川崎宿整備(1601)
1601年の東海道整備計画当初、川崎宿は存在しなかった。品川・神奈川宿間の距離が長く伝馬役の負担が重いため、1623年に追加で設置された。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
空白の五里を埋めた宿駅 ― 川崎宿、徳川国家デザインにおける最後のピース ―
序章:1601年の誤解 ― 川崎宿成立の真実
「川崎宿整備(1601年)」という事象の探求は、一見すると単純な歴史的事実の確認に思えるかもしれない。しかし、その深層に分け入る時、我々は徳川幕府という巨大な統治機構が、いかにしてその国家デザインを現実の地平に刻み込んでいったかという、壮大かつ動的な物語に直面する。提示された慶長6年(1601年)という年は、徳川家康が天下統一の総仕上げとして、江戸日本橋を起点とする東海道に宿駅伝馬制度を敷いた画期的な年である 1 。だが、この国家プロジェクトの初期設計図に、「川崎宿」の名は存在しなかった。
川崎宿が東海道五十三次の第二の宿場として正式に起立するのは、それから22年の歳月を経た元和9年(1623年)のことである 3 。この「22年間のズレ」こそが、本報告書が解き明かすべき中心的な謎である。それは単なる計画の遅延や欠落ではない。むしろ、壮大な構想と現場の実情との間に生じた軋轢を、幕府がいかにして認識し、調整し、そして克服していったかを示す、生々しい行政プロセスの記録に他ならない。
したがって、本報告書は川崎宿という一点の整備事業を静的に記述するのではなく、1601年の「計画」から1623年の「修正」に至る一連の歴史的過程を時系列で徹底的に追跡する。その過程を通じて、徳川幕府の統治システムが持つ、揺るぎない国家構想の強固さと、現実の課題に対応する驚くべき柔軟性の両側面を浮き彫りにすることを目的とする。川崎宿の誕生は、徳川の国家デザインにおける最後の、そして極めて重要なピースが埋め込まれた瞬間だったのである。
第一部:天下統一の血脈 ― 徳川の道、その構想と始動
第一章:戦国を越えて ― 伝馬制度の遺産
徳川家康が慶長6年(1601年)に布告した宿駅伝馬制度は、決して無からの創造ではなかった。それは、約一世紀にわたる戦国乱世の中で、各地の戦国大名たちが生き残りをかけて築き上げた領国経営システムの、一つの到達点であり、継承であった。本章では、徳川の交通政策の根源を、戦国時代の遺産に探る。
律令時代にまで遡る駅伝の制は中世を通じて一度衰退したが、戦国時代に入ると、大名たちは自身の領国を効率的に支配・防衛するため、独自の交通・通信網を再構築する必要に迫られた 6 。特に、関東を支配した後北条氏や、甲斐の武田氏、駿河の今川氏といった東国の大名たちは、本城と各地の支城を結ぶ幹線道路を整備し、宿駅を置いて伝馬を常備させた 7 。これらの伝馬制度は、第一に軍事目的、すなわち兵員や武具・兵糧の迅速な輸送、そして戦況を伝える伝令の往来を円滑にすることを主眼としていた 6 。公用の使者には「伝馬手形」が発行され、定められた数の人馬を無賃または低賃金で利用することができた 7 。
しかし、戦国大名の伝馬制は、あくまで自らの領国という閉じた空間内での軍事・政治的支配を強化するための「動脈」であった。そのネットワークは領国の境界で途切れ、全国的な規模での連結は想定されていなかった。徳川家康は、これらの大名たちとの抗争を通じて、交通網が持つ戦略的重要性を骨身に染みて理解していた。そして天下人として、彼はこのシステムを全く新しい次元へと昇華させる。家康の構想は、戦国時代の「軍事・支配のための閉じた交通網」を、江戸を中心とした中央集権体制を支える「国家統治のための開かれた(ただし厳密に管理された)インフラ」へと質的に転換させる壮大な試みだったのである 2 。
第二章:慶長六年の大号令 ― 国家デザインとしての東海道
慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦における勝利は、徳川家康に天下の実権をもたらした。しかし、それは新たな国家建設の始まりに過ぎなかった。家康は、武力による制圧から、制度による統治へと重心を移すべく、驚くべき速さで行動を開始する。その象徴が、合戦終結からわずか数ヶ月後の慶長6年(1601年)正月に発令された、東海道の宿駅伝馬制度の確立であった 1 。
この大号令は、単なる道路整備事業ではなかった。それは、江戸を日本の新たな政治的中心として物理的に定義し、全国をこの中心へと結びつける、壮大な国家デザインそのものであった。幕府は、江戸・日本橋を起点として東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道からなる「五街道」の整備に着手し、その中でも朝廷のある京都、そして経済の中心地である大坂とを結ぶ東海道を最重要路線と位置づけた 11 。
幕府が定めた制度の骨子は、各宿場に公用のための人馬を常備させる「伝馬役」を義務付けることにあった 13 。東海道の各宿駅には、原則として人足100人・馬100疋(「百人百疋」)という、他の街道(例えば中山道は50人50疋)に比べて格段に重い負担が課せられた 13 。これは、東海道が担うべき役割の重要性を物語っている。その目的は多岐にわたった。第一に、全国の大名に義務付けられる参勤交代のルートを確保し、彼らの動向を監視・管理すること。第二に、幕府の公用文書や荷物を迅速かつ確実に輸送する通信網を確立すること。そして第三に、全国的な物流を活性化させ、経済的統一を促進することであった 2 。この制度によって、人、物、情報が江戸を中心に活発に交流し、二百数十年にわたる江戸時代の平和と経済文化の発展の礎が築かれることになる。1601年の時点で、品川、保土ヶ谷、藤沢、平塚、小田原など、多くの宿場がこの国家プロジェクトのもとに一斉に指定され、稼働を始めたのである 15 。
第二部:計画の綻び ― 品川・神奈川宿の呻吟
第三章:空白の五里 ― 計画に潜む物理的困難
慶長6年(1601年)に始動した徳川幕府の壮大な東海道整備計画は、しかし、その初期設計図に一つの重大な欠陥を内包していた。それは、江戸日本橋を発って最初の宿場である品川宿と、第三の宿場である神奈川宿との間に横たわる、長大な「空白地帯」であった。
当時の東海道の地図を広げると、品川宿から神奈川宿までの距離は、約五里(約20km)にも及んでいた 5 。これは、他の宿場間の平均距離が約二里半(約9.3km)であったことと比較すると、突出して長い区間であった 19 。当時の旅人が健脚を駆使しても、一日に歩ける距離は八里から十里(約32~40km)が一般的であったから 21 、この一区間だけで一日の行程の半分を費やす計算になる。
さらに、この区間の困難さを増幅させていたのが、武蔵国と相模国の国境を流れる多摩川(当時は六郷川と呼ばれた)の存在である。幕府は江戸防衛の観点から主要河川への架橋を意図的に避ける政策をとっており、旅人たちは渡し船による渡河を余儀なくされた 22 。川の増水による「川留め」が頻発すれば、旅程はさらに遅延する。この渡河の難所が、ただでさえ長い品川・神奈川間を、心理的にも物理的にもさらに遠いものにしていた。
なぜ幕府の初期計画において、このような規格外の長距離区間が設定されたのか。その理由は、既存の集落や港町を基点として宿場を指定したためと考えられる。しかし、この地図上の合理性は、やがて現場で制度を支える人々の、深刻な負担となって跳ね返ってくることになる。
第四章:疲弊する伝馬役 ― 往復十里の苦役
宿駅制度の円滑な運用は、各宿場に暮らす人々が担う伝馬役という、極めて重い労働によって支えられていた。彼らは幕府の朱印状を持つ公用の旅人に対し、定められた人馬を無賃または公定の安い駄賃で提供し、次の宿場まで荷物や人を送り届ける義務を負っていた 9 。この伝馬役の視点から見ると、品川・神奈川間の五里という長大な距離は、単なる不便さを超えた、宿場の経営そのものを揺るがしかねない構造的欠陥であった。
その過酷な現実は、伝馬役の「往復」という労働形態を想像することで、より鮮明になる。例えば、品川宿の伝馬役は、公用の荷を神奈川宿まで運んだ後、自身の拠点である品川宿まで戻らなければならない。これは片道五里、往復で十里(約40km)という、当時の成人男性の一日の行動限界に匹敵する長旅であった 18 。
もし、公用の旅人が早朝に品川宿を発てば、伝馬役はその日のうちに帰宿することも不可能ではなかったかもしれない。しかし、出発が昼過ぎや夕方になれば事態は深刻化する。神奈川宿に到着する頃には日も暮れ、その日のうちに品川へ戻ることは物理的に不可能となる。結果として、伝馬役は神奈川宿での宿泊を余儀なくされ、予期せぬ出費を強いられる。さらに重要なのは、翌日を丸一日かけて帰宿に費やすため、本来の生業である農業や商いといった経済活動の機会を完全に失うことであった 18 。
この問題は、神奈川宿の伝馬役にとっても同様であった。品川・神奈川両宿の住民にとって、この往復十里の苦役は、肉体的にも経済的にも耐え難い負担となっていた。徳川幕府が築こうとした国家の血脈である東海道は、その末端において、それを支えるべき人々の疲弊と呻吟によって目詰まりを起こしかけていたのである。この机上の計画と現場の現実との深刻な乖離を埋めるためには、新たな「中継点」の設置が不可欠であった。
表1:東海道初期計画と改訂計画における駅間距離の比較(品川宿~神奈川宿間)
区間 |
1601年時点の距離 |
1623年時点の距離 |
伝馬役の往復負荷 |
品川宿 → 神奈川宿 |
約20km (約5里) |
- |
甚大 (往復40km) |
品川宿 → 川崎宿 |
- |
約10km (約2.5里) |
適正 (往復20km) |
川崎宿 → 神奈川宿 |
- |
約10km (約2.5里) |
適正 (往復20km) |
第三部:川崎宿、誕生の刻(1623年)
第五章:地域の胎動 ― 小泉次大夫と川崎の基盤整備
川崎宿が歴史の表舞台に登場する以前、その地はどのような場所だったのか。後の宿場町となる一帯は、多摩川下流域の広大な低湿地であり、古来より幾度となく繰り返される洪水に悩まされる、農業生産には決して恵まれない土地であった 4 。しかし、徳川の治世が始まると、この土地の運命を大きく変える一人の人物が登場する。それが、幕府代官・小泉次大夫吉次(こいずみじだゆうよしつぐ)である。
今川氏の家臣から徳川家康に見出された次大夫は、土木技術に明るく、家康の関東入府に伴い、武蔵国橘樹郡小杉村(現在の川崎市中原区)を拠点に幕領の支配にあたった 25 。彼はこの地域の荒廃した状況を改善すべく、慶長2年(1597年)から多摩川流域の大規模な測量に着手し、一大農業土木事業の計画を立案する 27 。それが、後に「二ヶ領用水」と呼ばれる農業用水路の開削であった。
慶長4年(1599年)に始まった工事は困難を極めたが、次大夫の指揮のもと、14年もの歳月をかけて慶長16年(1611年)に完成した 25 。この用水路は、稲毛領と川崎領の二つの領にまたがる60以上の村々の水田を潤し、米の収穫量を飛躍的に増大させた。本来、この事業の主目的はあくまで農業生産力の向上にあった。しかし、用水路網の整備は結果として地域の治水を進め、頻繁な氾濫に苦しんでいた土地を安定させるという、副次的だが極めて重要な効果をもたらした。
このように、宿場設置という交通政策が実行される10年以上も前に、小泉次大夫による農業政策が、後の川崎宿が立地する地理的・経済的基盤を期せずして整えていたのである。幕府の異なる統治機能が、結果的に連携し、一つの町が誕生する土壌を育んだ。これは、徳川初期の地方支配が持つ、複合的でダイナミックな側面を示す好例と言えよう。
第六章:抵抗と決断 ― 宿駅化を巡る攻防
品川・神奈川両宿の疲弊が限界に達し、その間に新たな宿場を設けるという幕府の方針が固まった時、白羽の矢が立ったのが、小泉次大夫の尽力によって農業基盤が整いつつあった川崎の地であった。しかし、この決定に対し、当の川崎の住民たちから、意外にも強い反対の声が上がった。
『川崎年代記録』によれば、住民たちが宿場化に抵抗した理由は、極めて現実的な懸念に基づいていた 30 。彼らは、川崎の地が「薪や馬飼料が不自由な所」であり、伝馬役を果たすために不可欠な馬そのものも十分に確保できないと訴えた。宿場となれば、重い伝馬役の負担を強いられる。その負担に耐えきれず、生活が立ち行かなくなり、先祖代々の土地を捨てて他の地へ移らなければならなくなるのではないか――。これが、彼らの偽らざる不安であった 30 。宿場化がもたらす経済的利益よりも、課せられる義務の重さを恐れたのである。
この時、川崎領を治めていた代官は、小泉吉勝であった。彼は、二ヶ領用水を完成させた偉大な父・次大夫の跡を元和5年(1619年)に継いだ人物である 25 。住民の切実な訴えと、幕府からの厳命との間で、吉勝は決断を迫られた。最終的に、彼は住民の抵抗を退ける。その論理は、「幕府からの命令である」という、絶対的なものであった 30 。ここに、戦国時代を経て確立された、中央集権的な徳川幕府の権力の強大さが示されている。住民の合意形成を待つのではなく、国家の意思としてトップダウンで計画を断行する。この代官・小泉吉勝の決断により、川崎宿の設置は不可逆のものとなった。
第七章:元和九年の起立 ― 川崎宿の誕生
住民の抵抗を乗り越え、元和9年(1623年)、川崎宿は東海道五十三次の一宿として正式に起立した 3 。その始まりは、決して大規模なものではなかった。当初の宿場町は、多摩川が形成した自然堤防(砂州)上の集落であった「砂子(いさご)」と、六郷の渡しの川崎側の拠点に近かった「久根崎(くねざき)」という、二つの既存の小さな町(村)を中心に構成された 3 。
宿場としての能力を象徴する常備人馬の数も、そのささやかな船出を物語っている。東海道の主要な宿場には「百人百疋」が義務付けられていたのに対し、発足当初の川崎宿に課せられたのは、わずか「36人36疋」であった 33 。これは、宿場化に反対した住民たちの「負担能力がない」という訴えを、幕府がある程度認めた結果とも考えられる。小さな規模から始め、町の成長に合わせて段階的に負担を増やしていくという、現実的な措置が取られたのである。
宿場の骨格が定まると、その後の発展は比較的速やかに進んだ。起立から4年後の寛永4年(1627年)には、新たに開かれた「新宿(しんしゅく)」と、古くからの集落である「小土呂(ことろ)」が宿場町に加わり、4町体制へと拡大した 3 。翌寛永5年(1628年)には、新宿に最初の本陣である田中本陣が設けられ、宿場としての体裁が整えられていく 31 。そして寛永17年(1640年)、常備すべき伝馬の数は、ついに東海道の標準である100疋へと引き上げられた 31 。空白の五里を埋めるという国家的な要請と、地域の負担能力という現実との間で調整を重ねながら、川崎宿はこうして歴史の舞台に確固たる一歩を記したのである。
第四部:宿駅の確立と川崎の個性
第八章:六郷川と共に ― 渡船権益と財政再建
宿場として発足したものの、川崎宿の経営は当初から困難を極めた。伝馬役の負担は重く、宿場の財政は常に逼迫していた。この苦境を打開し、川崎宿を東海道有数の宿場へと発展させる原動力となったのが、皮肉にも宿場の目の前に横たわる最大の障害、六郷川(多摩川)であった。
六郷川には、慶長5年(1600年)に徳川家康の命で架橋されたが、度重なる洪水で流失を繰り返し、貞享5年(1688年)の大洪水を最後に、幕府は架橋を断念した 34 。以後、明治時代に至るまでの約190年間、旅人たちは渡し船に頼ることになる。この「六郷の渡し」の運営権は、当初、江戸の町人が請け負っており、その利益は川崎宿には還元されていなかった 35 。
この状況を打破したのが、宝永元年(1704年)に田中本陣の名主となった田中休愚(たなかきゅうぐ)であった 31 。非凡な行政手腕を持った彼は、疲弊する宿場の財政を立て直すため、渡船運営権の獲得に乗り出す。彼は幕府に粘り強く働きかけ、ついに宝永6年(1709年)、六郷の渡しの運営を川崎宿が請け負う権利を勝ち取ったのである 35 。
この成功は、川崎宿の運命を劇的に変えた。渡船料収入は宿の財政を潤す安定した財源となり、重い伝馬役の負担を補って余りあるものとなった 34 。地理的な「障害」が、一人の傑出した地域リーダーの才覚によって、宿場を支える「収益源」へと転換された瞬間であった。川崎宿は六郷川と共に生きることで、その経済的基盤を確立し、さらなる発展への道を切り拓いたのである。
第九章:宿場町の賑わい ― 川崎大師への分岐点として
財政基盤が安定すると、川崎宿は宿場町としての機能を急速に充実させていった。江戸側の新宿町には田中本陣、京側の砂子町には佐藤本陣が置かれ、大名や幕府役人の休泊に対応した 4 。また、公用荷物の継ぎ立てを行う問屋場、幕府の法令を掲示する高札場なども整備され、街道沿いには旅籠や茶屋、商店が軒を連ねるようになった 40 。
川崎宿の発展に、もう一つの大きな要素が加わる。それは、古くから「厄除け大師」として広く信仰を集めていた平間寺、通称「川崎大師」の存在であった。東海道は、この川崎大師への参詣道の分岐点にあたり、川崎宿は公用の旅人だけでなく、江戸や各地から訪れる多くの参詣客で賑わうようになった 36 。
この参詣客の需要に応える形で、川崎宿は独自の個性を育んでいく。特に、旅籠「万年屋」は、名物の「奈良茶飯」が評判を呼び、宿内一の規模を誇るまでに繁盛した 4 。その評判は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』で弥次さん喜多さんが立ち寄ったことで全国的に知られるようになった 4 。幕末には、日米修好通商条約の締結に臨むアメリカ総領事タウンゼント・ハリスがこの万年屋に宿泊し 4 、また、坂本龍馬ら幕末の志士たちも訪れるなど 41 、川崎宿は歴史の重要な舞台ともなった。単なる通過点としての宿駅から、信仰と行楽の拠点としての性格を併せ持つ賑わいの町へ。川崎宿は、こうして成熟期を迎えたのである。
結論:適応する国家システム ― 川崎宿が物語る徳川の統治
川崎宿の成立史は、1601年の東海道宿駅制度の布告から1623年の宿場起立に至る22年間の軌跡を辿ることで、徳川幕府の統治哲学の本質を鮮やかに映し出す。それは、一つの宿場町の建設というミクロな事象を通じて、マクロな国家システムが如何に機能したかを物語る、類稀なケーススタディである。
第一に、川崎宿の物語は、徳川幕府が壮大な国家計画を立案する強固な意志と、その計画が現場で引き起こした矛盾を認識し、柔軟に修正していく実務的な統治能力を併せ持っていたことの証左である。1601年の計画は、江戸を中心とする新たな秩序を構築する揺るぎないビジョンを示したが、品川・神奈川間の「空白の五里」は、地図上の合理性が現場の労働限界を度外視した結果の綻びであった。この問題に対し、幕府は22年という歳月を要しながらも、最終的に川崎宿を設置するという形で計画を修正した。これは、徳川の統治が硬直したものではなく、現場からのフィードバックを取り込み、自己を修正しうる「適応的なシステム」であったことを示している。
第二に、宿場の誕生には、幕府のトップダウンの政策だけでなく、地域の内的要因が複雑に絡み合っていた。小泉次大夫による二ヶ領用水の開削という農業基盤整備が、宿場立地の「土台」を準備した。一方で、宿駅化という重い負担に対する住民の抵抗と、それを「幕命」として断行した代官・小泉吉勝の存在は、国家意思と地域社会との間の緊張関係を浮き彫りにする。そして、設立後の財政難を「六郷の渡し」の権益獲得によって乗り越えた田中休愚の才覚は、地域リーダーの役割の重要性を示している。
総じて、川崎宿の成立過程は、戦国時代の「力」による直接的な支配から、江戸時代の「秩序と調整」による統治へと移行する、時代の転換点を象徴する一事象であったと言える。それは、国家の壮大なデザイン、地域の地理的・経済的条件、そしてそこに生きる人々の営みと抵抗が交錯する中で、一つの町が形成されていくダイナミズムそのものである。川崎宿は、徳川の国家デザインにおける、計画された偶発事であり、初期計画の欠陥を補完し、東海道という大動脈を完成させるための、最後の、そして極めて重要なピースだったのである。
引用文献
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- 「五街道」とは?地域文化を育んだのは、江戸時代から賑わう“道”でした。 | Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/148734
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