佐久間信盛追放(1580)
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天正八年・宿老追放の衝撃:佐久間信盛事件の時系列と深層分析
序章:天正八年、夏の静寂 ― 嵐の前の織田政権
天正八年(1580年)の夏、織田信長の権勢はまさに頂点に達していた。10年以上にわたり織田家を苦しめ続けた最大の敵、石山本願寺との長きにわたる戦い(石山合戦)が、朝廷の勅命を介した和睦という形でついに終結したのである 1 。これにより、信長の支配基盤である畿内は完全に平定され、天下統一事業は最終段階へと移行したかに見えた。この輝かしい成功の只中にあって、織田家臣団の筆頭にその名を連ねていたのが、佐久間右衛門尉信盛であった。
信盛は、信長の父・信秀の代から織田家に仕える最古参の宿老であり、軍事と政治の両面で重きをなす存在だった 4 。この時点において彼は、三河、尾張、近江、大和、河内、和泉、紀伊の七ヶ国の与力を束ねる、織田家最大規模の軍団を率いる畿内方面軍司令官の地位にあった 7 。その地位は柴田勝家と双璧をなし、誰もがその安泰を疑うことはなかった 2 。
しかし、この静寂と栄光の裏で、歴史を揺るがす粛清の嵐が静かに胎動していた。皮肉なことに、織田政権最大の懸案事項であった石山合戦の「終結」こそが、その総司令官であった信盛の存在価値を問い直し、断罪へと至らしめる直接的な引き金となったのである。戦争の終結は、信盛にとって大任を果たした安堵の瞬間ではなく、彼の30年にわたる奉公を総括する、冷徹な審判の始まりを意味していた。
第一章:佐久間信盛という男 ― 織田家筆頭家老の栄光と実像
佐久間信盛の生涯は、織田家の飛躍と共にあった。彼の人物像を理解することは、この追放劇の根源を解き明かす上で不可欠である。
信秀の代からの忠臣
信盛は信長の父・織田信秀の代から仕えた譜代の家臣であった 3 。信秀の死後、信長が家督を継いだ当初、その奇矯な振る舞いから「尾張の大うつけ」と揶揄され、家中の支持は盤石ではなかった。天文二十四年(1555年)、信長の弟・信勝(信行)が家督を狙い、織田家を二分する内乱(稲生の戦い)が勃発した際、筆頭家老であった林秀貞や猛将・柴田勝家までもが信勝方に与した 4 。この絶体絶命の窮地にあって、信盛は一貫して信長を支持し続け、その勝利に大きく貢献したのである 6 。この初期の揺るぎない忠誠心こそが、信長の深い信頼を勝ち取り、後の筆頭家老という地位を築く絶対的な礎となった。
「退き佐久間」の軍事的評価
信盛は「退き佐久間(のきさくま)」という異名で知られていた 4 。これは、戦において攻撃よりもはるかに難しいとされる退却戦、特に全軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ「殿(しんがり)」の指揮において、比類なき手腕を発揮したことに由来する。彼は戦況や地形を冷静に見極め、味方の損害を最小限に抑えながら兵を撤収させる名手であった 4 。この能力は、組織の損耗を防ぐ上で極めて重要であり、信長の主要な合戦のほとんどに参陣した信盛は、地味ながらも決定的に重要な役割を果たしてきた 4 。
しかし、この堅実な指揮官としての資質は、諸刃の剣でもあった。華々しい武功を上げる機会は少なく、成功して当然、失敗すれば非難されるという損な役回りであった 4 。信長の好む、奇策を用いて敵を殲滅する革新的で攻撃的な戦術とは対照的に、信盛の戦術眼は、リスクを徹底的に回避する保守的なものであった。この資質の違いが、後に両者の間に決定的な溝を生むことになる。
多岐にわたる役割
信盛の能力は、軍事面に留まらなかった。彼は優れた政治家・交渉人でもあった。公家衆や寺社との折衝 3 、敵対していた松永久秀と筒井順慶の和睦斡旋 11 、さらには三河の松平家康との関係構築においても重要な連絡役を務めるなど 3 、織田政権の円滑な運営に欠かせない潤滑油としての役割を担っていた。イエズス会宣教師ルイス・フロイスも、信盛を「五畿内において此の如く善き教育を受けた人を見たことがない」「思慮あり、諸人に対して礼儀正しく、又大なる勇士である」と高く評価している 12 。
地位の確立
稲生の戦い以降、信盛は信長の厚い信頼のもと、桶狭間の戦い後の鳴海城主就任 9 、姉川の戦いや比叡山焼き討ちへの参陣など、数々の戦功を積み重ねていった 6 。やがて、塙直政の戦死を受けて石山本願寺攻めの総司令官に就任し、畿内方面軍を統括するに至る 7 。彼に与えられた与力は七ヶ国に及び、その軍団は当時の織田家で最大規模を誇った 7 。名実ともに家臣団の頂点に立った信盛であったが、彼が培ってきた「旧来の有能さ」―すなわち、主家を堅実に支え、内部を調整し、損害を避ける能力―は、天下統一の最終段階に入った信長が求める「新しい有能さ」―すなわち、リスクを恐れず敵地を切り拓き、圧倒的な成果を出す能力―との間に、致命的な乖離を生じさせつつあった。信盛は無能になったのではない。織田政権という組織の戦略的フェーズが変化したことで、彼の能力の質そのものが時代遅れと見なされる運命にあったのである。
第二章:天正八年、摂津大坂 ― 運命の分岐点(リアルタイム・ドキュメント)
天正八年の春から夏にかけての数ヶ月は、佐久間信盛の運命を決定づける激動の期間であった。ここでは、その日々を時系列に沿って再現する。
第一節:長き石山合戦の終結(天正八年四月~八月初旬)
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和睦成立と顕如の退去(閏三月~四月)
天正八年閏三月、正親町天皇の勅命による和睦が成立し、10年以上にわたった石山合戦はついに終止符が打たれた。四月九日、本願寺第十一世宗主・顕如は、紀伊国鷺森へと退去する。この歴史的な瞬間に、総司令官であった佐久間信盛は、織田家側の検使として立ち会い、長きにわたる戦争の幕引きという大役を務めた 3。この時点では、彼は紛れもなく大任を果たした功労者として遇されていたはずである。 -
教如の退去と大坂接収(八月二日)
父・顕如の退去後も、徹底抗戦を主張する長男の教如は籠城を続けていたが、最終的に説得に応じ、八月二日に本願寺を退去した。信盛はこの際も勅使に同行し、本願寺の完全な明け渡しを見届け、大坂の地を完全に織田家の支配下に置いた 12。これをもって、畿内における織田家の軍事的脅威は完全に払拭された。 -
嵐の前の日常
この間、信盛は筆頭家老として、相模国の北条氏政から信長へ送られた献上の品の披露や、その使者の取次役を務めるなど、平時と変わらぬ日常業務をこなしていた 12。しかし、その水面下では、信長の不満が静かに、しかし確実に蓄積していた。信盛と息子・信栄が、包囲陣中であるにもかかわらず頻繁に茶会を催していたことなどが、信長の耳に届いていた可能性は高い 4。最大の敵が消滅した瞬間、信長の目は、これまで戦術的理由から黙認してきた総司令官の「怠慢」へと、鋭く向けられることになった。
第二節:八月十二日、折檻状(事件発生当日)
天正八年八月十二日、摂津国住吉の陣中にいた信盛・信栄父子のもとに、一通の書状が届けられた 2 。それは、織田信長自筆とされる、全十九ヶ条にわたる折檻状であった 4 。『信長公記』が信長の直筆であったことを特に強調している点からも、そこに込められた個人的で、かつ烈火の如き怒りの程が窺える 4 。
書状の内容は、信盛の30年近い奉公を全否定し、その人格までも徹底的に糾弾する、まさに誅伐の宣告に等しいものであった 3 。弁明の機会は一切与えられず、その場で所領没収と織田家からの追放が宣告された。長年にわたり主家を支え、筆頭家老として家臣団の頂点に君臨してきた信盛にとって、それはまさに青天の霹靂であった。その衝撃と絶望は、察するに余りある。
第三章:十九ヶ条の折檻状 ― 糾弾の深層分析
信長が信盛に突きつけた十九ヶ条の折檻状は、単なる感情的な叱責の書ではない。そこには、信長の統治思想と、織田家臣団に求める新たな基準が明確に示されている。その内容を分析することで、追放劇の真の意図が浮かび上がってくる。
第一節:表層の理由:石山合戦の「不作為」
折檻状における最も直接的な批判は、石山合戦における信盛の指揮ぶりに向けられている。「五年もの間、天王寺砦に在城しながら、格別の功績もなかった」「好機を見て一挙に合戦に持ち込もうとせず、ひたすら持久戦にのみ固執していたのは未練がましい」といった言葉は、信盛の「不作為」を断罪するものであった 15 。
しかし、この批判は一方的な見方である側面も否定できない。石山本願寺は、無数の信徒門徒が立て籠もる難攻不落の要塞であり、無理な力攻めは織田方に甚大な損害をもたらす危険性を孕んでいた 15 。また、当時は荒木村重の謀反や毛利水軍による兵站線への脅威など、信盛が本願寺攻めに全戦力を集中できない不利な状況も存在した 15 。柴田勝家の北陸方面軍、羽柴秀吉の中国方面軍など、織田軍の主力が他方面に展開している中で、信盛が兵糧攻めによる包囲戦術を選択したのは、織田軍全体の戦略を考慮した上での合理的な判断であった可能性が高い 4 。事実、天王寺砦の維持には年間数億円規模の莫大な経費がかかり、信盛父子が私財を投じていた可能性も指摘されている 16 。
結局のところ、信長が求めたのは「圧倒的な軍事力による制圧」という目に見える成果であったのに対し、信盛が実行したのは「兵站と包囲による敵の消耗」という地味で時間のかかる戦略であった。この戦果に対する認識の齟齬が、追放を正当化する最大の表向きの理由として利用されたのである 1 。
第二節:過去への遡及:三方ヶ原から刀根坂まで
信長の糾弾は、石山合戦のみに留まらなかった。彼の記憶は過去に遡り、長年にわたって鬱積した不満を白日の下に晒した。
- 三方ヶ原の戦い(元亀三年、1572年): 徳川家康への援軍として派遣された際、武田信玄の猛攻の前に、「自軍からは一人の死者も出さず、同僚を見殺しにして平然と退却した」と、その卑怯な振る舞いを痛烈に非難した 15 。しかし、これは損害を最小限に抑える「退き佐久間」としての彼の本領発揮とも解釈できる。また、信長から家康へは「野戦に応じるな」との指示があったともされ 14 、この批判が結果論に基づくいかに一方的なものであるかがわかる。
- 刀根坂の戦い(天正元年、1573年): 朝倉義景を滅ぼした戦の後、信長が戦機の見通しの悪さを叱責したところ、信盛は恐縮するどころか自らの正当性を主張し、あまつさえ席を蹴って立ったという 12 。この行為は主君である信長の面目を衆目の前で完全に潰すものであり、信長の心に消えない恨みとして深く刻まれていたことを示唆している。
これらの過去の罪状の遡及適用は、追放という結論が先にあり、そのための正当な理由を過去の記録から意図的に「収集」したことを強く示唆している。
第三節:人格と家臣団経営への批判
折檻状はさらに、信盛父子の人格と家臣団経営の在り方にまで踏み込んでいる。「第一に欲深く、気むずかしく、良い家臣を抱えようともしない」「与えられた領地を無駄にし、与力ばかりを使って自身の直臣を召し抱えないのは卑怯である」といった批判は、信盛の利益至上主義と人材育成の欠如を指摘するものであった 12 。
息子・信栄(甚九郎)に対しても、「父の威光を笠に着た愚か者」「自身の思慮を自慢し、穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような陰険な扱いをする」と容赦なく断罪し、親子一体での追放を正当化した 12 。
そして、書状は「信長の代になって30年間奉公してきたが、そなたの働きが比類なしと言われるようなことは一度もなかった」という、これまでの功績を全て無に帰す、あまりにも無慈悲な言葉で締めくくられていた 4 。
この折檻状は、信盛個人への告発状であると同時に、織田家中の全家臣に回覧されることを意図した「公開書簡」としての性質を持っていた。それは、軍事行動の巧拙だけでなく、経済観念、人材マネジメント、主君への態度、そして後継者教育に至るまで、信長が家臣に求める「総合的なパフォーマンス」の基準を示すものであった。これにより、「旧来の価値観(家柄や過去の功績)はもはや通用しない。今後はこの十九ヶ条に示された新しい基準で評価する。成果を出せない者は、たとえ筆頭家老であろうと容赦なく切り捨てる」という強烈なメッセージを発信し、恐怖による組織の引き締めと価値観の強制的なアップデートを狙った、高度な政治的パフォーマンスであったと言える。
第四章:追放 ― 栄光からの転落(リアルタイム・ドキュメント)
十九ヶ条の折檻状は、佐久間信盛の人生を栄光の頂点から奈落の底へと突き落とした。その後の彼の足跡は、戦国の世の非情さを物語っている。
第一節:高野山への道(八月中旬~)
折檻状は、信盛父子に二つの選択肢を提示していた。「この上は、どこかの敵を制圧して今までの恥をそそぎ、その後に復職するか、または討ち死にするか」「父子とも髪を剃って高野山に引退し、年を重ねれば、あるいは赦免されることもあろうか」 20 。信盛は後者を選び、即座に剃髪して高野山へと向かった。
かつては織田家最大の軍団を率い、数万の兵を指揮した方面軍司令官が、供はわずか数名、一説には一人という惨めな姿で追放されていく様は、他の家臣たちに強烈な衝撃と恐怖を与えたに違いない 22 。その栄華とのあまりの落差は、信長の決定が覆る余地のない、絶対的なものであることを雄弁に物語っていた。
第二節:流転の果てに(~天正九年末もしくは十年初頭)
信盛父子の苦難は、高野山に着いても終わらなかった。信長の怒りはなお収まらず、追って「高野山に住むこと叶うべからず」という厳命が下され、聖地に留まることさえ許されなかったのである 6 。
高野山を追われた信盛は、紀伊国の熊野、あるいは大和国十津川の山中へと落ち延びたとされる 1 。そして最終的には、奈良県十津川村の湯泉地温泉で病の療養中に息を引き取ったと伝えられている 23 。その墓所は、故郷の尾張でも、活躍の舞台であった近江でもなく、流浪の果ての地である十津川村武蔵に今もひっそりと残されている 1 。
信盛の没年には諸説あり、天正九年(1581年)説と天正十年(1582年)説が存在する 1 。信頼性の高い一次史料である『信長公記』には、天正十年一月十六日の条に「先年、佐久間右衛門父子、御勘当を蒙り他国に致し、紀伊国熊野の奥にて病死仕り候。不便に思し食され候か、子息甚九郎の事、国の安堵、御赦免の儀、仰せ出され候」とあり、信長が信盛の死を悼み、息子・信栄を赦免したと記されている 29 。一方で、『寛政重修諸家譜』などの後代の編纂物では、同月二十四日に死去したとされており、日付に矛盾が生じている 29 。これは、十津川の山中から信長の元へ訃報が届くまでの時間差を考慮すれば、『信長公記』の記述がより事実に近い可能性が高いと考えられる。いずれにせよ、追放からわずか1年半ほどの後、信盛は失意のうちにその55年の生涯を閉じたのである。
【佐久間信盛追放事件 詳細年表】
年月日(西暦/和暦) |
出来事 |
主要人物 |
意義・特記事項(典拠史料) |
1580年/天正8年4月9日 |
顕如、石山本願寺を退去。 |
顕如、佐久間信盛 |
10年にわたる石山合戦が事実上終結。信盛は検使を務める 12 。 |
1580年/天正8年8月2日 |
教如、石山本願寺を退去。 |
教如、佐久間信盛 |
本願寺が完全に明け渡され、大坂が織田家の支配下に入る。信盛は再び検使を務める 12 。 |
1580年/天正8年8月12日 |
信長、信盛・信栄父子に19ヶ条の折檻状を突きつけ、追放を命じる。 |
織田信長、佐久間信盛・信栄 |
事件の発生。信長の直筆とされる書状により、即座の追放が決定 2 。 |
1580年/天正8年8月14日頃 |
林秀貞(通勝)、追放される。 |
織田信長、林秀貞 |
25年前の信勝擁立を理由とされる。信盛追放に続く宿老粛清の始まり 14 。 |
1580年/天正8年8月28日頃 |
安藤守就、追放される。 |
織田信長、安藤守就 |
「野心を抱いた」との理由。一連の粛清キャンペーンの一環 30 。 |
1581年/天正9年 or 1582年/天正10年初頭 |
佐久間信盛、大和国十津川にて病死(享年55)。 |
佐久間信盛 |
流浪の末の死。没年には諸説ある 27 。 |
1582年/天正10年1月16日 |
信長、信盛の死を悼み、息子・信栄の赦免を決定。 |
織田信長、佐久間信栄 |
信栄は後に織田信忠に仕えることを許される 29 。 |
第五章:粛清の波紋 ― 織田政権の変容と家臣団の震撼
佐久間信盛の追放は、一個人の悲劇に終わらなかった。それは織田政権の構造を根底から揺るがし、家臣団に深い衝撃を与え、その後の歴史の潮流を大きく変える波紋を広げていった。
第一節:同時期に追放された宿老たち
信盛の追放は、単独の事件ではなかった。ほぼ同時期に、他の譜代の宿老たちも次々と追放されており、これが信長による計画的な粛清であったことは明らかである。
- 林秀貞(通勝): 信長の傅役(もりやく)を務めた、家臣団の筆頭格であった。しかし、信盛追放のわずか数日後、実に25年も前の家督争いの際に信勝を支持したという過去の罪状を蒸し返され、突如追放された 14 。これは誰の目にも明らかな言いがかりであり、信長が旧世代の重臣を一掃する固い意志を持っていたことを示している 35 。
- 安藤守就: 美濃三人衆の一人として、信長の美濃攻略に大きく貢献した有力な外様大名であった。彼もまた、「野心を抱いた」という極めて曖昧な理由で追放の憂き目に遭う 30 。これは、かつての敵対勢力であり、美濃に大きな影響力を保持していた守就の存在を、信長が天下統一の障害と見なした結果であったとも推測される 31 。
これらの追放劇は、信盛の件が個人的な感情による懲罰ではなく、織田政権の構造改革、すなわち旧来の門閥や年功序列といった価値観を破壊し、信長への絶対的な忠誠と目に見える成果のみを評価する、徹底した能力主義への完全移行を目的とした、冷徹なリストラ政策であったことを雄弁に物語っている 14 。
第二節:方面軍の再編と権力集中
信盛の追放がもたらした最も大きな戦略的変化は、方面軍の再編であった。彼が率いていた織田家最大の畿内方面軍は、司令官の失脚と共に解体・消滅した 37 。
そして、その旧領や与力は再編され、新たに明智光秀が畿内方面軍、羽柴秀吉が中国方面軍の司令官として正式に位置づけられた 37 。実質的に、信盛が担っていた畿内の統括という重責は、明智光秀が引き継ぐ形となった 25 。
この再編は、織田家の天下統一戦略が新たな段階に入ったことを示している。西の毛利氏と対峙する羽柴秀吉、北陸の上杉氏と対峙する柴田勝家、そして畿内を固め、来るべき四国・関東平定の拠点とする明智光秀と滝川一益。信長は、旧世代の重臣を排除し、自らが抜擢した新世代の実力派司令官たちに権限を集中させることで、天下統一の最終段階に向けた、より攻撃的で効率的な軍団編成を完成させたのである。
第三節:「明日は我が身」― 明智光秀への影響と本能寺への道
筆頭家老であり、30年近く仕えた忠臣ですら、過去の功績を全て否定され、一瞬にして全てを奪われる。この現実は、織田家中の全ての家臣に、「成果を出せなければ、次は我が身だ」という強烈な恐怖と絶え間ない緊張感を植え付けた 14 。
この事件が、特に深刻な心理的影響を与えたと考えられるのが、同じ方面軍司令官であった明智光秀である。信盛の失脚により、その後釜として畿内の重責を担うことになった光秀は、信盛の悲劇的な末路に、自らの未来を重ね合わせたとしても不思議ではない 25 。信長の期待に応え続けなければ、いつ自分も同じ運命を辿るか分からないという猜疑心と不安は、彼の心に重くのしかかったであろう 21 。
信長の苛烈なまでの成果主義と、家臣に対する非情なまでの仕打ちは、組織を強力に引き締める一方で、その内部に極度のプレッシャーと鬱積した不満を醸成した。佐久間信盛追放事件は、織田政権の強さの源泉である合理主義が、同時にその危うさをも内包していることを示す象徴的な出来事であり、その延長線上に、二年後の本能寺の変へと至る歴史の道筋を垣間見ることができる。
終章:佐久間信盛追放が戦国史に刻んだもの
天正八年の佐久間信盛追放事件は、単なる一武将の栄枯盛衰の物語として片付けることはできない。それは、織田信長という稀代の革命家が、中世以来の封建的な主従関係を根底から破壊し、近代的かつ合理的な実力主義に基づく新たな支配体制を構築しようとした、過渡期の日本史における象徴的な政変であった。
この事件は、戦国時代における「奉公」の意味を、主君への「忠誠」から、目に見える「成果」へと決定的に転換させた分水嶺であったと言える。信盛は決して裏切ったわけではない。しかし、「成果を出せない忠臣は不要」という信長の冷徹な論理の前には、過去の功績も長年の忠勤も、何の意味もなさなかった 17 。
この非情なまでの合理主義と、信長個人への徹底した権力集中こそが、旧勢力を次々と打ち破り、天下統一を目前にするほどの強大な力を織田政権にもたらした源泉であった。しかし同時に、その苛烈さは家臣団に深刻な動揺と恐怖を与え、最終的には本能寺の変という形で、信長自身を滅ぼす要因をも内包していた。佐久間信盛の悲劇は、織田政権が内包する光と影、その両面を鮮やかに映し出している。
最後に、一つの後日談を記しておきたい。追放された信盛の息子・信栄は、父の死後、信長に赦免され、嫡男・信忠に仕えることを許された 22 。この事実は、信長の非情さの中にも、かつての功臣の子に対するある種の憐憫や、あるいは政治的な計算があった可能性を示唆している。それは、革命家・織田信長の人物像が、単純な暴君という言葉だけでは決して捉えきれない、複雑で多面的なものであったことを、我々に静かに語りかけている。
引用文献
- 佐久間信盛の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97902/
- 【佐久間信盛追放】1580年8月12日|Mitsuo Yoshida - note https://note.com/yellow1/n/n798aca35825b
- 佐久間信盛(さくま のぶもり) 拙者の履歴書 Vol.80~信長に仕えた栄枯盛衰の生涯 - note https://note.com/digitaljokers/n/neff3fe3b8d9b
- 信長見聞録 天下人の実像 ~第十九章 佐久間信盛〜 | GOETHE https://goetheweb.jp/lifestyle/more/20200816-nobunaga19
- 織田信長の筆頭家老から転落。追放され高野山へ逃れた戦国武将・佐久間信盛の栄枯 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/141264
- 佐久間信盛 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/sakuma-nobumori/
- 余計な一言ですべてを失った佐久間信盛|Biz Clip(ビズクリップ) - NTT西日本法人サイト https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-066.html
- 織田信長の筆頭家老 佐久間信盛、その栄光と追放 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=C281UYL9FVw
- 追放を招いた佐久間信盛の消極的な「保身」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26789
- 織田信長が幼い頃からの友人・佐久間信盛を追放した心中 - GOETHE[ゲーテ] https://goetheweb.jp/lifestyle/more/20230509-nobunaga-19
- 佐久間信盛・信長躍進を支えた筆頭家老!まさかの追放劇はなぜ起きた? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=C592dQxv-Zc
- 佐久間信盛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E7%9B%9B
- 佐久間信盛折檻状 - Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E7%9B%9B%E6%8A%98%E6%AA%BB%E7%8A%B6
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- 佐久間信盛は追放されるような失態を犯したのか?検証してみました | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1903
- 豊臣秀吉と千利休はどう権力の階段を上ってきたのか https://wedge.ismedia.jp/articles/-/28392?page=2
- 【戦国ブラック企業論】佐久間信盛リストラ事件が本能寺の変を生んだ|舞野 - note https://note.com/quirky_rat7323/n/n24cfbea0ddbb
- 織田信長は、なぜ佐久間信盛らの重臣を家中から追放したのか? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=b1QLnQO2vWY
- 「佐久間信盛」筆頭格から追放へと大転落。信長を激昂させたセリフとは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/499
- えっ?織田信長って意外とネチネチ派?佐久間父子を追放した長すぎる懲戒文書とは - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/140641/
- 朝礼ネタ:本能寺の変の遠因となった信長のリストラ政策!? - 経営ノート https://keiei-note.com/cyourei12/
- 茶湯は武将を亡ぼす 佐久間信栄の栄光と挫折 https://wedge.ismedia.jp/articles/-/28046?page=4&layout=b
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- 【謎解き織田信長】なぜ信長は佐久間信盛ら重臣を追放したのか? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=luhFpIQuCeo
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- 林秀貞追放劇の真相は? - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/236
- 「林秀貞」は地味ながら信長重臣筆頭格だった! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/747
- 林秀貞 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%A7%80%E8%B2%9E
- 安藤守就とは? わかりやすく解説 - 戦国武将 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%AE%89%E8%97%A4%E5%AE%88%E5%B0%B1
- 織田信長の家臣団まとめ。組織図・変遷・各方面軍団の顔ぶれなど ... https://sengoku-his.com/202
- 佐久間信榮- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E6%A6%AE