最終更新日 2025-10-14

藤堂高虎
 ~義を失わず去り際の美学~

藤堂高虎は七度主君を変えたが不義ではない。自らの価値を最大化する戦略だった。去り際の美学は恩義と人間尊重の哲学の表れで、家臣の忠誠心を高めた。

藤堂高虎「義を失わず去り際の美学」:その実像と歴史的文脈の徹底考察

序章:風見鶏か、義人か ― 藤堂高虎「去り際の美学」を巡る謎

戦国時代から江戸時代初期にかけて、伊勢津藩32万石の初代藩主としてその名を刻んだ武将、藤堂高虎。彼の生涯を語る上で、常に二つの相容れない評価がつきまとう。「浅井長政から徳川家光に至るまで、生涯で七度も主君を変えた男」という事実からくる「風見鶏」「世渡り上手」といった揶揄 1 。そして、それとは裏腹に、彼が仕えた豊臣秀長や徳川家康から絶大な信頼を得ていた事実が示す、「義を失わなかった」という高い評価である。この巨大な矛盾こそ、藤堂高虎という人物の複雑な魅力を解き明かす鍵に他ならない。

本報告書は、特に「去るときは家財を置き去りにした」という、彼の清廉さを象徴する逸話を出発点とする。この伝承は、高虎の去り際の潔さや物質への執着のなさを端的に示すものとして語り継がれてきた。しかし、その具体的な出典は必ずしも明確ではない。そこで本稿では、この伝承の真偽を探ると同時に、より信頼性の高い史料、特に津藩の公式記録である『高山公実録』や、江戸時代の逸話集『古今記聞』などの記述に基づき、彼の「去り際の美学」の核心に迫ることを目的とする。

そのために、まずは高虎が生きた戦国乱世における「忠義」の価値観を明らかにし、彼の行動を歴史的文脈の中に正しく位置づける。次に、彼の離別の軌跡を一つ一つ丹念に追い、その背景にあった決断と心情を再現する。さらに、彼自身が主君として、去りゆく家臣にどのように接したのかを詳細に分析し、最後に、伝承の検証を通じて、彼の人間性の本質を浮き彫りにする。この多角的なアプローチによって、「七度主君を変えた男」が、なぜ「義人」として信頼され得たのか、その深層を徹底的に考察する。

第一章:乱世の常識 ― 戦国武将にとっての「主君」と「忠義」

藤堂高虎の行動を理解する上で、まず我々が持つ固定観念を一度解体する必要がある。それは、江戸時代に儒教思想の影響下で確立された「武士は二君に仕えず」という倫理観である 4 。この価値観は、泰平の世における主従関係を律する徳目としては機能したが、高虎が生きた戦国時代の常識とは根本的に異なっていた。

戦国時代とは、旧来の権威が失墜し、個人の実力が全てを決定する、極めて流動性の高い時代であった 5 。織田信長や豊臣秀吉といった天下人は、身分や家柄にこだわらず、能力のある人材を積極的に登用し、その働きにふさわしい恩賞(知行地)をもって報いた 6 。このような実力主義の環境下において、武将が自らの能力をより高く評価し、活躍の場を与えてくれる主君を求めて移動することは、決して「裏切り」や「不義」とは見なされなかった。むしろ、それは自らの価値を証明し、家名を高めるための、極めて合理的かつ正当なキャリア戦略だったのである 2

高虎の主君遍歴は、まさにこの時代のダイナミズムを体現している。彼は、単に武勇に優れただけの武将ではなかった。時代の変化を鋭敏に読み取り、自らのスキルセットを柔軟に変革させていったのである。当初は一介の足軽として武勇を求められたが、やがて豊臣秀長のもとで築城や政務といった高度な専門技術を持つ「テクノクラート」へと自己を変貌させた 2 。そして、その比類なき築城技術と政治的才覚が、後の徳川家康からの絶大な信頼へと繋がっていく 10

彼のキャリアは、時代の要請が「武勇」から「統治技術」へと移行していく過程を、一個人の生涯のうちに凝縮したかのようである。彼の「主君替え」は、無節操な鞍替えなどでは断じてない。それは、自らの能力を時代の求める形に最適化し、その価値が最も活かされる場所、すなわち天下の安定に最も貢献できる場所に身を置くという、極めて戦略的な自己実現の軌跡であった。彼は風を読んで向きを変える「風見鶏」なのではなく、時代の風を正確に読み解き、自ら帆を張り替えて目的地へと進む、優れた航海士だったのである。

第二章:離別の軌跡 ― 高虎は「いつ」「なぜ」主君のもとを去ったのか

藤堂高虎の複雑な主君遍歴は、以下の表に要約されるように、その一つ一つに明確な理由が存在した。彼の「去り際」は、決して私利私欲によるものではなく、主家の滅亡という不可抗力、あるいは主君の器量や信義への問いかけといった、彼自身の「義」の感覚に根差したものであった。

【表1:藤堂高虎の主君遍歴と離別の理由】

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主君名

仕えた期間(目安)

離別の主な理由

1

浅井長政

元亀元年~天正元年

主家の滅亡(織田信長による)

2

阿閉貞征

天正元年

主君の不義(旧主・浅井家への裏切り)を見限る

3

磯野員昌

天正元年~

主君の出奔

4

津田信澄

~天正4年

(詳細不明、より良い仕官先を求めて)

5

豊臣秀長・秀保

天正4年~文禄4年

主家の断絶(秀保の早世)

6

豊臣秀吉

文禄4年~慶長3年

主君の死去

7

徳川家康・秀忠・家光

慶長3年~寛永7年

生涯仕える(高虎の死去)

2-1. 黎明期:義なき主君からの訣別

高虎のキャリアの初期における離別は、若き日の彼の義侠心と、武士としての矜持を如実に示している。最初の主君である近江の浅井長政からの離別は、天正元年(1573年)に織田信長によって浅井家が滅ぼされたためであり、高虎自身の意志が介在する余地のない、不可抗力によるものであった 13

問題はその後である。浅井家滅亡後、高虎は同じく浅井旧臣であった阿閉貞征(あつじさだゆき)に仕える。しかし、この貞征は浅井家を見限り、信長に寝返った人物であった 14 。旧主への裏切り行為を目の当たりにした高虎にとって、この主君の「不義」は到底容認できるものではなかった。彼は、自らの信条と相容れないこの主君にわずか1ヶ月ほどで見切りをつけ、そのもとを去る 13 。この迅速な決断は、「誰に仕えるか」ということ以上に、「義のない主君には仕えない」という、若き高虎の確固たる信念の現れであった。

その後、織田信長の甥である津田信澄などに仕えるも、いずれも長くは続かなかった。この時期の高虎は、自らの才能を十全に発揮できる、真に仕える価値のある主君を求め、彷徨していたのである 2

2-2. 転機の時:恩義の極致としての「遁世」

高虎の人生における最大の転機は、天正4年(1576年)、豊臣秀吉の弟である羽柴秀長(豊臣秀長)に仕えたことであった 11 。温厚篤実にして優れた為政者であった秀長は、高虎の内に秘められた非凡な才覚、特に築城や軍略における能力を見抜き、彼を重用した 3 。高虎にとって秀長は、初めて自らの価値を認め、武将として、そして統治者として育て上げてくれた大恩人であり、その関係は単なる主従を超えた深い信頼と敬愛に満ちたものであった 18

しかし、その蜜月は長くは続かなかった。天正19年(1591年)、秀長が病没。その跡を継いだ養子の秀保も、わずか4年後の文禄4年(1595年)に17歳の若さで急逝し、高虎が心血を注いだ豊臣秀長の家は、無情にも断絶してしまう 11

この報に接した高虎の絶望は、察するに余りある。彼は、もはや武士として仕えるべき主君はこの世にいないと考え、キャリアの全てを捨て去るという、常人には考え及ばぬ決断を下す。彼は高野山に登り、俗世との縁を断ち、出家遁世しようとしたのである 11

当時の彼の姿を再現するならば、こうであろう。主家断絶の報を受け、茫然自失となった高虎は、静かに旅支度を整える。彼の胸中には「秀長公への大恩に報いるには、もはや俗世を捨て、その菩提を弔うほか道はない」という、悲壮な決意が満ちていた。彼は高野山の山内にある高室院に入り、剃髪を待った 21 。これは単なる離職や引退ではない。武士が武士であることを辞めるという、社会的な自己の抹殺であり、主君への忠義を表現する究極の「去り際」であった。物理的に命を絶つ「殉死」とは形こそ異なるが、その精神性においては、主君の後を追うに等しい行為であった。

この事態を知った豊臣秀吉は、高虎の類い稀な才能が世に埋もれることを惜しみ、高虎と親交のあった生駒親正を説得の使者として高野山へ急派する 21 。親正は、高虎に対し、「ここでそなたが武士を辞めてしまうことを、亡き秀長公が喜ばれるであろうか。いや、むしろその類なき才を天下のために役立てることこそが、真の供養となるのではないか」と、情理を尽くして説得を試みた。秀吉からの再三の懇請を受け、高虎はついに還俗を決意。秀吉直参の大名として、再び歴史の表舞台に立つこととなる。この一件は、彼の「義」が、単なる主従間の契約関係ではなく、人間的な恩義に根差した、極めて深いものであったことを何よりも雄弁に物語っている。

第三章:「去る者への作法」― 家臣に示した美学の実践

藤堂高虎の「去り際の美学」は、彼自身が主君のもとを去る際にのみ発揮されたわけではない。むしろその真価は、彼が主君として、自らの家臣が去る際の対応において、より鮮明に示されたと言える。江戸時代の逸話集『古今記聞』には、彼の人間的度量と、極めて高度な人材マネジメント哲学を伝える、象徴的なエピソードが記されている 17

ある日のこと、高虎のもとに家臣の一人が「他家に仕官したく存じます故、何卒お暇を頂戴しとうございます」と申し出た 17 。戦国時代とはいえ、主君にとって家臣が去ることは、自らの威信に関わる一大事であり、通常であれば怒りや不快感を示す場面である。しかし、高虎の反応は全く異なっていた。彼はその申し出を静かに聞き入れると、咎めるでもなく、引き留めるでもなく、穏やかにこう尋ねたという。

「そうか。して、行くあては定まっておるのか」 23

家臣が仕官先の目途が立っていることを伝えると、高虎はただ一言、「承知した。明朝、茶会を催すゆえ、それに参列せよ」とだけ命じた。

翌朝、静謐な空気に満ちた茶室で、高虎は自ら茶を点て、去りゆく家臣に振る舞った。それは、詰問や説得の場ではなく、別れを惜しむ餞別の席であった。一座の他の家臣たちも、同僚を責めたり、冷ややかに見たりするような雰囲気は微塵もなかったという。

茶会が終わり、高虎はその家臣を傍らに呼ぶと、餞別として一振りの見事な太刀を授けた 17 。そして、彼の「美学」の神髄を示す、決定的な言葉を告げたのである。

「もし、新たな仕官先がそなたの肌に合わなんだり、あるいは思わしくない事態になったりしたならば、いつでも我が家に戻って参るがよい。その時は、今と寸分違わぬ知行高で、再びそなたを召し抱えようぞ」 17

この逸話は、単なる美談として終わらない。実際に他家でうまくいかず、藤堂家への帰参を願い出た家臣がいたが、高虎は言葉通り、以前と全く同じ待遇で彼を再び温かく迎え入れたと記録されている 17

この一連の対応は、単なる温情主義から来るものではない。その背後には、人間心理を深く洞察した、極めて合理的かつ高度な組織論が存在する。高虎自身が、より良い環境を求めて主君を変えた経験を持つからこそ、家臣が同じように考えることを深く理解し、共感できたのであろう。彼は、去ろうとする者を引き留めても、不満が募るばかりで良い働きは期待できないことを知っていた 22

むしろ、気持ちよく送り出すことで、去りゆく者に恩義を感じさせ、将来にわたる良好な関係を維持することができる。そして、その家臣は新たな仕官先で藤堂家の評判を高める「生きた広告塔」となりうる。さらに、家中に「この家は、万一の時にはいつでも戻れる場所なのだ」という絶対的な安心感を与えることで、結果として家臣団全体の忠誠心を飛躍的に高めることにも繋がる。高虎が語ったとされる「人に情けをかけてやれば、その者は死ぬ気で働いてくれる」という哲学 12 は、自らの波乱に満ちた人生経験に裏打ちされた、実践的な人間学だったのである。彼の「去り際の美学」とは、感傷的な情緒ではなく、人を活かし、組織を強くするための、冷徹なまでに計算された戦略でもあったのだ。

第四章:伝承の検証と人物像 ―「家財」と「餅」の逸話が示すもの

さて、ここで冒頭に提示した「去るときは家財を置き去りにした」という伝承について、改めて考察を進めたい。この逸話は高虎の清廉さを象"象徴的に示すものだが、結論から言えば、津藩の公式記録である『高山公実録』をはじめとする主要な一次史料群の中に、この具体的な記述を見出すことは困難である 24

では、なぜこのような伝承が生まれたのか。それは、この逸話が史実そのものではなくとも、藤堂高虎という人物の本質を的確に捉えた「真実の寓話」として、人々の間で語り継がれるだけの説得力を持っていたからに他ならない。その精神的背景を理解する上で、極めて重要なのが、彼の人生におけるもう一つの有名な逸話、「出世餅」である。

この物語は、高虎がまだ何者でもなく、仕官先を求めて放浪していた若き日の出来事である。三河国吉田宿(現在の愛知県豊橋市)に差し掛かった時、彼は極度の空腹に耐えかね、街道沿いの餅屋で無銭飲食をしてしまう 3 。しかし、彼は逃げ出すことなく、正直に無一文であることを主人に詫びた。すると、餅屋の主人は驚くべき対応を見せる。若き高虎のただならぬ気配と見事な食べっぷりに感心したのか、彼を咎めるどころか、「出世払いでよい」と言って許し、あまつさえ追加の餅と路銀まで持たせて、「これで故郷へ帰り、親孝行なされ」と励まして送り出したのである 3

それから数十年後。幾多の戦功を重ね、伊予今治20万石の大名にまで成り上がった藤堂高虎は、参勤交代の道中、わざわざ行列を止めて吉田宿のあの餅屋に立ち寄った。すっかり白髪となった主人と再会した高虎は、駕籠から降りて深々と頭を下げ、こう述べたという。

「御主人、覚えておられるかな。幾十年も前に、ここで餅を食らい、御恩情を賜った者でござる。あの時の恩、片時も忘れたことはござらぬ。これは、あの時の餅代でござる」 3

そう言って、彼は餅代とは比べ物にならないほどの大金を主人に手渡し、重ねて感謝の意を伝えた。この逸話は、単なる講談の創作ではなく、藤堂藩の家老が残した日記にも記されており、信憑性は高い 9 。高虎はこの時の恩義と苦境を終生忘れることなく、自らの旗印に三つの丸い餅をかたどった紋を用いたとさえ伝えられている 3

「家財を置き去りにした」という伝承と、「出世餅」の逸話。この二つの物語は、表面的には異なるが、その根底には共通する一つの強烈な価値観が流れている。すなわち、「物質的な富よりも、受けた恩義や人の情けをこそ至上の価値とする」という、高虎の確固たる哲学である。

この二つの逸話を対比させてみると、彼の人物像がより立体的に浮かび上がる。「家財」という過去の地位や財産を象徴する物質を、去る際にはあっさりと捨て去る執着のなさ。その一方で、「餅」という物質で受けた過去のわずかな恩義を、現在の地位や財産を投じてでも返そうとする、ある種の執念とも言える記憶力の強さ。一見すると正反対の行動に見えるが、両者に共通するのは、「物質(家財や金銭)を、非物質的な価値(信義や恩義)を表現するための手段として捉えている」という点である。

したがって、「家財を置き去りにした」という伝承は、たとえ史実ではなかったとしても、彼の精神性を的確に捉えた、象徴的な物語として極めて高い価値を持つ。彼は、去る時には過去の物質にこだわらず、恩を返す時には現在の物質を惜しまなかった。この一点において、彼の「去り際の美学」の本質は、見事に集約されているのである。

終章:藤堂高虎の「義」の本質

藤堂高虎の生涯を貫く行動原理、すなわち彼の「義」とは、後世に形成された、単一の主君への盲目的な忠誠を意味する「忠義」とは明らかにその質を異にする。彼の「義」は、自己の信念と経験に裏打ちされた、より普遍的で複合的な倫理観であった。それは、以下の四つの要素から構成されていると結論付けられる。

第一に、「恩義への絶対性」。豊臣秀長から受けた大恩に対し、その家の断絶に際しては自らの武士生命を絶とうと高野山へ向かい、若き日に餅屋の主人から受けた僅かな情けには、大名となった後も決して忘れず報いた。彼にとって、一度受けた恩は、時を超えて守り通すべき絶対的な契約であった。

第二に、「不正への非妥協」。旧主を裏切った阿閉貞征のもとを即座に去ったように、たとえ相手が主君であっても、人の道に外れた行いや信義にもとる振る舞いには決して与しなかった。彼の主君選びは、自らの能力を高く買うか否かだけでなく、その人物が「義」に値するか否かという厳しい基準に貫かれていた。

第三に、「職務への誠実性」。仕えている間は、全身全霊をもって主君の利のために尽くした。徳川家康の屋敷を普請する際には、警備上の欠陥を見抜くと、主君である秀長の面目を守るため、自腹を切ってまで独断で設計を変更したという逸話 10 は、その象徴である。彼は、与えられた職務に対しては、常に期待以上の成果で応えるプロフェッショナルであった。

そして第四に、「人間への尊重」。自らの家臣を、単なる所有物や道具としてではなく、個々の意志と人生を持つ人間として尊重した。彼らがより良い道を求めて去ることを認め、その門出を祝い、さらには再起の道まで用意した。この姿勢は、彼が人間そのものに対して深い洞察と共感を持っていたことを示している。

これらを総合する時、藤堂高虎の「去り際の美学」の真の姿が明らかになる。彼にとって「去る」という行為は、決して関係の断絶を意味しなかった。主君のもとを去る時は、その理由を明確にし、自らの信条という筋を通す。家臣が去る時は、その未来を祝い、再会の可能性という扉を開けておく。

彼の「去り際の美学」とは、別れという最も困難な局面においてこそ、相手への敬意と自身の信条を貫き通す、極めて高度な人間哲学であった。それゆえに彼は、七度も主君を変えながら、誰からも「不義の者」と本質的な部分でそしられることなく、乱世を生き抜き、ついには大藩の祖となることができたのである。その生涯は、激動の時代を生き抜くための現実的な処世術と、時代を超えて通用する普遍的な義の精神が、見事に融合した稀有な実例として、今なお我々に多くの示唆を与え続けている。

引用文献

  1. 藤堂高虎とはどんな人物?戦国時代に10回主君を変えキャリアアップをした築城の名人! https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/79740/
  2. 主君を7度も変えて出世した戦国武将・藤堂高虎 - BS11+トピックス https://bs11plus-topics.jp/ijin-sugaono-rirekisho_19/
  3. 藤堂高虎は何をした人?「築城名人はキャリアも積み重ねて転職するたび出世した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/takatora-todo
  4. 主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将・藤堂高虎【後編】:3ページ目 https://mag.japaaan.com/archives/134120/3
  5. 「推し武将」は誰? 戦国時代の生存戦略に学ぶマーケティングの本質 - Web担当者Forum https://webtan.impress.co.jp/e/2022/03/03/42287
  6. カギは恩賞にあり!信長・秀吉に学ぶヒト作りの極意 - 北見式賃金研究所 https://tingin.jp/kyuyo_shi/nobunaga-hideyoshi.html
  7. 戦国時代の名参謀の「仕事」と「資質」 - 株式会社エル・ローズ https://www.elle-rose.co.jp/contents/bizthinker2202/
  8. 織田信長から称賛された槍の名手!渡辺勘兵衛は転職4回、計6人の主君に仕えていた! https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/106920/
  9. 藤堂高虎の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7563/
  10. 地図に残る武将 藤堂高虎|金子ゆうき - note https://note.com/yukisankanesan/n/n76c421d37b10
  11. 津藩祖 藤堂高虎 https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/sp/contents/1001000011267/index.html
  12. 変節漢?忠義者?~「城造りの天才」藤堂高虎 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/todo-takatora/
  13. 武将に学ぶキャリア戦略~藤堂高虎編 - Tech Team Journal https://ttj.paiza.jp/archives/2023/03/12/3986/
  14. (藤堂高虎と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16986_tour_067/
  15. 東軍 藤堂高虎/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41107/
  16. 徳川家康と藤堂高虎|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか? 【戦国三英傑の採用力】 - note https://note.com/toshi_mizu249/n/n34bc3a0d17b9
  17. 藤堂高虎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E
  18. 変節漢か忠義の士か。藤堂高虎 - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/takatora
  19. 名城は語る~2022 秋~ 匠の城|投資家のための企業情報「アイアールmagazine」web https://ir-magazine.net-ir.ne.jp/other/detail/id=10630
  20. 藤堂高虎 - 大屋山遊会 https://tota8.net/toudoutakatora.html
  21. 藤堂高虎が出家した際につけた戒名を知りたい。その由来や経緯も知りたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000108466
  22. 見送り方で問われる度量。戦国大名・藤堂高虎が家臣のために開いた送別会がこちら:2ページ目 https://mag.japaaan.com/archives/191275/2
  23. 見送り方で問われる度量。戦国大名・藤堂高虎が家臣のために開いた送別会がこちら - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/191275
  24. 【高山公実録】 - ADEAC https://adeac.jp/iga-city/text-list/d400010/ht402870
  25. 高山公実録(上・下巻)―藤堂高虎伝 (ファイル名:kouzankoujitsuroku.pdf サイズ https://www.city.iga.lg.jp/cmsfiles/contents/0000002/2723/kouzankoujitsuroku.pdf
  26. 津藩祖 藤堂高虎 https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/contents/1001000011267/index.html
  27. 藤堂高虎が無銭飲食で大名に?!豊橋市吉田城下に残る藤堂高虎出世餅の逸話 https://sengokushiseki.com/?p=3155
  28. 真田丸を攻撃した“築城に秀でた”武将の存在感|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-010.html
  29. 藤堂高虎 三重の武将/ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-historian/mie-toudou/
  30. 「東海道旅日記」永餅と藤堂高虎 - 遠州流茶道 https://www.enshuryu.com/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E/%E6%B0%B8%E9%A4%85%E3%81%A8%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E/