最終更新日 2025-10-03

伊東港整備(1604)

Perplexity」で事変の概要や画像を参照

慶長九年、伊東の槌音 ―徳川家康の国家構想と「伊東港整備」の真相―

序章:徳川の世が拓く伊豆の海―戦国から天下普請へ

慶長九年(1604年)、伊豆国伊東の地で始まったとされる「伊東港整備」は、単なる一地方の港湾開発ではない。それは、戦国の動乱が終焉を迎え、徳川による新たな国家体制がその礎を築き始めた時代の転換点を象徴する、壮大な物語の序章であった。この事象を深く理解するためには、まず時計の針を少し戻し、戦国時代における伊豆半島の戦略的価値とその変遷を紐解く必要がある。慶長年間の伊東は、歴史の空白地帯から突如として現れたのではなく、戦国大名が遺した海事戦略の遺産と、天下統一という新たな時代の要請が交差する、必然の舞台だったのである。

戦国期伊豆の戦略的価値:後北条氏の水軍拠点網

戦国時代後期、関東に覇を唱えた後北条氏にとって、伊豆半島は相模国の西を守る防衛線であり、同時に駿河湾への影響力を確保するための重要な前線基地であった。特に、駿河に勢力を伸ばす武田氏との対立が激化すると、陸路だけでなく海からの脅威にも備える必要性が高まった 1 。これに対応するため、後北条氏は伊豆半島の沿岸部に巧みに水軍拠点を配置した。

その代表格が、伊豆半島西岸に位置する長浜城である。この城は、武田水軍に対抗すべく天正七年(1579年)頃から本格的に整備され、軍船を繋留するための「船掛場」を備えた本格的な海城であった 1 。天正八年(1580年)には、この長浜城から出撃した後北条水軍と武田水軍が駿河湾で激突する海戦も発生しており、伊豆が制海権をめぐる熾烈な争いの舞台であったことを物語っている 1 。さらに、伊豆半島南端の下田にも、湾口を扼する岬全体を城塞化した下田城が築かれ、後北条氏の水軍の一大拠点として機能していた 4

これらの海城群は、単なる個別の防衛施設ではなく、相互に連携し、相模湾から駿河湾に至る広大な海域の制海権を維持するための戦略的ネットワークを形成していた。後北条氏は、伊豆の複雑な海岸線と天然の良港を最大限に活用し、兵站線の確保と敵勢力への圧力を両立させる高度な海事戦略を展開していたのである 5

権力の移行と伊豆の再定義:豊臣政権から徳川政権へ

この後北条氏による伊豆支配は、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐によって終焉を迎える。この戦役において、豊臣方は圧倒的な陸軍だけでなく、九鬼嘉隆らが率いる強力な水軍を動員し、伊豆沿岸の城を次々と攻略、海上を完全に封鎖した。これにより後北条氏の水軍は無力化され、伊豆の支配権は戦後、関東へ移封された徳川家康の手に渡ることになる 4

家康にとって、伊豆半島は旧領の三河・遠江・駿河と新領地の関東を結ぶ結節点であり、江戸の喉元を守る極めて重要な防衛線であった。同時に、西国方面への睨みを利かせ、広大な太平洋へと開かれた玄関口としての新たな戦略的価値を持つことになった。後北条氏が軍事目的で整備した港湾や航路、そして蓄積された海事に関する知見は、そのまま徳川氏に引き継がれ、その後の国家運営の礎として活用されることになる。

関ヶ原後の国家構想:伊豆半島に課せられた新たな使命

慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦に勝利し、名実ともに天下人となった家康は、武力による支配体制の構築から、巨大なインフラ整備事業を通じた恒久的な支配体制の確立へと舵を切る。その象徴であり、中核をなしたのが、江戸城の大規模な拡張工事、すなわち「天下普請」であった 6 。この事業は、全国の諸大名に普請役を分担させることでその財力を削ぎ、徳川の絶対的な権威を巨大な建造物として可視化する、高度な政治的プロジェクトであった 8

この国家事業において、資材の調達は最重要課題であった。特に、城の根幹をなす石垣には、膨大な量の、しかも良質で堅牢な石材が必要とされた。江戸周辺では適切な石材が産出されなかったため、家康が目を付けたのが伊豆半島であった 7 。伊豆半島、特にその東海岸は、江戸城の石垣に適した安山岩(通称「伊豆堅石」)の宝庫であり、かつ海岸線まで山が迫る地形は、切り出した石材を直接船に積み込んで海上輸送するのに極めて好都合であった 10

こうして伊豆半島は、かつての軍事戦略の要衝という役割から、徳川の新たな世を象徴する巨大建造物を支える、国家第一の資源供給基地という新たな使命を帯びることになったのである。家康による伊東の活用は、戦国期の軍事拠点を、江戸時代型の巨大公共事業を支える兵站拠点へと「コンバージョン(用途転換)」するプロセスであり、それはまさに戦国から江戸への時代の転換を象徴する出来事であった。

第一章:国家事業の交差点、伊東―洋式帆船建造と江戸城石垣普請

慶長九年(1604年)前後の伊東は、日本の歴史上、極めて稀有な場所となっていた。性質が全く異なる二つの国家プロジェクト―すなわち、外洋航海を可能にする「洋式帆船の建造」と、徳川の権威の礎を築く「江戸城石垣の普請」―が、この伊豆東海岸の一点で同時に進行していたのである。これは、徳川家康という一人の人物の中に共存する、内向きの権力基盤強化と、外向きの国際的視野という二つの志向性が、伊東という土地の持つ地理的優位性によって引き寄せられ、交差した歴史の特異点であった。

天下人・家康の二元的国家構想

関ヶ原の合戦を経て天下を掌握した家康の視線は、国内の統治体制確立と、海外との関係構築という二つの方向を同時に捉えていた。

一方では、天下普請による江戸城の大規模拡張があった。これは、全国の大名、特に西国の豊臣恩顧の大名に対して普請役という形で財政的・人的負担を強いることでその力を削ぎ、徳川の権威を物理的に可視化するという、極めて国内政治的な意図を持つ事業であった 6 。伊豆から運ばれる巨石の一つひとつが、この新たな支配秩序の礎を文字通り築き上げるためのものであった 10

しかしその一方で、家康は国際情勢にも鋭敏な感覚を持ち、海外貿易がもたらす富と情報に強い関心を寄せていた。当時、ポルトガル商人が事実上独占していた中国産の生糸貿易に、オランダやイギリスを参入させることで競争を促し、日本の利益を最大化しようと目論んでいた 12 。島国である日本の発展と安全保障のためには、従来の沿岸航海用の和船とは一線を画す、外洋航海能力を持つ大型船の保有と、それを用いた海上輸送力の強化が不可欠であると深く認識していたのである 13

運命の漂着:ウィリアム・アダムス(三浦按針)という触媒

家康のこの二元的な国家構想が現実のプロジェクトとして動き出す上で、決定的な役割を果たしたのが、一人の異邦人の存在であった。慶長五年(1600年)三月、オランダ船リーフデ号が満身創痍の状態で豊後国(現在の大分県)に漂着した 15 。その船の航海長であったイギリス人、ウィリアム・アダムスは、やがて大坂城で家康と引見する。

アダムスがもたらした知識は、家康を驚嘆させた。航海術や造船技術はもとより、天文学、幾何学、数学といった当時のヨーロッパにおける最新の科学知識は、家康の知的好奇心と国家的野心を強く刺激した 14 。家康は、アダムスを単なる漂着民としてではなく、自身の壮大な構想を実現するための「技術顧問」として見出し、江戸日本橋に屋敷を与え、「三浦按針」という日本名と旗本の身分を与えるという破格の待遇で召し抱えた 14 。アダムスは家康の信頼を得て、幕府の外交顧問としても重用されることになる 14

伊東の選定:二つの事業を可能にした奇跡的な立地条件

家康の二つの構想が、伊東という具体的な場所で交差するに至ったのは、この地が双方のプロジェクトの要求条件を奇跡的に満たしていたからに他ならない。

まず、アダムスが主導する洋式帆船建造の適地として、伊東は理想的な環境を備えていた。アダムス自身が造船地の条件として挙げたとされるのは、第一に、船の建造と進水に適した、海に注ぐ河口と厚みのある砂州の存在。第二に、船材となる良質な木材を大量に、かつ容易に切り出せる後背地が近いこと。そして第三に、協力者となる有能な日本の船大工が確保できることであった 13 。伊東は、松川という川が相模灘に注ぎ、その河口には砂州が形成されていた。そして背後には、豊富な木材資源を誇る天城山系が控えていた。これらの条件が、伊東を日本初の洋式帆船建造の地に選ばせたのである。この選定理由の合理性は、同時代に書かれた『慶長見聞集』にも詳細に記されている 12

そして驚くべきことに、伊東周辺は、もう一方の国家事業である江戸城普請の石材供給基地としても、第一級の適地であった。伊東を含む伊豆東海岸一帯は、城の石垣に求められる硬質で緻密な安山岩(伊豆堅石)の一大産地であった 11 。さらに、海岸線に採石場である「石丁場」を設け、切り出した巨石を最小限の陸上輸送で直接船に積み込める「石揚げ場」を設置するのに極めて好都合な地形をしていた 10

このように、最新技術の実験場としての条件と、伝統的な巨大土木事業の資源供給基地としての条件が、伊東という一点に重なっていた。それは、家康の構想地図における特異点(シンギュラリティ)であり、彼のプラグマティズムと伊東の地理的ポテンシャルが引き起こした、歴史の必然とも言うべき邂逅であった。

【表1:主要関係人物一覧とその役割】

この二大事業を推進するにあたり、家康の下で様々な人物が重要な役割を担った。彼らの関係性を理解することは、慶長年間の伊東で何が起きていたのかを把握する上で不可欠である。

人物名

役職・立場

伊東における主な役割

関連資料

徳川家康

前征夷大将軍(大御所)

両事業の最高意思決定者。アダムスへの造船命令、天下普請の発令。

8

ウィリアム・アダムス(三浦按針)

旗本、外交顧問

洋式帆船建造の技術総責任者。設計と建造を直接指導。

13

向井忠勝(将監)

幕府船手頭(水軍総督)

幕府の海事責任者として、アダムスの造船事業を監督・支援した可能性が高い。「安宅丸」建造にも関与。

22

大久保長安(石見守)

勘定奉行、老中(天下の総代官)

天下普請の事実上の総奉行。伊豆を含む全国の鉱山・代官領を支配し、石材調達を統括。

24

江川英長(太郎左衛門)

伊豆代官

韮山代官として伊豆国を管轄。両事業の円滑な遂行のため、現地の行政・兵站を担った。

25

西国・東国諸大名

天下普請の助役大名

担当の石丁場で石材を採掘・加工し、自前の船で江戸まで輸送する役務を負う。

8

第二章:三浦按針、伊東の地にて―日本初の洋式帆船建造の時系列詳解(1604年〜1607年)

三浦按針ことウィリアム・アダムスによる洋式帆船の建造は、日本の技術史における画期的な出来事であった。それは単に一つの船が造られたという事実以上に、西洋の合理的・科学的な思考法が、日本の伝統的な職人技術と初めて本格的に融合した「知的冒険」の始まりを意味した。伊東の浜辺は、異文化間の知識移転と技術革新が起こる、時代の最前線の実験場と化したのである。そのプロセスを時系列に沿って詳細に再現することで、当時のリアルな情景を浮かび上がらせる。

【表2:伊東における洋式帆船建造の時系列年表】

まず、数年にわたるプロジェクトの全体像を把握するため、主要な出来事を時系列で整理する。

年月

出来事

詳細

関連資料

慶長5年(1600)3月

アダムス、豊後国に漂着

オランダ船リーフデ号の航海長として日本に到着。生存者はわずかであった。

14

慶長5年(1600)4月頃

家康との引見

大坂城で家康と引見。その知識と人柄を認められ、江戸に屋敷を与えられる。

14

慶長9年(1604)頃

造船命令と建造開始

家康より洋式帆船の建造を命じられる。伊東の松川河口にて、80トン級帆船の建造を開始。

13

慶長9年(1604)

80トン級帆船、完成

日本初の本格的な洋式帆船が完成。家康は試乗し、大いに満足する。

15

慶長9年(1604)以降

大型船の建造命令

家康はさらに大型(120トン級)の外洋航海可能な帆船の建造をアダムスに命じる。

15

慶長12年(1607)

120トン級帆船、完成

ガレオン船形式の大型帆船が完成。後のサン・ブエナ・ベントゥーラ号となる。

15

【1604年以前】プロジェクト始動:家康の慧眼とアダムスの謙遜

アダムスが日本に漂着してから数年が経過したある日、家康は彼を呼び出し、一つの問いを投げかけた。アダムスがかつてイギリスで12歳から造船所の徒弟として働き、船大工の経験を持つことを見抜いていた家康は、西洋式の小型船を造ることはできないかと打診したのである 14

アダムス自身が故郷の妻に宛てた手紙や、同時代の見聞録である『慶長見聞集』によれば、彼はこの時、即座には応じなかったという。彼は「自分は専門の船大工ではないし、造船の知識もありません」と、一度は固辞した。これは、異国の地で未知の材料と職人を使い、最高権力者の期待に応えるという巨大なプレッシャーを前にした、彼の誠実さと慎重さの表れであっただろう 28 。しかし、家康は引き下がらなかった。「よしんば良い船が出来なくとも問題はない。とにかく、出来るだけやってみなさい」と励まし、失敗を恐れずに挑戦することを促した 19 。この家康の言葉は、単なる命令ではなく、彼の技術導入に対する強い意志と、リスクを許容してでも新たな可能性を追求しようとする先進的な姿勢を明確に示している。この一言が、日本の造船史を大きく動かすことになった。

【1604年】建造のリアルタイム再現:伊東の浜辺に響く槌音

家康の命を受けたアダムスは、リーフデ号の生き残りの乗組員たちと、伊東に集められた日本の優秀な船大工たちと共に、前代未聞のプロジェクトに着手した 12 。伊東の松川河口は、やがて日本の技術革新を象徴する槌音に包まれることになる。

彼らが採用した工法は、当時の日本では画期的なものであった。それは、後に「乾ドック(ドライ・ドック)」と呼ばれる工法の原型である。まず、松川河口近くの砂州の上に大きな穴を掘り、その底に丸太を敷き詰めて作業床とした。船はこの陸上の作業場で、風雨や波の影響を受けずに、基礎となる竜骨(キール)から肋骨(フレーム)、外板へと精密に組み上げられていった 16 。これは、船体を水際に引き寄せて建造する日本の伝統的な工法とは根本的に異なる、設計思想に基づいた合理的なアプローチであった。

船体が完成すると、次なる独創的なプロセスが待っていた。進水である。『慶長見聞集』は、かつて鎌倉時代に源実朝が由比ヶ浜で唐船を建造したものの、遠浅の海に進水させることができず、そのまま砂の上で朽ち果てさせてしまったという故事を引き合いに出している 16 。この歴史的な失敗を、アダムスは繰り返さなかった。彼は、松川の流れを一時的に堰き止め、その水を掘削したドックへと導き入れた。水が満ちるにつれて、巨大な船体はゆっくりと浮力を得て水面に浮かび上がる。そして堰を切ると、船は川の流れに乗って、安全かつスムーズに相模灘へと進水していった 16 。この水力を巧みに利用した進水方法は、当時の日本人にとって驚異の光景であり、『慶長見聞集』の筆者は「海に進水させる事をわきまえなかった事は愚の至りである」と、その合理性を称賛している 28

この一連の作業は、アダムス一人の手によるものではなく、西洋の技術と日本の職人技が融合した協業の産物であった。家康の真の狙いは、単に一隻の洋式帆船という「ハードウェア」を手に入れること以上に、その建造を日本の大工たちに実地で学ばせることで、彼らの内に先進技術という「ソフトウェア」を移植する「技術移転」にあったと推測される 12 。伊東の浜辺は、まさに生きた技術研修の場となっていたのである。

【1604年以降】成功と次なる挑戦:80トンから120トンへ

慶長九年(1604年)、こうして完成した日本初の本格的な洋式帆船は、約80トンの規模であった 15 。家康はこの船に乗り込み、その出来栄えを検分すると、大いに満足したと伝えられている 28 。この成功は、家康の期待を確信へと変え、彼の野心をさらに大きなものへと駆り立てた。

家康はすぐさま、アダムスに対して次なる命令を下す。今度は、先の船よりもさらに大型で、本格的な外洋航海に耐えうる120トン級のガレオン船を建造せよ、というものであった 15 。80トン級の船が技術的な試金石であったとすれば、この120トン級の船は、明確に太平洋を横断するような長距離航海を視野に入れた、実用的な戦略資産としての意味合いを持っていた。家康の視線が、日本周辺の海に留まらず、遥か太平洋の彼方、メキシコ(ノビスパン)やヨーロッパとの直接交易に向けられていたことの動かぬ証拠である。伊東の槌音は、日本の歴史が鎖国へと向かう前の、もう一つの可能性を秘めた、外向きの時代の到来を告げていた。

第三章:天下普請の槌音―伊豆石丁場における石材採掘と海上輸送の実態

三浦按針による洋式帆船の建造が、伊東の地で静かに、しかし着実に進められていたその傍らで、伊豆半島の海岸線一帯は、全く異なる性質の、荒々しく巨大な槌音に揺れていた。それは、徳川の威光を天下に示す江戸城大普請、すなわち「天下普請」のための石材を切り出す音であった。最新技術を駆使した造船事業とは対照的に、こちらは膨大な人力を投入した伝統的な巨大土木事業であり、その現場は過酷な労働と、常に死と隣り合わせの危険に満ちていた。

伊豆石丁場の風景:諸大名による採石競争

慶長十一年(1606年)から本格化した江戸城の第二次普請において、家康は九州、中国、四国などの西国諸侯に助役を命じた 9 。彼らに課せられた重い役務の一つが、伊豆半島からの石垣用石材の調達と輸送であった。大名たちが負担した建設費用の実に8割が、この石の切り出しと運送に費やされたと言われるほど、過酷なものであった 9

伊豆半島の東海岸、熱海から伊東、稲取に至る沿岸部には、この天下普請を命じられた大名たちが設けた「石丁場(いしちょうば)」と呼ばれる採石場の跡が、今なお無数に残されている 10 。各大名は、自家の威信をかけ、幕府から課せられたノルマを果たすべく、より良質で巨大な石材を求めて熾烈な競争を繰り広げた。石丁場では、石材に各大名家の家紋や符号をかたどった「刻印」が彫り込まれた。これは、他家の石材との混同を防ぎ、自家の仕事の質を証明するためのものであり、今日、伊東の山中に残る刻印石と、江戸城の石垣に見られる刻印が一致することは、この地から石が運ばれた動かぬ証拠となっている 11

採掘から積み出しまで:過酷な労働のプロセス

伊豆石丁場での作業は、想像を絶する重労働の連続であった。

まず、石材の採掘には、古来より伝わる「矢穴(やあな)」技法が用いられた。石工たちは、巨大な岩の表面に鑿(のみ)で楔(くさび)形の穴を等間隔に一列に穿っていく。そして、その穴に鉄製の楔を打ち込むと、岩はきれいに狙った線で割り裂かれるのである 11 。採掘方法は、地表に露出した転石を加工する場合や、沢沿いの岩盤から直接切り出す場合など、地形に応じて様々であった 20

切り出された数トンから数十トンにも及ぶ巨石は、次に港まで運ばれなければならない。この陸上輸送は「石曳き(いしびき)」と呼ばれ、事業の中で最も過酷な工程の一つであった。石は「修羅(しゅら)」と呼ばれる巨大な木製のソリに乗せられ、数百人もの人足たちが力を合わせて綱で曳いていく。その様子は、神奈川県立博物館所蔵の『石曳図絵巻』に克明に描かれており、巨大な石の上で采配を振るう指揮者と、掛け声を上げながら綱を引く人々の姿は、まさに人海戦術そのものであった 9

港に運ばれた石は、いよいよ船に積み込まれる。伊東をはじめとする伊豆の港々には、この積み込み作業のために「石揚げ場」と呼ばれる木造の桟橋が急設された。『慶長見聞集』には、海中に石で島を築き、水深の深い岸壁に船を固定し、陸との間に道を作って石を運び込む様子が記録されている 9 。石は、轆轤(ろくろ)や梃子(てこ)を駆使して、艀(はしけ)を経由し、「石船(いしぶね)」と呼ばれる輸送専用の船(多くは弁才船などが転用された)へと慎重に積み込まれた 9

海上輸送の規模とリスク:慶長十一年、相模灘の悲劇

江戸城普請の最盛期には、実に3000艘もの石船が、伊豆と江戸の間を往復したと記録されている 9 。当時の相模灘は、各大名の旗をなびかせた巨大な資材輸送船団で埋め尽くされ、壮観な光景を呈していたことであろう。

しかし、この壮大な海上輸送は、常に自然の猛威という巨大なリスクと隣り合わせであった。慶長十一年(1606年)五月二十五日、そのリスクが最悪の形で現実のものとなる。『当代記』をはじめとする複数の史料は、この日、伊豆から江戸へ向かう石船団が相模灘で大暴風に遭遇し、数百艘が破損・沈没するという大事故が発生したことを生々しく伝えている 9

この海難事故による被害は甚大であった。肥前佐賀藩主・鍋島勝茂の石船団は120艘、伊予松山藩主・加藤嘉明の船団は46艘、筑前福岡藩主・黒田長政の船団は30艘が沈没したと記録されている 9 。これらは、いずれも関ヶ原で徳川方についた有力な外様大名であった。この事故は、天下普請という国家事業の裏にあった、人命と財産の巨大なリスクを物語る悲劇である。

この出来事は、単なる自然災害では終わらなかった。天下普請は各大名に課せられた義務(課役)であり、石材の調達から輸送までの全責任と費用は各大名自身が負っていた 6 。船団を失うことは、莫大な経済的損失と、普請役の遂行不能という二重の打撃を意味した。この悲劇は、徳川による新たな支配秩序が、単なる命令だけでなく、こうした過酷な事業を通じて大名の力を削ぎ、疲弊させることによっても確立されていったという、冷徹な現実を浮き彫りにしている。伊東の港から出航した石船が呑み込まれた荒れ狂う海は、新時代の厳しさそのものであった。

第四章:慶長九年の伊東港―「整備」の真相と活況の再現

ユーザーが当初提示した「伊東港整備(1604)」という言葉は、この時代の伊東で起きていた事象の本質を捉えるには、あまりに静的で一面的な表現である。慶長九年前後の伊東港は、整然と「整備」された場所というよりは、二つの巨大な国家事業が交錯し、多様な人々と思惑が渦巻く、混沌としたエネルギーに満ちた「坩堝(るつぼ)」であった。これまで別々に見てきた「洋式帆船建造」と「石材輸送」という二つの光景を重ね合わせることで、当時の伊東港のリアルな情景を立体的に再現し、「整備」という言葉の真の意味を問い直す。

二つの槌音の交響:伊東港のリアルな情景

慶長九年の伊東の浜辺を想像してみよう。そこには、性質の全く異なる二種類の槌音が、まるで時代の交響曲のように響き渡っていたはずである。

松川が相模灘に注ぐ河口の一角では、三浦按針の指導の下、日本の大工たちが西洋式の竜骨構造を持つ未知の船体を組み上げている。彼らは、見たこともない曲線を持つ肋材を加工し、防水のために煮詰めたタールを船体に塗り込み、巨大な帆柱を立てる作業に勤しんでいる。そこでは、按針やオランダ人乗組員が発する異国の言葉と、それを解釈しようとする通詞の声、そして日本の職人たちの間の技術的なやり取りが、熱気を帯びて飛び交っていたことであろう 12 。これは、未来志向の技術革新が静かに行われる、少数精鋭の実験工房の光景である。

そのすぐ近くの海岸線に目を転じると、全く異なる光景が広がっている。数百、あるいは数千人もの人足たちの「えんや、こら」という地響きのような掛け声とともに、数トンから数十トンはあろうかという巨石が、修羅に乗せられてゆっくりと大地を滑っていく。海岸に急設された石揚げ桟橋では、各大名の家紋を染め抜いた旗指物が林立し、その下で現場を監督する武士たちの鋭い叱咤激励の声が響き渡る。轆轤(ろくろ)のきしむ音、梃子(てこ)で石を動かす音、そして石船に巨石が積み込まれる際の轟音が、絶え間なく続いていた 9 。これは、伝統的な人海戦術によって国家の権威を構築する、巨大土木事業の現場の光景である。

多様な人々の坩堝(るつぼ)としての伊東

この二つの事業は、伊東の地に、当時としては類を見ないほど多様な人々を集結させた。

そこには、三浦按針をはじめとする異国人技術者たちがいた。幕府から派遣された船手頭・向井忠勝や、天下普請の総奉行である大久保長安配下の役人たちもいただろう。天下普請を請け負う西国諸大名の家臣団は、自らの石丁場に陣を張り、作業を監督していた。そして、その下で働く、日本の伝統技術を誇る船大工や石工、さらには全国各地から半ば強制的に動員されたであろう名もなき数多の人足たちがいた。

伊東は、古くからの温泉地という穏やかな顔の裏で、当時日本で最も国際的かつ産業的な活気に満ちた、ダイナミックなフロンティアと化していたのである。異なる目的、異なる技術、異なる身分の人々が、同じ空間でそれぞれの槌音を響かせ、新しい時代を形作っていた。

「港の整備」の真相:二大事業を支える兵站機能の構築

この文脈において、「伊東港整備」とは何を意味するのか。それは、温泉客や地元の漁師のための港湾改良といった、平時の公共事業では断じてない。それは、性質の全く異なる二つの国家事業を同時に、かつ円滑に進めるために必要不可欠な、 兵站(ロジスティクス)機能の緊急拡充 であったと定義すべきである。

具体的に「整備」されたものを推測すると、以下の要素が挙げられる。

  1. 造船インフラ : 洋式帆船を陸上で建造するための乾ドックや、関連する作業場の設営 16
  2. 資材管理 : 天城山系から切り出された膨大な船材を保管し、加工するための貯木場や製材所の確保 13
  3. 積出インフラ : 巨石を安全かつ効率的に石船に積み込むための、堅牢な石揚げ桟橋の建設 9
  4. 港湾機能 : 数千隻にも及ぶ石船が安全に停泊し、出入りするための航路確保や泊地の浚渫。
  5. 生活インフラ : これら二つの事業に従事する、数千から数万人に及ぶであろう労働者のための宿舎、食料や物資の供給体制の構築。

つまり、「伊東港整備」とは、単一の計画に基づく港湾建設ではなく、二つの異なる目的を持つプロジェクトが、同じ場所の異なる利点を求めて集積した結果、必然的に生まれた複合的なインフラ群そのものであった。それは、徳川家康の多面的な国家構想を支えるための、巨大な兵站基地の創出に他ならなかった。

【表3:慶長年間における伊東での二大国家事業比較】

伊東で同時進行していた二つの事業の特性を比較することで、「港整備」がなぜこれほど多角的で複雑なものであったのか、その理由がより明確になる。

項目

洋式帆船建造事業

江戸城石材輸送事業(天下普請)

目的

外洋航海能力の獲得、海外貿易、外交、技術移転

江戸城の城塞化、徳川の権威誇示、大名の財力削減

主導者

徳川家康(命令)、ウィリアム・アダムス(技術指導)

徳川家康(命令)、大久保長安(総奉行)、諸大名(実行)

技術レベル

最先端(当時)。西洋の造船技術、乾ドック工法。

伝統的。矢穴技法、人海戦術による陸上・海上輸送。

労働力の性質

少数精鋭。異国人技術者と日本の熟練船大工。

大規模動員。諸大名が抱える多数の石工、人足。

象徴するもの

未来志向、国際性、技術革新

国内統制、権威主義、伝統的支配構造

伊東港への要求機能

造船ドック、木材加工・保管場、進水施設

石丁場、石曳き路、石揚げ桟橋、大規模な停泊地

この対比は、家康が最新技術の導入という革新的な手法と、伝統的な封建的支配に基づく人海戦術という保守的な手法を、矛盾なく同時に駆使して国家建設を進めていたという、彼の統治者としての多面性を浮き彫りにする。そして、これほど性質の異なる二大事業を同時に支え得た伊東の港湾機能、すなわち「整備」の実態が、いかに高度で複合的なものであったかを物語っている。

終章:伊東から始まった航海―技術革新と国家建設が遺したもの

慶長九年(1604年)前後に伊東の地で響き渡った二つの槌音は、やがて止み、それぞれの事業は歴史の中に確かな航跡と礎石を遺した。「伊東港整備」という事象は、単なる一地方のインフラ整備という枠を遥かに超え、その後の日本の歴史の潮流を決定づける二つの大きな物語の起点となったのである。

技術革新の航跡:サン・ブエナ・ベントゥーラ号の偉業

伊東における技術革新の試みは、一隻の船の完成だけに留まらなかった。慶長十二年(1607年)に完成した120トン級の大型帆船は、その後の日本の外交史において、物理的な選択肢そのものとなった。

慶長十四年(1609年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴを乗せたスペインのガレオン船サン・フランシスコ号が、メキシコへの帰還途中に上総国(現在の千葉県)沖で難破する事件が起こる。家康は、ロドリゴ一行を手厚く保護するとともに、彼らを故郷へ送り届けるため、伊東で建造したこの120トン級帆船を提供することを決断した。

慶長十五年(1610年)、この船は「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」と命名され、田中勝介ら20数名の日本人を乗せて、ドン・ロドリゴ一行と共に浦賀から太平洋を横断する歴史的な航海へと旅立った。そして、見事にメキシコ(当時のノビスパン)のアカプルコに到達するという、日本史上初の快挙を成し遂げたのである 16 。これは、三浦按針を通じて伊東で培われた西洋式の造船技術と航海術が、机上の空論ではなく、現実に荒れ狂う大洋を克服しうるものであったことを証明した瞬間であった。伊東で始まった技術移転の試みは、日本の歴史に新たな一ページを切り開き、徳川初期の外交に大きな影響を与えた。後に日本が鎖国の道を選ぶことになるとしても、この航海の成功は、かつて日本が外洋へと乗り出す能力と意志を持っていた時代の、輝かしい記念碑として記憶されるべきである。

権威の礎石:伊豆石が築いた江戸二百六十年の平和

一方、伊東をはじめとする伊豆半島から、幾多の困難と犠牲を乗り越えて運び出された数百万個の石材は、江戸城を日本史上最大かつ最も堅固な城郭へと変貌させた 6 。天を突く天守、幾重にも巡らされた堀、そして圧倒的な威容を誇る石垣群は、単なる軍事的な防御施設ではなかった。

それは、徳川幕府の揺るぎない権威の象徴であり、天下普請に動員された諸大名にとっては、逆らうことのできない絶対的な権力構造を日々見せつけられる装置でもあった。伊豆の山々から切り出され、伊東の港から船出していった一つひとつの石が、新たな時代の秩序を物理的に構築し、その後260年以上にわたって続く「パックス・トクガワーナ(徳川の平和)」を支える、物理的かつ心理的な礎石となったのである。伊東の石丁場に残る無数の矢穴の跡は、この長き平和が、いかに巨大なエネルギーと労働の上に築かれたものであったかを、今に静かに物語っている。

歴史の再評価:戦国の終焉と新たな時代の胎動

結論として、「伊東港整備(1604)」は、戦国時代の軍事思想と技術の延長線上にありながら、来るべき江戸時代の新たな国家体制―すなわち、強力な中央集権体制、巨大公共事業による国土開発と大名統制、そして国際関係の模索―を準備するための、壮大な社会実験の舞台であったと言える。

伊東の地は、戦国の終焉を告げる天下普請の槌音と、新たな時代の扉を開く洋式帆船の槌音が同時に響き渡る、まさに時代の転換点を象徴する場所であった。それは、徳川家康という稀代の経世家が、内政と外交、伝統と革新という二つのベクトルを巧みに操り、新たな国家を創造しようとした意志の顕現であった。したがって、この事象は、単なる港湾史や技術史の一コマとしてではなく、戦国から近世へと移行する日本のダイナミズムを凝縮した、極めて重要な歴史的瞬間として再評価されるべきである。伊東の槌音は、戦乱の時代の終わりと、新たな秩序の時代の始まりを告げる、力強い産声だったのである。

引用文献

  1. 長浜城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/nagahama.j/nagahama.j.html
  2. (静岡県東部のお城ご紹介)北条水軍の本拠地 伊豆長浜城 https://rekikakkun.hatenablog.com/entry/2023/09/01/161104
  3. 【城めぐり】北条氏の水軍拠点 伊豆長浜城 静岡県【攻略ルート】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Su1UUoIiJQI
  4. 下田城 (伊豆国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%9B%BD)
  5. 北条氏ゆかりの地を訪ねる - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/p09005.html
  6. 失敗こそが面白い!お城の石垣になれなかった「残念石」 - 城びと https://shirobito.jp/article/1754
  7. 江戸城と石垣 利根川を曲げる 土地を埋 め立てて、運河 をつくる - schoolweb.ne.jp https://asp.schoolweb.ne.jp/1350008/download/document/278190?tm=20211109133543
  8. 江戸の町はどのように造られたのか?徳川家による江戸城の天下普請と城下町づくり - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=06nAGQeGtmE
  9. 江戸の町は船で造られ船で発展した http://www.ymf.or.jp/wp-content/uploads/68-04.pdf
  10. 伊豆石 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B1%86%E7%9F%B3
  11. 伊東市史だより https://www.city.ito.shizuoka.jp/material/files/group/28/sisi_7.pdf
  12. ウィリアム・アダムス(三浦按針)は何を成し遂げたのか ――日欧 ... https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/wp-content/uploads/50597e70ac9f48e3342eca4516dcd274.pdf
  13. サムライとなった英国人航海士、「三浦按針」とは。その足跡を ... https://hoshinoresorts.com/jp/guide/area/chubu/sizuoka/ito/miura-anjin/
  14. 伊東で出会った三浦按針|水上伊織 - note https://note.com/gentle_peony914/n/nbab4d32e8c8d
  15. 松川沿いの自然を満喫!伊東「川口公園」から三浦按針の功績を辿る - 伊豆に住みたい! https://sumitai.izu-fj.jp/leisure/park/itou-kawaguchipark-20240510/
  16. 按針メモリアルパーク | ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/sz714/
  17. 伊東温泉 - 按針碑・按針像 クチコミ・アクセス・営業時間 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu/10006296
  18. 界 アンジン|伊豆・伊東観光ガイド - 伊東の観光・旅行情報サイト https://itospa.com/spot/detail_24032.html
  19. 【遠足シリーズ第39弾】三浦按針関連史跡を訪ねて by Hanes | 中央区観光協会特派員ブログ https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=2906
  20. 四百余年の時を刻む江戸城築城石石丁場跡。石工達の息吹を感じて下さい! https://www.chikujohseki.com/higashiizu_chouba.html
  21. 伊東市史だより https://www.city.ito.shizuoka.jp/material/files/group/28/sisi_11.pdf
  22. 三 浦 按 針 海技大学校 名誉教授 福地 章 - 日本海難防止協会 https://www.nikkaibo.or.jp/pdf/574_2017-5.pdf
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