることで、周囲の人々は彼の才能に納得し、畏敬の念を抱いたのである。特に、山岳信仰と修験道が深く根付いていた伊賀の地において、このような物語が生まれるのは自然なことであった 9 。この伝説は、高田又兵衛という人物が、そのキャリアの初期段階から既に非凡な存在として認識されていたことを示唆している。
伝説が彼の天賦の才を語る一方で、彼の武芸の確固たる基盤は、奈良・興福寺の僧兵たちが編み出した宝蔵院流槍術の厳格な修行によって築かれた。又兵衛は12歳の時、宝蔵院流槍術の開祖・宝蔵院覚禅房胤栄(ほうぞういんかくぜんぼういんえい)の随一の弟子とされた中村市右衛門尚政(なかむらいちえもんひさまさ)の門を叩いた 3 。
彼の進歩は目覚ましく、数年にして師である尚政の技量を凌ぐほどであったと伝えられる 6 。その才能を認められ、流祖・胤栄本人から直接、宝蔵院流の神髄である十文字槍の指導を受ける栄誉を得た 3 。胤栄の死後は再び尚政の下で修行を続け、慶長20年(1615年)、大坂の陣が終結した年に、26歳で宝蔵院流槍術の印可(免許皆伝)を授けられた 4 。この印可は、彼の青年期における修行の集大成であり、独立した一人の槍術家としての出発点となった。
印可を授かる前年、慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、高田又兵衛は父・吉春と共に豊臣方として大坂城に入城した 4 。これは、彼の人生における最初の、そして最大の転機であった。戦国時代に生きた郷士として、豊臣家への旧恩や武士としての意地が彼らを突き動かしたのかもしれない。
翌年の夏の陣で大坂城は落城し、豊臣家は滅亡。この戦で父・吉春は命を落とし、又兵衛は辛くも城を脱出した 4 。徳川の世が盤石となる中で、彼は「牢人」という不安定な身分に置かれることとなった。しかし、彼は逆境に屈することなく江戸へ赴き、町道場を開いて槍術を指南し、糊口をしのいだとされる 4 。戦乱の世は終わったが、武芸の価値が完全に失われたわけではなかった。むしろ、泰平の世においては、個人の武技が仕官の道を開く重要な手段となり得た。江戸での道場経営は、彼の卓越した技量と、新時代を生き抜く強い意志の表れであった 14 。
江戸での雌伏の時は、長くは続かなかった。元和9年(1623年)、34歳になっていた又兵衛に、大きな好機が訪れる。時の老中であった久世広之(くぜひろゆき)の斡旋により、播磨明石藩10万石の藩主・小笠原忠真(おがさわらただざね)に召し抱えられたのである 4 。忠真は武芸を奨励する名君であり、又兵衛の評判を聞き及んで、藩の武術指南役として招聘した。
その後、寛永9年(1632年)、忠真が豊前小倉15万石へ加増移封されると、又兵衛もそれに従って小倉藩士となった 3 。九州の要衝に位置し、外様大名の多い九州諸藩の監視役という重要な役割を担う小倉藩において、又兵衛の武芸は藩の威光を示す上で不可欠なものとなっていった。
又兵衛の藩内での評価は、その知行高(石高)の変遷からうかがい知ることができる。しかし、この点に関しては史料によって記述に差異が見られ、慎重な検討を要する。
高田又兵衛の禄高については、複数の史料が異なる数値を伝えている。この矛盾は、単なる記録の誤りというよりも、各史料が成立した背景や、何を基準に禄高を記したかの違いを反映している可能性が高い。
時期・出来事 |
禄高(石) |
典拠史料ID |
備考 |
元和9年(1623) 明石藩仕官時 |
400石(馬廻役格式) |
4 |
Wikipediaや郷土史家の記述に見られる。格式を含んだ表記か。 |
元和9年(1623) 明石藩仕官時 |
200石 |
5 |
『関宿藩の武術』に記載。純粋な知行高か。 |
明石藩時代 |
上記に加え100石加増 |
5 |
明石時代に既に300石となっていたとする説。 |
寛永15年(1638) 島原の乱後 |
700石になる |
4 |
300石の加増があったとする記述と合致する場合、当初は400石だったことになる。 |
寛永15年(1638) 島原の乱後 |
300石加増 |
5 |
この時点での合計禄高は不明確。 |
慶安4年(1651) 将軍上覧後 |
100石加増、合計700石に |
5 |
島原の乱後の加増を300石とすると、この時点での合計が合わない。 |
これらの記述の食い違いは、後世に彼の功績をより劇的に見せるための物語的な脚色、あるいは役料などを含めたか否かといった記録方法の違いに起因すると考えられる。例えば、将軍上覧という最高の栄誉と700石という高禄達成を結びつける方が、物語としてはより印象的である。
確実なのは、彼が仕官後も島原の乱での武功や将軍上覧といった功績を重ねるごとに着実に加増され、最終的に700石という、一介の牢人から身を起こした武芸者としては破格の待遇を得たという事実である。これは、平和な時代における武芸者の立身出世物語として、彼の卓越した能力と主君からの厚い信頼を雄弁に物語っている。
高田又兵衛の真価は、単なる槍の遣い手にとどまらず、複数の武術の理合を深く探求し、独自の流派を大成させた点にある。彼は宝蔵院流槍術をその揺るぎない基盤としながらも、廻国修行の経験などを通じて、他の武術の精髄を積極的に吸収した。具体的には、柳生新陰流の剣術、穴沢流の薙刀術、そして五坪流の素槍(十文字の鎌を持たない直槍)の技法を学び、それらを自身の槍術体系に融合させたのである 4 。
この流派創設という行為は、単なる技術の寄せ集めではなかった。戦乱が終息し、武芸の主たる舞台が戦場での集団戦から、藩内での指導や御前試合における一対一の対決へと移行する中で、武術の理論そのものを再構築する知的作業であった。彼は、新陰流から相手の動きに応じて技を出す「後の先」の理合や、心理的な駆け引きを 19 、穴沢流から長柄武器特有の巧みな体捌きを 20 、五坪流から素槍の持つ直線的で鋭い突きの威力を学んだ 22 。これらを十文字槍の「突き、薙ぎ、引く」という多機能性と組み合わせることで、宝蔵院流槍術をより緻密で応用範囲の広い、完成された武術体系へと昇華させた。これが「宝蔵院流高田派」の誕生であり、武芸が単なる殺傷の「術」から、哲学と理論を伴う「道」へと高められていく時代の流れを体現するものであった。
高田派槍術の神髄は、その特徴的な十文字槍の用法にある。それは「突けば槍、薙げば薙刀、引けば鎌、とにもかくにも外れあらまし」という詠歌に集約されている 23 。これは、穂先で「突く」だけでなく、横に張り出した鎌の部分を使って相手の武器を「薙ぎ」、あるいは手前に「引いて」絡め捕るなど、一つの武器で多様な攻撃・防御が可能であることを示している。巻き落とす、切り落とす、摺り込む、叩き落とすといった多彩な技法は、あらゆる状況に対応できる攻防一体の万能性を追求したものであった 23 。
又兵衛は、こうした技法を支える哲理として「進退、屈伸、表裏、悠急、剛柔の十文字」を説き、さらに「法形百一条」や「巴の術十五ヶ条」といった具体的な形を考案したと伝えられる 6 。これは、単に技の型を定めただけでなく、状況に応じた動きの緩急や剛柔の使い分けなど、槍術の根幹をなす理念を体系化したものであり、彼の武術家としての深い洞察力を示している。
高田又兵衛は、その技量だけでなく、高潔な人格でも知られていた 6 。その精神性を培った背景には、禅との深い関わりがあった。彼は宮本武蔵のような武芸者との交流に留まらず、当時、日本に渡来した黄檗宗の高僧、隠元隆琦(いんげんりゅうき)や即非如一(そくひにょいち)とも親交を結んでいたと記録されている 6 。
この禅僧との交流は、又兵衛個人の精神的な探求心のみならず、彼が仕えた藩主・小笠原忠真の文化政策と密接に連関していた。忠真自身が熱心な黄檗宗の庇護者であり、即非如一を小倉に招いて菩提寺として広寿山福聚寺を建立している 27 。藩主が特定の文化や宗教を庇護することは、家臣団全体に影響を及ぼす。忠真が招いた高僧と、その筆頭武術指南役である又兵衛が交流を持つのは極めて自然なことであった。
忠真にとって、武の頂点を極めた又兵衛と、禅の道を究めた即非という、文武両道の最高峰の人物を自領に抱えることは、小倉藩の威信を内外に示す上で大きな意味を持った。又兵衛の武芸と精神性の統合は、こうした藩の文化的土壌の中で育まれたと言える。彼の晩年の号「崇白」や、肖像画に数珠を持つ姿で描かれていることは 1 、武の道が禅の思想と結びつき、深い精神性へと昇華されていったことを象徴している。
泰平の世にあって、高田又兵衛がその実戦能力を天下に示す機会が訪れた。寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱である。翌寛永15年(1638年)2月、幕府軍による原城への総攻撃において、又兵衛は小倉藩の槍隊を率いて出陣した 3 。彼は自ら陣頭に立ち、激戦の末に本丸を陥落させるという大功を立てた 1 。
この功績は幕府軍の総司令官であった松平信綱からも高く評価され、褒賞を受ける栄誉に浴した 1 。この戦いは、江戸時代初期における最大規模の内乱であり、ここで挙げた武功は、又兵衛が単なる道場の武芸者ではなく、実戦における指揮官としても、また一人の戦士としても卓越した能力を持つことを証明するものであった。この活躍により、彼の名は九州一円に知れ渡った。
島原の乱から13年後の慶安4年(1651年)、又兵衛の名声はついに江戸城の中枢にまで達する。三代将軍・徳川家光が病に倒れ、その慰撫のために全国から武芸の達人が召し出されることになった 3 。この「慶安御前試合」とも呼ばれる催しに、九州小倉から高田又兵衛が指名されたのである 18 。
同年4月11日、又兵衛は長男の吉深、高弟の觀興寺正吉と共に江戸城に登城し、病床の家光の前で宝蔵院流高田派の奥義を披露した 18 。『小笠原家譜』などの記録によれば、その演武は「疾風雷の如く、声、殿中に震う」と形容されるほどの気迫に満ちたものであったという 18 。その精妙かつ豪壮な技を見た家光は病を忘れて感嘆し、「槍は又兵衛なるかな。予かねて聞き及ぶが、吉次の多勢に応ずる其の虚実変化、諸葛武侯の八陣の法の如し。今果たして信なり」と、中国の伝説的な軍師になぞらえて絶賛した 18 。
この上覧の後、又兵衛らには将軍家から葵の御紋付の時服が下賜された 18 。これは、将軍直属の家臣ではない陪臣としては極めて異例の栄誉であり、この一件によって「槍の又兵衛」の名声は、一地方藩士のそれを超え、全国に轟く不動のものとなったのである。
高田又兵衛を語る上で、最も有名で、また最も謎に満ちた逸話が、剣豪・宮本武蔵との御前試合である。この試合は、二人が共に小倉藩主・小笠原忠真に仕えていた時期に、忠真の命によって行われたと伝えられている 1 。
この伝説的な対決の様子は、複数の史料や伝承によって語られているが、その内容は一様ではない。最も詳細な記述の一つである、武蔵の死後約80年を経て成立した二天一流の伝書『丹治峯均筆記』(『武州伝来記』とも)によれば、武蔵は木刀、又兵衛は竹製の十文字槍を手に立ち合った 18 。二度まで武蔵が又兵衛の突きを躱したが、三本目に放たれた槍が武蔵の股間に入り、武蔵は「さすが又兵衛殿、それがしの負けでござる」と負けを認めたという 18 。しかし、これに対して又兵衛も「本日は御前ゆえ、それがしに勝ちを譲ってくださったのであろう」と謙遜し、互いの器量を称え合ったとされる 18 。
一方で、他の伝承では、結果は又兵衛の勝ち、あるいは引き分け、さらには又兵衛が降参したなど、様々な説が存在する 3 。この試合の史実性を確定することは、現存する一次史料の不足から極めて困難である。
重要なのは、なぜこのような物語が生まれ、語り継がれたかという点である。当時、武蔵は既に天下無双の剣豪として、又兵衛もまた天下一の槍術家として、その名声は並び立つものであった。同じ藩に当代随一の剣と槍の達人がいれば、その優劣が衆目の関心事となるのは必然であった 1 。この御前試合の物語は、両者の権威をさらに高めるための装置として機能したと考えられる。武蔵の二天一流にとっては、最強の槍術家と互角以上に渡り合った証となり、小笠原家と高田派にとっては、又兵衛が武蔵と互角、あるいはそれ以上であったと示すことで、自らの権威を高める絶好の材料となった。
特に、互いに負けを認め合うという結末は、単なる勝敗を超えた、武の道における謙譲の美徳や高潔な精神を象徴する理想的な物語として、後世の人々に好んで語られる素地を持っていた。この逸話は、史実か否かという二元論で評価するのではなく、武芸者の名声がどのように形成され、時代を超えて伝説化していくかを示す、文化史的に非常に興味深い事例として捉えるべきであろう。
将軍上覧という武芸者として最高の栄誉を得た後も、高田又兵衛は小倉藩の武術指南役として後進の指導にあたり、静かな晩年を送った。晩年に用いた「崇白」という号は、白樫の故郷を思う心と、武と禅の道を究めた末に到達した無垢で純粋な境地を示唆しているようにも感じられる 1 。
寛文11年(1671年)1月23日、又兵衛は82年の生涯を閉じた 4 。戦国の気風が残る時代に生まれ、徳川泰平の世を武芸一筋に生き抜いた、まさに巨星の死であった。
又兵衛の死後、彼が築いた宝蔵院流高田派は、その子らによって各地へ広められ、継承されていった。彼には四人の男子がいたことが記録されている 6 。
子 |
名 |
仕官先 |
備考 |
長男 |
吉深(よしふか)(斎) |
久居藩(藤堂家支藩) |
延宝3年(1675)に故郷の伊賀へ帰郷後、仕官した 4 。 |
次男 |
吉和(よしかず)(新左衛門) |
福岡藩(黒田家) |
福岡藩の槍術師範家の一つとなった 4 。 |
三男 |
吉通(よしみち)(八兵衛) |
小倉藩(小笠原家) |
父の跡を継いで家督を相続し、「又兵衛」を襲名した 4 。 |
四男 |
吉全(よしまさ)(弥太郎) |
小倉藩(小笠原家) |
小倉に留まった 6 。 |
家督は三男の吉通が継ぎ、代々「又兵衛」を名乗って小倉藩の槍術師範家としての地位を保った。一方で、長男の吉深を故郷に近い久居藩へ、次男の吉和を隣国の大藩である福岡藩へと仕官させたことは、注目に値する。これは、一つの藩の浮沈に一族の運命を委ねるリスクを分散させ、同時に高田派槍術の名声をより広範囲に広めるという、武芸師範家としての戦略的な意図があったと推察される。
事実、福岡藩の安政年間の分限帳(藩士名簿)を見ると、高田吉和の子孫である高田新左衛門家は100石の禄高を得ており、藩内に十家あった槍術師範の中で、高田平之丞家(300石)、井上家(210石)に次ぐ三番目の地位にあったことが確認できる 33 。これは、分家でありながらも「槍の又兵衛」というブランドが有効に機能し、各藩で確固たる地位を築いていたことの証左である。
高田又兵衛の墓は、彼が生涯を終えた豊前国小倉の生往寺(しょうおうじ)(当初は峯高寺に葬られたが移転)と、故郷である伊賀国白樫の二箇所に現存し、今もその武徳を偲ぶ人々が訪れる 3 。故郷の伊賀市白樫では、平成27年(2015年)に「槍の又兵衛」顕彰碑が建立されるなど、郷土の英雄として敬慕の念は絶えない 25 。
彼が創始した宝蔵院流高田派の技と精神もまた、現代に受け継がれている。江戸に伝えられた系統は、明治・大正期に旧制第一高等学校の撃剣部で指導されたことなどにより命脈を保ち、戦後、元最高裁判所長官の石田和外らの尽力によって復興された 23 。そして昭和51年(1976年)、その道統は発祥の地である奈良へと里帰りを果たし、現在も奈良市を中心に国内外で稽古が続けられている 23 。
高田又兵衛吉次の生涯は、戦国の実戦を生き抜いた武士が、泰平の世における「武芸師範」へと自己を変革させていく、時代の移行期そのものを体現したものであった。大坂の陣での敗北による牢人生活から、主君に巡り会い、ついには将軍上覧という最高の栄誉に至る立身出世の物語は、個人の武勇と才覚が新たな価値を持って評価された時代の象徴と言える。
彼は単なる武技の達人ではなかった。宝蔵院流を基に、剣術や薙刀術の理合を融合させ、独自の流派を大成させた革新者であった。その探求は、武芸が単なる殺傷術から、理論と哲学を伴う「道」へと昇華していく過程を見事に示している。
また、宮本武蔵との伝説的な試合に代表されるように、彼の生涯は後世の人々によって語り継がれ、理想の武人像として昇華された。その物語は、史実か否かという次元を超え、武士道における謙譲の美徳や高潔な精神性を伝える文化的価値を持つに至った。
高田又兵衛の研究は、一人の傑出した武芸者の生涯を追うに留まらない。それは、戦国から江戸へと移り変わる中で、武士たちが如何にして自らの存在意義を再定義し、新たな時代に適応していったのかという、日本史の大きな転換点における精神史を読み解くための、貴重な鍵となるのである。彼の槍は折れ、その肉体は土に還ったが、「槍の又兵衛」の名と、彼が遺した技と心は、今なお色褪せることなく輝きを放ち続けている。