今川義元
~桶狭間で油断し奇襲に屈す~
今川義元の桶狭間敗北を再検証。油断説を覆し、周到な戦略、不運な天候、信長の奇襲が重なった結果と考察。戦国史の転換点としての意義を解説。
桶狭間の凶星:今川義元、最期の二十四時間 ― 史料と新説に基づく徹底的再構築
序章:伝説の再検討 ― 油断か、必然か
「今川義元は桶狭間で油断し、豪奢な輿に乗っていたところを織田信長の奇襲に遭い、あっけなく討たれた」― この、あまりにも有名な逸話は、戦国時代における最大の番狂わせとして、今日まで語り継がれている。海道一の弓取りと謳われた大大名が、尾張の一地方領主に過ぎなかった若き信長の前に脆くも崩れ去ったという劇的な結末は、驕れる者の末路を象徴する物語として、人々の心に深く刻み込まれてきた 1 。
しかし、この通説は果たして歴史の真実を正確に伝えているのだろうか。義元を「暗君」「愚将」と断じる評価の背景には、後世、特に江戸幕府の正統性を確立する過程で形成された「徳川史観」という強力なフィルターの存在が見過ごせない。今川家から独立した徳川家康の行動を正当化するためには、旧主であった義元とその嫡子・氏真の権威を貶める必要があった 1 。この政治的意図によって、義元が築き上げた政治的・軍事的な功績は意図的に覆い隠され、桶狭間での敗北が彼の無能さの証明であるかのように語られてきたのである。
近年の研究では、こうした旧来の義元像は大きく見直されつつある。彼はむしろ、武田信玄や北条氏康といった巨星と互角に渡り合う優れた戦略家であり、内政手腕にも長けた名君であったとする評価が主流となりつつある 4 。そして、桶狭間における彼の行動もまた、単なる油断や慢心ではなく、計算された軍事作戦の一環であったとする新説が有力視されているのだ 6 。
本報告書は、この新たな視座に立ち、従来の記録と最新の研究成果を丹念に照合する。永禄三年五月十九日という、歴史が大きく動いた「一日」に焦点を絞り、そのリアルタイムな状況、当事者たちの会話、そして心理の機微を時系列に沿って再構築する。これは、単なる合戦の解説ではない。伝説のベールを剥ぎ、一人の武将・今川義元の最期の二十四時間に、微視的歴史叙述(マイクロヒストリー)の手法で迫る試みである。油断か、必然か、あるいは抗いようのない不運だったのか。その答えを探るべく、我々は永禄三年の尾張へと時を遡る。
第一部:運命前夜 ― 永禄三年五月十八日
沓掛城着陣 ― 計算された進軍
永禄三年(1560年)五月十七日から十八日にかけて、今川義元率いる2万5千(諸説あり)と称される大軍は、尾張侵攻の最前線拠点である沓掛城(現在の愛知県豊明市)に着々と集結していた 8 。この西上作戦は、単に上洛を目指す示威行動に留まらず、織田信長の勢力下にある尾張東部を完全に掌握し、今川方の拠点である大高城や鳴海城を敵の圧力から解放するという、明確かつ周到な戦略目標に基づいていた 10 。
この時点での今川軍の戦略的優位は、揺るぎないものであった。東方の武田信玄、北条氏康とは「甲相駿三国同盟」によって固く結ばれており、後顧の憂いなく全戦力を西方の尾張に集中させることが可能だったのである 12 。軍勢の士気は高く、その威容は尾張の地を震撼させていた。
最後の軍議と先鋒の成功
五月十八日の夜、沓掛城では最後の軍議が開かれた。ここで決定された当面の作戦は、織田方に包囲され孤立していた大高城への兵糧搬入であった。この重要な任務を任されたのが、当時今川配下にあった松平元康(後の徳川家康)である 8 。元康はこの夜、見事に織田方の警戒網を突破して兵糧を城内に届け、今川軍の作戦は第一段階を完璧に成功させた 14 。
さらに、近年の新説によれば、義元自身もこの前日に大高城まで足を運び、周辺の地形や織田方の砦を自らの目で巡見していた可能性が指摘されている 6 。もしこれが事実であれば、義元は後方で安穏と構える総大将ではなく、最前線の状況把握を怠らない、極めて慎重かつ実務的な指揮官であったことを示している。彼の行動は、計画通りに、そして着実に進んでいた。
静かなる清洲城 ― 籠城か、迎撃か
一方、今川軍接近の報を受けた織田方の本拠・清洲城では、重苦しい空気が漂っていた。圧倒的な兵力差(織田軍の総兵力は約2,000から3,000)を前に、家老衆は軍議の席で一致して籠城を主張した 8 。これが当時の常識的な判断であったことは言うまでもない。
しかし、織田信長はこの籠城論を一蹴する。最も信頼性の高い史料の一つとされる『信長公記』の天理本によれば、信長は国境での迎撃を断固として主張したという 7 。だが、彼は具体的な作戦内容を一切明かさず、ただ雑談に興じるばかりであった。その不可解な態度に、重臣たちは「運の末には、知恵の鏡も曇る」と、主君の正気を疑い、嘆息しながら席を立ったと記されている 8 。
この信長の常軌を逸したかのような振る舞いは、単なる「うつけ」の奇行ではなかった。それは、自軍内に潜むかもしれない今川方の間者による情報漏洩を極度に警戒した、意図的な行動であった可能性が高い 12 。敵を欺くには、まず味方から。信長は、絶対的劣勢を覆すための乾坤一擲の奇策を胸に秘め、その決行の瞬間まで、家臣にすら真意を悟らせなかったのである。五月十八日の夜、戦いの主導権は完全に今川義元が握っていた。しかし、清洲城では、歴史を覆すための静かなる決意が固められつつあった。
第二部:激動の半日 ― 五月十九日 未明から正午
運命の日、永禄三年五月十九日の戦況は、刻一刻と劇的に変化していった。両軍の動向を時系列で整理すると、その緊張感がより鮮明に浮かび上がる。
時刻(推定) |
織田軍の動向 |
今川軍の動向 |
天候・特記事項 |
5/19 午前3時頃 |
(清洲城にて待機) |
松平元康隊、丸根・鷲津砦へ攻撃開始 |
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午前4時頃 |
信長、凶報を受け「敦盛」を舞い、出陣 |
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午前8時頃 |
信長、熱田神宮に到着。兵を集結 |
義元本隊、沓掛城を出発 |
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午前10時頃 |
信長、善照寺砦に到着 |
丸根・鷲津砦が陥落 |
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正午頃 |
信長、中島砦へ移動。出撃を決意 |
義元、おけはざま山付近で休息。戦勝報告に上機嫌 |
酷暑 17 |
午後1時頃 |
織田軍、桶狭間山へ向け密かに進軍 |
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突如、激しい雷雨となる 18 |
午後2時頃 |
雨が止む。信長、総攻撃を命令 |
豪雨による混乱の中、織田軍の接近に気付かず |
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午後2時過ぎ |
義元本陣への突入、乱戦 |
義元、応戦するも討死 |
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午前3時頃 ― 夜明けの狼煙
夜の闇がまだ深い午前3時頃、今川軍の先鋒、松平元康と朝比奈泰朝の部隊が行動を開始した。目標は、織田方が大高城を監視・封鎖するために築いた丸根砦と鷲津砦である 8 。今川方の猛攻の前に、砦を守る織田方の将兵は奮戦空しく、大将の佐久間盛重や飯尾定宗らは次々と討ち死にした 8 。夜が明ける頃には、両砦は完全に陥落。大高城は解放され、今川軍の作戦目標は、この時点でほぼ達成されたと言ってよい。
午前4時頃 ― 「敦盛」と出陣
清洲城に両砦が猛攻を受けているとの急報が届くと、信長は寝床から飛び起きた。そして、有名な幸若舞『敦盛』の一節、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」を謡いながら舞ったと伝えられる 8 。
ただし、この劇的な「敦盛」の逸話は、信長の近臣であった太田牛一が記した比較的信頼性の高い『信長公記』には見られず、江戸時代に小瀬甫庵が文学的に脚色した『信長記』に初めて登場するものである 20 。信長の人物像を英雄的に演出するための創作である可能性が高いが、死を覚悟した彼の決意を象徴する場面として、後世に広く受け入れられた。舞を終えた信長は、すぐさま具足を着けると、わずか5騎ほどの小姓を連れて居城を飛び出した。午前8時頃、熱田神宮に到着する頃には、各所から駆けつけた兵たちが合流し始めていた 8 。
午前10時頃~正午 ― 義元、勝利の祝宴と誤算
その頃、今川義元は本隊を率いて沓掛城を出発し、大高城方面へと西進。桶狭間周辺の丘陵地帯に布陣し、休息を取っていた 8 。『信長公記』によれば、義元の本陣は「おけはざま山」に置かれたとされるが、これは特定の山を指すのではなく、周辺の丘陵地帯の総称であった可能性が高い 17 。
そこへ、織田方の佐々政次、千秋四郎らが率いる約300の部隊が、戦功を焦ってか今川軍の前衛に無謀な攻撃を仕掛けてきた。しかし、大軍の前にこの試みはあっけなく粉砕され、佐々、千秋らは討ち死にする 8 。この報告と、先の両砦陥落の吉報を受け、義元は上機嫌になった。『信長公記』は、この時の義元の様子を「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし」と述べ、謡をうたわせたと記している 18 。これが、後世に伝わる「義元の油断・慢心」の最大の根拠とされる場面である。
しかし、これも別の解釈が可能である。新説では、義元はこの時点で当初の作戦目的(大高城の解放)を完遂し、三河方面への戦略的撤退を開始していたとされる 6 。その撤退行動を妨害しようとした織田方の小部隊を容易に排除できたことに満足し、作戦の成功を祝して謡をうたわせた、と考えることもできる。この場合、彼の行動は油断ではなく、計画通りの作戦遂行を喜ぶ合理的なものと見なせる。
正午頃 ― 信長、中島砦での決断と演説
信長は善照寺砦で戦況を冷静に視察した後、さらに前線の中島砦へと駒を進めた 24 。中島砦への道は、深田に挟まれた一本道で、高台にいる今川軍からは丸見えであった。このあまりに危険な行動に、家臣たちは信長の馬の轡(くつわ)をとって必死に諌めたという 6 。
しかし信長はそれを振り切り、中島砦で全軍に対し、歴史に残る演説を行う。その内容は複数の史料でほぼ一致しており、信憑性は極めて高い。
「各々よく聞け。あの武者どもは、昨夜、大高城へ兵糧を運び入れ、夜通しの行動と、今朝の鷲津・丸根攻めで疲れ切っている。対する我らは、ここまで力を温存してきた新手である。『小勢だからといって大軍を恐れるな、運は天にある』という古の言葉を知らぬか。敵が攻めかかってきたら引き、退けば追いかけろ。そうすれば必ずや敵を打ち破ることができる。手柄首は不要だ、打ち捨てよ。この戦に勝てば、家の名誉、末代までの功名となるであろう。ただ励むべし!」 12
この演説は、単なる精神論ではなかった。信長は、実際に砦を攻めたのは松平元康らの先鋒部隊であり、義元の本隊は疲労していないことを承知していたはずである 17 。しかし、彼はあえて「敵は疲弊し、我は新手」という、兵士にとって有利で分かりやすい構図を提示した。これは、絶望的な兵力差という現実を、勝機のある状況認識へとすり替え、兵士たちの恐怖心を克服させ、突撃への躊躇をなくすための、巧みな心理操作であった。「首は不要」という命令も同様に合理的である。個々の手柄争いに固執すれば、攻撃の速度が鈍る。全軍の目標を「義元本陣の壊滅」という一点に集中させるための、極めて戦術的な指示だったのである 17 。
第三部:天、動く ― 五月十九日 正午過ぎ
炎暑から一転、天候急変
この日の午前中は、梅雨時特有の蒸し暑さに見舞われていたことが史料からうかがえる 17 。甲冑を身にまとった兵士たちにとって、その消耗は想像に難くない。しかし午後1時を過ぎた頃、戦場の様相を一変させる天の采配が下される。突如として空が掻き曇り、猛烈な暴風雨が戦場を襲ったのである。『信長公記』は、この時の雨を「石水をまじえ」たと表現している 10 。これは、単なる大雨ではなく、雹(ひょう)や霰(あられ)を伴う、凄まじい雷雨であったことを示唆している。その威力は、近くの沓掛峠に立つ大木を根元からなぎ倒すほどであったという 18 。
視界なき今川本陣 ― 天運の暗転
この豪雨は、戦況を決定づける「天運」となった。風雨は北西から南東へと吹き荒れた。これは、進軍する織田軍にとっては追い風となり、桶狭間で休息する今川軍にとっては真正面から叩きつける向かい風であった 10 。
今川本陣は、叩きつける雨によって視界を完全に奪われた。即席で設けられたであろう防御用の木盾なども、この暴風の前にはほとんど意味をなさなかったと考えられる 25 。さらに決定的だったのは、今川軍の主要な遠距離攻撃手段であった火縄銃が、この雨によって完全に無力化されたことである。火縄は濡れて火がつかず、火薬も湿気てしまい、発砲は不可能となった 25 。弓矢も、これほどの豪雨の中ではその威力を著しく減衰させる。つまり、今川軍は、その圧倒的な数的優位を活かすための「射撃」という戦術的アドバンテージを、天候によって根こそぎ奪われたのである。
雨中の疾駆 ― 奇襲ルートを巡る論争
信長はこの天佑を逃さなかった。豪雨がもたらした混乱と視界不良を天然の隠れ蓑とし、全軍に義元本陣への進軍を命じた 22 。この時の織田軍の進軍ルートについては、歴史学者の間で長らく論争が続いてきた。
かつて主流であった「迂回奇襲説」は、信長が大きく回り込んで今川軍の背後を突き、丘の上から奇襲をかけたと主張する 8 。しかし、短時間で長距離を迂回することは物理的に困難であることなどから、現在ではこの説は否定的に見られている。
代わって有力となっているのが、『信長公記』の記述に比較的忠実な「正面攻撃説」である 8 。これは、中島砦からほぼ最短距離で、正面から今川軍に突撃したとする説だ。しかし、これを単なる無謀な正面突撃と解釈するのは早計である。正しくは、豪雨という「天然の煙幕」を利用し、敵に全く察知されることなく至近距離まで接近した上での「正面からの奇襲」と理解すべきであろう。桶狭間周辺は、丘陵と深田が複雑に入り組んだ地形で 23 、この土地勘に優れた織田軍は、大軍である今川軍が予測し得ないルートを縫って、密かに本陣へ肉薄することが可能だったのである 24 。
この豪雨は、単に織田軍の行動を隠蔽しただけではなかった。それは、今川軍の戦術的優位性(高地からの遠距離射撃)を物理的に無効化し、戦いの様相を、兵力数や陣形ではなく、兵士個々の士気と白兵戦の技量が勝敗を決する原始的な乱戦へと強制的に転換させた。信長は演説によって兵士の士気を最高潮に高め、目標を「義元の首」一つに絞り込んでいた。一方、突然の天変地異と奇襲に襲われた今川軍は、混乱の極みにあった 31 。この豪雨は、戦いの「ルール」そのものを書き換え、織田軍が唯一勝てる土俵、すなわち士気と覚悟が物を言う大混戦を、戦場に強制的に現出させた、最大の勝因であったと言える。
第四部:海道一の弓取り、死す ― 義元最期の攻防
午後2時頃 ― 雨上がりの号砲
午後2時過ぎ、あれほど激しく降り続いた雨が嘘のように止み、雲間から光が差し始めた。その瞬間を、信長は見逃さなかった。槍を手に取り、全軍に響き渡る大音声で下知した。
「すわ、かかれ!」 18
その号令を合図に、潜んでいた織田軍は黒い煙の塊となって、堰を切ったように今川本陣へと殺到した。雨音と風の轟きにかき消され、全くの不意を突かれた今川軍は、なすすべもなく崩れ始めた 23 。
本陣の死闘 ― 旗本の抵抗
混乱の渦中、今川義元は、自身の権威の象徴であった豪華な「塗輿」を捨て、馬で、あるいは徒歩で退却を図ろうとした 23 。彼の周囲を固めていたのは、今川家精鋭の旗本(親衛隊)であった。当初300騎ほどいたとされる彼らは、次々と押し寄せる織田軍の波状攻撃に対し、獅子奮迅の抵抗を見せた。何度も敵を押し返しながら奮戦するも、衆寡敵せず、その数は次第に減り、最後にはわずか50騎ほどになってしまったと記録されている 23 。
『信長公記』は、この本陣での凄絶な乱戦の様子を、「しのぎを削り、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす」と、極めて写実的かつ激しい筆致で描写している 23 。信長自身もこの時、馬から降り立ち、若武者たちと共に敵陣に斬り込んだという 23 。
二人の若武者 ― 義元への肉薄
敵味方が入り乱れる大混戦の中、一人の織田方武者、服部小平太(はっとりこへいた)が義元に肉薄し、一番槍をつけようと斬りかかった。しかし、「海道一の弓取り」の異名は伊達ではなかった。義元は自ら太刀を抜いてこれに応戦し、逆に小平太の膝を斬りつけた。深手を負った小平太はその場に倒れ伏してしまう 23 。
だが、その直後、もう一人の若武者、毛利新介(もうりしんすけ)が義元に組みかかった。激しい格闘の末、毛利新介はついに義元を組み伏せ、その首級を挙げたのである 23 。
最後の抵抗 ― 食いちぎられた指
義元は、その最期の瞬間、驚くべき執念を見せた。毛利新介に組み伏せられ、首を斬られるまさにその刹那、彼は新介の左手の指に噛みつき、食いちぎったと伝えられている 17 。
この逸話は、義元が公家文化にかぶれた軟弱な大名であったという後世のイメージを根底から覆すものである。彼は、死の淵にあってもなお抵抗をやめない、凄まじい気迫と闘争心を持った紛れもない武将であった。この壮絶な抵抗こそが、彼の武人としての真の姿を物語っている。今川義元、享年42 43 。彼の死は、単なる一武将の戦死ではなく、一つの時代の終わりを告げるものであった。
義元の最期は、決して「油断した愚将の無様な死」ではなかった。それは、予測不可能な奇襲を受けながらも、最後まで武将としての尊厳を失わず、壮絶に戦った末の戦死であった。旗本たちの決死の抵抗、義元自身の応戦、そして最後の瞬間まで失われなかった闘争心。これらの事実を統合する時、我々は、通説とは全く異なる、一人の武人・今川義元の実像にたどり着くのである。
結論:逸話の再構築と歴史的評価
今川義元の桶狭間における敗北を、単に「油断」や「慢心」という言葉のみで片付けることは、歴史の複雑な綾をあまりに単純化するものである。本報告書で時系列に沿って再構築したように、彼の敗因は、複数の要因が不幸にも重なり合った結果であったと結論づけるのが妥当である。
確かに、義元に油断が全くなかったとは言い切れない。大高城への兵糧入れ、丸根・鷲津両砦の攻略と、作戦が計画通りに進み、織田方の散発的な抵抗を容易に排除できたことで、勝利を確信し、一時的に警戒が緩んだ側面はあっただろう 18 。しかし、彼の行動全体は、周到に練られた軍事戦略に基づいており、それを敗因の全てとするのは適切ではない。むしろ、彼は作戦目的を達成し、戦略的撤退に移るという合理的な判断を下したその最中に、予測不可能な「ゲリラ豪雨」という抗いようのない不運に見舞われた。そして、その千載一遇の好機を天才的な嗅覚で捉え、最大限に活用した織田信長の奇襲によって敗れた、と総括すべきである 6 。
この一戦が戦国史に与えた影響は計り知れない。それは単なる一つの合戦の勝敗を超え、日本のパワーバランスを根底から覆す、決定的な転換点となった。海道一の弓取りと謳われた大大名・今川氏が当主の死によって急速に没落し 8 、それまで尾張の一地方領主に過ぎなかった織田信長が、天下統一への道を力強く歩み始める出発点となったのである 13 。同時に、この戦いは今川家の束縛から松平元康(徳川家康)を解放し、彼が三河で独立を果たす契機をもたらした。後に信長と結ばれる「清洲同盟」の布石が打たれた点においても、その歴史的意義は極めて大きい 8 。
桶狭間の戦いは、史実としてだけでなく、弱者が強者を打ち破る「ジャイアントキリング」の象徴として、また、運命の残酷さと英雄の誕生が交錯する人間ドラマとして、後世の軍記物や講談、そして現代の様々な創作物に至るまで、繰り返し語り継がれてきた 23 。本報告書で試みたように、史料を丹念に読み解き、多角的な視点からその一日を再構築する作業は、「驕れる者は久しからず」という単純な教訓の奥にある、より深く、より人間的な歴史の真実を我々に示してくれる。それは、人間の知略、勇気、そして時にはそれに介在する抗いようのない天運が織りなす、壮大な物語なのである。
引用文献
- 戦国武将で最低評価を受けた今川義元 愚将ではなく政治力のある賢将として再評価! - 歴史人 https://www.rekishijin.com/37086
- 今川義元の敗死後に没落していった名門今川家。気になるその子孫は? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/377
- 今川義元はどんな人物? 大河ドラマ『どうする家康』を歴史家が読み解く! - シンクロナス https://www.synchronous.jp/articles/-/1176
- 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第2回【今川義元】文武に優れた武将の居館の全貌は未解明!? - 城びと https://shirobito.jp/article/1370
- 『どうする家康』今川義元、本当はどんな人物だった? 本や漫画から考察 https://realsound.jp/book/2023/03/post-1289181.html
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- 桶狭間合戦 ― 織田&今川の進軍ルート - 歴旅.こむ - ココログ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-87d8.html
- 『桶狭間合戦』でなぜ信長は勝利したか? 日本史上屈指の謎に迫る! - シンクロナス https://www.synchronous.jp/articles/-/1181
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- 「桶狭間の戦い」異聞。たったひとりで出陣した信長を追った5人の側近たちの悲しきその後 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1021568/2
- 信長公記(24)今川義元の最期|だい - note https://note.com/daaai_2023/n/nfbe1ad40d490
- マイナー武将列伝・服部春安 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/busho/oda_014.htm
- 今川義元に一番槍を付けた服部小平太はその後どうなった?津島市雲居寺 https://sengokushiseki.com/?p=6903
- 今川義元 - 著名人のお墓 http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/04-12.html
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- (桶狭間の戦い)孫子の兵法と日本の戦国時代:信長の戦略を分析する No.01|shishinnet - note https://note.com/shishinnet/n/n5a2c4d8f3b07
- 桶狭間の戦いとは/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16973_tour_054/
- 学研新書 新説 桶狭間合戦―知られざる織田・今川 七〇年戦争の実相 - 紀伊國屋書店 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784054039094
- 徳川家康、17歳で見せた「桶狭間」直後の"驚く決断" 想定外の出来事にもあわてず、状況を鋭く読む - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/646665?display=b
- 三大奇襲を最新研究で読み解く – 桶狭間の奇襲は本当か? 厳島の勝利は神懸かりだったのか? 河越夜戦は伝説通りだったのか? - 戦国リサーチノート by 攻城団 https://research-note.kojodan.jp/entry/2025/05/20/200219
- 軍記物 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E8%A8%98%E7%89%A9