最終更新日 2025-09-29

京都御所再建開始(1596)

慶長伏見地震後、豊臣秀吉は京都御所の再建に着手。これは単なる復旧ではなく、秀吉の権威回復と朝廷との新関係構築を目的とした政治的事業であり、近世公武関係の画期となった。
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慶長伏見地震と京都御所再建の真相:権力と威信の建築戦略

序章:天正から文禄へ - 天下人の傍らにあった御所

文禄五年(1596年)に開始された京都御所の再建事業は、一般に慶長伏見地震による被害からの復旧工事として認識されている。しかし、この事象を戦国時代の終焉と近世の黎明という大きな歴史的文脈の中に位置づけるとき、その様相は単なる災害復旧を超えた、高度に政治的な意味を帯びた国家事業として浮かび上がってくる。本報告書は、この御所再建が、豊臣秀吉という天下人の権力戦略の集大成であり、来るべき新しい時代の公武関係を規定する画期的な建築事業であったことを、一次史料と建築史的分析に基づき徹底的に論証するものである。

応仁の乱(1467-1477年)以降、皇室の権威と経済的基盤は著しく衰退し、京都御所もまた荒廃の一途をたどっていた。この状況に変化をもたらしたのが、天下統一の道を歩んだ織田信長である。信長は、朝廷の伝統的権威を自身の権力基盤の正統化に利用する一方、御所の修理などを通じてその権威を保護する姿勢を示した。この政策は、豊臣秀吉によって継承され、さらに拡大されることとなる。秀吉は、正親町天皇や後陽成天皇との関係を巧みに構築し、関白、そして太政大臣へと昇りつめ、朝廷の庇護者として振る舞うことで、自身の出自の低さを乗り越え、天下人としての地位を盤石なものにした 1

秀吉の権力誇示は、特に建築事業において顕著であった。彼が京都に築いた聚楽第は、単なる政庁兼邸宅ではなく、金箔瓦が燦然と輝く、見る者を圧倒するための権力装置であった 4 。天正十六年(1588年)、秀吉は後陽成天皇をこの聚楽第に招くという「聚楽第行幸」を挙行する。これは、天皇を自らの城に迎え入れるという前代未聞の出来事であり、秀吉の権威が天皇のそれに比肩し、あるいは凌駕する可能性さえも天下に示す象徴的な事件であった 3 。大坂城、そして晩年の拠点となる伏見城もまた、その壮大さと豪華さをもって、諸大名や民衆、そして朝廷に対し、秀吉の絶大な権力を視覚的に訴えかけるものであった。

このような時代背景の中、地震前の京都御所は、信長や秀吉の支援によってある程度の修復はなされていたものの、往時の壮麗さにはほど遠い状態であった。在位中の後陽成天皇は、学問を好み、文化の興隆に大きな役割を果たした人物であり、秀吉との協調関係を重視しながら、その支援のもとで朝廷の再建と権威の回復を進めていた 6 。秀吉と天皇の間に存在したこの共生関係こそが、未曾有の国難を契機として、歴史上稀に見る壮大な宮殿建築プロジェクトが始動する土壌となったのである。

第一部:大地動乱 - 文禄五年閏七月十三日の京都

第一章:その夜、何が起きたか

文禄五年閏七月十三日(西暦1596年9月5日)、子の刻(午前0時頃)。都が深い眠りにつく真夜中、突如として大地が激しく揺れ動いた。後に「慶長伏見地震」と呼ばれることになるこの巨大地震は、近畿地方中部を震源とし、その規模はマグニチュード7.5前後、畿内の広範囲で現代の震度6以上に相当する強烈な揺れであったと推定されている 7 。イエズス会宣教師のルイス・フロイスはその書簡に「約三時間が程絶え間なく続けり」と記しており、本震の揺れが異常に長く、人々に絶え間ない恐怖を与えたことがうかがえる 10

この未曾有の天変地異に、都の人々はいかに対峙したのか。その生々しい記録が、当時の公家や僧侶たちの日記に残されている。公家の山科言経は、自身の日記『言経卿記』に、その夜の体験を克明に記した。

「地動ニ相損所々、先私宅ユカミ了、庭上ニ出テ夜ヲ明了」 11

(地震で所々が損傷した。まず私の家が歪んだので、庭に出て夜を明かした)

揺れが収まらぬ中、倒壊の危険がある家屋から庭先へと避難し、不安な一夜を過ごした言経の姿は、当時の京の人々の共通の体験であっただろう。言経の邸宅の修理が終わるまでには約一ヶ月半を要し、その間、彼は庭での避難生活を余儀なくされた 13 。また、醍醐寺の座主であった義演も、その日記『義演准后日記』の中で、この地震を「前代未聞」「非只事(ただ事ではない)」と記し、その衝撃の大きさを伝えている 11

恐怖は一度では終わらなかった。本震の後も、人々は絶え間ない余震に苛まれた。『言経卿記』には「地動昼夜及度々(地震は昼夜を問わず何度もあった)」と記され、その不安な日々の中で、人々の心は極度に疲弊していった 12

「地震ニ付而、毎日雑説有之、又大地震可有之間沙汰有之、各女子・ワラヘトモ也、夜ハ盜人用心トモ、寺内ニハ夜眠トモ稀也云々」 13

(地震のせいで、毎日様々な噂が飛び交い、また大地震があるだろうという風聞が広まっている。女子供は言うまでもなく、夜は盗人にも用心せねばならず、寺内では夜眠る者も稀であるという)

この記述からは、余震の恐怖に加え、流言飛語が飛び交い、治安が悪化するなど、社会全体が極度の緊張と混乱に陥っていた様子が手に取るようにわかる。地震という自然災害が、人々の心に深い爪痕を残し、社会秩序そのものを揺るがしていたのである。

第二章:被害の全貌 - 崩壊した権力の中心と、残された伝統の象徴

慶長伏見地震がもたらした物理的な被害は、畿内全域に及ぶ甚大なものであった。しかし、その被害の様相を詳細に分析すると、極めて象徴的な「被害の非対称性」が浮かび上がってくる。それは、豊臣政権という当代随一の権力の中枢が壊滅的な打撃を受けた一方で、古来からの伝統的権威の象徴は奇跡的にその姿を留めたという事実である。

被害が最も集中したのは、震源に近かった伏見であった。天下人・豊臣秀吉が隠居後の住まいとして築き、政務の中心地ともなっていた壮麗な伏見城は、この地震によって無残にも崩壊した 11 。完成間近であった天守閣は倒壊し 10 、城内の諸大名の屋敷も軒並み大破・倒潰した。『言経卿記』や『義演准后日記』によれば、徳川家康の屋敷では長屋(ナカクラ)が崩れ、家臣の加々爪政尚が圧死、雑人十数名が死亡。徳川秀忠の屋敷でも雑人六、七十人が命を落とした 11 。城内全体での死者は600人とも 8 、二の丸にいた女房(侍女)だけで300人余りが亡くなったとも伝えられ 11 、その惨状は凄まじいものであった。天下人の権威と財力を結集して築かれた「不落」であるべき巨城が、自然の猛威の前にいとも容易く崩れ去ったという事実は、豊臣政権の威信を根底から揺るがす衝撃的な出来事であった。

京都市中もまた、深刻な被害に見舞われた。特に伏見に近い下京や、盆地の東縁部での被害が大きかった 14 。南部に位置する東寺では、五重塔をはじめ、鎮守八幡社、大師堂など七つの堂宇が倒壊するという壊滅的な被害を受けた 12 。また、秀吉が国家鎮護を祈願して建立した方広寺の大仏(京の大仏)は、巨大な大仏殿こそ倒壊を免れたものの、本尊である大仏像本体は胸から崩れ落ち、左の御手も崩落するなど大破した 7 。この大仏の損壊は、秀吉の権威の失墜を象徴する出来事として、人々の目に映ったであろう。被害は京都にとどまらず、堺では死者600人、大坂や兵庫でも町屋が倒壊し、数知れぬ死者が出たと記録されており、まさに広域巨大災害であった 12

これら各地の壊滅的な被害報告の中で、ひときわ異彩を放っているのが、京都御所(禁裏)の状況である。驚くべきことに、天皇の住まいであった御所の被害は、極めて軽微だったのである。この事実は、複数の一次史料によって裏付けられている。『言経卿記』には、市中の惨状を詳述した上で、御所については「禁中ハ少々相損也云々(御所は少しだけ損傷したとのことだ)」と、あっさりと記されているに過ぎない 13 。また、京都大学防災研究所の報告によれば、より具体的な被害は「廊下の一部、築垣の瓦が損じた程度でことなきをえた」とされている 14

この事実は、本報告書の根幹をなす極めて重要なポイントである。もし御所再建が、ユーザーの当初の前提であった「地震被害後の再建」、すなわち物理的な必要性に基づく災害復旧事業であったならば、これほど軽微な被害の建物を、莫大な費用と労力をかけて全面的に建て替えるという判断は、不合理極まりない。伏見城や東寺など、はるかに甚大な被害を受けた建築物が他に多数存在するからである。

ここに、慶長伏見地震における「被害の非対称性」が明確になる。すなわち、物理的な被害の中心は豊臣政権の権力基盤(伏見城)と、その威光を示す建造物(方広寺大仏)に集中し、一方で伝統的権威の象徴(京都御所)はほぼ無傷であった。この事実は、御所再建の動機が物理的な復旧ではなく、全く別の次元、すなわち政治的な意図にあったことを強く示唆している。秀吉は、この震災という未曾有の危機を、自らの権威を再構築するための絶好の機会へと転換しようとしたのではないか。その壮大な政治的パフォーマンスの舞台として選ばれたのが、ほぼ無傷であったはずの京都御所だったのである。


表1:慶長伏見地震における主要建築物の被害状況一覧

建築物名

所在地

被害状況の概要

死者数(推定含む)

主な出典史料

伏見城

山城国伏見

天守閣が崩壊。城内の門、殿舎、諸大名屋敷も大破・倒潰。

600人以上(城内全体)

『言経卿記』 11 , 『義演准后日記』 11 , 伊達成実書状 10

京都御所(禁裏)

山城国京都

廊下の一部、築垣の瓦が損傷した程度の軽微な被害。「少々相損」。

なし

『言経卿記』 13 , 京大防災研究所年報 14

方広寺(京の大仏)

山城国京都

大仏殿は倒壊を免れるも、柱が地面にめり込む被害。本尊の大仏像は胸や左手が崩落し大破。三方の築地塀は全て崩壊。

不明

『言経卿記』 11 , 『義演准后日記』 11

東寺

山城国京都

五重塔、鎮守八幡社、大師堂など七つの堂宇が倒壊。

不明

『言経卿記』 12

京都市中

山城国京都

上京は比較的軽微だが、下京、特に四条町や伏見に近い南部で家屋倒壊多数。

280人以上(上京・下京合計)

『言経卿記』 13 , 『殿中日記』 15

和泉国堺

家屋倒壊多数。「事外相損」。

600人

京大防災研究所年報 14 , 『言経卿記』 12

大坂

摂津国大坂

大坂城は大きな被害なし。しかし、町屋は「大略崩了」。

不知数

『言経卿記』 12


第二部:再建の真意 - なぜ御所は造り替えられたのか

第一章:秀吉の政治的決断 - 権力者の威信回復戦略

慶長伏見地震は、豊臣秀吉の権威に深刻な打撃を与えた。自らが心血を注いで築き上げた伏見城の無残な崩壊は、天下人としての威信を根底から揺るがすものであった。地震発生直後、秀吉自身も激しく動揺し、まずは伏見城近くの木幡山へ避難し、その後、より堅固な大坂城へと居を移している 9 。この行動は、彼が伏見の地を一時的に放棄したことを意味し、その権力の象徴が自然の力の前にもろくも崩れ去った事実を天下に知らしめる結果となった。この権威の失墜は、虎視眈々と天下を狙う諸大名に動揺を与え、豊臣政権の安定を脅かしかねない一大事であった。

この危機的状況を乗り越えるため、秀吉は極めて大胆かつ巧みな政治的決断を下す。それは、「震災からの復興」という、誰もが反対することのできない大義名分を掲げた国家事業の断行である。しかし、その復興の主たる対象を、最も被害が甚大であった自らの居城・伏見城ではなく、国家の伝統的象徴でありながら被害は軽微であった京都御所に設定した。この一点にこそ、秀吉の非凡な政治的嗅覚が表れている。

もし秀吉が伏見城の再建を最優先していれば、それは単に私的な権力の回復事業と見なされたであろう。しかし、御所の再建を宣言することによって、秀吉は私的な利害を超越し、公的な国家秩序の再建者として自らを位置づけることに成功したのである。これは、地震によって動揺した人々の関心を、崩壊した伏見城というネガティブな象徴から、新たに生まれ変わる御所というポジティブな象徴へと転換させる、巧みな情報操作でもあった。

さらに、この決断の背景には、豊臣家の将来に対する秀吉の深い配慮があったと考えられる。当時、秀吉は老境に入り、後継者である秀頼はまだ僅か4歳の幼子であった 18 。秀吉にとって、自らの死後も豊臣家が安泰に天下を治め続けることは、最大の悲願であった。この御所再建事業は、豊臣家が天皇と朝廷を恒久的に守護する存在であることを天下に示す、壮大なレガシー(遺産)事業としての意味合いを帯びていた。被害の少ない建物を敢えて「造り替える」という行為は、逆説的に、豊臣家の財力と権力が未曾有の国難にも揺るがない盤石なものであることを、天下に改めて誇示する絶好の機会となったのである。かくして、御所再建は単なる建築事業ではなく、失墜した権威を回復し、豊臣家の永続性を祈願するための、壮大な政治的パフォーマンスとして始動した。

第二章:プロジェクトの担い手たち - 豊臣政権の実行力

この国家的な大事業を推進するため、豊臣政権の持つ行政能力と技術力が最大限に動員された。プロジェクトの最高責任者は、言うまでもなく豊臣秀吉であり、その死後は後継者である秀頼がその立場を継承した。そして、実務の統括は、秀吉の信頼厚い側近たち、すなわち五奉行が担った。

五奉行は、それぞれ司法、宗教、行政、土木、財政を分担しており、この御所再建においては、土木(作事)を担当していた増田長盛が中心的な役割を果たしたと考えられる 19 。長盛は、伏見城の普請においても奉行を務めており、豊臣政権下の大規模建築事業における実務経験が豊富であった 21 。彼が発給した書状などが現存しており、そこからは、資材の調達や人員の配置など、複雑なプロジェクトを効率的に管理する豊臣政権の高度な官僚機構の一端をうかがい知ることができる 22

一方、この巨大プロジェクトの技術面を支えたのが、当代随一の大工棟梁と謳われた中井正清である 26 。大和国の法隆寺お抱えの宮大工(番匠)の家系に生まれた正清は、寺社建築で培われた高度な伝統技術を身につけていた 26 。彼はその卓越した技術をもって豊臣政権下で頭角を現し、この御所再建という国家事業の現場責任者として抜擢された。

この御所再建プロジェクトは、その過程において、日本の歴史の大きな転換点を象徴する出来事となった。事業の企画者であった豊臣秀吉は、その完成を見ることなく慶長三年(1598年)に死去する。これにより、プロジェクトは一時的に停滞、あるいは規模を縮小して継続された可能性がある。そして慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が新たな天下人として浮上する。

家康は、武力によって天下を掌握したが、その支配を盤石なものにするためには、秀吉と同様に朝廷の伝統的権威を利用する必要があった。家康は秀吉の対朝廷政策を巧みに継承し、この御所再建事業を自らの権威のもとで引き継ぎ、完成させることを決断する。朝廷の庇護者としての立場を明確にすることは、徳川政権の正統性を天下に示す上で不可欠な政治的行為であった。

この権力の移行期において、両政権を技術で繋いだのが中井正清であった。家康は、すでに御所再建プロジェクトを熟知し、かつ最高の技術を持つ正清をそのまま重用した。正清は家康の期待に応え、慶長十一年(1606年)には大工としては異例の従五位下大和守に叙任され、名実ともに幕府の御大工の筆頭となる 26 。彼はその後、江戸幕府の初代大工頭として、二条城、江戸城、駿府城、名古屋城など、数々の天下普請を指揮し、徳川の世の礎を築いていくことになる 31

結果として、この御所は「慶長度内裏」と呼ばれ、慶長十八年(1613年)に完成を迎える 32 。それは、豊臣が企画し、徳川が完成させるという、二つの巨大権力の合作となった。この事実は、慶長度内裏が単なる天皇の住まいではなく、日本の支配者が誰であるかを朝廷と天下に示す、権力継承の儀式としての重い意味合いを帯びていたことを物語っている。中井正清という一人の技術者は、まさに戦国の終焉と江戸の開幕という時代の過渡期を、その卓越した技術力で生き抜いた象徴的な人物であったと言えるだろう。

第三部:慶長度内裏の誕生 - 桃山文化の結晶

豊臣が企画し、徳川が完成させた慶長度内裏は、単に新築された宮殿というだけでなく、時代の精神と新たな政治秩序を体現した、建築史・美術史上の金字塔であった。その建築様式は伝統と革新が交錯し、内部空間は当代最高の技術と美意識によって彩られていた。

第一章:宮殿建築の変革 - 寝殿造と書院造の融合

慶長度内裏の建築様式を理解する上で鍵となるのが、「寝殿造」と「書院造」という二つの様式の融合である。

「寝殿造」は、平安時代の貴族住宅にその源流を持つ、日本の伝統的な宮殿建築様式である 34 。その最大の特徴は、開放的な空間構成にある。恒久的な壁は少なく、母屋と庇からなる広大な空間を、御簾や几帳、屏風といった移動可能な調度(障屏具)で緩やかに仕切って使用した 36 。建物は庭園と一体化し、自然との調和を重視する、雅な公家文化を象徴する空間であった。慶長度内裏も、天皇が儀式を執り行う中心的な建物である紫宸殿などにおいて、この伝統的な寝殿造の意匠を色濃く継承していた。

一方、「書院造」は、室町時代以降に武家住宅として発展した、より機能的で格式を重んじる様式である 38 。床の間、違い棚、付書院といった座敷飾りを備え、襖や障子といった建具で部屋を明確に区切り、それぞれの部屋に使用目的を与えるのが特徴である 36 。これは、主従関係を明確にする対面の儀礼など、武家の社会秩序を前提として構築された空間であった 40 。慶長度内裏では、天皇が日常の生活を送る常御所などに、この書院造の要素が大胆に取り入れられた。

この慶長度内裏の紫宸殿は、幸いなことに、後の寛永期の建て替え(1641年)の際に皇室と縁の深い仁和寺に移築され、現在の金堂(国宝)としてその姿を今に伝えている 32 。この仁和寺金堂は、現存最古の紫宸殿遺構として極めて高い価値を持つ 44 。その建築を詳細に見ると、屋根が創建当初の檜皮葺から本瓦葺に変更されるなどの改変はあるものの 32 、昼間は上方に跳ね上げて開放する蔀戸(しとみど)など、寝殿造の古式な特徴を明確に残している 46 。同時に、その堂々たる規模と力強い構成には、桃山時代らしい豪壮な気風が満ち溢れており、当時の宮殿建築の姿を雄弁に物語る第一級の歴史的証人である 32

この寝殿造と書院造の融合は、単なる様式の折衷ではなかった。それは、「武家が公家を支配する」という新しい時代の政治秩序を、建築空間として表現したものであった。寝殿造が天皇を中心とする伝統的な公家文化の象徴であるのに対し、書院造は武家の秩序を前提とした空間である。この二つを一つの御所の中に同居させることは、天皇の生活空間に武家の論理(秩序)を導入することを意味していた。つまり、天皇は伝統的権威の象徴(寝殿造)として最大限尊重されつつも、その実質的な生活や政治的立場は、武家が構築した新しい秩序(書院造)の中に組み込まれるという、当時の公武関係そのものが、建築様式として可視化されたのである。これは、慶長度内裏完成の2年後、元和元年(1615年)に徳川幕府が発布する「禁中並公家諸法度」によって、朝廷の行動が法的に規定されることになる未来を、いわば建築的に予告するものであったと言えよう 48

第二章:空間を彩る権力の象徴 - 狩野派の金碧障壁画

慶長度内裏の内部空間は、当代最高の絵師集団であった狩野派による、壮麗な障壁画で埋め尽くされていたと推測される。それは、桃山文化の美意識の結晶であり、同時に天下人の権力を誇示するための華麗なる装置であった。

狩野派は、室町時代中期の狩野正信を始祖とし、その子・元信が画風と工房の基礎を固め、以来、時の権力者と密接に結びつきながら約400年にわたって日本画壇の中心に君臨した巨大な絵師集団である 51 。特に、桃山時代に活躍した狩野永徳は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人に仕え、力強い筆致と雄大な構図を特徴とする豪壮な大画様式を確立した 53 。秀吉が命じた大坂城や聚楽第といった大規模建築の内部は、永徳率いる狩野派の工房が制作した膨大な障壁画で飾られた。

慶長度内裏の内部を飾ったのも、この狩野派の絵師たちであった。彼らが用いたのは、桃山時代を象徴する「金碧障壁画」という様式である 55 。これは、襖や壁などの画面全体に金箔を贅沢に貼り(金地)、その上に群青や緑青といった鮮やかな岩絵具を用いて壮大なモチーフを描き出す技法である 56 。金箔は、蝋燭などのわずかな光を反射して、薄暗い殿舎の内部をきらびやかに照らし出す効果があった 54 。それと同時に、金の輝きと極彩色のコントラストは見る者を圧倒し、発注者である天下人の絶大な権力と富を視覚的に誇示する目的があった 58

画題もまた、重要な意味を持っていた。紫宸殿には、古代中国の徳の高い帝王や賢臣を描く「賢聖障子」が、伝統に則って描かれたことが記録からわかっている 60 。これは、天皇に徳治を促すという伝統的な意味合いを持つ。一方で、その他の殿舎には、中国の故事、日本の四季を彩る松や桜、勇壮な虎や龍など、狩野派が得意とする画題が壮大なスケールで展開されたはずである 61 。これらの障壁画は、単なる美しい室内装飾ではない。それらは、天皇の徳を讃え、豊臣(そして徳川)による泰平の世を謳歌し、その支配の正統性を主張する、極めて政治的なメッセージを込めた視覚メディアとして機能していたのである。

結論:御所再建が遺したもの

文禄五年(1596年)に始まった京都御所の再建事業は、その発端となった慶長伏見地震という未曾有の国難を巧みに逆手に取り、天下人・豊臣秀吉が自らの権威を再確認し、豊臣家の未来を寿ぐために仕掛けた、壮大な政治的プロジェクトであった。

第一に、この事業は豊臣政権末期の集大成であった。伏見城の崩壊によって露呈した権威の脆弱性を糊塗し、天下の耳目を新たな国家事業へと向けさせるという、秀吉の卓越した政治的判断から始まった。それは、物理的な必要性を超えた、失墜しかけた権威を回復するための象徴操作であり、秀吉が生涯を通じて行ってきた、建築による権力誇示の最後にして最大の事業となったのである。

第二に、この事業は徳川の世への重要な橋渡しとなった。豊臣が始め、徳川が完成させたこの慶長度内裏は、近世における新たな公武関係の雛形を創出した。武家が朝廷を経済的に庇護し、その伝統的権威を尊重しつつも、実質的な支配下に置くという関係性は、この内裏の建築様式そのものに体現されている。寝殿造の伝統と書院造の格式が融合した空間は、後の「禁中並公家諸法度」による幕府の朝廷統制を、建築という形で先取りするものであった。

第三に、この事業は日本文化史における不滅の金字塔となった。建築史においては、古代以来の寝殿造から近世の書院造へと移行する過渡期の様相を示す画期的な遺構として、美術史においては、桃山文化の豪壮華麗な美意識を結集した狩野派の障壁画が展開される壮大な舞台として、慶長度内裏は計り知れない価値を持つ。そして、その中心であった紫宸殿が、奇跡的に仁和寺金堂として現存することは、我々が今なお桃山時代の息吹に直接触れることを可能にする、かけがえのない遺産と言えるだろう。

したがって、「京都御所再建開始(1596)」という事変は、単なる建築の記録に留まるものではない。それは、戦国という動乱の時代の終焉と、新たな近世という時代の秩序が形成される瞬間の、政治、社会、そして文化のあらゆる力学が凝縮された、極めて重層的かつ重要な歴史的事件なのである。

引用文献

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  8. 1596年 慶長伏見地震発生:9/5のコラム|土谷尚子/インテリアコーディネーター - note https://note.com/nao5tsuchiya/n/nc8f9f07dff76
  9. 【災害記録帳】豊臣政権の晩年を象徴する1596年慶長「伏見」地震の被害 | ちずらぼのちずらぶ https://plaza.rakuten.co.jp/chizulove/diary/201409060000/
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  51. 日本美術の「狩野派」とは?狩野永徳や狩野正信など重要絵師を学ぶ - イロハニアート https://irohani.art/study/26358/
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  54. 「智積院障壁画の世界」 ―桃山の息吹に触れる https://chisan.or.jp/shinpukuji/center/workshop/forum/%E3%80%8C%E6%99%BA%E7%A9%8D%E9%99%A2%E9%9A%9C%E5%A3%81%E7%94%BB%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%80%8D-%E2%80%95%E6%A1%83%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%81%AF%E5%90%B9%E3%81%AB%E8%A7%A6%E3%82%8C%E3%82%8B%E2%80%95/
  55. 金碧障屏画(きんぺきしょうへいが)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E7%A2%A7%E9%9A%9C%E5%B1%8F%E7%94%BB-54485
  56. 屏風絵/10分でわかるアート - Sfumart https://sfumart.com/column/10minart_06/
  57. 智積院の金碧障壁画の傑作 | October 2022 | Highlighting Japan https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202210/202210_07_jp.html
  58. 序章 金碧障壁画の研究にあたって https://kyoto-art.repo.nii.ac.jp/record/87/files/50811005_%E9%B7%B2%EF%A8%91%E5%85%AC%E5%BD%A6_%E6%9C%AC%E6%96%87.pdf
  59. 【大人の教養・日本美術の時間】金箔と「黄金の時代」 - 紡ぐプロジェクト https://tsumugu.yomiuri.co.jp/feature/%E3%80%90%E5%A4%A7%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%95%99%E9%A4%8A%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E3%81%AE%E6%99%82%E9%96%93%E3%80%91%E9%87%91%E7%AE%94%E3%81%A8%E3%80%8C%E9%BB%84%E9%87%91%E3%81%AE/
  60. 京都御所は平安京が造営された時期の大内裏の中にあった皇居から始り、 度 重なる火災や争乱により、その敷地の変遷を重ねてきた。 https://kcua.repo.nii.ac.jp/record/672/files/tsc302.pdf
  61. 郷土の誇り名古屋城本丸御殿の障壁画~400年前の輝きを今に https://g.kyoto-art.ac.jp/reports/2469/