最終更新日 2025-09-29

大溝城築城(1571)

元亀2年、織田信長は琵琶湖掌握戦略の一環として、明智光秀に大溝城築城を命じた。湖西の要衝に位置し、水運を活用したこの水城は、信長の先進的な国家構想を体現。本能寺の変で信澄自害、城は廃城。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

湖西の掌握:織田信長「琵琶湖城郭ネットワーク」の完成と大溝城築城の全貌(1571年-1582年)

序章:湖西の要衝、大溝 — 築城前史

織田信長の天下統一事業において、近江国の掌握は最重要課題であった。その戦略の要諦をなすのが、琵琶湖を巨大な内海として支配下に置くことであった。天正六年(1578年)、湖西の地に築かれた大溝城は、この壮大な構想を完成させるための最後の、そして決定的な一手であった。しかし、この築城という事象を理解するためには、時計の針をその7年前にまで戻し、この地が持つ地理的・歴史的背景を深く掘り下げる必要がある。

地理的・戦略的重要性

大溝、現在の滋賀県高島市勝野に位置するこの地は、古代より地政学的に極めて重要な意味を持っていた。京の都から若狭、越前、そして北陸諸国へと抜ける古代北陸道、後の西近江路がこの地を貫き、同時に琵琶湖水運の要港「勝野津」を擁していた 1 。日本海で水揚げされた海産物や北陸からの物資は、敦賀から陸路で塩津港へ運ばれ、そこから湖上を船で大津へと輸送された 4 。大溝(勝野津)は、この物流の大動脈における主要な中継地であり、陸路と水路が交差する交通の結節点として、経済的にも軍事的にも大きな価値を有していたのである 1

この地理的優位性は、信長の戦略眼を強く惹きつけた。彼の天下統一事業は、単なる軍事的な征服に留まらなかった。関所の撤廃や楽市楽座に見られるように、物流と経済を活性化させ、それを支配の基盤とすることに本質があった 5 。当初、信長の近江支配は敵対勢力の城を個別に攻略する「点の支配」に主眼が置かれていたが、浅井・朝倉との戦いが長期化するにつれ、兵站線であり経済路でもある琵琶湖水運と西近江路という「線」を恒久的に掌握する必要性が浮上した。大溝という陸と水の交通路が交わる地に城を築くという構想は、まさにこの戦略思想の進化を象徴するものであった。それは、信長の事業が軍事フェーズから、経済と統治を統合した高度な領国経営フェーズへと移行しつつあったことの物理的な証左と言える。

戦国期以前の支配構造

戦国時代、高島郡は近江守護・佐々木氏の流れを汲む在地領主たちによって分割統治されていた。彼らは「高島七頭」と総称され、地域の支配構造を形成していた 6 。しかし、北近江に浅井氏が台頭すると、高島郡もその勢力圏に組み込まれ、浅井氏の支配下で在地勢力が存続するという複雑な状況が続いていた 6 。永禄十一年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たすと、近江の情勢は一変する。信長は当初、浅井長政と妹・お市の方を介した同盟関係を結ぶことで近江の安定を図ったが、元亀元年(1570年)の越前朝倉氏攻めを機に浅井氏が離反。これにより、近江、特に湖北・湖西地域は、信長の天下統一事業における最前線へと変貌を遂げたのである。

第一章:元亀二年(1571年)— 近江制圧の分水嶺

利用者によって提示された「1571年」という年は、大溝城が直接築かれた年ではない。しかし、この年は後の大溝城築城の戦略的・政治的背景を決定づけた、極めて重要な転換点であった。元亀二年(1571年)に敢行された「比叡山焼き討ち」は、単なる懲罰的な軍事行動に非ず、信長による近江支配、特に湖西地域の支配体制を根底から再編し、「琵琶湖城郭ネットワーク」構想の起点となった画期的な事件だったのである。

焼き討ちの背景

元亀元年の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利したものの、信長は彼らの抵抗に苦慮し続けていた。その抵抗の大きな支えとなっていたのが、比叡山延暦寺であった。延暦寺は、浅井・朝倉の残党を匿い、物心両面で支援していた 5 。当時の延暦寺は、単なる宗教施設ではなかった。数千の僧兵を擁する武装勢力であると同時に、広大な荘園や湖上の関から莫大な利益を上げる一大経済主体でもあった 5 。信長が進める関所の廃止や商業の自由化といった政策は、延暦寺の既得権益と根本的に対立するものであり、両者の衝突はもはや避けられない状況にあった。

【時系列解説】比叡山焼き討ち(元亀二年九月)

信長の怒りが頂点に達し、近江の支配構造を塗り替える歴史的事件の幕が切って落とされた。

  • 九月十一日: 織田軍の陣中にて軍議が開かれる。重臣の一人、池田恒興が「夜になれば逃げる者も出るでしょう。早朝を待って攻めれば一人残らず討ち取れます」と進言。信長はこれを容れ、総攻撃を翌早朝と定めた 10
  • 十一日夜: 信長は三万と号する大軍を比叡山の東麓、坂本から山中にかけて隙間なく配置。この動きを察知した延暦寺側は、黄金を差し出して攻撃の中止を嘆願するが、信長はこれを一切受け付けず、峻拒した 10
  • 九月十二日: 夜明けと共に、信長は全軍に総攻撃を命令。織田軍は坂本の町から一斉に火を放ち、その炎は瞬く間に山王二十一社や西教寺、そして延暦寺の根本中堂をはじめとする四千五百もの堂塔伽藍を飲み込んでいった 9 。『信長公記』などが伝えるその様相は凄惨を極め、織田軍は僧侶、学僧、さらには逃げ惑う女子供に至るまで見つけ次第首を刎ね、犠牲者は三千から四千人にのぼったと記録されている。比叡山から立ち上る黒煙は、四日間にわたって京の都からも見えたという 10

焼き討ち後の近江支配体制の再編

この徹底的な殲滅戦により、信長の支配に抵抗してきた湖西の一大権威は物理的に消滅した。焼き討ち以前、琵琶湖西岸は信長に従わない独立勢力によって押さえられていたが、この事件によって一種の「権力の空白地帯」が生まれた。信長はこの機を逃さず、自らの意のままに支配体制を再構築する。

焼き討ち後、信長は延暦寺の広大な所領を没収し、佐久間信盛をはじめとする諸将に分配した 11 。そして、この作戦を冷徹に実行した明智光秀に対し、延暦寺の膝元であった近江国滋賀郡を与え、その支配拠点として坂本城の築城を命じたのである 12 。坂本城の築城は、単に延暦寺の残党を監視するという戦術的な目的だけでなく、琵琶湖南西の交通の要衝を抑え、湖上交通を管制するという、より大きな戦略的意図を持っていた。旧来の権威を徹底的に破壊し、その跡地に能力主義で登用した腹心の将を配置し、最新鋭の城を築かせる。この一連の動きは、信長が近江に旧来の秩序とは全く異なる、自身を頂点とする新しい支配システムを導入する強い意志の表れであった。そしてこの坂本城こそ、湖の対岸(後の安土)、北岸(後の長浜)、そして西岸(後の大溝)を城で結び、琵琶湖全体を掌握する壮大な構想の、記念すべき第一歩となったのである。

第二章:琵琶湖掌握戦略と高島郡の動向(1571年〜1578年)

比叡山焼き討ちから大溝城築城までの7年間は、信長の「琵琶湖城郭ネットワーク」構想が着々と具体化していく期間であった。そしてその最終段階において、高島郡という最後のピースを埋めるため、信長による計画的な人事介入が行われる。これが、大溝城築城の直接的な引き金となった。

「琵琶湖城郭ネットワーク」構想の進展

坂本城の築城開始(1571年)に続き、天正元年(1573年)に浅井氏を滅ぼした信長は、北近江の今浜(後の長浜)を羽柴秀吉に与え、長浜城を築かせた 3 。これにより、琵琶湖の北岸が掌握される。さらに天正四年(1576年)には、信長自身の居城として、湖の東岸中央に安土城の築城を開始 16 。安土城は、単なる居城ではなく、琵琶湖全体を見渡し、ネットワーク全体を統括する司令塔としての機能が与えられていた。

坂本城、長浜城、安土城。これらの城には明確な共通点があった。いずれも湖岸に築かれて港湾機能を取り込み、主要な街道にも近接している 15 。これは偶然ではなく、信長による計画的な配置であったことを示している。湖上交通を制する者が近江を制し、ひいては天下を制するという信長の確固たる戦略思想が、城の配置そのものに現れていた。

高島郡の支配者・磯野員昌

この時点で、信長のネットワーク構想において唯一、直轄化が完了していない戦略的要衝が、安土城の対岸にあたる高島郡であった。この地は、元亀年間に浅井氏から寝返り織田方についた猛将・磯野員昌が、新庄城を居城として支配していた 6 。員昌は織田家中でも一定の評価を受けていたが、その出自はあくまで元浅井家の重臣であり、外様の将であった。信長の支配体制が完成に近づくにつれ、このような不確定要素を排除し、より信頼の置ける一門衆による直接支配を強化する必要性が高まっていた。

【時系列解説】磯野員昌の出奔(天正六年二月)

天正六年(1578年)二月、事態は急展開を迎える。磯野員昌が突如として出奔し、高野山に隠棲するという事件が起こった 8 。この不可解な行動の背景には、信長の強い圧力が存在したとする説が有力である。信長は員昌に対し、自身の甥である織田信澄(津田信澄)に家督と高島郡の所領を譲り渡し、隠居するよう強要したという 18 。現役での活躍を望む員昌がこれを拒んだため、信長の叱責を受け、身の危険を感じて逐電したというのが、事の真相に近いと見られている。

この事件は、単なる偶発的な人事トラブルではない。信長の琵琶湖掌握戦略の最終段階における、計画的な人事介入と見るべきである。坂本(光秀)、長浜(秀吉)、安土(信長)の配置が完了し、残る湖西の要衝を外様の員昌から取り上げ、血族である信澄に与えることで、琵琶湖を完全に織田家の「内海」とする。磯野員昌の出奔は、信長が自らの戦略構想を完成させるために、能動的に作り出した状況だったのである。


表1:大溝城築城に至る近江・高島郡の時系列年表(1570年〜1582年)

西暦

和暦

主要な出来事

関連人物

琵琶湖周辺の動向

1570年

元亀元年

6月

姉川の戦い。織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に勝利。

織田信長, 浅井長政, 磯野員昌

浅井氏の勢力が後退するも、湖西・湖北での抵抗は続く。

1571年

元亀二年

9月

比叡山焼き討ち 。信長、浅井・朝倉方を支援する延暦寺を殲滅。

織田信長, 明智光秀

湖西における延暦寺の権威が失墜。信長による直接支配の道が開かれる。

明智光秀、滋賀郡を与えられ 坂本城 の築城を開始。

明智光秀

「琵琶湖城郭ネットワーク」構想の起点となる。

1573年

天正元年

8月

小谷城が落城し、浅井氏が滅亡。

織田信長, 羽柴秀吉

北近江が織田家の支配下に入る。

1574年

天正二年

-

羽柴秀吉、今浜の地を与えられ 長浜城 の築城を開始。

羽柴秀吉

湖北の要衝がネットワークに組み込まれる。

1576年

天正四年

-

織田信長、 安土城 の築城を開始。

織田信長

琵琶湖東岸にネットワーク全体の司令塔が建設される。

1578年

天正六年

2月

磯野員昌、信長の叱責を受け高島郡から出奔。

磯野員昌, 織田信長

高島郡の支配者が不在となり、信長による人事介入の機会が生まれる。

2月3日

織田信澄、高島郡を与えられ、 大溝城 の築城を命じられる。

織田信澄, 明智光秀

安土城の対岸に最後の拠点が築かれ、ネットワークが完成する。

1582年

天正十年

6月2日

本能寺の変。織田信長が自害。

織田信長, 明智光秀

織田政権が崩壊。

6月5日

織田信澄、明智光秀の娘婿であることを理由に大坂城で自害。

織田信澄, 織田信孝

大溝城は築城からわずか4年で城主を失う。


第三章:天正六年(1578年)— 大溝城築城の胎動と実行

磯野員昌の出奔によって生じた高島郡の権力の空白は、信長によって即座に、そして計画的に埋められた。ここから大溝城の築城プロジェクトは、織田政権の合理的かつ効率的な組織運営能力を背景に、驚くべき速さで実行に移される。

【時系列解説】築城命令から着工まで

  • 天正六年(1578年)二月三日: 磯野員昌が出奔してから、わずかな時日しか経っていないこの日、信長は甥の織田信澄(津田信澄)に近江国高島郡を与え、大溝の地に新たな城を築くことを命じた。『寛政重修諸家譜』には「天正六年二月三日近江國大溝の城をたまはる」と明確に記されており、信長の意思決定がいかに迅速であったかがわかる 1

信澄は、信長の弟でありながら謀反の末に誅殺された織田信行(信勝)の子という複雑な出自を持っていた 8 。しかし、信長は信澄を許し、一門衆として重用した。この人選には、一族内の融和を図ると同時に、琵琶湖西岸という戦略的要地を血族で固めるという、信長の深謀遠慮が見て取れる。信長は信澄に対し、員昌の居城であった内陸の新庄城から、より琵琶湖に近く交通の便に優れた大溝へ拠点を移すよう指示した 1 。これは、新たな統治拠点が、湖と街道を一体として管理する機能を持つべきであるという明確な意図の表れであった。

設計者・明智光秀の役割

この重要な新城の縄張(設計)を担当したのが、明智光秀であったと伝えられている 16 。光秀は、7年前に築城を開始した坂本城において、琵琶湖の水を巧みに利用した水城建設の高い技術と実績をすでに示していた 15 。信長がこの一大プロジェクトの技術責任者として光秀を抜擢したのは、当然の判断であった。坂本城と大溝城は、同じ設計思想の下に生まれた、いわば姉妹城のような関係にあったと言えるだろう。

大溝城の築城プロセスは、信長、光秀、信澄という三者の明確な役割分担によって進められた、合理的かつ効率的なプロジェクトマネジメントの実践例であった。

  1. 信長(最高意思決定者): 全体戦略(琵琶湖ネットワーク)を構想し、最適な場所(大溝)と人材(信澄、光秀)を選定し、迅速に政治的決断を下した。
  2. 光秀(技術責任者/アーキテクト): 坂本城で培った水城設計の専門知識を活かし、現地の地理的条件を最大限に利用した最先端の城郭を設計した 16
  3. 信澄(現場責任者/領主): 新城主として築城工事全体を監督すると同時に、城下町の整備や在地勢力の掌握といった、新たな領国統治の業務を遂行した 7

この有機的な連携は、個人の武功に依存する旧来の城作りとは一線を画すものであり、織田政権の先進的な組織運営能力と、大規模なインフラ事業を遂行する力を如実に示している。

築城工事と城下町の形成

築城工事が開始されると、統治機能は新庄城から大溝へと移された 1 。築城と並行して、信澄は高島郡内から商家や寺院を計画的に移転させ、城の北側に新たな城下町を造成した 26 。これは、単なる軍事拠点の建設ではなく、軍事・経済・行政の機能を一体化した新しい都市を創造する、織田政権下で確立された先進的な都市計画であった。現存する『織田城郭絵図面』によれば、城の堀に沿って侍町通りが巡り、そこには信澄の家臣団の屋敷が配置されていた 7 。注目すべきは、その家臣団の中に、かつてこの地を支配した高島七頭の一族である朽木氏や永田氏の名が見られることである 7 。これは、信澄が旧来の在地勢力を単に排除するのではなく、巧みに自らの支配体制に組み込むことで、安定した統治を実現しようとしていたことを示唆している。

第四章:明智光秀の縄張り — 水城「鴻溝城」の構造と機能

明智光秀の設計による大溝城は、戦国末期の築城技術の粋を集めた、機能美あふれる水城であった。その構造は、防御一辺倒の旧来の要塞とは異なり、軍事・兵站・経済の機能を高度に統合した「多機能戦略拠点」としての性格を色濃く持っていた。これは、信長の天下統一事業を支えるハードウェアの一つの集大成と言えるものであった。

水城としての設計思想

大溝城の最大の特徴は、琵琶湖に隣接する広大な内湖「乙女ヶ池」(古称:洞海)を、天然の外堀として巧みに防御システムに取り込んだ点にある 22 。これにより、大規模な掘削工事を行うことなく、極めて高い防御力を確保することに成功した。その壮大な水の守りから、大溝城は「鴻溝城」とも呼ばれた 3 。この設計思想は、光秀が坂本城で培ったノウハウを、大溝の地形に合わせて最適化した結果であった。

城郭の構造と発掘調査の成果

古絵図や発掘調査によれば、城郭は天守台を持つ本丸を中心に、その南に二の丸、西側に三の丸が配置される梯郭式の縄張りであったと推定されている 6

近年の発掘調査は、この水城の具体的な姿を次々と明らかにしている。

  • 石垣と規模: 昭和五十八年(1983年)以降、複数回にわたって実施された調査で、本丸や二の丸の石垣が検出された 1 。これにより、本丸の東西規模が約58メートルであることが判明している 29 。石垣は、自然石をあまり加工せずに積み上げる「野面積み」という、安土城などにも見られる当時の先進的な技法で築かれていた 24
  • 船着き場の発見: 平成二十七年度(2015年)以降の調査では、本丸の北端部で石垣がクランク状にほぼ直角に折れ曲がる遺構が発見された 29 。この構造は、琵琶湖から直接船を着け、荷揚げや人の乗り降りができるように設計された「船着き場」の跡である可能性が極めて高い 29 。これは、大溝城が湖上交通のハブ拠点として明確に設計されていたことを示す決定的な物証である。
  • 安土城との関連: 本丸跡からは、安土城で出土したものと同じ鋳型で作られた「同笵瓦」が発見されている 20 。これは、大溝城が織田政権の直轄プロジェクトとして、安土城と共通の資材・技術を用いて建設されたことを物語っている。単なる技術共有以上に、大溝城が安土城を中心とする織田政権の規格化されたインフラの一部であり、信長の直接的な意志が隅々にまで及んでいたことの証左である。

戦略的機能

大溝城に与えられた役割は多岐にわたっていた。

  • 軍事機能: 若狭街道を監視し、若狭・越前方面からの敵の侵攻に備える最前線基地としての役割があった。有事の際には、狼煙を上げて対岸の安土城に急を知らせ、信長本隊が湖上を船で駆けつけるという連携が想定されていたとされる 20
  • 交通・経済機能: 船着き場の存在が示すように、琵琶湖の水運を完全に掌握し、人、物資、情報の流通をコントロールする「琵琶湖城郭ネットワーク」の西の拠点として、坂本城、長浜城、安土城と連携し、湖全体を管制する役割を担った 15

このように、大溝城の構造を分析することは、信長の先進的な国家構想、すなわち軍事力と経済力を両輪として天下を動かすというビジョンを、具体的な城郭建築から読み解くことにつながるのである。

第五章:本能寺の変と大溝城の落日(1582年〜)

天正六年(1578年)に産声を上げた大溝城と、城主・織田信澄の栄光は、しかし長くは続かなかった。築城からわずか4年後、天正十年(1582年)に勃発した本能寺の変は、彼らの運命を根底から覆す。信長という絶対的な中心を失った織田政権の崩壊は、一つの城の運命を激動の渦に巻き込み、その後の権力移行の様相を象徴的に映し出すこととなる。

【時系列解説】本能寺の変と織田信澄の最期(天正十年六月)

  • 六月二日: 早朝、明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に滞在中の織田信長を急襲。信長は奮戦の末、自害して果てた 33 。この時、大溝城主・織田信澄は、羽柴秀吉の中国攻めを支援するため、信長の三男・織田信孝と共に大坂に在陣していた 8
  • 六月五日: 悲報が大坂にもたらされる中、信澄にとって致命的だったのは、彼が謀反人・明智光秀の娘を正室に迎えていたことであった 20 。この一点をもって、信孝と、信長年来の重臣であった丹羽長秀は、信澄に共謀の疑いをかける。
  • 同日、信孝と長秀の軍勢は、信澄が滞在していた大坂城千貫櫓を包囲し、攻撃を開始。弁明の機会も与えられぬまま窮地に陥った信澄は、防戦の末、もはやこれまでと覚悟を決め、自害に追い込まれた 8 。享年25(あるいは28とも)。築き上げたばかりの城と領地、そして未来を、伯父殺しの濡れ衣と共に失うという悲劇的な最期であった。

激動の城主交代劇

信澄の死後、大溝城は主を失い、戦国末期の政治的混乱を象徴するかのように、目まぐるしく城主を変える。信長が築いた秩序がいかに彼個人のカリスマに依存していたか、そしてその崩壊がいかに激しい権力闘争を招いたかを、この城の歴史は物語っている。


表2:大溝城主の変遷(1578年〜1595年頃)

在城期間(西暦)

城主

背景・特記事項

1578年 - 1582年

織田 信澄

築城主。本能寺の変後、明智光秀の娘婿であったため自害に追い込まれる 8

1582年 - 1583年

丹羽 長秀

信澄討伐に関与。一時的に支配下に置く。代官として植田重安が入城 1

1583年 - 1585年

加藤 光泰

賤ヶ岳の戦いの後、羽柴(豊臣)秀吉の支配下に入り、秀吉配下の光泰が城主となる 8

1585年 - 1586年

生駒 親正

加藤光泰の転封に伴い、秀吉の命令で入城。期間は短かった 8

1587年 - 1590年

京極 高次

一時、秀吉の直轄領(代官:芦浦観音寺)となった後、浅井三姉妹の次女・初を娶った高次が城主となる 8

1590年以降

織田三四郎など

高次の転封後、城主はさらに変遷し、豊臣政権下でその役割を終えていく 1


廃城と部材の移築

天下統一を目前にした豊臣秀吉は、信長の「琵琶湖ネットワーク」という戦略思想そのものは継承したが、個々の城の役割は見直され、自らの支配体制に合わせて再配置された。秀吉の戦略的視点が、信長時代の対若狭・北陸から、新たなる脅威となりうる徳川家康の関東へと移る中で、大溝城の地政学的重要性は相対的に低下した。

京極高次の転封後、文禄四年(1595年)頃、大溝城は廃城となったとされる 8 。そして、その城の天守をはじめとする建築部材の多くは解体され、琵琶湖を渡り、東海道の押さえとして秀吉が新たに築いた水口岡山城(現・甲賀市)へと運ばれ、再利用されたと伝えられている 20

この伝承は、単なる言い伝えでは終わらなかった。近年の水口岡山城跡の発掘調査において、大溝城跡で出土したものと全く同じ文様を持つ軒丸瓦が、全体の約28.4%という高い割合で発見されたのである 20 。これは、大規模な部材転用が実際に行われたことを示す動かぬ証拠となった。大溝城の瓦が、遠く離れた水口岡山城の礎から見つかるという事実は、単なる資材のリサイクルではない。それは、信長時代の戦略思想が、秀吉という新たな覇者の下で継承されつつも、新たな時代の要請に合わせて変容していったことを示す、歴史の地層そのものと言えるだろう。一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを告げる、無言の証言者なのである。

終章:歴史的遺産としての大溝城

戦国の世が終わり、泰平の江戸時代が訪れると、大溝城はその軍事拠点としての役割を終えた。しかし、城が築いた基盤の上に、新たな歴史が紡がれていく。廃城となった城跡は、大溝藩の陣屋として再利用され、その城下町は地域の中心として発展を続けた。そして現代、大溝城の遺構と城下町は、歴史的価値と美しい水辺景観が一体となった他に類を見ない文化遺産として、新たな光を放っている。

江戸時代の大溝藩陣屋

元和五年(1619年)、伊勢上野から分部光信が二万石で入封し、大溝藩が成立した 6 。光信は、廃城となっていた大溝城の三の丸跡に陣屋を構え、統治の拠点とした 16 。城下町も再整備され、武家屋敷地と町人地を明確に区画する総門が設けられた 8 。この総門は、宝暦五年(1755年)の大改修などを経て、現在までその姿を留める唯一の大溝藩時代の建築遺構として、高島市の指定文化財となっている 7 。分部氏の統治下で、大溝の町は通りの中央に清らかな水路を通すなど、水の恵みを巧みに利用した美しい町並みを形成し、湖西地域の政治・経済の中心地として明治維新まで繁栄した 7

現代に残る遺構と文化的景観

今日、大溝の地を訪れる者は、幾重にも重なった歴史の層に触れることができる。

  • 大溝城跡: 本丸跡に高くそびえる天守台の野面積み石垣は、織田信澄と明智光秀が築いた戦国末期の城の面影を、今に力強く伝えている 16
  • 城下町: 江戸時代に形成された町割りや、生活用水として利用されてきた水路が良好に保存されており、往時の風情を感じさせる歴史的な街並みが広がっている 30
  • 文化財としての価値: その歴史的・文化的価値の高さから、大溝城跡は高島市の史跡に指定されている 3 。さらに平成二十七年(2015年)には、城跡、乙女ヶ池、旧城下町を含む一帯が、国の重要文化的景観「大溝の水辺景観」に選定された 3 。これは、人と水が共生してきた歴史的な土地利用が、現代においても価値ある景観を形成していると認められたことを意味する。また、この景観は日本遺産「琵琶湖とその水辺景観」の重要な構成文化財にも認定されている 7

総括

大溝城は、織田信長の天下統一事業、特に琵琶湖を「内海」として掌握する壮大な戦略構想の中で生まれ、その完成を象徴する城であった。その築城の背景には、元亀二年(1571年)の比叡山焼き討ちから始まる、7年越しに及ぶ近江平定の緻密なプロセスが存在した。明智光秀の設計による先進的な水城は、軍事・経済・統治の機能を併せ持つ多機能拠点として、信長の先進的な国家観を体現していた。

本能寺の変という歴史の激震により、築城からわずか4年でその歴史に幕を閉じるという数奇な運命を辿ったが、その遺構と城下町は、江戸時代を通じて地域の核として生き続け、現代においては国の重要文化的景観として高く評価されている。短くも鮮烈な戦国時代の記憶と、穏やかな近世の営みが交錯する湖畔の地、大溝。それは、時代の波に翻弄されながらも、その歴史的価値を静かに、しかし雄弁に語り継いでいるのである。

引用文献

  1. 水口岡山城と大溝城~移築年代をめぐって - 甲賀市 https://www.city.koka.lg.jp/secure/14819/foramu2015.pdf
  2. 大溝城 - - お城散歩 - FC2 http://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-873.html
  3. 大溝城(滋賀県高島市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/6267
  4. 湖上水運の歴史 http://www.koti.jp/marco/suiun.htm
  5. 延暦寺の焼き打ち http://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E6%9C%AC15%EF%BC%88%E7%AC%AC33%E5%9B%9E%EF%BC%89%E3%80%8E%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%83%BC%E9%9D%A9%E5%91%BD%EF%BC%94%E3%80%8F.pdf
  6. 近江 大溝城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/oumi/ohmizo-jyo/
  7. 大溝城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/oomizo/oomizo.html
  8. 大溝城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%BA%9D%E5%9F%8E
  9. 比叡山延暦寺・焼き討ちと復興 - びわ湖大津トラベルガイド https://otsu.or.jp/sengoku/hieizan.html
  10. 比叡山焼き討ち古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/hieizan/
  11. 【#家臣たちの戦国時代 展示史料の紹介③】 元亀2年(1571)9月、#比叡山延暦寺 を焼き討ちした #織田信長 が、延暦寺やその関係者から没収した所領を #佐久間信盛 に与えた朱印状。 この際、信盛は近江国人の進藤・青地・山岡氏を与力として付けられ、信盛は彼らを監督・保護する立場になりました。 - 区民ニュース https://kumin.news/machida/articles/378448
  12. 苦闘天下布武 信長近江に侵攻す! | 近江の城50選 https://www.biwako-visitors.jp/shiro/select50/category/c5/
  13. 光秀ゆかりのスポット | 【公式】びわ湖大津・光秀大博覧会 https://otsu.or.jp/mitsuhide/spot/
  14. 第3回 坂本城主明智光秀 - 亀岡市公式ホームページ https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/1293.html
  15. 明智光秀の出勤ルートを再現!織田信長の居城安土城へは船で通っていた - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/travel-rock/89918/
  16. 大溝城 | 近江の城50選 - 滋賀・びわ湖観光情報 https://www.biwako-visitors.jp/shiro/select50/castle/d29/
  17. 1.室町・戦国の城 2.織田信長の城と琵琶湖 3. https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5526676.pdf
  18. 磯野員昌 https://nablatcha.michikusa.jp/sengoku/kazumasaiso.htm
  19. ~浅井の猛将・磯野員昌~ 姉川で見せた十一段崩し - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=2tH-8qvgQPg
  20. 打下城・大溝城 - 近江の城めぐり - 出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 https://shiroexpo-shiga.jp/column/no43/
  21. 大溝城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/kinki/oomizo.j/oomizo.j.html
  22. 大溝城跡(おおみぞじょうせき) - 高島市 https://www.city.takashima.lg.jp/soshiki/kyoikusomubu/bunkazaika/1/1/665.html
  23. 戦国期の歴史 | 近江高島 大溝の水辺さんぽ https://oomizo.shiga.jp/learn/sengoku/
  24. 大溝城跡 - 近江高島 大溝の水辺さんぽ https://oomizo.shiga.jp/recommend/oomizo_castle/
  25. 大溝城の見所と写真・400人城主の評価(滋賀県高島市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/188/
  26. 大溝城跡 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる! https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/902/
  27. 大溝城跡 - びわ湖高島観光ガイド https://takashima-kanko.jp/spot/2018/06/post_107.html
  28. 大溝城の謎 ③ ~絵図の読み解きから見えてきた今後の発掘調査の展望 - ライブドアブログ http://blog.livedoor.jp/sengokuaruko/archives/54497478.html
  29. 大 溝 城 遺 跡 の 発 掘 調 査 - 高島市 https://www.city.takashima.lg.jp/material/files/group/11/28_38531641.pdf
  30. 琵琶湖西岸の城下町・大溝とその周辺を巡る、歴史の旅【中編】 - Mediall(メディアール) https://mediall.jp/history/87872
  31. 大溝城(滋賀県高島市) https://masakishibata.wordpress.com/2015/02/28/omizo/
  32. 城郭復元CGでおなじみの曽根さんが大溝城を紹介!「純正の 織田のお城だ 大溝城」 https://shirobito.jp/article/1997
  33. 骨ひとつ、毛髪1本残さず果てた、謎多き織田信長の最期 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/1475/
  34. 本能寺の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
  35. 大溝城 [前編] 分部神社の裏手にひっそりと残る天守台跡 https://akiou.wordpress.com/2014/10/20/omizo/
  36. 津田信澄 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%BE%84
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  39. 大溝城跡 https://www.gururinkansai.com/omizojoato.html
  40. 大 溝 城 と 水 口 岡 山 城 - 高島市 https://www.city.takashima.lg.jp/material/files/group/11/36_20974510.pdf
  41. 「水口岡山城と豊臣家五奉行の城」 資料集 - 甲賀市 https://www.city.koka.lg.jp/secure/14819/foramu2016.pdf
  42. 大溝の水辺景観をめぐる | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる! https://www.biwako-visitors.jp/course/detail/34/
  43. 旧大溝城下町 - びわ湖高島観光ガイド https://takashima-kanko.jp/spot/2018/06/post_130.html
  44. 大溝の水辺景観 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/278396