最終更新日 2025-10-13

上杉謙信
 ~川中島で信玄へ単騎斬り込み~

上杉謙信が川中島で武田信玄本陣へ単騎斬り込みした伝説を、史料の記述、軍事常識、一次史料の沈黙から徹底検証。英雄譚の虚実と文化的機能を解明。

龍虎、八幡原に吼ゆ ― 上杉謙信、武田信玄本陣単騎斬り込みの逸話に関する徹底的考察

序章:伝説の幕開け ― 八幡原の朝霧

永禄四年(1561年)九月十日、夜明け。信濃国川中島、八幡原は深い霧に包まれていた。千曲川と犀川が合流するこの地は、長きにわたり甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信(当時は政虎)が覇を競った係争の地である。この日、この朝霧の中から、日本戦国史上、最も劇的で、最も語り継がれてきた伝説の一つが生まれ出ることになる。それは、越後の龍・上杉謙信が単騎、敵本陣に突入し、甲斐の虎・武田信玄に三度斬りつけたという、あまりにも鮮烈な逸話である。

現代、長野市に位置する八幡原史跡公園には、その伝説の場面を再現した銅像が静かに佇んでいる 1 。馬上で太刀を振り下ろす謙信と、床几(しょうぎ)に座したまま軍配でそれを受け止める信玄。その姿は、二人の英雄の対決の象徴として、我々の心に深く刻み込まれている。講談、小説、映画、そして絵画に至るまで、この一騎打ちは幾度となく描かれ、あたかも歴史的事実であるかのように受容されてきた。

しかし、その劇的なイメージの裏側には、錯綜する史料の記述、歴史学上の根深い問い、そして伝説が形成されていく複雑な過程が隠されている。この一瞬の閃光は、果たして本当に八幡原の霧の中で起こった出来事だったのか。あるいは、後世の人々が英雄たちの姿に求めた理想像が結晶化した、壮麗なる創作だったのか。

本報告書は、この「上杉謙信、武田信玄本陣単騎斬り込み」という一つの逸話にのみ焦点を絞り、その虚実の深淵に挑むものである。まず、物語として最も流布している形を時系列に沿って再構築し、読者をその緊迫の瞬間へと誘う。次に、歴史学のメスを入れ、現存する多様な史料を比較・検討し、その信憑性を徹底的に検証する。そして最後に、史実性の問題を越えて、なぜこの逸話がこれほどまでに人々を魅了し、語り継がれてきたのか、その文化的・神話的機能を解明する。これは、単なる事実の探求に留まらず、歴史が記憶として、そして物語として、どのように形成されていくのかを追う旅でもある。


第一部:その刻、龍は虎の眼前にあり ― 逸話の時系列的再構築

この逸話の核心に迫る前に、まずは最も広く知られ、数多の創作物の源泉となった軍記物語『甲陽軍鑑』の記述を軸に、伝説の場面を臨場感豊かに再構築する。ここでは一旦、史実性の検証を保留し、物語の持つ力強い引力に身を委ね、読者を永禄四年の川中島へと誘う。

第一章:決戦前夜 ― 啄木鳥と渡河

永禄四年九月、上杉謙信率いる一万三千の軍勢は、武田方の海津城と対峙する妻女山に布陣していた 3 。両軍のにらみ合いは十日以上に及び、膠着状態が続いていた 4 。この均衡を破るべく、武田信玄は軍議を開く。ここで信玄の軍師とされる山本勘助が進言したのが、世に名高い「啄木鳥(きつつき)の戦法」であった 5 。キツツキが木の幹の反対側を叩き、驚いて飛び出してきた虫を捕らえる習性になぞらえたこの作戦は、武田軍を二手に分けるものであった。高坂昌信や馬場信房らが率いる一万二千の別動隊が夜陰に紛れて妻女山の背後に回り込み、夜明けと共に上杉軍を奇襲する。驚いた上杉軍が山を下りて八幡原へ逃れてきたところを、信玄自らが率いる八千の本隊が待ち構え、挟撃するという緻密な計画であった 5

九月九日の夜、武田軍別動隊は密かに出陣した。しかし、妻女山の上では、敵の動きに尋常ならざる気配を感じ取っていた者がいた。上杉謙信である。海津城から立ち上る炊煙が常よりも異常に多いこと、城内の兵馬の動きが慌ただしいことから、謙信は武田軍が何らかの大規模な作戦、おそらくは夜襲を決行しようとしていることを見抜いたと伝えられる 9 。敵の策を逆手に取り、決戦を挑む。謙信の決断は迅速であった。全軍に、密かに妻女山を下り、八幡原の武田本隊を急襲する準備を命じたのである 10

その夜、上杉軍一万三千は、歴史に残る静寂の行軍を開始する。後に頼山陽の漢詩によって「鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)夜河を渡る」と詠われた場面である。兵士たちは物音一つ立てぬよう、馬の口には枚(ばい)と呼ばれる木の枝を噛ませ、鎧の音も立てぬよう慎重に山を下った 8 。眼下には、武田の別動隊を欺くためのかがり火が点々と残されている 3 。闇と川霧に紛れながら、上杉軍は千曲川の浅瀬を静かに渡り、武田本隊が待ち構える八幡原へとその陣容を整えていった。この時、武田信玄は、妻女山から追い落とされるであろう上杉軍を待ち受け、勝利を確信していた。だが、その眼前に迫りつつある脅威には、まだ気づいていなかった。

第二章:八幡原の激突 ― 斬り込みへの道

九月十日、未明。川中島一帯を覆っていた濃い朝霧が、両軍の運命を分ける幕となった。八幡原に鶴翼の陣を敷き、上杉軍の到来を待ち受けていた武田信玄の本隊八千の耳に、霧の向こうから不審な人馬の音が聞こえ始めた 3 。信玄が偵察を放ったその時、霧がわずかに晴れ、眼前に信じがたい光景が広がる。いるはずのない上杉軍が、すでに戦闘態勢を整え、眼前に迫っていたのである 3

虚を突かれた武田軍は浮き足立った。対する上杉軍は、精強な部隊が次々と入れ替わりながら波状攻撃を仕掛ける「車懸(くるまがかり)の陣」で、武田軍に猛然と襲いかかった 6 。先陣を務めた上杉軍の柿崎景家隊は、武田軍の信玄の弟・武田信繁(典厩)の隊に突撃し、凄まじい猛攻を加えた 12

戦いは瞬く間に激戦となり、武田軍は防戦一方に追い込まれる。この乱戦の中、武田軍の誇る重臣たちが次々と斃れていった。信玄の信頼厚い実弟であり、副将格であった武田信繁が討死。そして、啄木鳥の戦法を献策したとされる軍師・山本勘助も、作戦失敗の責任を負うかのように敵陣に突入し、壮絶な戦死を遂げたとされる 12 。武田軍の指揮系統は混乱し、陣形は次々と崩壊。上杉軍の猛攻はついに信玄が陣取る本陣の中核にまで及び、信玄自身が直接の脅威に晒されるという、絶体絶命の状況が生まれたのである 6

第三章:三太刀の閃光 ― 伝説の核心場面

武田本陣が崩壊寸前となった、その乱戦のさなかであった。ひときわ目立つ一騎の武者が、凄まじい勢いで武田の旗本を蹴散らし、信玄が床几に腰を下ろす本陣の中枢へと一直線に突入してきた。『甲陽軍鑑』によれば、その武者は白い布で頭を包み、萌黄色の胴肩衣をまとい、月毛の馬に跨っていたという 14 。その手には、上杉家重代の名刀「小豆長光」が抜き放たれていた。上杉謙信、その人であった。

ここからは、伝説として語られるリアルタイムな情景である。

  • 謙信の動き: 信玄の姿を捉えた謙信は、馬を駆り、馬上から必殺の一太刀を振り下ろす。轟音と共に振り下ろされた刃を、信玄は動じることなく手にした軍配で受け止めた。間髪入れず、謙信は二の太刀、三の太刀と、立て続けに斬りかかる。その一撃一撃は、信玄の首を刎ねんとする、まさに雷光の如き速さと重さであった 14
  • 信玄の応対: 敵将の刃を眼前にしながらも、信玄は床几に座したまま微動だにしなかった。刀を抜く暇さえなかった信玄は、ただ鉄製の軍配団扇のみで、謙信の三度にわたる猛攻を凌ぎきったのである 14 。ある記録では、信玄が「推参なり」と一喝したとも伝えられている 14 。その姿は、まさに「動かざること山の如し」を体現するものであった。
  • 周囲の状況: この異常事態に、信玄の近習たちがようやく我に返った。慌てて駆け寄り、謙信の馬の前に立ちふさがり、槍で突こうとする者、馬の轡(くつわ)を取ろうとする者で、本陣は一時大混乱に陥った。しかし、謙信はその包囲網をものともせず、再び敵中を駆け抜け、乱戦の中に姿を消していった。

この攻防の後、信玄が受け止めた軍配を調べると、三度の太刀筋の他に、さらに四つの傷があり、合計で七つの刀傷が残っていたという。これが後に「三太刀七太刀(さんたちななたち)の伝説」として知られる逸話である 15 。両雄が直接刃を交えるという、戦国史上類を見ないこの劇的な場面は、第四次川中島の戦いのクライマックスとして、後世に語り継がれていくこととなった。


第二部:虚実の狭間にて ― 逸話の多角的分析

第一部で再構築した物語は、英雄たちの息遣いまで聞こえてくるような、実に魅力的なものである。しかし、歴史学は、物語の魅力に酔うことを許さない。ここからは、この逸話が記された史料を冷静に比較・分析し、その信憑性について多角的に検証していく。すると、広く信じられてきた「事実」が、いかに不確かで、多様な解釈の可能性を秘めているかが見えてくる。

第四章:もう一つの「一騎打ち」 ― 諸史料の比較検討

上杉謙信の単騎斬り込みを伝える史料は、『甲陽軍鑑』だけではない。しかし、他の史料に目を向けると、その描写は驚くほど異なっている。場所、実行者、そして時期に至るまで、根本的な部分で食い違いが見られるのである。

  • 『甲陽軍鑑』との比較:
  • 上杉方の軍記物『北越軍談』: こちらでは、一騎打ちの舞台は八幡原の信玄本陣ではなく、「御幣川(ごへいがわ)の中」とされている 16 。さらに、信玄は床几に座していたのではなく、謙信と同じく馬上にあり、互いに太刀を抜いて斬り結んだ結果、信玄が負傷して退いた、と記されている 16 。静(信玄)と動(謙信)の対比が印象的な『甲陽軍鑑』に対し、こちらは両者が対等に馬上で渡り合う、より動的なイメージである。
  • 『上杉三代日記』の異説: この史料は、さらに衝撃的な記述を含んでいる。永禄四年(第四次)の川中島の戦いで信玄に斬りかかったのは、謙信本人ではなく、上杉家の士大将「荒川伊豆守」という武将であったと明記しているのである 14 。そして、「甲陽軍鑑に謙信と太刀打ちありと書きたるは偽なり。荒川を謙信と見違ひたると覚ゆ」と、『甲陽軍鑑』の記述を明確に否定している 14
  • 時期に関する異説:
  • 『上杉三代日記』はさらに、謙信と信玄が直接太刀を交えたのは事実だが、それは永禄四年のことではなく、八年も前の天文二十三年(1553年)、第二次川中島の戦いにおいて、御幣川で起きた出来事であると主張する 14 。「是は隠れなき証拠あることなり」と、その信憑性を強く訴えている。

これらの史料間の矛盾は、単なる細部の違いでは済まされない。物語の根幹を揺るがす重大な齟齬である。以下の表は、主要な史料における記述の違いを整理したものである。

【挿入表1:諸史料における「単騎斬り込み」の記述比較】

史料名(主な成立時期)

合戦の時期

場所

斬り込んだ人物

謙信の行動・装備

信玄の行動・装備

太刀打ちの詳細

『甲陽軍鑑』 (江戸初期)

永禄四年(第四次)

八幡原・武田本陣

上杉謙信

馬上から。白い衣で頭を包む。

床几に座す。

謙信が三度斬りつけ、信玄が軍配で防ぐ。

『北越軍談』 (江戸中期)

永禄四年(第四次)

御幣川の中

上杉謙信

馬上から。太刀を抜く。

馬上から。太刀を抜く。

互いに馬上で斬り合い、信玄が負傷して退く。

『上杉三代日記』 (江戸中期)

永禄四年(第四次)

武田本陣

荒川伊豆守

-

太刀打ちをする。

荒川伊豆守が信玄に斬りつける。

『上杉三代日記』 (同上)

天文二十三年(第二次)

御幣川

上杉謙信

馬上から。

馬上から。

謙信が信玄に二度斬りつけ、二箇所の傷を負わせる。

この表が示すように、一つの逸話に対して、少なくとも三つ以上の異なるバージョンの物語が存在している。この事実は、逸話が成立する過程で、何らかの伝聞の混乱や、意図的な脚色、あるいは複数の出来事の融合が起きた可能性を強く示唆している。

第五章:歴史の法廷 ― 逸話の信憑性を問う

史料間の矛盾を踏まえた上で、次に我々はこの逸話そのものが歴史的事実として成立しうるのかを、より厳密な視点から検証しなければならない。

  • 『甲陽軍鑑』の史料批判:
    逸話の最も有名な源泉である『甲陽軍鑑』は、江戸時代初期に武田家の旧臣の家系である小幡景憲によって編纂された兵学書である 15。武田流軍学の教科書としての性格が強く、武田家の栄光や武将たちの活躍を後世に伝える意図で書かれているため、物語的な脚色や教訓的な逸話が多く含まれている 1。明治時代、東京帝国大学の歴史学者・田中義成がその記述の年代や出来事の誤りを実証的に指摘して以来、一次史料としての信頼性は低いと評価されるようになった 17。したがって、『甲陽軍鑑』に書かれているからといって、それを無批判に史実と見なすことはできない。
  • 軍事常識からの考察:
    当時の合戦において、軍の総大将は最後尾に位置する本陣から全体の戦況を把握し、部隊に指示を送るのが最も重要な役割であった。総大将が自ら単騎で敵陣の奥深くに突入する行為は、個人の武勇としては称賛されるかもしれないが、指揮官としては無責任極まりない自殺行為に等しい 17。もし謙信が討ち取られれば、上杉軍は指揮官を失い、その場で総崩れとなる。戦の天才と謳われた謙信が、そのような戦術的合理性を著しく欠いた行動を取る蓋然性は、極めて低いと言わざるを得ない。
  • 沈黙する一次史料という決定打:
    この逸話の信憑性を問う上で、最も決定的な証拠は、謙信自身が残した一次史料の「沈黙」である。第四次川中島の戦いの後、謙信は激戦で功績を挙げた家臣たちに対し、その忠功を称える感状(感謝状)を複数発行している。これらは、多くの将兵が死傷したことから、通称「血染めの感状」と呼ばれている 12。この感状には、中条藤資や色部勝長といった家臣たちの奮戦ぶりが具体的に記されている 12。しかし、もし謙信自身が敵の大将に肉薄し、直接刃を交えるという空前絶後の一大功名を挙げていたのであれば、そのことに一言も触れないのはあまりにも不自然である。この「沈黙」は、この出来事が謙信自身によってなされたものではなかったことの、極めて強力な状況証拠となる。
  • 結論的考察 ― 「事実の核」仮説:
    以上の分析を総合すると、上杉謙信本人が武田信玄に単騎で斬りかかったという、広く知られる形の逸話は、歴史的事実である可能性が極めて低いと結論付けられる。
    では、この伝説は完全な創作なのか。ここで重要になるのが、『上杉三代日記』が記す「荒川伊豆守」の存在である。全くのゼロから物語が生まれるのではなく、何らかの「事実の核」が存在し、それが時を経て変容・成長していくことは、伝説の形成過程においてしばしば見られる現象である。
    最も合理的な解釈として、次のような仮説が考えられる。すなわち、「第四次川中島の戦いの乱戦の中、荒川伊豆守という上杉軍の勇猛な武将が、実際に武田本陣の深くまで突入し、信玄を直接脅かすほどの活躍を見せた」という事件(事実の核)があった。この衝撃的な出来事が語り継がれるうちに、主役がより高名で象徴的な存在である総大将・上杉謙信本人に置き換えられ、さらに『甲陽軍鑑』の編者によって「床几と軍配」という劇的な小道具が加えられ、今日我々が知る英雄譚として完成した、というプロセスである。異説の存在は、この伝説がどのように「成長」していったかの痕跡、いわば物語の地層を示す化石のようなものと解釈できるのである。

第三部:伝説の完成 ― 後世への影響

歴史的事実である可能性が低いにもかかわらず、なぜこの逸話は日本史上屈指の有名な場面として、これほどまでに愛され、語り継がれてきたのだろうか。その答えは、逸話が持つ文化的、そして神話的な機能の中にある。史実性の探求とは別の次元で、この物語が人々の心に果たしてきた役割を解明する。

第六章:描かれた龍虎 ― 芸術と記憶の中の激突

この逸話の流布と定着に絶大な影響を与えたのが、文章による記録以上に、屏風絵や浮世絵といった視覚メディアであった。これらの芸術作品は、文字を読むことのできない人々にも、この劇的な場面のイメージを瞬時に、そして鮮烈に伝え、共通の記憶として社会に固定化させる力を持っていた。

  • 屏風絵と浮世絵の分析:
    江戸時代を通じて、「川中島合戦図屏風」は数多く制作された 20。これらの屏風絵の中心には、しばしばクライマックスとして謙信と信玄の一騎打ちが描かれた。また、江戸後期には大衆文化として浮世絵が隆盛し、歌川国芳をはじめとする絵師たちが、この場面を好んで武者絵の題材とした 21。これらの絵画は、静(床几に座す信玄)と動(馬上で斬りかかる謙信)という、視覚的に極めて対照的で分かりやすい構図を採用することが多かった 21。このダイナミックな構図は物語の核心を凝縮しており、観る者の記憶に強く焼き付いた。
  • 二つのイメージの系統:
    興味深いことに、これらの視覚イメージには、史料の記述の差異を反映した二つの主要な系統が存在する。一つは、『甲陽軍鑑』の記述に基づく、八幡原の本陣で「床几に座す信玄と馬上の謙信」が対峙する構図である 24。もう一つは、『北越軍談』などの記述を反映した、「川の中で馬上の両者が太刀を交える」という構図である 21。この二つの異なるイメージが並存していた事実は、江戸時代の人々が、単一の「正史」としてではなく、多様なバリエーションを持つ「川中島物語」としてこの逸話を楽しんでいたことを示唆している。
  • 視覚による記憶の固定化:
    歴史学的な史料批判の議論が専門家の間で行われる一方で、大衆の間では、これらの屏風絵や浮世絵が繰り返し生産され、鑑賞されることを通じて、「一騎打ちは実際にあった」という共通認識が形成されていった。視覚イメージは、理屈を超えて人々の感情に訴えかけ、歴史的記憶を「固定化」する強力な装置として機能したのである。我々が今日「川中島の一騎打ち」と聞いて思い浮かべる光景は、テキスト史料の精読によって得られた知識以上に、これらの芸術作品によって形作られたイメージに他ならない。

終章:なぜこの逸話は語り継がれるのか

本報告書を通じて、「上杉謙信の単騎斬り込み」という逸話が、歴史的事実としては極めて疑わしいものであることを明らかにしてきた。しかし、それでもなお、この物語が色褪せることなく輝き続けるのはなぜか。それは、この逸話が単なる戦闘記録ではなく、二人の英雄の本質を捉え、時代を超えて人々の心を揺さぶる「神話」としての機能を果たしているからである。

  • 英雄像の結晶として:
    この逸話は、上杉謙信と武田信玄という二人の英雄が後世にまとったパブリックイメージ、すなわち英雄像を完璧な形で凝縮し、象徴している。自らを毘沙門天の化身と信じ、利害を超えて「義」のために戦うことを信条とした謙信 9。その彼が、全軍の危機に際して危険を顧みず、自ら敵将の首を獲らんと単騎突入する姿は、まさに「軍神」の化身である。一方、緻密な戦略と冷静な判断力で武田家を率い、「動かざること山の如し」と称された信玄 2。敵の刃が眼前に迫っても床几から微動だにせず、軍配一つで凌ぐその姿は、「不動の大将」そのものである。人々は、この劇的な一瞬の攻防の中に、両雄の生き様と哲学のすべてが集約されていると感じ取り、そこに魅了されるのである 2。
  • ライバル物語の極致:
    戦国時代という群雄割拠の時代において、謙信と信玄の関係は、最も純粋で、最も高次元な「ライバル関係」として認識されている 27。互いの実力を認め合い、生涯を通じて五度も激突しながら、ついに決着がつくことはなかった 15。この長きにわたる龍虎の対決が、直接刃を交えるという形でクライマックスに達する物語は、時代や文化を超えて人々が求める普遍的なカタルシスを提供する。勝敗や領土の獲得といった現実的な結果以上に 1、二人の英雄が魂をぶつけ合うという純粋なドラマ性が、この逸話に不滅の命を与えているのである。

総括

結論として、「上杉謙信の単騎斬り込み」は、歴史的事実としてはほぼ否定されるべきものである。その根拠は、信頼性の低い軍記物語に依拠している点、当時の軍事常識から著しく逸脱している点、そして何よりも、謙信自身の一次史料がその事実について完全に沈黙している点にある。その起源は、荒川伊豆守という一武将の奮戦という「事実の核」が、後世に拡大・脚色された結果である可能性が最も高い。

しかし、この逸話は史実ではないからといって、無価値なわけではない。むしろ、歴史的事実の枠組みを超えた、文化史上の「真実」として、計り知れない価値を持っている。それは、上杉謙信と武田信玄という二人の英雄の人物像を定義し、日本人の心に「龍虎相搏つ」という鮮烈な原風景を刻み込んだ、不滅の神話なのである。八幡原の朝霧の中から現れた一騎の武者は、歴史の彼方へと消えたのではなく、我々の記憶と物語の中で、今なお太刀を振りかざし続けているのである。

引用文献

  1. 【武田信玄と上杉謙信の関係】第一次~第五次合戦まで「川中島の戦い」を徹底解説 - 歴史プラス https://rekishiplus.com/?mode=f6
  2. 信玄・謙信一騎討ちの像 /【川中島の戦い】史跡ガイド - ながの観光net https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/siseki/entry/000150.html
  3. 第4次川中島の戦い川中島八幡原の戦い https://kawanakajima.nagano.jp/illusts/4th/
  4. 第四次川中島合戦 - 箕輪城と上州戦国史 - FC2 https://minowa1059.wiki.fc2.com/m/wiki/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E6%AC%A1%E5%B7%9D%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E5%90%88%E6%88%A6
  5. 歴史・人物伝~謙信の戦い編⑧信玄の作戦を謙信が見破った! - note https://note.com/mykeloz/n/n0136ff38a5cb
  6. 『第四次川中島の戦い』陣形や布陣図を使って解説!勝敗はどっち? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/history/kawanakajimanotatakai-layout/
  7. 軍師・山本勘助のキツツキ戦法!武田信玄VS上杉謙信の川中島の戦いを振り返る【最終回】 https://mag.japaaan.com/archives/123769
  8. 第4次川中島の合戦 http://ashigarutai.com/rekishikan_kawanakajima.html
  9. 第四次川中島の戦い~武田信玄と上杉謙信の激闘~ | りんくう情報局 https://yuraku-group.jp/blog-rinku/kawanakajima/
  10. キツツキ戦法を見破る上杉謙信!伝えられる武田信玄との激闘の実態とは!?~第四次川中島の戦い~ - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/768/
  11. 妻女山 ~謙信が川中島を見下ろした本陣跡 | 戦国山城.com https://sengoku-yamajiro.com/archives/bangai_saijosan-html.html
  12. 宇佐美駿河守定行 - 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu6.php.html
  13. 武田勝頼 - 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu2.php.html
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  15. 川中島合戦はなぜ起こったのか、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは ... https://www.gakubuti.net/framart/why_happen.html
  16. 信玄と謙信の川中島合戦一騎打ちの伝説はどうして生まれたのか? - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/takeda-sengoku/legend/
  17. 上杉謙信×武田信玄「川中島の戦い」で語り継がれた一騎打ちや戦術 ... https://mag.japaaan.com/archives/229444
  18. 川中島の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  19. 新たに国宝、重要文化財をふくむ24点を展示します(秋季企画展 ... https://nbz.or.jp/?p=15394
  20. 展示のみどころ - 和歌山県立博物館 https://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/tatakau/midokoro/midokoro.htm
  21. して、新しい切り口としての川中島の戦い像の構築を試みました。 - 真田宝物館 https://www.sanadahoumotsukan.com/up_images/bok/bok_63f387fa.pdf
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  23. 歌川国芳 作 「川中嶋信玄謙信旗本大合戦之図」(武者絵) - 刀剣ワールド/浮世絵 https://www.touken-world-ukiyoe.jp/mushae/art0006360/
  24. 長野市立博物館 https://www.city.nagano.nagano.jp/museum/pdf/dayori/60.pdf
  25. 【異説】もうひとつの川中島合戦 : 紀州本「川中島合戦図屏風」の発見 | 新書マップ4D https://shinshomap.info/book/9784862481269
  26. file-88 古文書からみる上杉謙信 - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/88/
  27. なぜ川中島の戦いは12年にも及んだか【戦国史の意外な真実】 安部龍太郎 - 幻冬舎plus https://www.gentosha.jp/article/12095/