最終更新日 2025-10-06

坂下宿整備(1601)

坂下宿は、1601年に徳川家康が鈴鹿峠の東麓に整備。戦国期の軍事拠点から東海道の宿場へ転換し、伝馬制度により交通・情報網を確立。1650年の大水害で移転再建され、徳川支配の礎を築いた。
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坂下宿整備(1601年)の徹底分析:戦国から江戸へ、鈴鹿峠に刻まれた天下統一の礎

序章:天下統一の黎明と東海道の脈動

慶長5年(1600年)秋、関ヶ原における徳川家康の勝利は、一世紀以上にわたる戦乱の時代に終止符を打ち、日本の歴史に新たな秩序をもたらす決定的な転換点となった 1 。しかし、軍事的な覇権の確立は、そのまま安定した全国支配を意味するものではなかった。翌慶長6年(1601年)、家康はまだ征夷大将軍に就任しておらず、豊臣家も大坂城に依然として強大な影響力を保持していた 3 。この天下の帰趨が未だ定まらぬ微妙な時期に、家康が最優先課題の一つとして着手したのが、江戸と京都を結ぶ大動脈、東海道の交通網整備であった。

家康にとって街道の整備は、単なる土木事業やインフラの改善にとどまるものではなかった。それは、戦国時代を通じて軍勢の移動路であり、戦略上の要衝であった「道」を、恒久的な統治と経済活動を支える国家の神経網へと再定義する、壮大な国家プロジェクトであった 4 。この整備には、幕府の公用文書を迅速に伝達し中央の意思を末端まで浸透させる通信機能、有事の際に諸大名を動員し、平時においては彼らを監視・統制する軍事・政治機能(後の参勤交代制度の布石となる)、そして全国規模での物流を活性化させ経済的な統合を図る経済機能という、多層的な戦略的意図が込められていた 6

本報告で徹底的に分析する「坂下宿整備(1601年)」は、この壮大な国家構想が、一つの地域で具体的にどのように展開されたかを示すミクロな事例である。古代より交通の難所として知られ、戦国期には幾多の武将がその支配をめぐって争った戦略的要衝、鈴鹿峠 9 。その東麓に位置する坂下宿に、徳川の新たな秩序を刻み込むこの事業は、まさに武力による支配から、法と制度による統治への転換を象徴する出来事であった。本報告では、この1601年の事象を「戦国時代という視点」から捉え、戦国期までの鈴鹿峠の歴史的文脈を踏まえつつ、徳川による新たな支配体制がどのように構築されていったのかを、時系列を追ってリアルに解き明かしていく。


表1:坂下宿および鈴鹿峠関連年表

年代

出来事

典拠

672年(天武天皇元年)

壬申の乱において、大海人皇子(後の天武天皇)方の兵が鈴鹿山道を封鎖する。

11

886年(仁和2年)

斎宮繁子内親王の伊勢下向を契機に、鈴鹿峠を越える新道(阿須波道)が開通したとされる。

11

1524年(大永4年)

連歌師・宗長の紀行文『宗長日記』に「坂の下の旅宿」との記述が見られ、室町時代には宿機能が存在したことが確認される。

12

1570年代

織田信長による伊勢侵攻において、鈴鹿峠が近江と伊勢を結ぶ重要な戦略拠点となる。

9

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、天下の実権を掌握する。

2

1601年(慶長6年)

徳川家康が東海道宿駅伝馬制度を制定。坂下宿が東海道の公式な宿場として指定・整備される。

13

1635年(寛永12年)

参勤交代が制度化され、街道の交通量が激増。宿場としての坂下宿の重要性が一層高まる。

7

1650年(慶安3年)

大規模な土石流(大洪水)が発生し、片山神社下の谷間にあった宿場(古町)が壊滅的な被害を受ける。

16

1651年(慶安4年)

幕府の援助のもと、約1km東の現在地に移転し、宿場が再建される。

16

1890年(明治23年)

関西鉄道(現在のJR関西本線)の開通により、街道交通が激減し、宿場としての機能が急速に衰退する。

12


第一章:戦国時代の鈴鹿峠―戦略的要衝としての歴史的背景

1.1 古代からの交通路と難所としての鈴鹿

徳川家康が1601年に坂下宿を公式な宿駅として整備する以前から、鈴鹿峠は日本の歴史において極めて重要な役割を担ってきた。この峠は鈴鹿山脈の中で最も標高が低い鞍部の一つであり、古くから畿内と東国を結ぶ大動脈として機能していた 11 。その歴史は古く、天武天皇元年(672年)の壬申の乱では、大海人皇子(後の天武天皇)に味方した伊勢国司の軍勢がこの鈴鹿山道を封鎖し、朝廷軍の東進を阻止したという記録が『日本書紀』に残されている 11 。平安時代に入ると、都が京都に遷ったことでその重要性はさらに増し、仁和2年(886年)には斎宮繁子内親王の伊勢下向を契機に、鈴鹿峠を経由する新道「阿須波道」が整備された 11

しかし、その重要性とは裏腹に、鈴鹿峠は常に旅人にとって危険な難所であった。山深い「八町二十七曲り」と呼ばれる急峻な山道は 10 、平安時代から盗賊や山賊が出没する場所として知られていた 21 。旅人は鏡岩に姿を映されて山賊に襲われたという伝説も残るほどである 17 。この「交通の要衝」という側面と、「危険な難所」という二面性こそが、鈴鹿峠の歴史的性格を規定し、後の時代に至るまで為政者がこの地を重要視する根源となった。

1.2 戦国期の伊勢国と鈴鹿峠の支配

応仁の乱以降、日本全土が群雄割拠の時代に突入すると、鈴鹿峠が持つ軍事的・戦略的な価値は飛躍的に高まった。当時の伊勢国は、統一的な権力が存在せず、南勢地方を支配する国司・北畠氏、中勢地方の長野氏、そして鈴鹿郡を含む北勢地方を拠点とする関氏や神戸氏といった国人領主たちが勢力を競い合う、まさに戦国乱世の縮図のような状況にあった 9

このような状況下で、鈴鹿峠は近江国と伊勢国を結ぶ軍事侵攻ルートとして、極めて重要な意味を持った。近江の戦国大名である六角氏(佐々木氏)は、伊勢への影響力拡大を狙い、たびたびこの峠を越えて北伊勢に侵攻した 9 。一方、伊勢の諸勢力にとっても、鈴鹿峠は近江からの侵攻を防ぐための最前線であり、その支配権を確保することは領国経営の死活問題であった。やがて尾張から天下統一に乗り出した織田信長にとっても、伊勢平定は美濃攻略後の最重要課題の一つであり、その足掛かりとして鈴鹿峠を掌握することは不可欠であった 9 。峠を制する者が、近江と伊勢の間の軍事的優位性を握る。これが戦国時代における鈴鹿峠の地政学的な現実であった。

1.3 「坂の下の旅宿」―宿駅制度以前の姿

徳川幕府による慶長6年(1601年)の宿駅制度制定は、しばしば近世宿場町の起源として語られる。しかし、坂下宿の場合、その歴史はさらに古くまで遡ることができる。室町時代の連歌師である宗長が記した紀行文『宗長日記』には、大永4年(1524年)の条に「坂の下の旅宿」という記述が明確に残されている 12 。これは、公式な制度が確立される約80年も前から、鈴鹿峠の東麓には旅人の往来を支えるための宿泊施設群が自然発生的に形成されていたことを示す、極めて重要な証拠である。

この事実は、1601年の「整備」が、全く何もない場所に新たな町を建設する「創造(Creation)」ではなく、既に存在していた有機的な集落に対し、公的な役割と秩序を与える「再編・公認(Reorganization and Formalization)」であったことを示唆している。戦国時代、この「坂の下の旅宿」は、商人や巡礼者といった一般の旅人だけでなく、峠を越えて移動する武士や軍勢にとっても重要な休息地・兵站拠点として機能したと推察される。在地社会に根付いた既存のインフラと秩序を、徳川家康は破壊するのではなく、自らの新たな全国支配のシステムの中に巧みに組み込んでいった。この統治手法こそ、徳川政権が迅速かつ効率的に全国支配を確立できた要因の一つであり、坂下宿の整備は、その象徴的な一例と見なすことができる。戦国期までの「自律的・有機的な宿場」と、1601年以降の「国家的・制度的な宿場」との間の連続性と非連続性を理解することこそが、この歴史事象の核心を捉える鍵となる。

第二章:徳川家康の国家構想と伝馬制度の確立

2.1 関ヶ原後の天下布武―支配体制の構築

関ヶ原の戦いにおける勝利の後、徳川家康は矢継ぎ早に新たな支配体制の構築に着手した。西軍に与した大名の所領を没収・削減し、徳川家に忠実な譜代大名や親藩を戦略的に配置する大規模な領地替えを断行した。さらに、京都、大坂、堺、長崎といった全国の主要都市や、佐渡金山、石見銀山といった重要な鉱山を幕府の直轄地(天領)とし、国家の経済的基盤を強固に掌握していった 4 。これらの施策は、戦国時代的な分権状態から、幕府を頂点とする中央集権的な支配体制、すなわち幕藩体制への移行を決定づけるものであった。

しかし、この新たな支配体制を実効性のあるものにするためには、物理的なインフラ、すなわち全国を結ぶ交通・通信網の整備が不可欠であった。幕府の命令が江戸から全国の隅々まで迅速かつ正確に伝わり、大名たちが命令に従って江戸へ参勤し、物資が円滑に流通する。そうしたシステムを構築することなくして、長期的な安定政権はあり得なかった。家康が豊臣政権下で関東に移封された頃から、既に江戸・小田原間で宿駅制度を試行していた事実は 7 、彼が早くから交通網の重要性を深く認識していたことを物語っている。

2.2 慶長6年(1601年)正月、「御伝馬之定」

天下の実権を握った家康は、その構想を直ちに全国規模で実行に移した。慶長6年(1601年)正月、家康は腹心の代官頭である伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安らに命じ、東海道の各宿に対して二つの重要な文書を交付させた 25 。一つは、馬を牽く人物の絵が描かれた朱印(駒牽きの朱印)が押された「伝馬朱印状」、もう一つは宿場が遵守すべき規則を定めた「御伝馬之定(ごてんまのさだめ)」である 25 。この二つの文書の交付をもって、近世日本の交通システムの根幹をなす東海道宿駅伝馬制度が公式に発足した 13

当初定められた宿駅の数は、資料によって諸説あるものの約37から45箇所とされ、坂下宿もこの時に公式な宿駅として指定された 13 。その後、箱根宿(1618年)や庄野宿(1624年)などが追加され、最終的に東海道五十三次(京・大坂まで含めると五十七次)の宿場が揃うことになる 31 。この制度は、翌慶長7年(1602年)には中山道にも適用され、五街道を中心とする全国的な交通ネットワークへと発展していった 14

2.3 伝馬制度のメカニズム

徳川幕府が創設した伝馬制度は、極めて精緻に設計されたシステムであった。その目的は、幕府公用の書状や荷物を、宿場から隣の宿場へと人馬を交代させながらリレー形式で迅速に輸送することにあった 7 。これにより、幕府の意思決定と命令伝達の速度は、戦国時代とは比較にならないほど向上した。このシステムは、宿場に課せられた「義務」と、その見返りとして与えられた「特権」、そしてそれを運営する「組織」によって成り立っていた。

各宿場は、幕府の公用輸送のために、定められた数の人足と伝馬(輸送用の馬)を常に用意しておくという重い「義務」を負わされた。慶長6年の制定当初、伝馬の数は各宿36疋と定められていたが、交通量の増大に伴い、後には人足百人・伝馬百疋へと拡充されている 7

この義務に対する「特権」として、宿場内の家屋敷にかかる税(地子)が免除される「地子免許」が与えられた 26 。これは宿場経営にとって大きな経済的恩恵であった。さらに、宿場は公用輸送の合間に、一般の旅人を相手にした宿泊業(旅籠)や運送業を営むことが公認され、これが宿場町の繁栄の源泉となった 33

宿場の「運営組織」の中心は、問屋場(といやば)であった 34 。問屋場には、宿場の最高責任者である問屋(といや)、その補佐役である年寄(としより)、事務・会計を担当する帳付(ちょうづけ)といった宿役人が詰め、日々の業務を取り仕切った 35 。これらの役職には、村の名主など在地社会の実力者が任命されることが多く、彼らは幕府の末端行政を担う重要な存在であった 38

この伝馬制度は、一見すると幕府の支配強化という行政・軍事目的で構築されたシステムである。しかし、その制度設計の中に、宿場が経済的に自立し発展するためのインセンティブが巧みに組み込まれていた。この構造が、結果として江戸時代の経済と文化の発展を促す巨大なプラットフォームとなった。家康が1601年に行った制度設計は、彼が直接意図したか否かにかかわらず、その後の日本の繁栄と文化的成熟の「種」を蒔く、極めて先見性に富んだ事業であったと評価できる。


表2:東海道宿駅の標準的な機能と役職

分類

名称

役割・機能

典拠

運営組織

問屋場(といやば)

宿場の行政・業務の中心施設。人馬の継ぎ立て、公用書状の受付、人馬の差配などを行う。

34

役職

問屋(といや)

宿場の最高責任者。多くは地域の有力者である名主などが兼任した。

35

年寄(としより)

問屋の補佐役。村の組頭に相当する役職。

35

帳付(ちょうづけ)

宿場の運営に必要な帳簿の記録など、事務・会計を担当した。

35

宿泊施設

本陣(ほんじん)

大名、公家、幕府役人など、高貴な身分の者が宿泊するための格式の高い施設。

7

脇本陣(わきほんじん)

本陣が満室の際などに使用される予備的な施設。本陣に準ずる格式を持った。

7

旅籠(はたご)

一般の武士や庶民が宿泊する有料の宿。食事も提供された。

14

その他施設

高札場(こうさつば)

幕府の法令(法度)や地域の掟などを板に書き、公衆に周知させるための掲示場。

一里塚(いちりづか)

江戸日本橋を起点として、街道の一里(約3.9km)ごとに設置された塚。距離の目安となった。


第三章:慶長六年、坂下宿整備のリアルタイム・クロニクル

慶長6年(1601年)の「坂下宿整備」は、単一の行政命令によって完了した静的な事象ではない。それは、江戸の中枢からの指令、現地の社会構造、そして具体的な実務が絡み合いながら進行した、動的なプロセスであった。ここでは、そのプロセスをあたかもリアルタイムで追体験するかのように、三つのフェーズに分けて再構築する。

【フェーズ1:指令】 慶長6年(1601年)正月~

関ヶ原の戦いの興奮も冷めやらぬ慶長6年の正月、江戸城あるいは駿府城から、幕府の巡見使の一行が出立した。その懐には、徳川家康の権威の象徴である「駒牽きの朱印」が押された伝馬朱印状と、新たな交通秩序の憲法とも言うべき「御伝馬之定」が収められていた 25 。彼らは東海道を西へと下り、各宿場予定地で徳川の新たな方針を伝達していった。

やがて一行は、伊勢国、鈴鹿峠の麓に到達する。当時、この地域は亀山藩領の時期を除き、多くは幕府の直轄領であった 15 。巡見使は、代官などを通じて、古くから「坂の下の旅宿」を形成していた坂下村の有力者、すなわち名主層を召集したであろう。そして、厳粛な雰囲気の中、幕府の命令が伝達される。第一に、坂下村を東海道の公式な宿駅と定めること。第二に、公用輸送のため、伝馬36疋を常備する義務を課すこと。第三に、その見返りとして、宿場内の家屋敷に対する税(地子)を免除すること。この通達により、戦国時代を通じて地域の自律性に委ねられていた坂下の集落は、徳川による全国規模の統治ネットワークの末端に、公式に組み込まれることになったのである。

【フェーズ2:編成】 慶長6年(1601年)春~夏

幕府からの指令を受け、坂下宿では新たな体制づくりが急ピッチで進められた。これは物理的な建設行為以上に、社会的な関係性の再構築という側面が強かった。幕府という新たな権力と、在地社会の有力者、そして一般の宿民との間に、義務と権利に基づく新しい社会契約が結ばれたのである。

まず、宿場の運営を司る宿役人の任命が行われた。地域の有力者、おそらくは代々名主を務めてきた家柄の者が、宿場の最高責任者である「問屋」に任命された 35 。これは、幕府が既存の村落のリーダーシップを追認し、その権威を利用して円滑な支配を図るという、巧みな統治手法の表れであった。問屋は幕府の権威を背景に地域での影響力を強める一方、幕府に対しては宿場運営の全責任を負うことになった。

次に、宿場の中心的な場所に、人馬の継ぎ立てや公用荷物の差配を行う行政拠点「問屋場」が設置された 34 。同時に、宿内で最も格式の高い家が、大名や公家が宿泊するための「本陣」に指定された 7 。後の時代に「海道第一の大家」とまで称された大竹屋本陣なども、この時期にその原型が整えられた可能性がある 15 。一般の宿民は、その財力に応じて伝馬役という負担を課される代わりに、旅籠や茶屋を営む商業活動の機会と、地子免許という経済的恩恵を享受した。

並行して、幕府の指導のもと、街道そのものの整備も進められたと考えられる。道幅の拡張、排水設備の設置、そして旅人の目印となる一里塚の造成や松並木の植樹などが行われ、道は単なる通路から、国家が管理するインフラへと姿を変えていった 40

【フェーズ3:始動】 慶長6年(1601年)後半~

春から夏にかけての編成期間を経て、慶長6年の後半には、新生・坂下宿はその機能を本格的に始動させた。江戸と上方を往来する幕府の役人や、家康への挨拶を命じられた西国大名の一行が、早速この新しい宿駅伝馬制度を利用し始める。

坂下宿の問屋場では、役人が旅人の携える伝馬手形と、幕府から下付された朱印状を照合し、間違いがなければ必要な人馬を割り当てるという、新たな日常業務が始まった 34 。当初は、人馬の確保をめぐる近隣村との軋轢や、負担の不公平感をめぐる宿内の対立など、少なからぬ混乱も伴ったと推察される。しかし、幕府という強力な権力の後ろ盾と、宿場運営によってもたらされる経済的利益が、次第にこの新しい制度を地域社会に定着させていった。

こうして、戦国時代には軍勢が緊張の面持ちで通過した鈴鹿峠の麓は、公的な人々と物資が昼夜を問わず行き交う、新たな秩序の拠点へとその姿を大きく変貌させた。1601年の「整備」とは、徳川による平和(パックス・トクガワーナ)が、この地に具体的に刻まれた瞬間であった。

第四章:宿場としての坂下宿―機能、繁栄、そして変転

4.1 東海道四十八番目の宿場町

慶長6年(1601年)の制度発足により、坂下宿は江戸日本橋を起点として西へ48番目の宿場という公的な地位を得た 12 。その地理的条件は、宿場としての役割を決定づける上で極めて重要であった。東から来た旅人にとって、坂下宿は東海道有数の難所である鈴鹿峠越えを目前に控えた最後の休息地であり、旅支度を整え、英気を養うための不可欠な拠点であった 10 。逆に、険しい峠道を越えて近江から伊勢へと入ってきた旅人にとっては、最初に安息を得られる場所であり、その安堵感は格別なものであっただろう。この立地が、坂下宿に他の宿場にはない独自の重要性を与えていた。

4.2 参勤交代と宿場の繁栄

坂下宿の繁栄を決定的なものにしたのは、寛永12年(1635年)に徳川家光によって制度化された参勤交代であった 7 。これにより、全国の諸大名は定期的に江戸と自領を往復することが義務付けられ、東海道の交通量は爆発的に増加した。特に、険しい鈴鹿峠を越える大名行列は、その前後に必ず宿を取る必要があったため、坂下宿は多くの大名家にとって定宿となった 12

その結果、坂下宿は東海道でも有数の規模を誇る宿場町へと発展した。江戸時代後期には、大名が宿泊する本陣が3軒、それを補佐する脇本陣が1軒、そして一般の旅籠が48軒も軒を連ねるほどの賑わいを見せた 12 。鈴鹿馬子唄には「坂はてるてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」と唄われ 18 、また「泊るなら泊れ 大竹 小竹(おおだけ こだけ)泊れよな まん中の松屋に 泊りかねる」とも謡われた 15 。これは、大竹屋、小竹屋、松屋という本陣・脇本陣の名を織り込んだものであり、坂下宿が旅人たちの間で広く知られた存在であったことを物語っている。

4.3 慶長3年(1650年)の大洪水と宿場の移転

しかし、この繁栄の歴史には、一つの大きな断絶が存在する。慶安3年(1650年)9月2日、この地域を大規模な土石流、すなわち大洪水が襲ったのである 15 。この未曾有の災害により、片山神社下の谷間に位置していた宿場町は、壊滅的な被害を受けた。これは、まさに慶長6年(1601年)に徳川幕府によって公式に整備された、最初の坂下宿(古町)そのものが、自然の猛威によって地上から姿を消した瞬間であった。

この事実は、「坂下宿整備(1601年)」という事象を考察する上で、極めて重要な意味を持つ。1601年に整備された物理的な町並みは、わずか49年間しか存在しなかったのである。したがって、この歴史事象を正確に理解するためには、「制度としての坂下宿」と「場所としての坂下宿」を明確に区別する必要がある。1601年に創設された宿駅伝馬制度という「制度」は、この後も継続していく。しかし、その制度を担う「場所」は、この災害を境に大きく変転することになる。

4.4 新しい坂下宿の建設

宿場が壊滅したという報告は、直ちに幕府にもたらされた。東海道の機能を麻痺させるわけにはいかない幕府は、迅速な復興を指示し、援助を行った。そして翌慶安4年(1651年)、宿場は被災地から約1キロメートル東の、より災害に強い現在の場所に移転・再建された 12

私たちが現在、歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』で目にする「阪之下 筆捨嶺」の風景や、史跡として残る本陣跡の石碑が示す坂下宿は、すべてこの慶安4年以降に再建された「新しい」宿場町である。1601年に整備された「古い」宿場の遺構は、この災害によってほぼ失われてしまった。わずかに、法安寺の庫裏の玄関として移築された旧松屋本陣の門などが、往時の繁栄を今に伝える数少ない現存建造物として残されているに過ぎない 17 。この災害と復興の歴史は、坂下宿が単なる制度上の存在ではなく、自然と共存し、時にはその脅威に屈しながらも、人々によってたくましく受け継がれてきた生きた場所であったことを物語っている。

結論:戦国の終焉と近世の黎明を刻んだ宿

慶長6年(1601年)の坂下宿整備は、単なる一宿場の設置という局地的な出来事ではない。それは、日本の歴史が「戦国」から「江戸」へと大きく舵を切る、そのダイナミズムを象徴する画期的な事業であった。

第一に、この整備は、鈴鹿峠という場所が持つ戦略的意味の根本的な転換を意味した。織田信長や豊臣秀吉の時代、この峠は近江と伊勢を分かつ軍事的な境界線であり、その支配権をめぐって知略と武力がぶつかり合う「戦国の論理」の舞台であった。しかし1601年以降、坂下宿は東海道という公的なネットワーク上の結節点となり、人馬を継ぎ立て、公用文書をリレーする、法と制度に基づく「江戸の論理」の拠点へと生まれ変わった。この論理の転換こそが、戦国の終焉と近世の黎明を何よりも雄弁に物語っている。

第二に、坂下宿の成立過程は、徳川の全国支配システムの精緻さを映し出す縮図である。家康は、室町時代から自然発生的に存在した「坂の下の旅宿」という在地社会の既存秩序を破壊するのではなく、それを巧みに利用した。問屋や年寄といった役職に地域の有力者を任命し、彼らに責任と権威を与えることで、中央の意思を末端まで浸透させた。同時に、地子免許という経済的インセンティブを与えることで、宿場に課せられた重い義務を円滑に遂行させた。この義務と権利のネットワークを通じて全国を統合していく統治手法は、250年以上にわたる徳川の治世の安定を支える基盤となった。

そして最後に、坂下宿の歴史は、制度の永続性と場所の変転という、歴史の重層性を示している。1601年に創設された「制度としての宿場」は、慶安3年(1650年)の大水害という物理的な断絶を乗り越え、場所を移して生き続けた。現在、往時の賑わいは失われ、静かな山間の集落となっているが 18 、そこに残された石碑や数少ない遺構は、戦国の終焉と近世日本の幕開けという、日本の歴史における最も劇的な時代の記憶を、今なお静かに伝えている。1601年の「整備」は、そのすべての物語の始まりを告げる号砲だったのである。

引用文献

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  25. 伝馬朱印状とはどういうものですか? https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0106.htm
  26. 【(1) 品川宿の成立】 - ADEAC https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000030/ht000440
  27. 伝馬朱印状(てんましゅいんじょう)|収蔵資料 - 物流博物館 https://www.lmuse.or.jp/collection/gallery/edo/02.html
  28. 旧東海道と宿場制度 横浜市保土ケ谷区 https://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/shokai/rekishi/tokaido/shuku-seido.html
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  31. 東海道と箱根八里 https://www.hakone-hachiri.jp/wp/tokaido
  32. 2024年は東海道五十七次400周年 https://tokaido.net/tokaido57-establishment/
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  34. 宿駅伝馬制度って、なんのこと? - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0105.htm
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  36. 宿場町って何があるの? - 春日部市 https://www.city.kasukabe.lg.jp/kosodate_kyoiku_bunka/kyoikuiinkai/kakushisetsu_toshokan_kominkan_taiikushisetsunado/1/kasukabejuku/9513.html
  37. 【一 近世の街道と宿駅】 - ADEAC https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-list/d100010/ht2044101010
  38. 大名行列が宿泊する宿場町は問屋場と本陣がてんてこ舞 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c08605/
  39. 中山道木曾路 各宿場の統治階級 http://www.walkigram.net/kisoji/stagetown01.html
  40. 1−1−2 交通変遷と街道の整備実態、機能・役割 https://www.mlit.go.jp/common/000055312.pdf
  41. 家康公の生涯 - 関ケ原の合戦まで - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/02_04.htm
  42. 浮世絵でみる宿場町。広重、北斎が描いた宿場町3宿の世界を歩いてみよう! - 観光三重 https://www.kankomie.or.jp/report/1973
  43. 坂下宿 | 観光スポット | 観光三重(かんこうみえ) https://www.kankomie.or.jp/spot/8387
  44. 坂下宿絵図 - 三重の文化 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/shijyo/detail580.html