最終更新日 2025-10-14

本多忠勝
 ~一騎で押しとどめ鹿角の兜~

本多忠勝は一言坂の戦いで殿を務め、家康の窮地を救った。その武勇は敵将をも感服させ、「家康に過ぎたるもの」と称賛された。鹿角の兜と蜻蛉切が彼の伝説を象徴する。

本多忠勝、一言坂の退き口 ― 鹿角の兜、敵中に吼える

序章:西風圧す ― 巨星、遠江に動く

元亀三年(1572年)秋、日本の勢力図を根底から揺るがす巨大な軍事行動が開始された。甲斐の虎、武田信玄が、遂にその牙を西へ向けたのである。この「西上作戦」は、室町幕府第15代将軍・足利義昭が発した織田信長討伐の呼びかけに応える形で実行されたものであった 1 。信玄の視線の先には、同盟者である徳川家康の領国・遠江、そしてその先に待つ織田信長との天下を賭けた決戦があった 4

信玄が動員した兵力は、北条氏政からの援軍を含め総勢3万ともいわれる大軍であった 1 。軍は三隊に分かれ、山県昌景率いる5,000の兵が三河へ、秋山虎繁の部隊が美濃へ、そして信玄自らが率いる本隊2万以上が信濃の青崩峠を越えて遠江へと雪崩れ込んだ 1 。その進軍は凄まじく、10月13日には北遠江の徳川方諸城をわずか一日で次々と陥落させた 2 。侵攻開始と同時に、徳川配下の国人であった天野景貫が武田方へ寝返るなど、徳川の支配体制は足元から崩壊の危機に瀕していた 1

この未曾有の国難に対し、徳川家康が動員できた兵力は、三河の守りを固める兵も含めてわずか8,000余りに過ぎなかった 1 。頼みの綱である同盟者・織田信長は、近江の浅井・朝倉連合軍との戦いに忙殺されており、援軍を期待できる状況にはなかった 1 。圧倒的な兵力差、そして孤立無援という絶望的な状況下で、家康は自らの本拠・浜松城に迫る武田軍と対峙せねばならなかったのである。

この状況下で、両軍の衝突はもはや避けられない運命にあった。武田軍の戦略目標は、遠江支配の要であり、浜松城と掛川城を結ぶ兵站線を遮断する要衝・二俣城の攻略にあった 1 。信玄にとって、この城を落とすことは、徳川を無力化し、安全に西へ進むための絶対条件であった。一方の家康にとっても、二俣城は遠江支配の生命線であり、これを失うことは領国の崩壊に直結する。両者の戦略的目標が二俣城という一点で交差したことで、兵力で劣る徳川軍は、危険を承知の上で偵察に出ざるを得ない状況へと追い込まれていく。後に本多忠勝の武名を天下に轟かせることになる「一言坂の戦い」は、こうした地政学的な必然性の中から生まれた、避けられない衝突だったのである。

表1:一言坂の戦い 主要登場人物と役割

人物名

当時の立場・役割

本多忠勝(平八郎)

徳川軍の武将。当時25歳。偵察部隊を率い、後に殿軍を務める。

徳川家康

徳川軍総大将。遠江国・浜松城主。武田軍の猛攻に直面する。

武田信玄

武田軍総大将。当代随一の戦術家。西上作戦を指揮。

馬場信春(信房)

武田四天王の一人。武田軍の先鋒として徳川軍を猛追する歴戦の将。

小杉左近

武田信玄の近習。忠勝の退路を断つ別動隊を率いるが、その武勇に感服する。

第一章:天竜川の霧中 ― 斥候、敵影に触れる

武田軍の脅威が刻一刻と浜松城に迫る中、徳川家康は苦渋の決断を下す。このまま籠城していても、いずれは圧倒的な兵力に飲み込まれる。せめて敵の兵力、進路、そして士気をその目で確かめ、今後の戦略を立てる必要がある。家康は、全面的な決戦は避けつつ、あくまで偵察を目的として3,000の兵を率いて浜松城から出陣した 1 。本多忠勝、内藤信成、大久保忠佐といった徳川家を支える歴戦の将たちが、主君の馬前に付き従った 9

軍の中でも、忠勝と内藤信成が率いる一隊は斥候として本隊に先行し、天竜川を渡河した 1 。彼らに課せられた任務は、武田軍の最前線を捕捉し、その実態を明らかにすることであった。しかし、彼らがそこで目の当たりにしたのは、徳川軍の想定を遥かに超える現実であった。

元亀三年十月十三日。遠江国磐田の木原畷(きはらなわて)付近で、忠勝らの偵察隊は突如として武田軍の先鋒部隊と接触した 8 。それは、武田四天王の一角にして百戦錬磨の猛将・馬場信春が率いる精鋭であった 1 。徳川方の予想では、武田本隊はまだ天竜川の東岸にいるはずであった。しかし、現実には敵の先鋒は既に行動を開始し、徳川軍の目と鼻の先にまで迫っていたのである。この事実は、徳川軍首脳部に戦慄を走らせた 1

この逸話における本多忠勝の英雄的行為は、その前提として、徳川軍全体が陥った「情報戦の敗北」から生まれている。武田軍の神速ともいえる進軍速度を完全に見誤っていたという初動の失敗が、徳川軍を為すすべなく退却戦へと追い込んだ。忠勝という英雄の活躍が必要とされたのは、主君である家康の戦略的判断が、敵の機動力の前に裏をかかれたからに他ならない。

予期せぬ遭遇に、忠勝の偵察隊は小競り合いの後、すぐさま反転し退却を開始する 11 。急報を受けた家康も、敵の圧倒的な兵力と機動力を悟り、全軍に浜松城への即時撤退を命じた 1 。しかし、一度動き出した武田の巨獣は、そう易々と獲物を逃しはしなかった。馬場信春隊は退却する徳川軍に猛然と襲いかかり、太田川の支流である三箇野川や見付宿周辺で、徳川軍が望まぬ形での大規模な戦闘が開始された 1 。混乱の中、家康は「見付の宿に火を放ち、路を塞ぐのじゃ!」と叫び、焦土戦術による遅滞を図るが、武田軍の追撃の勢いは衰えることを知らなかった 8 。徳川軍は、総崩れの危機に瀕していた。

第二章:一言坂の死線 ― 殿軍、平八郎忠勝

見付宿から命からがら退却し、一言坂と呼ばれる丘陵地でどうにか兵をまとめ、一息つこうとした家康本隊。しかし、その安堵も束の間であった。見付の炎をものともせず、街道を迂回した武田軍の騎馬が、再び地響きを立てて迫ってきたのである 8 。先頭に立つのは、赤備えで知られる山県昌景の部隊とも、馬場信春の部隊ともいわれる武田軍の精鋭中の精鋭であった 14

もはやこれまでか。徳川の将兵の顔に絶望の色が浮かんだその時、一人の若武者が家康の前に進み出た。当時25歳、血気盛んな本多平八郎忠勝であった。彼は、その手に握る長大な槍を掲げ、朗々と告げたという。

「殿軍(しんがり)、承り候っ!」 8

殿とは、退却する本隊の最後尾にあって、追撃してくる敵を食い止める最も危険で、最も過酷な任務である。生還の保証はなく、まさに死地に身を投じるに等しい。しかし、忠勝は臆することなく、この重責を自ら買って出たのである。

忠勝が陣取った一言坂は、大軍が一度に展開するには狭すぎる隘路(あいろ)であった 13 。彼はこの地形を瞬時に理解し、少数で大軍の足を止めるための戦術を組み立てた。しかし、状況は絶望的であった。武田軍は坂の上という高所に陣取り、忠勝隊は坂の下からこれを迎え撃たねばならなかった 1 。圧倒的な地の不利である。

だが、忠勝は怯まなかった。名槍「蜻蛉切」を電光のように閃かせ、坂を駆け下りてくる武田軍の猛攻に対し、退いては反転し、反転しては突撃するという離れ業を幾度となく繰り返した 15 。『三河物語』などの軍記物によれば、その反撃は七、八度にも及んだと記されている。その鬼神の如き働きは、さすがの武田勢の追撃の勢いを鈍らせ、家康本隊が安全圏まで離脱するための貴重な時間を稼ぎ出した。

この時の忠勝の戦いぶりは、単なる個人の武勇に頼ったものではなかった。彼は「大滝流れの陣」と呼ばれる陣形を駆使したと伝わる 1 。これは、敵の激しい突撃を正面から受け止めるのではなく、滝の水が岩を避けて流れるように柔軟に受け流し、敵の勢いが衰えた瞬間に鋭い反撃を加えるという高度な戦術であったと推測される。この事実は、忠勝が単なる猪武者ではなく、戦場の状況を冷静に分析し、部隊を巧みに指揮する戦術眼を兼ね備えた指揮官であったことを示している。一言坂における殿の成功は、一個人の超人的な武勇(ミクロ)と、部隊を率いる指揮官としての戦術的能力(マクロ)が、高い次元で融合した結果だったのである。この獅子奮迅の働きにより、徳川家康とその本隊は、九死に一生を得て浜松城への帰還を果たした 8

第三章:鬼か人か ― 鹿角の兜、戦場に吼える

一言坂の戦場において、本多忠勝の存在を敵味方に強烈に印象付けたのは、その比類なき武勇だけではなかった。彼の身を包む、異様にして畏怖を抱かせる武具の数々もまた、その伝説を形成する上で不可欠な要素であった。

忠勝の象徴ともいえるのが、その兜である。「鹿角脇立兜(かづのわきだてかぶと)」 17 。兜の左右に天を突くように備え付けられた長大な鹿の角は、敵味方が入り乱れる乱戦の中でも、一際異彩を放っていた。この兜の由来には、若き日の忠勝が偵察中に道に迷った際、どこからともなく現れた一頭の牡鹿に導かれて無事に帰還できた経験から、鹿を八幡大菩薩の使いと崇め、その角を兜の意匠に取り入れたという逸話が残されている 17 。『甲陽軍鑑』にも「彼平八郎、甲(かぶと)にくろきかの角を立」との記述があり、この戦いの時点で既に彼のトレードマークとして定着していたことが窺える 18

この特異な兜が戦場で与える心理的効果は絶大であった。後世、彼の姿を詠んだ川柳に「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかと分からぬ兜なり」とあるように、その姿は敵兵にとって人知を超えた「鬼」の如き存在として映ったのである 19

その手に握られていたのは、天下三名槍の一つに数えられる名槍「蜻蛉切(とんぼきり)」 17 。穂先に止まった蜻蛉が、触れただけで真っ二つに切れたという逸話からその名がついたこの槍は、全長が二丈(約6メートル)にも及ぶ破格の長さを誇った 17 。当時の標準的な槍の長さが約4.5メートルであったことを考えれば、そのリーチの長さは圧倒的なアドバンテージとなる。敵が自身の攻撃範囲に入る前に、忠勝は一方的に敵を屠ることができたのである 22

さらに、その出で立ちは、黒で統一された「黒糸縅胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)」に、肩からは戦場で討ち取った敵兵を弔うための金の大数珠を掛けていたという 18 。漆黒の甲冑は精悍さと威圧感を演出し、陽光を反射して輝く金の大数珠は、その異様な姿に宗教的な荘厳さすら与えていた 17

これらの武具は、単なる防具や武器ではなかった。鹿角の兜、蜻蛉切、黒具足、大数珠という一連の装備は、組み合わさることで「本多忠勝」という唯一無二の記号を戦場で形成した。敵は「鹿角の兜」を視認した瞬間に、「生涯無傷の猛将、本多平八が来た」と認識し、恐怖に駆られる。味方はその姿を見て士気を鼓舞される。これは、自らの武勇を視覚情報として敵味方に発信する、極めて高度な自己演出であり、戦場における強力なパーソナル・ブランディング戦略であったと言える。彼の武勇の伝説は、この強烈なブランドイメージによって、敵兵が彼との直接対決を躊躇した結果、さらに揺るぎないものとなっていったのである。

第四章:武士の情け ― 小杉左近、道を開く

一言坂での忠勝の奮戦は、クライマックスを迎える。坂の上からの馬場信春隊の猛攻を凌ぎ、どうにか退却の途につこうとする忠勝隊。しかし、武田軍の策はそれほど甘くはなかった。信玄は、忠勝隊の退路を完全に断つべく、一言坂のさらに下、退路の先に近習である小杉左近が率いる別動隊を先回りさせていたのである 1 。前門の虎、後門の狼。忠勝隊は完全に包囲され、絶体絶命の窮地に陥った。

もはや生きて帰る道はない。忠勝と彼の部下たちは、死を覚悟した。彼らは、生還を期さない「死兵」と化し、退路を塞ぐ小杉隊へ向かって最後の突撃を敢行する 1 。それは、武士としての意地を懸けた、壮絶な玉砕覚悟の突貫であった。

坂の下で待ち構える小杉左近は、坂の上での忠勝の鬼神の如き戦いぶりを一部始終見ていた。そして今、満身創痍のはずのその部隊が、死を恐れぬ凄まじい気迫で自陣に向かってくる。その姿を目の当たりにした左近は、敵将ながらその武勇と忠義に深く心を打たれた。彼は、迫りくる忠勝隊を前に、自軍の兵に向かって信じられない命令を下したと伝わる。

「道を空けよ。あの者たちを通せ」 1

武士の情けであった。敵味方という立場を超え、一個の武人として、忠勝の天晴れな働きに最大限の敬意を払ったのである。

予期せず道が開かれたことに、忠勝は馬を止めた。そして、敵将である左近に向かい、丁重にその名を尋ね、感謝の言葉を述べたという 1。これに対し、左近はこう答えたとされている。

「某(それがし)は小杉左近にござる。わしの気が変わらぬうちに、早う行かれよ」 12

一瞬の、しかし武士の魂が交錯する濃密な時間が、血で血を洗う戦場の只中で流れた。忠勝は再び一礼すると、部隊を率いてその場を駆け去っていった。

この小杉左近の行動こそが、一言坂の逸話を単なる「武勇伝」から、後世に語り継がれる「美談」へと昇華させた決定的な転換点であった。もし左近が命令通り忠勝を討ち取っていたならば、この話は数多ある猛将の逸話の一つとして埋もれていたかもしれない。しかし、左近が「敵の武勇に敬意を表して道を開ける」という行動を取ったことで、この物語には敵味方や勝敗を超越した「武士の価値観の共有」という新たな次元が加わった。このエピソードがあるからこそ、一言坂の戦いは、武士たちが理想とする道徳や美学を内包した、教訓的な物語として不朽の名声を得ることになったのである。

第五章:「家康に過ぎたるもの」― 伝説の誕生

本多忠勝の命を懸けた奮戦により、徳川軍は全滅の危機を脱し、浜松城へと撤退した。戦いそのものは、徳川軍の敗北であった 1 。しかし、この一戦における忠勝の働きは、彼の武名を不動のものとし、一つの伝説を誕生させることになる。

戦いの翌朝、忠勝の凄まじい活躍ぶりは、敵の総大将である武田信玄の耳にも達した。報告を聞いた信玄は、深く感嘆し、こう漏らしたと伝えられている。

「小身(しょうしん)の家康殿には過ぎたるものよの」 8

(まだ三河・遠江二カ国を領するに過ぎない家康には、もったいないほどの優れた将だ)

これは、当代随一の武将と謳われた信玄からの、最大限の賛辞であった。この主君の言葉を聞いた近習の小杉左近が、一首の狂歌(きょうか)を詠み、それを木の札に書いて一言坂に立てたという逸話が残っている 11

「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(からのかしら)に本多平八」 21

この歌に詠まれた「唐の頭」とは、チベットなどに生息するヤクの尾の毛で作られた兜飾り(もしくは兜そのもの)のことで、非常に高価な輸入品であった 9 。当時、家康がこれを愛用していた、あるいは徳川軍の精鋭が用いていたとされる 27 。歌の意味は、「徳川家康には、分不相応なものが二つある。一つは『唐の頭』という豪華な兜、そしてもう一つは『本多平八郎忠勝』という名将だ」というものである。

この狂歌は、忠勝個人に対する最高の賛辞であると同時に、主君である家康を「小身」と揶揄する、皮肉の効いた二重の意味合いを持っていた 27 。しかし、その皮肉をもってしてもなお、忠勝の武勇を称えずにはいられないという、敵方の率直な驚嘆と畏敬の念が込められていた。

この落書は瞬く間に世に広まり、本多忠勝の名は「家康に過ぎたるもの」として、敵味方の区別なく天下に轟くこととなった 9 。この一言坂の戦いこそが、後に「徳川四天王」の一人として、また「戦国最強」の武将として語られる彼の輝かしい伝説の原点となったのである。

この逸話が後世の人々の心を強く掴んだのは、その物語構造に起因する。一言坂の戦いは、徳川軍全体で見れば惨めな「敗戦」であった。しかし、その絶望的な状況下で、本多忠勝の殿軍は「主君を無事に撤退させる」という任務を完璧に遂行し、敵将からも称賛されるという「局所的な勝利」を収めた。人々は、完全無欠な勝利譚よりも、敗北という大きな文脈の中に輝く一個人の尊厳や、逆境の中で発揮される人間の強さといった物語に、より深い感銘を受ける。この「敗戦の中の輝き」という劇的なコントラストこそが、一言坂の逸話を単なる戦闘記録から、人々の記憶に深く刻まれる不朽の伝説へと昇華させた最大の要因であったといえよう。

結論:一戦が刻んだ武士の鑑

元亀三年(1572年)の一言坂における本多忠勝の戦いは、単なる一武将の武勇伝として語るにはあまりにも多くの示唆に富んでいる。それは、戦国という時代の武士たちが理想とした価値観の結晶であり、後世にまで続く「武士の鑑」として、その姿を歴史に刻み込んだ象徴的な出来事であった。

忠勝がこの一戦で示したものは、多岐にわたる。第一に、鬼神の如き 武勇 。名槍・蜻蛉切を手に、数に勝る敵中に幾度も突撃を敢行し、その追撃を食い止めた個人的な武力は、彼の伝説の根幹を成している。第二に、地形と陣形を巧みに利用した 戦術眼 。彼は単なる猛将ではなく、不利な状況を覆すための冷静な判断力と指揮能力を兼ね備えた将であった。第三に、主君の危機に際して死地である殿を自ら買って出る、揺るぎない 忠義 。その行動は、徳川家臣団の結束を象徴するものであった。そして最後に、敵将である小杉左近をも感服させ、道を譲らせた 人間的魅力 。彼の武勇は、敵味方の垣根を越えて尊敬される域に達していた。

この一言坂の逸話は、徳川家康が歩んだ天下取りの道程において、計り知れない無形の価値を持った。圧倒的な武田軍の前に総崩れとなりかねなかった敗走の中で、忠勝が見せた一筋の光明は、徳川家臣団の士気を繋ぎ止め、その誇りを守った。敵方から「家康に過ぎたるもの」と称賛された家臣がいるという事実は、徳川家の武威を内外に示す絶好の機会となり、後の三方ヶ原での大敗を乗り越え、再起するための精神的な支柱の一つとなったであろう。

本多忠勝は、生涯で57度の合戦に参加しながら、かすり傷一つ負わなかったと伝えられる 14 。その驚異的な記録の原点であり、彼の武名を天下に知らしめたのが、この一言坂の退き口であった。鹿角の兜を戴き、蜻蛉切を携えた一人の武者が、絶体絶命の窮地で示した武と義の姿は、時代を超えて、理想の武士像とは何かを我々に問いかけ続けている。

引用文献

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  3. 二俣城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97320/
  4. 6/1/23:武田信玄、西上作戦の真意は? - MOYの雑談室 http://moy.cocolog-nifty.com/blog/2023/06/post-73fc5d.html
  5. 武田、北条、徳川ら東国武将の膨張戦略の意外な結末 - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63490
  6. 一言坂の戦い~本多忠勝の奮戦~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/hitokotozaka.html
  7. 「江戸時代」を作った徳川家康を名リーダーに変えた“屈辱的な敗北”とは? https://diamond.jp/articles/-/357521?page=2
  8. 一言坂古戦場 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/totoumi/shiseki/chuen/hitokotozaka.k/hitokotozaka.k.html
  9. 一言坂の戦い/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-kosenjo/hitokotozaka-kosenjo/
  10. 一言坂の戦い - 新庄まつり https://shinjo-matsuri.jp/db/2024_01
  11. 一言坂古戦場 https://tanbou25.stars.ne.jp/hitokotozaka.htm
  12. 浜松|三方ヶ原古戦場を歩く(一)~静岡観光 歴史と文学の旅 https://sirdaizine.com/travel/Mikatagahara1.html
  13. "戦国最強"信玄来襲!危うし家康…本多忠勝決死の殿戦「一言坂古戦場」 https://favoriteslibrary-castletour.com/shizuoka-hitokotozaka/
  14. 「家康に過ぎたるものは二つあり、唐の頭に本多平八」 - 三方不動産株式会社 https://mikata-f.com/contents/2444
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  16. 家康が武田と初めて戦った『一言坂の戦跡』 - sannigoのアラ還日記 https://www.sannigo.work/entry/221123/Hitokotozakakosenjou
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  18. 小論文「本多忠勝所用武具類とその使用意義について」 - note https://note.com/large_bonobo8339/n/n0b59e3ac609a
  19. 本多忠勝と愛刀/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/sengoku-sword/favoriteswords-hondatadakatsu/
  20. 第42回 桑名市にゆかりのある本多忠勝と蜻蛉切 - ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/curator-tweet/curator-tweet-tonbokiri/
  21. 「本多忠勝」戦国最強と称される猛将の生涯と実像とは? https://sengoku-his.com/557
  22. 本多忠勝が最強である証拠は何か?徹底的かつ多角的に解説 - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/hondatadakatu-strongest/
  23. 本多忠勝(兜飾・鎧飾・大将飾)|五月人形 - 人形の鯉徳 https://www.koitoku.com/collections/hondatadakatsu
  24. 小杉左近 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%89%E5%B7%A6%E8%BF%91
  25. 「どうする家康」平八郎/本多忠勝論:家康を叱り飛ばして信頼された男 - Tech Team Journal https://ttj.paiza.jp/archives/2023/04/02/4941/
  26. 本多忠勝:徳川四天王~家康に過ぎたるものが2つあり~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/jinbutu/honda-tadakatu.html
  27. 唐の頭(彦根井伊家伝来) http://www.ii-museum-old.jp/shiryo.htm
  28. 徳川四天王・本多忠勝とは?「家康に過ぎたるもの」と言われた戦国最強の武将 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/205066/