戦国時代から江戸時代初期にかけての日本は、社会構造と価値観が劇的に転換した激動の時代であった。その渦中、数多の武将が歴史の舞台に登場しては消えていったが、中でも出羽国(現在の山形県・秋田県)の国人領主、鮭延秀綱(さけのべ ひでつな)は、その特異な生涯を通じて、この時代の複雑性と武士の生き様を体現する人物として注目に値する。彼の名は、永禄6年(1563年)頃の誕生から正保3年(1646年)の死に至るまでの84年間にわたり、奥羽の歴史に深く刻まれている 1 。
秀綱の生涯は、変転の連続であった。当初は仙北の雄・小野寺氏の客将としてキャリアをスタートさせるが、やがて出羽の統一を目指す最上義光との激しい攻防の末にその軍門に下る。しかし、それは単なる敗北ではなく、彼の武才と知略を高く評価した義光のもとで重臣へと駆け上がる新たなキャリアの幕開けであった。特に、天下分け目の関ヶ原の戦いに連動して勃発した慶長出羽合戦、通称「北の関ヶ原」における長谷堂城での奮戦は、敵将・直江兼続をして「信玄、謙信にも覚えなし」と賞賛せしめたと伝えられ、彼の武名を不朽のものとした 4 。
だが、彼の人生の劇的な展開はそれで終わらない。主君・義光の死後、最上家は深刻な家督争い、いわゆる「最上騒動」に揺れる。この騒動において、秀綱は旧来の価値観に基づく「忠義」を貫き、結果として57万石を誇った主家の改易を招く一因を作ってしまう 3 。主家を失った後、幕府大老・土井利勝の客将として迎えられ、晩年には自らの知行すべてを家臣に分け与え、「乞食大名」と称されたという逸話は、彼の仁愛あふれる人柄を今に伝えている 2 。
本報告書は、鮭延秀綱という一人の武将の生涯を、断片的な武勇伝や逸話の集合体としてではなく、戦国末期から江戸初期への社会・政治的移行期という大きな文脈の中に位置づけ、その行動原理と歴史的意義を深く考察するものである。出自の伝承から主君遍歴、輝かしい武功、主家没落への関与、そして静かな晩年に至るまで、現存する史料を丹念に読み解き、一人の武人が生きた実像に迫ることを目的とする。
秀綱の84年間にわたる長い生涯を俯瞰するため、その主要な出来事を年表にまとめる。彼の人生が、小野寺、武藤、最上、上杉、徳川幕府、土井家といった多様な勢力と交錯した様が、時系列で示されている。
西暦 |
和暦 |
秀綱の年齢 |
主要な出来事 |
関連人物・場所 |
典拠 |
1563年 |
永禄6年 |
1歳 |
誕生。庄内・武藤(大宝寺)氏の侵攻により、父・貞綱が敗北。秀綱は人質として庄内へ送られる。 |
佐々木貞綱、武藤義増 |
1 |
1582年 |
天正10年 |
20歳 |
庄内より帰還し、鮭延城主となる。 |
鮭延城 |
1 |
1581年-1585年 |
天正9-13年 |
19-23歳 |
最上義光の侵攻を受け、数ヶ月の籠城の末に降伏。本領を安堵され最上家臣となる。 |
最上義光、氏家守棟 |
1 |
1595年 |
文禄4年 |
33歳 |
仙北一揆の鎮圧や湯沢城攻略において、最上軍の先鋒として活躍する。 |
小野寺義道、湯沢城 |
3 |
1600年 |
慶長5年 |
38歳 |
慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)で副将として奮戦。上杉軍の撃退に大きく貢献する。 |
志村光安、直江兼続 |
3 |
1617年 |
元和3年 |
55歳 |
最上家親の死後、若年の最上義俊の家督相続に反対し、山野辺義忠を擁立。最上騒動が本格化する。 |
最上義俊、山野辺義忠 |
3 |
1622年 |
元和8年 |
60歳 |
最上騒動が原因で最上家が改易。秀綱は幕府大老・土井利勝預かりの身となる。 |
徳川秀忠、土井利勝 |
1 |
1623年 |
元和9年 |
61歳 |
罪を許され、土井利勝の客将として下総佐倉藩にて五千石を賜る。 |
下総国佐倉 |
1 |
1633年 |
寛永10年 |
71歳 |
主君・土井利勝の古河藩への転封に伴い、古河へ移住する。 |
下総国古河 |
1 |
1646年 |
正保3年 |
84歳 |
6月21日、古河にて死去。 |
― |
1 |
1648年 |
慶安元年 |
― |
旧家臣らにより、古河の屋敷跡に菩提寺として鮭延寺が建立される。 |
鮭延寺 |
1 |
鮭延秀綱の人物像を理解する上で、その出自と揺籃期の環境は重要な意味を持つ。しかし、その記録は後世の編纂物が多く、伝承と史実とを慎重に見極める必要がある。
鮭延氏は、自らのルーツを宇多源氏の名門・佐々木氏、特に近江国(現在の滋賀県)を本拠とした六角氏の支流である鯰江氏の一族であると称している 3 。この伝承によれば、彼らは源平合戦における宇治川の先陣争いで名を馳せた佐々木高綱の血を引く、由緒ある家柄ということになる 7 。
しかしながら、この華麗な出自伝承を直接的に裏付ける同時代の根本史料は、現在の研究では確認されていない。特に、大正時代に鮭延氏の菩提寺である正源寺の住職・鮭延瑞鳳によって編纂された『鮭延城記』や関連系図は、秀綱に関する重要な情報源である一方で、その記述には年代的な矛盾点が多く、基礎史料として扱うには慎重な検討を要すると指摘されている 17 。
戦国時代の地方国人領主が、自らの権威を高め、在地支配の正統性を主張するために、中央の著名な武家と系譜を結びつけることは、広く見られた現象であった。鮭延氏の「近江佐々木氏末裔」という伝承もまた、そうした当時の社会状況の中で、自らの家格を確立するために形成された「物語」であった可能性が高い。それは史実の当否を超えて、彼らが抱いていた名門意識と、厳しい生存競争を勝ち抜くための戦略を物語っている。
伝承によれば、鮭延氏の祖先が近江から出羽へ移住したのは、応仁の乱以降の15世紀末頃とされる。一族の佐々木綱村が、仙北郡(現在の秋田県南部)の有力大名であった横手城主・小野寺氏を頼って下向し、その庇護下に入ったのが始まりであったという 3 。
その後、秀綱の父である佐々木貞綱の代になると、主家である小野寺氏の勢力拡大方針に従い、その勢力圏の南端にあたる最上地方(現在の山形県最上郡)へと進出する。当初は岩鼻館(現在の戸沢村)を拠点としたが 20 、天文4年(1535年)頃、より防御に適した真室の地に鮭延城(別名:真室城)を新たに築城した 1 。そして、この城が位置する「鮭延荘」という地名にちなみ、一族の名字を「鮭延」と改めたとされる 15 。さらに翌年の天文5年(1536年)には、一族の菩提寺として正源寺(現在の真室川町)を開基しており 15 、この地に根を下ろし、支配体制を固めようとする貞綱の強い意志が窺える。
鮭延秀綱は、永禄6年(1563年)に誕生したとされる 1 。しかし、彼の誕生は平穏なものではなかった。同年、西方の庄内地方から大宝寺義増(武藤氏)が大軍を率いて侵攻し、父・貞綱はこれに敗北。この戦いの結果、わずか2歳であったとも伝わる幼い秀綱は、武藤氏の人質として庄内へ連行されたという 1 。
この人質生活に関する記述は、主に前述の『鮭延城記』や『鮭延越前守系図』に見られるものであり、後世に形成された伝承である可能性は否定できない 18 。しかし、この経験が事実であったとすれば、秀綱が幼少期から敵対勢力の中で生き抜く術を学び、後の複雑な外交交渉の素地を養う一因となったとも考えられる。
史料によれば、秀綱は天正10年(1582年)、20歳(数え年で21歳)の時に庄内から帰還を果たし、鮭延城主として家督を継いだ 1 。この帰還の背景には、大宝寺氏との和議があったのか、あるいは何らかの政治的取引があったのか、詳細は不明であるが、彼が青年期を敵地で過ごしたという経験は、その後の人生に大きな影響を与えたに違いない。彼の武将としてのキャリアは、このように、小野寺、武藤という二大勢力との複雑な関係性の中から始まったのである。
秀綱が家督を継いだ天正年間は、出羽国における勢力図が大きく塗り替えられる激動の時代であった。彼は、この荒波の中で、一族の存続をかけた重大な決断を迫られることになる。
当時の鮭延氏が本拠とした最上地方北部は、北に旧主である仙北の小野寺氏、西に宿敵である庄内の武藤(大宝寺)氏、そして南から「羽州の狐」の異名を持つ最上義光が急速に勢力を拡大するという、まさに三つの大勢力が衝突する最前線であった 18 。
鮭延氏は元来、小野寺氏の勢力圏に属する国人であったが、この頃には小野寺家中の内訌などの影響でその支配力は弱体化していた 18 。一方で、永禄年間の敗戦以降は、武藤氏の強い政治的影響下にも置かれていた 18 。このような状況下で、秀綱は独立を維持するため、各大名の動向を注視しつつ、巧みなバランス感覚で舵取りを行うことを求められていた。それは、弱小領主が生き残るための、極めて困難な外交戦略であった。
この均衡を破ったのが、最上義光の北進であった。天正9年(1581年) 11 、あるいは天正13年(1585年) 1 の説があるが、義光は鮭延城に大軍を差し向けた。当時まだ10代後半から20代前半の若き城主であった秀綱は、果敢に籠城し、数ヶ月にわたって最上軍の猛攻に耐え抜いた 11 。
しかし、最上方の攻将・氏家守棟が仕掛けた巧みな調略により、鮭延一族の庭月広綱らが内応。さらに城の生命線である水の手を断たれるなど、内部から切り崩されたことで、秀綱はついに降伏を決断した 3 。
この時、義光は若き秀綱の武勇と才覚を高く評価した。単に敵将として断罪するのではなく、その器量を惜しみ、降伏後も所領を安堵した上で自らの家臣として迎えるという破格の処遇を示した 3 。後世の軍記物には、義光が一度は秀綱の逃亡を見逃し、その温情に感じ入った秀綱が後日自ら義光のもとへ馳せ参じた、という美談も記されている 7 。この降伏は、秀綱にとって敗北であると同時に、自らの価値を最大限に生かすための戦略的な転換点となった。彼は、滅亡か臣従かの岐路に立たされた際、より将来性のある主君を選び、自身の能力を交渉材料として、降将としては望みうる最高の条件を勝ち取ったのである。
最上氏に仕えることになった秀綱は、単なる一武将としてではなく、最上領の北方を守護する極めて重要な戦略的役割を担うことになった 3 。彼の最大の価値は、旧主・小野寺氏との深い繋がり、すなわち小野寺義道とは従兄弟という血縁関係 5 と、仙北地方の地理や人事に精通している点にあった。
最上義光は、秀綱が持つこの独自の「コネクション」を巧みに利用し、長年の宿敵であった小野寺氏に対する外交・調略活動を展開させた 3 。秀綱は義光の期待に応え、文禄4年(1595年)に発生した仙北一揆の鎮圧や、それに続く湯沢城攻略戦では、最上軍の先導役として目覚ましい働きを見せた 3 。
これらの功績により、外様でありながら秀綱の家中における地位は急速に高まっていった。臣従して間もない時期の書状において、すでに最上家の重臣である清水氏や志村光安と並び称される存在となっていたことが確認されており 27 、義光がいかに彼を高く評価し、信頼していたかが窺える。秀綱は、自らの持つ経験と人脈を武器に、最上家という新たな舞台でその存在価値を確固たるものにしていったのである。
最上家臣として確固たる地位を築いた秀綱であったが、彼の武名を歴史に刻む最大の舞台は、慶長5年(1600年)に訪れた。天下分け目の関ヶ原の戦いと連動して勃発した「北の関ヶ原」、慶長出羽合戦である。
慶長5年9月、関ヶ原で東西両軍が対峙する中、西軍に与した会津の上杉景勝は、その家臣・直江兼続に2万とも3万ともいわれる大軍を率いさせ、東軍の最上義光が治める山形領への侵攻を開始した 28 。最上領内の諸城が次々と陥落し、本拠である山形城に危機が迫る中、その前面に位置する防衛拠点・長谷堂城が上杉軍の主目標となった。
この国家存亡の危機に際し、秀綱は長谷堂城主・志村光安を救援するための援軍の副将格として、城へと派遣された 3 。城兵は志村光安、楯岡光直らを含めてもわずか1,000名ほど。対する上杉軍は18,000を超え、兵力差は絶望的であった 30 。しかし、彼らはこの圧倒的な劣勢をものともせず、半月以上にわたって城を死守するという、驚異的な籠城戦を繰り広げたのである 13 。
秀綱の真骨頂は、単なる籠城に留まらなかった点にある。彼は自ら兵を率いて城外へ打って出ると、上杉軍に果敢な夜襲を仕掛けるなど、極めて積極的かつ攻撃的な防御戦術を展開した。その凄まじい猛攻は、上杉軍の陣を突き破り、総大将である直江兼続の本陣にまで肉薄するほどであったと伝えられている 5 。
この鬼神の如き戦いぶりは、敵将である直江兼続にさえ強烈な印象を与えた。『奥羽永慶軍記』をはじめとする後世の軍記物には、この戦いの後、兼続が秀綱の武勇を「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」(かの武田信玄公や上杉謙信公の時代を通じても、これほどの勇士は見たことがない)と最大級の賛辞で称え、後日、感状と褒美の品を贈ったという有名な逸話が記されている 3 。この逸話は、秀綱の武名を不動のものとし、彼の英雄像を決定づける象徴的なエピソードとなった。
この戦いは、秀綱にとって単なる軍功以上の意味を持っていた。外様出身であった彼が、譜代の家臣たちをも凌ぐ「最上家随一の武将」という確固たるアイデンティティを、敵味方の双方から公認された瞬間であった。彼の価値は、もはや旧主との外交パイプ役ではなく、主家の存亡をその双肩に担う「武勇」そのものへと昇華されたのである。
長谷堂城での死闘は、関ヶ原本戦における東軍勝利の報が届くまで上杉軍を足止めし、最上家の滅亡を防ぐという決定的な役割を果たした。この功績は絶大であり、戦後、最上氏が庄内・仙北の一部を加増され、出羽山形57万石の大大名に躍進すると、秀綱もまた一万一千五百石という高禄を与えられ、真室城(鮭延城)主として最上家中の大身に列せられた 3 。
この時期を境に、秀綱の官途名が変化したことが史料から確認できる。それまで主に用いられていた「典膳(てんぜん)」という名乗りから、より格式の高い「越前守(えちぜんのかみ)」へと変わっているのである 34 。この官途名の変化は、長谷堂合戦における比類なき功績によって、彼の家中における地位が名実ともに最上級の重臣へと引き上げられたことを公的に示すものであった。彼は、自らの槍働きによって、最高の栄誉を勝ち取ったのである。
慶長出羽合戦を乗り越え、57万石の大大名となった最上家であったが、その栄華は長くは続かなかった。絶対的なカリスマであった主君・最上義光の死後、家中に吹き荒れた内紛の嵐は、輝かしい武功を誇った鮭延秀綱をも巻き込み、悲劇的な結末へと向かっていく。
慶長19年(1614年)に最上義光が没すると、家督は次男の家親が継いだ。しかし、その家親も元和3年(1617年)に江戸で急死する。その死は「猿楽を見ながら頓死す」と記録され、毒殺説も囁かれるなど、不審なものであった 8 。
跡を継いだのは、家親の嫡男・家信(後に義俊と改名)であったが、彼はまだ若年であり、家中を統率する指導力を欠いていた 2 。かつて義光という強力なリーダーシップの下で一つにまとまっていた家臣団は、新たな当主のもとで統制を失い、藩政は大きく動揺し始めた。
やがて最上家臣団は、二つの派閥に分裂し、激しく対立することになる。若年の藩主・義俊をあくまで擁護しようとする派閥と、義光の四男で人望も厚かった山野辺義忠を新たな藩主として擁立し、家の安泰を図ろうとする派閥である 2 。
この「最上騒動」と呼ばれるお家騒動において、鮭延秀綱は山野辺義忠を擁立する派閥の旗頭、すなわち中心人物としてその名を連ねた 3 。長年にわたり最上家の浮沈を見てきた秀綱にとって、凡庸とされた義俊では57万石の大藩を治めきることは不可能であり、より器量に優れた義忠を立てることこそが、最上家の将来を守るための最善の道であると信じていた。これは、単なる権力争いというよりも、彼なりの「家」に対する忠義の発露であった。
この深刻な内紛は、やがて江戸幕府の知るところとなる。元和8年(1622年)、騒動の関係者は江戸城に召喚され、老中・酒井忠世ら幕閣による審問が行われた 2 。
幕府は当初、義俊の指導力不足を認めつつも、重臣たちが若き主君を補佐して家を全うするように、という穏便な裁定を示した。しかし、秀綱をはじめとする山野辺派は、これを承服しなかった。「(義俊が重用する松根光広のような家臣がいる限り)義俊を盛り立てていくことはできない」と強硬に主張し、幕府の裁定を事実上拒絶したのである 2 。
この態度は、大名の家督相続は幕府の権威の下にあるべきとする、確立されつつあった江戸幕府の秩序に対する挑戦と見なされた。秀綱らの行動は幕府の態度を硬化させ、最終的に最上家は57万石の所領をすべて没収(改易)され、近江国にわずか1万石を与えられるのみという、極めて厳しい処分が下された 1 。秀綱が「忠義」と信じて貫いた行動は、皮肉にも、彼が守ろうとした最上家そのものを破滅へと導く決定的な一因となってしまった。これは、当主の器量を重んじる戦国時代の価値観と、幕府の絶対的権威を頂点とする新たな時代の秩序とが衝突した、時代の転換期を象徴する悲劇であった。
主家を失い、その没落に深く関与した鮭延秀綱であったが、彼の人生はここで終わらなかった。波乱に満ちたキャリアの最終章は、関東の地で、彼のもう一つの側面である深い仁愛の精神を示すものとなった。
元和8年(1622年)の最上家改易後、騒動の中心人物と見なされた秀綱は、審問を担当した幕府大老・土井利勝(当時は下総佐倉藩主)にお預けの身となった 1 。
しかし、翌元和9年(1623年)には罪を許される 1 。彼の武名と人物は幕府内でも高く評価されており、特に二代将軍・徳川秀忠はその器量を惜しんだとされる。一説には駿河大納言・徳川忠長から附家老として招聘されたが、これを固辞したとも伝わる 2 。最終的に秀綱は、秀忠の意向もあって、預かり親であった土井利勝に、客将としては異例ともいえる五千石という破格の待遇で召し抱えられることになった 1 。これは、当時の土井家の石高からすれば相当な厚遇であり、秀綱がいかに高く評価されていたかを物語っている。
秀綱の晩年を象徴するのが、「乞食大名」という異名の由来となった逸話である。彼は、土井家から与えられた知行五千石のすべてを、故郷の出羽から自らを慕って付き従ってきた14名(あるいは18名)の旧家臣たちに分け与え、自らは禄を受け取らない生活を送ったと伝えられている 2 。
この行動は、主家を失い路頭に迷うはずだった家臣たちの生活を保障し、彼らの未来を切り拓くための、主君としての最後の務めであった。彼の深い仁愛と、家臣たちとの間に築かれた強固な絆を示すものとして、後世に語り継がれた。実際に土井利勝との仕官交渉の際にも、秀綱は自身の待遇よりも、まず家臣たちの将来にわたる身分の保障を強く求めたと記録されている 37 。この自己犠牲的な振る舞いは、単なる美談ではない。土井家という新たな環境で、旧臣たちが「忠義に厚い秀綱の家臣」として高く評価され、安定した地位を確保するための、極めて高度な統率術であり、最後の奉公であった。
寛永10年(1633年)、主君である土井利勝が下総佐倉藩から古河藩へと転封になると、秀綱もそれに従って終の棲家を古河へと移した 1 。そして正保3年(1646年)6月21日、戦国の世を駆け抜け、時代の変転を見届けた老将は、古河の地で84年の波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。
秀綱の死を、旧家臣たちは深く悲しんだ。彼らは主君の遺徳を偲び、土井家の許可を得て、秀綱が暮らした屋敷の跡地に菩提寺を建立した。寺の名は、秀綱の故郷の地名と、父・貞綱が出羽で開基した菩提寺の山号にちなみ、「正源山 鮭延寺(けいえんじ)」と名付けられた 1 。この寺は現在も茨城県古河市大堤に現存し、境内には秀綱の墓とされる大きな五輪塔が、彼を慕った家臣たちの想いと共に静かに佇んでいる。
鮭延秀綱の84年の生涯は、戦国武将の栄光と悲劇、そして人間的な徳を凝縮したものであった。彼の死後、その血筋と遺産は、形を変えながらも後世へと受け継がれていく。
秀綱には嫡男・秀義がいたが、『奥羽永慶軍記』などによれば、長谷堂合戦で15歳にして初陣を飾り、その武勇を賞賛されながらも、18歳で早逝したとされる 7 。正室にも先立たれていたため、秀綱の直系となる血筋はここで途絶えたと伝えられる 3 。
しかし、血脈が完全に絶えたわけではない。最上家改易後に江戸で生まれた庶子は、母方の地にちなんで森川姓を名乗り、別家として存続した 38 。また、弟である井上綱知の家系や、養子縁組によって鮭延の名跡を受け継いだ家系も存在し、その中からは後に加賀藩の藩医となった鮭延義知のような人物も輩出している 15 。
一方、彼の故郷である山形県真室川町には、その足跡が今なお色濃く残る。かつての居城であった鮭延城跡は、町の史跡に指定され、大切に保存されている 22 。現在も城跡には、主郭跡や腰曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀群といった遺構が確認でき 25 、往時の姿を偲ぶことができる。また、父・貞綱が開基し、秀綱父子の墓所が残る菩提寺・正源寺では、今もなお香華が絶えることなく、郷土の英雄として手厚く弔われている 5 。
本報告書で検証してきたように、鮭延秀綱は一言では語れない、多面的な顔を持つ人物であった。
軍記物語が描く英雄的な側面と、最上家改易という悲劇を招いた側面は、決して矛盾するものではない。それらは、戦国という旧時代と、幕藩体制という新時代の価値観が交錯する中で、自らの「忠義」と武士としての「矜持」を貫こうとした一人の人間の、複雑さの表れである。
鮭延秀綱の生涯は、出羽の一国人領主が、激動の時代の中でいかにして自らの価値を証明し、生き抜き、そして後世に名を遺したかという、一つの劇的な軌跡を示している。終焉の地である茨城県古河市の鮭延寺 14 と、故郷である山形県真室川町の鮭延城跡 4 は、その波乱に満ちた生涯と、時代を超えて人々を惹きつける彼の魅力を、今に静かに伝えている歴史遺産と言えよう。