最終更新日 2025-10-14

山中鹿介
 ~月へ七難八苦を祈り再興誓~

山中鹿介は尼子家再興のため「我に七難八苦を与えたまえ」と月に祈った。史実ではないが彼の不撓不屈の精神を象徴する逸話。その生涯は祈りを体現する苦難の連続だった。

山中鹿介、月に祈る―「七難八苦」の誓い、その真実と伝説の深層―

序章:月下に立つ孤高の武士―逸話の導入

戦国乱世、裏切りと下剋上が日常であった時代に、一つの逸話がひときけれもない輝きを放ち、後世まで語り継がれてきた。滅亡した主家・尼子氏の再興という、絶望的ともいえる悲願を胸に、一人の武士が夜空に浮かぶ三日月に祈りを捧げる。しかし、その祈りは常人のそれとは全く異なっていた。「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」 1 。あらゆる艱難辛苦を自らに課し、それを乗り越えることで大願を成就せんとする、山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)の不撓不屈の魂を象徴する情景である 3

この逸話は、なぜこれほどまでに人々の心を打ち、時代を超えて「忠義」の鑑として語られてきたのか。それは単なる美談に留まるものではない。本報告書は、この極めてドラマティックな逸話に焦点を絞り、その背景にある歴史的現実、祈りの言葉に込められた思想的深層、そして一つの物語が国民的伝説へと昇華していく過程を、時系列に沿って、かつ多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。史実としての「山中幸盛」の実像と、物語によって形成された「山中鹿之助」の虚像、その境界を探り、両者が織りなす武士の魂の真実に迫るものである。

第一部:絶望の淵―祈りが生まれるまでの時系列

鹿介の祈りが、いかなる状況下で生まれたのかを理解するためには、その直接的な原因となった尼子氏滅亡の過程、とりわけ第二次月山富田城の戦いにおける絶望的な状況を時系列で追体験する必要がある。彼の精神を極限まで追い詰めた「その時の状態」が、常軌を逸した祈りの土壌となった。

永禄8年(1565年)~:難攻不落の城への包囲網

永禄8年(1565年)、中国地方の覇権をその手に収めんとする毛利元就は、尼子氏の本拠地である出雲・月山富田城へと大軍を差し向けた 5 。この城は、かつて天文12年(1543年)に3倍の兵力を擁する大内義隆の大軍を撃退した経験を持つ、天然の地形を活かした難攻不落の要害であった 6 。過去の苦い敗北を熟知していた元就は、性急な力攻めを避けた。

元就が選択したのは、尼子氏の生命線を断ち切る、周到かつ冷徹な兵糧攻めであった。まず、月山富田城を守る支城群「尼子十旗」を一つずつ確実に攻略し、城を裸にしていく 5 。さらに、毛利水軍を動員して日本海側の海上交通を完全に封鎖し、城への補給路を陸路・海路ともに遮断した 6 。日に日に狭まる包囲網の中で、城内の尼子軍は次第に孤立を深め、兵士たちの間には先の見えない不安と焦燥感が蔓延していった。

永禄9年(1566年):兵糧攻めの凄惨と内部分裂

年が明けて永禄9年(1566年)に入ると、元就の兵糧攻めは凄惨な結果をもたらし始める。長期にわたる籠城により、城内に備蓄されていた兵糧は完全に底を突き、兵士たちは深刻な飢餓に苦しんだ 6 。士気は著しく低下し、もはや組織的な抵抗は困難な状況に陥っていた。

この機を逃さず、元就は心理戦を仕掛ける。「降伏も退去も許さぬ」という高札を立てて城内の絶望を煽った後、兵糧が尽きたと見るや一転して「降伏も退去も認める」と告知し、兵士たちの心を揺さぶった 6 。飢えと絶望に耐えかねた兵士たちは、一度に数十人単位で城を脱走し、毛利方に投降する者が後を絶たなかった 10

さらに悲劇的だったのは、内部からの崩壊である。元就の謀略によって城内には疑心暗鬼が渦巻き、尼子家中の結束は崩壊した。その象徴的な事件が、筆頭家老であった宇山久兼の誅殺である。久兼は私財を投じて兵糧を運び入れるなど忠節を尽くした人物であったが、「毛利に内通している」との讒言を信じた当主・尼子義久によって殺害されてしまう 6 。鹿介が目の当たりにしたのは、敵との戦い以上に過酷な、味方が味方を信じられなくなるという地獄絵図であった。

永禄9年11月21日:主家の滅亡と鹿介の無力感

永禄9年11月21日、当主・尼子義久は、これ以上の籠城は将兵の命を無駄にするだけだと判断し、毛利元就に降伏した 9 。将兵の助命は認められ、義久ら尼子一族は安芸国へ幽閉されることとなり、ここに山陰に覇を唱えた戦国大名・尼子氏は事実上滅亡した 5

鹿介は、この主君の安芸行きに随行することを許されず、主君と引き離されるという屈辱を味わう 11 。主家を守れなかった無念、目の前で繰り広げられた落城の光景、そして未来への一切の希望を断たれたかのような深い絶望感と無力感。鹿介が体験した絶望は、単なる敗戦によるものではなかった。それは、信頼していた城の堅牢さが無力化され、味方の裏切りと内訌を目の当たりにし、主君が敵の慈悲にすがる形で滅亡するという、武士としての誇りを根底から覆される多重的な絶望であった。この「完全な無」ともいえる状態から再起を図るには、常識的な精神力では到底不可能であった。物理的な力も、頼るべき味方も、拠るべき誇りも失った彼が、人知を超えた力、すなわち神仏への祈りに活路を見出そうとしたのは、極限状況における人間心理の必然的な帰結であったと言えよう。

第二部:誓いの瞬間―「七難八苦」の祈り、その情景と会話の再構成

主家滅亡という絶望の淵に立たされた鹿介が、いかにしてあの特異な祈りに至ったのか。軍記物語や後世の伝承を基に、逸話の核心である祈りの場面を、可能な限り「リアルタイム」に近い形で再構成する。

舞台設定:月下の誓い

主家を失い、浪々の身となった鹿介は、各地の尼子遺臣らと連絡を取りつつ、再興の機会を密かに窺っていた 12 。伝承によれば、彼はある夜、故郷である出雲の地を見渡せる山に一人登ったとされる 13 。静寂が支配する闇の中、彼の視線の先には、夜空に懸かる一筋の月があった。

その月は、満月ではなく「三日月」であったと伝えられている 1 。三日月は、これから満ちていく月であり、古来より「再生」「発展」「希望」の象徴とされてきた。そして、鹿介が自身の兜の前立てに用いていたのも、この三日月の意匠であった 3 。彼にとって三日月は、単なる天体ではなく、個人的な信仰の対象であり、自らのアイデンティティと分かちがたく結びついた存在だったのである 17 。滅びの淵から再生を願う鹿介の心象風景と、夜空の三日月は完璧に重なり合っていた。

内なる葛藤と祈りの「会話」

月光の下、鹿介の胸中には、主家を滅ぼされたことへの怒り、自らの無力さへの絶望、そしてそれでもなお消えぬ再興への微かな希望が、激しく渦巻いていたと推察される。彼は静寂の中、月を見上げ、自問自答を繰り返したであろう。「このまま武士としての生を終えるのか」「いや、尼子家の血をこのまま絶やしてはならない」。

そして、彼は一つの決意を固める。常人が神仏に祈るならば、それは「幸運」や「加護」であろう。しかし、鹿介は全く逆のものを求めた。それは、尼子家再興という途方もない大願を成就するためには、生半可な覚悟では到底成し遂げられないことを誰よりも理解していたからに他ならない。

後世に伝えられるその祈りの言葉は、天への悲壮な叫びであると同時に、自らの覚悟を天地神明に誓う力強い宣言であった。

願わくば、我に七難八苦を与えたまえ 1

この言葉は、単に苦難を甘受するという受動的な姿勢を示すものではない。むしろ、あらゆる艱難辛苦を乗り越える強靭な精神と肉体を自ら求め、それを乗り越えた先にこそ大願成就があると信じ、あえて自らに試練を課すことを神仏に誓う、極めて能動的な「誓約」であった。それは、神仏への「請願」ではなく、自らの覚悟を天地に知らしめる「宣言」であり、苦難を目的ではなく大願成就のための「手段」として捉える、逆説的な成功哲学の表明でもあった。彼は運命に翻弄されるのではなく、苦難に満ちた運命そのものを自ら引き受け、支配しようとしたのである。

第三部:言葉の深層―「七難八苦」の仏教的意味と鹿介の信仰

鹿介が月に誓った「七難八苦」とは、具体的に何を指すのか。この言葉の思想的背景を深く掘り下げることで、彼の覚悟の凄まじさと、それを支えた信仰の核心に迫ることができる。

「七難八苦」の徹底解説

「七難八苦」は仏教に由来する言葉で、人間がこの世で遭遇しうる、ありとあらゆる災難や苦しみを包括的に示すものである 19 。鹿介が自らに求めた苦難がいかに具体的で過酷なものであったか、以下にその代表的な内容を示す。

七難 (Shichinan) - 七つの災難 (『観音義疏』による一例) 21

火難 (Kanan) :火による災い

水難 (Suinan) :水による災い

羅刹難 (Rasetsunan) :悪鬼による災い

刀杖難 (Tōjōnan) :刃物や武器による災い

鬼難 (Kinan) :鬼神・死霊による災い

枷鎖難 (Kasaran) :投獄される災い

怨賊難 (Onzokunan) :怨みを持つ賊に襲われる災い

八苦 (Hakku) - 八つの苦しみ 20

生苦 (Shōku) :生まれること自体の苦しみ

老苦 (Rōku) :老いていく苦しみ

病苦 (Byōku) :病気になる苦しみ

死苦 (Shiku) :死ぬことへの苦しみ

愛別離苦 (Aibetsuriku) :愛する者と別れる苦しみ

怨憎会苦 (Onzōeku) :怨み憎む者と会わなければならない苦しみ

求不得苦 (Gufutokku) :求めても得られない苦しみ

五蘊盛苦 (Gounjōku) :心身が思うがままにならないことから生じる苦しみ

この一覧が示すように、鹿介が求めたのは、戦場での物理的な危険(刀杖難)や捕縛(枷鎖難)に留まらない。愛する主君や仲間との別離(愛別離苦)、憎き毛利と対峙し続けねばならない苦しみ(怨憎会苦)、そして再興の願いが叶わないかもしれないという苦悩(求不得苦)まで、人間が経験しうる全ての精神的・肉体的苦痛を、彼は自ら引き受けようと誓ったのである。

思想的源流:『仁王経』と「七難即滅七福即生」

鹿介の祈りの背後には、より深い仏教思想が存在する可能性が指摘されている。その源流とされるのが、大乗仏教の経典『仁王経』に説かれる「 七難即滅七福即生 (しちなんそくめつ しちふくそくしょう)」という教えである 25

この言葉は、表面的には「七つの難が消滅すれば、七つの福が生まれる」と解釈される。しかし、その真意はさらに深く、「苦難を乗り越えること、それ自体が幸福へとつながる道である」という思想を示している 25 。つまり、苦難は避けるべきものではなく、幸福を生み出すための転換点(アドバンテージ)として積極的に捉えるべきだという、極めて高度な精神性である 25 。鹿介の祈りは、まさにこの教えを自らの生き様で実践しようとするものであり、彼の行動が単なる感情的な決意ではなく、仏教的な世界観に裏打ちされたものであった可能性を示唆している。

個人的信仰:月天子信仰との結びつき

鹿介の祈りは、こうした普遍的な仏教思想のみならず、彼個人のパーソナルな信仰と深く結びついていた。彼は個人的に月を篤く信仰していたと伝わり、これは仏法を守護する善神とされる月天子(がってんし)への信仰であったと考えられている 17 。彼の象徴である三日月の前立て兜も、この信仰に由来するものであろう 3

彼にとって月は、単なる夜空の天体ではなかった。それは、自らの運命を見守り、固い誓いを聞き届けてくれる神聖な存在であった。この個人的で切実な信仰があったからこそ、彼は絶望的な状況下で「祈る」という行為を選択し、その祈りに比類なきリアリティと力を与えることができたのである。

第四部:祈りは聞き届けられたか―尼子再興に捧げた苦難の生涯

月に誓いを立てた後の鹿介の生涯は、皮肉にも、彼が自ら願った「七難八苦」を寸分違わず体現するものであった。彼の人生そのものが、彼自身の祈りに対する天からの完璧な「答え」となったのである。

第一次尼子再興運動(永禄11年~)と苦難

鹿介は行動を開始する。京都で僧籍にあった尼子誠久の遺児・勝久を探し出し、還俗させて主君として擁立 3 。尼子家の遺臣団を率いて出雲へ侵攻し、その勢いは一時期、旧本拠地である月山富田城に迫るほどであった 12 。しかし、毛利方の猛将・吉川元春らの猛反撃に遭い、布部山の戦いで大敗を喫する 5 。さらに味方の裏切りにも遭い、月山富田城奪還の夢は無残に砕け散った 12

捕縛と脱出

敗れた鹿介は毛利軍に捕らえられ、尾高城に幽閉される。まさに「枷鎖難」の到来であった。しかし、彼はここで屈しなかった。伝承によれば、赤痢を装って日に何十回も厠に通い、油断した監視の兵士たちの隙をついて見事に脱出したという 12 。その不屈の精神は、苦難を乗り越える力そのものであった。

第二次・第三次尼子再興運動と見捨てられる苦しみ

再起を図る鹿介は、当時、毛利と敵対していた織田信長の勢力を頼る 3 。信長の中国方面軍に加わり、但馬や播磨を転戦 13 。一時は鳥取城を奪取するも、味方の寝返りによってわずか1ヶ月余りで失うなど、苦闘が続いた 12

そして天正5年(1577年)、信長から播磨の上月城を与えられ、尼子再興の拠点とする。しかし、信長の戦略的都合が、彼らに最大の悲劇をもたらす。織田方であった三木城の別所長治が謀反を起こすと、信長は三木城攻略を最優先とし、毛利の大軍に包囲された上月城への救援を送らなかったのである 12 。尼子再興軍は、いわば「捨て駒」とされた 11

天正6年(1578年):最期の地、阿井の渡し

救援の望みが絶たれた上月城は落城。主君・尼子勝久は自害し、尼子再興の夢は潰えた 11 。鹿介は捕虜となり、毛利輝元が本陣を置く備中松山城へ護送されることになった 12

その道中、備中国の阿井の渡し(現在の岡山県高梁市)で、彼の壮絶な生涯は終わりを告げる 26 。天正6年7月17日、護送役であった毛利家臣の河村新左衛門らが謀反を起こし、鹿介に襲いかかった 16 。『中国兵乱記』によれば、川を渡る舟の中でだまし討ちに遭い、深手を負いながらも川に飛び込み、敵と川中で組み討ちとなった末、ついに力尽き、首を取られたと伝わる 27 。享年34 16

彼の生涯は、まさに「七難八苦」の連続であった。「愛別離苦」(主君との別離)、「怨憎会苦」(毛利との終わりなき戦い)、「求不得苦」(再興の夢は叶わず)、「刀杖難」(数多の戦と最期)。彼の人生そのものが、自らの祈りを証明するかのようであった。この運命的な一致こそが、「月に祈る」逸話に強烈な説得力を与え、人々の心を捉えて離さない最大の要因なのである。

第五部:逸話の誕生と成長―史実から国民的伝説へ

これほどまでに有名な「七難八苦」の祈りであるが、史料批判の視点から見ると、その成立過程は極めて興味深い様相を呈する。この逸話は、いかにして生まれ、国民的な伝説へと成長していったのだろうか。

史実性の検証:一次史料の不在

まず結論から述べると、山中鹿介幸盛と同時代の信頼性の高い一次史料(書状や公的記録など)の中に、彼が月に「七難八苦」を祈ったという記述は一切見られない。この事実は、この逸話が歴史的事実そのものではなく、後世に創作された物語である可能性が極めて高いことを示唆している。

物語の源流:『雲陽軍実記』

この逸話の原型が初めて登場するのは、江戸時代に成立した軍記物語、特に『雲陽軍実記』などの書物である 2 。これらの軍記物は、史実を骨子としながらも、読者の興味を引くために多くの脚色や創作が加えられており、歴史書というよりは文学作品としての性格が強い 13 。鹿介の敗れても屈せず、何度も立ち上がるドラマティックな生涯は、物語の題材として格好のものであり、講談などを通じて人々に親しまれていった。

伝説の形成者:大町桂月と修身教育

この逸話を決定的に有名なものにしたのは、明治時代以降の二つの要因である。一つは、文筆家・大町桂月の存在だ。桂月は鹿介の熱烈な信奉者であり、その著作『山中鹿之助』において、この逸話を情熱的に描き出した 15 。研究者の中には、桂月が鹿介の苦難に満ちた生涯から逆算し、「彼ほどの人物であれば、これほどの覚悟を祈ったに違いない」という創作意欲から、この名言を生み出した、あるいは洗練させたと指摘する声もある 15

そしてもう一つ、より決定的な要因が、この逸話が戦前の「修身(道徳教育)」の教科書に採用されたことである 1 。「忠義」「滅私奉公」「不撓不屈」といった、当時の国家が国民に求めた徳目を理想的な形で体現する教材として、鹿介の物語は全国の子供たちに教え込まれた 29 。これにより、逸話は単なる物語を超え、国民的教訓として社会に深く浸透し、定着したのである。

この逸話は、時代ごとの社会的要請に応える形で、その意味合いを変えながら受容されてきた。江戸時代には武士の「忠義」を伝える教訓的エンターテイメントとして、明治から戦前にかけては「滅私奉公」を国民に教える国家のイデオロギー装置として、そして現代においては、ゲームや創作物の中で逆境に屈しない「不屈の精神」を持つ英雄のキャラクター属性として 31 、その役割を変えながら生き続けている。逸話は、まさに時代時代の価値観を映し出す鏡として機能してきたのである。

結論:虚実の彼方に輝く武士の魂

山中鹿介幸盛が月に「七難八苦」を祈ったという逸話は、厳密な意味での歴史的事実である可能性は低い。それは、彼の壮絶な生涯という「事実」を土台として、後世の人々がその精神性を理想化し、紡ぎ出した美しくも悲壮な「物語(虚像)」であると言える。

しかし、この逸話は、史実としての山中幸盛が貫いたであろう不屈の精神と、主家再興という一点に全てを捧げた生き様の本質を、これ以上なく的確に捉えている。その意味において、この物語は「史実」ではないかもしれないが、彼の生涯の「真実」を伝えるものと言えよう。史実の人物「山中幸盛」と、伝説の英雄「山中鹿之助」は、この「月に祈る」という象徴的な逸話を通じて分かちがたく結びついている。

我々が今日、山中鹿介という名に心惹かれるのは、彼の苦難に満ちた史実と、その苦難にあえて立ち向かおうとした高潔な精神を描いた伝説が、完璧な形で融合しているからに他ならない。月下に一人立ち、自らの宿命をこそ祈るその姿は、時代を超えて、困難に立ち向かう全ての人々の心を照らし続ける、永遠の象徴なのである。

引用文献

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  2. 山中幸盛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E7%9B%9B
  3. 山陰の麒麟児、山中鹿之助(幸盛)「戦国武将名鑑」 | Discover Japan | ディスカバー・ジャパン https://discoverjapan-web.com/article/57865
  4. 山中鹿介の墓 - 高梁観光情報|備中たかはし https://takahasikanko.or.jp/modules/spot/index.php?content_id=9
  5. 山中鹿介は何をした人?「我に七難八苦を与えたまえ。尼子氏の再興に命を捧げた」ハナシ https://busho.fun/person/shikanosuke-yamanaka
  6. 尼子方の月山富田城を降伏させた毛利元就の謀略とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/19490
  7. 「第一次月山富田城の戦い(1542-43年)」大内の敗北で、元就は命からがら逃げのびる https://sengoku-his.com/156
  8. 月山富田城の戦い古戦場:島根県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/gassantodajo/
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  10. 「第二次月山富田城の戦い(1565~66年)」毛利元就、中国8か国の大大名へ | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/81
  11. 山中鹿之助幸盛 我に七難八苦を与えたまへ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=RKtitDURPMY
  12. 山中鹿介幸盛のゆかりの地まとめ|社員がゆく|Nakasha for the Future https://www.nakasha.co.jp/future/report/travel_with_shikanosuke.html
  13. 山中鹿介(やまなか しかのすけ/山中幸盛) 拙者の履歴書 Vol.42〜月に誓いし尼子再興 - note https://note.com/digitaljokers/n/nb0c39145bbbe
  14. 山中鹿介の像と難攻不落といわれた月山富田城|藤原英生(フジハラヒデキ) - note https://note.com/buzzman/n/nd8e8661b93ce
  15. 七難八苦はもういらない - 紀行歴史遊学 https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2021/05/%E5%B1%B1%E4%B8%AD.html
  16. 進んで茨の道に散った情熱の武士「山中鹿介」。彼の生き様から武士道の精神性を知る|〈日本人と武士道〉 | 男の隠れ家デジタル https://otokonokakurega.com/learn/secret-base/14243/
  17. 山中鹿之助(山中幸盛)の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト https://www.touken-world.jp/tips/97873/
  18. 山中鹿介幸盛~尼子の勇将、七難八苦の生涯 - WEB歴史街道 - PHP研究所 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4109
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  20. 七難八苦(シチナンハック)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%83%E9%9B%A3%E5%85%AB%E8%8B%A6-520889
  21. 七難八苦とは困難や苦しみが重なることを表す言葉|意味や使い方、類似表現を紹介 - Oggi https://oggi.jp/7164616
  22. No.700 【七難八苦】 しちなんはっく|今日の四字熟語・故事成語 - 福島みんなのニュース http://www.fukushima-net.com/sites/meigen/832
  23. 我に七難八苦を与えよ | 社長ブログ | 滋賀県で注文住宅を建てるなら華建築 https://hanakenchiku.jp/presidents-blog/5465/
  24. 「愛別離苦」とは? 意味と現代での実践的な活用法を紹介 - Oggi https://oggi.jp/7397211
  25. 山中鹿介 「七難八苦を与えたまえ」 | コクヨのMANA-Biz https://www.kokuyo-furniture.co.jp/solution/mana-biz/2016/10/post-148.php
  26. 山中鹿之介の終焉の地。背後には高梁川の良い景観。 - 山中鹿介の墓のクチコミ - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_33209aj2200023934/kuchikomi/0001471269/
  27. 古墳の石棺から出てきた山中鹿介の首なし遺骨 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4952
  28. 雲陽軍実記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E5%AE%9F%E8%A8%98
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  31. 【信長の野望 出陣】山中鹿之介(七難八苦)のおすすめ編成と評価 - ゲームウィズ https://gamewith.jp/nobunaga-shutsujin/article/show/433999
  32. 【信長の野望 覇道】山中鹿之介の戦法と技能 - ゲームウィズ https://gamewith.jp/nobunaga-hadou/article/show/402209
  33. 山中鹿介幸盛 - ぼくの考えたサーヴァント@でもにっしょんch https://seesaawiki.jp/demonition-bokusaba-bokumasu/d/%BB%B3%C3%E6%BC%AF%B2%F0%B9%AC%C0%B9