最終更新日 2025-10-13

明智光秀
 ~連歌会で「ときは今」と詠む~

明智光秀が本能寺の変直前に詠んだ「ときは今 あめが下しる 五月かな」の連歌。その真意と歴史的解釈の変遷を詳細に分析し、光秀の決意と詩歌の真実を解き明かす。

「ときは今」の深層:愛宕百韻における明智光秀の決意と詩歌の真実

序章:本能寺への序曲 ― 天正十年五月、光秀を取り巻く状況

天正10年(1582年)5月、明智光秀は、その後の日本の歴史を根底から揺るがすことになる決断の瀬戸際に立たされていた。この時期の光秀の置かれた政治的、軍事的文脈を理解することは、「愛宕百韻」という一見すると風雅な文学の会が、いかに尋常ならざる緊張感の中で催されたかを解き明かす鍵となる。

当時、光秀は織田信長配下の方面軍司令官として、比類なき功績を上げていた。丹波平定を成し遂げ、織田家中で確固たる地位を築いていた彼は、信長からの信頼も厚く、朝廷との折衝といった政務においても重用されていた 1 。その彼に、新たな指令が下されたのはこの5月のことであった。備中高松城にて毛利氏の軍勢と対峙する羽柴秀吉への援軍として、中国地方へ出陣せよとの命令である 2 。これは、光秀の軍事的能力への信長の期待を示すものであると同時に、織田軍の最前線を担う将としての重責を改めて課すものであった。

しかし、この出陣命令と前後して、光秀の立場を微妙にする出来事が起こる。5月15日から17日にかけて、信長の居城である安土城を訪れた徳川家康の饗応役を光秀は務めていた。この接待の最中、何らかの理由で信長の不興を買い、突如として役を解かれたという逸話が伝えられている 2 。この逸話の史実性については議論があるものの、光秀が常に信長の厳しい評価の目に晒され、些細なことでその関係が揺らぎかねない、極度の緊張状態にあったことを示唆している。

5月26日、光秀は中国攻めの軍備を整えるため、居城である近江坂本城を発ち、丹波亀山城に入った 2 。この亀山城こそが、後に本能寺へと向かう運命の出撃拠点となる。そして翌27日、光秀は「戦勝祈願」を名目として、京都の西にそびえる愛宕山へと参籠する 2 。愛宕山は古くから軍神である勝軍地蔵を祀る霊山として知られ、武将が出陣に際して戦勝を祈願する場として、これ以上ないほど自然な選択であった 4

だが、この「表向きの目的」の裏で、彼の心中では全く別の計画が、静かに、しかし確実に進行していた可能性が、後世の我々を惹きつけてやまない。愛宕山での参籠と、それに続いて催された連歌会は、単なる神仏への祈りにとどまらなかった。それは、謀反という国家転覆の壮挙を前にした光秀の精神的な儀式であり、自らの行動に「天意」と「正当性」を付与するための、周到に計算された文化的パフォーマンスであったのかもしれない。当代随一の文化人である里村紹巴らを招き、最高の格式を持つ連歌会を催すこと 6 。それは、自らが単なる武人ではなく、天下の舵取りを担うに足る教養と徳を備えた人物であることを、世に、そして何よりも自らに示すための行為であった。表向きは信長への忠誠(中国攻めの戦勝祈願)を装いながら 4 、来るべき行動の正当性を、文化の権威を借りて補強しようとする。この逸話の深層を探る旅は、この二重性から始まるのである。

第一章:運命の日の特定 ― 連歌会はいつ開かれたのか

「愛宕百韻」の逸話が持つ歴史的意味を正確に測る上で、避けては通れない最初の関門が、連歌会の開催日を特定することである。この日付は、光秀の謀反の決意がいつ固まったのか、その計画がどれほど切迫した状況で実行に移されようとしていたのかを計るための、極めて重要な指標となる。しかし、史料はこの点について一致を見ておらず、複数の説が乱立している。

最も劇的で、広く知られているのが「五月二十八日」説である。これは、本能寺の変(六月二日)のわずか4日前のことであり、羽柴秀吉の意を受けて事件直後に編纂された『惟任退治記』や、太田牛一による一級史料『信長公記』などの編纂史料に記されている日付である 8 。この日付は、連歌会での発句が謀反の決意を固めた直後の、生々しい心情の吐露であったという物語性を強く帯びており、後世の軍記物や創作において繰り返し採用されてきた。

一方で、『愛宕百韻』そのものの写本に目を転じると、異なる日付が浮かび上がる。『続群書類従』に収録されたものや国立国会図書館が所蔵する写本は「五月二十七日」としており 8 、さらにそれ以外の多くの写本は「五月二十四日」という日付を記している 9 。二十四日となれば、本能寺の変の8日前となり、二十八日説が持つような「変の前夜」といった切迫感は薄れる。

これらの説の信憑性を判断するために、極めて客観的な証拠が存在する。それは、当時の天候の記録である。複数の研究者が、京都の公家や奈良の僧侶が残した日記を照合した結果、当時の天候が明らかになっている 13 。それらの記録によれば、 天正十年五月二十四日は雨 、対して 五月二十八日は晴れ であったという 13

この事実は、決定的に重要である。なぜなら、光秀の発句「ときは今 あめが下しる(下なる) 五月かな」は、その解釈が「天が下知る(天下を治める)」であれ、「雨が下なる(雨が降っている)」であれ、いずれにしても句の情景として「雨が降っていること」を前提としているからである 13 。連歌の作法では、発句はその場の風情を詠むことが基本とされる 14 。晴れ渡った日に、ことさらに雨の句を詠むのは極めて不自然である。対照的に、雨が降っていた二十四日であれば、この句は季節の情景を詠んだ句として自然に成立する。

この天候の記録という客観的証拠は、「五月二十四日」説の信憑性を強く裏付ける。ではなぜ、『惟任退治記』や『信長公記』は「二十八日」と記したのか。ここに、歴史が記述される過程における、政治的な意図の介在を看取することができる。特に、秀吉の光秀討伐を正当化する目的で書かれた『惟任退治記』 13 が、日付を変の直前である二十八日に設定し、発句を「まさしく謀反の兆しであった」と断定したことは示唆に富む 8 。日付を事件の直前に置くことで、光秀の行動が突発的なものではなく、「周到に準備された大逆」であったという印象を強く植え付けることができる。つまり、私たちが慣れ親しんできた「変の直前に、謀反の決意を歌に込めた」というドラマチックな逸話は、事件の後に勝者によって、その行動を正当化するために構築された物語である可能性が極めて高いのである。

第二章:威徳院の一座 ― 集いし者たちの肖像

運命の連歌会は、どのような場所で、いかなる人々によって催されたのか。その舞台と参加者の顔ぶれを解き明かすことは、この会が単なる私的な遊興ではなく、高度な文化的・社会的意味を持つイベントであったことを明らかにする。

会が催された場所は、京都の西、愛宕山の山中にあった愛宕神社(当時は白雲寺と称した)の五つの坊の一つ、西之坊威徳院であった 7 。ここは、戦勝祈願の対象である勝軍地蔵信仰の中心地であり、武将が祈りを捧げるにふさわしい神聖な空間であった。

この威徳院に集ったのは、史料によれば計9名とされる 16 。その構成は、光秀を中心とした三つのグループに大別できる。第一に、主催者である 明智方 。光秀本人に加え、嫡男の明智(十兵衛)光慶、そして家臣の東六郎兵衛行澄が名を連ねる 16 。第二に、この会の格式を決定づける 連歌師 たち。宗匠(指導役兼審判)を務めたのは、当代随一の連歌師として公家から武家まで絶大な影響力を持っていた里村紹巴である 6 。彼に加え、その高弟で娘婿でもある昌叱、同じく弟子の心前、そして猪苗代家の高名な連歌師である兼如が参加した 16 。第三のグループは、亭主(開催場所の主)として一座をもてなした 愛宕山側 の人物、すなわち威徳院の住職であった行祐と、同じく愛宕山の上之坊大善院の住職であった宥源である 7

特に重要なのは、宗匠である里村紹巴の存在である。彼は単なる詩歌の専門家ではなかった。信長や秀吉、細川幽斎、三好長慶といった時の権力者たちと深く交流し、彼らの文化的な顧問であると同時に、時には政治的な交渉の仲介役すら務める、戦国社会のキーパーソンであった 18 。その紹巴が宗匠として一座を仕切ることは、この連歌会に最高の文化的権威を与えることを意味した。

以下の表は、この一座の構成と、各人が百句の中で詠んだ句数を示したものである。

表1:愛宕百韻 主要参加者一覧

氏名

立場・役職

光秀との関係

詠句数

明智光秀

主催者・客

-

15句

明智光慶

光秀の嫡男

息子

1句

東行澄

光秀の家臣

家臣

1句

里村紹巴

宗匠(連歌師)

文化的交流

18句

昌叱

連歌師

紹巴の弟子

16句

心前

連歌師

紹巴の弟子

15句

兼如

連歌師

猪苗代家

12句

行祐

威徳院住職(亭主)

開催地の主

11句

宥源

大善院住職

愛宕山関係者

11句

出典: 16 に基づき作成

この表からいくつかの重要な点が読み取れる。まず、プロの連歌師である紹巴と昌叱の詠句数が、主催者である光秀を上回っていることである 16 。これは、彼らが単なる客ではなく、連歌の進行を実質的にリードする専門家として機能していたことを示している。一方で、光秀の嫡男・光慶が詠んだのは、百句を締めくくる最後の一句(挙句)のみであった 21 。これは、彼が後継者として会全体を総括し、祝言を述べるという象徴的な役割を担ったことを示唆している。

この参加者の構成は、光秀が自らの軍事的・政治的ネットワーク(家臣)、文化的なネットワーク(当代一流の連歌師たち)、そして地域の宗教的権威(愛宕山の住職たち)を巧みに結集させ、この会をきわめて多層的な意味を持つ場として設定していたことを物語っている。それは、単なる戦勝祈願の儀式でも、風流な文学サロンでもない。光秀の持つ全ての社会的資本が投入された、一大イベントだったのである。

第三章:「ときは今」― 発句に秘められた二重の意味

本報告書の核心であり、四百年以上にわたって人々の想像力を掻き立ててきたのが、光秀自身が詠んだ連歌会の最初の一句、すなわち発句である。

ときは今 あめが下しる(下なる) 五月かな 6

このわずか十七音の句が、謀反の決意表明であったのか、それとも単なる季節の詠嘆であったのか。その解釈は、句の中七(なかしち)にあたる「あめが下しる」という部分の表記と、そこに込められた掛詞(かけことば)の解読に懸かっている。史料には主に二つの表記が伝わっており、それぞれが全く異なる意味の世界を開く。

第一の解釈は、「 あめが下しる(天が下知る) 」という表記に基づくものである。

  • 表の意味: 文字通りに解せば、「今は雨が降っていて、季節が五月であることを知るなあ」となり、梅雨の情景を詠んだ句となる 14
  • 裏の意味: しかし、この句は驚くべき掛詞を含んでいると解釈されてきた。「とき」は「時」であると同時に、光秀の出自とされる美濃の守護大名「 土岐氏 」を指す。「あめが下」は「雨が下」と同時に「 天が下 」を意味する。そして「知る」は、古語において「治める、統治する」という意味を持つ動詞である 17 。これらを繋ぎ合わせると、「 土岐氏の一族である私が、今こそ天下を治める五月が来たのだ 」という、天下簒奪の野望を宣言する句が浮かび上がる 17 。この解釈こそが、本能寺の変とこの句を直結させる「謀反決意表明説」の根幹をなす。

第二の解釈は、「 あめが下なる(雨が下なる) 」という表記に基づくものである。

  • 意味: こちらは「今はちょうど、雨が降っている最中の五月だなあ」という意味になる 5 。この場合、「知る(治る)」という能動的な動詞が、「なる(である)」という状態を示す助動詞に変わるため、謀反の意図を直接的に読み取ることは困難になる。あくまで五月雨の情景を客観的に描写した句であり、もし裏の意味を探るとしても、「土岐氏は今、降りしきる雨のような苦境の中にある」といった、むしろ悲壮な感慨を詠んだものと解釈することも可能である 11

問題は、どちらの表記が原型に近いのかという点である。以下の表は、主要な史料における発句と、それに続く脇句の表記の異同を比較したものである。

表2:発句・脇句の史料による異同比較

史料名

年代・性格

発句(中七)

脇句(下五)

『惟任退治記』

天正10年頃(秀吉側)

天下 しる

(記述なし)

『信長公記』(建勲神社本)

天正末期~

あめが下 知る

庭の まつ

『信長公記』(池田家本)

江戸初期写

あめか下 なる (修正跡あり)

(記述なし)

『愛宕百韻』(続群書類従本)

江戸期写

天が下 なる

庭の

『愛宕百韻』(その他写本)

-

天が下 しる

庭の

出典: 8 に基づき作成

この表が示すように、光秀の謀反と結びつけて記述する『惟任退治記』などは明確に「下しる」と記す 8 。一方で、『信長公記』の信頼性の高い写本の一つである池田家本では「下なる」となっており、しかも元々「下知る」であったものを「下なる」に修正した痕跡が見られるという指摘がある 17 。これは、太田牛一の最終的な認識としては「下なる」が正しかった、あるいはそうあるべきだと考えられていた可能性を示唆する。

この状況から、一つの仮説が導き出される。光秀は、あえて「しる」とも「なる」とも解釈できる、極めて曖昧な表現を選んだのではないか。仮に謀反の決意を固めていたとしても、当代一の連歌師である紹巴をはじめとする一座の面前で、あまりに露骨な謀反の句を詠むのは、計略を事前に漏洩させかねない危険な行為である 4 。連歌は、言葉の多義性を楽しむ知的遊戯の側面を持つ 20 。光秀は、表向きは季節の句として完璧に成立させつつ、その裏に真意を忍ばせるという、高度な文学的技巧を駆使したのかもしれない。仮名で書けば「したしる」と「したなる」は音も近く、筆跡によっては判別が難しい場合もある。後からどちらの意味にも言い逃れができるように、意図的にこの絶妙な言葉を選んだとすれば、それは教養人であった光秀の周到さと、ただならぬ覚悟の表れと見ることもできるだろう。

第四章:連歌の応酬 ― 脇句と第三句に響く共鳴

連歌は一人の詩人の独白ではなく、複数の詠み手が句を継ぎ足していくことで完成する、共同創作の芸術である。したがって、光秀の発句の真意を探るには、その句に他の参加者がどのように応答したのかを分析することが不可欠となる。特に、発句に続く脇句(二の句)と第三句は、最初の三句として「三つ物(みつもの)」と呼ばれ、百韻全体の基調を定める重要な役割を担う 14

光秀の発句に応答したのは、まず亭主である威徳院住職・行祐であった。

【脇句】 水上まさる 庭の夏山 (行祐 作) 11

この句は、連歌の作法に則った巧みな一句である。脇句は発句と同じ季節の季語を用いることがルールであり 14 、この句は「夏山」という季語を入れることでその規則を満たしている。また、「水上(みなかみ)」という言葉は、光秀の句の「雨」を受けて、川の水量が増している情景を連想させ、発句の世界観と見事に一体化している。しかし、この句にはもう一つの意味が潜んでいる可能性がある。「まさる」は「増さる」と同時に「 勝る 」にも通じる言葉である。光秀の発句に込められた(かもしれない)決意を汲み取り、亭主としてその「勝利」を祈願する言葉を、巧みに句に織り込んだのではないか、という解釈が可能なのである 11

続いて、宗匠である里村紹巴が第三句を詠む。

【第三句】 花落つる 流れの末を せきとめて (紹巴 作) 11

この句は、行祐の句にも増して、極めて不穏な響きを帯びている。連歌の作法上、第三句は脇句の世界観(庭の夏山)に付けつつ、発句からは離れて場面を転換させる「打越(うちこし)」という技法が用いられる 26 。紹巴の句は、脇句の「水」や「庭」から「池」へと場面を転じさせており、作法としては完璧である。しかし、その言葉の選択は尋常ではない。

花落つる 」とは、文字通りには花が散る様であるが、古来より高貴な人物の死を暗示する比喩として用いられてきた。「 流れの末 」は、川の行く末であると同時に、血筋の末裔を意味することもある。「 せきとめて 」は、その流れを止める、阻止するという強い意志を示す言葉である。これらを繋ぎ合わせると、「高貴な人物(信長)が命を落とし、その血筋(信忠ら)の行く末を堰き止める」という、数日後に起こる本能寺の変そのものを予言するかのような、戦慄すべき一句が立ち現れる 11

この一連の応酬は、単なる偶然とは考えにくい。言葉のプロフェッショナルである行祐と紹巴が、光秀の発句に込められたただならぬ気配を敏感に感じ取った結果と見るべきであろう。彼らは、光秀が提示した多義的な世界観に対し、同じく多義的で不穏な言葉を返すことで応答した。それは、連歌の作法という「言い訳」が立つ安全な範囲内で、最大限に踏み込んだ意思表示であった。この三句のやり取りは、直接的な言葉こそ交わされていないものの、詩歌の形式を借りた緊張感あふれる「リアルタイムな会話」そのものであり、一座が共有した覚悟、あるいは少なくともその覚悟への黙認の証左と解釈することができる。彼らは詩歌を通じて、危険な共犯関係を結んだのかもしれない。

第五章:百韻の行方 ― 歌会全体の流れと終焉

「愛宕百韻」を巡る議論は、その衝撃的な内容から、どうしても最初の三句に集中しがちである。しかし、連歌は百句を詠み重ねて初めて一つの作品として完結する。歌会全体の流れ、特に光秀が詠んだ他の句や、会を締めくくる最後の一句を分析することで、この百韻に込められた通底音や、光秀の心境の推移をより深く理解することができる。

光秀はこの日、発句を含めて計15句を詠んでいる 16 。その中には、彼の決意を裏付けるかのような句も見受けられる。例えば、百韻の17句目に詠んだ以下の句である。

月は秋 秋はもなかの 夜はの月 (光秀 作) 21

これは、連歌のルール上、秋の句を詠むべき場面(月の定座)で詠まれた一句である。古歌「水の面に照る月なみを数ふれば今宵ぞ秋のも中なりける」を踏まえた教養の深さを示すと同時に 10 、その内容は示唆に富む。「もなか(最中)」とは、まさに真ん中、頂点を意味する。天下取りという大望を目前にした光秀の、一点の曇りもない澄み切った月のような、漲る気迫が感じられると解釈することも可能である 10

そして、百句にわたる詩歌の旅は、光秀の嫡男・光慶が詠んだ挙句(あげく)によって締めくくられる。

【挙句】 国々は猶のどかなる時 (光慶 作) 11

連歌の最後は、祝言(しゅうげん)、すなわちめでたい言葉で結ぶのが習わしである 14 。この句は表向き、「国々はこれからも、ますます平和でありますように」という、泰平の世を祝福する言葉として完璧にその役割を果たしている。

しかし、この句が詠まれた背景を思うとき、その言葉は強烈な皮肉と悲劇性を帯びて響く。父が天下を根底から覆す大事件を起こす直前に、その息子が「のどかなる時」と詠む。これは、来るべき動乱を知らない無邪気な祈りだったのか。それとも、父の「革命」によってもたらされるであろう「新しい平和な時代」への期待を込めた、確信に満ちた宣言だったのか。

この構造は、愛宕百韻という作品全体が持つ二重性を象徴している。表向きのテーマは、中国攻めの「戦勝祈願」であり、その先にある「天下泰平の祝福」である。しかし、その水面下では、光秀の発句に始まり、紹巴の句で増幅された「破壊」と「再生」の物語が、通奏低音のように流れ続けていた。そして最後の挙句で、再び「のどかなる時(平和)」という表のテーマに回帰する。これは、光秀が自らの行動を、単なる秩序の破壊ではなく、新たな泰平の世を創出するための「リセット」として位置づけていたことの表れではないか。だとすれば、この愛宕百韻は、彼にとっての壮大な「革命のシナリオ」そのものであった可能性すらある。

第六章:歴史の中の「愛宕百韻」― 逸話の形成と変容

愛宕山の威徳院で交わされた詩歌の応酬は、その後、歴史の中でどのように語られ、今日我々が知る「逸話」として定着していったのか。その過程を追うことは、歴史的事実そのものだけでなく、「歴史がいかに語られるか」という問題を浮き彫りにする。特に、本能寺の変の勝者となった羽柴秀吉側の視点が、この物語の形成に決定的な影響を与えたことは間違いない。

逸話の形成過程において重要な役割を果たしたのが、宗匠であった里村紹巴が、変の後に秀吉から受けたとされる尋問の物語である。山崎の合戦で光秀を討ち破った秀吉は、紹巴を呼び出し、連歌会で光秀の謀反の意図を察知していたのではないかと厳しく問い詰めた、という逸話が広く知られている 5 。この逸話の直接的な史料的裏付けは必ずしも明確ではないが 28 、後世の注釈書などで繰り返し語られてきた。

その中で紹巴は、身の危険を感じ、巧みな弁明で難を逃れたとされる。例えば、「光秀が詠んだのは元々『あめが下なる』という、単なる五月雨の情景を詠んだ無害な句であった」と主張した、あるいは「光秀自身が後から『下しる』という謀反の句に書き換えたのだ」と責任を転嫁した、などと伝えられている 10 。この弁明の真偽はともかく、この物語は「下しる」と「下なる」という二つのバージョンの存在を人々に強く印象づけ、「下しる」こそが光秀の真意を示す危険な句であった、という認識を広める上で大きな役割を果たした。

この認識を決定的なものとしたのが、秀吉の御伽衆であった大村由己が事件からわずか数ヶ月後に著した『惟任退治記』(天正記)である。この書物は、秀吉による光秀討伐という「正義の戦い」を正当化するための、いわば公式戦記であった 13 。その中で、『惟任退治記』は光秀の発句を「ときは今 天下しる 五月哉」と明確に「しる」の字で記し、「今これを推量するに、この句がまさしく謀反の兆しであった」と断定的に解説したのである 8 。これにより、「ときは今=謀反の表明」という解釈は、勝者による歴史的な「お墨付き」を得た。

こうして形成された劇的な解釈は、江戸時代に入ると『明智軍記』に代表される数々の軍記物語によって、さらに脚色され、大衆の間に広く浸透していった 29 。これらの物語の中で、光秀は周到に天下簒奪を狙う野心家として描かれ、愛宕百韻はその計画を象徴する場面として位置づけられた。歴史的事実の可能性を超えた、一つの完成された「物語」としての逸話が、ここに誕生したのである。

したがって、「愛宕百韻」の逸話は、歴史の事実そのものよりも、「歴史の物語化」を象徴する格好の事例と言える。一つの詩歌が持つ多義的な解釈の可能性が、勝者の政治的意図によって一つに収斂され、それが後世の我々の歴史認識を深く規定している。我々がこの逸話を分析する際には、光秀の心の中を探ると同時に、その後の権力者たちが彼の心をどのように「創作」し、語り継いできたのかという、もう一つの物語にも目を向けなければ、その本質に迫ることはできないだろう。

結論:歌は心を語るか ― 謀反の証左としての再評価

本報告では、「愛宕百韻」における明智光秀の「ときは今」という逸話について、開催日時、参加者、詠まれた句の多義的解釈、そして逸話が形成された歴史的過程を、史料に基づき多角的に検証してきた。全ての分析を統合し、この歴史的逸話の真実について、最終的な見解を提示する。

第一に、連歌会の開催日は、天候の記録という客観的証拠から、本能寺の変の8日前にあたる「天正十年五月二十四日」であった可能性が極めて高い。広く信じられている「五月二十八日」説、すなわち「変の前夜」という劇的な設定は、事件後に光秀の計画性を強調するために、勝者である秀吉側によって創作、あるいは修正された物語である蓋然性が高い。

第二に、光秀が詠んだ発句の原型は、「あめが下なる」であったか、あるいは意図的に「下しる」と「下なる」の両義性を持たせたものであった可能性が考えられる。少なくとも、一座の面前で「私が天下を治める」とあからさまに宣言したと解釈するのは、あまりに短絡的であろう。しかし、それに続いた行祐の脇句、そして紹巴の第三句が、明らかに光秀の発句に呼応し、極めて不穏な言葉を選んで詠まれている事実は見過ごせない。この詩歌による応酬は、一座、少なくともその中心人物たちが、光秀の尋常ならざる決意を共有、あるいは鋭敏に察知していたことを強く示唆している。

第三に、この連歌会が「謀反の決意表明の場」として決定的な形で後世に語られるようになった背景には、本能寺の変後の秀吉による巧みな政治的プロパガンダの影響が色濃く存在する。『惟任退治記』をはじめとする史書が、曖昧な詩歌の解釈を「明白な反逆の証拠」として断定し、それが江戸時代の軍記物語を通じて大衆に流布することで、今日の我々が知るドラマチックな逸話へと昇華されたのである。

以上の考察から導き出される結論は以下の通りである。「愛宕百韻」は、光秀が謀反の計画を声高に宣言した場ではなかった。むしろそれは、極度の緊張の中、詩歌という洗練されたオブラートに包んで自らの覚悟を確かめ、信頼できる同調者と意思の疎通を図った、高度に象徴的な儀式であった。そして、その曖昧で多義性に満ちた言葉のやり取りが、後に歴史の勝者によって都合よく再解釈され、一つの明確な「物語」として固定化された。

この逸話の真相は、光秀一人の心の中だけに存在するのではない。それは、彼と一座の連歌師たちが交わした詩的な共鳴と、その後の権力者たちが紡いだ歴史の物語との、二つの層の間にこそ見出されるべきなのである。歌は確かに心を語る。しかし、その歌が何を語っているのかを決めるのは、往々にして、歌の詠み手ではなく、その後の時代の聞き手なのである。

引用文献

  1. 明智光秀の「三日天下」を徹底解剖:権力掌握11日間に隠された戦略性と致命的欠陥 https://stak.tech/news/27839
  2. History2 歴史上最大の下克上「本能寺の変」とは - 亀岡市公式ホームページ https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/1267.html
  3. 『信長公記』にみる信長像⑥ 本能寺編|Sakura - note https://note.com/sakura_c_blossom/n/na7d93f6b90c1
  4. 【麒麟がくる】史料で追う「本能寺の変」。明智光秀は信長の弱点を知っていた - 婦人公論 https://fujinkoron.jp/articles/-/3223?page=2
  5. ときは今 雨が下しる 五月哉 - 保津川下り https://www.hozugawakudari.jp/blog/%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%81%AF%E4%BB%8A%E3%80%80%E9%9B%A8%E3%81%8C%E4%B8%8B%E3%82%8B%E3%80%80%E4%BA%94%E6%9C%88%E5%93%89
  6. 愛宕百韻(アタゴヒャクイン)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%84%9B%E5%AE%95%E7%99%BE%E9%9F%BB-1714043
  7. Q.愛宕百韻とは何ですか? | 一般社団法人 明智継承会 https://akechikai.or.jp/archives/mitsuhide-qa/57860
  8. 愛宕百韻 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E7%99%BE%E9%9F%BB
  9. 『 愛 宕 百 韻 』 の 注 解 と 再 検 討 - 奈良工業高等専門学校 https://www.nara-k.ac.jp/nnct-library/publication/pdf/r1_kiyo_6.pdf
  10. 愛宕百韻秘話 https://tourikadan.sakura.ne.jp/tetugaku/tanaka_4_1.html
  11. 教養人・光秀と連歌 ~愛宕百韻は本能寺の変の決意表明だったのか? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/836
  12. 第121話 愛宕山威徳院で連歌会をしました。 | 一般社団法人 明智継承会 https://akechikai.or.jp/archives/oshiete/60652
  13. SEが歴史を捜査したら「本能寺の変」が解けた - 情報システム学会 https://www.issj.net/mm/mm0508/mm0508-5-ln.html
  14. 第122話 愛宕百韻 連歌会のルールと作られた記録 https://akechikai.or.jp/archives/oshiete/60671
  15. akechikai.or.jp https://akechikai.or.jp/archives/mitsuhide-qa/57860#:~:text=%E8%A7%A3%E8%AA%AC%EF%BC%8E,%E3%81%9F%E9%80%A3%E6%AD%8C%E3%81%AE%E4%BC%9A%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82
  16. 第5回楽学楽座 明智光秀の謎に迫るー愛宕百韻の謎ーレポート - アメブロ https://ameblo.jp/oda-sha/entry-12294485967.html
  17. 見本 https://umenoyaissei.com/atagohyakuinrenga.html
  18. 里村紹巴- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E9%87%8C%E6%9D%91%E7%B4%B9%E5%B7%B4
  19. 連歌の欠落 - 明星大学 人文学部 日本文化学科 https://www.jc.meisei-u.ac.jp/course/105/
  20. 連歌師とは何者?連歌会とはどんな場?戦国時代の不思議な職業の秘密とは? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/63285/
  21. 愛宕百韻全文 http://www.jomon.ne.jp/~kmt/o02-atago.html
  22. [249]ときは今あめが下知る五月哉 - 未形の空 https://sorahirune.blog.fc2.com/blog-entry-249.html
  23. 講座13>中世の連歌(長文注意) - BIGLOBE http://www5b.biglobe.ne.jp/~kyonta/renku/koza13.htm
  24. K'sBookshelf 資料 本能寺の変 愛宕百韻 https://ksbookshelf.com/HJ/Hyakuin.htm
  25. 連歌の基礎知識/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/39220/
  26. 第三章 連歌の形式、式目、句の詠み方 https://www.sunny-himawari.jp/_userdata/%E9%80%A3%E6%AD%8C%E3%81%AE%E5%BD%A2%E5%BC%8F.pdf
  27. 739夜 『連歌の世界』 伊地知鉄男 - 松岡正剛の千夜千冊 https://1000ya.isis.ne.jp/0739.html
  28. 紹巴について次のように要約してみたことがある。 https://www.i-repository.net/il/user_contents/02/G0000632repository/jtk1988003.pdf
  29. 「敵は本能寺にあり」は本当に言ったのか? 名言の虚実を追う|じっくり歴史クラブ - note https://note.com/kind_minnow5155/n/n860129b1b339
  30. NHK大河が描く明智光秀像の変遷 野心家から実直な人物へ - NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/archives/20200112_1519324.html?DETAIL