最終更新日 2025-10-14

松永久秀
 ~蘭奢待焚きつつ爆死奔放な伝説~

松永久秀の爆死伝説は創作。史実は信長への二度目の謀反の末、信貴山城で焼身自害した。平蜘蛛茶釜や蘭奢待の逸話が混同され、梟雄のイメージが壮大な物語を生んだ。

松永久秀、最後の十日間 ― 梟雄の死と『爆死伝説』の真相

序章:伝説の解体

戦国時代の梟雄、松永久秀。彼の名を不滅のものとしているのは、将軍暗殺や東大寺大仏殿焼討といった「三つの大悪事」と並び、その壮絶な最期にまつわる伝説である 1 。すなわち、「天下の名香・蘭奢待を焚き、織田信長が渇望した名物茶釜『平蜘蛛』に火薬を詰め、居城の信貴山城もろとも爆死した」という、奔放にして豪快な逸話である 1 。この鮮烈なイメージは、長年にわたり、講談や小説、映像作品を通じて人々の心に深く刻み込まれてきた。

しかし、この劇的な物語は、果たしてどこまでが歴史的事実なのであろうか。本報告書は、この広く知られた伝説のベールを一枚ずつ剥がし、史実の核へと迫る試みである。同時代の信頼性の高い一次史料と、後世に成立した軍記物や創作物を丹念に比較分析することで、史実としての「死」と、物語としての「伝説」が、いかにして生まれ、変容し、現代にまで語り継がれるに至ったのか。その全貌を、運命の日へと至る最後の十日間の出来事を軸に、時系列で徹底的に解明する。

第一章:滅びへの序曲 ― 天正五年、再びの謀反

二度目の裏切り

天正5年(1577年)8月17日、事態は突如として動いた。石山本願寺攻めの織田軍に従軍していた松永久秀は、何の前触れもなく陣を払い、居城である大和国の信貴山城へと兵を引いたのである 5 。これは織田信長に対する明確な謀反であった。当時、越後の上杉謙信が手取川で織田軍を破るなど、毛利氏や本願寺を中心とした第二次信長包囲網が形成されつつあり、久秀の行動はこの反信長勢力に呼応したものであった 7

久秀にとって、これは大きな賭けであった。彼は天正元年(1573年)にも一度、足利義昭に同調して信長に反旗を翻した過去がある。その際は、名物茶入「九十九髪茄子(つくもがみなす)」を信長に献上することで赦免されていた 7 。しかし、今回は状況が全く異なっていた。久秀が頼みとした上杉謙信は、織田軍を破った後に北陸の戦後処理を優先し、京へ進軍することなく越後へと引き返してしまったのである 3 。最大の頼みの綱を失い、久秀は畿内で完全に孤立した。

織田軍の編成と進軍

信長の反応は、迅速かつ苛烈を極めた。謙信の脅威が去るや否や、信長は久秀討伐を即座に決定。総大将に嫡男・織田信忠を据え、その麾下には筒井順慶、明智光秀、羽柴秀吉、佐久間信盛といった織田軍の主力をことごとく動員した 5 。その総勢は4万ともいわれ、信貴山城に籠もる松永勢を遥かに凌駕する大軍であった 10

この軍勢の規模と展開の速さは、一度目の謀反の時とは比較にならない。それは単なる懲罰ではなく、畿内における反抗勢力の芽を見せしめとして完全に摘み取るという、信長の断固たる政治的意志の表れであった。一度目の赦免が、久秀の持つ利用価値を認めた上での戦略的判断であったとすれば、二度目の今回は、初めから「完全な排除」を目的とした殲滅戦であったことを物語っている。

10月1日には、久秀の支城である片岡城が攻撃を受け、激戦の末に陥落 8 。3日には信忠の本隊が信貴山城下に到着し、周辺をことごとく焼き払った 8 。久秀にとって、この圧倒的な規模と速度の進軍は、致命的な誤算であったに違いない 11

第二章:非情の包囲網 ― 信貴山城、攻防の記録

攻城戦の開始:10月5日

10月5日、織田軍による信貴山城への総攻撃が開始された。信貴山は古くから毘沙門天信仰の霊山として知られ、その地形を利用した城は屈強な要害であった 12 。4万の軍勢が押し寄せても城は容易に落ちず、松永軍は必死の抵抗を見せた 10 。城将・飯田基次らが城から討って出て、織田方に数百人の死傷者を出したという記録も残っており、戦いは当初、持久戦の様相を呈していた 10

京での悲劇:人質の処刑

物理的な包囲と並行して、信長は冷徹な心理戦を仕掛けた。再三の降伏勧告を久秀が拒絶すると 6 、信長は非情な決断を下す。人質として預かっていた久秀の孫二人、12歳と13歳の幼子の処刑を命じたのである 6

この処刑の様子は、信長の側近であった太田牛一が記した『信長公記』に克明に記録されている 6 。二人の幼子は京の市中を車に乗せられて引き回され、六条河原の刑場へと連行された。彼らは道中、顔色一つ変えることなく、最期の時を迎えても動じなかった。西方浄土に向かって小さな手を合わせ、高らかに念仏を唱えながら、従容として首を刎ねられたという 6

この痛ましい光景を、身分の上下を問わず多くの京の人々が見物していた。『信長公記』は、「見る人、肝を消し、聞く人も、涙せきあへず(実際に見た人々は肝を潰し、話に聞いた人々も涙を止められなかった)」と記しており、この処刑が極めて公開的かつ残忍な見せしめであったことを伝えている 6

この人質処刑は、単に久秀の心を折るための非情な手段に留まらなかった。それは、久秀に与する城内の兵士たち、そして畿内の潜在的な反抗勢力に対し、「信長に逆らう者の末路は一族根絶やしである。松永家に未来はない」という強烈なメッセージを発信する、高度な心理戦であった。

城内の動揺と裏切り

人質処刑の報は、籠城する松永軍の士気を著しく低下させたに違いない。そして、信長の狙い通り、城は内側から崩壊を始める。

10月8日の夜、援軍要請の密使として城を出た武将が、そのまま敵将である筒井順慶の陣に駆け込み寝返った 8 。さらに決定打となったのが、もともと筒井氏の家臣でありながら久秀の配下となっていた森好久の裏切りであった。彼は自らが率いる鉄砲隊200名と共に城内で反乱を起こし、三の丸付近に火を放ったのである 8 。外部からの圧倒的な軍事圧力に加え、内部からの裏切りと放火。これにより、松永軍は組織的な抵抗力を完全に失い、落城は時間の問題となった。信長の非情な一手は、籠城戦の均衡を決定的に打ち破ったのである。

第三章:天正五年十月十日 ― 梟雄、死す

最後の準備

援軍の望みは絶たれ、城内は裏切りによって混乱。敗北を悟った松永久秀は、静かに死の準備を始めた。彼の最期を伝える逸話は、その人物像を色濃く反映している。

『備前老人物語』によれば、久秀は常々、中風(脳卒中などの後遺症による麻痺)を患うことを憂いていたという。死に際に発作を起こし、体が動かなくなれば、周囲から「死を恐れている」と嘲笑される。そうなれば、これまでの武勇も全てが無に帰してしまう。そう考えた久秀は、自害の直前、中風予防の灸を頭の百会のツボに据えさせ、「これで心安らかに自害できる」と語ったと伝えられている 9 。死の瞬間まで、自らの評判と体面をコントロールしようとする、彼らしい冷静さと矜持がうかがえる。

また、『南海通記』には、彼の娘の壮絶な覚悟も記されている。彼女は介錯人に対し、「女子の遺骸は見苦しいものでしょう」と述べ、自らが羽織っていた打掛を前に敷き、その上に首が落ちるようにと命じた。太刀が一閃し、首が落ちると、打掛の端がまるで生きているかのように動き、その首をふわりと包み込んだという 13 。松永一族が、死を単なる終わりではなく、一つの儀式として捉えていたことが伝わる逸話である。

炎上する天守閣

天正5年(1577年)10月10日未明、織田軍の最後の総攻撃が開始された 8 。城内では内応した筒井勢が各所で火を放ち、信貴山城は紅蓮の炎に包まれた 8

万策尽きた久秀は、嫡男・久通と共に四層の天守閣へと登り、自ら火を放った。この瞬間の記録は、同時代の史料によって若干の差異はあるものの、その結末は一致している。最も信頼性の高い『信長公記』は、「松永、天主に火を懸け、焼死(やきしに)候」と簡潔に記す 6 。一方、興福寺多聞院の僧侶・英俊が記した日記『多聞院日記』には、「昨夜松永親子切腹自焼了(昨夜、松永親子は切腹し、自ら焼けた)」とあり、切腹した上で焼身自害したことが示唆されている 10 。いずれにせよ、彼は燃え盛る天守の中で、68年の生涯に自ら幕を下ろしたのである。

首の行方と因果応報

ここで、後世の伝説を検証する上で極めて重要な記録が登場する。『多聞院日記』は、久秀自害の記述に続けて、翌11日の条に「安土ヘ首四ツ上了(安土へ首が四つ送られた)」と記しているのである 10 。この首級の中に久秀のものが含まれていたとすれば、体が木っ端微塵になる「爆死」は物理的に不可能であり、伝説は成立しない。久秀の遺体(胴体部分)は、長年の宿敵であった筒井順慶によって達磨寺に葬られたとも伝えられている 10

そして、当時の人々は、久秀の死にある種の天罰、すなわち因果応報を見ていた。彼が自害した10月10日は、奇しくも10年前の永禄10年(1567年)10月10日に、彼自身が東大寺大仏殿を焼き払ったとされる日と全く同じ日であった 6 。『信長公記』は、人々がこれを「春日明神の神罰だ」と噂し、舌を巻いて驚いたと記している 6 。この偶然の一致は、彼の梟雄としてのイメージを決定づけると共に、その死に物語的な色彩を添えることになった。

第四章:伝説の誕生 ― 『平蜘蛛』と『爆死』の物語

松永久秀の史実上の最期は「切腹後の焼身自殺」であった。では、なぜ「爆死」という壮絶な伝説が生まれたのか。その鍵を握るのが、名物茶釜「古天明平蜘蛛」の存在である。

信長が渇望した名物「古天明平蜘蛛」

「平蜘蛛」とは、蜘蛛が這いつくばったような独特の形状からその名がついたとされる茶釜である 1 。当時、名物と呼ばれる茶器は一城に値するともいわれ、大名たちの間でステータスシンボルとして珍重されていた。中でもこの平蜘蛛は、久秀が秘蔵する天下の名物として知られ、茶の湯を政治利用した信長は、喉から手が出るほどこれを欲しがっていた 17 。信長は久秀に再三にわたり平蜘蛛の献上を求めたが、久秀はこれを頑なに拒み続けていたのである 17

信貴山城が落城寸前となった際、信長は最後の降伏勧告として「あの平蜘蛛を差し出すならば、命だけは助けてやろう」という破格の条件を提示したと、後世の書物は伝えている 3

抵抗の象徴としての茶釜

この信長の申し出に対し、久秀は「平蜘蛛の釜と我が首の二つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ」と返答し、天守閣でその名物を粉々に打ち砕いた、という逸話が広く知られている 2 。武力で屈服させられても、自らの美意識と魂の象徴である名物だけは決して渡さないという、文化人・数寄者としての最後の抵抗であった。このエピソードが、爆死伝説の核心となっていく。

伝説の萌芽と完成

爆死伝説が形成される過程は、史料の変遷を追うことで明らかになる。

史料名(成立年代)

記述の要点

「爆死」への関連性

『信長公記』(同時代)

天守に火をかけ焼死。平蜘蛛・爆死の記述なし。 6

なし(伝説の否定)

『多聞院日記』(同時代)

親子切腹自焼。首は安土へ送られる。 10

なし(物理的に爆死を否定)

『川角太閤記』(江戸初期)

平蜘蛛を打ち砕く。自害後、首を火薬で焼き砕く。 19

「爆死」ではなく「首の損壊」。伝説の原型。

後世の創作(江戸中期以降)

平蜘蛛に火薬を詰め、共に爆死。 1

現代に伝わる「爆死」イメージの直接の源流。

上表が示すように、同時代の一次史料に爆死の記述は一切ない。伝説の原型が見られるのは、江戸時代初期に成立した軍記物『川角太閤記』である。そこには、「こう言って久秀は平蜘蛛の茶釜を微塵粉灰に打ち割った。久秀の頸は火薬で焼き割って微塵に砕けたので平蜘蛛の茶釜と同様になった」と記されている 19

この記述は極めて重要である。これは「茶釜で爆死した」のではなく、「①茶釜を打ち砕き、②自害した後に、首が信長の手に渡らぬよう火薬で損壊処理された」という、二段階の行為を示唆している。しかし、この「首の損壊処理」という話が、後世の講談や『絵本太閤記』といった俗書、浮世絵で語り継がれるうちに、より劇的な物語へと変容していく。二つの別々の行為が物語の中で圧縮・結合され、「茶釜に火薬を詰め、それに点火し、城ごと自爆した」という、より簡潔でインパクトの強い物語へと進化を遂げたのである 1

この伝説の進化を後押ししたのは、「松永久秀ならば、それくらいの常軌を逸した死に方をするだろう」という、彼の梟雄イメージに対する人々の期待感であった。彼の持つ「常識破り」というキャラクター性が、伝説にリアリティを与え、史実を凌駕する物語として定着させたのである。

第五章:交錯する記憶 ― なぜ『蘭奢待』が語られたのか

「平蜘蛛と共に爆死」という伝説に、さらに華を添えるのが「蘭奢待を焚きながら」という部分である。しかし、これもまた、史実とは異なる記憶の交錯によって生まれた創作であった。

天下人の象徴、名香「蘭奢待」

「蘭奢待(らんじゃたい)」とは、東大寺の正倉院に収められている天下第一の名香木(沈香)の雅名である。その文字の中に「東・大・寺」という三文字が隠されていることでも知られる 21 。天皇の勅許を得てこの香木の一部を切り取ることは、足利義政や織田信長など、時の最高権力者にのみ許された行為であり、絶対的な権威の象徴であった 23 。平蜘蛛が一個人の所有物であるのに対し、蘭奢待は国家鎮護の寺院が守る、次元の違う宝物なのである。

史実の解明:信長による蘭奢待切り取り

松永久秀の最期と蘭奢待を直接結びつける同時代の史料は、一切存在しない。史実は、むしろ全く逆の構図を示している。

天正2年(1574年)、一度目の謀反を起こした久秀が降伏した際、彼は信長に居城の多聞山城を明け渡した。信長はこの 多聞山城に入城した折に 、東大寺から蘭奢待を運び出させ、城内で一寸八分(約5.5cm)を切り取っているのである 23 。つまり、「蘭奢待」は久秀が自らの死を飾るために用いたのではなく、 信長が久秀から奪った城で、自らの権威を天下に示すために用いた ものであった。

伝説の混同:記憶の交錯

では、なぜこの二つの記憶が混同されたのか。その背景にはいくつかの要因が考えられる。

第一に、「松永久秀」という人物が、梟雄であると同時に当代きっての文化人・数寄者であったというイメージ 3。

第二に、彼が籠城した「信貴山城」と、蘭奢待が切り取られた「多聞山城」が、共に彼の居城であったという事実。

そして第三に、「平蜘蛛」という天下の名物を巡る壮絶な最期の物語が既に存在したこと。

これらの要素が後世の人々の記憶の中で交錯し、「久秀ほどの男なら、最期に平蜘蛛だけでなく、それを遥かに凌ぐ名香・蘭奢待をも焚いて死を飾ったに違いない」という、より壮麗で、より破天荒な物語へと昇華されたのである。

この伝説の混同は、単なる間違いとは言い切れない側面を持つ。それは、信長に全てを奪われた久秀が、物語の世界において、信長の最も重要な権威の象徴(蘭奢待)を自らの死の装飾として「奪い返す」という、文化的な下剋上を果たしていると解釈できるからである。人々は無意識のうちに、絶対権力者に最後まで抗った敗者に肩入れし、その最期を権力への最大の皮肉を込めた物語として記憶し直したのかもしれない。

終章:史実と伝説の狭間で

本報告書の分析を総括すると、結論は以下のようになる。

松永久秀の最期の史実は、「信長への二度目の謀反の末、信貴山城に追い詰められ、天正5年10月10日、天守に火を放ち切腹、自焼した」である。

一方、「蘭奢待を焚きつつ爆死」という著名な伝説は、

  1. 信長が渇望した名物茶釜「平蜘蛛」を渡さずに打ち砕いたという抵抗の物語。
  2. 『川角太閤記』に記された、自害後に首を火薬で損壊したという逸話。
  3. 信長が久秀の旧城・多聞山城で行った「蘭奢待切り取り」という史実。

これら三つの異なる史実や逸話が、後世の人々の記憶の中で混同・誇張され、融合して生まれた壮大な創作である。

では、なぜこのような伝説が生まれ、現代に至るまで人々を魅了し続けるのか。その答えは、松永久秀という人物が持つ、矛盾に満ちた、しかしそれ故に強烈な魅力そのものにある。彼は主君や将軍を手にかけ、大仏殿を焼いたとされる冷酷非情な「梟雄」であると同時に、茶の湯を深く愛し、一つの名物のために命を懸けた一流の「文化人」でもあった 1

この善悪では割り切れない強烈な二面性こそが、人々の想像力を掻き立て、「常識では測れない彼ならば、常識を超えた最期を遂げたに違いない」と思わせる素地となった。松永久秀の死は、単なる一武将の敗北ではなかった。それは、彼の破天荒な生涯を締めくくるにふさわしい、壮大な物語を必要としたのである。

伝説は、史実を超えて、松永久秀という人間の本質を後世に伝え続ける役割を担っている。彼の最期を巡る物語は、歴史的事実そのものではないかもしれない。しかし、それは戦国の世を奔放に生きた一人の男の生き様を、最も鮮やかに映し出す鏡なのである。

引用文献

  1. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第16回【松永久秀】派手な逸話に彩られた戦国きっての悪人の素顔 - 城びと https://shirobito.jp/article/1604
  2. 松永久秀 最期の言葉 戦国百人一首㊺|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/na925a3290a35
  3. 日本初の爆死!? 信長を裏切って許された男の最期【松永久秀】/『残念な死に方事典』① https://ddnavi.com/article/d610882/a/
  4. イタズラが悲劇へ、自ら爆死…残念すぎる最後を遂げた日本史上の偉人たちを紹介:2ページ目 https://mag.japaaan.com/archives/144012/2
  5. 第7回 松永久秀と信貴山城 - 大阪・兵庫・奈良 歴史街道リレーウォーク https://www.relaywalk.net/7th
  6. 太田牛一『信長公記』に見る松永征伐|【note版】戦国未来の戦国 ... https://note.com/senmi/n/n7653e62c9da8
  7. 【解説:信長の戦い】信貴山城の戦い(1577、奈良県生駒郡) 梟雄・松永久秀の最期となった合戦 https://sengoku-his.com/12
  8. 信貴山城の戦い - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/ShigisanJou.html
  9. 日本史上最悪の男?~松永久秀 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/matsunagahisahide/
  10. 信貴山城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%B2%B4%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  11. 【合戦解説】松永久秀から見た“信貴山城の戦い” - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=1Syj9nQjNAc
  12. 信貴山城> 多才だった”松永久秀”のお城を織田軍が攻城! https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12651003450.html
  13. 松永久秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
  14. 松永久秀の平蜘蛛|【note版】戦国未来の戦国紀行 https://note.com/senmi/n/n051f2dcbbefa
  15. 『 麒麟がくる』で「三悪」の汚名晴らした松永久秀 https://maruyomi.hatenablog.com/entry/2020/09/21/030800
  16. 松永久秀が死に際して、運命を共にした名物の茶器とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/16073
  17. 古天明平蜘蛛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E6%98%8E%E5%B9%B3%E8%9C%98%E8%9B%9B
  18. 松永久秀の最期の言葉「南無三宝」の深い意味…『麒麟がくる』が描ききった“梟雄の結末” | PHPオンライン https://shuchi.php.co.jp/article/8291
  19. 松永久秀の最期と、その後のイメージなど(1) 久秀の最期について ... https://note.com/amakijiro/n/n5a01938d17f1
  20. 松永久秀と刀/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/10528/
  21. 正倉院あれこれ/正倉院展あれこれ第2回 - 奈良国立博物館リポジトリ https://narahaku.repo.nii.ac.jp/record/240/files/dayori_23_5.pdf
  22. 天下第一の名香木、蘭奢待 - だるま3 https://daruma3.jp/koboku/191
  23. 【歴史探偵】蘭奢待②【美術番組まとめ】 - masaya's ART PRESS https://masaya-artpress.com/ojukuko-rekishitantei2
  24. 織田信長も欲した天下の名香「蘭奢待」/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/18312/
  25. 幻の香木「蘭奢待」|正倉院に伝わる歴史と驚くべき価値とは https://www.ryokuwado.com/column/72126/
  26. 【麒麟がくる】第37回「信長公と蘭奢待」レビューと解説 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/981
  27. 松永久秀と茶の湯 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/hisahide/hc_01chanoyu.html