最終更新日 2025-10-13

徳川家康
 ~三方ヶ原敗戦後しかみ像で自戒~

徳川家康の「しかみ像」にまつわる逸話を、三方ヶ原の戦いでの敗戦から自戒の肖像誕生まで時系列で再現。その伝説と史実の真偽を徹底分析。

徳川家康「しかみ像」の逸話:自戒の肖像、その伝説と史実の徹底分析

序章:自戒の肖像 ― 伝説と史実の狭間で

徳川家康の長き生涯において、最大の敗北として知られる三方ヶ原の戦い 1 。その惨敗の記憶は、一幅の異様な肖像画と共に、後世に強烈な印象を刻み込んでいる。頬杖をつき、苦渋に顔を歪めたその姿は、通称「しかみ像」と呼ばれ、後の天下人・家康の人間性を深く物語る逸話の核として語り継がれてきた 3

広く知られる物語は、感動的で示唆に富む。元亀三年(1572年)、武田信玄の圧倒的な軍事力の前に完膚なきまでに打ちのめされた家康が、命からがら居城の浜松城に逃げ帰った直後、自らの慢心を戒めるために絵師を呼び、「今のこの惨めな姿をありのままに描かせた」というものである 1 。そして、その自戒の肖像を生涯座右に置き、決して驕ることのないよう自らを律し続けたとされる。この物語は、家康の忍耐強さと、失敗を糧に成長する姿を象徴するものとして、多くの人々の心を捉えてきた。

しかし、この感動的な物語の裏側で、近年の歴史研究は、逸話そのものが近代以降、特に昭和期に入ってから創作されたものである可能性を強く示唆している 6 。本報告書は、この徳川家康と「しかみ像」を巡る一つの逸話に焦点を絞り、その深層と根源を徹底的に解明することを目的とする。まず第一部では、逸話として語られる世界を、史料や伝承を基に時系列に沿って克明に再現する。次に第二部では、その史実性を多角的に検証し、伝説がいかにして生まれ、なぜこれほどまでに人々の心を惹きつけ続けるのかという、歴史と記憶の間に横たわる深遠な問いに答えていく。


第一部:逸話の時系列再現 ― 三方ヶ原の死線

本章では、史料や後世の編纂物、そして浜松周辺に伝わる地域の伝承を織り交ぜ、あたかもその場に居合わせたかのような臨場感をもって、三方ヶ原敗戦から「しかみ像」誕生に至るまでの物語を再構築する。

第一章:決戦前夜 ― 浜松城の評定

元亀三年(1572年)12月、甲斐の虎・武田信玄が率いる2万5千とも言われる大軍が、遠江国に雪崩れ込んだ 2 。徳川方の重要拠点であった二俣城は、武田軍の巧みな水の手切りの策の前に陥落し、その報は家康の本拠・浜松城に凄まじい衝撃と緊張をもたらした 2 。信玄は、徳川軍の兵力を測りかねていたのか、あるいはその存在を意に介さなかったのか、浜松城をあえて攻めずに西上する構えを見せた。この動きが、若き家康のプライドを激しく揺さぶることになる。

浜松城内では、緊急の軍議が開かれた。織田信長から派遣された佐久間信盛らの援軍を合わせても、徳川方の兵力はわずか1万1千程度 1 。兵力差は歴然であり、家臣団の大勢は籠城を固く主張した。「武田は3万、信玄は戦巧者として天下に知られた熟練の武者。まともに戦って勝ち目はございませぬ」と、歴戦の老臣たちは口を揃えた 9

しかし、当時30歳の血気盛んな家康にとって、自らの城下を敵軍に素通りされることは、耐え難い屈辱であった 2 。ここで籠城を選べば、臆病者との誹りを免れない。それは、三河武士という誇り高くも荒々しい家臣団からの信望を失いかねない選択でもあった。戦国大名としての存亡をかけたこの局面で、家康の決断は軍事的な合理性よりも、組織の長としての威厳を保つという政治的判断に傾いた。彼は、信玄が自らの性格を見切って挑発していることを見抜きつつも、その挑発に乗ることを選んだのである 10

家康は重臣たちの反対を押し切り、出陣を断固として決意する。そして、将兵の士気を鼓舞すべく、力強く檄を飛ばしたと伝えられる。

「多勢が我が屋敷の裏口を踏み破って通ろうとしているのに、内に在りながら出て咎めぬ者があろうか。戦は多勢無勢によるものではなく、天道次第である!」 9。

この言葉は、後の大敗を知る我々には悲壮な響きをもって聞こえるが、この時の家康にとっては、自らの存在意義を賭けた、覚悟の表明であった。

第二章:潰走 ― 生涯最大の敗北

12月22日、申の刻(午後4時頃)、三方ヶ原の広大な台地で両軍はついに激突した 2 。武田信玄は自軍の最も得意とする陣形である魚鱗の陣を敷き、徳川軍を待ち構えていた。対する家康は鶴翼の陣でこれに応じたが、戦いの趨勢はあまりにも早く決した。歴戦の武田軍団の猛攻の前に、徳川軍はわずか2時間ほどで総崩れとなったのである 2 。徳川方の死者は2000名に達し、鳥居忠広、本多忠真といった多くの有力な家臣を失った。一方、武田方の損害は200余名に過ぎなかったとされ、まさに完膚なきまでの大敗であった 2

戦場の混乱の中、家康自身も死を覚悟した。もはやこれまでと自刃しようとした、あるいは敵中に討ち入ろうとしたその時、一人の老臣が家康の前に立ちはだかった。浜松城の留守居役を任されていたはずの夏目吉信(広次)である。彼は家康の馬の口を強引に引き、その向きを浜松城へと変えさせた 14。

「殿、ここは某にお任せを。殿の御運は、ここで尽きるべきではございませぬ!」

そう叫ぶと、吉信は家康の兜を自ら被り、「我こそは徳川家康なり」と大音声で名乗りを上げ、猛り狂う武田軍の只中へと突入していった 10。

この夏目吉信の壮絶な自己犠牲には、単なる忠義を超えた深い背景があった。吉信はかつて、家康の生涯におけるもう一つの苦難であった三河一向一揆の際、一揆側に与して家康に敵対した過去を持つ武将であった 15 。しかし、家康は一揆終息後に彼を許し、再び重臣として取り立てていた。吉信にとって、この三方ヶ原の絶体絶命の窮地は、かつての裏切りを許された大恩に、自らの命をもって報いる最後の機会であったのだろう 14 。主君の寛容さが、いかにして家臣の絶対的な忠誠心を生み出すか。吉信の死は、徳川家臣団の強固な結束力の源泉を物語る、象徴的な出来事となった。

第三章:九死に一生 ― 浜松城への帰還

夏目吉信らの犠牲によって辛うじて死地を脱した家康は、わずかな供回りとともに、日も暮れた闇夜を浜松城目指して必死の敗走を続けた 17 。この逃避行の道中には、家康の極限状態を物語る数々の伝承が今なお残されている。

武田の追手に追い詰められた家康が、浜松八幡宮の境内にあった巨大な楠の洞に馬ごと身を隠して難を逃れたという「雲立ちの楠」の伝説 18 。空腹に耐えかねて立ち寄った茶屋で小豆餅を注文したものの、追手の声に驚き、代金も払わずに逃げ出したという「小豆餅」の地名の由来。そして、その餅屋の老婆に追いつかれ、餅代を支払わされた場所が「銭取」と呼ばれるようになったという、どこか滑稽で人間味のある逸話も語り継がれている 19

そして、この敗走を象徴する最も有名な逸話が、馬上で脱糞したという話である。あまりの恐怖と緊張から、家康は鞍の上で便を漏らしてしまったと伝えられる 1。命からがら浜松城に帰り着いた後、家臣の大久保忠佐(あるいは忠隣)に鞍の汚れを指摘されると、若き日の家康は恥ずかしさと動揺を隠すようにこう言い放ったという。

「これは糞ではない。道中で腰に付けていた焼き味噌じゃ!」 22。

後の天下人に見る、あまりにも人間的なこの逸話は、三方ヶ原の恐怖がいかに凄まじいものであったかを雄弁に物語っている。

浜松城にたどり着いた家康を待っていたのは、安堵ではなく、城下に迫る武田軍の追撃という次なる危機であった。ここで家康は、常軌を逸した大胆な策を講じる。

「城門をすべて開け放て。そして、内外に篝火を赤々と焚き、決して騒ぐでないぞ」 17。

さらに、徳川四天王の一人・酒井忠次は、城の櫓門に上り、味方を鼓舞し、敵を惑わすかのように、ただ一人、太鼓を力強く打ち鳴らし続けた 25。がら空きの城門、煌々と焚かれた篝火、そして闇夜に響き渡る不気味な太鼓の音。城下に到達した武田軍の将兵は、この異様な光景を前に足がすくんだ。「これは孔明の罠か。城内には伏兵がいるに違いない」。そう警戒した武田軍は攻撃をためらい、ついに兵を引いたとされる。これが世に言う「空城の計」である 23。

絶体絶命の危機を脱した城内で、家康はさらなる驚くべき行動に出る。彼は侍女に「腹が減った」と命じ、湯漬けを立て続けに三杯平らげると、そのまま床に入り、雷のような高鼾をかいて眠り込んだという 17 。多くの家臣を失い、自らも死の淵を彷徨った直後とは思えぬこの主君の豪胆な姿を見て、動揺しきっていた城内の将兵たちはようやく安堵し、士気を取り戻したと伝えられている 17

第四章:自戒の肖像 ―「しかみ像」の誕生

悪夢のような一夜が明け、家康は自らの判断ミスが招いた惨状を改めて目の当たりにした。夏目吉信をはじめ、多くの忠臣たちが自分を守るために命を落とした。その事実に、家康は深い悔恨と自責の念に駆られた。この屈辱と悲しみを、決して忘れてはならない。この失敗を、未来への糧としなければならない。

伝承によれば、家康はこの時、ただちに一人の絵師を城に召し出した。そして、憔悴しきった自らの姿を指し示し、厳かにこう命じたとされている。

「今の、この儂の姿をありのままに描け。戦に敗れ、多くの家臣を死なせ、恐怖に顔を歪めるこの惨めな姿を、未来永劫の戒めとするために」 1。

絵師は主君のただならぬ気迫に押され、その苦渋に満ちた表情を一心不乱に描き写した。こうして完成したのが、眉をひそめ、唇を噛みしめ、絶望と後悔の念が滲み出るかのような、異様な迫力を持つ肖像画、通称「しかみ像」である 3

家康はこの絵を生涯自らの座右から離さず、事が順調に進み、心に驕りが生じそうになるたびに、この肖像画を見つめては三方ヶ原の敗戦を思い出し、己を戒めたという 3 。この逸話は、最大の失敗から最も重要な教訓を学び取り、それをバネにして天下人へと成長していく徳川家康の、忍耐と自己省察の精神を象徴する物語として、後世に語り継がれることとなったのである。


第二部:史実の探求 ― 逸話から真実へ

第一部で再現した劇的な物語は、徳川家康という人物の魅力を深く伝えるものである。しかし、歴史を探求する上では、その物語がいつ、どのようにして形成されたのかを検証する作業が不可欠である。本章では、歴史学的な視点から「しかみ像」の逸話の史実性を厳密に検証し、肖像画そのものの新たな解釈を提示する。

第五章:「しかみ像」の真贋 ― 伝承の形成と変遷

現在、逸話の元となった肖像画『徳川家康三方ヶ原戦役画像』は、名古屋市の徳川美術館に所蔵されている 7 。この絵画は絹本著色で、寸法は縦37.8cm、横21.8cmと比較的小さなものである 30 。作者の落款や賛はなく、誰が描いたかは特定されていないが、その描法などから江戸時代中期の17世紀頃の作と推定されている 7 。つまり、三方ヶ原の戦い(1572年)の直後に描かれたものではないことが、美術史的な観点からほぼ確実視されている。

さらに、この肖像画の伝来を辿ると、逸話とは異なる来歴が浮かび上がってくる。尾張徳川家の記録によれば、この絵はもともと紀州徳川家から、尾張徳川家九代当主・徳川宗睦の養子・治行に嫁いだ従姫(よりひめ)の嫁入り道具の一つとして、18世紀の終わりに尾張家にもたらされたものである 7

最も重要なのは、この肖像画にまつわる「逸話」が、時代と共に大きく変化してきたという事実である。その変遷の過程は、歴史的記憶が後世の価値観によっていかに再構築されていくかを示す、極めて興味深い事例と言える。当初は家康の肖像画という以上の意味を持たなかったものが、まず特定の戦い(長篠)と結びつけられ、次に、よりドラマチックな敗戦(三方ヶ原)へと物語が「アップグレード」された。そして最終的に、主人公が家康自身となり、「自戒のため」という内面的な物語が付与されることで、現代に伝わる教訓的な逸話が完成したのである。このダイナミックなプロセスは、以下の表に集約される。

表1:『徳川家康三方ヶ原戦役画像』にまつわる伝承の変遷

時代

典拠・出来事

肖像画の呼称・逸話の内容

関連資料

江戸時代

尾張徳川家蔵帳

「東照宮尊影」とのみ記載。特定の戦役との関連付けはなし。

7

明治時代

尾張徳川家財産目録(1880年頃)

「長篠戦役陣中小具足着用之像」とされ、長篠の戦いの姿と認識。

7

1936年(昭和11年)

徳川美術館での展覧会・新聞報道

初めて「三方ヶ原」の戦いと結びつけられ、藩祖義直が狩野探幽に描かせたと報道。

7

1970年代頃

山岡荘八の小説『徳川家康』等の影響

「家康自身が自戒のために描かせ、生涯座右に置いた」という現在の逸話が形成・定着。

7

以上の経緯から、徳川美術館の公式見解を含め、現在では「家康が三方ヶ原敗戦直後に自戒のため描かせた」という伝承には史料的な根拠がなく、昭和時代に創作・形成されたものであるというのが、学術的な共通認識となっている 6

第六章:描かれたのは誰か ― 肖像画の再解釈

敗戦の姿という従来の解釈が史実ではないとすると、この異様な表情と姿は何を意味するのかという、新たな問いが生まれる。近年の研究では、この肖像画は家康を神格化した「武神像」であり、礼拝の対象として描かれたとする説が有力視されている 30

この新説の根拠は、仏教図像学との比較から見出される。まず、片足を組み、頬に手を当てる独特の姿勢は、仏像、特に弥勒菩薩などにみられる「半跏思惟(はんかしゆい)像」のポーズと類似している点が指摘される 7 。これは、衆生を救うために深く思索にふける慈悲の姿を象徴するものである。次に、顔をしかめた表情は、敗戦の憔悴ではなく、不動明王のように悪や敵を威圧する「忿怒(ふんぬ)」の相、あるいは天下国家の安寧を憂う深い苦悩の表情と解釈することができる 7

この肖像画は、江戸幕府がその支配の正当性を担保するために進めた「東照大権現」としての家康神格化プロジェクトの一環として、特定の思想的意図を持って制作された可能性が高い。江戸時代を通じて、狩野派などの御用絵師たちは、楠木正成のような忠臣や、観音菩薩のような慈悲深い存在、あるいは不動明王のような威厳ある存在など、様々な神仏のイメージを家康像に重ね合わせることで、その神性を高めようと試みた 7 。この「しかみ像」は、そうした複雑な神格化の過程で、家康の「武」の側面(忿怒)と「智」や「慈悲」の側面(半跏思惟)を一つの画面に統合して表現しようとした、極めて意図的な宗教画であったと考えられる。それは単なる一個人の肖像画ではなく、徳川幕府のイデオロギーが色濃く込められた、一種のプロパガンダ・アートと見なすことができるのである。

第七章:関連逸話の検証 ―「空城の計」と「脱糞説」

「しかみ像」本体の逸話と同様に、三方ヶ原の戦いには多くの劇的なエピソードが付随しているが、これらもまた史実性の検証が必要である。

まず、「空城の計」については、その主な出所が江戸時代に書かれた軍記物『四戦紀聞』などであり、家康を知勇兼備の英雄として描くための創作である可能性が極めて高い 35 。より信頼性が高いとされる幕府公認の史料『武徳大成記』などによれば、実際の状況は大きく異なっていた。城門を開けていたのは、敗走してくる味方の兵を一人でも多く城内に収容するためであり、同時に城壁から鉄砲を盛んに撃ちかけることで、追撃してくる武田軍を牽制していたというのが実態に近いとされる 36 。つまり、城内は静まり返っていたのではなく、むしろ敗残兵の収容と防戦で騒然としていたのである。

次に、「脱糞説」については、その元ネタが江戸時代初期に成立した『三河後風土記』に記されていることが確認できる。しかし、興味深いことに、この書物では、家康が脱糞したのは三方ヶ原の戦いではなく、その前哨戦である「一言坂の戦い」で武田軍に敗走した際の出来事として記述されている 38

これらの事実は、歴史物語における一種の「ナラティブ・グラビティ(物語的引力)」とでも言うべき現象を示唆している。人々の記憶は、複雑で断片的な事実よりも、シンプルで強力な一つの物語を好む傾向がある。家康の生涯には、一言坂の敗走や本能寺の変後の伊賀越えなど、複数の危機があった。しかし、その中でも「戦国最強の武田信玄に完膚なきまでに叩きのめされた」三方ヶ原の戦いは、最もインパクトが強く、象徴的な敗北である。そのため、物語をより面白く、教訓的にするために、本来は別の出来事であった「脱糞」や、異なる状況で行われた「城門開放」といったエピソードが、すべて三方ヶ原という一つの大きな物語の中に「移植」され、集約されていったと考えられる。これは、歴史的事実が、後世の人々の手によって、よりドラマチックで分かりやすい「物語」へと編集されていく過程を示す好例である。


結論:なぜ「しかみ像」の物語は語り継がれるのか

本報告書で検証してきた通り、「しかみ像」を三方ヶ原の敗戦直後に家康自身が自戒のために描かせたという逸話は、史実とは考え難い。それは、後世の人々が、一枚の不思議な表情の肖像画と、歴史上の劇的な大敗北を結びつけて創り上げた、感動的な「物語」である。

ではなぜ、史実ではないこの物語が、これほどまでに時代を超えて人々の心を打ち、語り継がれるのであろうか。その理由は、この物語が持つ三つの力に集約される。

第一に、「人間性の付与」である。江戸幕府を開き、「神君」として神格化された徳川家康は、ともすれば完璧で非の打ち所のない超人として捉えられがちである 7 。しかしこの逸話は、そんな家康に、強大な敵を前に恐怖し、判断を誤って後悔し、それでも失敗から学ぼうとする、極めて人間的な側面を与える 5 。この人間的な弱さや脆さこそが、家康という人物に共感と深みをもたらし、我々にとって身近な存在にしてくれるのである。

第二に、「普遍的な教訓」である。自らの最大の失敗を隠蔽するのではなく、敢えてそれを肖像画という形で記録し、生涯の戒めとするという物語は、立場や時代を超えて多くの人々の心に響く、普遍的な教訓を含んでいる 5 。失敗を直視し、その屈辱をバネにして未来の成功に繋げるという姿勢は、現代のビジネスリーダーシップ論などでも頻繁に引用されるほど、強力なメッセージ性を持っている 5

第三に、「物語の完成」である。「鳴くまで待とうホトトギス」という句に象徴される、忍耐の末に天下を獲るという家康のパブリックイメージを、この逸話は完璧に補強する 29 。人生最大の失敗が、後の最大の成功の礎となったという、この美しく完結した物語構造が、人々の記憶に深く刻み込まれるのである。

最終的に、「しかみ像」の逸話は、歴史的事実そのものではなく、「人々が歴史上の人物に何を求め、どのように記憶を形成していくか」を示す、極めて貴重なケーススタディと言える。それは、史実の彼方で生き続ける「物語の力」の、最も雄弁な証左なのである。

引用文献

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  2. 徳川家康の人生において最大の屈辱戦にして最悪の敗北を喫した ... https://www.rekishijin.com/27483
  3. 徳川家康三方ヶ原戦役画像 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/18704
  4. 家康「しかみ像」の謎 「三方ケ原の戦い」と無関係、仏像模した説も - NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/archives/20220116_1719864.html?DETAIL
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  6. しかみ像 - 岡崎城公園 - 岡崎市観光協会 https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/guide/19
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  37. 兵法三十六計の一つ、「空城の計」とは?|三方ヶ原の戦いで家康も使った?【戦国ことば解説】 https://serai.jp/hobby/1127156/2
  38. 【なにぶん歴史好きなもので】まさかの「家康の脱糞」が鍵?信玄にやられっぱなしの家康が唯一、一矢報いた「一言坂の戦い」の謎に迫る!|静岡新聞アットエス https://www.at-s.com/life/article/ats/1403430.html
  39. 徳川家康は、敗戦後、自分を戒めるために、しかめっ面の肖像画を依頼したのでしょうか? - Reddit https://www.reddit.com/r/AskHistorians/comments/11sj8kv/did_tokugawa_ieyasu_commission_a_portrait_of/?tl=ja