奈良町再整備(1591)
天正十九年、豊臣秀吉は奈良町を再整備。これは興福寺の宗教支配を解体し、郡山への経済移転と検地で中央集権化を図る政策。中世都市奈良は近世都市へと変貌し、新たな時代を迎えた。
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天正十九年、奈良町再整備の真相 ― 中世都市の終焉と近世への胎動
序章:神仏の都、その黄昏
天正十九年(1591年)、豊臣政権下で断行された「奈良町再整備」。この事変は、一般に「寺社町区画を整え商業復興を促進」したものと要約される。しかし、この簡潔な説明の裏には、日本の戦国時代から近世へと移行する時代の大きなうねりが凝縮されている。本報告書は、この再整備が単なる都市計画に留まるものではなく、数百年にわたり大和国に君臨した旧権力、すなわち興福寺を中心とする宗教的支配体制に対する、豊臣政権による最終的な解体作業であったことを論証するものである。
本報告書の視座は、この一連の出来事を、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げ、すなわち全国の土地と人民を直接把握し、中央集権的な支配体制を確立する「画一化」政策の、大和国という極めて特殊な地域における具体例として位置づけることにある。古代より「神都」として特別な地位を保ち、中央権力の直接支配を拒み続けてきたこの地が、いかにして近世的な統治システムへと再編されていったのか。その画期的な転換点として、天正十九年という年を徹底的に解剖する。それは、古都・奈良が経験した、静かなる、しかし決定的な革命の記録である。
第一章:中世大和国の支配者、興福寺
豊臣政権が天正十九年に直面した「奈良」を理解するためには、まずその背景にある中世大和国の特異な権力構造を解明せねばならない。そこは、他の戦国大名が支配する領国とは全く異質の、「神国」とも言うべき世界であった。
「事実上の守護」としての権勢
平安時代末期より、大和国は藤原氏の氏寺である興福寺の強力な影響下に置かれていた。藤原摂関家の権威を背景に、興福寺は国司の権能を侵食し、事実上の支配者として君臨するに至る。鎌倉幕府が成立し、源頼朝が全国に守護・地頭を設置した際も、大和国には守護を置かなかった 1 。これは、幕府ですら容易に手を出せない、興福寺の聖域としての特権を暗黙のうちに認めたものであった。興福寺は、国司と守護の両方の権能を掌握し、大和一国における警察権や裁判権(検断権)を行使する、まさに「祭政一致」の支配体制を確立していたのである 1 。
この支配を物理的に支えたのが、興福寺の配下にあった武装勢力、「衆徒(しゅと)」と「国民(こくみん)」であった 2 。衆徒は興福寺の僧兵であり、国民は興福寺と一体であった春日社の神人(じにん)身分を持つ俗体の武士団を指す 1 。筒井氏、越智氏、十市氏といった後世に名を残す大和武士たちは、元をたどれば興福寺の有力な門跡寺院(一乗院や大乗院)に仕える被官であり、その武力装置として勢力を伸張させた 2 。彼らは興福寺の権威の下で寺領の管理や治安維持を担い、大和国における複雑な支配構造を形成していた。
門前町「奈良」の自立と繁栄
奈良町は、興福寺や元興寺といった大寺院の門前町として発展した 5 。しかし、それは単なる寺社の付属物ではなかった。特に室町時代に入ると、町人たちは「惣(そう)」と呼ばれる自治組織を形成し、独自の掟(町掟)を定めて高度な自治運営を行っていた 7 。興福寺の支配は絶対的なものではなく、寺社と町人との間には、庇護と奉仕を基本としながらも、時には緊張をはらんだ共存関係が成り立っていた。応仁の乱(1467-1477)以降、興福寺本体の権威が徐々に揺らぎ始めると、奈良町人の自立性は一層高まり、京都や堺の商人たちとの交流を通じて、経済的にも文化的にも独自の発展を遂げていく 11 。
戦国動乱と旧秩序の動揺
この興福寺を中心とした中世的秩序に決定的な打撃を与えたのが、永禄二年(1559年)の松永久秀による大和侵攻であった。久秀は、三好長慶の家臣として大和に攻め入り、筒井氏らを追放。そして、興福寺から大和国守護職の名目を奪い取ったのである 2 。これは、数百年にわたり維持されてきた興福寺の権威を根底から覆す画期的な事件であり、大和国が戦国の動乱に本格的に巻き込まれる契機となった。
その後、織田信長の台頭により筒井順慶が大和国主に返り咲くが、彼の支配体制は、対外的には信長に属する国主でありながら、国内的には興福寺の官符衆徒の代表という、二重の性格を持つものであった 2 。それは、完全な戦国大名による一円支配とは異なり、依然として中世以来の興福寺の権威と不可分に結びついた、過渡的な支配形態に過ぎなかった。
豊臣秀吉が天下統一を進める上で、この大和国の存在は看過できないものであった。秀吉の目指す中央集権的な支配体制とは、すべての土地と人民を自身の権威の下に一元化することであり、神仏の権威に根差し、独自の法と武力を持つ興福寺のような独立権力は、その理念と根本的に相容れない。したがって、後に起こる奈良町への介入は、単なる都市問題の解決ではなく、この「宗教国家」の首都機能を解体し、その政治的・経済的基盤を無力化する、極めて高度な政治的行為だったのである。
第二章:豊臣の影 ― 新たな拠点、郡山城の勃興
天正十九年(1591年)の「奈良町再整備」は、突発的に発生した出来事ではない。それは、その6年前の天正十三年(1585年)から周到に準備された、豊臣政権による大和国支配戦略の最終段階であった。その序章は、新たな政治拠点・郡山城の勃興と、それと表裏一体で進められた古都・奈良への経済的圧力に見て取ることができる。
天正十三年(1585年):豊臣秀長の入国
天下統一を目前にした豊臣秀吉は、大和国の旧体制を完全に刷新するため、一大決断を下す。天正十三年、大和国主であった筒井順慶の子・定次を伊賀上野へ転封させ、その跡に実弟である豊臣秀長を、大和・和泉・紀伊の三国を合わせた百万石の大名として郡山城に入城させた 12 。これは、単なる大名の交代ではない。大和国を、豊臣一門による直轄地として、その支配体制下に完全に組み込むという明確な意思表示であった。
秀長は、兄・秀吉の天下取りを補佐した有能な政治家であり、その統治は近世的な色彩を帯びていた。彼は大和入国と同時に、国内の検地を実施し、盗賊の追捕を命じ、新たな掟を制定するなど、矢継ぎ早に領国経営に着手した 14 。ここに、中世以来の興福寺による支配は終わりを告げ、大和国は本格的な武家支配の時代へと突入したのである。
「奈良衰退・郡山振興」政策
秀長政権が打ち出した政策の核心は、意図的かつ徹底した「奈良衰退・郡山振興」策であった。その目的は、大和国の経済の中心を、旧来の宗教都市・奈良から、豊臣家の新たな拠点である郡山城下町へと強制的に移転させることにあった。
その手法は巧妙であった。まず、奈良における商業活動に厳しい制限が加えられた。奈良での市場の開設や、他国からの酒の移入、味噌や酒、薪木といった生活必需品の商売、さらには質屋の営業までもが禁止された 15 。これは、奈良の経済的活力を削ぎ、その富が旧来の支配者である寺社勢力へ流れることを断つための、経済的な兵糧攻めであった。
一方で、郡山城下では積極的な商工業振興策が展開された。その象徴が「箱本十三町(はこもとじゅうさんちょう)」制度の創設である 17 。これは、奈良や堺などから商工業者を強制的に移住させ 20 、彼らに地子(地代)を免除するという特権を与える代わりに、町の治安維持、防火、伝馬の世話といった自治機能を請け負わせるという画期的な制度であった 16 。さらに、紺屋町(染物業)、茶町、雑穀町といった同業者町(町割)を形成させ、それぞれに営業上の独占権を認める特許状を与えた 20 。これにより、商工業者たちはこぞって郡山へと移り住み、城下町は急速な発展を遂げた。
政策の真の狙い
この一連の政策が狙ったものは、単なる郡山の経済発展ではなかった。その真の目的は、二つある。第一に、奈良の経済基盤を弱体化させることで、興福寺をはじめとする寺社勢力と、その門前で活動する奈良町人との経済的・精神的な結びつきを断ち切ること 15 。第二に、大和国の富と情報の集積地を、旧権力の象徴である奈良から、豊臣政権の権力の象徴である郡山城下へと完全に移転させることであった。
奈良の商業利益は、直接的・間接的に興福寺の財政を潤し、奈良町人の自治意識を支える源泉であった。この経済基盤を破壊しない限り、大和国を完全に豊臣の支配下に置くことはできない。秀長は、武力による直接的な弾圧ではなく、経済特区の創設と規制緩和という、より巧妙な手法で奈良を内部から弱体化させる道を選んだ。天正十三年から始まったこの周到な経済戦争こそが、六年後の天正十九年に行われる物理的な都市構造の再編、すなわち「奈良町再整備」の成功を担保する、決定的な布石だったのである。
第三章:激動の天正十九年(1591年)― 再整備への秒針
天正十九年(1591年)は、豊臣政権にとって、そして大和国にとって、まさに激動の一年であった。国内の平定が最終段階に入り、政権の目が内政の整備へと向かう中、大和国では権力の中枢に予期せぬ事態が発生する。これが引き金となり、長年にわたる大和支配の総仕上げとして、「奈良町再整備」が断行されることとなる。
【正月】:大和大納言・豊臣秀長の死
天正十九年正月二十二日、大和支配の絶対的な要であった豊臣秀長が、郡山城にて病死した。秀吉の片腕として百万石の領地をまとめ上げ、巧みな政治手腕で奈良の旧勢力を抑え込んできた彼の死は、豊臣政権の大和統治体制に巨大な権力の空白を生じさせた。この突然の事態は、秀吉にとって、これまでの身内による間接統治から、中央政権による直接統治へと移行させる絶好の機会となった。
【春~夏頃】:増田長盛の大和郡山入城
秀長の養子・秀保はまだ幼く、後継として大和国を統治する能力はなかった。そこで秀吉が白羽の矢を立てたのが、腹心の部下である増田長盛であった。長盛は、甲冑をまとって戦場を駆ける猛将タイプではなく、検地や兵站管理、諸大名との交渉といった実務処理能力に長けた、いわば「行政官僚型」の武将であった 25 。早くから秀吉に仕え、その内政手腕を高く評価され、後には石田三成らと共に豊臣政権の中枢を担う五奉行の一人にまで抜擢される人物である 27 。
この人選そのものが、秀吉の明確な意図を物語っている。もはや大和国を、身内による特別な領地としてではなく、中央政府の行政システムによって完全に再編・吸収すべき一地方と見なしていたのである。長盛に与えられた任務は、武力による威圧ではなく、検地や都市計画といった行政手法を通じて、豊臣の支配体制をこの地に最終的に確立することであった。長盛は郡山城に入ると、早速、城の外堀普請に着手するなど、新たな領国経営を開始した 27 。
【秋~冬頃】:「奈良町再整備」の断行
再整備が実施された正確な月日を特定できる史料は現存しないが 11 、長盛の入城後、年内に断行された蓋然性が極めて高い。この時期の豊臣政権の動向を見ると、その背景がより鮮明になる。
時期(天正19年) |
全国の動向(豊臣政権) |
大和国・奈良町の動向 |
正月 |
千利休が秀吉の勘気に触れる |
正月22日、豊臣秀長、郡山城にて病死 |
3月~9月 |
九戸政実の乱。豊臣軍が奥州へ出兵し、平定(国内の最終的な武力平定) |
増田長盛、大和郡山城主となる(時期は春~夏頃か) |
8月 |
秀吉、次年の朝鮮出兵(文禄の役)のため、諸大名に準備を命令 |
長盛、郡山城の惣堀普請や検地の準備に着手か 27 |
年末 |
秀次に関白を譲り、秀吉は太閤となる |
奈良町再整備の実施(時期は秋~冬頃と推定) |
この年表が示すように、天正十九年の九月には、国内最後の組織的な武力抵抗であった九戸政実の乱が平定され、秀吉による日本の軍事統一が実質的に完成した 29 。これにより、政権は国内の制度改革に全力を注ぐことができる状況となった。
奈良における再整備は、決して孤立した政策ではなかった。それは、京都で前年の天正十八年(1590年)から進められていた大規模な都市改造計画と軌を一にするものであった。秀吉は京都において、市街を囲む巨大な土塁「御土居(おどい)」を築き、市中に散在していた寺院を「寺町通」や「寺之内」といった特定のエリアに強制的に移転・集約させていた 30 。これらの政策の目的は、都市の防衛力強化や税収の効率化に加え、何よりも寺社勢力と町衆との物理的・精神的な結合を分断し、その政治力を削ぐことにあった 33 。
秀長の死という大和国内の権力移行は、秀吉の全国的な都市改造政策という大きな流れの中で、奈良を再編する絶好のタイミングを提供した。こうして、行政官僚・増田長盛の指揮の下、中世都市・奈良に最後のメスが入れられることになったのである。
第四章:再整備の解剖 ― 何が行われたのか
天正十九年の「奈良町再整備」は、単一の法令や事業を指すものではなく、豊臣政権による支配を確立するための、複合的な都市改造政策の総称であった。その内容は、権力構造の可視的な再編、経済基盤の根本的な破壊と再構築、そして行政区画の再定義という、三つの側面に大別することができる。
権力の可視化 ― 寺院配置の転換
豊臣秀吉は、京都や大坂、伏見城下町の建設において、一貫して寺社を都市計画の中に戦略的に配置する政策をとった。京都では市中に散在していた寺院を寺町通に集め 30 、大坂では大坂城の南側防衛線を兼ねる形で寺町を形成した 35 。伏見城下においても、城の鬼門除けとして神社を移転させるなど 37 、寺社を特定の区画に集約し、都市の景観と機能を支配者の意図通りに再編した 38 。この政策の目的は、市街地の整然化という表向きの理由に加え、宗教勢力を一箇所にまとめて管理し、彼らが町衆と結びついて政治的な力を持つことを防ぐことにあった 33 。
奈良において、京都のような大規模かつ強制的な寺院の全域移転が行われたことを示す直接的な史料は限られている。しかし、戦国時代の後半から、元興寺のかつての広大な境内地が徐々に町場化し、都市開発が進んでいた 40 。豊臣政権の進駐は、この流れを決定的にした。寺社が持っていた土地の所有権や治外法権的な特権が否定され、都市の区画が再編される中で、寺社の配置もまた、新たな支配者の意図を反映したものへと変えられていったと考えられる。それは、神仏の権威が支配した無秩序な門前町から、武家の権力が支配する整然とした都市への転換を、目に見える形で示すものであった。
経済基盤の破壊と再構築 ― 文禄検地の衝撃
再整備と表裏一体で進められた、より根源的な変革が「太閤検地(文禄検地)」である。この全国的な土地調査は、大和国においても徹底して行われ、興福寺の権力基盤を根底から覆した。
中世を通じて、興福寺は春日社と一体となり、広大な荘園を支配する大領主であった。その収入は、年貢だけでなく、通行税や市場税、各種の特権から得られるものなど多岐にわたり、その経済力が政治的・軍事的な独立を支えていた。しかし、文禄四年(1595年)に最終的に確定した検地の結果、興福寺と春日社の所領は「知行高二万一千石余」として、豊臣政権によって公的に定められた 41 。
これは、単なる資産調査ではない。興福寺が中世以来維持してきた荘園領主としての特権を完全に剥奪し、豊臣政権の定めた石高に応じて知行(給与)を受け取る、いわば「近世大名」に近い存在へとその性格を変質させたことを意味する。これにより、興福寺は経済的自立性を失い、豊臣政権の支配体制に組み込まれる一宗教法人となった。この経済基盤の解体こそが、興福寺の政治的権力を無力化する上で、決定的な一撃となったのである。
行政区画の再定義 ― 「半田方二十五村」の編入
検地のプロセスは、土地の生産力を石高という統一された基準で測るだけでなく、村や町といった行政単位を新たに設定し直す作業でもあった。この過程で、奈良町の境界線もまた、大きく描き直された。
文禄検地の際、それまで奈良町の周辺にありながら、行政的には別の単位(半田村庄屋の支配下)とされていた「半田方(はんだかた)」と呼ばれる二十五の村が、一度町から切り離された後、江戸時代初期に正式に奈良町の一部(地方町)として編入されることになった 11 。これは、中世以来の複雑で曖昧な境界線や重層的な支配関係を一度すべて白紙に戻し、豊臣政権が新たな行政単位として都市「奈良」を再定義しようとした試みであった。土地を測量し、石高を付け、新たな村や町として再編成する検地のプロセスそのものが、旧来の共同体を解体し、新たな支配システムを構築する強力な手段だったのである。
この一連の「再整備」は、秀長時代に進められた「奈良衰退政策」と一見矛盾するように見える「商業復興」という側面を、新たな視点から照らし出す。この再整備が目指したのは、興福寺と結びついた旧来の特権商人や座が支配する商業構造の「復興」では断じてない。むしろ、その旧秩序を徹底的に「破壊」した上で、新たな支配者の管理下に置かれた、新しいタイプの商人たちが活動できる土壌を「再構築」することであった。それは、旧秩序の破壊者にとっては衰退であり、新秩序の受益者にとっては新たな機会の創出であった。この破壊と再構築のプロセスこそが、近世都市・奈良の誕生を促す陣痛だったのである。
第五章:新たな秩序の誕生 ― 近世都市「奈良」へ
天正十九年(1591年)を画期として断行された一連の改革は、奈良の姿を不可逆的に変貌させた。それは、中世的な「宗教国家」の権力構造を解体し、近世的な都市へと脱皮させるプロセスであった。短期的には混乱と衰退をもたらしたこの変革は、しかし長期的には、奈良が新たな時代を生き抜くための礎を築くことになった。
失われた権威 ― 宗教法人化する興福寺
豊臣政権による改革は、興福寺から政治的・軍事的な牙を完全に抜き取った。衆徒・国民と呼ばれた武装勢力は強制的に解散させられ 2 、太閤検地によって広大な寺社領は二万一千石余の知行へと削減された 42 。これにより、興福寺は大和国における独立した政治権力としての地位を完全に喪失した。かつては朝廷や幕府すら動かした、春日大社の神木を担いでの強訴(ごうそ)といった中世的な権威の行使も、この時代を境にその実効性を失っていく 45 。
豊臣政権の支配体制に組み込まれた興福寺は、もはや大和国の支配者ではなく、二万一千石の知行を与えられた一大名に準ずる存在、あるいは現代で言うところの巨大な「宗教法人」へと変質を遂げた。ここに、古代から続いた「神都」としての奈良の歴史は、一つの終焉を迎えたのである。
変容する奈良町 ― 新たな産業の胎動
政治・経済の中心地としての地位を郡山に譲った奈良町は、一時的にその活力を失った。豊臣秀長・秀吉政権下では、郡山への経済機能集中策の一環として、奈良での酒造りが厳しく禁じられるなど、商業活動は大きな打撃を受けた 15 。
しかし、この抑圧は逆説的な結果をもたらす。中世の奈良では、優れた酒(僧坊酒)は主に興福寺などの寺院で造られていた 46 。豊臣政権による寺社勢力の解体と商業構造の再編は、結果として、これまで寺院が独占していた高度な酒造技術が、町方の商人たちの手に移転する契機となった 48 。
関ヶ原の戦いを経て徳川の世となり、政治的な安定が訪れると、奈良の商業統制は緩和される。すると、町人たちは水面下で蓄積してきた技術と資本を解き放った。特に酒造業は目覚ましい発展を遂げ、「南都諸白(なんともろはく)」の名で知られる高品質な清酒は全国的な名声を得て、江戸時代初期には日本酒市場の中核を担うまでになった 46 。これは、旧来の寺社支配という軛(くびき)から解放された奈良町が、純粋な商工業都市として新たな活路を見出した象徴的な出来事であった。1591年の「破壊」が、後の「再生」の前提条件となったのである。
江戸幕府体制への継承
豊臣政権下で始まった奈良の変革は、江戸幕府の下で完成される。関ヶ原の戦いの後、大和国は幕府の直轄地(天領)や旗本領などに細分化され、慶長十八年(1613年)には、現在の奈良女子大学の地に奈良奉行所が設置された 11 。これにより、奈良町は幕府の直接支配下に置かれる近世都市として、その統治体制が確立した。
町政は、有力な町人の中から選ばれる「総年寄(そうどしより)」が、奉行の指揮下で実務を担うという形で運営された 51 。これは、中世の「惣」が持っていた自治の伝統を引き継ぎつつも、幕府の統制下に置かれた近世的な町方自治の姿であった。豊臣政権が強引に推し進めた都市改造は、結果として徳川幕府による安定した支配体制へと円滑に継承され、近世都市「奈良」の骨格を形作ったのである。
終章:歴史的意義 ― 1591年が画した分水嶺
天正十九年(1591年)の「奈良町再整備」は、その名称が示唆するような穏やかな都市計画ではなかった。それは、戦国時代の終焉という大きな文脈の中で、日本の権力構造が中世から近世へと質的に転換する様を象徴する、画期的な出来事であった。
この事変の本質は、三つの側面に集約される。第一に、それは中世的・分権的な「宗教国家」の解体であった。興福寺という、神仏の権威を背景に数百年にわたり大和国に君臨した独立権力を、経済的・政治的に無力化する作業であった。第二に、それは近世的・中央集権的な支配システムへの編入であった。太閤検地によって土地と生産力を国家が直接把握し、石高という統一基準の下に身分秩序を再編成するプロセスの一環であった。そして第三に、それは支配の様式の転換であった。武力による制圧から、検地や都市計画といった「行政」による支配へと、その手法が質的に変化したことを示している。
戦国時代の終焉とは、単に合戦が終結することではない。それは、興福寺のような各地に存在した中世的な権威がその力を失い、太閤検地に象徴されるような、全国を覆う画一的で合理的な支配秩序が確立される過程そのものである。「奈良町再整備」は、その最終局面において、最も象徴的な旧権力の一つであった興福寺とその首都・奈良に対して行われた、不可逆的な体制変革であった。
したがって、天正十九年は、単なる西暦上の一年ではない。それは、古代から続いた「神都」奈良がその歴史的役割を終え、近世都市「奈良町」が誕生した、決定的な分水嶺なのである。この変革を経て、奈良は政治の中心としての地位を失った代わりに、新たな商工業と文化の担い手として、江戸、そして現代へと続く道を歩み始めたのであった。
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- 興福寺の歴史ー略史4 - 法相宗大本山 興福寺 https://www.kohfukuji.com/about/history_4/
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- 強訴。時の権力者を震撼させた興福寺 - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/gohso
- 奈良は日本酒の古里 http://nara-shokubunka.jp/yamato/135.html
- 奈良の日本酒|日本酒発祥の地が育む歴史と風味【日本酒のススメ】 - サライ.jp https://serai.jp/gourmet/1227214
- Ⅱ.奈良市の歴史的風致 - 奈良市ホームページ https://www.city.nara.lg.jp/uploaded/attachment/196931.pdf
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- 「ならまち」とは? その【歴史】をカンタンに - 平城ツーリズムドットコム 【奈良観光の個人運営サイト】 https://www.heijo-tourism.com/nrm-history/
- 奈良町の成立 中世から近世へ - 文化財 - 奈良市ホームページ https://www.city.nara.lg.jp/site/bunkazai/2331.html