亀山宿整備(1601)
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日本の戦国時代という視点から見た亀山宿整備(1601年):天下統一の礎石としての宿駅制度
序章:関ヶ原の戦塵、未だ収まらぬ中で
慶長五年(1600年)九月、美濃国関ヶ原における一日で天下の趨勢は決した。徳川家康率いる東軍の勝利は、長く続いた戦乱の時代の終焉を予感させるものであった。しかし、この軍事的な大勝利は、即座に徳川による盤石な支配体制を意味するものではなかった。大坂城には依然として豊臣秀頼が存在し、その権威は西国大名を中心に根強く残っていた 1 。家康に与しなかった大名たちの処遇、潜在的な敵対勢力の存在など、国内の政治情勢は依然として流動的であり、一触即発の危険をはらんでいた 2 。
家康にとっての喫緊の課題は、関ヶ原での軍事的勝利という「点」を、恒久的な政治的支配という「面」へと如何に転換させるかであった。それは単なる武力による威圧だけでは達成できない。全国の情報を迅速に江戸へ集め、幕府の指令を隅々まで遅滞なく伝達する通信網の確立。有事の際に迅速に軍勢を派遣できる兵站路の確保。そして、全国の経済活動を活性化させ、その果実を幕府の財政基盤とするための物流網の整備。これらすべてが、新たな国家体制を築く上で不可欠な要素であった 3 。戦国時代を通じて、街道は軍勢の移動路として重要視されてきたが、それはあくまで各々の大名が領国内で整備するものであり、全国を統一的な規格で結ぶ交通・通信システムは存在しなかった。この欠如こそが、中央集権国家の樹立を目指す家康にとって、克服すべき最大の弱点の一つだったのである。
この文脈において、家康が関ヶ原の戦いの直後、慶長六年(1601年)という驚くべき速さで着手した東海道の整備事業は、単なるインフラ整備以上の、深遠な政治的意図を内包していた。それは、物理的な支配の確立であると同時に、強力な心理的支配を目的とした壮大な国家事業であった。江戸の日本橋を起点として、国家の中枢である京・大坂までを貫く、規格化され、中央管理された巨大な動脈を可視化すること。それは、もはや権力の中心が西国ではなく、江戸にあることを天下に知らしめるための、壮大な政治的デモンストレーションであった。新たに指定される宿場、定められた間隔で配置される伝馬、幕府の朱印状を掲げて街道を疾駆する飛脚。その一つ一つが、旧来の権威が過去のものとなり、徳川による新たな秩序が日本全土を覆い尽くしつつあることを、すべての大名、そして民衆に絶え間なく知らしめる装置として機能したのである 5 。この壮大な構想の中で、伊勢国亀山に宿場を整備するという一事象は、家康の天下統一事業の本質を映し出す、極めて象徴的な出来事であった。
第一章:天下統一の礎石たる「道」― 徳川家康の国家構想と東海道宿駅伝馬制度
慶長六年(1601年)の宿駅伝馬制度の発令
関ヶ原の戦いの硝煙がまだ冷めやらぬ慶長六年(1601年)正月、徳川家康は矢継ぎ早に新たな国家建設のための政策を打ち出す中で、その中核の一つとして東海道の宿駅伝馬制度を正式に制定した 6 。これは、戦国時代の断続的で領主ごとに異なっていた交通制度を抜本的に改革し、江戸の日本橋を起点として京に至る日本の大動脈を、幕府の直接管理下に置くことを宣言するものであった 5 。この制度の目的は、公用の書状や物資を、迅速かつ確実に輸送するための全国的なインフラを構築することにあった。
この制度は、単なる街道整備に留まらない、画期的なシステムであった。その本質は、情報伝達の速度と信頼性を飛躍的に向上させることにあった。それまでの通信や輸送は、担い手や馬を乗り換えることなく長距離を移動するため、疲労による速度低下や不確実性が常に付きまとった。宿駅伝馬制度は、街道沿いに約二里から三里(約8kmから12km)ごとに「宿駅(宿場)」を設置し、そこを中継点として人馬を交代させる「継ぎ送り方式」を採用した 10 。これにより、常に万全の状態にある人馬がリレー形式で輸送を担当するため、江戸と京・大坂という日本の二大拠点を結ぶ情報伝達の所要時間は劇的に短縮された。これは、現代における情報ネットワークの構築に匹敵するほどの戦略的重要性を持ち、幕府が全国の政治・軍事情報をリアルタイムに近い形で掌握し、迅速な意思決定を下すことを可能にした。
制度の具体的な仕組みと狙い
宿駅伝馬制度の運営は、各宿場に課せられた重い義務と、それに見合う特権によって支えられていた。
- 伝馬の常備義務 : 各宿場は、幕府の公用輸送に備え、常に一定数の人足と伝馬(リレー用の馬)を準備しておくことを義務付けられた。制度発足当初、各宿駅には伝馬36疋を常備することが命じられている 8 。この義務は「伝馬役」と呼ばれ、宿場の住民にとって最大の負担であった。
- 宿場の経済的特権と負担 : この伝馬役という重い公役を課す見返りとして、幕府は宿場に対して地子(土地税)の免除といった経済的な特権を与えた 10 。さらに重要なのは、宿場が公用輸送の拠点であると同時に、一般旅行者を対象とした商業活動を独占的に行うことが許可された点である。大名行列や武士、商人、巡礼者などが街道を往来するようになると、彼らを顧客とする旅籠(旅館)や茶屋、商店が軒を連ね、宿場町は新たな経済センターとして繁栄の道を歩むことになった。この「アメとムチ」の政策により、幕府は自らの財政負担を最小限に抑えつつ、全国的な交通網を維持することに成功したのである。
- 支配体制の強化 : この制度全体は、後に設置される道中奉行の厳格な管理下に置かれた 11 。街道の支配は、幕府が日本の大動脈を物理的に、そして制度的に完全に掌握したことを意味した。これは、三代将軍家光の時代に制度として完成する参勤交代と表裏一体の関係にあり、全国の大名を統制するための強力な手段となった 12 。江戸への定期的な往来を義務付ける参勤交代は、この安定した宿駅制度なくしては機能し得なかったのである。
このように、宿駅伝馬制度は単なる交通政策ではなかった。それは、徳川幕府という新たな中央政権の神経網であり、血管網であった。このシステムは、情報を制する者が天下を制するという、戦国の世の教訓を家康が深く理解していたことの証左である。そして、この国家的な大事業の重要な結節点として、伊勢国亀山が選ばれたことには、必然的な地政学的理由が存在した。
第二章:伊勢国の要衝・亀山 ― 宿場整備前夜の地政学的状況
古代からの交通の要衝
伊勢国亀山が東海道の宿場として選定されたのは、決して偶然ではない。この地は、日本の歴史を通じて常に交通と軍事の要衝であり続けた。古代、律令国家が畿内を防衛するために設置した三関(東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関)の一つ、鈴鹿関がこの地に置かれていたことが、その重要性を何よりも雄弁に物語っている 13 。亀山は、畿内から東国へ向かう際の、あるいは東国から畿内へ攻め入る際の、文字通りの玄関口であった。
地理的にも、亀山は極めて優位な位置にあった。東海道が東西に貫くだけでなく、南へ向かえば伊勢神宮へと至る伊勢別街道が、西へ向かえば伊賀を越えて大和国へと至る大和街道が分岐する、まさに交通の結節点であった 14 。この地理的条件は、平時においては人々の往来と物資の交流を促し、戦時においては複数の戦略ルートを抑えることができる軍事拠点としての価値を、亀山の地に与えていた。戦国時代を通じて、この地を支配することが周辺地域への影響力を確保する上でいかに重要であったかは、想像に難くない。
戦国期の亀山城と関氏
亀山の近世史は、鎌倉時代の文永二年(1265年)に地元の豪族である関実忠が亀山城を築いたことに始まる 14 。以降、関氏は戦国時代に至るまでこの地を拠点として支配を続けた。織田信長の時代を経て、豊臣政権下では、関氏の当主であった関一政は一時的に美濃国多良(岐阜県大垣市)へと移封された。代わって亀山城主となったのは、豊臣家の家臣である岡本良勝であった。良勝は亀山城の本格的な近世城郭への改修や城下町の整備、検地の実施など、亀山の統治基盤の確立に努めた 17 。しかし、彼の治世は長くは続かなかった。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで、良勝は西軍に与したため、敗戦後に改易され、自刃を命じられたのである 14 。
関一政の復帰と伊勢亀山藩の成立
岡本良勝が西軍として滅んだ一方、旧領主であった関一政は、関ヶ原の戦いにおいて東軍、すなわち徳川方として参陣していた。この選択が彼の運命を大きく左右する。戦後、家康はその功績を認め、一政に対して旧領である伊勢亀山への復帰を許した。これにより、慶長六年(1601年)、関一政を初代藩主とする三万石の伊勢亀山藩が成立した 18 。
この一点こそが、「亀山宿整備(1601年)」という事象を戦国時代という視点で読み解く上で、決定的に重要である。東海道宿駅伝馬制度が発令されたまさにその年、亀山の領主となったのは、家康への忠誠を戦場で示し、その恩賞として領地を与えられたばかりの人物だったのである。家康が一政を旧領に復帰させ、間髪入れずに国家的な最重要プロジェクトである東海道整備の一翼を担わせたことには、巧みな政治的計算があった。これは、関ヶ原の戦いを経て徳川方に転じた外様大名である一政に対する、忠誠心を試す「踏み絵」であった。この重要任務を迅速かつ的確に遂行することは、一政が徳川の臣下として有用であることを証明する絶好の機会となる。同時に、その成功は他の外様大名に対し、徳川の新体制へ積極的に協力することこそが自らの家を安泰させる道であることを示す、強力なメッセージとなった。一政の亀山宿整備は、彼の藩主としての最初の、そして最大の仕事であり、その成否は徳川政権下における関家の将来を占う試金石だったのである。
第三章:慶長六年のリアルタイム・クロニクル ― 亀山宿、誕生の瞬間
慶長六年(1601年)の亀山宿整備は、単一の命令で完了するような単純な事業ではなかった。それは、幕府のグランドデザインと、現場である亀山藩の実行力が一体となって初めて成し遂げられる、一年がかりの複雑なプロジェクトであった。そのプロセスを時系列で再構築することで、当時のリアルタイムな状況が浮かび上がってくる。
(春)幕府からの指令下達
慶長六年(1601年)初頭、おそらくは雪解けを待って、江戸を発した幕府の使者が東海道を西へ向かった。彼らが携えていたのは、東海道の各要所に宿駅を設置し、伝馬制度を確立せよという徳川家康の朱印状と定書であった。伊勢亀山藩にこの指令がもたらされた時、藩主・関一政はまさに旧領復帰を果たし、新たな藩政の構築に着手したばかりであった 21 。自身の藩の成立と同時に、国家的な大事業の一翼を担うという重責を負うことになった一政と家臣団には、緊張が走ったであろう。これは、家康から与えられた最初の試練であり、その期待に応えなければならなかった。直ちに藩の重臣たちが招集され、指令の具体的内容の確認と、実現に向けた計画策定が開始された。議題は多岐にわたった。城下町を貫通する東海道のルートの最終確定、宿場の運営に不可欠な施設の配置計画、そして最も困難な課題である、公用輸送を担う人馬の確保とその負担の割り振りであった。
(夏~秋)町割とインフラ整備の始動
春の計画策定を経て、夏から秋にかけて、亀山の町は宿場として生まれ変わるための具体的な工事と制度設計の段階に入った。
- 宿場の区画整理(町割) : 基礎となったのは、前領主・岡本良勝が整備した城下町であった。しかし、それはあくまで城を守るための町であり、人や物資がスムーズに通過するための町ではなかった。藩の役人たちは、城の防御機能と宿場の交通機能という、時に相反する二つの要素を両立させるという難題に取り組んだ 23 。具体的には、城下町特有の防御施設である「枡形」(道をクランク状に屈曲させた区画)の構造を活かしつつ、荷を積んだ馬や多くの人々が滞りなく通行できるよう、道幅の調整や路面の整備が行われたと考えられる。
- 中核施設の設置 : 宿場運営の中核となる「問屋場」の建設が始まった。問屋場は、公用荷物の受け渡し、伝馬や人足の割り振り、幕府からの通達の伝達などを行う、宿場の心臓部である。亀山宿では、町の規模を考慮し、東町と西町にそれぞれ一箇所の問屋場を設け、半月交代で業務にあたる効率的な体制が計画された 25 。同時に、大名や公家、幕府の高級役人が宿泊するための「本陣」と、それを補佐する「脇本陣」の指定も行われた。これらには、城下の有力な豪商や名士の邸宅が選ばれた 26 。
- 伝馬役・歩行役の割り当て : 制度の根幹である人馬の確保は、最も慎重を要する作業であった。宿場内の有力な家々に対し、その財力や家格に応じて、伝馬(馬)や人足(労働力)を供出する「伝馬役」「歩行役」が割り当てられた 27 。これは役務であると同時に一種の名誉でもあったが、馬の購入費や飼育費、人足の給金などを伴う、極めて重い経済的負担を住民に強いるものであった。
- 助郷村の指定 : 大名行列の通過時など、公用交通が集中する際には、宿場町単独の人馬だけでは到底需要を賄いきれない。そのため、あらかじめ宿場の周辺に位置する村々が「助郷(すけごう)」に指定された 28 。助郷に指定された村は、宿場からの要請があれば、定められた数の人馬を提供しなければならない義務を負った。これは農作業の繁忙期であっても免除されることはなく、村にとっては大きな負担であった。慶長六年のこの時、亀山宿周辺の村々にもこの助郷役が割り振られ、後の時代にまで続く宿場と農村の間の複雑な関係が始まったのである 29 。
(冬)宿場機能の稼働開始
秋の収穫期が終わり、冬の訪れとともに、亀山宿は新たな姿を現した。問屋場や高札場(幕府の法令を掲示する場所)が完成し、伝馬役を担う家々の厩には公用の馬が繋がれた。年末までには、基本的な施設と制度が整い、亀山宿は東海道四十六番目の宿場として、公式にその機能をスタートさせた 22 。
江戸や京へ向かう幕府の飛脚が、初めて亀山宿の問屋場で馬を乗り換え、真新しい道を次の宿場・関宿へと駆けていく。その光景は、亀山の町が徳川の新しい秩序に組み込まれたことを象徴するものであった。当初は、人馬の数が不足したり、不慣れな業務に混乱が生じたりすることもあっただろう。しかし、藩の役人や宿場の住民たちの努力により、制度は次第に軌道に乗っていった。公用交通が安定化するにつれて、その利便性に惹かれた一般の旅人も増加し始める。彼らを当て込んだ茶屋や旅籠、土産物屋などが少しずつ軒を連ね、亀山の町は、古くからの「城下町」という顔の上に、「宿場町」という新しい顔を重ねていくことになったのである。
第四章:城下町と宿場町の二重奏 ― 亀山宿の構造と特質
慶長六年(1601年)に整備された亀山宿は、他の多くの東海道の宿場とは一線を画す、独特の性格を持っていた。それは、亀山が単なる宿場ではなく、伊勢亀山藩の政治・軍事の中心である「城下町」であったことに起因する。この二重性こそが、亀山宿の物理的構造から経済的機能に至るまで、あらゆる側面に影響を与えていた。
二つの顔を持つ町の物理的構造
亀山宿は、城下町の東端に設けられた江戸口門から、西端の京口門に至るまでの約2.5kmの区間に形成された 24 。多くの宿場町が、効率的な通行を重視して比較的直線的な構造を持つのに対し、亀山宿の道筋は複雑な様相を呈していた。その最大の特徴は、城下町特有の防御思想を色濃く反映した、見通しの利かないクランク状の屈曲、いわゆる「枡形」が意図的に配置されていたことである 16 。
これは、平時においては交通の障害となり得るが、有事の際には城下へ侵攻しようとする敵軍の勢いを削ぎ、側面から攻撃を加えるための巧妙な軍事的工夫であった。特に、江戸口門と京口門は、単なる宿場の出入り口ではなく、亀山城の「惣構え(城郭と城下町を一体として防御する広域防衛ライン)」の重要な構成要素として位置づけられていた 24 。つまり、亀山宿を貫く東海道そのものが、亀山城の巨大な外郭の一部として機能していたのである。旅人は、知らず知らずのうちに、城の防衛システムの中を通過していたと言える。
宿場機能の特異性
この「城下町」としての性格は、亀山宿の「宿場町」としての機能にも特異な影響を及ぼした。特に、江戸時代を通じて街道交通の主役であった参勤交代の大名行列の動向に、その影響は顕著に現れた。当時の武家の慣習として、他の大名の城下に宿泊することは、一種の軍事的リスクと見なされたり、儀礼的な配慮から避けられたりする傾向があった 23 。自らの軍事機密である行列の編成や兵備を、他の藩の拠点で見せることを嫌ったのである。
その結果、多くの西国大名たちは、亀山城下にある亀山宿での宿泊を避け、その手前か先の宿場に宿を取ることが常態化した。特に、亀山宿の西隣に位置する「関宿」は、この状況から大きな恩恵を受けた。関宿は純粋な宿場町であり、伊勢別街道や大和街道が分岐する交通の要衝でもあったため、大名行列の格好の宿泊地となったのである 32 。記録によれば、関宿が本陣2軒、脇本陣2軒、そして40軒以上の旅籠を擁して東海道屈指の賑わいを見せたのに対し、亀山宿は六万石の城下町という規模にもかかわらず、本陣・脇本陣は各1軒、旅籠も江戸後期の段階で21軒と、宿泊機能は相対的に限定的であった 26 。亀山宿は「通過される城下町」としての性格を強く持つことになったのである。
比較分析:亀山宿の独自性
亀山宿の独自性をより明確にするため、隣接する主要な宿場である関宿、四日市宿と比較すると、その特質が一層際立つ。
比較項目 |
亀山宿 |
関宿 |
四日市宿 |
宿場の性格 |
城下町兼宿場町 |
純粋宿場町(交通分岐点) |
港町兼宿場町 |
成立 |
慶長6年(1601年) |
慶長6年(1601年) |
慶長6年(1601年) |
規模(江戸後期) |
本陣1, 脇本陣1, 旅籠21軒 26 |
本陣2, 脇本陣2, 旅籠40軒以上 32 |
本陣1, 脇本陣1, 旅籠98軒 33 |
町並みの特徴 |
防御を意識した屈曲の多い道 23 |
直線的で町家が密集、保存状態が良い |
港へと続く道筋、商業的活気 |
主な利用者 |
公用、一般旅人(大名の宿泊は少ない) |
参勤交代大名、伊勢参宮客、一般旅人 |
伊勢参宮客、商人、海運関係者 |
この比較から明らかなように、東海道という一本の街道にありながら、各宿場はそれぞれの地理的・政治的条件によって全く異なる発展を遂げた。亀山宿の物語は、徳川幕府による全国統一的なインフラ整備というマクロな動きと、それぞれの地域が持つ固有の歴史性というミクロな要因が交錯する中で、いかにして近世日本の都市が形成されていったかを示す、貴重な事例なのである。
第五章:歴史的意義と長期的影響 ― 徳川の平和を支えた宿場として
慶長六年(1601年)の亀山宿整備は、単に一つの町が街道の宿駅として指定されたという一過性の出来事ではなかった。それは、伊勢亀山藩のその後の歴史を規定し、江戸時代二百六十余年の平和(パクス・トクガワーナ)を支える社会経済システムの一部となり、さらには現代の亀山市の都市構造にまで影響を及ぼす、長期的な意義を持つ歴史的転換点であった。
伊勢亀山藩の安定と発展への寄与
初代藩主・関一政にとって、亀山宿の整備は徳川家康から与えられた最初の重要な任務であり、これを成功させたことは、彼の藩主としての統治基盤を固める上で大きな意味を持った 19 。その後、伊勢亀山藩は徳川幕府の西国に対する抑えの要衝と見なされたため、藩主が極めて頻繁に交代する地となった。関氏の後、松平氏、三宅氏、本多氏、石川氏、板倉氏と、譜代大名が目まぐるしく入れ替わった 14 。
通常、これほど領主が頻繁に交代すれば、領地の経営方針が一貫せず、町は疲弊しかねない。しかし、亀山の場合、町の中心に「宿場」という幕府直轄の公的機能が組み込まれていたことが、一種の安定装置として機能した。伝馬役や助郷役といった公役は、藩主が誰であろうと変わることなく存続し、それによってもたらされる経済活動もまた維持された。藩主の交代という政治的な変動要因とは別に、宿場機能という恒常的な社会経済的基盤が町の活力を支え続けたのである。
江戸時代の経済・文化交流における役割
亀山宿は、日本の大動脈である東海道の一部として、江戸時代の経済・文化交流において重要な役割を果たした。人、モノ、そして情報が絶えずこの町を行き交った。江戸で流行した文化や新しい技術が旅人や役人によってもたらされる一方、亀山の地域の産物(例えば、後に特産品となる亀山茶など)が全国に知られるための窓口ともなった 36 。大名行列の宿泊は少なかったものの、幕府の役人、商人、伊勢参りや京・江戸見物に向かう庶民など、多様な人々がこの町を通過し、交流することで、亀山は全国的なネットワークの中に位置づけられることになった。この交流こそが、江戸時代の日本全体の文化的な均質化と、地域ごとの個性の発展を同時に促す原動力であった。
現代への遺産
慶長六年に定められた亀山宿の道筋は、驚くべきことに、400年以上の時を経た現代の亀山市中心部の都市骨格として、今なおその痕跡を色濃く留めている。明治以降、鉄道が開通し、さらに戦後には国道1号線が整備されるなど、交通の主役は大きく変化した 16 。しかし、旧東海道沿いを歩けば、城下町兼宿場町であった頃の面影、すなわち防御のために意図的に設けられた緩やかなカーブや屈曲した道筋、往時の区画割を彷彿とさせる地割が随所に見て取れる。
今日の亀山市が、中部圏と関西圏を結ぶ交通の要衝として、内陸工業都市として発展している背景には、古代の鈴鹿関から近世の東海道宿場町に至るまで、常に交通の結節点であり続けたという歴史的DNAが存在する 36 。その意味で、慶長六年(1601年)の「亀山宿整備」は、単なる過去の一頁ではない。それは、この町のアイデンティティを決定づけ、現代に至るまでその発展の方向性を規定し続けている、生きた歴史なのである。
結論
慶長六年(1601年)の「亀山宿整備」は、ユーザーが当初提示した「城下宿場の整備で交通を安定化」という要約を遥かに超える、多層的かつ深遠な歴史的意義を持つ事象である。戦国時代という視点からこの出来事を徹底的に分析すると、それは徳川家康が描いた天下統一のグランドデザインにおける、極めて戦略的な一ピースであったことが明らかになる。
第一に、この事業は、関ヶ原の軍事的勝利を恒久的な政治的支配へと転換させるための、巧妙な国家建設プロジェクトの一環であった。東海道宿駅伝馬制度の確立は、江戸を中枢とする情報・軍事・経済のネットワークを構築するものであり、亀山宿の整備はその重要な結節点を確保する作業であった。それは物理的な支配のみならず、徳川による新秩序を可視化する心理的効果をも狙ったものであった。
第二に、亀山という土地の選定と、藩主・関一政への任務付与は、家康の巧みな政治手腕を示している。古代からの交通の要衝である亀山を抑え、関ヶ原を経て新たに臣従した外様大名にこの大任を課すことで、その忠誠心を試し、他の大名への模範とさせた。これは、武力だけでなく、恩賞と公役を巧みに組み合わせることで全国の大名を統制しようとする、徳川流の支配術の萌芽であった。
第三に、亀山宿の構造と機能は、「城下町」と「宿場町」という二つの性格が融合・相克する中で形成された独特のものであった。防御を優先した屈曲の多い道筋は、大名行列の宿泊を敬遠させ、隣接する関宿の繁栄を促すという意図せざる結果を生んだ。これは、幕府による統一的な制度が、それぞれの地域の固有の歴史的・地理的条件と結びつくことで、いかに多様な地域社会を生み出していったかを示す好例である。
結論として、「亀山宿整備(1601年)」は、戦国乱世の終焉と、徳川による「平和」の時代の始まりを告げる、象徴的な出来事であった。それは、混沌から秩序へ、地方分権から中央集権へという、日本の歴史の大きな転換点において、国家の礎石がいかにして据えられていったかを具体的に示す、ミクロな歴史の断面図なのである。この一つの宿場の誕生の物語は、徳川家康という稀代の政治家が、いかにして二百六十年以上続く巨大な統治システムを構想し、実行していったかを、我々に雄弁に語りかけている。
引用文献
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- 【関ヶ原の舞台をゆく①】関ヶ原の戦いに至るまで~2年前から始まっていた関ヶ原・前哨戦 - 城びと https://shirobito.jp/article/484
- 戦国三英傑の政策一覧まとめ/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/105024/
- 徳川家康がしたこと、功績や政策を簡単にわかりやすくしたまとめ - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/ieyasu-achieved
- 江戸幕府を開いた徳川家康:戦国時代から安定した社会へ | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06907/
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- 4つの宿場(しゅくば) - 亀山市歴史博物館 https://kameyamarekihaku.jp/kodomo/w_e_b/syukuba/4syukuba/index.html
- 亀山宿 https://ral-mil.chobi.net/link24/link240l/index.html
- 参勤交代と大名行列 - 大江戸歴史散歩を楽しむ会 https://wako226.exblog.jp/240935648/
- 43 旧東海道 四日市宿(よっかいち) (四日市から関)-1 - 山の風音 https://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=185
- 東海道五十三次宿場の概要 https://hspnext.sakura.ne.jp/leaflet/toukaidou/html/toukaidou02.html
- 亀山 城下町 6万石 with 関宿 - ポンタックのブログ at DESIGN OFFICE TAK https://www.pontak.jp/urban-history-japan-castle-town-kameyama-with-sekijyuku/
- 亀山市 - 美し国みえ 移住ポータルサイト - 三重県 https://www.ijyu.pref.mie.lg.jp/about/hokusei-area/kameyama/
- 第2章 市の概要と将来展望 - 亀山市 https://www.city.kameyama.mie.jp/docs/2020030600016/file_contents/kameyama_ricchitekiseika_honsatsu-4-12-31.pdf