最終更新日 2025-10-14

千利休
 ~利休木像城門に置き決裂の火種~

茶人・千利休は大徳寺山門に木像を置き秀吉の怒りを買う。堺追放、木像磔刑を経て切腹を命じられる。権力に屈せず美学に殉じた茶聖の悲劇的な最期を辿る。

千利休と木像事件:権力と文化の衝突、その詳細な時系列と深層心理

序章:金毛閣、楼上に立つ影

天正17年(1589年)、京の紫野に佇む大徳寺は、一つの大きな節目を迎えていました。応仁の乱の戦火によって永らく荒廃していたその三門(山門)が、茶人・千利休の莫大な私財の寄進によって、壮麗な二層の楼門として再建されたのです 1 。この楼門は「金毛閣」と名付けられ、禅宗寺院の威容を新たに示す象徴となりました 4

この再建事業における利休の功績は、計り知れないものでした。利休の禅の師であり、当時大徳寺の住持であった古渓宗陳(こけいそうちん)は、その多大な恩義に報い、利休の徳を後世に永く伝えるため、一つの案を利休に示します。それは、金毛閣の楼上に利休の木像を安置することでした 5 。一説には、利休は当初この申し出を固辞したものの、古渓の熱心な勧めにより、ついに承諾したと伝えられています 7

こうして楼上に安置された木像は、単なる記念の像ではありませんでした。それは、頭巾をかぶり、杖を手にし、そして足元には雪駄(せった)を履いた、等身大の立像でした 4 。この「雪駄履き」という、日常的でありながらも特定の意味合いを帯びた姿が、後に天下人の逆鱗に触れることになるとは、この時点では誰も予想していませんでした。

木像が安置されてから天正19年(1591年)の年明けまでの約二年間、金毛閣に立つ利休の木像は、大徳寺を訪れる人々の目に触れながらも、何ら問題視されることなく、静かに時を過ごしていました 10 。それは利休の功績を讃える静かな記念碑であり、後の悲劇の火種が、まだ燻ることなくそこに置かれていたのです。

しかし、この木像の存在は、単なる文化的功績の顕彰に留まるものではありませんでした。城郭や寺社への寄進は、当時の有力者が自らの富と権威を示す常套手段でしたが、利休の木像は寄進者の名を刻んだ石碑とは次元が異なります。それは利休個人の「姿」そのものを、天皇や関白といった最高権力者も往来する公的な空間の、物理的に最も高い場所、すなわち「楼上」に永続的に刻み込む行為でした。これは、茶の湯という文化領域において利休が築き上げた絶対的な権威が、豊臣秀吉の政治的権威と並び立つかのような視覚的象徴となり得るものでした。豪華絢爛を好み、自らの権威を誇示することに生涯を捧げた秀吉にとって、この「文化の王」の像が自らの頭上に存在することは、潜在的に看過しがたい侮辱であり、自身の絶対的権威に対する挑戦と映る危険性を、当初から内包していたのです。事件が二年後に突如として浮上したという事実は、木像そのものが直接の原因ではなく、利休を政界から排除しようと画策する勢力にとって、周到に選ばれた「引き金」であったことを強く示唆しています。

第一章:運命の年、天正十九年 ― 忍び寄る亀裂

天正19年(1591年)の幕開けは、千利休にとって運命の転換点となりました。年が明けて間もない1月22日、豊臣政権内における最大の理解者であり、利休を常に庇護してきた豊臣秀吉の弟、大納言・豊臣秀長が病によりこの世を去ります 7 。温厚篤実な人柄で知られた秀長は、過激に振れがちな兄・秀吉の行動を抑制し、武断派と吏僚派、古参の家臣と新興の側近といった政権内の様々な勢力の間に立つ、まさに「良識」の重しでした。

その最後の歯止めが失われたことで、豊臣政権の権力構造は静かに、しかし決定的に変質を始めます。これまで水面下で利休の増大する影響力に警戒心を抱いていた石田三成を中心とする奉行衆(吏僚派)が、その勢力を一気に拡大させる好機を得たのです 11 。彼らにとって、茶の湯を通じて諸大名と緊密な関係を築き、時には政治的な発言力さえも持つ利休は、政権運営の主導権を握る上で障害となる存在でした。

秀長の死を待っていたかのように、事態は動き出します。京都所司代の任にあった前田玄以が、大徳寺金毛閣に安置された利休の木像の一件を、正式に秀吉へ報告したのです 13 。玄以は三成ら奉行衆に近い人物であり、この報告が単なる事実の伝達ではなく、利休を失脚させるための組織的な計画の一環であった可能性は極めて高いと考えられます。

折しもこの時期、秀吉は奥州仕置の戦後処理や、来るべき朝鮮出兵の構想を練るため、京を離れていることが多くありました 14 。権力者の不在は、政治的な策動の温床となります。秀吉がいない京都では、「利休の木像は不敬である」との言説が奉行衆を中心に計画的に流布され、利休を断罪せざるを得ない「空気」が巧みに醸成されていきました。公家・吉田兼見の日記『兼見卿記』には、この木像の件で大徳寺の長老衆が召喚され尋問を受けたことや、利休の妻子が処刑されたといった(事実ではない)不穏な噂が飛び交っていたことが記されており、当時の京都の緊迫した状況を伝えています 11 。秀長の死は、単に利休が後ろ盾を失ったという個人的な問題に留まりませんでした。それは豊臣政権内部の微妙なパワーバランスを崩壊させ、深刻な派閥抗争を表面化させる引き金となったのです。利休木像事件は、この権力闘争の最初の、そして最も象徴的な犠牲者を生むことになります。

第二章:雷鳴 ―「関白殿、御腹立ち」

前田玄以らからの報告を受け、大徳寺山門の木像の存在を知った豊臣秀吉の怒りは、常軌を逸したものでした。奈良・興福寺の僧、多聞院英俊が記した当代随一の記録『多聞院日記』には、その様子を「以外(いげ)に関白殿御腹立(おんはらだち)」と記しています 14 。これは「想像を絶するほど関白殿がお怒りになった」という意味であり、その激昂がいかに尋常でなかったかを物語っています。秀吉は激怒のあまり、即座にその木像を「ハタ物ニ(磔に)せよ」と厳命したと伝えられています 14

秀吉が利休に突きつけた罪状は、表向きには「不敬」の一言に尽きました。天下人である秀吉自身はもちろん、時には天皇さえもが通行する大徳寺の山門、その楼上に臣下である利休の木像を置き、その下をくぐらせる行為は、武家社会の根幹をなす厳格な上下関係を根底から覆す、許されざる侮辱と見なされたのです 8 。主君が家臣の足元を通過するなど、当時の価値観では到底あり得ないことでした。

しかし、秀吉の怒りの本質は、さらに深い層にありました。問題となった木像が履いていた「雪駄」が、事態をより深刻なものにしたのです。雪駄の素材である牛皮は、当時、殺生を禁じられた仏教思想の影響や社会的な偏見から、被差別的な身分とされた人々が扱うものとされていました 8 。その履物を履いた像の真下を、神聖視されるべき天皇や、それに準ずる関白が通ることは、単なる身分秩序の逆転に留まりません。それは、高貴な存在そのものが穢されるという、より根源的で宗教的な侮辱行為と受け取られたのです 8

この激しい怒りは、単なる個人的な感情の発露ではありませんでした。安土城の天主が、居住空間としてよりも、天下人の権威を民衆に「見せる」ための政治的装置であったように、桃山時代の建築における空間の上下配置は、社会の身分秩序を可視化する極めて重要な意味を持っていました 17 。その秩序の頂点に君臨する秀吉にとって、公的な建築物である大徳寺山門の「上」という最も権威ある空間を、臣下である利休の像が占拠することは、自らの空間支配権、ひいては天下人としての政治的権威そのものに対する侵犯行為に他なりませんでした。

さらに言えば、この事件は、秀吉と利休の間に横たわる、より本質的な価値観の対立が爆発した瞬間でもありました。黄金の茶室に象徴されるように、富と権力を豪華絢爛に示すことで支配を確立しようとした秀吉に対し、利休の「侘び茶」は、不完全さや質素さの中にこそ真の美を見出す、全く逆の価値観を提示しました 20 。利休が創り出す黒樂茶碗や、わずか二畳の茶室「待庵」といった「不足の美学」が、大名たちの間で至上のものとして尊ばれるようになると、それは秀吉が示す「黄金の価値観」を相対化し、その権威を内側から揺るがす力を持つようになります。秀吉は、自らの権威の根幹を脅かしかねない利休の強大な文化的影響力を、その象徴である木像ごと物理的に破壊する必要に迫られたのです。秀吉の雷鳴のような怒りは、計算された政治的パフォーマンスであり、自らの絶対的権威を再確認するための儀式でもありました。

第三章:破局への秒読み ― 堺追放から木像磔刑まで

秀吉の怒りが天下に示された後、事態は破局へ向けて急速に転がり始めます。利休の運命を決定づけた、天正19年2月13日から26日にかけての息詰まるような日々を、時系列で追うことができます。

二月十三日:堺への追放命令

秀吉の勘気は、ついに具体的な処分として下されました。利休に対し、京都からの追放と、故郷である堺の自邸での蟄居が命じられたのです 11 。この命令が下るや、昨日まで利休の茶室に列をなしていた多くの大名たちは、天下人の怒りを恐れ、蜘蛛の子を散らすように利休のもとから去っていきました。誰もが保身に走り、利休との関係を断とうとする中、ただ二人、その流れに敢然と抗った武将がいました。「利休七哲」の筆頭格であった細川忠興と古田織部です。彼らは、自らの身に危険が及ぶことを顧みず、堺へと下る利休を淀の渡しまで見送り、師との最後の別れを惜しんだと伝えられています 22 。この逸話は、当時の大名たちが感じていた恐怖と、それでもなお師への忠義を貫こうとした者たちの覚悟を、鮮やかに対比させています。

二月二十五日:一条戻橋の惨劇 ― 木像の磔刑

利休が堺に蟄居してわずか12日後、京では前代未聞の出来事が起こりました。大徳寺金毛閣から引きずり下ろされた利休の木像が、京の処刑場として知られた一条戻橋のたもとで、磔(はりつけ)にされたのです 11 。生身の人間ではなく、その姿を模した木像を処刑するという行為は、同時代の人々にとっても衝撃的でした。『時慶記』はこれを「不思議ノ事也」と評し、『伊達家文書』は「誠々前代未聞之由(まことにまことにぜんだいみもんのよし)」と、その異常さを驚きをもって記録しています 14

この処刑は、秀吉による計算され尽くした政治的スペクタクルでした。磔にされた木像の傍らには、利休の罪状を詳細に書き連ねた高札が立てられ、その見せしめは公然と行われました。京中の貴賤を問わず、あらゆる身分の人々がこの異様な光景を一目見ようと際限なく押し寄せ、一条戻橋は終日、見物人でごった返したといいます 14 。これは、単なる処罰ではありません。豊臣政権に逆らう者は、肉体的な死を迎える前に、まずその社会的生命、すなわち名誉と権威が公衆の面前で徹底的に凌辱され、抹殺されるという恐怖を、全ての大名と民衆の心に深く刻み込むための、高度な心理戦でした。

二月二十六日:京への召還と厳戒態勢

木像が磔にされた翌日、堺の利休のもとに、再び秀吉からの命令が下ります。京への召還命令でした 11 。しかし、それは決して赦免を意味するものではありませんでした。京に戻った利休が入れられたのは、聚楽第近くに構えていた自邸でしたが、その屋敷は異様な雰囲気に包まれていました。

利休を師と仰ぎ、深く敬愛する弟子の大名たちが、万が一にも彼を武力で奪還しようとすることを、秀吉は極度に警戒していました。その猜疑心と恐怖の現れとして、秀吉は越後の大名・上杉景勝に対し、実に三千人もの大軍で利休の屋敷を厳重に包囲するよう命じたのです 11 。一人の茶人を捕えるために、方面軍に匹敵するほどの軍勢を動員するという事実は、軍事的には明らかに過剰です。これは、秀吉が利休を単なる文化人としてではなく、茶の湯という広大なネットワークを通じて諸大名に絶大な影響力を持つ、危険極まりない政治的存在と見なしていたことの何よりの証拠です。三千の兵が取り囲む静寂の中、利休は自らの死を悟り、最後の時を待つことになりました。

日付(天正19年)

出来事

関連人物

典拠史料(例)

1月22日

豊臣秀長、死去。利休の最大の庇護者が失われる。

豊臣秀吉、千利休

11

2月13日

利休、京都を追放され、堺の自邸での蟄居を命じられる。

細川忠興、古田織部

11

2月25日

利休の木像、大徳寺山門から下ろされ、一条戻橋にて磔にされる。

-

11

2月26日

利休、京に召還。聚楽第近くの屋敷が上杉景勝の軍勢三千に包囲される。

上杉景勝

11

2月28日

利休、検使を迎え、聚楽第屋敷にて切腹。

蒔田淡路守(介錯)

11

2月28日以降

利休の首が、磔にされた木像と共に一条戻橋で梟首される。

石田三成(奉行)

11

第四章:茶聖、最後の茶会と辞世

死が目前に迫る中、三千の兵に囲まれた聚楽第の屋敷で、千利休は動じることなく、自らの生涯を締めくくるための最後の儀式を執り行いました。それは、彼が人生を捧げた茶の湯そのものでした。

切腹を命じられた利休は、古田織部や細川忠興といった親しい弟子たちを招き、最後の茶会を催したと伝えられています 9 。死を前にした茶室は、完全な静寂に支配されていました。主客はもはや言葉を交わすことなく、ただ一碗の茶を介して、無言の内に最後の別れを告げたのです。利休は、長年愛用してきた茶道具を一つひとつ取り出し、弟子たちに形見として分け与えました。そして最後に、自らが削った一本の茶杓を織部らに手渡したといいます 22 。この一連の所作は、秀吉によって強いられた「政治的な死」を、利休が自らの美学によって統御された「主体的な死」へと昇華させるための、荘厳なパフォーマンスでした。

茶会を終えた利休は、筆をとり、二つの辞世を残しました。一つは、禅の偈(げ)の形式で書かれた、壮絶な漢詩です。

人生七十 力囲希咄(じんせいしちじゅう りきいきとつ)

吾這寶剣 祖佛共殺(わがこのほうけん そぶつともにころす)

堤る我得具足の一太刀(ひっさぐるわがえぐそくのひとつたち)

今此時ぞ天に抛つ(いまこのときぞてんになげうつ)

26

これは、単なる無念や諦観を詠んだ詩ではありません。「力囲希咄」とは、禅僧が悟りの境地で発する掛け声であり、迷いを断ち切る気迫を示します。そして圧巻は「祖佛共殺」の一句です。これは、自らを導いた師や、信仰の対象である仏といった、あらゆる既存の権威さえも乗り越えていくという、究極の自己確立の宣言に他なりません。この詩は、秀吉という世俗の権力者を遥かに超越した、宇宙的・精神的な次元での勝利を宣言しているのです。

もう一首は、和歌の形式で残されました。

利休めはとかく果報のものぞかし

管丞相(かんしょうじょう)になるとおもへば

7

「管丞相」とは、平安時代、無実の罪で大宰府に左遷され、失意のうちに亡くなった後、朝廷に災いをもたらす怨霊になったと信じられた菅原道真のことです。この歌は、自らの無実を訴えると共に、「自分も道真公のように、死して後に怨霊となり、理不尽な仕打ちをした者(秀吉)に必ずや祟りをなすであろう」という、痛烈極まりない呪詛と反骨の精神を示しています。

この二つの辞世は、利休の全人格を賭けた二重の抵抗の表明でした。禅の偈が精神世界における超越をうたう一方で、和歌は歴史と怨念という極めて人間的な次元での復讐を誓う。彼は、死の瞬間においてさえ、あらゆる次元で天下人・秀吉に対して決して屈しないという、孤高の精神を貫き通したのです。

第五章:終焉 ― 介錯、そして晒された首

天正19年2月28日、千利休の最期の日が訪れました。

その日、聚楽第の屋敷には、秀吉からの検使として尼子三郎左衛門、安威摂津守、そして蒔田淡路守の三名が派遣されました 11 。介錯人という重い役目を負ったのは、利休の弟子の一人でもあった蒔田淡路守でした。彼は主君である秀吉の厳命により、師の首を落とすという非情な役目を引き受けざるを得なかったのです 9

検使を前にした利休は、静かに死装束を整え、見事な作法で腹を十文字に掻き切りました。そして、蒔田の介錯により、その七十年の生涯に幕を閉じました 11

利休の首は、検使によって聚楽第の秀吉のもとへ届けられましたが、秀吉は首実検(本人確認の儀式)を行うことなく、冷たく言い放ったとされます。「すぐに一条戻橋へ運び、晒せ」と 9

ここから、秀吉による利休への執念深く、残虐な仕打ちの最終幕が始まります。利休の生首は、数日前から彼の木像が磔にされている一条戻橋のたもとへと運ばれました。そして、後世の記録である『千利休由緒書』などによれば、そこで行われたのは、人の道を踏み外したとさえ言える、究極の凌辱でした。磔にされた木像の足元に利休の生首を置き、あたかも「木像が、自身の生首を踏みつけている」かのような構図を作り上げて、衆目に晒したのです 11

この常軌を逸した見せしめは数日間に及び、京中の人々が群衆をなしてこのおぞましい光景を見物したと記録されています 14 。この最後の仕打ちは、事件の発端となった「利休の(木像の)足が秀吉の頭上にある」という象徴的な罪状を、グロテスクな形で反転させ、完膚なきまでに完遂させる行為でした。秀吉は、「利休の(木像の)足が利休の(本物の)頭上にある」という物理的な現実を創り出すことで、自らの権力が象徴も現実も支配する絶対的なものであることを、満天下に誇示したのです。

武士にとって切腹は名誉ある死であり、その首は丁重に扱われるのが通例でした。しかし、利休の首は梟首され、さらに木像に踏ませるという前代未聞の扱いを受けました。これは、秀吉が利休を単なる茶人としてではなく、国家への反逆者とみなし、その死後の名誉、人格、そして魂までも徹底的に破壊し尽くそうとしたことを意味します。この残虐性は、秀吉の利休に対する憎悪が、単なる政治的判断を超えた、深く執拗な個人的感情に根差していたことを物語っています。

終章:木像が映し出すもの ― 事件の深層と歴史的意味

千利休の木像事件は、単なる一個人の不敬罪とその処罰という枠を遥かに超え、日本の歴史における重大な転換点を象徴する出来事でした。それは、天下統一を成し遂げ、政治・軍事・経済のあらゆる価値の頂点に立とうとする豊臣秀吉の「絶対的政治権力」と、「侘び茶」という独自の美意識を確立し、大名たちの精神世界にまで絶大な影響力を持った千利休の「自律的な文化権威」との、宿命的な最終衝突でした。大徳寺山門に安置された一体の木像は、この二つの巨大な権威が雌雄を決する、象徴的な戦場となったのです。

利休の死は、茶の湯の世界に大きな動揺を与えましたが、その精神が途絶えることはありませんでした。筆頭弟子であった武将茶人・古田織部は、利休の静謐な「静」の茶に対し、意図的な歪みや躍動感を取り入れた豪放な「動」の茶風を確立し、新たに天下人となった徳川家の茶道指南役として、武家社会に茶の湯を浸透させていきました 28 。一方、利休の血筋は、死後に赦免された孫の千宗旦によって守られます。宗旦は祖父の侘び茶の精神を深く追求し、その三人の息子たちがそれぞれ表千家、裏千家、武者小路千家(三千家)を興すことで、利休の茶道は盤石な礎を築き、今日まで連綿と受け継がれることになりました 25

秀吉による徹底的な弾圧と残虐な処刑は、逆説的な結果を生みました。それは、利休を単なる偉大な茶人から、「権力に屈せず自らの美学に殉じた聖人」、すなわち「茶聖」へと神格化させる効果を持ったのです。もし利休が秀吉に謝罪し、生き永らえていたならば、その文化的権威は大きく損なわれていたかもしれません。しかし、壮絶な死を遂げたことで、彼の言葉、美学、そして生き様は絶対的な重みを持ち、その後の茶道界における彼の地位を不滅のものとしました。秀吉は利休の肉体を滅ぼすことには成功しましたが、その精神と権威を永遠のものにしてしまったのです。

より大きな歴史の文脈で見れば、この事件は豊臣政権の限界を露呈するものでした。最大の調整役であった秀長の死後、利休という最後の「重石」を失った政権は、秀吉の猜疑心と独裁を誰も制止できなくなり、朝鮮出兵という無謀な対外戦争へと突き進んでいきます 31 。多様な価値観や異見を許容できなくなった政権の硬直化は、その末期的な兆候でした。文化の担い手を、その影響力を恐れるあまり抹殺するという行為は、政権が創造性と柔軟性を失い、純粋な力だけに頼るようになったことの証左であり、後の豊臣家滅亡へと続く長い下り坂の、始まりを告げる出来事であったと言えるでしょう。一体の木像が引き起こした悲劇は、権力と文化、そして人間の誇りが織りなす、時代を超えた問いを我々に投げかけているのです。

引用文献

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  2. 千利休、切腹事件の謎。豊臣秀吉は謝ってほしいだけだった? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/gourmet-rock/86526/
  3. 生誕500年 京都・千利休ゆかりの地へ - リビング京都 https://kyotoliving.co.jp/topics/27187.html
  4. 利休像 りきゅうぞう - 表千家 https://www.omotesenke.jp/cgi-bin/result.cgi?id=309
  5. 京都 大徳寺 ぶらり散策 特別公開 金毛閣 へ 禅と茶の湯 千利休との関わり茶道具 大徳寺 紫野 一行書 掛軸 茶掛 の見分け方 査定ポイント わかりやすく解説 - 古美術 安尾京栄堂 https://www.yasuokyoueidou.com/2023/06/935/
  6. 大徳寺 | 京都の時空に舞った風 https://kyoto-stories.com/2_7_daitokuji/
  7. 千利休の謎・利休はなぜ切腹したのか https://yamasan-aruku.com/yomu-4/
  8. 08 千利休の屋敷跡 - ON THE TRIP https://on-the-trip.net/indices/10562?locale=ja
  9. 禅について(1)~千利休の遺偈を手がかりに(甲)~|同人雑誌『概論』 - note https://note.com/gairon/n/nd01aa90da738
  10. なぜ茶道の祖・千利休は「自刃」したのか 「殉教」したから創始者になれた - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/23498?page=1
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  28. 茶道の歴史と流派(5) | 千家以外の名茶人たち | 静亮庵 https://www.edosenkewakabakai.com/blog/history5
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  30. 生誕500年!三千家の祖・千利休 ~今も受け継がれる茶聖の精神~ - 京都観光オフィシャルサイト https://plus.kyoto.travel/entry/sennorikyu
  31. 千利休とは 茶をもって秀吉を支え、挑む数寄者 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/sennorikyuu.html
  32. 千利休の切腹 - 桃山学院大学 https://www.andrew.ac.jp/gakuron/pdf/gakuron21-10.pdf