最終更新日 2025-09-30

四天王寺再建(1601)

慶長6年、家康は病気平癒を祈願し四天王寺に「千返楽」を奉納。これは豊臣家再建の四天王寺権威を家康が接収する政治的行為。戦国から近世への権力移行を象徴する出来事であった。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

四天王寺再建史(慶長年間):戦国終焉の象徴と新時代への胎動

序章:灰燼からの胎動 ― 天正四年の焼失と再興への道

四天王寺の慶長年間における再建を理解するためには、まずその直接的な原因となった天正四年(1576年)の壊滅的な焼失事件に遡る必要がある。この事件は、聖徳太子建立以来の歴史を誇る日本仏法最初の官寺が、戦国乱世の渦中でいかにして無に帰したかを示す、象徴的な出来事であった。

石山合戦の激化と天王寺砦の攻防

当時、天下布武を掲げる織田信長にとって最大の障壁は、畿内に巨大な宗教的・軍事的ネットワークを築いていた石山本願寺であった 1 。天正四年(1576年)に入ると両者の対立は激化し、大坂の地は存亡を懸けた決戦の舞台と化す。信長は本願寺を兵糧攻めにするため、その南方に位置する四天王寺の地に軍事拠点を設けることを決断。塙(原田)直政らに命じ、本願寺包囲網の要となる「天王寺砦」を構築させた 2

事態が動いたのは同年五月のことである。五月三日、織田軍は本願寺方の海上補給路を断つべく木津砦を攻撃するも、本願寺勢の猛烈な反撃に遭い失敗 5 。勢いに乗った本願寺勢は、一万を超える軍勢で逆に天王寺砦を包囲した 2 。砦には明智光秀や佐久間信栄らが籠城していたが、堀も十分に整備されていない貧弱な拠点であり、絶体絶命の危機に瀕した 2

報せを受けた信長は、即座に自らの出陣を決意する。五月五日、わずか百騎ほどの手勢を率いて京を発ち、若江城(現在の東大阪市)に入った 2 。急な動員であったため兵はすぐには集まらず、六日の時点で三千ほどであったが、信長は「天王寺の者どもを見殺しにしては世間の物笑いになる」と述べ、兵力差をものともせず救援に向かう 2 。五月七日未明、信長は軍を三段に分け、一万五千の本願寺勢に突撃を開始。信長自ら先陣に加わり、足に銃創を負うほどの激戦の末、ついに本願寺勢を撃破し、籠城していた光秀らを救出した 2

伽藍焼失の謎 ― 誰が火を放ったのか

この天王寺の戦いの最中、古来より信仰を集めてきた四天王寺の壮麗な伽藍は、ことごとく炎に包まれ灰燼に帰した 1 。しかし、一体誰が火を放ったのかについては、史料によって見解が分かれており、歴史上の謎となっている。

四天王寺側の史料である『天王寺誌』は「織田信長放火」と明確に記している 7 。一方、興福寺の僧侶の日記である『多聞院日記』は、本願寺側による放火を示唆する記述を残している 7 。戦場と化した以上、いずれかの軍による意図的な放火、あるいは戦闘の過程で発生した失火であることは間違いないが、その実行者を特定する決定的な証拠はない 7

しかし、この焼失の根本的な原因は、信長の姿勢そのものにあったと考えられる。元亀二年(1571年)の比叡山焼き討ちに見られるように、信長は既存の宗教権威が自らの支配の障害となると見なせば、その聖域性を一切考慮せず、徹底的に破壊することも厭わなかった 8 。信長が四天王寺を純粋な信仰の場としてではなく、本願寺攻略のための軍事拠点、すなわち戦術上の「駒」として扱ったことこそが、結果として伽藍の焼失という悲劇を招いたと言える。これは、戦国時代における宗教と権力の緊張関係を象徴する事件であった。

壊滅的被害と再興への第一歩

この時の被害は甚大であった。後の豊臣秀吉による再建計画書「四天王寺造営目録」には、中心伽藍である金堂や五重塔をはじめ、主要な堂宇が軒並み再建対象としてリストアップされており、ほぼ全焼に近い壊滅的な状況であったことが窺える 7

聖徳太子建立の名刹が失われたという報せは、朝廷にも大きな衝撃を与えた。焼失からわずか三日後の五月十日、正親町天皇は寺の執行(しぎょう、寺務の最高責任者)に対し、再興に尽力するよう命じる綸旨(りんじ、天皇の命令書)を下している 7 。この迅速な対応は、四天王寺が単なる一寺院ではなく、国家の安寧を祈る重要な公的機関として認識されていたことを示している。しかし、信長と本願寺の戦いはその後も続き、世は依然として乱世の只中にあったため、本格的な復興は新たな天下人の登場を待たねばならなかった。

第一章:豊臣の威信を懸けた大事業 ― 慶長の大再建

天正四年の焼失から約二十年、本能寺の変で織田信長が倒れ、その天下統一事業を継承した豊臣秀吉によって、四天王寺はついに再興の時を迎える。これは単なる寺院の復旧事業ではなく、新たな天下人となった秀吉が、その絶大な権力と威信を天下に示すための国家的プロジェクトであった。

天下人・秀吉の都市改造と寺社政策

天下を掌握した秀吉は、太閤検地や刀狩令、人掃令(身分統制令)などを通じて、全国にわたる支配体制を確立した 10 。そして、自らの本拠地として大坂城を築城し、壮大な城下町の整備に着手する。その都市計画において、寺社の配置は極めて重要な要素であった。例えば、大坂城築城に伴い、古くからその地にあった生國魂神社や高津宮を移転させるなど、戦略的な配置転換を行っている 12

秀吉にとって寺社の再興は、個人的な信仰心の発露に留まらず、民心を掌握し、自らの権威を内外に可視化するための重要な統治手段であった 7 。特に、前任者である信長が破壊した寺社を自らが再建することは、信長を超える新たな時代の統治者としての正当性をアピールする絶好の機会であった。信長が宗教権威を「破壊」することで天下布武を進めたのに対し、秀吉はそれを「保護・再建」することで、より安定した統治者であることを演出しようとしたのである。四天王寺の再建は、その象徴的な事業であった。

「四天王寺造営目録」の解読

秀吉の再建計画の具体像は、彼が作成したとされる「四天王寺造営目録」から読み取ることができる 7 。この文書には、再建される堂塔の規模や仕様と共に、それぞれの工事を担当する奉行の名が記されている。

  • 太子堂・仁王門・求聞持堂: 片桐且元(かたぎり かつもと)
  • 五重塔・鐘楼: 石田正澄(いしだ まさずみ、石田三成の兄)
  • 六時堂・食堂・南大門: 小出秀政(こいで ひでまさ)

このように、複数の奉行に工事を分担させ、互いに競わせることで工事の迅速化と質の向上を図る手法は「割普請(わりぶしん)」と呼ばれ、大坂城築城などでも用いられた秀吉得意の工法であった 7 。この目録の存在は、四天王寺の再建が秀吉の直接的なリーダーシップの下、国家的事業として極めて計画的に進められたことを物語っている。

再建工事の具体像 ― 五重塔移築の真相

慶長再建の象徴とも言える五重塔は、全くの新築ではなく、大和国(現在の奈良県)にあった額安寺(かくあんじ)から移築されたものであった 14 。『摂津名所図会』などの後世の記録にもその旨が記されている 16

この移築の背景には、秀吉の絶大な権力があった。一説によれば、秀吉は戦乱で荒廃していた額安寺に対し、寺領を安堵する見返りとして、寺に唯一残っていた五重塔を「供出」させたという 15 。これは、必要なものを手に入れるためならば、既存の権威や慣習を意に介さない秀吉の性格と、誰もそれに逆らえなかった豊臣政権の権勢を如実に示すエピソードである。

実際の再建工事は、文禄三年(1594年)頃から本格的に始まったと推測される 14 。秀吉がその生涯を閉じる慶長三年(1598年)八月までには、主要な堂塔の大部分はほぼ完成していた可能性が高いと考えられている 7 。四天王寺の再興は、秀吉の天下統治の総仕上げとも言うべき大事業だったのである。

第二章:天下分け目の年、慶長五年(1600)― 落慶供養と関ヶ原の戦い

慶長三年(1598年)八月、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を終えた。しかし、彼が心血を注いだ四天王寺の再建事業は、幼い嫡子・秀頼へと引き継がれ、ついに完成の時を迎える。その落慶供養が執り行われた慶長五年(1600年)は、豊臣家の威光が最後の輝きを放つと同時に、日本の歴史を大きく転換させる「天下分け目の戦い」が勃発した、運命の年であった。

豊臣秀頼による落慶供養

秀吉の遺業を継承した豊臣秀頼とその後見人たちは、慶長五年(1600年)三月二十七日、四天王寺の落慶供養を盛大に執り行った 7 。この時の様子を、臨席した醍醐寺座主・義演(ぎえん)は自身の日記『義演准后日記』に次のように記している。

「秀頼卿より悉く御再興、目を驚かす了。仏法最初の霊寺、復旧の儀、珍重」

(秀頼公によって全てが再興され、ただただ驚くばかりであった。日本仏法最初の霊場が元通りになったことは、実に喜ばしいことである)7

この記述からは、再建された伽藍が当代随一の人物の目をも奪うほど壮麗であったことが窺える。この盛大なセレモニーは、単なる宗教行事ではなかった。それは、父・秀吉の遺業を弱冠八歳の秀頼が立派に継承し、豊臣家こそが依然として天下の主君であることを、徳川家康をはじめとする諸大名や民衆に強く誇示するための、極めて重要な政治的パフォーマンスであった。

再建された伽藍の姿

再建にあたり、伽藍の基本的な配置は、南から中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲むという、創建以来の伝統的な「四天王寺式伽藍配置」が踏襲された 17 。これは、聖徳太子以来の由緒と正統性を継承するという意思の表れであった。

しかし、個々の建物の様式や規模は、豊臣政権の威光を反映して、より壮大で華麗なものへと変貌を遂げていた。例えば、焼失前は単層であった金堂は裳階(もこし)を付けた重層となり、中門もまた重層の楼門形式へと規模が拡大された 7 。桃山文化の豪壮華麗な気風を体現したこれらの建築群は、大坂城と並び、豊臣の治世の栄華を象徴する新たなランドマークとなったのである。

同時進行する天下の動乱

壮麗な伽藍が完成し、大坂が祝賀ムードに包まれる一方で、天下の情勢は急速に動いていた。豊臣政権内部では、五大老筆頭の徳川家康が影響力を増大させ、石田三成ら奉行衆との対立が先鋭化していた。

落慶供養が行われた慶長五年三月、家康は大坂城西の丸にあって政務を執っていたが、やがて会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、諸大名を率いてその討伐へと向かう。この家康の不在を好機と見た石田三成は、同年七月に挙兵。ここに、徳川家康率いる東軍と、毛利輝元を総大将に戴く西軍が激突する「関ヶ原の戦い」の火蓋が切られたのである。

四天王寺の落慶供養は、豊臣家がその権威の頂点を示した儀式であると同時に、その最後の輝きでもあった。この壮大なセレモニーは、家康を中心とする新たな政治秩序への対抗意識の表れであり、関ヶ原の戦いの「文化的な前哨戦」と位置づけることができる。豊臣家が築き上げた壮麗な伽藍は、彼らが守ろうとした「豊臣の世」そのものの象徴であり、そのわずか半年後の関ヶ原での敗北と、14年後の大坂の陣における伽藍の再焼失という、悲劇的な運命を暗示していた。

第三章:新たな天下人による承認 ― 慶長六年(1601)の真実

利用者から提示された「四天王寺再建(1601)」という事変の核心は、この慶長六年(1601年)にある。しかし、この年の出来事の本質は、物理的な「再建」ではない。それは、関ヶ原の戦いに勝利し、新たな天下人となった徳川家康が、豊臣家の威信の象徴であった四天王寺をいかにして自らの権威の下に組み込んでいったかを示す、極めて巧妙な政治的行為であった。

関ヶ原後の政治情勢

慶長五年(1600年)九月十五日、関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍の圧勝に終わった。これにより家康は事実上の天下人としての地位を確立し、戦後処理を通じて全国の大名配置を再編、徳川による新たな支配体制の構築に着手した。

しかし、豊臣秀頼は依然として摂津・河内・和泉の三国を領する大名として大坂城に健在であり、豊臣家は、特に畿内において絶大な権威と影響力を保持していた。家康にとって喫緊の課題は、豊臣家の牙城である大坂において、自らの支配権の正当性を示し、その影響力を徐々に削いでいくことであった。

家康の病と四天王寺への祈願

そうした政治的に微妙な状況下で、慶長六年(1601年)に一つの出来事が起こる。この年、徳川家康は病に倒れた。その病気平癒を祈願するため、家康は四天王寺に雅楽の「千返楽(せんべいがく)」を奉納させている 20

表面的には、これは家康が聖徳太子以来の霊場である四天王寺の霊験を頼った、一個人の信仰心に基づく行為と見える。しかし、その背後には、計算され尽くした高度な政治的意図が隠されていた。

政治的パフォーマンスとしての祈願

家康は、あまたある寺社の中から、あえて豊臣家が莫大な費用と労力を投じて再建したばかりの四天王寺を選んで祈願させた。この行為が持つ意味は大きい。

第一に、豊臣家の威信の象徴であった四天王寺の宗教的権威を、新たな天下人である自分自身が公的に「利用」し、「承認」する行為であった。これは、寺を破壊したり否定したりするのではなく、むしろその価値を認めた上で自らのために用いることで、その権威を豊臣家から切り離す効果があった。

第二に、この祈願は、諸大名や民衆に対し、「もはや四天王寺は豊臣家だけのものではない。この天下人たる私が認める公儀の寺である」という強力なメッセージを発信するものであった。これにより、四天王寺は「豊臣家再興の寺」から「天下人(徳川家康)が祈願する寺」へと、その象徴的な所有権が巧みに上書きされることになった。

したがって、「1601年の事変」の歴史的真実は、物理的な建造物の「再建」ではなく、 象徴的な「所有権」の移行 であったと言える。家康は、武力で天下を制した者が、次に文化・宗教的権威をも手中に収めていく過程を、この祈願という形で鮮やかに示してみせた。豊臣家の文化的遺産を無力化し、自らの支配体制へと静かに組み込んでいく、家康の老練な政治戦略の一端がここに見える。この出来事こそ、戦国から近世へと時代が移行する過渡期を象徴する、重要な一幕なのである。


【表1】四天王寺をめぐる歴史的時系列表(天正四年~元和九年)

年号(西暦)

主要な出来事

関連人物

史料・典拠

備考(政治的背景など)

天正4年 (1576)

石山合戦・天王寺の戦い、四天王寺の伽藍が焼失。

織田信長, 明智光秀, 顕如

2

織田信長と石山本願寺の抗争が激化。信長は四天王寺を軍事拠点として利用。

文禄3年 (1594)

豊臣秀吉による再建事業が本格化(推定)。

豊臣秀吉

14

秀吉の天下統一が成り、大坂城下の整備の一環として着手。

慶長2年 (1597)

勝鬘院(四天王寺の子院)の多宝塔が建立される。

豊臣秀吉

7

慶長再建の一環として現存する数少ない建造物。

慶長3年 (1598)

8月、豊臣秀吉が死去。

豊臣秀吉, 豊臣秀頼

7

再建事業は秀頼に引き継がれる。

慶長5年 (1600)

3月27日、秀頼により落慶供養が執り行われる。

豊臣秀頼, 徳川家康, 石田三成

7

豊臣家の威信を示す。同年9月に関ヶ原の戦いが勃発。

慶長6年 (1601)

徳川家康が自身の病気平癒を祈願し「千返楽」を奉納。

徳川家康

20

物理的再建ではなく、徳川家康による象徴的な権威の接収。

慶長19年 (1614)

大坂冬の陣。徳川軍の陣地となり、伽藍が焼失。

徳川家康, 豊臣秀頼

7

豊臣家が再建した伽藍が、豊臣家を滅ぼすための拠点となり焼失。

慶長20年 (1615)

大坂夏の陣。境内が最終決戦の地となり、豊臣家滅亡。

真田信繁, 徳川家康

22

四天王寺周辺で激戦が繰り広げられる。

元和元年 (1615)

11月、徳川家康が南光坊天海に四天王寺の再建を命じる。

徳川家康, 南光坊天海

24

豊臣家の影響力を払拭し、徳川幕府の管理下に置くための再建。

元和9年 (1623)

二代将軍・徳川秀忠により伽藍が再建される(元和の再建)。

徳川秀忠

7

徳川幕府による国家鎮護の寺として再出発。


第四章:束の間の平和と門前の賑わい

慶長の再建から、大坂の陣で再び戦火に包まれるまでの約14年間、四天王寺とその周辺は束の間の平和を享受した。豊臣政権によって荘厳な姿を取り戻した伽藍は、人々の信仰心と地域の経済を蘇らせ、天下の台所・大坂の繁栄を象徴する賑わいを見せた。

荘厳なる伽藍と信仰の回復

戦乱によって灰燼に帰していた聖徳太子ゆかりの霊場が、以前にも増して壮麗な姿で蘇ったことは、人々の心に大きな安堵と希望をもたらした 25 。特に、四天王寺の西門(石の鳥居)は、その向こうに広がる海(当時は大阪湾がもっと内陸まで入り込んでいた)に沈む夕日を拝むことで、西方極楽浄土を観想するという「日想観(にっそうかん)」の聖地として、平安時代から篤い信仰を集めていた 26 。この聖地が復活したことにより、貴賤を問わず多くの人々が参詣に訪れ、寺はかつての信仰の中心地としての役割を再び担うようになった。

門前市の復興と経済効果

四天王寺は古くから信仰の場であると同時に、毎月21日の太子会(たいしえ)などの縁日には市が開かれる、経済活動の中心地でもあった。伽藍の復興は参詣者の爆発的な増加を促し、それは直接的に門前の市や周辺の宿場(長町と呼ばれた)の賑わいを回復させた 28

この時期、四天王寺の周辺には、戦乱で荒廃した他の寺院も次々と再興・建立され、現在に繋がる天王寺・下寺町の一大寺町が形成されていった 12 。この信仰と経済が一体となった賑わいは、大坂の陣に至るまでの豊臣家治世下における大坂の繁栄を象徴する光景であった。

この復興は、単なる宗教活動の再開に留まるものではなかった。それは、都市の経済復興と治安回復の核となる、多面的な効果を持つものであった。豊臣政権にとって、四天王寺の再建は民心を掌握すると同時に経済を振興させる、極めて効果的な都市政策の一環であった。信仰、経済、都市計画が一体となったこの事業は、大坂が「天下の台所」として大きく発展していくための礎の一つを築いたと言えるだろう。

第五章:再びの戦火 ― 大坂の陣と二度目の焼失

慶長の再建によってもたらされた約14年間の平和は、豊臣家と徳川家の最終決戦である「大坂の陣」によって、無残にも打ち砕かれた。豊臣家の威信の象徴として蘇った四天王寺は、皮肉にもその豊臣家を滅ぼすための戦いの中心地となり、再び灰燼に帰す運命を辿った。

大坂冬の陣(慶長十九年、1614年)と伽藍の焼失

慶長十九年(1614年)、徳川家康は豊臣家を滅ぼすべく、20万とも言われる大軍を率いて大坂城を包囲した。この「大坂冬の陣」において、家康は四天王寺のすぐ北に位置する茶臼山(ちゃうすやま)に本陣を構えた 30

大坂城の南方を抑える戦略的要衝である上町台地に位置する四天王寺は、その地理的条件から、必然的に徳川軍の広大な陣地の一部と化した。そして、この冬の陣における戦闘の過程で、豊臣秀吉・秀頼父子が心血を注いで再建した壮麗な伽藍は、西門の石の鳥居などを残して焼失したとされている 7 。わずか14年前に落慶供養を祝ったばかりの堂塔は、再び戦火に飲み込まれたのである。

大坂夏の陣(慶長二十年、1615年)と最終決戦

冬の陣は一旦和睦が成立するも、徳川方の策略によって大坂城の堀は埋め立てられ、豊臣方は丸裸同然となった。翌慶長二十年(1615年)五月、徳川軍は再び大坂に侵攻し、「大坂夏の陣」が勃発する。

城外での決戦を余儀なくされた豊臣方は、五月七日、天王寺・岡山一帯に最後の防衛線を敷いた。冬の陣で家康が本陣を置いた茶臼山には、豊臣方の勇将・真田信繁(幸村)が陣を構え、徳川の大軍を迎え撃った 31 。これにより、四天王寺周辺は日本史上最大の内戦における、最も激しい戦場と化した 22

記録によれば、四天王寺の南大門付近でも激しい戦闘が繰り広げられたという 22 。真田信繁は寡兵ながらも獅子奮迅の働きを見せ、徳川家康の本陣にまで肉薄する猛攻を加えた。しかし、衆寡敵せず、深手を負った信繁は四天王寺のすぐ北に位置する安居神社(やすいじんじゃ)の境内で最期の時を迎えた 22

この二度にわたる戦火により、慶長再建の伽藍は完全に地上から姿を消した。豊臣家の滅亡と共に、その権威の象徴であった四天王寺もまた、運命を共にしたのである 34 。豊臣家がその権威を示すに最もふさわしい場所として再建した寺院は、軍事的には最も危険な場所でもあった。この地理的ジレンマが、慶長再建伽藍の短命を決定づけたと言える。

終章:徳川の世の礎として ― 元和の再建へ

大坂の陣の終結は、豊臣家の滅亡と、約150年にわたって続いた戦国時代の完全な終わりを告げた。新たな天下人となった徳川幕府は、戦後処理の一環として、三度目となる四天王寺の再建に着手する。それは、豊臣の威光を誇示した「慶長の再建」とは全く異なる目的を持つ、新時代の秩序を象徴する事業であった。

徳川幕府による再建事業

大坂夏の陣が終結した元和元年(1615年)十一月、徳川家康は腹心の僧侶であり、宗教政策における最高のブレーンであった南光坊天海(なんこうぼう てんかい)らを二条城に呼び寄せ、四天王寺の伽藍再建を正式に命じた 24

この再建事業は、二代将軍・徳川秀忠の治世下で進められ、元和九年(1623年)に完成した 7 。これは「元和の再建」と呼ばれる。徳川幕府は、この再建を機に、天海を通じて四天王寺を天台宗の支配下に組み込み、幕府の宗教政策における重要な拠点として、その直接的な管理下に置いた 24

慶長から元和へ ― 継承と断絶

徳川による「元和の再建」は、伽藍配置などにおいて豊臣時代の「慶長の再建」の様式を踏襲する部分も見られた 7 。しかし、その事業の主体と目的は根本的に異なっていた。

比較項目

慶長の再建(豊臣)

元和の再建(徳川)

事業主体

豊臣秀吉・秀頼

徳川家康・秀忠

中心人物

片桐且元、石田正澄ら

南光坊天海

政治的意図

豊臣の威光誇示、大坂の都市開発

国家鎮護、幕府による宗教統制

建築様式

壮大・華麗な桃山文化の反映

伝統の踏襲と幕府の威厳

運命

14年で焼失(大坂の陣)

幕末まで存続(一部は焼失・再建)

歴史的意義

戦国最後の栄華の象徴

近世泰平の世の礎石

「慶長の再建」が豊臣の威光を天下に示すためのものであったのに対し、「元和の再建」は、徳川による泰平の世の安寧を祈る、幕府の管理下にある寺院を創り出すためのものであった。その性格は完全に変貌したのである。

四天王寺の再建史は、戦国から近世への権力移行のダイナミズムを映し出す鏡である。信長による「破壊」、秀吉・秀頼による「創造と誇示」、家康による「承認と接収」、大坂の陣による「再破壊」、そして徳川幕府による「管理と再編」。この一連の流れは、権力者がいかに宗教的権威を利用し、自らの正当性を構築していったかの壮大な物語と言える。

豊臣による「慶長の再建」は、物理的にはわずか14年で地上から消滅した。しかし、その存在が徳川幕府に「四天王寺を国家鎮護の寺として再建・管理する」という前例と動機を与えた。その意味で、慶長の再建は、結果的に徳川の世における四天王寺の存続の礎となった。戦国の覇者の夢の跡は、近世泰平の世の礎石として、静かに生まれ変わったのである。

引用文献

  1. 四天王寺「新縁起」第24回|上町台地界隈の地域情報紙「うえまち」 - note https://note.com/uemachi/n/n147fdc54141e
  2. 【解説:信長の戦い】天王寺砦の戦い(1576、大阪府大阪市) 信長、数的優位の本願寺を蹴散らす! https://sengoku-his.com/13
  3. 天王寺砦 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.tennohji.htm
  4. 天王寺の戦い - 歴旅.こむ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-41d8.html
  5. 天王寺の戦い (1576年) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1576%E5%B9%B4)
  6. 織田信長が天正4(1576)年に本願寺と天王寺の辺りで戦った際、織田信長が足に鉄砲傷を受けたそうだが... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000279679&page=ref_view
  7. 四天王寺の慶長再建について http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/9-2.pdf
  8. 第六天魔王・織田信長が比叡山焼き討ちにこめた「決意」 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4320/image/0
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  18. 和宗総本山 四天王寺 - スポット詳細 | KANSAI MaaS https://app.kansai-maas.jp/spots/13400
  19. 四天王寺式伽藍配置 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E5%BC%8F%E4%BC%BD%E8%97%8D%E9%85%8D%E7%BD%AE
  20. 第51回 天王寺楽所 雅亮会 雅楽 公演会 - 天王寺舞楽の https://tennojigakuso.org/img/index/20231127.pdf
  21. 四天王寺 [大阪府] - 国宝を巡る旅 https://kokuho.tabibun.net/4/27/2702/
  22. 【歴史散歩】大坂の夏の陣の激戦地を巡ってみた! - たびこふれ https://tabicoffret.com/article/78384/
  23. 展示解説シート No.70 - 福井市立郷土歴史博物館 https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/kaisetsusheets/70.pdf
  24. 四天王寺「新縁起」第27回|上町台地界隈の地域情報紙「うえまち」 - note https://note.com/uemachi/n/n9dd54c471238
  25. 四天王寺について|歴史や概要を詳しく解説 - BesPes https://article.bespes-jt.com/ja/article/shitenno-ji-temple
  26. 今週の今昔館(96) 四天王寺 20180130 http://konkon2001.blogspot.com/2018/01/blog-post_30.html
  27. 8. 一心寺三千佛堂 9. 清寿院(関帝廟) 10. 真田山公園前の道 11. 真田山公園 - 大阪市 https://www.city.osaka.lg.jp/toshikeikaku/cmsfiles/contents/0000258/258471/tennouzi2.pdf
  28. 1880年代の大阪 • 天王寺の眺め | 日本の古写真 https://www.oldphotojapan.com/photos/378/tennoji-no-nagame
  29. 天王寺区の都市景観資源(わがまちナイススポット) - 大阪市 https://www.city.osaka.lg.jp/toshikeikaku/page/0000258471.html
  30. 交野歴史健康ウォーク 大坂夏の陣・真田幸村のゆかりのコース https://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/sanada01/index.html
  31. 2月 2018 - 今週の今昔館 http://konkon2001.blogspot.com/2018/02/
  32. 大坂の陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
  33. 2-17 大坂の陣・金森氏の配置場所 http://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2020/07/d15dfeb764a859655ad826a1bc6643eb.pdf
  34. 大阪歴史ウォーク https://www.asahi.co.jp/rekishi/2005-10-31/01.htm