最終更新日 2025-10-03

亀有新田開発(1609)

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戦国終焉の残響:慶長十四年「亀有新田開発」の時系列分析

序論:徳川期「創造」の序曲として

本報告書は、慶長14年(1609年)に執行された「亀有新田開発」を、単一の農業土木事業としてではなく、日本の歴史における一大転換点を象徴する画期的な事象として多角的に分析・詳述するものである。この開発は、約150年にわたる戦国時代の「破壊」と「混乱」の価値観が終焉を迎え、徳川幕府による新たな秩序と生産体制を「創造」する時代への移行を、関東平野の一角に具体的に刻み込んだ事業と位置づけられる。

慶長14年という時点が持つ歴史的意義は極めて大きい。関ヶ原の戦い(1600年)から9年、徳川家康が征夷大将軍に任官し江戸幕府を開いてから6年が経過し、徳川による支配体制は着実に固まりつつあった。しかし、豊臣家は大坂城に依然として強大な影響力を保持し、全国の大名も戦国の気風を色濃く残していた。大坂の陣(1614-1615年)という最後の武力による天下統一事業を目前に控えたこの「静かなる緊張」の時代において、幕府の本拠地である関東の経済基盤を盤石にすることは、軍事力の増強以上に重要な国家戦略であった。

この文脈において、新田開発は単なる農地拡大に留まらない、より深い意味合いを帯びる。戦国時代の本質が、武力による領土と資源(石高)の奪い合いであったのに対し、徳川の時代は、武力による領土拡大を厳しく禁じ、内政と開発による石高の増加こそが富国の源泉であるという新たな価値観を提示した 1 。すなわち、戦国大名が槍と刀で敵の領地を切り取ったように、徳川幕府は鍬と鋤を手に、治水技術という兵法を駆使して、未開の荒野や湿地という「自然」から石高という「富」を収奪したのである。この視点に立てば、新田開発とは、形を変えた「静かなる戦争」であり、内なる領土への「征服事業」であったと言える。慶長14年の亀有新田開発は、この新たな時代の国家意思が、江戸近郊の泥濘地で初めて本格的に展開された、重要な「会戦」の一つとして理解されねばならない。

第一章:開発前夜の亀有 ― 水と戦乱に揺れた土地

第一節:太古からの地形と水系 ― 中川・綾瀬川が刻んだ低湿地帯

慶長年間の亀有地域は、今日の閑静な住宅街からは想像もつかない、広大な低湿地帯であった。この地形は、利根川や荒川といった大河川が、かつて幾筋にも分かれて東京湾へと注ぎ込んでいた時代の名残である 3 。中川や綾瀬川は、当時は独立した河川ではなく、利根川・荒川水系の本流や分流そのものであり、その流路は洪水によって頻繁に変化し、流域一帯は常に氾濫の危険に晒されていた 5

この地の古名が「亀無」あるいは「亀梨」であったことは、その地理的特性を雄弁に物語っている 8 。これは、広大な湿地の中に、亀の甲羅のようにわずかに盛り上がった微高地が点在する景観を指す言葉であった 10 。人々は、このわずかな高まりに身を寄せ、不安定な自然環境の中で細々と生活を営んでいたと考えられる。このような土地では、体系的な水田開発は極めて困難であり、生産性は著しく低かった。絶え間ない水の脅威は、この土地に根付く人々の生活を規定し、大規模な開発を阻む根本的な要因となっていた。

第二節:戦国期葛西地域の支配構造 ― 葛西氏から後北条氏へ

鎌倉時代以来、葛飾地域は桓武平氏の流れを汲む葛西氏の所領として知られていた 9 。しかし、戦国時代の動乱の中で、関東に覇を唱えた後北条氏の勢力圏に組み込まれていく。永禄2年(1559年)に作成された後北条氏の検地帳ともいえる『小田原衆所領役帳』には、「亀梨」の地名が記載されており、この時点で後北条氏の支配が確立していたことが確認できる 8

後北条氏も、領国経営の一環として治水事業に関与した記録は残されている。例えば、天正8年(1580年)には荒川の堰の普請を命じる文書が発給されるなど、局地的な堤防の修築や災害復旧は行われていた 11 。しかし、これらはあくまで既存の村落や耕地を洪水から守るための対症療法的な措置に過ぎなかった。戦乱が常態であった当時、中川・綾瀬川流域全体を体系的に改変し、未開の湿地を大規模に開発するような、長期的かつ広域的な視点に立った「天下普請」への資源投下は、政治的にも経済的にも不可能であった。亀有の地は、戦国時代の終わりまで、その潜在的な生産力を解放されることなく、水と共存する原始的な景観の中に留め置かれていたのである。

第三節:天正十八年(1590年)の画期 ― 徳川家康の江戸入府と関東平野の再編

この地域の運命を根底から変えたのが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐と、それに続く徳川家康の関東移封であった。後北条氏の滅亡により、関東一円は徳川家の支配下に入り、家康は江戸を新たな本拠地と定めた。

当時の江戸は、海岸線が日比谷まで入り込む一漁村に過ぎなかったが、家康は、この地を日本の新たな中心とすべく、壮大な都市計画に着手する。それと同時に、広大でありながら未開発な湿地帯が広がる関東平野全体を、徳川家の財政と軍事を支える日本最大の穀倉地帯へと変貌させるという、より巨大な構想を抱いていた。この構想の根幹をなしたのが、利根川の流れを東の銚子方面へと移し、広大な平野部を洪水の脅威から解放する「利根川東遷事業」であり、それに付随する無数の新田開発計画であった 5 。亀有新田開発は、この国家規模のグランドデザインの一部として、その初期段階に位置づけられるものであった。後北条氏という地域権力から、徳川氏という中央集権的な権力へと支配者が交代したことによって初めて、亀有の地に体系的な開発の光が当てられることになったのである。

第二章:天下普請の思想と技術 ― 関東郡代・伊奈忠次の国家構想

第一節:幕府財政の礎を築く ― 新田開発という経済戦略

江戸幕府の支配体制は、土地の生産力を米の量(石高)で評価し、それを基準に年貢を徴収する石高制を根幹としていた。したがって、全国の総石高を増大させることは、幕府の財政基盤を強化し、ひいては政治的権威を確立するための最重要課題であった 1

この国家方針に基づき、幕府は全国の未開発地、特に原野、山林、湖沼、干潟などを新たに耕地化する新田開発を強力に推進した 2 。その手法は多岐にわたり、幕府の代官が適地を見立てて開発を主導する「代官見立新田」、既存の村が共同で開発を請け負う「村請新田」、そして資金力のある町人が投資として行う「町人請負新田」など、様々な形態が奨励された 13 。慶長14年の亀有新田開発は、幕府の直轄領(天領)において、関東郡代という幕府の代理人が深く関与した事業であり、「代官見立新田」に近い性格を持ちつつ、後述する在地有力者や帰農武士が主体となった「土豪開発新田」の要素も併せ持っていたと推定される。いずれにせよ、それは徳川の天下泰平を経済的に裏付けるための、極めて政治的な意図を持った事業であった。

第二節:関東郡代伊奈氏の権能と「関東流」治水技術の確立

徳川家康が、この関東平野再開発という壮大な事業の執行者として白羽の矢を立てたのが、腹心の臣である伊奈忠次であった 15 。忠次は関東代官頭(後に関東郡代と称される役職の初代)に任命され、関東における検地、治水、新田開発、交通網の整備など、広範な権限を委任された 12 。伊奈氏は、単なる代官ではなく、まさに関東地方の経営を統括する「最高経営責任者」ともいうべき存在であった 16

伊奈忠次とその一族は、京都を中心とする伝統的な治水技術とは一線を画す、「関東流(伊奈流)」と呼ばれる独自の工法を確立した。これは、巨大な堤防で洪水を力ずくで封じ込めるのではなく、川幅を広く取り、要所に霞堤(かすみてい)のような不連続な堤防を設けることで、増水時には意図的に遊水地へと水を溢れさせ、破堤による壊滅的な被害を防ぎつつ、その水を灌漑用水として有効活用するという、合理的かつ柔軟な思想に基づいていた 16 。この先進的な技術と思想が、亀有のような困難な土地の開発を可能にする技術的基盤となった。

第三節:亀有開発の生命線 ― 葛西用水の原型と亀有溜井の成立過程

亀有のような低湿地を安定した水田に変えるためには、二つの相反する水の制御が必要であった。すなわち、稲作に必要な水を安定的に供給する「利水」と、余剰な水を速やかに排出し、洪水を防ぐ「治水」である。この課題を解決するために伊奈忠次が考案したのが、後の葛西用水路網の礎となるシステムであった。

その核心的な施設の一つが、慶長年間(1596-1615)に、綾瀬川の末流を堰き止めて造成された貯水池「亀有溜井」である 16 。これは、不安定で時に暴力的であった自然の河川の流れを、一度人間の管理下に置く画期的な試みであった。天候に左右され、水争いの種となりがちであった「水」という資源を、幕府の権威の下で計画的に貯留し、配分する。この意味で、亀有溜井は単なる貯水池ではなく、幕府が資本(水)を蓄え、それを新田開発という「投資」に計画的に振り向けるための「水の銀行」としての戦略的機能を有していた 12

この「銀行」から各水田へと水を届ける送水路の整備も並行して進められた。慶長18年(1613年)には葛西井堀の開削が始まり 20 、後の寛永8年(1631年)には、さらに上流の瓦曽根溜井から亀有溜井へと用水を補給する水路も完成する 12 。慶長14年(1609年)の亀有新田開発は、この壮大な用水ネットワークが緒についたばかりの、まさに黎明期に行われた。亀有溜井という「水の銀行」の設立こそが、この困難な事業に着手するための決定的な前提条件だったのである。

第三章:慶長十四年、亀有 ― 新田開発のリアルタイム再現

本章では、慶長14年(1609年)に亀有の地で展開されたであろう開発のプロセスを、季節の移ろいと共に時系列で再現する。これは、断片的な記録から当時の状況を再構成する試みであり、開発に携わった人々の息遣いが聞こえるような、リアルタイムな描写を目指すものである。

まず、亀有新田開発が、より大きな歴史の流れの中でどのように位置づけられるかを以下の年表で示す。

西暦(元号)

幕府・全国の動向

伊奈氏・関東の治水事業

亀有地域の動向

1590年(天正18)

徳川家康、関東へ移封。江戸城に入る。

伊奈忠次、関東代官頭に就任。

後北条氏の支配が終焉。徳川領となる。

1594年(文禄3)

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利根川東遷事業に着手(会の川締切)。

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1600年(慶長5)

関ヶ原の戦い。

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1603年(慶長8)

徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府開府。

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慶長年間(1596-1615)

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綾瀬川を堰き止め、 亀有溜井 を造成 16

溜井の造成により、計画的な用水供給の基盤が整う。

1609年(慶長14)

薩摩藩が琉球に侵攻。

幕府の奨励政策の下、各地で新田開発を指導 15

亀有新田開発の実行。

1610年(慶長15)

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伊奈忠次、死去。子の忠政が跡を継ぐ。

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1612年(慶長17)

幕府、禁教令を全国に発布。

伊奈忠治(忠政の弟)、武蔵国葛飾郡などで新田開発手形を発給 12

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1614年(慶長19)

大坂冬の陣。

荒川の瓦曽根に堰を設け、瓦曽根溜井を造成 12

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1615年(元和元)

大坂夏の陣。豊臣家滅亡。「元和偃武」。

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慶長十四年(1609年)

早春(2月~3月):計画と許可

年の初め、まだ寒気の残る中、一人の男が武蔵国赤山(現在の埼玉県川口市)にある伊奈氏の陣屋、あるいは江戸城下の役宅の門を叩いたであろう。この男こそ、亀有新田開発を主導する「開発人」である。彼はおそらく、戦国の世が終わり、新たな生きる道を模索していた帰農武士か、あるいは代々その地に根を張る有力農民(土豪)であったと考えられる。

彼は、自らの知見と人脈を頼りに作成した開発計画書と、葦の原が広がる亀有の地の見取り図(簡単な絵図)を携えていた 21 。計画書には、開発予定地の範囲、必要な労働力と資金の見積もり、そして水源である亀有溜井からの用水利用計画などが記されていたはずである。

願い出を受けた関東郡代・伊奈忠次は、即座に許可を出すことはしない。まず配下の役人を現地に派遣し、綿密な実地調査を行わせる 14 。調査の主眼は、開発が周辺の既存村落の水利権を侵害しないか、技術的に実現可能か、そして幕府にとって十分な増収が見込めるかという点にあった。

数週間にわたる調査と検討の末、計画は有望と判断される。そして、伊奈忠次の朱印が押された一枚の書状、「開発定書(かいはつさだめがき)」が開発人に交付される 22 。これこそが、国家による事業認可の証である。書状には、開発を許可する旨に加え、開発後の3年から5年間、年貢を免除するという破格の特権「鍬下年季(くわしたねんき)」が明記されていた 14 。この約束が、これから始まる過酷な事業への最大の動機付けとなった。

春~初夏(4月~6月):労働力の結集と初期工事

開発定書を手にした開発人は、ただちに労働力の募集を開始する。近隣の村々を回り、土地を持たない次男・三男や、より良い生活を求める貧しい農民たちに声をかける 25 。彼ら「出百姓(でびゃくしょう)」にとって、この事業への参加は、自らの土地を持つ「本百姓」へと成り上がる、またとない好機であった 21

桜が散り、田植えの季節が近づく頃、数十人の男たちが鍬やもっこを担いで亀有の湿地に集結する。彼らが最初に着手したのは、土地を乾かすための排水路の掘削であった。泥に足を取られながら、ひたすら水路を掘り進める。掘り上げた大量の土は、無駄にはしない。住居を建てる屋敷地や、水害を避けて畑作を行うための微高地を造成するために、指定された場所に積み上げられていく。これが、かつての地名「亀無」の由来となった、亀の甲羅のような地形を人工的に創り出す、気の遠くなるような作業であった 8 。この時代、土木工事を効率化する重機など存在しない。全ての作業は、人間の筋力と、鍬や鋤といった原始的な道具のみに頼っていたのである 26

夏~秋(7月~10月):インフラ整備の本格化

梅雨が明け、厳しい日差しが照りつける夏になると、開発は次の段階へ移行する。土地がある程度乾いたことで、今度は稲作に不可欠な用水路の掘削が本格化する。水源は、すでに満々と水を湛える亀有溜井である。

溜井から開発地まで、正確な勾配を計算しながら水路を掘り進める作業には、高度な測量技術と経験が求められた 27 。水の流れが速すぎれば水路を侵食し、遅すぎれば末端まで水が届かない。開発の成否は、この水の道をいかに巧みに設計するかにかかっていた。

並行して、造成された土地の区画整理、「地割り」が行われる 25 。入植者一人ひとりに割り当てられる田畑の境界を定め、畔(あぜ)を築いていく。こうして、無秩序な湿地は、整然とした耕作地へとその姿を変え始める。同時に、入植者たちは自らが住むための小屋の建設にも取り掛かる。柱を立て、茅で屋根を葺き、雨露をしのぐ生活の拠点を確保する。厳しい冬が来る前に、最低限の生活基盤を整えなければならなかった。

冬(11月~翌1月):越冬と準備

やがて冬が訪れると、大規模な土木工事は一時中断される。入植者たちは、完成したばかりの粗末な小屋で、厳しい寒さを耐え忍ぶ。この期間、彼らは来春に予定されている最初の作付けに向けて、農具を修理し、開墾した土地の土をさらに細かく砕き、地ならしを行う。

幕府や開発主体者からは、この厳しい時期を乗り越えるための支援として、家屋の建築費用や農具の購入代金が支給されることもあった 21 。彼らは、翌年の春、この新しい土地に初めて稲を植える日を夢見ながら、静かに力を蓄えていた。

翌年以降:最初の作付けから検地へ

長い冬が終わり、春の訪れと共に、ついに歴史的な瞬間がやってくる。完成した用水路から水が引き込まれ、新たに作られた水田が一斉に水を湛える。入植者たちは、祈るような気持ちで、初めての田植えを行う。

しかし、初年度の収穫は決して豊かではなかったであろう。長年水に浸かっていた土地はまだ肥沃ではなく、収量も不安定であった 21 。だが、彼らには「鍬下年季」という強力な支えがあった。収穫した米は年貢として納める必要がなく、すべてが自分たちの食料と、翌年のための種籾となった 15 。この数年間の猶予期間こそが、新田の経営を軌道に乗せ、入植者たちの生活を安定させるために不可欠な生命線であった。

そして、約束の鍬下年季が明ける年、伊奈氏の配下である検地役人たちが村を訪れる。彼らは、一筆ごとに田畑の面積を測量し、土壌の質に応じて上・中・下などの等級を定める。すべての調査結果は「検地帳」と呼ばれる台帳に meticulously 記録される 29

この検地帳に基づき、村全体の公式な生産力、すなわち石高が最終的に決定される。この瞬間をもって、未開の湿地は正式に「武蔵国葛飾郡亀有村」として幕府の支配体制に組み込まれ、年貢を上納する義務を負う一個の行政単位として、その歴史を歩み始めるのである。

第四章:鍬を握った武士たち ― 開発を支えた人々の社会史

第一節:戦国乱世の終焉と「帰農武士」という選択

亀有新田開発を主導し、またその中核を担ったのは、どのような人々だったのか。その実像に迫ることは、戦国から江戸への社会変動を理解する上で極めて重要である。関ヶ原の戦いを経て徳川の天下が定まる過程で、西軍に与した大名はもとより、多くの大名家が改易(領地没収)や減封(領地削減)の処分を受け、膨大な数の武士が主家を失い、浪人となった。また、豊臣政権下で進められた兵農分離政策により、武士として生きる道を断念し、在地の有力者として農村に留まった者も少なくなかった 14

これらの「帰農武士」たちは、単なる農民ではなかった。彼らは、戦場で培った部隊の指揮統率能力、兵糧や物資を管理する兵站の知識、そして城の普請などで得た土木技術の素養を持っていた。平和な時代の到来は、彼らから刀を振るう場を奪ったが、その能力を発揮する新たな舞台を用意した。それが新田開発であった 2 。彼らは、鍬を新たな武器とし、そのリーダーシップを発揮して人々をまとめ、困難な開墾事業を成功に導く「開発人」として、新時代に自らの存在価値を見出していったのである。

第二節:亀有新田開発における旧勢力の関与の可能性

亀有を含む葛西地域は、天正18年(1590年)まで後北条氏の支配領域であった。北条氏が滅亡した後、その膨大な数の家臣団の多くは、関東各地の農村に土着し、帰農武士となった。彼らは、徳川の新たな支配体制の下で、生き残りをかけて地域の有力者としての地位を維持しようと努めた。

近隣の江戸川区の事例では、旧後北条家臣であった宇田川氏が、徳川の代官である伊奈氏の助力を得て新田開発に従事したという明確な記録が残っている 30 。このことから類推すれば、亀有新田開発においても、旧後北条家臣や、さらにその前代の支配者であった葛西氏に連なる在地有力者が、開発の主体者として深く関与した可能性は極めて高い。彼らにとって新田開発は、徳川体制へ恭順の意を示し、その庇護の下で家名を存続させるための、重要な政治的行動でもあった。

第三節:在地有力農民との協業体制と村落共同体の形成

新田開発は、帰農武士のような卓越したリーダーシップを持つ人物だけでは成し遂げられない。事業には莫大な初期投資が必要であり、資金力を持つ土豪と呼ばれる在地有力農民の協力が不可欠であった 31 。また、過酷な肉体労働を担う多くの一般農民の参加なくして、広大な湿地を開墾することは不可能である。

こうして、亀有の地には、帰農武士、土豪、そして一旗揚げようと集まった出百姓など、様々な出自を持つ人々が集結した。彼らは、用水路の維持管理、道路の普請、そして村の祭祀といった共同作業を通じて、次第に連帯感を育んでいった。出自も背景も異なる人々が、「亀有」という新たな土地で生きるという共通の目的の下に結束し、新しい村落共同体を形成していったのである。村の鎮守として香取神社が勧請されたのは 32 、この新たな共同体の精神的な支柱を確立し、人々の心を一つにするための象徴的な出来事であったと考えられる。

この社会形成の過程には、徳川幕府の巧みな統治戦略が隠されている。戦国の終焉は、社会に大量の「余剰人員」、すなわち職を失った武士という、潜在的な社会不安の火種を生み出した。彼らは高い戦闘能力と自負心を持ち、一歩間違えれば反乱の中核となりかねない危険な存在であった。幕府にとって、彼らの有り余るエネルギーを、いかにして体制にとって有益な方向へと転換させるかは、喫緊の課題であった。新田開発は、この課題に対する見事な解答であった。それは、彼らに「開発人」や「名主」といった新たな社会的地位と、経済的成功の機会を提供した 13 。これにより、彼らの野心と不満は、幕府への反逆ではなく、幕府の財政基盤そのものを強化する方向へと巧みに誘導された。亀有新田開発は、単に農地を増やすだけでなく、旧時代の危険分子を新時代の建設者へと転身させる、社会の「安全弁」としての役割をも果たしていたのである。

第五章:新田の誕生と江戸経済圏

第一節:「亀有村」の成立 ― 石高、領主、村の構造

検地を経て、亀有新田は正式な行政村「亀有村」として幕府の支配体制に組み込まれた。その所領形態は、幕府の直轄領(天領)、あるいは将軍直属の家臣である旗本の知行地であったと推測される。後の明治時代初期に作成された『旧高旧領取調帳』を参照すると、武蔵国葛飾郡亀有村は幕府領および旗本領の相給(あいきゅう、複数の領主による分割支配)であったと記録されており、その起源は慶長年間の開発期にまで遡る可能性が高い 34

村が成立すると、人々の精神的な拠り所となる寺社も整備されていった。江戸時代後期に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』には、亀有村の鎮守として「香取社」が明確に記載されている 32 。下総国一之宮である香取神宮は、古くからこの地域の開拓と深く関わってきた神であり、その分霊を勧請することで、村の安寧と五穀豊穣が祈願された。こうして亀有村は、石高という経済的基盤と、鎮守という精神的支柱を両輪として、新たな歴史を歩み始めたのである。

第二節:巨大都市・江戸を支える供給地へ ― 地廻り経済圏への編入

慶長14年当時、江戸は幕府の成立と共に日本中から武士、商人、職人が集まり、その人口は爆発的に増加していた。この巨大都市の胃袋を満たす食料の安定供給は、幕府にとって最重要課題の一つであった。

亀有新田で生産された米や、その後の畑地で栽培された野菜は、この巨大消費市場をすぐ間近に控えるという、絶好の地理的条件に恵まれていた。収穫物は、村のすぐ脇を流れる中川や綾瀬川の水運を利用して、小舟で効率的に江戸市中へと輸送された 10 。これにより、亀有村は、江戸近郊の生産地が問屋などを介さずに直接江戸の市場と結びつく「地廻り経済圏」の一翼を担うことになった 39 。上方からの高級品(下り物)とは対照的に、新鮮な食料を供給する後背地としての役割は、亀有村の経済を安定させ、その後の発展を支える強力なエンジンとなった。

第三節:その後の亀有 ― 享保期の河川大改修と地域の変貌

慶長14年の新田開発は、亀有の地を未開の湿地から生産の場へと変えた画期的な出来事であったが、それは関東平野全体の治水と開発の歴史から見れば、まだ序章に過ぎなかった。開発後も、大規模な洪水のリスクが完全に取り除かれたわけではなかった。

開発から約120年後の享保14年(1729年)、8代将軍徳川吉宗は、紀州流の土木技術者である井澤弥惣兵衛を登用し、関東平野の抜本的な河川改修事業に着手させる。この「享保の改革」の一環として行われた大事業により、この地域の水系は劇的な変貌を遂げた。亀有新田開発の生命線であった亀有溜井はこの時に廃止され、その代わりとして小合溜井(現在の水元公園)が新たな水源として整備された。また、中川の川幅が約3倍に拡張され、排水能力が飛躍的に向上した 41

伊奈忠次による慶長期の開発が、困難な土地を切り拓く「開拓」の時代であったとすれば、井澤弥惣兵衛による享保期の改修は、その成果をより安定させ、持続可能なものにする「完成」の時代であったと言える。この二つの時代の偉業が一体となって、現在の東京低地の豊かな農業基盤が築かれたのである。

結論:戦国から江戸への架け橋として

慶長14年(1609年)の亀有新田開発は、その規模こそ限定的であったかもしれないが、日本の歴史が大きな転換点を迎える中で、その本質を凝縮した象徴的な出来事であった。それは、戦国時代の在地領主による場当たり的で小規模な開発とは明確に一線を画す、徳川幕府という中央集権的な国家権力が、明確な経済戦略に基づいて主導した、計画的かつ技術的な事業の先駆けであった。

この事業の成功は、戦国乱世を生き抜いた人々の多様な能力とエネルギーを結集させることによってもたらされた。刀を鍬に持ち替え、その指揮能力を新たな国土建設に注いだ帰農武士。地域の発展に私財を投じた在地有力者。そして、自らの土地を求めて過酷な労働に耐えた名もなき農民たち。彼らは、戦乱の記憶を生々しく留めながらも、新たな時代の秩序と生産体制を、自らの汗と知恵で創造したのである。

亀有の泥濘地が美田へと姿を変えたこの一つの事業は、武力による領土拡大の時代が終わりを告げ、治水と開発による「石高」の増加こそが国家を富ませ、社会を安定させるという、新たな価値観が日本社会に根付いていく過程を見事に示している。それはまさしく、戦国という「破壊」の時代から、江戸という「創造」の時代へと渡る、堅固な架け橋となる出来事だったのである。

引用文献

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  17. 江戸開発に大いに貢献!「神様仏様伊奈様」と慕われた伊奈忠次の生涯と功績を紹介【どうする家康】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/207549/2
  18. 葛 西 用 水 琵 琶 溜 井 記 念 館 の し お り - 葛西用水路土地改良区 https://midorinet-kasai.or.jp/wp-content/uploads/2024/11/kinenkan.pdf
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  20. 「江戸圦樋屋」小考 : 用水普請史料から探る18世紀江戸の普請請負人 - 國學院大學学術情報リポジトリ https://k-rain.repo.nii.ac.jp/record/2000145/files/daigakukiyo_062_007.pdf
  21. 【3 近世後半期の開発】 - ADEAC https://adeac.jp/tsurugashima-lib/text-list/d100010/ht051630
  22. 江戸時代の地名-開発者の地名 - 足立区 https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-kaihatsusha.html
  23. 新田開発 - 歴史探訪と温泉 - FC2 https://hotyuweb.blog.fc2.com/blog-entry-1715.html
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  25. 武蔵野の新田開発 - 緑のトラスト狭山へようこそ https://greentrust-sayama.jimdofree.com/%E6%A6%82%E8%A6%81/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E9%87%8E%E3%81%AE%E6%96%B0%E7%94%B0%E9%96%8B%E7%99%BA/
  26. 新田の開発と分水の利用 http://ktymtskz.my.coocan.jp/B/jyosui5.htm
  27. 「江戸時代中期の治水仕 法・紀州流・井澤弥惣兵衛為 永の業績について」 - 日本河川協会 https://www.japanriver.or.jp/kataru/kataru_report/pdf/no214_kataru.pdf
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  29. 新田開発 - 足立区 https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-nitta.html
  30. 新田 開発 に活躍 した人 - 江戸川区 https://www.city.edogawa.tokyo.jp/documents/9197/9-02.pdf
  31. 平野の拡張,新田開発 | 公益社団法人農業農村工学会 https://www.jsidre.or.jp/tabata3-a/
  32. 亀有香取神社|葛飾区亀有の神社、旧亀有村鎮守 - 猫の足あと https://tesshow.jp/katsushika/shrine_kameari_katori.html
  33. 亀有香取神社 / 東京都葛飾区 - 御朱印・神社メモ https://jinjamemo.com/archives/kamearikatorijinja.html
  34. 南葛飾郡 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%91%9B%E9%A3%BE%E9%83%A1
  35. 旧高旧領取調帳データベース概要説明 https://www.rekihaku.ac.jp/doc/gaiyou/kyuudaka.html
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  38. 亀有駅――胸を張って言える「みんなおいでよ 俺たちの街へ」(東京都葛飾区・足立区/JR常磐線各駅停車) - マンション図書館 https://mansionlibrary.jp/article/30150/
  39. 5 葛飾区 https://www.urano-seminar.com/Survey2002/ch5.pdf
  40. 農業生産の発展① ― 新田開発と用水路の整備 https://cdn.manabi-aid.jp/files/4056_7-2%20%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%81%AE%E7%99%BA%E5%B1%95.pdf
  41. 葛飾区史|第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世) https://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/2-3-4-139.html
  42. 第5章 利根川氾濫流の流下と中川流域 https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1947_kathleen_typhoon/pdf/9_chap5.pdf