最終更新日 2025-10-14

伊達政宗
 ~片目失い母に毒盛られ怪談~

伊達政宗の母による毒殺未遂事件は、家中の統一と秀吉への弁明のため政宗が仕組んだ政治劇か。弟は殺害されず出家、母も共謀したという新説が一次史料から示唆される。

伊達政宗「母君毒殺未遂」事件の真相 ― 貞山公治家記録の記述と一次史料の乖離から読み解く一大政治劇

序章:天正十八年、会津黒川城の緊張

天正十八年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えていた。関白・豊臣秀吉による天下統一事業は最終段階に入り、関東に勢力を張る北条氏を討伐するための大動員令、すなわち小田原征伐が発令された 1 。この命令は、天皇の権威を背景とした絶対的なものであり、東日本の諸大名にとっては、豊臣政権への恭順か、滅亡かの二者択一を迫る踏み絵であった 3

この巨大な政治的うねりのなか、奥州に「独眼竜」の勇名を轟かせていた伊達政宗(当時24歳)は、人生最大の岐路に立たされていた 5 。彼は前年、秀吉が大名間の私的な戦闘を禁じた「惣無事令」を公然と破り、会津の芦名氏を滅ぼして南奥州に広大な版図を築き上げていた 6 。これは秀吉の権威に対する明確な挑戦であり、小田原への参陣が遅れていることと相まって、伊達家がいつ取り潰されてもおかしくない絶体絶命の状況を招いていた 6 。秀吉の激しい怒りは奥州にも伝わり、政宗の首が飛ぶ可能性さえ現実味を帯びていたのである 8

この国家レベルの危機に加え、伊達家の内部にも不協和音が響いていた。政宗の弟であり、容姿端麗であった伊達小次郎を新たな当主として擁立しようとする勢力の存在が囁かれ、家臣団が政宗派と小次郎派に分裂しかねないという不穏な空気が漂っていた 6 。母である義姫(当時は米沢城の東館に住んでいたことから「お東の方」と呼ばれていた 10 )が、幼少期に疱瘡で片目を失った政宗を疎み、弟の小次郎を溺愛しているという風説も、この対立構造に真実味を与えていた 13

この伊達政宗にまつわる最も劇的な逸話、「母による毒殺未遂事件」は、単なる家庭内の悲劇として語ることはできない。それは、「外部からの強大な政治的圧力(秀吉)」と、「内部の権力構造の脆弱性(家中の分裂)」という二つの存亡の危機が同時に顕在化した、極めて政治的な状況下で発生した事件であった。したがって、この逸話の真相を解明することは、戦国末期の複雑な情勢の中で、伊達家がいかにして生き残りを図ったか、そして伊達政宗という武将がいかなる知略と非情さをもってその難局に立ち向かったかを理解する上で、不可欠の鍵となるのである。

第一部:記録された惨劇 ― 『貞山公治家記録』に基づく時系列再現

伊達家の公式史書である『貞山公治家記録』には、この一連の事件が、息をのむような緊迫感をもって記されている。それは、一人の若き当主が背負った過酷な運命と、苦渋の決断の物語として、後世に語り継がれることとなった。

第一章:出陣前夜の凶宴(天正十八年四月五日)

天下の趨勢を決する小田原への出陣を目前に控えた天正十八年四月五日、政宗は居城である会津黒川城(後の会津若松城)において、母・義姫から陣立ちの祝いの宴に招かれた 5

その宴席で、母が手ずから用意したとされる膳に政宗が箸をつけた、まさにその時であった。彼は突如として激しい腹痛に襲われ、食べたものをことごとく吐き出したという 14 。幸いにも、事前に解毒剤を用意していたためか、あるいはすぐに適切な処置が施されたためか、政宗は九死に一生を得たとされる 6 。一方で、食事の前に御膳番の者が毒の混入を見抜き、政宗は膳に手を付けることなくその場を退出した、とする記述も存在する 11

いずれの筋書きであれ、この凶行の首謀者は母・義姫であり、その動機は、秀吉の怒りを買って伊達家を危機に陥れている政宗を廃し、寵愛する次男・小次郎に家督を継がせるためであったとされている 14 。さらにその背後には、義姫の実兄であり、山形を治める最上義光の唆しがあったとも記されている 6 。すなわち、義光が妹を動かし、甥の小次郎を当主に据えることで、伊達家に対する外戚としての影響力を強めようとした、というのである 18

第二章:苦渋の決断(天正十八年四月七日)

事件から二日後の四月七日。毒殺の企てが実の母によるものと知った政宗は、激しい怒りと深い苦悩に苛まれた 6 。このままでは、自らが小田原へ出陣した隙に、小次郎を担ぐ勢力が決起し、伊達家は内乱状態に陥りかねない。将来の禍根を断ち、家中の動揺を鎮めるためには、断固たる処置が必要であった 14

しかし、首謀者たる母を罰することはできない。「実の母を誅するわけにはいかぬ」という儒教的な倫理観、あるいは肉親への情から、政宗は非情なる決断を下す 6 。彼は弟の小次郎を自らの前に呼び出すと、涙を流しながらも、その手で斬殺したと伝えられている 6 。この時、小次郎の傅役(もりやく)であった小原縫殿助(おばらぬいのすけ)も、主君に連座して共に手討ちにされた 14

第三章:母の出奔(同日夜)

最愛の息子・小次郎が殺害されたその日の夜、義姫は会津黒川城を密かに抜け出し、実家である山形の兄・最上義光のもとへと逃げ帰った(出奔した)と、『貞山公治家記録』は結んでいる 6 。これにより、伊達家の母と子の絆は完全に断絶し、事件はひとまずの終息を見た、とされている。

この公式記録が描く物語は、極めて論理的かつ劇的である。それは、政宗の非情な行為(弟殺し)を、「母の裏切りに対する正当防衛」であり、かつ「家中の分裂を防ぐための苦渋の決断」であったと位置づけるための、非常に完成度の高い物語構造を持っている。全ての要素が、政宗の行動を正当化し、彼を悲劇の英雄として描くために、巧みに配置されているのである。しかし、この完璧すぎる物語には、後世の研究によって、その根幹を揺るがす重大な矛盾が次々と発見されることになる。

第二部:伝説への懐疑 ― 矛盾を孕む史料群

『貞山公治家記録』が語る衝撃的な物語は、長らく定説として受け入れられてきた。しかし、近代的な歴史研究が進むにつれて、この公式記録の記述に疑義を投げかける、同時代の史料が発見され始めた。それらは、記録された惨劇の裏に、全く別の真実が隠されている可能性を強く示唆している。

第四章:歴史書の信憑性

まず、この毒殺未遂事件を詳細に伝える最大の典拠である『貞山公治家記録』そのものの性格を理解する必要がある。この史料は、事件から実に113年もの歳月が流れた元禄十六年(1703年)、第四代仙台藩主・伊達綱村の治世に完成したものである 6 。これは、事件の目撃者や関係者が記した一次史料ではなく、後世の編纂者が様々な記録を取捨選択して作り上げた二次史料に他ならない。

藩の公式史書として、その最大の目的は、藩祖である政宗の偉業を顕彰し、その生涯における全ての行動を正当化することにあったと考えられる 10 。そのため、政宗にとって不都合な事実は改変・隠蔽され、彼の決断を英雄的なものとして見せるための物語が創作された可能性は、常に念頭に置かなければならない。

第五章:決定的な証拠 ― 虎哉宗乙の書状

この公式記録の信憑性を根底から覆すことになったのが、政宗の師であった臨済宗の禅僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)が残した一通の手紙である。近年発見されたこの手紙は、事件から四年半後の文禄三年(1594年)十一月二十七日付で、虎哉和尚が友人の大有康甫(だいゆうこうほ)和尚に宛てたものであった 6

その手紙には、驚くべき一文が記されていた。「政宗公の北堂(母堂)が、 今月の四日の夜に 、最上に向かって出奔されました。お聞きおよびですか」 17 。これは、事件直後の天正十八年四月七日に出奔したとする『貞山公治家記録』の記述 14 と、真っ向から対立する内容である。さらに、出奔した場所も会津黒川城ではなく、岩出山城(宮城県)からであったことも示唆されている 14

事件から百年以上後に編纂された公式記録と、事件とほぼ同時代に、当事者に極めて近い人物が私的に記した手紙とでは、歴史史料としての信憑性は、言うまでもなく後者が圧倒的に高い 5 。この手紙の発見は、義姫が息子を毒殺しようとした後、少なくとも四年半もの間、何事もなかったかのように政宗の傍らに留まり続けていたという、極めて不自然な状況を浮かび上がらせた 6 。これにより、『貞山公治家記録』が描いた「毒殺未遂→弟殺害→母の出奔」という因果関係で結ばれた物語は、その前提から崩壊することになったのである。

第六章:断絶しなかった親子の絆

もし毒殺未遂が事実であったならば、政宗と義姫の母子関係は修復不可能なほどに断絶していたはずである。しかし、二人の間には、事件があったとされる天正十八年以降も、親子の情愛に満ちた手紙が交わされ続けていたことが確認されている 6

その最も象徴的な例が、文禄二年(1593年)、政宗が秀吉の命令で朝鮮に出兵(文禄の役)していた時の逸話である。義姫は、遠い異国の戦地にいる息子の身を案じ、無事の帰還を祈る和歌と、お小遣いとして三両の現金を添えた手紙を送っている 6

あきかぜの たつ唐舟に 帆を揚げて 君かえりこん 日のもとの空

(秋風が吹く頃、異国の船に帆を上げて、あなたが日本の空へと帰ってきますように)

この母からの便りに、政宗は深く感激した。彼は返信の中で「天道も恐ろしいほどの感謝」と記し、母への土産を探して方々を走り回った末、ようやく朝鮮木綿を見つけて送ることを報告している 6 。そして手紙の最後には、「もう一度、母上様にお目にかかりたく、切に願っております(ひとたび拝み申したく念望にて候)」と、母を慕う気持ちを繰り返し綴っているのである 6 。これは、数年前に自分の命を狙った相手に示す態度とは到底考えられない。

虎哉和尚の手紙が事件の「時期」に関する矛盾を暴いたとすれば、これらの親密な書簡は、事件の根底にあるべき「動機(憎悪)」そのものが存在しなかったことを強く裏付けている。これらの史料は、我々に問いかける。「事件は本当にあったのか?」という問いから、さらに踏み込んだ「では、なぜこのような物語が作られ、語り継がれる必要があったのか?」という、より本質的な問いへと、我々の視点を移行させるのである。

第三部:再構築される真相 ― 捏造された悲劇

矛盾を孕む史料群は、我々に一つの大胆な仮説を提示する。すなわち、「母による毒殺未遂と、それに続く弟の斬殺」という一連の事件は、史実ではなく、伊達政宗が自らの政治的危機を乗り切るために、周到に計画し、実行した**一大政治劇(自作自演)**であった、という可能性である。

表1:事件経過の比較対照表

この仮説を検証するにあたり、まず『貞山公治家記録』が語る「公式の物語」と、一次史料から再構築される「研究上の事実」との間の決定的な乖離点を、以下の表で明確にしておきたい。

項目

『貞山公治家記録』による記述(公式記録)

虎哉宗乙の書状等に基づく再構築(研究)

事件発生日

天正18年(1590)4月5日

(毒殺未遂事件自体が捏造の可能性)

小次郎殺害日

天正18年(1590)4月7日

殺害されず、出家・逃亡した可能性(後述)

母・義姫の出奔日

天正18年(1590)4月7日夜

文禄3年(1594)11月4日

出奔時の居城

会津黒川城

岩出山城

事件後の母子関係

決裂・断絶

良好(書簡のやり取りが継続)

この表が示す通り、両者の記述は細部が異なるというレベルではなく、物語の根幹において全く相容れない。この矛盾こそが、事件の真相を探る出発点となる。

第七章:政宗による「自作自演説」

事件が政宗による捏造であったと仮定した場合、その動機は大きく二つ考えられる。それは、内部と外部、双方に向けられた極めて合理的な政治的計算に基づいていた。

第一の動機:家中の統一

最大の動機は、伊達家内部に燻る対立の火種を、自らの手で完全に消し去ることにあった。政宗は事件直後、側近中の側近である鬼庭石見守綱元(後の茂庭綱元)に宛てた書状の中で、弟を手にかけた理由を「将来、内乱が起こることを未然に防ぐためであった」と、率直に吐露している 10 。これは、弟・小次郎を旗印として担ぎかねない勢力の芽を、小田原へ出陣する前に完全に摘み取り、自らの留守中の伊達家を一枚岩にするための、冷徹な決断であったことを示唆している。

さらに注目すべきは、政宗がこの書状の中で「この胸の内は、誰にでも話せることではない。そなたには話しておく。しかし、そなたの方でうまく斟酌して、良いと思うことは世間へ口説き広めてほしい」と、綱元に情報の流布を依頼している点である 10 。これは、政宗が自らの行動を正当化するための「公式見解」を、意図的かつ計画的に広めようとしていた動かぬ証拠であり、事件全体が、家臣団と世間を納得させるための壮大な芝居であったことを強く物語っている。

第二の動機:秀吉への弁明

もう一つの動機は、天下人・豊臣秀吉に対するものであった。前述の通り、惣無事令違反と小田原への遅参は、伊達家取り潰しに直結しかねない致命的な失態であった。この遅参の言い訳として、「母に毒を盛られ、家督争いの火種となる弟を誅殺せざるを得ないという、家中の一大事が発生したため、出発が遅れた」という筋書きを用意したのではないか、という説である 6

実際にこの言い訳を秀吉に伝えたかどうかは定かではないが、政宗のその後の行動は、この説を裏付けるかのように演劇的であった。小田原に到着した政宗は、白麻の死装束を身にまとい、秀吉の前に進み出たのである 6 。これは、自らの命を差し出す覚悟があることを示す、計算され尽くしたパフォーマンスであった。秀吉は、杖で政宗の首をつつきながら「もう少し遅ければ、ここが危なかったぞ」と言い放ったと伝えられるが、その大胆な演出を気に入り、結果的に政宗を許している 6 。このような政治的演出を得意とする政宗にとって、毒殺未遂事件を、自らの窮地を救うためのアリバイ工作として利用することは、十分に考えられることであった。

第八章:消えた弟・小次郎の行方

この自作自演説を裏付ける、さらなる謎が存在する。それは、政宗に斬殺されたはずの弟・小次郎の、その後の消息である。

現在の東京都あきる野市に位置する古刹・大悲願寺には、驚くべき記録が残されている。同寺の第十五代住職を務めた「秀雄(しゅうゆう)」という高僧が、実は伊達政宗の弟であった、というのである 6 。これが、公式記録上は死んだはずの小次郎その人であった可能性が、研究者の間で有力視されている。つまり、政宗は弟を殺害したと見せかけ、実際には密かに城から逃し、仏門に入らせてその命を救ったというのである。

この説を補強するのが、大悲願寺に現存する一通の書状、『伊達政宗白萩文書』である 25 。これは元和九年(1623年)頃、政宗が寺に宛てたもので、「以前お伺いした際に、お庭の白萩が大変見事でした。あの時は言い出せませんでしたが、ぜひ一株お分けいただきたい」という趣旨が、丁寧な言葉で綴られている 33 。わざわざ飛脚を立ててまで萩を所望するこの手紙は、単なる社交辞令とは考えにくい。むしろ、そこに住職「秀雄」として静かに暮らす弟との、穏やかで心温まる交流が続いていたことを、何よりも雄弁に物語っているのではないだろうか 30

第九章:「鬼姫」から「共謀者」へ ― 義姫像の再評価

この一連の政治劇が、もし政宗の自作自演であったとすれば、母・義姫の役割もまた、根本から見直されなければならない。彼女は息子を殺そうとした「鬼姫」ではなく、伊達家の安泰という共通の目的のために、自らが「悪女」の汚名を着ることを覚悟の上で、息子の計画に協力した「共謀者」であった可能性が浮かび上がってくる 10

義姫の本来の人物像は、記録に残る他の逸話から窺い知ることができる。彼女は、息子を毒殺するような冷酷非情な女性ではなく、むしろ平和を希求し、家族を愛する、気丈で行動的な女性であった。天正十六年(1588年)の大崎合戦では、兄・最上義光と息子・政宗の軍勢がまさに激突しようとする戦場の真ん中に、輿に乗って乗り込み、80日間にもわたってそこに居座り続け、両軍を強制的に和睦させたという逸話は、彼女の胆力と平和への強い意志を物語っている 11 。また、実家である最上家が危機に陥れば、政宗に援軍を要請する手紙を送るなど、常に伊達・最上両家の架け橋として奔走していた 11

このような人物が、我が子を毒殺しようと考えるだろうか。むしろ、伊達家存続のためには、小次郎という存在を政治的に「抹殺」し、家中の結束を固めるしかないという息子の非情な計画を理解し、その成功のために、自ら悪役を演じきったと考える方が、彼女の本来の姿に合致するように思われる。

この事件は、伊達政宗という人物の、冷徹な合理性と、人間的な情愛が同居する複雑な個性を象徴している。彼は、家の存続という大目的のためには、弟を社会的に抹殺し、母に汚名を着せるという非情な策を実行する。しかし同時に、殺したとされる弟とは後年まで穏やかに交流を続け、汚名を着せた母とは愛情のこもった手紙を交わす。これは、彼の行動が憎悪や嫉妬といった個人的感情ではなく、「公人としての役割」と「私人としての本音」を完全に分離して実行できる、極めて高度な政治的知性に基づいていたことを示している。戦国大名として家を守るという公的な「役割」を果たすためには、非情な物語を演じきる必要があった。しかし、個人としては、弟や母への情愛を決して失ってはいなかったのである。

結論:語り継がれる逸話の裏に隠された、戦国を生き抜くための非情なる策略

「実母による毒殺未遂」という、伊達政宗の生涯で最も衝撃的なこの逸話は、今日では史実ではなく、彼自身が自らの政治的危機を乗り切るために創り出した、一大政治劇であった可能性が極めて高いと結論付けられる。それは、家中に燻る弟擁立の動きを一掃し、天下人・豊臣秀吉への遅参を弁明するという、複数の国家的・個人的な課題を同時に解決するために、緻密に計算され尽くした、非情なるパフォーマンスであった。

この壮大な策略は、政宗一人の冷徹な判断力だけで成し遂げられたものではない。自ら「悪女」の汚名を被ることを受け入れた母・義姫の深い覚悟と、歴史の表舞台からその姿を消し、僧として静かに生きることを受け入れた弟・小次郎の協力と犠牲なしには、決して成り立たなかったであろう。それは、伊達家という一つの家族が、その存続という至上命題のために、三者三様の役割を演じきった、悲しくも壮絶な物語でもあった。

最終的に、この逸話は我々に、歴史記録、とりわけ時の権力者によって編纂された公式史書が、必ずしも客観的な事実を伝えるものではなく、政治的な意図によって構築された「物語」であることを示す好例となっている。劇的な逸話の裏に隠された政治的文脈や、一見些細に見える史料の矛盾を丹念に読み解くことによってのみ、我々は歴史の深層に触れ、そこに生きた人々の真の姿に迫ることができるのである。伊達政宗「母君毒殺未遂」事件は、まさにその歴史探求の醍醐味と重要性を、現代に生きる我々に教えてくれるのである。

引用文献

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  2. 主な収蔵品 11 伊達政宗に関する資料(2) - 仙台市 https://www.city.sendai.jp/museum/shuzohin/shuzohin/shuzohin-19.html
  3. 決断の火花・秀吉と政宗 2016年12月11日 - 農業協同組合新聞 https://www.jacom.or.jp/column/2016/12/161211-31589.php
  4. 豊臣秀吉政権下の政宗と愛姫 - 福島県田村郡三春町 https://miharu-megohime.com/read/read07.php
  5. 明かされる政宗公と母義姫の 知られざる深い絆 https://miyagi-kenminkyosai.jp/img/rekishi/pdf/part2.pdf
  6. 実母による伊達政宗毒殺未遂事件の真相/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/17901/
  7. 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
  8. 伊達政宗の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/29927/
  9. 秀吉の天下統一に暗雲!家康を翻弄した東北の乱 東北で一揆が勃発、家康はどう対応したのか https://toyokeizai.net/articles/-/701309?display=b
  10. 最上義光歴史館/「続・伊達政宗毒殺未遂事件の真相」 佐藤憲一 https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=534972
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  13. 最強悪女伝説!?伊達政宗の母・義姫が、80日間戦場で居座り続けた理由 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/80638/
  14. 実母による「政宗毒殺計画」その真相と伊達兄弟の謎を紐解く - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/170041/
  15. まさかの自作自演!?実母・義姫による伊達政宗 毒殺未遂事件、実は捏造されたものだった? https://mag.japaaan.com/archives/214592
  16. 最上義光歴史館 https://mogamiyoshiaki.jp/m/?p=log&l=545021
  17. 伊達政宗の母 義姫 - 最上義光歴史館 https://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=120067
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  27. 切腹を命じかねないほど怒った豊臣秀吉にどう弁明する?<死に装束姿>を選んだ伊達政宗から見る日本史上最高レベルの「臨機応変力」 - 婦人公論 https://fujinkoron.jp/articles/-/6702?page=4
  28. 「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末 https://sengoku-his.com/999
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  30. 伊達政宗の母と「白萩」|岡田耕 - note https://note.com/okadakou/n/n26315ea3fc5d
  31. 小田原参陣前、伊達政宗は弟・小次郎を殺してはいなかった!? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/6441?p=1
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  33. 伊達政宗、小田原参陣と大悲願寺【戦国時代】 https://rekipho.jugem.jp/?eid=15
  34. 郷土の古文書 - 「その2 伊達政宗の白萩所望状」 - あきる野市 https://www.city.akiruno.tokyo.jp/cmsfiles/contents/0000001/1225/sono02.pdf
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  36. 義姫~伊達政宗の生母はどんな女性だったのか - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4107