日本の戦国時代史を語る時、その視線は往々にして織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の動向や、彼らが覇を競った畿内、東海、関東といった中央の舞台に注がれがちである。しかし、その華やかな歴史の陰で、日本の辺境ともいえる奥羽の地においても、中央の動乱と密接に連動しながら、数多の武将たちが自らの領地と一族の存亡を賭けて熾烈な戦いを繰り広げていた。彼らの生き様は、戦国という時代の本質を、より多角的かつ深く理解するための貴重な鍵を我々に提供してくれる。
本稿でその生涯を徹底的に追跡する鮭延貞綱(さけのべ さだつな)は、まさにそうした奥羽の戦国史を象徴する武将の一人である。出羽国最上郡(現在の山形県最上地方)の国人領主として生を受けた彼は、その生涯を通じて、小野寺、最上、大宝寺、戸沢といった周辺勢力が複雑に勢力を争う、さながら日本の縮図ともいえる動乱の最前線に身を置き続けた。
彼の人生は、中央政権の動向がいかに地方の勢力図を塗り替え、一人の国人領主の運命を翻弄したかを示す、極めて重要な事例研究となりうる。主家である小野寺氏への忠誠と、自らの本拠地と領民を守るという責務の間で葛藤し、ついには宿敵であった最上義光への帰順という苦渋の決断を下すに至る彼の軌跡は、戦国時代における「国人領主」という階層が抱えた普遍的な苦悩と、彼らが駆使した現実的な生存戦略を鮮やかに映し出している。本稿は、鮭延貞綱という一人の武将の生涯を丹念に掘り下げることを通じて、中央史観からは見過ごされがちな、奥羽の戦国史の解像度を飛躍的に高めることを目的とする。
西暦 (和暦) |
鮭延貞綱の動向 |
関連勢力の動向 |
中央の動向 |
1515 (永正12) |
鮭延秀綱の子として誕生(生年には諸説あり) |
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1535 (天文4) |
鮭延城を築城 |
小野寺氏、最上氏、大宝寺氏などが抗争 |
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1546 (天文15) |
庭月観音堂(鮭川観音)を建立 |
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1570-80年代 (天正年間) |
小野寺氏の将として、侵攻する最上義光軍と激しく交戦 |
最上義光が出羽統一戦を開始。小野寺氏、大宝寺氏を圧迫 |
織田信長が勢力を拡大 |
1582 (天正10) |
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本能寺の変 |
1590 (天正18) |
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小野寺義道、小田原参陣に遅れ、領地を削減される |
豊臣秀吉、天下を統一(小田原征伐、奥州仕置) |
c.1591 (天正19) |
主君・小野寺氏を見限り、最上義光に帰順。本領を安堵される |
最上義光、小野寺氏家臣の切り崩しを画策 |
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1600 (慶長5) |
慶長出羽合戦 。長谷堂城の戦いで奮戦し、上杉軍を撃退 |
最上義光(東軍)、上杉景勝(西軍)と交戦 |
関ヶ原の戦い |
1601 (慶長6) |
戦功により1万1500石に加増される |
最上義光、57万石の大名となる |
徳川家康が戦後処理を行う |
1614 (慶長19) |
最上義光、死去 |
最上家で家督争いの兆しが見え始める |
大坂冬の陣 |
1622 (元和8) |
主家・最上家が内紛により改易。貞綱も領地を失い浪人となる |
最上家、近江国に1万石で転封 |
江戸幕府による統治体制が確立(元和偃武) |
1623 (元和9) |
幕府老中・土井利勝に客将として2000石で召し抱えられる(諸説あり) |
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徳川家光、三代将軍に就任 |
1640 (寛永17) |
死去。享年86(諸説あり) |
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戦国時代の武将にとって、その出自や家系の由緒は、単なる血統上の事実を超え、自らの支配の正当性を担保し、内外に権威を示すための重要な政治的資産であった。鮭延貞綱が属した鮭延氏もまた、その例に漏れず、高貴な家系を自らの拠り所としていた。
鮭延氏が称した本姓は、宇多源氏の流れを汲む近江の名門、佐々木氏であった。佐々木氏は、鎌倉幕府の創設に功のあった佐々木定綱・経高・盛綱・高綱の四兄弟が知られ、その子孫は守護・地頭として日本各地に広まった。鮭延氏の家伝によれば、その祖は佐々木盛綱の子、乃木(野木)盛保に遡るとされる。
鎌倉時代から南北朝時代の動乱期にかけて、中央の有力御家人が地頭職を得て地方に下向し、土着化していく例は数多く見られる。鮭延氏もまた、この歴史的潮流の中で、佐々木氏の一族として出羽国最上郡に根を下ろした一派であったと考えられる。実力主義が横行した戦国時代にあっても、「佐々木源氏の末裔」という肩書は、新興の土豪勢力や周辺の競合相手に対し、自らが単なる成り上がり者ではなく、由緒正しい武家の棟梁であることを主張するための、無形の、しかし極めて強力な武器として機能した。これは、家臣や領民に対する求心力を高め、領主としての基盤を固める上で、城郭や兵力に勝るとも劣らない重要な意味を持っていたのである。
宇多天皇
─ 敦実親王
─ 源雅信
...(中略)...
─ 源義家
─ 源義親
─ 源為義
─ 源義朝
─ 源頼朝
─ 佐々木秀義
─ 佐々木盛綱
─ 乃木(野木)盛保(鮭延氏の祖と伝わる)
...(中略)...
─ 鮭延秀綱
─ 鮭延貞綱
注:上記は伝承に基づく略系図であり、学術的に未確定な部分を含む。
「鮭延」という特徴的な名字は、彼らの本拠地であった出羽国最上郡の「鮭延荘」に由来する。現在の山形県最上郡真室川町および鮭川村一帯に比定されるこの地は、その名の通り鮭が遡上する鮭川が流れる、豊かな土地であった。中世の武士が自らの所領の地名を姓とすることは、その土地と不可分な存在である「一所懸命」の領主、すなわち国人領主であることの力強い宣言であった。鮭延氏にとって、この名は単なる記号ではなく、彼らが命を懸けて守るべき土地そのものを象徴していた。
鮭延貞綱が歴史の表舞台に登場する以前、室町時代における鮭延氏の動向は、断片的な史料から推測するほかない。当初は鮭延荘を拠点とする独立した国人領主であった彼らは、やがて時代の大きなうねりの中で、周辺の有力大名の草刈り場となっていった。南からは、山形を本拠地として勢力を拡大する最上氏の圧力が、そして北からは、仙北(現在の秋田県南部)三郡を支配する名族・小野寺氏の圧力が、日増しに強まっていった。鮭延氏は、この二大勢力の狭間にあって、自らの存続を賭けた巧みな舵取りを要求される、極めて困難な立場に置かれていたのである。鮭延貞綱が歴史に名を現すのは、まさにこのような、一族の未来に暗雲が垂れ込める緊迫した状況下においてであった。
周辺勢力の圧力が強まる中、鮭延氏は最終的に北の雄、小野寺氏の勢力圏に組み込まれる道を選ぶ。鮭延貞綱は、小野寺氏の家臣という立場で、自らの領地と一族を守り、発展させるための基盤を着実に築き上げていった。彼の領国経営は、軍事と民政(特に信仰の活用)を両輪とする、極めて合理的かつ巧みなものであった。
天文4年(1535年)、鮭延貞綱は本拠地となる鮭延城を築いたとされる。この城は、単なる領主の居館ではなかった。その立地は、主家である小野寺氏の領国(仙北)と、宿敵となる最上氏の領国(村山)を隔てる、まさに国境線上にあった。すなわち鮭延城は、小野寺氏にとって対最上氏の最前線基地であり、最上氏にとっては仙北侵攻の足掛かりとなる、極めて重要な戦略拠点であった。
この地理的条件が、鮭延貞綱の運命を決定づけた。彼は国境防衛の要という重責を担うことになり、その軍事的手腕を発揮する機会に恵まれた。しかし同時に、彼の本拠地は常に戦火の危険に晒されることになった。鮭延城の存在は、後の最上義光との長きにわたる死闘の舞台となる、いわば物語の序章を告げるものであった。
国境の城主として、常に外部からの軍事的脅威に直面していた貞綱は、強力な軍備を整えるだけでは領国を維持できないことを深く理解していた。最前線を守り抜くためには、何よりも領民の固い結束と、領主への絶対的な支持が不可欠であった。この課題に対し、貞綱が用いたのが「信仰」という名のソフトパワーであった。
天文15年(1546年)、貞綱は鮭川のほとりに観音堂を建立し、先祖代々伝わるとされる聖観音像を祀った。これが現在も「庭月観音(鮭川観音)」として知られる寺院の始まりである。特筆すべきは、この観音像が、天台宗の発展に大きく寄与し、特に東北地方で広く尊崇されていた慈覚大師円仁の作と伝承されていた点である。慈覚大師の威光を借りることは、領内に絶大な権威と聖性をもたらし、領民に精神的な安寧と共同体としての一体感を与える効果があった。
これは単なる篤心からくる宗教行為に留まらない。戦乱に明け暮れる日々の中で、領民の心を一つに束ね、領主への帰依の念を深めさせることで、支配体制を内側から盤石にするという、極めて高度な統治戦略であった。軍事拠点としての鮭延城(ハードパワー)と、領民統合の装置としての庭月観音(ソフトパワー)。この二つを巧みに組み合わせることで、鮭延貞綱は国境の領主として、その確固たる基盤を築き上げたのである。
鮭延氏は、小野寺氏代々の譜代家臣ではなく、その勢力拡大の過程で傘下に加わった有力国人(外様)であった。しかし、その立場は決して低いものではなかった。時の小野寺氏当主・小野寺義道(輝道)にとって、対最上氏の最前線を一手に引き受ける貞綱の武勇と経験は、何物にも代えがたい価値を持っていた。彼は、その卓越した軍事的能力によって、小野寺家臣団の中でも一目置かれる存在となり、国境防衛の要として重用された。
しかし、彼の心の奥底には、主家である小野寺氏への忠誠心と共に、あるいはそれ以上に、自らの「一所懸命」の地、すなわち鮭延荘そのものへの強い帰属意識が存在していた。彼の第一の関心は、あくまで自らが治める土地と民の安泰にあった。この国人領主としての本質的なリアリズムが、後の彼の人生における重大な決断を理解する上で、決定的な鍵となるのである。
天正年間(1573年-1592年)に入ると、出羽の勢力図は一人の英主の登場によって大きく塗り替えられようとしていた。山形城主・最上義光である。義光は、巧みな謀略と優れた軍事指導力をもって、出羽統一に向けた野心的な領土拡大を開始した。その矛先が、北の小野寺領に向けられるのは時間の問題であった。
最上義光は、まず西の庄内地方を支配する大宝寺氏を攻め、次いで北の仙北地方を領する小野寺氏への攻勢を強めた。この北方侵攻において、最上軍の前に立ちはだかったのが、国境の城・鮭延城を守る鮭延貞綱であった。義光にとって、小野寺領の玄関口に当たる鮭延城を攻略することは、仙北侵攻を成功させるための絶対条件であり、貞綱はまさしく、その野望の前に立ちはだかる「最大の障害」となった。
『最上義光物語』などの軍記物には、鮭延城を巡る最上軍と貞綱の間の、数多の激しい攻防戦が記録されている。最上軍は、数に物を言わせて何度も鮭延城に猛攻を仕掛けた。しかし、鮭延貞綱は寡兵であるという不利を全く感じさせなかった。彼は、鮭延荘の険しい地形を熟知しており、それを最大限に活用した巧みな防衛戦を展開した。城に籠るだけでなく、時には城から打って出て、ゲリラ的な奇襲攻撃を仕掛けては最上軍に大打撃を与え、翻弄した。
貞綱の指揮の下、鮭延の兵たちは地の利を活かし、少数ながらも精強を誇った。彼らは最上軍の補給路を断ち、伏兵をもって別動隊を壊滅させるなど、神出鬼没の戦いぶりで、大軍を擁する最上軍を何度も撃退したのである。この一連の戦いは、鮭延貞綱の武将としての卓越した指揮能力と、不屈の闘志を世に知らしめるに十分であった。
鮭延城での執拗な抵抗は、敵である最上家中にも、鮭延貞綱の名を深く刻み込む結果となった。最上義光をはじめとする最上家の将兵たちは、幾度となく煮え湯を飲まされる中で、「鮭延にいる将は、尋常ならざる猛将である」という畏敬の念を抱くようになった。
ここに、歴史の皮肉な逆説が生まれる。貞綱が最上軍に対して有能かつ激しく抵抗すればするほど、敵将である最上義光の中での彼の評価は、憎しみを通り越して、むしろ高まっていったのである。優れた君主であった義光は、敵将の能力を正しく見抜く慧眼を持っていた。彼は、力ずくで貞綱を排除することだけを考えるのではなく、次第に「あれほどの男を、いかにして味方に引き入れるか」という、より高度な戦略的思考を巡らせるようになっていった。
鮭延貞綱の奮戦は、結果的に自らの武将としての「市場価値」を最大限に高めることになった。この時、敵味方に轟いた「鮭延の武勇」という武名は、彼の後の運命を劇的に変える、重要な伏線となったのである。
戦国時代において、武将の忠誠は絶対的なものではなかった。主家の盛衰、中央政権の動向、そして何よりも自らの一族と領地の存続という現実的な問題が、彼らに常に厳しい選択を迫った。鮭延貞綱の生涯における最大の転換点、すなわち主君・小野寺氏を見限り、長年の宿敵であった最上義光に帰順した決断は、まさにこの戦国末期の国人領主が直面した、忠義と生存のジレンマを象徴する出来事であった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐と、それに続く奥州仕置は、東北地方の勢力図を一変させた。この歴史的な大変動において、小野寺氏の当主・小野寺義道は、秀吉への服属の意思表示である小田原への参陣が大幅に遅れるという失態を犯した。これが秀吉の不興を買い、結果として小野寺氏は仙北三郡の所領を大幅に削減されることとなった。
この処分は、小野寺氏の権威と国力を決定的に低下させた。領地を失い、経済的基盤を揺るがされた小野寺氏は、もはやかつてのように多くの家臣団を統率する力を失っていた。主家の衰退は、その家臣である鮭延貞綱の将来にも、暗い影を落とし始めた。
この好機を、宿敵である最上義光が見逃すはずはなかった。中央政権との連携を密にし、勢力を増す義光は、弱体化した小野寺氏の内部崩壊を狙い、有力家臣たちへの切り崩し工作、すなわち調略を活発化させた。その主要な標的の一人が、長年の戦いを通じてその武勇を誰よりも高く評価していた、鮭延貞綱であった。
貞綱は、極めて困難な選択を迫られた。このまま将来性の見えない小野寺氏に殉じ、いずれ最上氏に滅ぼされて鮭延の地と民を失う道か。それとも、主家への忠誠という名分を捨て、一族と領地を守るために宿敵の軍門に降る道か。彼の判断基準は、もはや「小野寺家への忠誠」ではなかった。彼の胸中を占めていたのは、国人領主としての根源的な責務、すなわち「鮭延の地と民への責任」であった。熟慮の末、貞綱は現実的な選択として、最上氏への帰順を決断する。これは、後世の価値観からすれば「裏切り」と断じられるかもしれない。しかし、自らの「一所懸命」の地を守り抜くことを至上の使命とする、当時の国人領主の行動原理に照らせば、それは生き残りのための極めて合理的かつ高度な政治判断であった。
最上義光は、長年自らを苦しめ続けた宿敵・鮭延貞綱を、破格の待遇で迎えた。義光は、貞綱がこれまで治めてきた鮭延城を含む本領の所有を認める(本領安堵)だけでなく、さらに知行を加増した上で、単なる客将としてではなく、最上家譜代の重臣と同等の地位を与えた。
この厚遇は、単に義光が貞綱の武勇を高く評価していたからだけではない。そこには、義光の冷徹な戦略的計算があった。貞綱を厚遇することで、いまだ小野寺氏に留まっている他の有力家臣たちに対し、「最上に降れば、貞綱のように厚遇される」という強力なメッセージを発信したのである。これは、抵抗を続ける者への「見せしめ」と、降伏を迷う者への「誘い」という二重の効果を狙ったものであった。事実、貞綱の帰順はドミノ効果を生み、小野寺氏の内部崩告を決定的に加速させた。鮭延貞綱の帰順は、最上氏の仙北攻略における、まさに「神の一手」となったのである。
時代/時期 |
主君 / 立場 |
主要な役割 |
推定石高 |
天文~天正年間 |
小野寺義道 / 家臣 |
対最上氏の国境防衛、最前線指揮官 |
不明(数千石規模か) |
天正19年 (c.1591) |
最上義光 / 家臣 |
最上家重臣(対小野寺・上杉戦線) |
8000石 |
慶長6年 (1601) |
最上義光 / 家臣 |
最上家重臣、長谷堂城合戦の第一功臣 |
1万1500石 |
元和8年 (1622) |
なし / 浪人 |
- |
0石 |
元和9年 (1623)以降 |
土井利勝 / 客将(説) |
- |
2000石(説) |
最上家臣として新たな道を歩み始めた鮭延貞綱に、その真価を天下に示す最大の舞台が訪れる。慶長5年(1600年)、徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突した関ヶ原の戦いである。この天下分け目の戦いは、遠く離れた出羽の地にも「北の関ヶ原」と称される激戦、慶長出羽合戦を誘発した。
関ヶ原の戦いに際し、最上義光は家康の東軍に与した。これに対し、会津120万石の領主で、西軍の有力大名であった上杉景勝は、重臣・直江兼続に3万ともいわれる大軍を率いさせ、最上領への侵攻を開始した。最上氏の総兵力は7000程度に過ぎず、領国はまさに風前の灯火であった。
上杉軍の猛攻は、最上氏の本拠・山形城の南西、わずか数キロの地点に位置する支城・長谷堂城に集中した。長谷堂城は、山形城を守る最後の砦であり、ここが陥落すれば山形城の危機は決定的となる。城主・志村光安がわずか1000の兵で籠城する中、鮭延貞綱は最上義光の命を受け、援軍として長谷堂城へと駆けつけた。
ここから、日本の戦史にも稀な、壮絶な籠城戦が始まる。貞綱は、城外に野戦陣地を構築し、攻め寄せる上杉軍の側背を突く遊撃隊として、鬼神の如き働きを見せた。彼は、自らがかつて鮭延城で最上軍を相手に駆使した戦術を、今度は最上軍のために、上杉軍に対して用いたのである。
その戦いぶりは、凄まじいの一言に尽きた。『最上義光物語』には、貞綱の活躍が次のように記されている。「鮭延が武勇、信玄・謙信にも劣るべからず」。これは、戦国最強と謳われた武田信玄や上杉謙信に匹敵するという、最大限の賛辞であった。彼は、自ら先頭に立って上杉軍の陣中に突撃し、敵の勇将・上泉泰綱(剣聖・上泉信綱の孫)を見事に討ち取るという大功を挙げた。この一騎討ちは、長谷堂城の戦いにおけるハイライトの一つとして、後世に語り継がれている。
貞綱の奮戦の背景には、様々な思いが交錯していたと考えられる。新参者として、自らの価値を新しい主君・義光と、古参の家臣たちに認めさせたいという強い意志。そして、長年敵対してきた最上氏のために命を懸けることで、過去の宿敵関係を完全に清算し、真の最上家臣として生まれ変わるという、彼なりの「儀式」であったのかもしれない。彼は、自らの槍働きをもって、帰順という選択が正しかったことを、敵である上杉、そして味方である最上の両方に、雄弁に証明してみせたのである。
鮭延貞綱や志村光安らの決死の奮戦により、長谷堂城は上杉軍の猛攻を最後まで耐え抜いた。やがて関ヶ原で東軍勝利の報が伝わると、上杉軍は撤退を開始。慶長出羽合戦は、最上氏の劇的な勝利に終わった。
合戦後、貞綱の功績は第一級と評価された。主君・最上義光は、彼の働きを「誠に我が家の守護神である」と絶賛し、感状と自らの太刀を与えた。さらに、石高は8000石から1万1500石へと大幅に加増され、貞綱は一万石以上の知行を持つ、大名に匹敵する領主となった。小野寺氏の一家臣から、最上家の重臣へ、そして大大名の列へ。鮭延貞綱は、長谷堂城の戦功により、その武人としての生涯の頂点を極めたのである。彼の活躍がなければ長谷堂城は陥落し、最上氏は滅亡、ひいては関ヶ原全体の趨勢にも影響を与えた可能性があった。彼の武勇は、もはや一地方の武功に留まらず、日本の歴史を左右する重要な意味を持っていた。
栄光の頂点を極めた鮭延貞綱であったが、その運命は、彼が忠誠を誓った主家・最上氏の盛衰と軌を一にしていた。戦国の世を武勇一つで生き抜き、泰平の世で大領主となった老将を待っていたのは、栄光からのあまりにも速い転落であった。
慶長19年(1614年)、出羽の英主・最上義光が死去すると、57万石という巨大な領国を誇った最上家に暗雲が立ち込める。義光の後を継いだ家親の急死後、後継者を巡って家中が二つに割れる、深刻な家督争いが勃発したのである。この内紛は、幕府の介入を招く事態にまで発展した。
結果、元和8年(1622年)、二代将軍・徳川秀忠は、家中の統制がなっていないことを理由に、最上家に対して「改易」という最も厳しい処分を下した。57万石の大大名であった最上家は、全ての領地を没収され、近江国にわずか1万石で転封されることとなった。この主家の突然の崩壊により、鮭延貞綱もまた、長谷堂城の戦功で得た1万1500石の領地を全て失い、70歳を過ぎて(生年説による)浪人の身に転落した。彼の人生は、個人の武勇が絶対的な価値を持った戦国乱世から、幕府の権威が全てを支配する新たな秩序の時代へと、世の中が大きく転換したことを象徴するものであった。
領地を失い、浪人となった貞綱であったが、彼の武名は決して色褪せてはいなかった。最上家が改易された後も、その「生きる伝説」を召し抱えようとする大名は存在した。
最も有力な説として、当時、幕府の老中という最高権力者の一人であった古河藩主・土井利勝が、貞綱を客将として2000石で召し抱えた、というものがある。泰平の世にあって、もはや彼の槍働きが戦場で輝く機会はなかったかもしれない。しかし、あの「北の関ヶ原」で鬼神の如き働きを見せた英雄を家中に置くことは、それだけで家の名誉となり、武威の象徴となった。彼の価値は、もはや最上家という看板に依存するものではなく、彼個人の実績と名声に根差す、不変のものとなっていたのである。この他にも、加賀前田家に仕えたという説も存在するが、いずれも確証はない。
その最期についても、記録は定かではない。寛永17年(1640年)、下総国古河(現在の茨城県古河市)において、86歳(あるいは106歳とも)で波乱に満ちた生涯を閉じたと伝えられている。戦国の動乱を駆け抜け、栄光と転落の両方を味わった老将は、時代の大きな転換点の中で、静かにその歴史的役割を終えたのである。
鮭延貞綱の生涯は、戦国時代という激動の時代を生きた、一人の地方領主の生き様を鮮やかに描き出している。彼の人物像と歴史的評価は、一つの側面からのみ語ることはできず、多角的な視点から考察されるべきである。
鮭延貞綱が歴史の舞台から去った後も、彼が遺したものは、有形無形のものとして今なおこの地に息づいている。
有形の遺産として最も重要なものは、彼が建立した庭月観音(鮭川観音)である。山形県鮭川村に現存するこの寺院は、毎年多くの参拝者を集め、貞綱の善政と領民への思いを現代に伝える、貴重な歴史的建造物となっている。また、彼の本拠地であった鮭延城跡も、往時の激戦を偲ばせる史跡として、郷土の歴史を物語っている。
そして、無形の遺産として、彼の不屈の武勇伝そのものが挙げられる。主家が滅び、自らも流浪の身となってもなお、その武名によって生き抜いた彼の生涯は、激動の時代における「人間の強さ」と「生存の智慧」を我々に教えてくれる。中央の華やかな歴史の陰に埋もれがちな、しかし確かな輝きを放った北の巨星、鮭延貞綱。彼の物語は、戦国史の奥深さと、そこに生きた人々の多様な生き様を再発見させてくれる、価値ある遺産なのである。