土山宿整備(1601)
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長六年の「静かなる戦」―戦国から江戸へ、土山宿整備のリアルタイム・ドキュメント
序章:関ヶ原の翌年、近江国に走った激震
慶長五年(1600年)秋、関ヶ原における天下分け目の戦いは徳川家康の劇的な勝利に終わった。しかし、この勝利は盤石な泰平の始まりを意味するものではなかった。豊臣家は依然として大坂城に健在であり、西国には潜在的な敵対勢力が数多く雌伏している。家康にとって、戦場での軍事的勝利を、揺るぎない恒久的な政治支配へと転換させることは、まさに焦眉の急であった。この時代は、力と策略が全てを支配した「戦国」の論理と、法と制度による新たな秩序を目指す「江戸」の論理が、激しくせめぎ合う歴史の断層と呼ぶべき時間であった。
この危うい均衡の中で、家康は武力のみによる支配の限界を深く理解していた。彼が描いた新たな国家像とは、江戸を心臓部とし、全国に張り巡らされた街道という「血流」を通じて、情報、権威、そして富を円滑に還流させる、強力な中央集権体制の構築であった 1 。慶長六年(1601年)に開始された五街道の整備は、単なる大規模な土木事業ではない。それは、日本の空間構造そのものを江戸中心に再編成し、徳川の権威を全国の末端に至るまで浸透させるための、壮大かつ緻密な国家プロジェクトの第一歩だったのである。
本報告書が光を当てる慶長六年の「土山宿整備」は、この壮大な文脈において、決して平穏なインフラ整備として語られるべきではない。それは、戦国以来の混沌と、在地勢力による自律的な秩序が色濃く残る一種の「無法地帯」に、徳川の法と制度という名の楔を断固として打ち込む行為であった。本稿では、この一連の出来事を、新時代の秩序を強制する**「静かなる戦」**と位置づけ、そのリアルタイムな過程を、「戦国時代」というプリズムを通して徹底的に解明することを目的とする。
第一章:戦国時代の鈴鹿峠と土山―無法と戦略の交差点
慶長六年の土山を理解するためには、まず、その地が戦国時代を通じてどのような場所であったかを知らねばならない。近江国と伊勢国を隔てる鈴鹿峠、そしてその近江側の麓に位置する土山は、単なる辺境の地ではなかった。そこは、無法と戦略が交錯する、極めて重要な意味を持つ空間だったのである。
1.1. 「西の箱根」―物理的・心理的な難所
古来、東海道を旅する人々にとって、鈴鹿峠は「東の箱根」と並び称される最大の難所であった 4 。その理由は、物理的な険しさと、人の手による危険性の二重構造にあった。
まず、自然の脅威である。鈴鹿山系を縫うように越える道は急峻な坂が続き、気象の変化も激しく、旅人の体力を無慈悲に奪った 5 。しかし、それ以上に旅人を脅かしたのは、人の手による危険であった。街道筋には追剥ぎや盗賊が頻繁に出没し、旅人の金品を狙っていた 5 。特に、峠にある「鏡岩」は、その表面が鏡のように輝き、山賊が身を隠しながら旅人の姿を岩に映して襲撃したという伝説が残るほど、その危険性を象徴する存在であった 5 。
ここで重要なのは、これらの「山賊」が、単なる統制を失った犯罪者集団ではなかった可能性が高いという点である。『今昔物語集』などの記述を分析すると、彼らは実質的に峠を支配し、警固や通行料の徴収を行っていた在地武士であったと考察されている 10 。つまり、鈴鹿峠の「危険性」とは、完全な無秩序状態ではなく、徳川幕府が構築しようとする中央集権的な秩序とは全く異なる、在地勢力による「別の秩序」が存在していたことの現れであった。彼らは、戦国の動乱が生み出した、独自の論理で動く地域権力だったのである。
この地の特異性は、数々の伝説にも色濃く反映されている。坂上田村麻呂が鬼神を退治したという英雄譚や、ある時は人々を喰らう鬼女、ある時は絶世の美女として描かれる鈴鹿御前の物語は、この地が古くから都の秩序が及ばない「異界」との境界と見なされてきたことの証左である 6 。慶長六年の宿場整備とは、この「境界」を徳川の秩序の内側へと強制的に取り込む、極めて象徴的な意味を持つ「平定事業」であったと言える。
1.2. 戦略拠点としての鈴鹿越え
鈴鹿峠は、京畿と伊勢、そして東国を結ぶ交通の結節点であり、戦国武将たちにとって戦略上欠くことのできない重要な間道であった 11 。この峠を制する者は、東西の交通を遮断、あるいは確保することができ、戦局を大きく左右する力を持つことができた。
その重要性は、天下人の戦略にも明確に組み込まれていた。例えば、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いに際して、豊臣秀吉軍が土山に存在した土山城を改修し、軍事拠点として利用した可能性が指摘されている 12 。これは、土山地域が単なる通過点ではなく、軍事行動の重要な結節点として、天下統一の過程で大きな役割を果たしていたことを示している。
1.3. 在地領主・甲賀武士団の自律と変遷
この戦略的要衝を実質的に支配していたのが、甲賀武士団である。土山地域は、戦国時代を通じて「甲賀五十三家」の一角を占める土山氏によって治められていた 13 。
甲賀武士たちの最大の特徴は、特定の強力な大名に全面的に服属するのではなく、「郡中惣(ぐんちゅうそう)」と呼ばれる地侍たちの連合自治体を形成し、地域の防衛と統治を共同で行っていた点にある 12 。これは、戦国時代の多様な権力形態を示す好例であり、彼らが保持していた高い自律性を物語っている。
しかし、織田信長の甲賀侵攻、豊臣政権による支配体制への組み込み、そして関ヶ原の合戦という時代の大きなうねりの中で、甲賀武士団の立場は激しく揺れ動いた。多くは武士としての身分を失い、帰農を余儀なくされたが、彼らは「甲賀古士(こうかこし)」として、かつて武士であった誇りを胸に秘め、新たな時代における生き残りの道を模索していた 16 。慶長六年という時点は、彼らが徳川という新たな巨大権力とどう向き合い、自らのアイデンティティを保ちながら生き残るべきか、まさに重大な岐路に立たされていた時期だったのである。
第二章:天下統一と街道整備―徳川家康の国家構想
関ヶ原の勝利者となった徳川家康の視線は、すでに戦後処理の先、新たな国家体制の構築に向けられていた。その構想の中核をなしたのが、全国規模での街道整備、すなわち「道」による国家の再編成であった。
2.1. なぜ「道」が最優先だったのか―関ヶ原直後の戦略
家康は、軍事的勝利を恒久的な政治的安定に結びつけるためには、迅速な情報伝達網、円滑な軍隊移動路、そして全国規模での経済統制を可能にするインフラが不可欠であると痛感していた 1 。戦国の世が、各大名が領国という「点」と「面」を支配する群雄割拠の時代であったとすれば、家康が目指したのは、江戸という中心から全国を「線」で結びつけ、支配下に置く体制であった。
慶長六年(1601年)に始まった江戸・日本橋を起点とする東海道、中山道、日光街道、甲州街道、奥州街道の五街道整備は、まさにそのための国家プロジェクトであった 3 。これは、それまで長らく日本の中心であった京・大坂の求心力を相対的に低下させ、日本の政治・経済・文化のベクトルを強制的に江戸へと向ける、壮大な空間革命でもあった。
このタイミングでの街道整備は、平時のインフラ整備という側面以上に、豊臣家が依然として大坂城に健在である状況下で進められた、対大坂をにらんだ軍事・政治的布石としての性格が極めて強い。東海道は江戸と京・大坂を結ぶ最重要幹線であり、西国大名の動向を監視し、有事の際に迅速に大軍を動かすための生命線である。この時期の整備は、来るべき豊臣家との最終決戦に備えるための、極めて戦略的な意味合いを持っていた。事実、東海道が大坂まで正式に延伸され、伏見・淀・枚方・守口の四宿が設置されたのは、豊臣家が滅亡した後のことである 21 。家康は、豊臣家を完全に滅ぼすまでは、大坂への道を完全には開かなかったのである。
2.2. 宿駅伝馬制度という名の支配装置
街道整備計画の中核をなしたのが、「宿駅伝馬制度」である。これは、街道沿いに一定間隔で宿場(宿駅)を設置し、それぞれに公的な義務を負わせることで、円滑な交通網を維持するシステムであった。その機能は、主に三つの柱からなっていた。
第一に、幕府の公用文書や書状を宿場から宿場へとリレー形式で運ぶ「継飛脚」の確立である 23 。これにより、江戸の中枢と全国の支配拠点を結ぶ情報伝達の速度と確実性は飛躍的に向上した。
第二に、公用人馬である「伝馬」の常備である 23 。これは、幕府役人の移動や、後の参勤交代で諸大名が江戸と国元を往復する際の便宜を図るものであり、同時に彼らの動向を幕府の監視下に置く効果も持っていた。
第三に、公用物資の輸送機能である 24 。これにより、全国からの年貢米や特産品を効率的に江戸へ集積することが可能となった。
当初はこうした軍事・政治目的が主であったが、街道の安全が確保され、人々の往来が活発になるにつれて、この制度は意図せざる副産物を生み出す。商人の経済活動が全国規模で展開され、庶民の間でも伊勢参りや温泉旅行といった長距離の旅が盛んになり、街道沿いの経済や文化の発展に大きく貢献したのである 2 。
2.3. プロジェクトの実行者たち―家康が信頼したテクノクラート
この巨大な国家プロジェクトを現場レベルで推進したのは、伊奈忠次や大久保長安といった、家康が絶対の信頼を寄せる代官頭たちであった 25 。彼らは単なる行政官僚ではなく、土木、財政、法制に精通した専門家集団(テクノクラート)であり、その辣腕によって徳川幕府の盤石な財政・行政基盤を築いた陰の功労者である。
ここで特に注目すべきは、宿駅制度が全国的に制定される慶長六年に先立つこと六年、文禄四年(1595年)の時点で、伊奈忠次と大久保長安が、土山の代官であった美濃部氏に宛てて指示を出している記録が残っていることだ 25 。これは、家康が関東移封後という早い段階から、関西の戦略的要衝である土山地域に強い関心を寄せ、その支配体制を確立するための布石を着実に打っていたことを明確に示唆している。土山宿の整備は、決して1601年に突如として始まった計画ではなかったのである。
第三章:慶長六年、土山の誕生―ある「事変」のリアルタイム再現
慶長六年(1601年)、戦国の気風がいまだ色濃く残る近江国土山に、江戸からの新しい時代の波が、命令という形で押し寄せた。それは、一つの村のあり方を根底から覆し、新たな秩序を創造する「事変」の始まりであった。
【慶長六年 正月 @江戸城】―国家方針の決定
徳川家康の朱印状を添え、伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安ら代官頭の連署による「御伝馬之定(ごてんまのさだめ)」が発せられた 27 。これは、東海道筋の指定された村々に対し、宿場としての公役を課すという、一方的かつ絶対的な命令であった。この一枚の書状が、土山の運命を大きく変えることになる。
【同年 春(推定) @近江国土山】―幕府役人の到来
春の気配が漂い始めた頃、江戸から派遣された幕府の役人、あるいは現地の代官が、この命令書を携えて土山の地を訪れた。当時の土山は、戦国時代に築かれた土山城の遺構が残り 12 、甲賀武士としての誇りを胸に秘めた人々が暮らす村落であった。幕府からの使者の到来は、村に静かだが激しい緊張をもたらしたに違いない。
【通達の瞬間 @土山の集会所?】―突きつけられた義務と権利
村の有力者たち、おそらくは戦国時代にこの地を治めた土山氏の一族などが集められ、荘厳な雰囲気の中、「御伝馬之定」が読み上げられた。その内容は、彼らの生活を一変させるに足る、衝撃的なものであった。
まず、 課せられた義務 という重荷である。
- 伝馬三十六疋の常備: 常に36頭の馬を、幕府の公用人馬のために準備しておかなければならない 22 。これは村の経済力を考えると、極めて重い負担であった。
- 継立(リレー)の責任: 土山宿は、上り(江戸方面)は水口宿まで、下り(京方面)は坂下宿まで、責任をもって人馬を継ぎ立てなければならない 28 。交通が滞れば、その責任は全て宿場が負うことになる。
- 積載量の厳守: 荷物は一駄あたり三十貫目(約112.5kg)を厳守することが定められた 28 。
一方で、これらの重い義務を果たす見返りとして、 与えられた権利 という実利も示された。
- 屋敷地の給付と地子免除: これらの義務を果たす見返りとして、伝馬1疋あたり60坪、合計で2160坪にもなる広大な屋敷地が与えられ、その土地に対する年貢(地子)が免除される 28 。これは宿場経営の経済的基盤となる、大きな特権であった。
- 独占的営業権: 街道を通る旅人の宿泊や荷物運送で収入を得る特権が認められ、宿場としての経済的繁栄の道が開かれた 23 。
【在地勢力の応対】―抵抗か、恭順か。甲賀武士の決断
この命令は、甲賀武士としての誇りを持ち、自律的に地域を治めてきた土山氏の末裔らにとって、容易に受け入れられるものではなかったはずだ。それは、自らの武威と共同体の論理で生きてきた誇りを捨て、徳川幕府という巨大なシステムの一歯車となることを意味したからだ。
しかし、関ヶ原の戦いを経て徳川の覇権が確立した今、武力で抵抗するという選択肢はもはや現実的ではなかった。ここで、戦国武将・土山鹿之助の末裔である 土山喜左衛門 が、歴史の表舞台に登場する 13 。彼は、時代の変化を鋭敏に察知し、失われゆく武士の身分に固執するよりも、幕府の命令を恭順に受け入れ、宿場の支配者(本陣役)となることで一族の存続と新たな特権を確保する道を選んだ。これは、戦国武士から近世の特権的役人・経営者への、見事なまでの自己変革であった。
この決断の背景には、徳川政権による「権力の再定義」があった。戦国時代までの土山氏の権力基盤は、一族の武力、血縁、そして「郡中惣」という在地共同体にあった。しかし、この事変を経て、土山喜左衛門の新たな地位と権威は、彼自身の武力ではなく、幕府が創設した宿駅伝馬制度という巨大なシステムの中での「役割」によって保証されることになった。これは、権力の源泉が「在地性」や「武力」といった旧来の権威から、「中央(幕府)との関係性」や「制度上の役割」へと移行する、近世的身分社会の到来を告げる象徴的な出来事であった。
【宿場建設の槌音】―新たな町の創造
命令が受諾されると、土山の村の風景は急速に変わっていった。街道沿いには計画的に家屋が建てられ、新たな町が創造されていく。まず、伝馬業務の司令塔となる 問屋場 、そして幕府の法令を掲示し、その権威を可視化する装置である 高札場 が設置された。街道沿いには、旅籠や茶屋が軒を連ね、旅人たちで賑わう町並みが形成されていった。戦国時代の防御拠点である「城」や「館」を中心とした「点」の構造から、物流と人の往来を前提とした「線」の構造を持つ町へと、その姿を劇的に変貌させていったのである。慶長六年の土山には、古い時代の終わりと新しい時代の始まりを告げる槌音が響き渡っていた。
第四章:宿場体制の確立とその影響―甲賀武士から宿場役人へ
慶長六年の「事変」を経て、土山は宿場町として新たな歩みを始めた。それは、この地に生きてきた人々の社会構造、価値観、そして経済活動のあり方を根底から変える、大きな地殻変動の始まりであった。
4.1. 新秩序の担い手たち―宿場の社会構造
新たに誕生した土山宿は、幕府が定めた厳格な階層構造を持つ社会であった。宿場の運営は、最高責任者である 問屋(といや) 、それを補佐する 年寄(としより) 、そして事務・会計を担当する**帳付(ちょうつけ)**といった宿役人によって担われた 33 。彼らは、多くの場合、村の名主など地域の有力者が兼任し、宿場の実質的な支配層を形成した。
宿泊施設にも明確な序列が存在した。参勤交代の大名や公家、勅使といった最高位の人々が宿泊する格式高い 本陣 35 を頂点に、本陣が満室の際に利用される脇本陣、そして一般の武士や庶民が利用する大小様々な
旅籠 が軒を連ねていた 23 。記録によれば、土山宿には本陣が2軒、旅籠が44軒あり、多様な身分と目的を持つ旅人の需要に応える一大宿泊拠点であったことがわかる 13 。
この新秩序の中で、初代本陣役に任命された土山喜左衛門は、単なる宿泊施設の経営者ではなかった。彼は、宿泊する大名と直接交渉し、公用人馬の差配を行い、宿場全体の運営を左右する、地域社会の新たな支配者であった。彼の権威は、かつての武力ではなく、幕府の制度に裏打ちされた公的な役割によって保証されていたのである。
4.2. 「刀」から「算盤」へ―価値観の地殻変動
土山宿の成立は、甲賀武士たちの生き方にも決定的な変化を強いた。武士としての身分を失った彼らは、「甲賀古士」として過去の栄光を誇りとしつつも、現実社会を生き抜くための新たな道を模索せざるを得なかった 18 。
土山喜左衛門のように宿場役人として地域の支配層に残る者もいれば、全く異なる分野に活路を見出す者もいた。例えば、かつて忍術で培った薬草の知識を応用し、薬を製造・販売する道を選んだ者たちである 17 。また、地域の気候に適した茶の栽培と販売に力を注ぐ者も現れた。これは、戦国的な「武勇」が絶対的な価値を失い、近世的な「経済合理性」や「専門技術」が社会で重視されるようになるという、大きな価値観の転換を物語っている。甲賀武士たちは、かつて手にしていた「刀」を「算盤」に持ち替え、新たな時代に適応していったのである。
4.3. 街道がもたらした光と影
宿場町の成立は、土山地域に大きな繁栄、すなわち「光」をもたらした。鈴鹿峠の安全が確保され、東海道の交通量が爆発的に増加するにつれて、土山宿は人と物資が絶えず行き交う一大交流拠点となった。この賑わいは地域経済を潤し、新たな富を生み出した。
特に、二つの特産品が土山の名を全国に広める原動力となった。一つは 土山茶 である。その起源は古く南北朝時代にまで遡るが、宿場町として街道を行き交う多くの旅人にその味が知られたことで、一気に需要が拡大した 36 。もう一つは
甲賀の薬 である。甲賀武士の末裔たちが始めたとされる配置売薬は、整備された街道網を通じて全国に行商のネットワークを広げ、富山の薬と並び称されるほどのブランドを築き上げた 17 。
しかし、繁栄の裏には常に「影」の部分も存在した。宿場に課せられた伝馬役の負担は、常にその財政に重くのしかかった。幕府の公用通行は無賃、あるいは幕府が定めた安い駄賃で賄わなければならず、宿場にとっては持ち出しとなることも少なくなかった 23 。この宿場町のあり方は、地域社会に「公」と「私」の二元的な経済構造をもたらした。伝馬役という幕府への奉仕(公)と、旅人を相手にした商業活動(私)という二つの顔を持つことで、宿場は近世社会の矛盾を内包しながら発展していったのである。この過酷な公役の負担と、商業活動による私的な利益追求のバランスを巧みに取りながら、地域の繁栄を維持していくことは、土山喜左衛門をはじめとする宿場役人たちにとって、絶えざる課題であり続けた。
結論:土山宿整備が象徴する「時代の転換点」
慶長六年(1601年)の土山宿整備は、単なる一宿場の成立に留まらない、日本の歴史における大きな転換点を象徴する画期的な出来事であった。それは、戦国という時代の終焉と、江戸という新たな時代の幕開けを、この近江国の山麓の地で具体的に示した「事変」だったのである。
第一に、この事変は 支配の質の転換 、すなわち「武から法へ」の移行を明確に示している。戦国時代を通じて続いた、在地領主の武力による自律的な地域支配は終焉を迎え、徳川幕府が定めた法と制度による、全国一元的な支配が確立していく過程がここにある。甲賀武士・土山氏がその武力を背景とした支配権を失い、幕府に任命された本陣役・土山喜左衛門が新たな支配者となる過程は、その象徴であった。
第二に、 空間支配の完成 を意味する。かつては中央の秩序が及ばない「境界」であり、在地勢力が独自の論理で支配する「無法地帯」であった鈴鹿峠を、徳川の厳格な管理下に置くことは、単なる治安改善以上の意味を持っていた。それは、日本全土を江戸を中心とする均質な統治空間へと再編する、徳川の天下統一事業の重要な一歩であり、戦国的な「境界」の消滅を意味した。
第三に、この地の歴史は、 歴史の連続性と非連続性 を見事に体現している。甲賀武士の末裔が本陣役として地域の支配層に留まるという点では、戦国時代の在地権力が形を変えて近世に引き継がれる「連続性」が見られる。しかし、その一方で、彼らが武士の誇りを胸に秘めつつも、刀を置き算盤を手に取って宿場経営や商業活動に活路を見出すという点では、価値観の劇的な「非連続性」が示されている。
土山宿整備という「事変」は、この時代のダイナミックな転換を、一つの宿場の成立過程の中に見事に映し出している。それは、戦国の論理が江戸の論理に塗り替えられていく「静かなる戦」の、紛れもない最前線だったのである。
表1:鈴鹿峠・土山地域の比較(慶長六年以前 vs. 以後)
比較項目 |
慶長六年(1601年)以前(戦国時代) |
慶長六年(1601年)以後(江戸時代) |
根拠 |
交通の安全性 |
危険。山賊・追剥ぎが横行する難所。 |
安全。幕府の管理下で旅人の往来が保障。 |
4 |
主要な在地権力 |
甲賀武士団(土山氏など)による自律的支配(郡中惣)。 |
幕府に任命された宿場役人(本陣、問屋など)。 |
12 |
権力の源泉 |
武力、血縁、地域の共同体。 |
幕府による任命と制度上の役割。 |
12 |
経済活動 |
通行料徴収、略奪、農業。 |
宿場経営(宿泊、運輸)、商業、特産品生産(茶、薬)。 |
10 |
中央権力との関係 |
従属と自律の間で揺れ動く、緊張をはらんだ関係。 |
幕府の全国支配ネットワークに組み込まれた末端組織。 |
12 |
地域の性格 |
軍事的な要衝、秩序の及ばない「境界」。 |
全国交通網の結節点、経済と文化の交流地。 |
2 |
引用文献
- 【街道の成立】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht012620
- 「五街道」とは?地域文化を育んだのは、江戸時代から賑わう“道”でした。 | Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/148734
- 五街道 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93
- たいむとりっぷ甲賀 - 甲賀市観光ガイド https://koka-kanko.org/introduce/time-trip-koka/
- 鈴鹿峠 - 亀山市観光協会 http://kameyama-kanko.com/area/sakasita/%E9%88%B4%E9%B9%BF%E5%B3%A0/
- 女盗賊の伝説が残る鈴鹿峠と洪水で流された宿場町の跡を訪れる - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ijlf-1KN6Wk
- 鈴鹿峠は物語の宝庫 https://kamemorikyo.jp/hp/climate/houko
- 坂下宿 - 亀山商工会議所 http://kameyama-cci.or.jp/pdf/sakashitajuku.pdf
- 東海道 坂下宿 難所 鈴鹿越え - Network2010.org https://network2010.org/article/191
- 鈴鹿峠と田村麻呂信仰 - 甲賀市 https://www.city.koka.lg.jp/4772.htm
- 第一編 伝承の宝庫と夢の世界 - 大川吉崇公式ブログ「まなびの山頂(いただき)」 https://ohkawa-a.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-1df0.html
- 甲賀市 城跡探訪マップ https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/64/64279/140349_1_%E7%94%B2%E8%B3%80%E5%B8%82%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E6%8E%A2%E8%A8%AA%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97.pdf
- 近江歴史回廊の旅 東海道~土山宿から大津宿を訪ねて~ 土山宿 - 東京滋賀県人会 https://imashiga.jp/blog/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%9B%9E%E5%BB%8A%E3%81%AE%E6%97%85%E3%80%80%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%EF%BD%9E%E5%9C%9F%E5%B1%B1%E5%AE%BF%E3%81%8B%E3%82%89%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%AE%BF%E3%82%92-5/
- 地名に残る 甲賀忍者の里 https://old.shoai.ne.jp/shiga/chiiki/120102/chiiki120102.html
- 甲賀の城のネットワーク - 滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/site-archives/download-kiyou-19_kido.pdf
- 忍者の日に甲賀忍者の末裔を発見 - 日本実業出版社 https://www.njg.co.jp/column/column-16997/
- 新近江名所圖会 第31回 いまも息づく忍者の里-甲賀武家屋敷 - 滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/best-place-in-shiga/%E6%96%B0%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9C%96%E4%BC%9A%E3%80%80%E7%AC%AC31%E5%9B%9E/
- 武士の身分を取り戻せ!明治維新の戦場を駆け抜けた甲賀忍者たちの武勇伝【上】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/115357/2
- 東海道と箱根八里 https://www.hakone-hachiri.jp/wp/tokaido
- 五 街 道 と 主 な 脇 往 還 https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/content/000300214.pdf
- 祝 東海道五十七次400周年 https://tokaido.org/tokaido57-400years/
- 江戸幕府の街道施策の正確な伝承・発信にご尽力されている志田 威(しだ たけし)先生より、令和4年5月29日(日)に開催された『東海道57次講演』についてのお知らせをいただきました。 - 戸谷八商店 https://www.toyahachi.com/20230222/
- 古代の道 その3 近世の街道 江戸時代 https://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi3.html
- 【伝馬役と歩行役】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht012910
- 東海道の宿場町 土山 - 滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/2023/06/kyoushitsu-189.pdf
- 関東郡代伊奈氏の200年展 https://araijuku2011.jp/wp-content/uploads/2016/10/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E6%B0%8F%E5%B1%95%E5%86%8A%E5%AD%90%E7%89%88B.pdf
- 伝馬朱印状とはどういうものですか? https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0106.htm
- 【宿の設置】 - ADEAC https://adeac.jp/konan-lib/text-list/d100010/ht040490
- 土山宿本陣跡 - 旧街道ウォーキング https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/sakanoshita_tsuchiyama/tsuchiyamashuku/tsuchiyamashukuhonjinato.html
- 土山宿 - 東海道歩き旅。日本橋から京都まで歩く旅 https://kaidouarukitabi.com/5kaidou/tohkai/tokai49.html
- 旧東海道を歩く(土山宿~水口宿)その1:土山宿・平成万人灯~土山 https://plaza.rakuten.co.jp/hitoshisan/diary/202004100000/
- 坂下 https://shigeojimbo.moo.jp/sakashita-minakuchi.html
- 大名行列が宿泊する宿場町は問屋場と本陣がてんてこ舞 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c08605/
- A look at the "post towns" of the Edo period! A place of interaction between travelers and reside... - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=rULag5Q__wM
- 宿場町とは/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/113262/
- 農事組合法人グリーンティ土山は滋賀でお茶の販売を行っております https://g-t.or.jp/
- 常明寺 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる! https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/477/
- 東海道五十三次の宿場町をめぐる~滋賀県甲賀「土山宿」~ - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/20180220-shiga-koka-2/
- 滋賀のくすりの歴史 - 滋賀県製薬工業協同組合 - https://sigaseiyaku.jp/history