大津宿整備(1601)
大津宿は、1601年に徳川家康が関ヶ原後の国家戦略として整備。琵琶湖水運と陸路の要衝を軍事拠点から宿場へ転換し、伝馬制度で情報・物流を掌握。東海道最大の宿場町として発展、徳川支配確立に貢献。
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慶長六年 大津宿整備の深層分析:戦国時代の遺産と徳川天下統一の布石
序章:慶長六年という転換点
慶長六年(1601年)、徳川家康は天下統一事業の一環として、日本の大動脈である東海道に宿駅伝馬制度を制定した 1 。この広範な交通改革の中で、近江国大津が宿場(大津宿)として正式に指定され、整備された事実は、単なるインフラ整備事業として片付けることはできない。それは、前年の慶長五年(1600年)に行われた関ヶ原の戦いの勝利によって天下の実権を掌握した家康が、来るべき新時代、すなわち「徳川の世」の国家構想を具体的に示した最初の布石であった。
この政策が発令された時期は、注目に値する。関ヶ原の戦いが終結したのは慶長五年九月十五日。そのわずか三ヶ月半後の翌年正月には、江戸から京都に至る長大な幹線道路の制度設計と、各宿場への通達が完了している 3 。この驚異的な迅速性は、この政策が戦の趨勢を見てから考案された場当たり的なものではなく、家康が天下を掌握した際の具体的な統治プランとして、戦前から周到に準備していたことを強く示唆している。戦国大名たちが領国経営のために築いた伝馬制度を研究し、その限界と可能性を分析した上で、自身の政権の根幹をなす制度として構想していたと考えられる。
特に「大津宿」の整備は、この国家構想の中でも象徴的な意味合いを持っていた。大津は、豊臣政権下で城が築かれ、西国と東国、そして北国を結ぶ軍事・経済の要衝として機能していた 5 。家康は、その豊臣の遺産ともいえる大津城を廃し、その城下町を幕府直轄の宿場町として再編する道を選んだ 6 。この一連の措置は、武力による「城」の支配から、法と制度による「宿駅」の支配へと、統治のパラダイムを転換させることを天下に示す、極めて高度な政治的パフォーマンスであった。本報告書は、「大津宿整備(1601年)」という事象を戦国時代からの連続性という視座から捉え直し、その背景、リアルタイムな経緯、そして徳川二百六十年の泰平の礎を築く上で果たした多層的な意義を徹底的に分析するものである。
第一章:戦国期における近江国大津の戦略的価値
徳川家康がなぜ大津をこれほどまでに重視したのかを理解するためには、戦国時代を通じてこの地が培ってきた地理的、軍事的、そして経済的な重要性を解き明かす必要がある。大津は、単なる一都市ではなく、天下の趨勢を左右する戦略的価値を秘めた場所であった。
1.1. 地理的優位性:「京への喉元」と琵琶湖水運
古来より、「近江を制する者は天下を制す」と言われてきた 8 。その理由は、近江国が日本の中心に位置し、日本最大の湖である琵琶湖を介した水運と、東西を結ぶ陸路が交差する交通の結節点であったからに他ならない。特に大津は、その中でも際立った地理的優位性を有していた。
大津は、京都の東の入り口、まさに「京への喉元」に位置する。東国や北国から京都を目指す際には、必ず通過しなければならない地点であった 5 。さらに、東国から京へ向かう陸路には、逢坂山という険しい峠が存在し、その麓に位置する大津は天然の要害としての側面も持っていた。この陸路の要衝の中でも、瀬田川に唯一架けられた瀬田の唐橋は、軍事的に極めて重要な意味を持っていた。「唐橋を制する者は天下を制す」とまで言われ、壬申の乱をはじめ、歴史上幾度となく合戦の舞台となってきたのである 10 。
加えて、大津は琵琶湖水運の最大の港町(湊)であった。北陸道や中山道を経由して北国や東国から集められた米や特産品などの物資は、大津の港で荷揚げされ、そこから陸路で京や大坂へと運ばれた 6 。琵琶湖は、当時の物流における「高速道路」であり、大津はその最大のジャンクション兼ターミナルであった。この水陸交通の結節点であるという特性が、大津に比類なき戦略的価値を与えていたのである。
1.2. 織田信長と豊臣秀吉の大津政策:坂本城から大津城へ
戦国時代の覇者たちも、大津の重要性を深く認識していた。織田信長は、元亀二年(1571年)に比叡山延暦寺を焼き討ちにした後、その麓であり琵琶湖に面した坂本に城を築き、明智光秀を城主とした 6 。これは、延暦寺の残存勢力を牽制し、琵琶湖の制海権を掌握すると同時に、京へのアクセスを確保するための戦略であった。
信長の後を継ぎ天下統一を果たした豊臣秀吉は、この大津の価値をさらに高く評価し、より直接的な支配に乗り出す。秀吉は、信長が築いた坂本城を廃し、天正十四年(1586年)頃、大津の地に新たに大津城を築城した 5 。これは、交通の要衝としての機能をより強化し、自身の支配体制の重要拠点と位置づけるための明確な意思表示であった。秀吉の政策は、大津を単なる軍事拠点から、経済・物流の中心地へと昇華させることを目指したものであった 12 。
1.3. 豊臣政権下での港町・城下町としての発展と「大津百艘船」
秀吉の政策の下、大津は城下町として、また港町として飛躍的な発展を遂げる。彼は、大津を東国・北国からの物資が集まる一大集散地として積極的に育成した 6 。
その経済政策の象徴が、「大津百艘船」の組織化である。これは、大津を拠点とする有力な船主たちに特権を与える代わりに、湖上交通の管理と運営を担わせる制度であった 12 。秀吉は、琵琶湖全体の船を統括する船奉行を任命し、船の大きさに応じた運賃を公定するなど、流通のルール化を推進した 13 。これにより、琵琶湖の水運は豊臣政権の管理下に置かれ、政権の重要な財政基盤の一つとなった。
このように、徳川家康が天下を窺う頃には、大津は信長、秀吉という二人の天下人によってその戦略的価値が見出され、軍事・経済の両面で畿内における最重要拠点の一つとして確立されていた。家康の大津政策は、この豊臣秀吉が築き上げた経済インフラをいかに継承し、自らの支配体制に組み込んでいくかという視点抜きには語れない。秀吉が大津に投じた多大な投資と制度設計は、結果的に、家康による大津宿整備の強固な土台となったのである。
第二章:徳川幕府以前の伝馬制度:戦国大名の遺産
慶長六年に徳川家康が制定した宿駅伝馬制度は、全くの白紙から創造されたものではない。その根底には、戦国時代の約百五十年にわたり、各地の戦国大名たちが領国経営と軍事行動の必要性から、試行錯誤を繰り返しながら培ってきた統治技術の蓄積が存在する。家康の制度は、これらの「戦国時代の遺産」を吸収し、全国規模で体系化した集大成であった。
2.1. 戦国大名による領国支配と独自の伝馬制度
伝馬制度の原型は、律令時代の駅伝制にまで遡ることができるが、一度廃れたこの制度を、より現実的な形で復活させたのが戦国大名たちであった 15 。彼らは、広大化する領国を効率的に支配し、また絶え間ない軍事行動に対応するため、情報伝達と物資輸送の迅速化を最重要課題と捉えていた。その解決策が、領内の街道に宿場を設け、人馬を常備させる独自の伝馬制度の整備であった 17 。
特に東国の戦国大名、甲斐の武田氏や相模の後北条氏は、先進的な伝馬制度を構築していたことで知られる。例えば、武田勝頼が天正三年(1575年)に駿河の蒲原宿に対して発した定書には、極めて詳細な運用ルールが記されている 20 。
- 公用と私用の区別:幕府公用の御朱印状を持つ伝馬は朱印を二つ、私用の場合は一つとすることで、公私の利用を明確に区別した。
- 利用制限と例外規定:一日に提供する伝馬を四疋に制限し、宿場の負担を軽減する一方、「よんどころなき火急の公用」の場合は別命にて対応する柔軟性も持たせた。
- 料金制度の導入:私用で伝馬を利用する者からは、「一里六銭」の口付銭(利用料)を徴収することを定めた。
- 義務と特権:伝馬役を勤める見返りとして、棟別銭などの諸役を免除する規定も盛り込まれていた。
これらの規定は、伝馬制度が単なる賦役ではなく、負担と見返りを組み合わせた、ある程度合理的な制度として運用されていたことを示している。後北条氏もまた、本城である小田原城と各地の支城を結ぶ街道網を整備し、伝馬制によって領国を統制しようと試みていた 18 。
2.2. 軍事・情報伝達を目的としたネットワークの形成
戦国大名が整備した伝馬制度の第一の目的は、軍事的な要求に応えることにあった。本城と前線の支城との間で、兵員や兵糧、武具といった軍需物資を迅速に輸送することは、戦の勝敗を直接左右する 21 。また、敵の動向や戦況といった情報を、一刻も早く中央に伝えるための通信網としても、伝馬は不可欠であった。書状をリレー形式で運ぶ「継飛脚」は、この伝馬ネットワークを利用して機能していたのである 21 。
しかし、これらのネットワークは、あくまで各大名の領国内、あるいは同盟関係にある大名間での限定的な連携に留まっていた 17 。国境を越えれば、伝馬手形の効力は失われ、制度も寸断される。これが戦国時代の伝馬制度の根本的な限界であった。
2.3. 徳川家康による既存制度の吸収と再編
徳川家康もまた、三河の小大名から身を起こし、領国を拡大していく過程で、独自の伝馬制度を整備・運用していたはずである。そして、武田氏や後北条氏といった強大な敵と対峙し、最終的にその領国を併合する中で、彼らが築き上げた先進的な制度を研究し、吸収していったと考えられる。
江戸幕府が創設した宿駅伝馬制度は、こうした戦国時代の伝馬制度が全国的に拡充・整備されたものであった 22 。家康が行ったことの本質的な革新性は、「標準化」と「全国化」にあった。武田氏の定書に見られるような洗練された運用ルールを参考にしつつ、それを特定の一領国に留まらない、全国統一の規格として再構築したのである。
「伝馬は各宿36疋」「積載量は30貫目」「幕府の朱印状があれば無賃」といった全国共通のルールを定め、それを東海道という国家の大動脈全体に適用した 23 。これにより、特定の役人が持つ「朱印状」という一つの「鍵」で、江戸から京までの全ての「扉」、すなわち宿場を開けることが可能になった。これは、地方分権的で断片化されていた戦国の世から、中央集権的で統合された江戸の世への、時代のパラダイムシフトを象徴する制度設計であった。家康は、戦国大名たちが残した遺産を巧みに継承し、それを遥かに壮大なスケールで昇華させることで、自らの天下統一事業の礎としたのである。
第三章:関ヶ原の直後:慶長五年(1600年)の大津と徳川家康
慶長六年正月の「大津宿整備」という政策決定の背景をリアルタイムで理解するためには、そのわずか数ヶ月前、慶長五年秋の緊迫した情勢にまで遡る必要がある。関ヶ原の戦いの前後、大津は歴史の表舞台に躍り出て、徳川家康の国家構想の中でその重要性が決定づけられていくことになる。
3.1. 前哨戦としての「大津城の戦い」とその帰趨
慶長五年七月、徳川家康が会津の上杉景勝討伐のため江戸へ向かうと、石田三成らが挙兵し、天下分け目の戦いの火蓋が切られた 24 。この時、京極高次が城主を務める大津城は、家康方の東軍に属していた。大津城は、西軍の本拠地である大坂城や伏見城と、東軍が東へ向かう東海道・中山道の結節点に位置しており、戦略的に極めて重要な拠点であった。
九月七日、毛利元康を総大将とし、立花宗茂、小早川秀包らが率いる西軍の一万五千もの大軍勢が、逢坂峠を越えて大津城を包囲した 25 。対する京極高次の城兵はわずか三千。高次は籠城を決意し、城下の町家に火を放って徹底抗戦の構えを見せた 25 。圧倒的な兵力差にもかかわらず、高次と城兵は奮戦し、西軍の猛攻を約一週間にわたって食い止めた。
しかし、九月十五日、関ヶ原で本戦が行われ、西軍がわずか半日で壊滅したという報は、まだ大津には届いていなかった。同日、高次はついに降伏勧告を受け入れ、城を開城した 7 。結果的に大津城は落城したが、この籠城戦が西軍の有力武将一万五千の兵力を関ヶ原の本戦に参加させなかったことは、東軍の勝利に極めて大きな影響を与えたと高く評価されている 7 。この戦いの結果、豊臣秀吉が築いた壮麗な大津城は本丸を残して激しく焼亡し、城下の町も焼け野原と化した 25 。
3.2. 勝者・家康の大津城入りと戦後処理
九月十五日の本戦で勝利を収めた徳川家康は、その後の行動として、すぐには京都や大坂へは向かわなかった。彼の軍勢が次に向かった先は、まさに激戦の跡が生々しい大津城であった。家康は、焼け落ちた大津城に入ると、ここに七日間にわたって滞在し、戦後処理の拠点としたのである 7 。
この「大津での戦後処理」は、徳川政権の樹立に向けた最初の、そして最も重要な政治作業であった。ここで行われたのは、西軍に与した大名の所領没収や減封、東軍に味方した大名への論功行賞といった、日本の領土と権力構造を根底から再編する作業であった。家康は、大津城の戦いで功績を挙げた京極高次を若狭小浜八万二千石へ加増転封することを決定するなど、具体的な采配をこの地で振るった 26 。
なぜ家康は、勝利の喧騒が残る関ヶ原や、政治の中心地である京都ではなく、あえて戦火で荒廃した大津城を戦後処理の舞台に選んだのか。それは、大津が京都への最終関門であり、ここを物理的に抑えることが、西国支配を確実にするための第一歩であると深く認識していたからに他ならない。彼はこの地で、勝利の報告を各地から受け、諸将からの使者を迎え、そして膨大な量の指示を全国に発した。この過程で、江戸と京都・大坂を結ぶ安定的かつ高速な通信・輸送路、すなわち兵站線の欠如が、新政権の運営にとって致命的な弱点になりうると痛感したのではないだろうか。大津城の戦いで西軍の大軍に京への道を塞がれた記憶も、まだ生々しい。この大津での実体験こそが、戦後処理における最優先課題の一つとして、交通網の抜本的改革を決意させ、わずか三ヶ月半後に東海道宿駅伝馬制度を発令する直接的な動機となったと推察される。
3.3. 京都・西国監視体制の構築と兵站線確保の緊急性
関ヶ原の戦いが終わっても、豊臣家は依然として大坂城に健在であり、西国には豊臣恩顧の外様大名が多数存在していた。家康にとって、これらの潜在的な敵対勢力をいかに監視し、統制下に置くかが喫緊の課題であった。
そのために家康が講じた策が、京都所司代の設置である 28 。関ヶ原の戦いの直後、家康は江戸幕府を開くよりも先にこの役職を設け、朝廷や公家の監察、そして西国三十三国に及ぶ諸大名の監視という重責を担わせた 28 。京都所司代がその機能を十全に果たすためには、江戸の家康(後の将軍)との間で、迅速かつ緊密な情報連携が不可欠であった。
また、家康自身も江戸を本拠としつつ、京都での拠点として伏見城を再建し 31 、さらには朝廷との交渉や上洛時の宿所として二条城の築城を開始する 33 。これらの西国支配の拠点と、江戸とを結ぶ確固たる幹線道路の整備は、もはや一刻の猶予もならない国家的急務となっていた。大津は、まさにその幹線道路が京都に入る直前の最後の結節点であり、その整備は、家康の新たな天下統治システムの根幹をなすものであった。
第四章:慶長六年(1601年)正月、大津宿整備の発令
関ヶ原の戦いからわずか三ヶ月半後、年が明けた慶長六年正月、徳川家康は矢継ぎ早に新時代の政策を打ち出す。その中でも、国家の骨格を形成する上で最も重要な意味を持ったのが、東海道宿駅伝馬制度の制定であった。この全国規模の交通改革の中で、大津は焼け跡からの復興と、新たな役割を担うための再編を同時に進められることとなった。
4.1. 全国支配の第一歩:東海道宿駅伝馬制度の制定
家康は、全国支配の基盤固めとして、まず江戸と京・大坂を結ぶ二大幹線路である東海道と中山道の整備に着手した 35 。その第一弾として、慶長六年正月に東海道の各宿場を指定し、公用のための人馬を提供する伝馬制度を開始したのである 3 。
この制度は、江戸の日本橋を起点とし、京都の三条大橋に至るまでの街道沿いの集落を「宿場(宿駅)」として公的に指定するものであった 15 。当初指定された宿場の数は三十七宿程度であったとされるが 37 、その後、宿場間の距離を平均化するためなどに増設が繰り返され、最終的に「東海道五十三次」として知られる形に整えられていく 4 。さらに、元和年間には大坂まで延長され、「東海道五十七次」が完成した 1 。大津宿は、この長大なリレーシステムの京都手前の最終走者として、極めて重要な役割を担うことになった。
4.2. 「伝馬朱印状」と「伝馬定書」:制度の具体的内容と宿場の義務・特権
この新制度を全国規模で円滑に運用するため、家康は各宿場に対して「伝馬朱印状」と「伝馬定書」という二つの公文書を下付した 2 。
「伝馬朱印状」は、その宿場が幕府公認の宿駅であることを証明する認可状であり、将軍の朱印が押されていた 2 。一方、「伝馬定書」は、宿場が果たすべき具体的な義務を箇条書きで示した指令書であった 23 。その主な内容は以下の通りである。
- 伝馬の常備義務: 各宿場は、公用のために常に36疋の伝馬(輸送用の馬)を用意しておくことが義務付けられた 23 。この数は後に交通量の増大に伴い、人足百人・伝馬百疋へと拡充されることになる 39 。
- 積載量の規定: 輸送の効率化と馬への負担を考慮し、伝馬一頭あたりの積載量は当初30貫目(約112.5キログラム)と厳密に定められた 23 。これも後に40貫目(約150キログラム)に改定されている 23 。
- 宿役人の設置と運営: 宿場には問屋場(といやば)と呼ばれる業務の中核施設が置かれ、問屋(といや)・年寄といった宿役人が、幕府公用の人馬の継ぎ立て業務(リレー輸送の手配)や、公用書状の継ぎ送り(継飛脚)などを取り仕切った 23 。
- 地子免許の特権: これら公役の重い負担を課す見返りとして、宿場内の家屋敷にかかる地子(現在の固定資産税に相当する税)が免除されるという経済的な特権が与えられた 23 。これにより、宿場は公役を担う一方で、一般の旅人向けの旅籠や商店を経営することで経済的に成り立たせる仕組みが作られた 15 。
この統一された規格と、義務・特権を明確にした制度設計こそが、戦国大名の伝馬制度を越える、徳川幕府の革新性であった。
比較項目 |
戦国大名の伝馬制度(代表例) |
徳川幕府の伝馬制度(慶長6年時点) |
目的 |
主に軍事行動・領内通信 18 |
幕府公用(軍事・行政・通信)、全国規模 2 |
範囲 |
領国内に限定、同盟国間での連携に留まる 17 |
東海道全域(後に五街道へ拡大) 1 |
規格 |
大名ごとに不統一(朱印の形式、料金など) 20 |
全国統一規格(伝馬数36疋、積載量30貫目など) 23 |
運営主体 |
大名直轄、宿場・村落への賦役 18 |
幕府(道中奉行)、宿場への義務化 22 |
法的根拠 |
個別の定書、朱印状 20 |
全国一斉の「伝馬朱印状」「伝馬定書」 2 |
経済的措置 |
棟別役の免除など限定的 20 |
地子免許(土地税の全面免除)による明確な経済的誘因 23 |
4.3. 大津宿の指定:京への最終拠点としての再定義と機能強化
慶長六年、家康は戦火で焼失した大津城の廃城を決定する 7 。軍事拠点としての大津の役割は、琵琶湖の対岸に新たに築かれる膳所城に引き継がれた 43 。大津城の天守は縁起の良い城として彦根城に、その他の部材は膳所城の資材として移築・再利用された 7 。
この大津城の廃城と、大津宿の整備は、一体不可分の政策であった。家康にとって、大津はもはや豊臣恩顧の大名が拠る軍事拠点である必要はなかった。むしろ、幕府が直接管理する物流・情報・監視の拠点としての機能が求められたのである。城を廃し、その跡地に大津代官所や幕府の年貢米を保管する御蔵を置くことで、家康は大津の支配権を完全に幕府直轄とした 6 。
その上で、宿駅制度という全国ネットワークの最重要ターミナルとして、大津に新たな役割を与えた。豊臣時代の城下町の町割りを基礎としながら、東海道の宿場町としての機能(本陣、脇本陣、旅籠、問屋場など)が大幅に強化され、「大津百町」と呼ばれる広大な町並みが形成されていった 11 。これは、戦国的な軍事力による「点の支配」から、近世的な法制度と経済による「線の支配」への転換を象徴する事業であり、大津という場所でその歴史的な転換が実行されたのである。
第五章:大津宿整備の多層的意義
慶長六年の大津宿整備、そしてそれに連なる東海道宿駅伝馬制度の確立は、単に人や物の移動を円滑にしただけではない。それは、徳川幕府の二百六十年にわたる長期安定支配を可能ならしめた、極めて多層的な意義を持つ国家的な布石であった。その影響は、軍事・政治、経済・物流、そして社会秩序の形成という、国家の根幹をなすあらゆる側面に及んだ。
5.1. 軍事・政治的統制の強化
第一に、この交通網は幕府による全国統治を物理的、政治的に支える大動脈であった。江戸時代前期に作成された東海道の絵図を見ると、その起点が日本橋ではなく江戸城大手門、終点が三条大橋ではなく二条城として描かれているものがある 33 。これは、東海道が何よりもまず、江戸の幕府中枢と、京都に置かれた幕府の出張所(二条城)や西国支配の拠点(京都所司代)とを直結させるための、政治的・軍事的路線として構想されたことを示唆している。
京都所司代は、朝廷や西国大名の動向を常に監視し、不穏な動きがあれば即座に江戸へ報告する必要があった 28 。宿駅伝馬制度によって整備された継飛脚は、この情報伝達の速度を飛躍的に向上させた 23 。幕府は、江戸・京都・大坂間で圧倒的な情報伝達速度を手に入れることで、常に政治の主導権を握ることができた。江戸での決定事項は迅速に全国へ伝わり、各地からの報告は素早く中央に集まる。一方で、大名間の私的な通信や連携は、この公的なネットワークに比べて著しく不利になる。この「情報の非対称性」は、幕府が常に先手を打ち、諸大名を後手に回らせることを可能にした。交通網の支配は、情報の支配であり、ひいては政治的優位性を確立するための決定的な手段だったのである。
さらに、この制度は後に寛永十二年(1635年)に制度化される参勤交代のインフラとして、決定的に重要な役割を果たした 39 。全国の諸大名が定期的に江戸と国元を往復するためには、安全で規格化された街道と、宿泊や人馬の継ぎ立てを行う宿場の存在が不可欠であった。参勤交代は、大名の経済力を削ぎ、妻子を江戸に住まわせることで、幕府への忠誠を制度的に担保するものであり、宿駅制度はその土台を支えるものであった。
5.2. 経済・物流網の掌握
第二に、宿駅制度は全国的な経済・物流網の骨格を形成し、幕府による経済支配の基盤を築いた。五街道をはじめとする全国の街道網は、公用だけでなく、民間の経済活動にも多大な恩恵をもたらし、沿道の宿場町の繁栄を促した 46 。
特に大津宿は、その恩恵を最も受けた宿場の一つであった。前述の通り、大津は琵琶湖水運との結節点である。宿場町としての機能が強化されたことで、北国や若狭から敦賀・海津といった港を経由して琵琶湖を渡ってきた米、海産物、その他の物産が、大津で東海道の陸上輸送システムに効率的に接続されるようになった 5 。これにより、大津は名実ともに日本海側と太平洋側を結ぶ物流の一大ハブとなり、全国市場の形成を力強く促進した。家康は、豊臣秀吉が築いた大津の経済的ポテンシャルを最大限に活用し、それを自らの全国経済網の中核に据えたのである。
5.3. 「戦国の世」から「天下泰平」への秩序形成
第三に、交通網の整備は、人々の意識の中に新しい時代の秩序を植え付け、戦国の世から天下泰平の世への転換を可視化する役割を果たした。街道の要所には箱根や新居といった関所が設けられ、「入り鉄砲に出女」に象徴されるように、武器の流入や大名の人質の逃亡が厳しく監視された 23 。これは、交通の利便性向上が、幕府による厳格な統制と表裏一体であったことを示している。
また、全国に統一された伝馬制度というルールを適用し、幕府発行の朱印状一つで誰もが(公用であれば)定められたサービスを受けられるようにしたことは、徳川の権威が日本の隅々にまで及んでいることを具体的に示すものであった。戦国時代のように、大名ごとに異なるルールや、国境ごとに寸断される交通網は過去のものとなった。誰もが同じ規則に従って旅をするという経験を通じて、人々は徳川幕府という新たな中央権力の下にある統一国家の一員であるという意識を、徐々に内面化していったのである。大津宿の整備は、こうした新しい社会秩序を形成していく上での、重要な一歩であった。
第六章:整備後の大津宿:繁栄と変容
慶長六年の整備を契機として、大津宿は徳川の泰平の世を謳歌し、未曾有の繁栄を遂げることとなる。宿場町、港町、そして三井寺の門前町という三つの顔を持つこの町は、人、物、文化が交差する活気に満ちた大都市へと発展した。その繁栄は、家康の政策がもたらした具体的な成果であり、また、その政策の意図を超えて、町が自律的に発展していくダイナミズムの証でもあった。
6.1. 東海道最大の宿場町・港町としての隆盛
江戸時代を通じて、大津宿は東海道五十三次の中でも屈指の規模を誇る宿場町へと成長した。天保十四年(1843年)の記録である「中山道宿村大概帳」によれば、大津宿の規模は家屋3650軒、人口は一万数千人に達し、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠は71軒を数えた 47 。これは、他の宿場を圧倒する規模であり、五十三次中最大であったとされている 47 。
この繁栄を支えたのは、宿場町としての機能だけではない。琵琶湖水運の玄関口としての港町の機能が、他の宿場にはない経済的な活況をもたらした。北国街道と東海道が交わる札の辻は、高札が立てられる幕府の公示の場であると同時に、多くの人々や物資が行き交う町の中心として賑わった 11 。歌川広重が描いた浮世絵「東海道五十三次之内 大津」には、京から逢坂の峠を越えてきた旅人や、荷物を満載した牛車がひしめく活気ある町の様子が生き生きと描かれている 50 。
6.2. 本陣・脇本陣の設置と「大津百町」の賑わい
大津宿には、大名や公家、幕府の役人といった身分の高い人々が宿泊・休憩するための施設として、大塚嘉右衛門家と肥前屋(後に天主町)の二軒の本陣が設けられた 48 。特に大塚本陣は三階建ての楼閣を持ち、そこから望む琵琶湖の眺めは絶景であったと伝えられている 48 。これらの本陣は、参勤交代で往来する大名行列などで頻繁に利用され、町の格式と経済を支える重要な施設であった。
宿場町と港町の機能が融合して発展した大津の町並みは、百近くの町(ちょう)で構成されていたことから、「大津百町」と総称された 11 。元禄八年(1695年)に作成された絵図からは、各町に多くの商家や職人が住み、活発な経済活動が営まれていた様子が窺える 45 。
6.3. 大津絵、大津算盤、車石:宿場が生んだ文化と技術
大津宿の繁栄は、独自の文化と技術を生み出した。
- 大津絵: 東海道を旅する人々向けの土産物として、神仏や人物、動物などを素朴で風刺的に描いた民画「大津絵」が生まれた 54 。当初は仏画として信仰的な意味合いを持っていたが、次第に道歌を添えた教訓画や風刺画として人気を博し、大津の名物として全国に知られるようになった。
- 大津算盤: 江戸時代初期、長崎に伝来した算盤の製法を、大津の住人であった片岡庄兵衛が習得し、日本流に改良したことから「大津算盤」の歴史が始まった 47 。大津は算盤の玉の材料となる木材が入手しやすかったこともあり、江戸時代を通じて全国の算盤製造を一手に引き受ける一大産地として栄えた。
- 車石: 大津宿の経済的発展を象徴するのが「車石(くるまいし)」の存在である。大津の港に荷揚げされた米などの重い物資は、牛車によって京へと運ばれたが、その道のりには急な逢坂の峠があった。雨が降れば道はぬかるみ、牛車の通行は困難を極めた。この問題を解決するため、牛車の車輪が通る幅に合わせて、花崗岩の石畳を二列に敷設する工事が行われた 47 。この「車石」は、大津から京都までの約12キロメートルにわたって整備されたとされ、当時としては画期的なインフラであった。
この「車石」の存在は、大津宿が幕府の想定を超えるほどの物流拠点へと成長したことを示す何よりの物証である。宿駅伝馬制度は、あくまで幕府の公用通行を円滑にするためのトップダウンの政策であった。しかし、「車石」は、公用だけでなく、民間、特に大津港に荷揚げされる膨大な物資を運ぶ牛車輸送が爆発的に増加したことへの、現場からのボトムアップの対応策であった。増え続ける交通量という「需要」に対し、現地の人々が知恵と資金を出し合って生み出したイノベーションである。これは、慶長六年の「整備」が、単なる制度の導入に終わらず、大津が本来持っていた経済的ポテンシャルを解放し、幕府の当初の想定すら超えるほどの物流ハブへと自己増殖的に発展させる、強力な起爆剤となったことを物語っている。
結論:徳川二百六十年の礎としての大津宿整備
慶長六年(1601年)の「大津宿整備」は、徳川家康が描いた天下統一事業の全体像の中で、極めて重要な画期をなす事象であった。本報告書で詳述した通り、それは単発の都市開発や交通政策に留まるものではなく、戦国時代の統治経験を昇華させ、関ヶ原直後の緊迫した政治的・軍事的要請に応える形で断行された、新時代の国家建設の宣言であった。
戦国時代という視点から見れば、家康の宿駅伝馬制度は、武田氏や後北条氏などが領国経営のために築いた既存のシステムを継承し、それを「全国化」と「標準化」という二つの概念によって質的に飛躍させたものであった。これにより、断片的で相互不換であった戦国の交通網は、幕府の権威の下に統一された、予測可能で効率的な全国ネットワークへと再編された。
関ヶ原の戦い直後のリアルタイムな状況を追うと、家康が戦勝後すぐに大津に入り、そこで戦後処理を行ったという事実が浮かび上がる。この地で、江戸と西国を結ぶ兵站線の脆弱性を痛感したであろう家康が、わずか三ヶ月半後に東海道全体の制度改革に着手したことは、彼の政策決定が現実の要請に即した、極めて迅速かつ的確なものであったことを示している。
そして、豊臣秀吉が築いた軍事拠点・大津城を廃し、その跡地と城下町を幕府直轄の宿場町・港町として再編した一連の措置は、統治の哲学そのものの転換を象徴していた。それは、武力による「点」の支配から、法と制度、そして経済による「線」と「面」の支配への移行であり、来るべき二百六十年の泰平の世の統治原理を具体化したものであった。
大津宿整備によって、この地は東海道最大の宿場として空前の繁栄を遂げ、大津絵や車石といった独自の文化と技術を生み出した。それは、幕府の敷いた制度というレールの上で、民間の経済活力が花開いた結果であった。家康の構想は、大津という一点の整備に留まらず、日本の大動脈を掌握し、政治・軍事・経済・情報の全てにおいて幕府の絶対的優位を確立する、壮大な国家インフラ構築の始まりであった。慶長六年の大津における決断と実行なくして、その後の江戸幕府の長期安定政権はあり得なかったであろう。まさしく、この事業は徳川二百六十年の礎そのものであったと言える。
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