最終更新日 2025-10-03

戸塚宿整備(1601)

慶長6年、家康は東海道宿駅伝馬制度を整備したが戸塚は除外。保土ケ谷・藤沢間の難所から戸塚は非公式な「間の宿」として機能。澤邊宗三の尽力で慶長9年に公認され、中央と地方の協奏で宿場が誕生。
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戸塚宿整備(1601)の動態分析:戦国から徳川の秩序へ至る道程

序章:慶長六年、天下統一の槌音と東海道の動脈

慶長五年(1600年)九月、関ヶ原における徳川家康の勝利は、長く続いた戦乱の世の終焉を告げる画期的な出来事であった 1 。しかし、この軍事的な成功は、そのまま安定した全国支配を意味するものではなかった。豊臣家は大坂城に依然として強大な影響力を保持し、西国には豊臣恩顧の大名が多数存在していた 3 。家康にとって喫緊の課題は、この不安定な情勢下で、武力による勝利を恒久的な政治支配体制へと転換させることであった 4 。そのための国家的基盤整備として、家康が最優先で着手したのが、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈、東海道の整備であった。

この壮大な国家プロジェクトは、単なる物理的な道の建設に留まらない。それは、江戸を新たな政治の中心として確立し、同時に京都の朝廷や大坂の経済力を幕府の管理下に置くための、情報、軍事、経済の神経網を構築する試みであった 3 。迅速な情報伝達は西国大名の監視と統制に不可欠であり、有事の際の兵員や物資の輸送路確保は、徳川の軍事的優位を不動のものにするための生命線であった。この国家構想の第一歩として、家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年(1601年)正月、東海道筋の主要な町に対し、公用旅行者のために人馬を提供する「宿駅伝馬制度」を公式に発令した 2 。各宿場には「伝馬朱印状」と、制度の細則を定めた「御伝馬之定」が下付され、徳川による全国交通網支配の幕開けを告げたのである 8

この時、江戸日本橋から西へ向かう経路上では、品川宿、神奈川宿、保土ケ谷宿、そして藤沢宿などが正式な宿駅として指定された 7 。しかし、ここで一つの歴史的な謎が浮かび上がる。保土ケ谷宿と藤沢宿という二つの宿駅の間に位置する戸塚は、この最初の指定から漏れていたのである。戸塚が正式な宿場として幕府の公認を受けるのは、それから三年後の慶長九年(1604年)を待たねばならなかった 10

この「空白の三年間」は何を意味するのか。なぜ戸塚は遅れたのか。この時間的な差異こそ、本報告書が解明しようとする核心である。宿駅の指定は、伝馬役という公的な義務を地域に課す行為であり、その選定は単なる地理的測量に基づくだけではなかった 2 。近隣の藤沢宿が戸塚の設立に強く反対したという記録は 15 、宿駅の地位が地域経済の根幹を揺るがすほどの「利権」であったことを物語っている。したがって、「戸塚宿整備」という事象は、単一のインフラ整備事業としてではなく、徳川という新たな中央権力が、既存の地域社会の秩序や利害関係と衝突し、調整を重ねながら、その支配を浸透させていく過程を象徴する「政治的事件」として捉えなければならない。本報告書は、この動的なプロセスを時系列で丹念に追うことで、戦国から近世へと移行する時代のダイナミズムを明らかにすることを目的とする。

第一章:戦国時代の遺産 ― 後北条氏支配下の戸塚と鎌倉街道

徳川家康による東海道整備は、決して白紙の上に新たな道を描く事業ではなかった。その基盤には、半世紀以上にわたって関東に君臨した戦国大名・後北条氏が築き上げた交通網と、それによって形成された地域の歴史的蓄積が存在した。戸塚宿の成立を理解するためには、まずこの戦国時代の遺産を解き明かす必要がある。

中世以来の交通の要衝

戸塚周辺は、鎌倉に幕府が置かれた中世以来、関東各地と政治の中心地を結ぶ「鎌倉街道」が通過する交通の要衝であった 16 。特に「鎌倉街道下の道」は、この地域の重要な幹線道路として機能しており、古くから人々の往来が絶えない場所であった。この地理的優位性は、戦国時代に入り、後北条氏の領国経営においてさらに重要な意味を持つことになる。

後北条氏の領国経営と伝馬制度

後北条氏は、本拠地である小田原城を起点とし、支城である江戸城、玉縄城、八王子城などを結ぶ、高度に組織化された独自の交通・通信網を整備していた 16 。このシステムの中核をなしたのが「伝馬制度」である。これは、領国内の主要な街道沿いの宿駅に人馬を常備させ、軍需物資の輸送や使者による迅速な情報伝達を可能にするものであった 19 。後北条氏は「虎朱印」に代表される特徴的な印判を用いた伝馬手形(朱印状)を発行し、公的な通行許可証として、領国内の交通を厳格に管理していた 22 。この制度は、徳川幕府が後に全国規模で展開する宿駅伝馬制度の直接的な先駆と見なすことができる 24

この後北条氏の交通網において、後の東海道筋は極めて重要な役割を担っていた。特に藤沢は、弘治元年(1555年)には既に大鋸町に伝馬が置かれ、交通拠点として公式に認められていたことが記録されている 26

戸塚の戦略的重要性 ― 玉縄城との関係

戸塚が後北条氏にとって戦略的に重要であった理由は、その近傍に重要支城である玉縄城が存在したことにある 17 。玉縄城は、三浦半島を抑え、鎌倉を防衛するための軍事拠点であり、城の外堀は柏尾川と直結し、相模湾への水運をも確保していた 28 。戸塚周辺の地域は、この玉縄城を支える兵站線および連絡線の一部として機能し、小田原と江戸を結ぶルート上の要衝でもあった 16

このように、徳川家康が東海道のルートとして戸塚周辺を選定した背景には、明確な戦略的意図があった。天正十八年(1590年)に関東へ入府した家康は、後北条氏の旧領の統治構造を熟知していた 16 。彼が整備した東海道は、後北条氏が軍事的・経済的目的で築き上げた既存のインフラと、それによって形成された地域の集積を巧みに「接収」し、再編するものであった。更地に新たな道を引くのではなく、既に人・モノ・情報が動く「生きた道」を再利用することで、家康は迅速な街道整備と、地域に対する支配の効率的な浸透を同時に達成したのである。これは、旧体制の遺産を巧みに利用する家康の現実的な統治術の現れに他ならない。

第二章:国家構想の始動 ― 慶長六(1601)年、東海道宿駅伝馬制度の確立

関ヶ原の戦いを経て天下の実権を掌握した徳川家康は、その支配を盤石なものとするため、国家規模の社会基盤整備に着手した。その嚆矢となったのが、慶長六年(1601年)に発令された東海道宿駅伝馬制度である。この制度は、家康が自身の過去の統治経験と、豊臣秀吉ら先人の政策を昇華させた、新たな国家支配システムの集大成であった。

家康の多目的戦略

東海道の整備は、単一の目的のために行われたのではない。そこには、家康の深謀遠慮ともいえる多面的な戦略が込められていた。

  1. 情報通信網の確立: 新たな政治拠点である江戸と、西国監視の最前線である京都所司代や大坂を結ぶ、迅速かつ確実な情報ハイウェイを構築すること 3 。これにより、遠隔地の情報を即座に把握し、迅速な意思決定を可能にする中央集権体制の神経網を築こうとした。
  2. 公用・軍事輸送の円滑化: 幕府役人の公務による移動や、大坂の豊臣家との対立が再燃した場合などを想定した、軍隊や兵站物資の迅速な輸送路を確保すること 20 。これは徳川の軍事的優位性を維持するための生命線であった。
  3. 大名統制の布石: 全国の主要街道を幕府の直接管理下に置くことで、諸大名の自由な交通や情報交換を制限し、その軍事行動を牽制する狙いがあった。この街道支配は、後に制度化される参勤交代の基盤ともなった 5

この構想は、家康が関東移封以前に三河・遠江・駿河など五ヵ国を領有していた時代に、既に領国内で伝馬朱印状を発行し、宿駅を整備した成功体験に基づいている 3 。また、豊臣秀吉が政務拠点の大坂城と隠居城の伏見城を「京街道」で結び、二元的な統治を行った事例も、江戸と京・大坂を結ぶ東海道整備を構想する上で重要な参照モデルとなったと考えられる 3 。家康の政策は、戦国時代の統治手法の知見が、徳川による恒久平和(パクス・トクガワーナ)の礎へと転換された瞬間であった。

制度の法的根拠と宿駅の役割

この国家構想を実現するための法的根拠となったのが、「伝馬朱印状」と「御伝馬之定」である。

  • 伝馬朱印状: 幕府が各宿場にその公的地位を認める証として下付した文書。この朱印状を持つ公用旅行者に対し、宿場は最優先で人馬を提供することが義務付けられた 2
  • 御伝馬之定: 制度の具体的な運用規則を定めたもので、宿場が常備すべき人馬の数(東海道では各宿100人・100疋が基準)、伝馬に積載できる荷物の重量(当初は30貫目、約112.5kg)、駄賃などを細かく規定した 6

宿駅に指定された村々は、この伝馬役という重い公役を負担する見返りとして、地子(土地にかかる税金)の免除といった経済的特権を与えられた 6 。これは、国家インフラの維持コストを地域に負担させる代わりに、その地域の経済的発展を促すという、近世的な統治構造の原型であった。

慶長六年の宿駅配置図と「空白地帯」

この制度が発令された慶長六年の時点で、江戸日本橋を起点として、品川、川崎(この時点では未成立)、神奈川、保土ケ谷、そして藤沢などが宿駅として指定された 7 。しかし、この初期計画には一つの大きな欠陥が存在した。保土ケ谷宿と藤沢宿の間には、約17.2キロメートルという、他の宿駅間に比べて著しく長い区間が生まれてしまったのである 32 。この区間のほぼ中間に位置していた戸塚は、この国家的なグランドデザインから、当初は除外されていた。この意図的か、あるいは計画上の見落としか、いずれにせよ戸塚は制度上の「空白地帯」として残されることになったのである。

第三章:空白の三年間(1601-1604年)― 保土ケ谷・藤沢間の現実と戸塚の胎動

慶長六年に幕府が定めた東海道の宿駅配置は、国家による壮大な計画であったが、その計画は現場の地理的現実と必ずしも一致していなかった。特に、保土ケ谷宿と藤沢宿の間に生まれた長大な区間は、制度の欠陥を露呈させ、結果として戸塚に新たな役割と葛藤を生み出すことになる。この「空白の三年間」は、制度と現実がせめぎ合う、ダイナミックな期間であった。

地理的難関と過重な負担

保土ケ谷宿から藤沢宿までの約17キロメートルという道のりは、単に長いだけでなく、旅人にとって過酷なものであった。この区間には「品濃坂」や「大坂」といった、急峻な坂道が連続しており、人馬ともに体力を著しく消耗させる難所であった 13 。江戸を早朝の「七つどき」(午前4時頃)に出立したとしても、その日のうちに藤沢宿までたどり着くのは困難な行程であった 15

この困難は、旅人だけでなく、公役を担う保土ケ谷・藤沢の両宿にも過重な負担を強いた。公用の書状や荷物を次の宿場まで継ぎ送る伝馬役は宿駅の最重要任務であったが、この長距離と難所のために、人馬の疲弊は激しく、両宿の負担は他の宿場の比ではなかった 32 。幕府の計画は、現場の地理的現実によって、その非効率性を露呈していたのである。

需要と供給の法則 ― 「間の宿」の自然発生

制度上の空白は、経済的な需要を生み出した。疲弊した旅人たちには、保土ケ谷と藤沢の中間地点で休息を取り、馬を替えたいという切実な需要が存在した。この需要に応える形で、戸塚の住民たちによる経済活動が自然発生的に始まった。彼らは、幕府の公認がないまま、非公式に旅籠を営んで旅人を宿泊させたり、自家の人馬を提供して駄賃を稼いだりしたのである 32

これは、幕府の視点から見れば「モグリ」と呼ばれる無許可営業であったが、現実の必要性から生まれた必然的な現象であった。こうして戸塚は、公式な宿場として認められる以前から、実質的な休憩・中継地点、すなわち「間の宿(あいのしゅく)」としての機能を果たし始めた。国家によるマクロな制度設計が、ミクロな地域の地理的条件と市場原理によって、現場レベルで修正されていく様がここに見られる。

水面下の政治力学 ― 藤沢宿の抵抗

戸塚が実質的な宿場として機能し始めると、それは隣接する藤沢宿にとって看過できない脅威となった。戸塚に旅人や荷物が奪われることは、藤沢宿の収入、すなわち宿場としての経済的利権の喪失に直結するからである。藤沢宿は、戸塚が正式な宿場になることに対して「猛反対」したと記録されている 15 。これは、新興勢力の台頭に対する既存勢力の抵抗という、普遍的な対立構造であった。この藤沢宿による政治的な抵抗が、幕府の意思決定に影響を与え、戸塚宿の公認を遅らせた重要な一因であったと考えられる。

この「空白の三年間」は、徳川幕府の初期統治における「計画と現実の乖離」と、それに対する「制度の自己修正プロセス」を象徴している。当初の計画の不備が、市場原理による非公式な経済活動を生み、それが既存の利権と衝突して政治問題化する。最終的に幕府が下す決断は、この一連のフィードバックをどのように受け止め、政策を修正していくかという、初期徳川政権の統治能力が試される局面であった。

第四章:戸塚宿、誕生の瞬間 ― 地域有力者の尽力と幕府の公認

保土ケ谷・藤沢間の機能不全と、それに伴う戸塚の非公式な経済活動、そして藤沢宿との政治的対立という膠着状態は、地域の有力者の主体的な行動によって打破されることになった。慶長九年(1604年)の戸塚宿の公認は、幕府による一方的な決定ではなく、地域からの強い働きかけと、それを成功に導いた人物の存在なくしては語れない。

地域からの能動的な働きかけと中心人物

戸塚の住民たちは、現状に甘んじることなく、自らの町を正式な宿場として幕府に認めてもらうため、積極的に行動を起こした。彼らは「願書」を作成し、幕府に対して宿駅設置の嘆願活動を組織的に展開したのである 32 。これは、地域の将来を自らの手で切り開こうとする、強い共同体意識の表れであった。

この嘆願活動の中心となったのが、戸塚の名主であった澤邊宗三直久(さわべそうざんなおひさ)である 35 。澤邊家は、弘治二年(1556年)に羽黒大権現を地域に勧請するなど、戦国時代からこの地に深く根を張る旧家であった 37 。宗三は単なる村役人ではなく、地域を代表して幕府と交渉する政治力と人望を兼ね備えた人物であった。彼のリーダーシップの下、戸塚の宿駅昇格運動は本格化していく。

成功の鍵 ― 幕府中枢への人脈

一介の村役人による嘆願が、既存の宿場からの強い反対を乗り越えて成功することは、通常では極めて困難である。澤邊宗三の嘆願が実を結んだ背景には、彼の持つ強力な個人的コネクションの存在があった。彼の妹婿は、彦坂小刑部元正(ひこさかこずけのすけもとまさ)という、幕府の有力な代官だったのである 35

彦坂元正は、元は今川家の家臣であったが、徳川家康に仕えてその才能を高く評価された実力者であった。特に検地の指揮や兵站管理といった経済・行政分野で優れた手腕を発揮し、家康の信頼も厚い人物であった 35 。彼は、幕府の政策決定に直接的・間接的に影響を及ぼしうる、まさに中枢に近い位置にいた。

嘆願の成就 ― 慶長九年(1604年)の公認

澤邊宗三は、この義理の兄である彦坂元正の力を借りて、幕府に強く働きかけたとされる 35 。地域の切実な要求と、旅人の不便という現実的な問題点、そして幕府内部の有力者への直接的なパイプ。この三つの要素が結びついたことで、ついに事態は動いた。藤沢宿の反対を退け、慶長九年(1604年)、戸塚は幕府から正式な宿場として公認されるに至ったのである 10

この一連の出来事は、近世初期における「地域エリート層」の役割の重要性を明確に示している。澤邊宗三のような人物は、単に幕府の支配を受ける客体ではなく、自らの家格、人脈、政治力を駆使して中央の政策決定に影響を与え、地域の利益を確保する主体的なアクターであった。戸塚宿の誕生は、澤邊宗三という一人の人物の成功物語であると同時に、徳川幕府と地方社会との間に、地域エリートを介した双方向的な関係性が構築されていく過程を映し出す、象徴的な事例と言えるだろう。


表1:戸塚宿成立に至る時系列表(1555年~1604年)

年代(西暦/和暦)

出来事

関連する主体

典拠

1555年(弘治元年)

藤沢大鋸町に伝馬を設置

後北条氏

26

1590年(天正18年)

徳川家康、関東へ入府

徳川家康

16

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦い

徳川家康

1

1601年(慶長6年)

東海道宿駅伝馬制度を発令。保土ケ谷宿、藤沢宿などが指定される

徳川幕府

2

1601年~1604年

戸塚が非公式の「間の宿」として機能。藤沢宿が反対。澤邊宗三らが嘆願活動を展開

戸塚住民、藤沢宿、澤邊宗三

15

1604年(慶長9年)

戸塚、正式な宿場として公認される

徳川幕府

10


第五章:完成した宿駅の機能と構造

慶長九年(1604年)に正式な宿場として誕生した戸塚宿は、その後、東海道における重要な拠点として急速に発展を遂げた。一連の「事変」の末に生まれたこの宿場は、どのような役割を担い、いかなる内部構造を持っていたのか。その実態を明らかにすることで、事変の帰結としてどのような社会経済的実体が誕生したのかを理解することができる。

東海道における戦略的地位

戸塚宿の繁栄は、その絶妙な地理的位置によって支えられていた。

  • 江戸からの最初の宿泊地: 江戸日本橋からの距離、約42キロメートル(十里半)は、早朝に江戸を出立した当時の旅人が、一日の行程を終えて最初の宿を取るのに最適な距離であった 10 。このため、戸塚宿は常に多くの旅人で賑わい、宿泊機能を中心として発展した。
  • 交通の結節点: 戸塚は、単に東海道が通過するだけの場所ではなかった。広重の浮世絵に描かれた道標が示すように、ここから南へ向かえば鎌倉へ至る遊山道が、また北西へ向かえば大山阿夫利神社への参詣道が分岐していた 10 。これにより、公用の武士や商人だけでなく、観光や信仰を目的とする多様な人々が集まる交通のハブとしての機能も担っていた。

宿場の内部構造と運営

戸塚宿は、多くの旅人や公用交通に対応するため、高度に組織化された内部構造を持っていた。

  • 本陣・脇本陣: 大名や公家、幕府の高級役人といった身分の高い人々が宿泊・休憩するための専用施設。戸塚宿には、澤邊家と内田家が務める2軒の本陣と、3軒の脇本陣が置かれていた 41 。特に、宿駅開設の最大の功労者である澤邊宗三の家系が本陣を務めたことは象徴的であり、明治天皇の東下の際には行在所(あんざいしょ)にもなった 36 。これは、地域の功労者が名誉ある役職を得るという、近世的な社会秩序形成の典型例である。
  • 問屋場(といやば): 宿場の行政・業務の中心であり、伝馬・人足の継ぎ立て業務(人馬の差配)を取り仕切る場所であった 42 。戸塚宿の特筆すべき点は、この問屋場が矢部町、吉田町、中宿の3箇所に設けられ、月ごとに交代で業務を担当するという、高度なローテーション制を敷いていたことである 42 。これは、戸塚宿が処理する公用交通の量が膨大であったことを示唆している。
  • 旅籠(はたご): 一般の旅人が宿泊する施設。後の天保十四年(1843年)の記録によれば、その数は75軒にのぼり、保土ケ谷宿(67軒)や藤沢宿(45軒)を上回っていた 27 。これは、戸塚宿が宿泊機能に特化した宿場町として繁栄していたことを物語っている。

宿場の規模と特徴

天保十四年(1843年)に幕府が作成した『東海道宿村大概帳』によれば、戸塚宿の規模は人口2,906人、総家数613軒であった 27 。これは、隣接する宿場と比較することで、その特徴がより鮮明になる。


表2:周辺宿場比較表(天保14年/1843年時点)

宿場名

日本橋からの距離

人口(人)

総家数(軒)

旅籠数(軒)

典拠

保土ケ谷宿

約33km

2,928

558

67

7

戸塚宿

約42km

2,906

613

75

27

藤沢宿

約49.9km

4,089

919

45

15


この比較表から興味深い事実が読み取れる。戸塚宿は、保土ケ谷宿と人口規模ではほぼ同等でありながら、家数と旅籠数がそれを上回っており、宿泊業を中心とした宿場町としての性格が強いことがわかる。一方で、藤沢宿は人口・家数において突出しているが、旅籠数は比較的少ない。これは、藤沢宿が時宗総本山・遊行寺の門前町としての機能や、多方面への街道が分岐する商業拠点としての性格を併せ持つ、より複合的な都市であったことを示唆している。戸塚宿は、まさに東海道の旅人のために生まれ、その需要に応えることで発展した、純粋な「宿場町」であったと言えよう。

終章:戦国の記憶から徳川の秩序へ

「戸塚宿整備(1601)」という事象を巡る一連の動態は、単に一つの宿場が成立するまでの物語に留まらない。それは、関ヶ原の戦いという大きな軍事的転換点を経て、日本の社会が戦乱の時代から、制度と交渉によって秩序が形成される新たな時代へと移行していく、その過渡期の縮図である。

秩序の再編 ― 「私的な道」から「公的な道」へ

戸塚宿の成立過程は、後北条氏が領国経営のために築いた地域限定の軍事・経済ネットワークが解体され、徳川幕府が構築する全国規模の公的な交通ネットワークへと再編・統合されていく象徴的な出来事であった。戦国大名がその権威の象徴として発行した「虎朱印」の伝馬手形が通用した道は、いわば大名の「私的な道」であった。それが、徳川の「伝馬朱印状」によって管理される、天下の「公的な道」へと変質したのである。この秩序の再編は、日本の統治システムが、地域に割拠する武力から、中央集権的な法と制度へと移行したことを意味している。

中央と地方の協奏

しかし、この新たな秩序は、徳川幕府によるトップダウンの国家構想だけで完成したのではない。本報告書が明らかにしたように、その過程には常に地方の現実が介在していた。保土ケ谷と藤沢の間に横たわる坂道という「地理的条件」、旅人の需要に応えようとする住民たちの「経済活動」、そして澤邊宗三に代表される「地域エリートの主体的な働きかけ」。これらボトムアップの力が、中央の政策に修正を迫り、影響を与え、最終的な歴史の形を決定づけた。戸塚宿の誕生は、中央の計画と地方の現実が衝突し、交渉し、そして融合する「協奏」の末に成し遂げられたものであった。

戸塚宿が象徴するもの

かくして、戸塚宿の誕生譚は、日本の近世がいかにして始まったか、その息吹を我々に伝えてくれる。それは、力と力がぶつかり合う戦国の記憶の上に、徳川による新たな秩序が、時には計画的に、時には現実との軋轢の中で修正されながら、着実に築かれていく瞬間のドキュメントである。この一つの宿場の成立史を通して、我々は、戦国という時代が終わり、安定した社会の礎が築かれていく、歴史の大きな転換点に立ち会うことができるのである。

引用文献

  1. 【関ヶ原の舞台をゆく①】関ヶ原の戦いに至るまで~2年前から始まっていた関ヶ原・前哨戦 - 城びと https://shirobito.jp/article/484
  2. www.ktr.mlit.go.jp https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0105.htm#:~:text=%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AF%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE,%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
  3. #1 なぜ家康は東海道を整備したのか|不二考匠 - note https://note.com/takamasa_jindoh/n/nc89e576a7126
  4. 戦国三英傑の政策一覧まとめ/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/105024/
  5. 徳川家康がしたこと、功績や政策を簡単にわかりやすくしたまとめ - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/ieyasu-achieved
  6. 江戸時代の陸上・河川交通 ~スライド本文~ - 静岡県立中央図書館 https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/1649/1/2-2.pdf
  7. www.city.yokohama.lg.jp https://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/shokai/rekishi/tokaido/shuku-naritachi.html#:~:text=%E4%BF%9D%E5%9C%9F%E3%82%B1%E8%B0%B7%E5%AE%BF%E3%81%AF%E3%80%81%E6%85%B6%E9%95%B7%EF%BC%96,%EF%BC%94%E7%95%AA%E7%9B%AE%E3%81%AE%E5%AE%BF%E5%A0%B4%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82
  8. 宿駅伝馬制度って、なんのこと? - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0105.htm
  9. 保土ヶ谷が宿場になったのはいつ頃ですか? - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0205.htm
  10. 旧東海道戸塚宿 - 横浜市 https://www.city.yokohama.lg.jp/totsuka/shokai/gaiyo/rekisiwalk/totukasyuku.html
  11. 保土ヶ谷宿本陣跡 - 名右衛門 https://naemon.jp/kanagawa/hodogayahonjin.php
  12. 東海道を歩く その3 戸塚(品濃)から平塚 - 散歩の途中 - はてなブログ https://miwa3k.hatenablog.jp/entry/tokaido_3
  13. 【かながわ東海道】宿場町について知ろう! |特集 |【公式】神奈川県のお出かけ・観光・旅行サイト「観光かながわNOW」 https://www.kanagawa-kankou.or.jp/features/tokaido-syukuba
  14. 【伝馬役と歩行役】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht012910
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  26. 藤沢宿の成り立ちについて https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/bunkazai/kyoiku/bunka/kyodoshi/naritachi.html
  27. 藤沢宿の紹介 | ふじさわ宿交流館 https://fujisawashuku-kouryukan.com/kyutoukaido/fujisawashuku.html
  28. 「戦国時代、難攻不落の『玉縄城』に思う」 | スタッフブログ | 横浜市青少年育成センター https://yokohama-youth.jp/ikusei/sengoku-nagano/
  29. 玉縄城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%B8%84%E5%9F%8E
  30. さいたま市立浦和博物館館報 https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/004/005/002/006/p114191_d/fil/akansasu99.pdf
  31. 祝 東海道五十七次400周年 https://tokaido.org/tokaido57-400years/
  32. 東海道五十三次の解説 5 保土ヶ谷 - 一般社団法人日本製品遺産協会 https://www.n-heritage.org/2025/04/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%AC%A1%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%80%805%E3%80%80%E4%BF%9D%E5%9C%9F%E3%83%B6%E8%B0%B7/
  33. 神奈川県には江戸時代に整備された五街道のうち https://www.pref.kanagawa.jp/documents/2055/07_t4c3.pdf
  34. 戸塚が宿場になったのはいつ頃ですか? - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0206.htm
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  37. 戸塚宿 澤邊本陣跡(名右衛門) https://naemon.jp/kanagawa/totsuka_sawabehonjin.php
  38. 横浜の古道を歩く 東海道その5 ―戸塚宿後編― - はまれぽ.com 神奈川県の地域情報サイト https://hamarepo.com/story.php?story_id=7652
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  40. 旧東海道とつかの歴史 - 横浜市 https://www.city.yokohama.lg.jp/totsuka/kusei/koho/koho_totsuka/kohoniryoku.files/0008_20210407.pdf
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  42. 東海道と宿場の施設【問屋場】 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/03_sisetu/06index.htm
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