最終更新日 2025-10-13

武田信玄
 ~「風林火山」の旗で機動戦示す~

武田信玄の「風林火山」の旗は、孫子の兵法を基にした戦略思想の象徴。その思想的源流、制作経緯、戦場での運用、そして伝説化の過程を詳細に解説。

武田信玄と「風林火山」の旗:思想、実戦、そして伝説の徹底解明

序章:戦国の風雲と一つの旗 ― なぜ「風林火山」は伝説となったのか

戦国乱世の戦場において、空に翻る無数の旗指物は、単なる敵味方を識別するための記号ではなかった。それは武将個人の威信を、一門の誇りを、そして軍団全体の士気を体現する、極めて重要な象徴的装置であった 1 。色、紋様、そこに記された文字の一つひとつが、兵士たちの心を束ね、敵を心理的に威圧する力を持っていたのである 3 。織田信長の「永楽通宝」や豊臣秀吉の「千成瓢箪」など、数多の武将が自らの旗印に趣向を凝らし、戦場での存在感を示した。

その中にあって、甲斐の虎・武田信玄が掲げたとされる「孫子の旗」、後に「風林火山」の名で知られる軍旗は、他のいかなる旗とも一線を画す、特異な存在感を放ち続けている。それは単なる家紋や意匠ではなく、古代中国の兵法書から引用された、高度な戦略思想そのものを可視化したものであったからだ。この旗がなぜこれほどまでに人々の記憶に深く刻まれ、武田軍の強さの象徴として、時代を超えて語り継がれる伝説となったのか。本報告書は、この一つの旗をめぐる逸話を徹底的に掘り下げ、その思想的源流から制作の経緯、戦場での具体的な運用、そして伝説化に至るまでの全貌を、時系列に沿って詳細に解き明かすものである。

第一章:思想的黎明 ― 信玄と『孫子』の兵法、旗に込められた戦略哲学

第一節:信玄、『孫子』との邂逅

武田信玄、本名・晴信は、ただ勇猛果敢なだけの武将ではなかった。彼は当代随一の学識を持つ教養人であり、特に中国の古典兵法に対する造詣は群を抜いていた。当時、多くの戦国武将が兵法の教科書としていたのは、『六韜』や『三略』といった、より具体的な戦術や権謀術数を説く書物であった 4 。しかし信玄は、それらとは思想的次元を異にする『孫子』に深く傾倒していたと伝えられる 5

『孫子』の思想的根幹は、戦闘そのものを最終手段と捉え、「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」という非戦・不戦の理念にある 6 。戦争を国家存亡に関わる重大事と位置づけ、安易な開戦を厳しく戒めるこの思想は、自らの領国経営において「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と唱え、人的資源の重要性を第一に掲げた信玄の統治理念と深く共鳴するものであった 8 。信玄にとって『孫子』は、単なる戦の技術書ではなく、国家を治め、民を守るための深遠な哲学書でもあったのである。

第二節:「軍争篇」の真意と信玄による「選択」

信玄が自らの軍旗に採用した言葉の出典は、『孫子』の第七篇「軍争篇」に記された一節である 9 。軍隊の運用、特に戦場における主導権(=利)をいかにして確保するかを説くこの篇に、以下の有名な句が登場する。

原文:

「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷霆、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動。」 4

このうち、信玄の旗に記されたのは前半部分である。

  • 「其の疾(はや)きこと風の如(ごと)く」(疾如風)
  • 「其の徐(しず)かなること林の如く」(徐如林)
  • 「侵掠(しんりゃく)すること火の如く」(侵掠如火)
  • 「動かざること山の如し」(不動如山)

しかし、この句には続きが存在する。

  • 「知り難(がた)きこと陰(かげ)の如く」(難知如陰)
  • 「動くこと雷霆(らいてい)の如し」(動如雷霆) 10

信玄がなぜ、「風林火山」の四句のみを旗に採用し、それに続く「難知如陰」「動如雷霆」の二句を省略したのか。この「選択」あるいは「編集」には、単なる文字数の都合を超えた、信玄の高度な戦略的思考が反映されている。

まず、「風・林・火・山」の四句が示すのは、軍団が戦場で取るべき四つの基本的な「状態」である。すなわち、迅速な「動態」(風)、静かな「静態」(林)、攻撃的な「動態」(火)、そして堅固な「静態」(山)である 9 。これらは、前線で部隊を指揮する将官から一兵卒に至るまで、全軍が常に意識し、戦況に応じて柔軟に切り替えるべき**「運用教義(ドクトリン)」**に他ならない。

一方で、省略された「陰」と「雷霆」が意味するものは次元が異なる。「難知如陰」は、味方の作戦意図を敵に悟らせない**「計略の秘匿性」 を指す。そして「動如雷霆」は、敵の虚を突いて一気に勝敗を決する 「奇襲・決戦時の爆発力」 を意味する。これらは、軍団の具体的な行動様式というよりは、総大将である信玄自身が深く謀り、その実行の是非と時機を判断すべき 「大戦略・政略」**の領域に属するものである。

軍旗とは、敵の目に触れることで心理的な効果を狙うと同時に、味方の兵士たちに自らの「行動規範」を指し示すメディアである 1 。信玄は、全軍で共有すべき具体的な戦術思想の指針として「風林火山」を掲げた。しかし、最高機密である計略の全貌(陰)や、決戦を仕掛ける絶妙のタイミング(雷霆)といった、総大将の胸三寸に収めるべき奥義を、わざわざ旗に記して内外に喧伝する必要はない。この「省略」は、信玄が旗の役割を「全軍で共有すべき戦術思想の可視化」と明確に定義し、『孫子』の思想を鵜呑みにするのではなく、旗というメディアの特性を完璧に理解した上で、最も効果的なメッセージを戦略的に「編集」して掲げたことの証左と言えよう。

『孫子』軍争篇と武田軍の戦術対応表

『孫子』の抽象的な思想が、武田軍の具体的な戦術にどのように落とし込まれたかを以下に示す。これにより、信玄の兵法理解の深さがより明確になる。

『孫子』の句

書き下し文

意味

武田軍の具体的戦術への応用解釈

疾如風

其の疾きこと風の如く

迅速な機動

精強な騎馬隊を駆使した電撃的な展開、敵の側面・背後への回り込み 13

徐如林

其の徐かなること林の如く

静粛な待機

敵の出方を窺い、情報を収集するための静かな陣構え、伏兵の配置 13

侵掠如火

侵掠すること火の如く

烈火の如き侵攻

勝ち機と見るや、全軍で圧倒的な火力と突撃力をもって敵陣を蹂躙する総攻撃 13

不動如山

動かざること山の如し

不動の防御

堅固な陣形を維持し、敵の攻撃を吸収・消耗させる鉄壁の守り。本陣の守り 13

難知如陰

知り難きこと陰の如く

計略の秘匿

(旗には不採用)別働隊の存在など、作戦意図を敵に悟らせない情報統制

動如雷霆

動くこと雷霆の如し

雷鳴の如き奇襲

(旗には不採用)啄木鳥戦法など、敵の虚を突く一気呵成の決戦行動

第二章:旗印の誕生 ― 永禄四年の緊迫と快川紹喜の筆

第一節:第四次川中島の戦い前夜

この特異な軍旗がいつ制作されたのか、確たる一次史料は存在しない。しかし、江戸時代に成立した武田家の軍学書『甲陽軍鑑』は、その使用開始を永禄4年(1561年)と記している 4 。これは、信玄生涯の宿敵・越後の龍、上杉謙信との間で繰り広げられた数次にわたる川中島の戦いのうち、最大の激戦となった第四次合戦の直前にあたる 9

永禄4年の夏、甲斐府中の躑躅ヶ崎館には、来るべき決戦を前にした異様なまでの緊張感が漂っていたであろう。信玄は、これまでの戦いとは次元の違う総力戦を予期し、軍団の精神を一つに束ね、士気を極限まで高揚させるための新たな象徴を必要としていた。単なる武威の誇示ではない、軍団の拠って立つべき思想そのものを刻み込んだ旗。その構想が、信玄の胸中に生まれつつあった。

第二節:三人の男たち ― 信玄、勘助、そして快川紹喜

この旗の誕生には、三人の重要人物が関わったと伝えられている。

一人は、言うまでもなく総大将 武田信玄 である。彼は軍団の精神的支柱となる旗の必要性を痛感し、その旗印に『孫子』の句を用いることを決断した。

二人目は、信玄の伝説的な軍師、 山本勘助 である。伝承によれば、信玄の意を受け、『孫子』の中から最も武田軍の戦い方を象徴する一節として、この「風林火山」の句を選び出し、献策したのが勘助であったとされる 9

そして三人目が、その文字を実際に旗へ揮毫した人物、**快川紹喜(かいせんじょうき)**である 12 。彼は信玄が深く帰依した甲斐の名刹・恵林寺の住職であり、当代随一の高僧として知られていた 17 。信玄が彼に染筆を依頼したという事実は、極めて示唆に富んでいる。快川は単に書が巧みなだけの僧侶ではなかった。彼は信玄にとって、戦国の世を生きる上での精神的な師とも言うべき存在であった。

快川紹喜の人物像を最も雄弁に物語るのが、彼の最期の逸話である。信玄の死後、天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐に際し、恵林寺は武田の残党を匿ったとして焼き討ちに遭う。快川は百名以上の僧たちと共に山門に上り、燃え盛る炎の中で「安禅は必ずしも山水を用いず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」と唱え、従容として死を迎えたと伝えられる 18

この「心頭滅却」の逸話は、いかなる極限状況にあっても心を動かさず、平静を保つという禅の精神の極致を示すものである 22 。そしてこの精神は、『孫子』が説く「動かざること山の如し」という不動の境地と、その根底において深く通じ合っている。信玄が快川に筆を執らせたのは、単に美しい文字を求めたからだけではない。彼は快川の禅的な精神力、その筆に宿る気迫を通じて、旗に単なる軍事思想以上の魂を込めようとしたのである。兵士たちに求められる「山の如き不動」とは、物理的に陣を動かさないことだけではない。それは、燃え盛る炎の中でも涼風を感じるが如き、強靭な**「精神的な不動心」**でなければならない。すなわち、「孫子の旗」は、中国古典兵法という「武」と、禅の修養という「禅」が融合した、信玄の理想とする組織像の象徴として誕生したのである 23

第三節:制作の情景 ― 紺絹に躍る金泥の文字

現存する「孫子の旗」(山梨県甲州市・雲峰寺蔵などが著名 4 )の物理的特徴から、その制作過程を再現することができる。

まず、甲府の紺屋町に集う職人たちによって、上質な絹布が深く、吸い込まれるような紺色に染め上げられた 9 。戦国時代の色彩感覚において、紺や藍は「勝ち色」として武士に好まれた色でもある。その平織りの絹布を二枚重ねにし、両面から文字が読めるように仕立てられた 12

その広げられた紺絹の上に、恵林寺の快川紹喜が、金粉を膠(にかわ)で溶いた豪奢な顔料「金泥(きんでい)」の筆を走らせる 9 。闇夜に輝く星々のごとく、深い紺地に浮かび上がる黄金の十四文字、「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」。その書体は、力強さと気品を兼ね備え、見る者を圧倒する気迫に満ちていたであろう。

伝承によれば、完成した旗は縦3.8メートル、幅78センチにも及ぶ長大なものであったとされ 10 、戦場にあって遠方からでもその存在をはっきりと確認できる威容を誇っていた。こうして、一人の武将の思想と、一人の高僧の精神が込められた、比類なき軍旗が完成したのである。

第三章:戦場に翻る「孫子の旗」 ― 機動戦の象徴として

第一節:川中島の濃霧の中で ― 旗印の戦場デビュー

永禄4年(1561年)9月10日、夜来の濃霧が立ち込める川中島。武田軍の別働隊が上杉軍の拠点・妻女山を衝く「啄木鳥戦法」は、それを完全に見抜いていた上杉謙信によって裏をかかれた。謙信率いる上杉軍主力が、手薄になった武田軍本陣に突撃を開始。世に言う第四次川中島の戦いは、武田軍にとって史上最大の危機から始まった。

『甲陽軍鑑』によれば、この乱戦のさなか、信玄が床几に腰を下ろす本陣の傍らには、「南無諏方南宮法性上下大明神」と記された諏訪明神の神号旗と共に、完成したばかりの「孫子の旗」が翻っていたという 24 。混乱を極める戦況の中、味方の将兵にとってこの旗が持つ意味は計り知れなかった。それは、総大将・信玄の健在を知らせる安堵の光であり、自らが所属する本陣の位置を示す道標であり、そして何より、絶望的な状況下で心を奮い立たせる精神的支柱であった 8

一方、敵である上杉軍の目に、この見慣れぬ文言が記された巨大な旗はどのように映っただろうか。その異様さと、そこに込められたであろう計り知れない思想性は、敵兵に武田軍の底知れぬ強さに対する畏怖の念を抱かせたに違いない 10 。この旗は、戦場デビューと同時に、武田軍の新たな象徴として強烈な印象を敵味方に与えたのである。

第二節:三増峠の死闘 ― 「旗立松」の伝承

「孫子の旗」が戦術と不可分に結びついていたことを示す逸話が、永禄12年(1569年)の三増峠(みませとうげ)の戦いに残されている。小田原の北条氏康を攻めた帰り道、武田軍は三増峠で北条軍主力の待ち伏せに遭った。この時、信玄は峠を見下ろす高地に本陣を敷き、そこに「孫子の旗」を立てたと伝えられる。その場所は後世、「旗立松」として長く記憶されることとなった 25

この戦いで武田軍が見せた戦術転換は、まさに「風林火山」の理念を体現するものであった。信玄はまず、山県昌景らの精鋭部隊を別働隊として大きく迂回させ、敵の背後を突かせた( 疾きこと風の如く 28 。その間、本隊は高地に陣取って北条軍主力を引きつけ、逸る将兵を制して静かに戦機を待った( 徐かなること林の如く、動かざること山の如し )。そして、別働隊が敵の背後に出現して北条軍が混乱した瞬間を捉え、全軍に総攻撃を命令。一気呵成に敵を打ち破ったのである( 侵掠すること火の如く 28 。この戦いにおいて、「旗立松」に翻る旗は、信玄の戦術思想が戦場で完璧に具現化されたことの証人となった。

第三節:思想の具現化 ― 旗と戦術の完全なる連動

これらの逸話から導き出されるのは、「孫子の旗」が単に武田軍の存在を示す静的な象徴(幟)ではなかったという事実である。それは、戦況に応じて変化する軍全体の「状態」を内外に示す、一種の 動的な指揮システム として機能した可能性が高い。

戦国時代の旗は、兵の進退を指示する重要な伝達手段でもあった 2 。「旗色が良い・悪い」という言葉が現代にも残るように、旗の動きそのものが戦況を示すシグナルだったのである。武田軍は「風」「林」「火」「山」という、他のどの軍隊よりも明確で、かつ高度な戦術コンセプトを全軍で共有していた 13

信玄の本陣に掲げられた「孫子の旗」は、その全軍の行動指針そのものであった。例えば、信玄が総攻撃を決断した際には、法螺貝や太鼓といった音による合図と共に、この旗を前線へと押し立てることで、全軍に「今こそ『火』の如く侵掠すべき時である」と、視覚的かつ心理的に、そして何よりも思想的に伝達したのではないか。これは、単に「武田信玄ここにあり」と示す馬印とは根本的に異なる機能を持つ。旗そのものが、軍全体の現在の「戦闘モード」を宣言する役割を担っていたのである。

結論として、この旗は武田軍を単なる兵士の集団から、思想と戦術が有機的に一体化した高度な軍事組織へと昇華させるための、中心的インターフェースであったと言える。それは、敵にとっては武田軍の戦術思想を可視化する恐怖の「ブランド」であり、味方にとっては自らの行動を規定し、拠り所とする「OS(オペレーティングシステム)」のような存在だったのである。

第四章:伝説と史実の狭間 ― 「風林火山」をめぐる異説・俗説の徹底検証

第一節:呼称の変遷 ― 「孫子の旗」から「風林火山」へ

今日、誰もが知る「風林火山」という名称だが、これは歴史的に正確な呼称ではない。当時の記録や『甲陽軍鑑』においても、この旗はあくまで「孫子の旗」あるいは「孫子四如(しじょ)の旗」と呼ばれていた 4

では、なぜ「風林火山」というキャッチーな通称がこれほどまでに定着したのか。戦国史研究者の間では、その最大の要因は昭和28年(1953年)から新聞連載が始まった井上靖の歴史小説『風林火山』の影響である、という見方が定説となっている 4 。この小説は山本勘助を主人公に、信玄と側室・由布姫の悲恋を絡めて描き、空前の人気を博した 30 。その後、映画化やテレビドラマ化が繰り返される中で、「風林火山」という四文字の言葉は、武田信玄の英雄的なイメージと分かちがたく結びつき、大衆の間に深く浸透していった。

より学術的に正確な「孫子の旗」という呼称が、より簡潔で詩的な響きを持つ「風林火山」に取って代わられていったこの現象は、戦後日本の大衆文化の中で、歴史がどのように受容され、物語として消費されていくかを示す好例である。人々は「孫子の旗」という史実よりも、「風林火山」というロマンあふれる伝説を求めた結果と言えるだろう。

第二節:起源をめぐる異説 ― 北畠顕家の旗

武田信玄が「孫子の旗」を用いたのが最初ではない、とする興味深い異説が存在する。信玄に先立つこと約200年、南北朝時代の公家武将・北畠顕家(きたばたけあきいえ)が、既に「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の句を軍旗に用いていたという説である 4

この説の根拠とされるのが、大阪の阿部野神社に伝わる旗である 32 。顕家は延元3年(1338年)、この阿倍野の地で足利軍と激戦を繰り広げ、若くして戦死した悲劇の武将として知られる。信玄が何らかの形で顕家の旗の存在を知り、それを参考にしたのではないか、という推論である。しかし、この説には史料的な裏付けが乏しく、信玄が顕家の旗を参考にしたことを示す直接的な証拠は存在しない。阿部野神社の旗も、その伝来については不明な点が多く、あくまで伝承の域を出ないというのが現状である 34

第三節:史料批判 ― 『甲陽軍鑑』の価値と限界

本報告書で度々言及してきた「孫子の旗」に関する逸話の多くは、武田家の軍学を後世に伝えるために編纂された『甲陽軍鑑』を典拠としている。この書物は、武田家重臣であった高坂昌信の口述を元に、江戸時代初期に小幡景憲が完成させたとされる 35 。武田軍の陣立てや戦術、家中の逸話などを詳細に記録しており、武田信玄という人物や武田軍団の気風を知る上では比類なき価値を持つ第一級の史料であることは間違いない。

しかし、その成立過程から、後世の創作や脚色、あるいは特定の人物を理想化するような記述が含まれている可能性も指摘されている 36 。例えば、『甲陽軍鑑』の品第十五には、信玄が死に際し、後継者である勝頼に対して「我(わが)そんしのはた【孫子の旗】」の使用を、嫡孫の信勝が元服するまで固く禁じた、という劇的な場面が描かれている 37 。これは、「孫子の旗」が信玄個人の武威と分かちがたく結びついた、極めて神聖な旗であったことを強調する記述であり、物語的な色彩が強い。

したがって、『甲陽軍鑑』の記述は、歴史的事実そのものとして鵜呑みにするのではなく、武田家の家臣たちが信玄とその時代をどのように記憶し、後世に伝えようとしたかを示す「歴史物語」としての側面も踏まえた上で、慎重に読み解く必要がある。

終章:旗が語り継ぐもの ― 武田信玄の哲学と不滅の遺産

武田信玄の「孫子の旗」は、単なる戦場の備品ではなかった。それは、信玄の『孫子』に対する深い兵法理解、快川紹喜に象徴される禅の精神性、そして強大な軍団を思想的に統一しようとする卓越した統率力が結実した、一つの「作品」であったと結論づけられる。

旗に込められた「風林火山」の思想は、状況に応じて静と動、攻と防を自在に使い分ける武田軍の強さの根源であり、その名は時代を超えて、優れたリーダーシップや組織論の比喩として今なお生き続けている 13

史実としての「孫子の旗」と、伝説としての「風林火山」。その二つの側面を往還しながら理解を深めることこそ、武田信玄という稀代の武将が持つ多層的な魅力と、彼が生きた時代の奥深さに迫る鍵となるであろう。戦国の風に翻った紺絹の旗は朽ち果てても、そこに込められた思想は不滅の遺産として、現代に生きる我々に多くのことを語りかけている。

引用文献

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  2. 旗・指物(さしもの)とは/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/43381/
  3. 戦国時代ののぼり旗の意味とは?人気のある戦国時代の旗も紹介 https://www.i-nobori.com/column/sengoku_era
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  38. 武田信玄の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7482/