黒田長政は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、筑前国福岡藩の初代藩主としてその名を歴史に刻んでいる。父は豊臣秀吉の参謀として名高い黒田官兵衛(孝高、如水)であり、長政自身も父祖の知勇を受け継ぎ、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という当代の覇者に仕え、数多の合戦で武功を重ねた 1 。特に、天下分け目と称される関ヶ原の戦いにおいては、東軍の勝利に決定的な貢献を果たし、その功績により大大名へと躍進した 3 。
本報告書は、黒田長政の波乱に満ちた生涯を、現存する史料や研究成果に基づき、多角的に検証することを目的とする。その生い立ちから人質としての苦難の時代、初陣における武勇の発揮、豊臣政権下での朝鮮出兵における戦功と葛藤、関ヶ原の戦いにおける卓越した調略と武功、そして福岡藩初代藩主としての藩政の確立と福岡の街づくりに至るまで、その足跡を詳細に辿る。さらに、偉大な父・官兵衛との関係、石田三成らとの対立、徳川家康との間に築かれた信頼、キリスト教信仰と棄教の背景、そして彼が後世に遺した文化財や影響についても深く掘り下げて考察する。
長政の生涯を考察する上で見逃せないのは、常に偉大な父・官兵衛の存在が影を落としていたこと、そしてその父を超えようとする内面の葛藤である 1 。また、戦国乱世から泰平の世へと移行する時代の大きな転換期において、彼がいかに巧みに時勢を読み、自家の存続と発展を図ったかという戦略眼も注目すべき点である。幼少期の人質経験や、父・官兵衛の処世術から学んだであろう危機管理能力、人間関係構築術が、後の彼の行動に如何なる影響を与えたのかも、本報告書で明らかにしていく。
黒田長政の生涯における主要な出来事を以下に示す。
表1:黒田長政 略年表
和暦 |
西暦 |
年齢 |
主要な出来事 |
典拠 |
永禄11年12月3日 |
1568年12月21日 |
1歳 |
播磨国姫路城にて黒田官兵衛孝高の嫡男として誕生。幼名、松寿。 |
1 |
天正5年10月 |
1577年 |
10歳 |
織田信長への人質として羽柴秀吉の長浜城へ送られる。 |
1 |
天正6年 |
1578年 |
11歳 |
父・孝高の有岡城幽閉に伴い、信長の命で処刑されそうになるが、竹中半兵衛の機転で助命される。 |
1 |
天正10年3月 |
1582年 |
15歳 |
備中巣雲塚城攻めで初陣を飾る。 |
5 |
天正11年 |
1583年 |
16歳 |
賤ヶ岳の戦いに従軍。 |
5 |
天正15年 |
1587年 |
20歳 |
九州平定に従軍。日向財部城攻めで戦功。 |
4 |
天正17年 |
1589年 |
22歳 |
父・孝高の隠居により家督を相続。豊前中津12万石の領主となる。従五位下、甲斐守に叙任。 |
3 |
文禄元年 |
1592年 |
25歳 |
文禄の役に従軍。三番隊主将として朝鮮へ渡海。 |
5 |
慶長2年 |
1597年 |
30歳 |
慶長の役に従軍。稷山の戦い、蔚山城救援などで活躍。 |
4 |
慶長3年8月 |
1598年 |
31歳 |
豊臣秀吉死去。 |
1 |
慶長5年9月 |
1600年 |
33歳 |
関ヶ原の戦い。東軍として調略・戦闘で多大な功績を挙げる。 |
3 |
慶長5年12月 |
1600年 |
33歳 |
戦功により筑前国名島52万3千石を与えられ、福岡藩初代藩主となる。 |
2 |
慶長6年 |
1601年 |
34歳 |
福岡城の築城を開始。 |
9 |
慶長19年 |
1614年 |
47歳 |
大坂冬の陣に従軍。 |
1 |
元和元年 |
1615年 |
48歳 |
大坂夏の陣に従軍。 |
1 |
元和9年8月4日 |
1623年8月29日 |
56歳 |
京都の報恩寺にて病死。 |
1 |
この年表は、長政の生涯における重要な転換点を時系列で俯瞰することを可能にし、各出来事の背景や相互の関連性を理解する一助となる。家督相続から関ヶ原の戦いまでは豊臣政権下での活躍が、それ以降は徳川政権下での福岡藩主としての活動が主となるなど、時代の変遷と共に長政の立場と役割が変化していく様子が読み取れる。
黒田長政は、永禄11年(1568年)12月3日、播磨国姫路城(現在の兵庫県姫路市)において、黒田官兵衛孝高と正室・照福院(櫛橋伊定の娘)の間に嫡男として生を受けた。幼名は松寿(しょうじゅ)と名付けられた 1 。父・孝高は当時、播磨国中央部に勢力を有した小寺政職に仕える重臣であり、姫路城を預かる立場にあった 5 。長政の誕生は、黒田家にとって待望の跡継ぎの誕生であり、その将来には大きな期待が寄せられていたと考えられる。
長政の幼少期は、戦国乱世の常として、平穏なものではなかった。天正5年(1577年)、父・孝高が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を通じて織田信長に臣従した際、長政はわずか10歳で織田方への人質として差し出され、秀吉の居城であった近江国長浜城(現在の滋賀県長浜市)で養育されることとなった 1 。戦国時代において人質は、同盟や服属の証として重要な意味を持ち、子の安全と引き換えに忠誠を示すものであった。秀吉夫妻、特にねね(後の北政所)からは実の子のように可愛がられたとされ、この時期の経験が後の豊臣家との関係、さらには長政自身の人間形成に影響を与えた可能性は否定できない 1 。
長政の生涯における最初の大きな危機は、人質となって間もない天正6年(1578年)に訪れる。父・孝高が、信長に謀反を起こした荒木村重を説得するために有岡城(現在の兵庫県伊丹市)へ乗り込んだものの、逆に捕らえられ幽閉されてしまったのである 5 。この報に接した信長は、孝高が村重に寝返ったのではないかと疑い、人質である松寿(長政)の処刑を秀吉に命じた 1 。まさに絶体絶命の窮地であったが、秀吉の参謀であり、孝高とも親交のあった竹中半兵衛重治の機転によって救われる。半兵衛は、信長には松寿を処刑したと偽りの報告をし、密かに長政を匿ったのである 1 。この竹中半兵衛による命の救済は、長政にとって終生忘れ得ぬ恩義となったであろう。この一件は、信長の非情な一面を示すと同時に、主君の危機に際して知略と忠誠を尽くす家臣の姿を象徴しており、若き長政の心に深く刻まれた出来事であったに違いない。
人質時代、特に秀吉・ねね夫妻による庇護と、竹中半兵衛による命の救済という経験は、長政の人間形成、とりわけ他者への信頼感や恩義を重んじる価値観の醸成に大きな影響を与えたと考えられる。秀吉夫妻のもとでの養育は、実質的な親子関係に近い絆を育んだ可能性があり 1 、竹中半兵衛の行動は、絶体絶命の状況下における他者の善意と知略による救済という強烈な原体験となった 1 。これらの経験が、人を信じることの重要性や、恩には恩で報いるという武士道的な価値観を長政に植え付け、後の関ヶ原の戦いにおける調略活動、例えば福島正則との友情を基盤とした説得 3 や、小早川秀秋への粘り強い働きかけ 3 に見られる人間関係を重視する姿勢の礎となった可能性が考えられる。また、父・官兵衛の智謀だけでなく、竹中半兵衛のような他の優れた武将との関わりが、若き長政の成長に寄与したことも見逃せない。官兵衛と半兵衛は共に秀吉の優れた参謀であり 1 、長政は、父だけでなく、父の同僚ともいえる当代一流の知将たちの薫陶を間近で受ける機会に恵まれた。これは単なる人質としての境遇を超えた、教育的環境であったとも言えよう。
有岡城の危機を乗り越えた松寿は元服し、吉兵衛尉長政(きちびょうえのじょうながまさ)と名乗るようになる 5 。そして天正10年(1582年)3月、15歳の時、父・孝高と共に羽柴秀吉の中国攻めに従軍し、備中巣雲塚城(場所不詳)攻めにおいて敵兵を討ち取るという武功を挙げ、初陣を飾った 5 。この初陣での働きは、秀吉からも賞賛され、武将としてのキャリアの輝かしい第一歩となった。
その後も長政は、秀吉の主要な合戦に次々と参加し、武将としての経験を積んでいく。天正11年(1583年)、16歳で賤ヶ岳の戦いに参加 5 。この戦いでは、柴田勝家の養子である柴田勝政を討ち取ったとされ、その功績により摂津国に3,000石の所領を与えられたとも伝えられている 14 。一部の記録では、この戦功により「賤ヶ岳の七本槍」に数えられたともされるが 14 、加藤清正や福島正則ら他の七本槍のメンバーと比較して長政の名が常に筆頭に挙げられるわけではない点には留意が必要である。しかし、秀吉の天下取りにおける重要な転換点となったこの戦いでの活躍は、長政の武名と評価を確実に高めたと言える。
天正15年(1587年)、19歳から20歳にかけては、豊臣秀吉による九州平定に従軍し、日向国財部城攻めなどで戦功を挙げた 4 。父子揃っての九州における活躍は、後に黒田家が豊前国中津に12万石の領地を得る大きな布石となった。
初陣から九州平定に至るまでの戦歴は、長政が父・官兵衛の指導を受けながら、一人の武将として着実に成長していく過程を示している。15歳で初陣を飾り 5 、16歳で賤ヶ岳の戦いにおいて具体的な武功を立て 5 、19歳から20歳で九州平定に貢献する 5 というように、長政は秀吉の主要な軍事行動の最前線近くに常に身を置いていた。父・官兵衛もこれらの戦役には深く関与しており 15 、長政は父の戦いぶりを間近で見聞し、直接的な指導を受ける機会も多かったと考えられる。若年ながら武功を重ねる一方で、智将として名高い父・官兵衛 1 から戦術や調略の重要性を学んでいたことは想像に難くない。後年、関ヶ原の戦いで見せる長政の卓越した調略能力の萌芽は、この時期の父からの薫陶と戦場での経験によって培われたものと言えよう。
天正15年(1587年)6月、豊臣秀吉による九州国分(九州地方の領地配分)の結果、父・黒田孝高は豊前国8郡のうち6郡を与えられ、翌天正16年(1588年)に中津城(現在の大分県中津市)を築城し、新たな領主となった 5 。そして天正17年(1589年)、孝高が隠居したことに伴い、長政は22歳の若さで家督を相続し、黒田家の当主となった。同時に従五位下・甲斐守に叙任されている 3 。
家督を相続した長政であったが、豊前中津12万石の領国経営は容易ではなかった。特に、旧領主であった城井谷城主・城井鎮房(宇都宮鎮房)ら在地領主の抵抗は激しく、統治に苦慮した。長政は自ら出陣して鎮圧に努める一方、最終的には城井鎮房を中津城に招いて謀殺するという非情な手段も用いた。この際に長政が用いたとされる刀が、名物「城井兼光」として知られている 5 。この一件は、長政が一家の長として独立した活動を開始する画期であると同時に、領国経営の厳しさと、時に冷徹な判断も辞さない戦国武将としての一面を示している。
豊臣政権下において、長政の武将としての力量がさらに試される機会が訪れる。それが、文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役(朝鮮出兵)である。長政は黒田家の軍勢5,000人(資料により差異あり)を率いて三番隊の主将として朝鮮へ渡海した 4 。一番隊の小西行長、二番隊の加藤清正らとは別の進路を取り、釜山に上陸後、金海、昌原、霊山、昌寧、厳風、茂渓津、星州、金山、秋風嶺、永同、文義、清州、竹山と次々に攻略し、5月7日には首都・漢城(現在のソウル)に到達した 4 。
その後も長政の部隊は、黄海道方面の制圧を任され、平安道担当の一番隊と共に朝鮮国王・宣祖を追って開城を攻略 4 。6月15日の大同江の戦いでは、朝鮮軍の夜襲を受け苦戦していた宗義智の軍勢を救援し、自身も負傷しながら奮戦し朝鮮軍を打ち破った。翌16日には、敗走した朝鮮軍が放棄した平壌城を占領している 4 。さらに黄海道の制圧に戻り、7月7日には海州を攻略した 4 。
慶長2年(1597年)からの慶長の役(再出兵)においても、長政は加藤清正や毛利秀元らと右軍を形成して黄石山城を攻略後、全州で左軍と合流。忠清道の稷山(チクサン)では明の将軍・解生の軍と遭遇戦となり、激戦の末、毛利秀元の援軍もあって明軍を撃破する戦功を挙げた(稷山の戦い) 4 。また、慶長3年(1598年)正月には、蔚山城(ウルサンソン)に籠城して苦戦していた加藤清正らの日本軍を救援する上で大きな役割を果たした 4 。その後、梁山倭城を築城し、その守備にもあたっている 4 。この朝鮮出兵において、長政は水牛の角をデザインした特徴的な兜(黒漆塗桃形大水牛脇立兜)を愛用し、戦場でその兜が目印になったと伝えられている 5 。
しかし、この朝鮮出兵は長政にとって軍功を挙げる機会であったと同時に、豊臣政権内部の深刻な対立に巻き込まれる契機ともなった。特に、奉行として兵站や監察を担当していた石田三成や、同じく出兵していた小西行長ら文治派の武将たちとの間で、作戦方針や戦功報告などを巡り意見が衝突し、対立が深まったのである 1 。この対立は、単なる個人的な感情のもつれに留まらず、豊臣政権内部における武断派と文治派の路線対立の顕在化であり、後の関ヶ原の戦いにおける長政の行動に決定的な影響を与えることになった。長政が「お前たちのやり方はおかしい」 1 と述べたとされるように、現場の武将と中央の奉行との間には、戦況認識や戦功評価に対する大きな隔たりがあったことが窺える。この経験は、長政に豊臣政権の将来に対する見方を変えさせ、新たな勢力図の中で自家の生き残りを模索させる動機の一つとなった可能性が高い。
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が病没すると、その強大なカリスマによって維持されていた豊臣政権は急速に動揺し始める 1 。幼い秀頼の後見役として五大老筆頭の徳川家康が影響力を増大させる一方で、五奉行筆頭の石田三成はこれに反発し、両者の対立は抜き差しならないものとなっていった 1 。
このような緊迫した政情の中、黒田長政は石田三成との対立を深めていた。朝鮮出兵中の確執に加え、三成の政治手法に対する不満も大きかったとされる 3 。長政は、同じく三成と対立していた加藤清正、福島正則ら七将と共に三成襲撃を計画するが、これは家康の仲裁(あるいは三成の佐和山城への隠居)により未遂に終わった 3 。この事件を契機として、長政は明確に家康への接近を強める。その象徴的な行動が、正室であった糸姫(蜂須賀正勝の娘、秀吉の養女)と離縁し、新たに家康の姪であり養女でもある栄姫(保科正直の娘)を継室として迎え入れたことである 3 。これは、徳川家との姻戚関係を構築することで、自家の政治的立場を強化しようとする長政の明確な戦略であった。
慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐のため大坂を離れると、石田三成は毛利輝元を総大将に擁立して挙兵し、関ヶ原の戦いへと突入する。この天下分け目の決戦において、長政は東軍(徳川方)に与し、その勝利に多大な貢献を果たすことになる。長政の役割は、単に一武将として戦場で戦うことに留まらず、西軍諸将に対する調略活動において目覚ましい成果を上げた点にこそ真骨頂があった 3 。
まず、家康がその去就を最も懸念していた豊臣恩顧の勇将・福島正則に対しては、長政が特に親しい間柄であったことから、「正則は石田三成を極度に嫌っており、決して西軍に味方することはない」と家康に請け負い、実際に正則を東軍の主力として参戦させた 3 。
さらに重要な働きは、西軍に与していた毛利一門の切り崩しであった。吉川広家(毛利元就の孫)とは積極的に書状を交換し、戦闘への不参加(日和見)を約束させた 3 。これにより、西軍の主力となるはずだった毛利本隊の動きを封じることに成功した。そして、戦いの趨勢を決定づけた小早川秀秋(秀吉の養子、後に毛利家の養子を経て独立大名)の内応工作である。長政は、父・官兵衛とも縁の深かった小早川家に対し、家臣を頻繁に派遣して説得を重ね、合戦当日の東軍への寝返りを確約させたのである 3 。これらの調略活動は、情報戦、心理戦の巧みさを示しており、父譲りの智謀と、長政自身が築き上げた人脈、そして粘り強い交渉力の賜物であった。
9月15日の関ヶ原本戦においても、長政は自ら六千の兵を率いて奮戦した。事前の調略通り、小早川秀秋が西軍を裏切り東軍に寝返ると、西軍は総崩れとなった。長政の部隊は、石田三成の最も信頼する重臣であり猛将として知られた島左近を討ち取るという大きな武功を挙げている 3 。
この関ヶ原の戦いにおける長政の働きは、徳川家康によって「一番の功労者」と最大級の評価を受けた。戦後、その功績により、筑前国名島(現在の福岡県福岡市一帯)に52万3千石余という破格の領地を与えられ、一気に大大名へと躍進した 3 。これは、長政の生涯における最大の栄誉であり、後の福岡藩黒田家の盤石な基礎を築くことになった。
この時、長政が意気揚々と父・官兵衛に関ヶ原での勝利と家康からの称賛を報告した際、官兵衛は「その時、お前の左手は何をしていたのか(なぜ家康を討ち、自ら天下を狙わなかったのか)」と厳しく叱責したという逸話が残っている 8 。この逸話は、官兵衛の隠された野心や、息子に対する壮大な期待を示すものとしてしばしば語られる。長政にとっては、父の器量の大きさを改めて痛感させられると同時に、自らが選んだ道(あるいは選び得た道)について深く考えさせられる出来事であったかもしれない。豊臣恩顧の大名でありながら家康に与した長政の決断は、旧主への忠誠と新時代への適応という、戦国末期の武将が直面したジレンマを象徴している。それは単なる裏切りではなく、家の存続と発展を最優先に考えた冷静な状況判断と、戦国的な価値観から近世的な秩序へと移行する時代の変化を敏感に察知した結果であったと言えよう。
関ヶ原の戦いにおける絶大な功績により、黒田長政は徳川家康から筑前国一国、約52万石という広大な領地を与えられた 3 。慶長5年(1600年)12月、長政は豊前中津から筑前に入り、当初は小早川秀秋の旧居城であった名島城(現在の福岡市東区)を拠点とした 2 。しかし、名島城は海に面した要害ではあったものの、城下の土地が狭隘で、大領を統治し、将来的な発展を見据えるには不向きであると判断された 3 。
そこで長政は、父・官兵衛と共に新たな城地の選定にあたり、博多湾に面し、那珂川と室見川に挟まれた福崎の地(現在の福岡市中央区)に大規模な城郭を築くことを決定した 1 。慶長6年(1601年)から築城工事が開始され、7年の歳月を費やして慶長12年(1607年)頃にほぼ完成したこの城は、黒田氏の祖先ゆかりの地である備前国邑久郡福岡(現在の岡山県瀬戸内市)にちなんで「福岡城」と名付けられた 1 。福岡城は、博多湾から見ると鶴が羽ばたく姿に似ていることから「舞鶴城」という雅称でも呼ばれている 10 。
福岡城は、総面積約80万平方メートル、本丸、二の丸、三の丸からなる内城だけでも約41万平方メートル(東京ドーム約9個分)という壮大な規模を誇る梯郭式の平山城であった 10 。本丸には大中小の3つの天守台が連なる連立式の天守台が築かれたが、実際に天守閣が建てられたか否かについては諸説ある 10 。『福博惣絵図』(正保3年/1646年)には天守閣が描かれていないことなどから、幕府に遠慮して当初から建てなかったという説や、細川忠興の書状に「長政が幕府に配慮し、天守などを取り壊すと語った」という記述があることから、一度は建てられたものの十数年で取り壊されたという説があり、現在も議論が続いている 20 。この天守の有無に関する議論は、外様大名であった黒田家と強大な徳川幕府との間の微妙な力関係を反映していると言えよう。
長政は築城と並行して、城下町の整備にも力を注いだ。古くからの商都・博多の経済力を活用するため、福岡城を博多に近接する地に築き、計画的な町割りを行った 11 。商人たちには一定の自治権限を与えてその活力を引き出し、藩の経済的発展に繋げようとした 29 。これらの築城と城下町建設は、長政の藩主としての最大の事業であり、現在の福岡市の都市構造の基礎を築いたものとして高く評価されている。
藩政の確立においても、長政は多大な功績を残した。まず、藩財政の基盤である米の増産を図るため、糸島半島における大規模な干拓事業や、度々氾濫を起こしていた遠賀川の治水工事、さらには筑豊からの物資輸送と灌漑を目的とした堀川運河の建設など、積極的な農業振興策を推進した 4 。これらの事業により、福岡藩の石高は大きく増加したと伝えられている。農業以外にも、陶磁器である高取焼の奨励など、殖産興業にも意を用いた 33 。
また、藩政運営の規範として、「黒田長政三ヶ条法令」や「黒田長政財用定則」といった法令を定めたとされる 36 。ただし、「財用定則」については後世の偽作である可能性も研究者から指摘されている点に注意が必要である 36 。家臣団の統制にも努め、栗山利安や井上之房といった譜代の重臣たちが藩政を支えた 2 。税制に関しては、筑前入国後に検地を実施して石高を再編し、年貢率はおおむね三公七民(収穫の約33%を年貢とする)程度であったと考えられている 50 。
これらの藩政確立に向けた諸政策は、長政が単なる戦国武将から、泰平の世を治める近世大名へと自己を変革し、新たな時代に対応した統治者としての高い能力を発揮したことを示している。父・官兵衛も築城や都市計画に長けていたことから 1 、その影響も無視できないが、長政自身が主体的に福岡藩の基礎を築き上げたことは疑いようがない。幕府への配慮と自藩の実利追求というバランス感覚も、彼の巧みな政治手腕を物語っている。
福岡藩初代藩主として藩政の基礎固めに尽力した黒田長政であったが、その晩年も戦乱と無縁ではなかった。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、そして翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣には、徳川方として参陣し、豊臣家の滅亡を見届けることとなった 1 。戦後、長政は合戦の様子を詳細に描かせた「大坂夏の陣図屏風」を制作させたことが知られている。この屏風には、徳川方の兵士による略奪行為なども生々しく描かれており、単なる戦勝記念ではなく、戦争の多面的な実相を後世に伝えようとした長政の意図が込められているのではないかと推測されている 1 。
元和9年(1623年)、長政は病を得て、嫡男である黒田忠之に家督を譲った 12 。死期を悟った長政は、同年8月2日、二人の家臣を枕元に呼び、藩の将来に関する長文の遺言を残したとされる 33 。その内容は、主に関ヶ原の戦いにおける黒田家の功績を詳細に伝え、この功績を盾に徳川幕府からの厚情を得て家の安泰を図るよう指示するものであった 33 。また、この遺言の内容は、藩主となる忠之ら自分の子供には直接伝えず、家臣の家督を継ぐ子供たちにのみ密かに伝えるよう命じたとも言われている 33 。これは、家の存続に対する長政の強い執念と、将来への深い憂慮を示すものであった。長政は忠之の器量をやや心配していたとも伝えられ、遺言では弟の長興に5万石(後の秋月藩)、高政に4万石(後の東蓮寺藩、直方藩)を分知することも指示している 12 。
そして元和9年(1623年)8月4日、黒田長政は療養先の京都・報恩寺の藩邸において、56年の生涯を閉じた 1 。具体的な病名については詳らかではないが、その死は多くの人々に惜しまれた。
長政の墓所は、福岡市博多区にある黒田家の菩提寺・崇福寺のほか、京都の大徳寺塔頭龍光院、和歌山県の高野山奥之院など、複数存在する 4 。また、江戸の祥雲寺(現在の東京都渋谷区)は、長政の死後、息子である忠之が父の冥福を祈って江戸藩邸内に建立した興雲寺が、後に移転・改称したものである 64 。
長政の晩年における嫡男・忠之への評価や分知の遺言は、皮肉にも後の福岡藩におけるお家騒動「黒田騒動」の遠因の一つとなった可能性が指摘されている。忠之は藩主就任後、側近を重用し、父長政以来の旧臣たちと対立を深めた 12 。その結果、筆頭家老であった栗山大膳(利章)が、忠之に幕府への謀反の疑いありと訴え出るという事態にまで発展したのである 12 。長政の家と藩の将来を思う深い配慮が、結果として藩政の不安定要因を生み出してしまった側面は否定できない。
また、「大坂夏の陣図屏風」に戦争の武功だけでなく残虐な側面まで描かせた長政の意図は、単なる戦勝記録を超えたものとして注目される。既に泰平の世が到来しつつあった中で、戦争の現実をありのままに後世に伝え、平和の尊さを暗に示そうとしたのか、あるいは自らの武功を誇示しつつも、その影の部分も記録することで、戦国を生き抜いた武将としての複雑な心境を表そうとしたのか、その真意は深い考察を要する。
黒田長政の人物形成において、父・黒田官兵衛孝高(如水)の存在は計り知れないほど大きい。官兵衛は「戦国随一の参謀」と称され、豊臣秀吉の天下統一に大きく貢献した智将であった 1 。長政はその嫡男として、幼少期から父の薫陶を受け、その卓越した智謀や戦国の世を生き抜くための処世術を間近で学んだと考えられる 1 。
長政が残した書状からは、父・官兵衛に対する深い敬愛の念と、同時にその偉大さゆえの葛藤が垣間見える。例えば、嗣子である忠之に宛てた手紙の中で、「如水(官兵衛)のよき事を似せ申さるる儀は成り難く候べし。あしき事を似せざる様に心持ち有るべく候」(父の優れた点を真似ることは難しいだろうが、悪い点を真似しないように心掛けなさい)と諭しており、父への高い評価と、自身がその域に達することの難しさを認識していたことが窺える 5 。一方で、若い頃には「俺は父上を超えて見せる」という強い意志も抱いていたとされ 1 、偉大な父を持つがゆえのプレッシャーと、それを乗り越えようとする気概が長政の原動力の一つであったのかもしれない。
父子の関係を示す有名な逸話として、関ヶ原の戦い後に長政がその戦功を官兵衛に報告した際のやり取りがある。家康から最大級の称賛を受け、意気揚々と報告する長政に対し、官兵衛は「その時、お前の左手は何をしていたのか(なぜ家康を討ち、天下を狙わなかったのか)」と厳しく叱責したという 8 。この逸話は、官兵衛の隠された野心や天下への執着を示すものとして語られることが多いが、同時に息子である長政に対する並々ならぬ期待、あるいは父とは異なる天下観や戦略眼を持っていた可能性を示唆している。長政にとっては、父の器の大きさと、自らの選択の重さを改めて認識させられる出来事であっただろう。
官兵衛の教育方針の一端は、「自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせなさい。そうすれば、叱ったり脅したりしなくても自然に威は備わる」という言葉に見て取れる 67 。恐怖によってではなく、為政者自身の徳と威厳によって人々を従わせるべきであるというこの考え方は、長政の藩政運営にも影響を与えた可能性がある。
長政は、父・官兵衛の「智」を受け継ぎつつも、自らは「武」と「律儀さ」をもって徳川政権下での活路を見出したと言える。官兵衛は秀吉から「奴に100万石を与えたならば途端に天下を奪ってしまう」と警戒されるほどの人物であったが 17 、長政は関ヶ原で家康に忠実に仕え、その功績で大大名となった 3 。官兵衛の「左手は何をしていた」という発言は、家康を討ち天下を狙うことを期待したとも解釈できるが、長政は徳川体制下での黒田家の安泰と繁栄という、より現実的な道を選んだ。これは、父の野心とは異なる選択であったかもしれないが、結果として福岡藩52万石という大きな成果に繋がり、父の智謀を異なる形で活かしたと言えるだろう。官兵衛という偉大な父を持つことで「七光り」と見なされることもあったかもしれないが 8 、関ヶ原での調略や福岡藩の基礎を築いたことは、長政自身の卓越した能力と努力によるものであり、父の影響を自身の力に変え、独自の功績を打ち立てた点は高く評価されるべきである。
黒田長政の生涯は、戦国末期から江戸初期にかけての二人の天下人、豊臣秀吉と徳川家康との関係によって大きく左右された。
まず豊臣秀吉との関係である。長政は幼少期、父・官兵衛が秀吉に属した際に人質として秀吉夫妻(秀吉とねね)のもとに預けられ、実の子同然に可愛がられたと伝えられている 1 。この経験は、長政と秀吉との間に個人的な情誼を育んだと考えられる。長じて後は、秀吉の天下統一事業に父と共に従軍し、賤ヶ岳の戦いや九州平定、そして朝鮮出兵(文禄・慶長の役)においても数々の戦功を挙げ、秀吉恩顧の武将の一人として重用された 5 。しかし、秀吉との個人的な繋がりが深かった一方で、朝鮮出兵を機に石田三成ら奉行衆との間に対立が生じ、豊臣政権内部の複雑な力学の中で、長政の立場は必ずしも安泰なものではなかった。
秀吉の死後、政情が不安定化する中で、長政は徳川家康との関係を深めていく。秀吉存命中から対立していた石田三成との関係が、秀吉の死によってさらに悪化したことが大きな要因であった 1 。長政は、加藤清正や福島正則ら他の武断派の諸将と共に三成襲撃を企てるなど、反三成の動きを鮮明にし、急速に家康に接近した 3 。その最も顕著な行動が、正室であった糸姫(蜂須賀正勝の娘で秀吉の養女)と離縁し、新たに家康の姪であり養女でもある栄姫(保科正直の娘)を継室として迎えたことである 3 。これは、徳川家との間に強固な姻戚関係を築くことで、自家の政治的立場を確固たるものにしようとする長政の明確な戦略的判断であった。
関ヶ原の戦いにおいて、長政は東軍の勝利に決定的な貢献を果たし、その結果、家康から絶大な信頼を得ることになる 3 。戦後の論功行賞では、「関ヶ原の戦い一番の功労者」として、子々孫々まで罪を免除するという破格のお墨付きと共に、筑前国名島に52万3千石余という広大な領地を与えられた 3 。家康が長政の乗馬好きを知り、秘蔵の駿馬を与えたという逸話も残っており 68 、両者の信頼関係の深さが窺える。さらに、江戸幕府成立後も、長政は家康の命による江戸城の天守台及び本丸の石垣普請などを忠実にこなし、外様大名でありながら幕府から厚い信任を得た 4 。
長政の豊臣秀吉から徳川家康への「主君」の乗り換えとも見える行動は、戦国乱世から泰平の世へと移行する時代の転換期における武将の現実的な選択を象徴している。秀吉に育てられた恩義は深かったはずだが 1 、秀吉死後の豊臣政権の不安定化と石田三成との深刻な対立 1 、そして家康の圧倒的な台頭という状況下で、長政は黒田家の存続と発展を最優先に考え、家康に与するという冷静な状況判断と将来を見据えた戦略的決断を下した。これは、単なる感情論ではなく、時代の変化を敏感に察知したリアリズムに基づくものであった。そして、婚姻政策や幕府の重要事業への積極的な協力を通じて、家康との信頼関係を巧みに構築し、外様大名としての地位を確固たるものにしたその手腕は、高く評価されるべきであろう。
黒田長政の人物像は、勇猛果敢な武将としての一面と、細やかな配慮を見せる人間味あふれる側面を併せ持っていた。若い頃から数々の戦陣に赴き武功を重ね、その潔い振る舞いとリーダーシップは、家臣団を惹きつける圧倒的なカリスマ性を有していたと伝えられる 4 。
一方で、若い頃の長政は激情家な一面も持ち合わせていたようで、部下に対して厳しく接し、衝突することも少なくなかったという記録がある 1 。関ヶ原の戦いの最中に、興奮のあまり少数の手勢での無謀な突撃を命じようとしたという逸話も、その性格の一端を示しているのかもしれない 8 。しかし、年齢を重ねるにつれて、そのような気性も円熟味を増していったと考えられる。晩年には、家臣たちとの間に「腹立たずの会(異見会)」と呼ばれる会合を定期的に設けていたという逸話が残っている 71 。この会は、身分に関わらず無礼講で自由に意見を述べ合う場であり、長政自身も家臣からの率直な批判や進言に耳を傾けたとされる。これは、長政が自身の短気な性格を自覚し、家臣団の結束を高め、円滑な藩政運営を目指すための工夫であったと推測され、彼の度量の大きさを示すものと言えよう。
趣味としては、乗馬や鷹狩りを特に好んだとされ 70 、嫡男である忠之に対しても乗馬の重要性を繰り返し説いていた記録が残っている 73 。武将としての嗜みであると同時に、心身を鍛錬する手段として重視していたのであろう。
家族や家臣に対する細やかな配慮も、長政の人物像を語る上で欠かせない。嫡男・忠之の養育には非常に熱心で、手習いや食事の作法、家臣への接し方、他家との交際術に至るまで、実に細々とした内容を手紙で指導しており、時に心配性とも言える親心が窺える 36 。また、家臣である母里太兵衛が、福島正則との酒席での賭けに勝ち、名槍「日本号」を飲み取ったという豪快な逸話は特に有名である 75 。この一件で長政と福島正則の関係は一時悪化したが、後に竹中重利の仲介で和解し、互いの兜を交換したと伝えられる。この逸話は、黒田武士の心意気を示すものとして民謡「黒田節」で今も歌い継がれており、長政の家臣に対する信頼と、家臣の豪胆な行動を許容する懐の深さを示している。
金銭感覚においては、藩財政に気を配る緻密な経営者としての一面が見られる。日常品については質素を旨とし、贅沢を厳しく戒めていたエピソードが残っている 36 。例えば、家臣に台所用の釜を新調させた際、必要以上に上等なものが二つも届けられたことに激怒し、「たわけ」「うつけ」といった強い言葉で贅沢を諌めたという。これは、幕府からの普請役などで莫大な費用負担を強いられる中、見えない部分で経費を切り詰めようとする現実的な判断の表れであろう。
このように、黒田長政は、戦場での勇猛さと冷静な戦略眼、部下に対する厳しさと意見を聞く度量、息子への細やかな教育と家臣への信頼、そして現実的な経済感覚といった、多様な側面を持つ複雑で魅力的な人物であった。彼が置かれた状況や接する相手によって異なる顔を見せていたことは、一面的な評価では捉えきれない人間性の深みを示している。
黒田長政の信仰、特にキリスト教との関わりは、父・官兵衛の影響と、当時の日本の政治状況の中で揺れ動いた。長政は、父・官兵衛と同じくキリスト教の洗礼を受けており、その霊名は「ダミアン」であったと記録されている 4 。官兵衛は熱心なキリシタン大名として知られ、その影響下で長政も入信したのであろう。
しかし、豊臣秀吉が天正15年(1587年)にバテレン追放令を発布し、キリスト教に対する圧迫を強めると、黒田家の立場も微妙なものとなる。父・官兵衛は、秀吉からの改宗の求めに対し、表向きにはこれを受け入れ棄教したとされる。長政もまた、父に倣い、あるいは政治的判断からキリスト教を棄教した 4 。
徳川幕府の治世になると、キリスト教禁教政策はさらに強化される。そのような中で、長政はかつての信仰を捨て、むしろ領内においてキリシタンを厳しく取り締まる側に転じたと伝えられている 4 。これは、福岡藩主として、幕府の政策に従い領内の安定を維持するという、大名としての政治的責任を優先した結果と考えられる。個人の信仰と、藩主としての公的な立場との間で、長政は苦渋の選択を迫られたのであろう。
父・官兵衛の死に際しては、官兵衛がキリシタンであったことを考慮し、その葬儀はキリスト教カトリック式と仏式の両方で執り行われたという記録がある 4 。これは、故人の信仰への配慮と、当時の社会的な慣習や体面を両立させようとした結果かもしれない。
長政の棄教と、その後の領内キリシタンへの厳しい政策は、戦国時代から江戸時代初期にかけての多くの大名が直面した、個人の内面的な信仰と、外部からの政治的圧力との間で生じる深刻なジレンマを象徴している。信仰の自由が保障されていなかった時代にあって、家の存続と領民の安寧を第一に考えた場合、幕府の方針に逆らうことは極めて困難であった。長政の選択は、そのような時代の制約の中で下された、現実的な判断であったと言えるだろう。父・官兵衛が、ある意味で信仰を持ち続けたとも解釈できる葬儀のあり方に対し、長政がより明確に幕府の方針に沿った行動を取ったのは、父子の性格の違い、あるいは官兵衛が隠居の身であったのに対し、長政が現役の藩主としてより直接的な政治責任を負っていたという立場の違いを反映している可能性も考えられる。
黒田長政が福岡藩初代藩主として遺した功績は、その後の福岡藩約270年間にわたる安定した治世の礎となった。彼の施策は多岐にわたり、藩の経済的・政治的基盤を確立する上で決定的な役割を果たした。
まず、最も大きな事業は福岡城の建設とそれに伴う城下町の整備である 20 。堅固な城郭は藩の軍事的中核となり、計画的に町割りされた城下町は商業の中心地として発展し、現在の福岡市の原型を形作った。
経済基盤の確立においては、特に米作振興に力が注がれた。糸島地域における大規模な干拓事業や、遠賀川の改修、堀川運河の建設といった大規模な土木事業を通じて新田開発を奨励し、藩の石高を大幅に増加させた 4 。また、博多の商人たちの活力を藩の発展に取り込むため、彼らに一定の自治権を与え、商業活動を奨励したことも特筆される 29 。農業以外にも、高取焼などの工芸品生産や鉱業の振興にも努めた記録がある 33 。
藩政運営の規範としては、「黒田長政三ヶ条法令」や「黒田長政財用定則」などが長政によって定められたと伝えられている 36 。特に「三ヶ条法令」は、倹約の心得を説いたものとされ、後世、福岡藩が財政難に陥った際などに、藩政の理想的な手本として度々参照された 36 。ただし、これらの法令の原本とされる文書の信憑性については、花押の形状などから疑問点が指摘されており、「財用定則」に関しては後世の偽作である可能性が高いとされている 36 。
長政はまた、死に際して嫡男・忠之や家臣たちに対し、詳細な遺言を残した 12 。その中心的な内容は、関ヶ原の戦いにおける黒田家の功績を後世に正確に伝え、徳川幕府に対する忠誠を尽くすことで家の安泰を永続させることにあった 33 。
これらの法令や遺言は、その信憑性に議論があるものも含め、長政の死後も「明君長政」という理想化されたイメージと共に、福岡藩の政治や家臣たちの精神的支柱として大きな影響力を持ち続けた。明和5年(1768年)には、長政は福岡城天守台下に「聖照権現」として祀られ、神格化されるに至る 36 。これは、初代藩主の権威を利用して藩政の安定や改革を推進しようとする後世の藩主や家臣たちの意図があったと考えられる。また、『黒田家譜』の編纂と普及も、黒田家の正統性や輝かしい歴史を強調し、藩士の教育や領民の統合に役立てる目的があったと言えよう 36 。史実としての真偽とは別に、これらの文書や伝承が、長政の名の下に権威あるものとして受容され、福岡藩の歴史の中で重要な役割を果たしたという事実は、注目に値する。
黒田長政の生涯とその時代を今に伝える貴重な史料や文化財が数多く現存している。これらは、彼の武将としての側面、藩主としての業績、そして人間性を具体的に示す物証であり、歴史研究において極めて重要な価値を持つ。
表2:黒田長政関連 主要文化財一覧
分類 |
名称 |
所蔵・所在地など |
備考 |
典拠 |
肖像画 |
黒田長政像(馬上の図) |
福岡市博物館蔵 |
歴代藩主の中でも特に馬術を重んじた長政の姿を描く。 |
5 |
|
黒田二十四騎図 |
福岡市博物館など |
長政を象徴する大水牛兜を着用した姿で描かれることが多い。 |
19 |
甲冑 |
銀箔押一の谷形兜・黒糸威五枚胴具足(小具足付) |
国指定重要文化財、福岡市博物館蔵 |
関ヶ原合戦で長政が着用したと伝わる。源平合戦の一ノ谷の断崖を模した形状。福島正則所用で、長政の大水牛兜と交換したとの説もある。 |
79 |
|
黒漆塗桃形大水牛脇立兜 |
国指定重要文化財(一の谷形兜の附指定)、福岡市博物館蔵 |
朝鮮出兵などで使用。水牛の角を模した大きな脇立が特徴。 |
5 |
刀剣・槍 |
刀 名物「城井兼光」 |
福岡市博物館蔵 |
鎌倉時代末期~南北朝時代の作。豊前国の国人・城井鎮房を中津城で誘殺した際に用いたとされる。 |
5 |
|
大身槍 名物「一国長吉」 |
|
長政が初陣より使用し、この槍で筑前一国を手に入れたとして命名されたと伝わる。作は長吉。 |
5 |
|
刀 名物「圧切長谷部(へしきりはせべ)」 |
国宝、福岡市博物館蔵 |
織田信長が観内違いの者を棚ごと圧し切った逸話に由来。信長から秀吉へ、そして黒田家へ伝来(官兵衛または長政が拝領したとされる)。 |
3 |
文書・記録 |
黒田長政書状 |
福岡市博物館、九州大学、個人蔵など多数 |
嫡男・忠之や家臣、他大名宛など多数現存。藩政、家訓、外交など多岐にわたる内容を含む。 |
5 |
|
黒田長政遺言(遺言帳、遺言覚、遺言草案など) |
福岡市博物館など |
藩の将来や家臣団への指示、黒田家の功績の伝承などが記される。 |
33 |
|
黒田長政記 |
国立公文書館蔵 |
長政の一代記。写本。 |
85 |
|
吾妻鏡 黒田家旧蔵本 |
国指定重要文化財、国立公文書館蔵 |
現存最古の『吾妻鏡』写本。小田原北条氏旧蔵本で、秀吉から官兵衛へ、そして長政から徳川秀忠へ献上された。 |
86 |
その他 |
永楽銭陣羽織 |
福岡市美術館所蔵 |
|
81 |
|
大坂夏の陣図屏風 |
|
長政が描かせたとされる。徳川方の兵による略奪なども描かれる。 |
1 |
史跡 |
福岡城跡 |
福岡市中央区 |
長政が築城した福岡藩の居城。石垣、櫓、堀などが現存。国指定史跡。 |
2 |
|
黒崎城跡 |
北九州市八幡西区 |
福岡城の六端城の一つ。一国一城令により廃城。福岡県指定史跡。 |
9 |
|
名島神社 |
福岡市東区 |
長政が筑前入国当初に拠点とした名島城跡に鎮座。 |
10 |
|
崇福寺 |
福岡市博多区 |
黒田家菩提寺。長政、官兵衛らの墓所がある。山門は福岡城本丸表御門、唐門は名島城の遺構を移築。 |
4 |
これらの文化財や史跡は、黒田長政の武将としての勇猛さ、藩主としての統治能力、そして彼の美意識や人間関係を具体的に今に伝えている。特に甲冑や刀剣は、戦国武将としての長政を象徴する遺品であり、書状類は彼の肉声や思想、人間関係を知る上で欠かせない一次史料である。福岡城跡や崇福寺などの史跡は、長政の業績を空間的に体感できる貴重な場所として、今日まで多くの人々に親しまれている。
黒田長政は、現代において、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した重要な武将の一人として認識されている。その評価は多岐にわたるが、特に以下の点が注目される。
まず、関ヶ原の戦いにおける卓越した調略手腕と戦場での武功は、父・黒田官兵衛の智謀を受け継ぎつつ、自身の能力を開花させたものとして高く評価されている 1 。小早川秀秋や吉川広家といった西軍の有力武将を巧みに切り崩し、東軍の勝利に決定的な貢献を果たしたことは、長政の戦略眼と交渉力の高さを証明している。
次に、福岡藩初代藩主としての藩政運営能力も特筆されるべきである。福岡城という壮大な城郭と計画的な城下町を建設し、検地や石高制の確立、新田開発や治水事業による農業振興、さらには商人政策による商業の活性化など、多岐にわたる施策を通じて福岡藩の経済的・政治的基盤を築き上げた 4 。これらの事業は、その後の福岡の約270年間にわたる安定した治世と、ひいては現代の福岡市の発展の礎となったものとして、地域史において極めて重要な意味を持つ 29 。
一方で、長政の評価においては、常に偉大な父・官兵衛の存在が比較対象とされることが多い。「名将官兵衛の息子」という側面が強調され、時にその陰に隠れがちであったり、「七光り」と見なされたりすることもあった 8 。しかし、長政自身の具体的な功績、特に関ヶ原での主体的な働きや、福岡藩という新たな領国をゼロから作り上げた実績は、父とは異なる時代状況の中で彼自身が成し遂げたものであり、独立した武将・統治者としての能力を正当に評価する視点が不可欠である。
また、長政の人間的な側面も、現代において関心を集める要素の一つである。戦場での勇猛さや、時に見せる激情家としての一面 1 、その一方で、家臣の意見に耳を傾けるために「腹立たずの会」を設けたという度量の大きさ 71 、嫡男・忠之の教育に心を砕いた父親としての顔 74 、そして母里太兵衛の豪快な逸話を許容した大らかさ 75 など、記録に残る様々なエピソードは、長政が単なる権力者ではなく、人間味あふれる魅力的な人物であったことを示唆している 89 。
総じて、黒田長政は、父・官兵衛という偉大な存在から多大な影響を受けつつも、自らの才覚と努力によって戦国の乱世を生き抜き、新たな時代である江戸幕府の下で大大名としての地位を確立し、福岡藩の繁栄の基礎を築いた傑出した人物として、現代においてもその業績と人物像が評価されていると言えよう。
黒田長政は、戦国時代の終焉から江戸時代初期という、日本史における大きな転換期を生きた武将である。父・黒田官兵衛という稀代の智将の薫陶を受け、その影響を色濃く受け継ぎながらも、長政は自らの力と判断で激動の時代を切り拓いた。
幼少期の人質生活や父の幽閉に伴う処刑の危機といった苦難を乗り越え、初陣での武功を皮切りに、賤ヶ岳の戦い、九州平定、そして朝鮮出兵と、数々の戦場で武将としての経験と名声を積み重ねた。特に朝鮮出兵では、異国の地での困難な戦いを指揮し、その中で豊臣政権内部の矛盾や対立も目の当たりにした。この経験は、後の彼の政治的判断に大きな影響を与えたと考えられる。
長政の生涯における最大のハイライトは、関ヶ原の戦いであろう。石田三成との対立から徳川家康に接近し、東軍の勝利のために福島正則、吉川広家、小早川秀秋といった諸将に対する巧みな調略を展開し、戦局を有利に導いた。本戦においても自ら武功を挙げ、家康から「一番の功労者」と称賛され、筑前国52万石余の大封を得て福岡藩初代藩主となった。これは、長政の智謀と武勇、そして時勢を読む鋭い洞察力の賜物であった。
福岡藩主としては、福岡城と城下町の建設という壮大な事業を成し遂げ、検地、石高制の確立、新田開発、治水、産業振興など、藩政の基礎固めに邁進した。これらの施策は、その後の福岡藩の安定と発展の礎となり、現在の福岡市の繁栄にも繋がっている。
父・官兵衛との関係は、尊敬と葛藤が入り混じった複雑なものであったと推察される。偉大な父を超えようとする気概と、父の期待に応えようとする重圧の中で、長政は独自の道を歩んだ。豊臣秀吉への恩義と、新たな覇者徳川家康への対応という点では、戦国武将としてのリアリズムと、家の存続を第一とする戦略的判断を示した。
勇猛果敢な武人であると同時に、激情家であり、また家族や家臣を深く思う人間味あふれる人物でもあった。晩年に「腹立たずの会」を設けた逸話は、自己の短所を自覚し、他者の意見に耳を傾けようとした彼の度量の大きさを示している。
黒田長政は、単に「名将官兵衛の息子」という枠に収まらない、独立した優れた武将であり、有能な統治者であった。彼が遺した福岡の街並みや数々の文化財は、その業績を今に伝えている。今後、さらなる史料の発見や研究の進展によって、黒田長政という人物の多面的な魅力と歴史的意義がより深く解明されていくことが期待される。彼の生涯は、激動の時代をいかに生き抜き、新たな時代をいかに築き上げていくかという、普遍的な問いを我々に投げかけていると言えよう。