最終更新日 2025-09-30

政庁移転至甲府(1590)

天正18年、豊臣秀吉は徳川家康の関東移封後、甲斐の政庁を躑躅ヶ崎館から甲府城へ移転。羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政らが築城と太閤検地を推進し、武田氏の旧体制を解体。対家康戦略と中央集権化の拠点とした。
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甲斐国における政庁移転の真相:1590年を起点とする中央集権化の十年

序章:事変の再定義 ―「政庁移転至甲府」とは何か

日本の戦国時代における「政庁移転至甲府」という事変は、しばしば「武田氏の館から新しい城へ行政中枢を移し集権化を図った出来事」と要約される 1 。この認識は事象の核心を的確に捉えているが、その背景には、1590年という画期的な年を起点とする、より壮大で複雑な歴史的プロセスが隠されている。それは、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の国家戦略の一環として、甲斐国という一つの地域が経験した、政治、軍事、社会構造の根本的な変革の物語である。

本報告書では、利用者様が提示された1590年という単一の時点を、この大変革が本格的に始動した「起点」と位置づける。しかし、政庁の物理的な移転と統治機能の完全な移行は、この年単独で完結したわけではない。むしろ、武田氏が滅亡した1582年から、豊臣政権による甲斐支配が確立し、関ヶ原の戦いで再び大きな転換点を迎える1600年までの約18年間、特に豊臣大名が直接統治した1590年から1600年までの10年間を、一つの連続した「政庁移転期」として捉え直す。この期間には、支配者が目まぐるしく交代し、それぞれの政策が積み重なり、あるいは断絶しながら、甲斐国の新しい姿が形作られていった。

したがって、本報告書は単なる物理的な拠点の移動記録に留まらない。以下の三つの主題を、時系列に沿って多角的に解き明かすことを目的とする。第一に、この政庁移転が、豊臣秀吉による対徳川家康戦略という、天下統一事業の最終段階における地政学的要請から生まれた国家プロジェクトであったこと。第二に、中世的な「館(やかた)」が象徴する統治体制から、近世的な「城(しろ)」を核とする新しい統治システムへといかに移行したか、その思想と技術の変遷を明らかにすること。そして第三に、太閤検地や城下町建設といった中央集権化政策が、甲斐国という地方社会を如何に再編成し、近世社会の礎を築いたかを具体的に検証することである。この事変は、戦国から近世へと移行する時代のダイナミズムを凝縮した、極めて重要な歴史的ケーススタディなのである。

第一章:前史 ― 武田氏滅亡後の甲斐国(1582年~1590年)

武田氏統治の終焉と躑躅ヶ崎館

1590年の政庁移転を理解するためには、まずその前段階、すなわち武田氏による統治とその拠点であった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の性格を把握する必要がある。武田信虎が永正16年(1519年)に本拠を移して以来、信玄、勝頼と三代にわたり、躑躅ヶ崎館は甲斐国の政治、経済、文化の中心であり続けた 2 。しかし、その本質は、戦闘を主眼に置いた「城」ではなく、あくまで政務と生活を営むための「館」であった。その構造は、主君の居館を中心に、有力家臣団の屋敷を周囲に配置するものであり、防御は背後に控える要害山城と一体となって初めて機能する設計思想に基づいていた 2 。これは、主君と家臣団の人的な信頼関係と、比較的緩やかな主従関係に立脚した、中世的な統治のあり方を象徴していた。

しかし、戦国時代の戦闘様式が激化するにつれ、こうした「館」の防御能力には限界が見え始める。武田勝頼は天正9年(1581年)、より防御力に優れた新府城(韮崎市)を築き、本拠を移転した 2 。この決断は、勝頼自身が時代の変化を認識し、従来の統治拠点では領国を維持できないという危機感の表れであった。だが、その新府城も完成を見ぬまま、翌天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍による甲州征伐によって武田氏は滅亡し、甲斐国は新たな支配者を迎えることとなる。

織田・徳川による暫定統治

武田氏滅亡後、甲斐国はまず織田信長の支配下に入り、重臣の河尻秀隆が城代として統治にあたった 5 。しかし、同年6月の本能寺の変で信長が斃れると、甲斐国は主無き地となり、これを巡って徳川家康と相模の後北条氏が争奪戦を繰り広げた。最終的にこの「天正壬午の乱」を制した徳川家康が、甲斐国をその勢力圏に組み入れたのである 2

家康の甲斐統治は、巧みな懐柔策によって特徴づけられる。彼は武田氏の旧臣を積極的に自らの家臣団に組み入れ、また、武田氏が確立した金貨制度である甲州金や、度量衡の基準である甲州枡などをそのまま継承する政策をとった 9 。これにより、旧武田領の混乱を巧みに収拾し、領国経営を安定させた。この時期、家康は統治拠点として再び躑躅ヶ崎館を使用し、その機能を拡張したとされている 2

甲府城の萌芽 ― 家康の構想

しかし、家康は躑躅ヶ崎館での統治に安住していたわけではなかった。彼は甲斐国を恒久的に支配するための新たな拠点として、甲府盆地を見渡せる独立丘陵、一条小山(現在の甲府城跡地)に、近世的な城郭を築くことを構想していた 9 。この計画は、戦国末期における城郭技術の飛躍的な進歩と、領国支配の象徴としての「城」の重要性を家康が深く認識していたことを示している。実際に、家康は天正17年(1589年)頃には、この地にあった浄居寺城の大修築を命じており、新城建設に向けた具体的な動きを開始していた 10

この事実は、甲府城の築城計画が、豊臣秀吉によって初めて発案されたものではないことを示唆する点で極めて重要である。甲府という土地の戦略的重要性、そしてそこに近世城郭を建設する必要性は、当代最高の戦略家であった徳川家康が先に認識していた。しかし、家康にとっての甲府城は、あくまで「甲斐国を統治するための拠点」であった。この構想が、後に豊臣秀吉の手に渡ることによって、その目的と規模は根本的に変容を遂げる。秀吉は家康の「領国経営」のための計画を乗っ取り、それを「天下統一」と「対家康包囲網」を完成させるための、壮大な国家プロジェクトへと昇華させたのである。家康の関東移封により、この計画は実現に至らず、甲府城の築城は新たな時代の支配者に引き継がれることになった 10

第二章:激動の1590年 ― 豊臣政権の成立と甲斐国の新体制

天下統一と家康の関東移封

天正18年(1590年)は、日本の歴史における大きな分水嶺であった。豊臣秀吉が20万を超える大軍を率いて敢行した小田原征伐により、関東に覇を唱えた後北条氏が滅亡。これにより、秀吉は名実ともに天下人としての地位を確立し、戦国時代は事実上の終焉を迎えた 8 。この戦後処理において、秀吉は最も重要かつ大胆な政治的決断を下す。それは、最大の同盟者であり、潜在的なライバルでもあった徳川家康を、従来の東海5カ国から、旧後北条領を中心とする関東250万石へと移封(国替え)させることであった 8

この配置転換は、家康に広大な領地を与える一方で、彼を長年築き上げてきた本拠地から引き離し、豊臣政権の中枢である畿内から遠ざけるという、秀吉の深謀遠慮の表れであった。家康が関東という未だ不安定な土地の経営に専念せざるを得なくなることで、秀吉は中央での政権基盤を盤石にすることができたのである。

甲斐国の戦略的位置づけの激変

徳川家康の関東移封は、甲斐国の地政学的な位置づけを一夜にして変貌させた。それまで家康の領国であった甲斐は、この瞬間から、関東の巨大勢力・徳川家康と、畿内を本拠とする天下人・豊臣秀吉との間に位置する、極めて重要な戦略的緩衝地帯となった。甲州街道を通じて江戸と直結する甲斐国を抑えることは、豊臣政権にとって、関東の家康を監視し、牽制するための絶対的な要件となったのである 8 。甲府城の築城は、まさにこの国家戦略の要として計画されたものであった 12

初代領主・羽柴秀勝の入府

この最重要拠点である甲斐国の初代領主として秀吉が送り込んだのは、自らの甥であり、養子でもあった羽柴(豊臣)秀勝であった 8 。秀吉が最も信頼する一門を配置したことからも、彼が甲斐国をいかに重視していたかが窺える。秀勝の入府とともに、かつて家康が構想した一条小山での築城計画は、豊臣政権の公式事業として正式に着手された 7 。甲斐国内の職人層にも動員がかけられ、築城が開始された記録が残っている 12

しかし、秀勝の甲斐統治はわずか1年で終わりを告げる。天正19年(1591年)、彼は美濃岐阜へと移封された 8 。このため、甲府城の築城はまだ緒に就いたばかりであり、本格的な工事は次の領主に引き継がれることになった。この後、加藤光泰、そして浅野長政へと続く支配者の頻繁な交代は、一見すると豊臣政権の場当たり的な人事にも見えるかもしれない。しかし、その人選の変遷を詳細に分析すると、むしろ秀吉の合理的な戦略性が浮かび上がってくる。築城という巨大プロジェクトの進捗フェーズに合わせて、最適な人材を投入するという、計算された人事戦略であった可能性が高い。すなわち、荒々しい普請が中心となる初期・中期段階には武功派の加藤光泰を、そして城郭が完成に近づき、本格的な行政システムの構築と東国大名の統括という高度な政治力が求められる最終段階には、五奉行筆頭の行政官僚である浅野長政を投入したのである。これは、甲斐統治と甲府城築城が、秀吉の緻密な計画の下で進められたことを物語っている。

第三章:築城と統治の継承 ― 加藤・浅野時代への移行(1591年~1600年)

甲府城の建設と甲斐国の統治は、一人の領主によって完結したのではなく、羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長父子という三代の豊臣大名によるリレー形式で推進された。この複雑な移行期における各々の役割と事業の進捗を時系列で追うことで、「政庁移転」のリアルタイムな様相が明らかになる。

支配者名

在任期間

石高

秀吉との関係

主要な業績・役割

羽柴 秀勝

1590年~1591年

甲斐・信濃2カ国

甥(秀吉の姉の子)、養子

甲府城築城の着手。豊臣一門として甲斐国を確保する初期段階を担当 8

加藤 光泰

1591年~1593年

甲斐一国 24万石

譜代の武功派大名

甲府城の本格的な普請を推進。天守台、本丸など城の中核部分の石垣を完成させる 12

浅野 長政・幸長

1593年~1600年

甲斐一国 21万5千石

姻戚(秀吉の正室ねねの義弟)、五奉行

甲府城の外郭までを完成させ、城下町を整備。太閤検地を実施し、近世的な統治システムを確立。東国大名の取次役も兼任 14

時系列解説1:加藤光泰の時代(1591年~1593年)

羽柴秀勝が美濃へ移封された後、甲斐国24万石の領主として入府したのは、豊臣政権の武功派大名である加藤光泰であった 14 。彼の統治下で、甲府城の築城工事は本格的な段階へと移行する。研究によれば、加藤光泰の在任中に、城の心臓部である天守台、本丸、そして東の丸(稲荷曲輪)といった中枢部分の石垣普請が完成したとみられている 12

光泰は、築城に必要な柚(ゆず)や大鋸引き(おがひき)といった職人たちに諸役免許を与え、彼らを普請に参加させるなど、強力なリーダーシップで工事を推進した 19 。甲府城の石垣に全面的に採用された「穴太積み」という最新技術も、この時期に西国から動員された専門技術者集団によって導入されたと考えられる。彼の統治は、まさに甲府城という巨大なハードウェアを建設することに主眼が置かれていた。

しかし、彼の甲斐統治は予期せぬ形で終わりを迎える。文禄元年(1592年)に文禄の役(朝鮮出兵)が始まると、光泰も秀吉の命により朝鮮半島へ渡海 8 。翌文禄2年(1593年)、陣中にて病に倒れ、彼の地で没した 8 。甲府城の完成を見ることなく、彼の甲斐支配は道半ばで途絶えたのである。

時系列解説2:浅野長政・幸長父子の時代(1593年~1600年)

加藤光泰の死後、秀吉が甲斐統治の総仕上げを託したのは、最も信頼する腹心の一人であり、豊臣政権の最高行政官僚である五奉行の一人、浅野長政であった 16 。長政は息子の幸長(よしなが)と共に、甲斐国21万5千石(資料により22万5千石とも 18 )の領主として入府した 14 。この人選は、甲斐統治のフェーズが、単なる城の建設から、領国全体の統治システムの構築へと移行したことを明確に示している。

浅野長政・幸長父子は、加藤光泰が進めた築城事業を継承し、城の建設予定地内にあった寺社や村を計画的に移転させ、外郭に至るまで城郭のほぼ全体を完成させたとされる 12 。これにより、甲府城は名実ともに関東の徳川家康を睨む、豊臣政権の東国における最大級の拠点としてその姿を現した。

しかし、浅野氏の功績は築城だけに留まらない。彼らは甲斐国において太閤検地を断行し、新しい城下町を建設し、上水道を整備するなど、甲斐国の社会経済システムを根本から作り変える作業に着手した 18 。実質的な意味での「政庁移転」、すなわち統治のハード(城)とソフト(行政システム)の双方が完成したのは、この浅野氏の時代であったと言える。

なお、浅野長政は五奉行として司法を担当するなど 16 、豊臣政権の中枢にあって政務に忙殺されていたため、京都や大坂に在住していることが多かった 18 。そのため、領国である甲斐国内の具体的な統治は、主に息子の幸長が取り仕切っていたと考えられている 18 。この父子の連携によって、中央の政策と現地の統治が一体となって推進され、甲斐国の近世化は急速に進展したのである。

第四章:二つの政庁 ― 躑躅ヶ崎館から甲府城へ

甲斐国における政庁の移転は、単なる拠点の物理的な移動ではなかった。それは、中世的な「館」が象徴する統治思想から、近世的な「城」が体現する新しい支配のあり方への、パラダイムシフトであった。躑躅ヶ崎館と甲府城を比較することで、この変革の本質がより鮮明になる。

思想と象徴性の比較

躑躅ヶ崎館は、武田氏という特定の氏族の権威と、甲斐国内の国人衆との主従関係の上に成り立っていた。その空間構成は、主君の館を中心に家臣の屋敷が同心円状に広がるものであり、統治者と被治者の関係が比較的近く、人的な結合に基づいていたことを示している。それは、伝統と家格に根差した、いわば「内向き」の権威の象徴であった。

一方、甲府城は全く異なる思想に基づいて建設された。高く聳える石垣、威圧的な櫓や門、そして城の最上部に位置する天守台は、支配者の絶対的な権威を視覚的に誇示し、領民に対して絶対的な服従を求める装置であった 8 。これは、織田信長の安土城に始まり、豊臣秀吉の大坂城で完成された、天下人の権力を可視化するための新しい城郭思想の系譜に連なるものである 11 。甲府城は、武田氏の旧領に打ち込まれた、豊臣政権という中央権力の巨大な楔(くさび)であり、その存在自体が「外向き」の、普遍的な権威の象徴であった。発掘調査で豊臣家の家紋である桐紋をあしらった瓦が出土していることは、この城が誰の権威の下に築かれたかを雄弁に物語っている 7

機能と構造の比較

両者の違いは、その機能と構造においてより具体的になる。防御思想において、躑躅ヶ崎館は平時の居館であり、有事の際には背後の山城(要害山城)に立て籠もることを前提としていた 2 。館単体での防御力は限定的であった。これに対し、甲府城は広大な内堀、二ノ堀、三ノ堀で囲まれ、それ自体が一個の独立した巨大な軍事要塞として設計されている 5 。これは、統治拠点がそのまま最終防衛ラインとなる、近世城郭の思想を反映している。

その構造を支える城郭技術においても、決定的な差が見られる。甲府城の石垣には、「穴太積み(あのうづみ)」と呼ばれる、自然石を巧みに組み上げる西国系の最新技術が全面的に導入されている 11 。これは、安土城や大坂城の建設で培われた、当時の最先端技術であった。豊臣政権が、この技術を持つ専門家集団を甲斐国に送り込み、これほど大規模な石垣を築かせたことには、明確な政治的意図があった。それは、豊臣政権の圧倒的な技術力と経済力を東国の諸勢力、とりわけ関東の徳川家康に見せつけ、その威勢を示すための戦略的な技術移転だったのである。

比較項目

躑躅ヶ崎館

甲府城

立地

扇状地の平坦部

独立丘陵(一条小山)を利用した平山城

時代区分

中世(戦国期)

近世初頭(織豊期)

主要な統治者

武田氏(信虎、信玄、勝頼)

豊臣系大名(羽柴、加藤、浅野)、徳川氏

防御思想

背後の山城と一体で機能する平時の居館

拠点自体が独立した軍事要塞

主要構造物

土塁、堀(石垣は限定的)

高石垣(総石垣)、広大な堀、天守台

政治的象徴性

武田氏一族の伝統と権威(内向き)

豊臣政権の絶対的な権力と威光(外向き)

技術的背景

在地の伝統的工法

織豊系・西国の最新技術(穴太積み)

躑躅ヶ崎館の廃城

甲府城が新たな行政・軍事拠点として完成に近づくにつれて、躑躅ヶ崎館はその歴史的役割を終えることとなった。甲斐国の統治機能が完全に甲府城へ移管されると、躑躅ヶ崎館は廃城となり、武田氏の栄華を物語る遺跡として静かに時を重ねることになる 1 。江戸時代には「古城」と呼ばれ、その広大な敷地や堀は、一部が灌漑用の溜池として利用されるなど、新たな役割を担うこともあった 3 。武田氏の「館」の終焉と、豊臣氏の「城」の誕生は、甲斐国が経験した時代の大きな転換を象徴する出来事であった。

第五章:新たな国づくり ― 浅野長政の甲斐統治と中央集権化の波

浅野長政・幸長父子による甲斐統治は、甲府城というハードウェアの完成に留まらなかった。彼らは豊臣政権の中央集権化政策を甲斐国に徹底して適用し、社会の仕組み、すなわちソフトウェアを根本から再構築した。この「新たな国づくり」こそが、「政庁移転」の真の目的であった。城の建設と社会システムの再構築は、分かちがたく結びついた、一体のプロジェクトだったのである。

太閤検地の衝撃

浅野氏が甲斐国で断行した最も重要な政策が、豊臣秀吉の天下統一事業の根幹をなす太閤検地であった 16 。これは、単なる土地調査ではない。中世以来、甲斐国に根付いていた荘園制や、武田氏時代に形成された複雑な土地所有関係を完全に否定し、すべての土地を「石高(こくだか)」という全国統一の基準で再評価し直す、革命的な経済政策であった 29

この検地により、一つの土地を実際に耕作する農民が、その土地の納税責任者として検地帳に登録された(一地一作人の原則) 31 。これにより、農民は土地に固く縛り付けられ、移動の自由を失う一方で、土地に対する耕作権が公的に保障されることにもなった 32 。領主である豊臣大名は、村を一つの単位として年貢を徴収する「村請制(むらうけせい)」を導入し、個々の農民ではなく村全体に年貢納入の責任を負わせた 34 。これにより、中間搾取が排除され、領主は安定した税収を確実に確保できるようになった。このシステムの導入は、甲斐国が武田氏の私的な領国から、豊臣政権の直接的な経済基盤へと完全に組み込まれたことを意味していた。

甲府新城下町の建設

政庁の移転は、城という点だけでなく、城下町という面の創出を伴う、壮大な都市計画でもあった。浅野氏は、甲府城の完成と並行して、全く新しい近世的な城下町(新府中)の建設を推進した 35

この都市計画は、甲府城を核として、その周囲に武家屋敷、さらにその外側に町人地を計画的に配置するという、機能的かつ身分制に基づいたものであった 15 。その実現のため、浅野氏は強力な権限を行使した。武田氏時代からの城下町(古府中)にあった有力な寺社や、経済を担う町人たちを、新城下町へと強制的に移転させたのである 24 。これは、旧来の武田氏に連なるコミュニティを一度解体し、新しい支配者である豊臣大名を中心とする新たな社会秩序の中に人々を組み込むための、極めて意図的な社会政策であった。

さらに、浅野氏は都市機能の根幹をなすインフラ整備にも着手した。甲府の地は良質な飲料水の確保が困難であったため、相川や荒川から清冽な水を引き込み、城下町に供給するための「甲府上水」を整備した 25 。この事業は、浅野氏が単なる軍事的な占領者ではなく、民政にも意を用いた長期的な統治者として甲斐国に臨んでいたことを示している。

東国取次役としての浅野長政

浅野長政に与えられた役割は、甲斐一国の統治に留まらなかった。彼は秀吉から、伊達政宗(仙台)や南部信直(盛岡)といった東北地方の有力大名との交渉や連絡を担当する「取次役(とりつぎやく)」にも任じられていた 17 。これは、長政が豊臣政権の東国支配におけるキーマンであったことを意味する。

この文脈において、甲府と甲府城は、単なる甲斐国の政庁ではなく、豊臣政権の「東国経営の拠点」という、より広域的な役割を担っていた 12 。有事の際には、長政の指揮の下、取次役として関係を持つ東国大名が甲府に集結し、関東の徳川家康に対抗するための前線司令部となることが想定されていたのである。甲府城の壮大さと堅固さは、この広域的な軍事・政治拠点の役割を果たすためにこそ必要とされたのであった。

終章:歴史的意義 ―「政庁移転」が残したもの

戦国から近世への移行の象徴

1590年を起点とする甲斐国における一連の出来事は、日本史の大きな転換点、すなわち戦国時代の分権的な社会から、近世の集権的な幕藩体制へと移行していく過渡期のダイナミズムを凝縮した、象徴的な事例であった。武田氏の「館」を中心とし、家臣団との人的な結合に重きを置いた中世的な統治システムは、完全に過去のものとなった。それに代わって現れたのは、豊臣大名の「城」を物理的・象徴的な核とし、石高制という均質的な経済基盤の上に築かれた、官僚的で中央集権的な支配体制であった。この劇的な転換は、甲斐国一国に留まらず、秀吉が目指した新しい日本の姿そのものであった。

甲府の都市基盤の確立

豊臣系大名、とりわけ浅野長政・幸長父子によって築かれた甲府城と、その周囲に計画的に配置された城下町の骨格は、その後の甲府の歴史の礎となった。関ヶ原の戦いの後、甲斐国は再び徳川家の支配下に入るが、江戸時代を通じて甲府城は甲府藩の政庁として、また時には幕府の直轄地として、その重要性を保ち続けた 8 。特に、江戸幕府にとっては将軍家の一門が城主を務める親藩の城として、江戸の西の守りを固める戦略的要衝と位置づけられた 11 。浅野氏らが整備した城下町の区割りや上水道といった都市基盤は、江戸時代の発展を支え、さらに明治維新後の近代都市・甲府市の形成にまで、その影響を色濃く残している 35

事変の総括

結論として、「政庁移転至甲府」は、1590年という一点で完結する事象ではなく、豊臣秀吉の天下統一戦略という壮大な構想に基づき、約10年の歳月をかけて実行された国家プロジェクトであった。それは、徳川家康という最大の潜在的脅威を封じ込めるための軍事戦略であり、同時に、中世的な社会構造を解体し、近世的な支配システムを確立するための政治・経済改革でもあった。

羽柴秀勝による着手、加藤光泰による本格的な建設、そして浅野長政による完成と統治システムの導入というリレーによって、甲斐国は旧来の武田氏の軛(くびき)から完全に解き放たれ、豊臣政権が支配する新しい秩序の中に組み込まれた。この徹底した中央集権化のプロセスこそが、「政庁移転」という事変の歴史的本質であると結論付けられる。それは、一つの地域の運命が、天下人の壮大な構想によっていかに劇的に変えられていくかを示す、鮮烈な実例なのである。

引用文献

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  3. 躑躅ヶ崎館 ~館が滅ぶとき、武田も滅ぶ~ - 転がる五円玉 ~旅と城と山~ https://harimayatokubei.hatenablog.com/entry/2021/03/07/112520
  4. 日本100名城の「武田氏館」(つつじが崎館) 武田神社に残る館の痕跡から武田氏三代を垣間見る! - HKPツアーズ https://hkpt.net/event/takeda-yakata/
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  6. 戦国大名・武田氏の「躑躅ヶ崎館」~真田氏ゆかりの館の変遷~ | 武将の道 https://sanadada.com/3695/
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  9. 甲府市 - 出世の街 浜松|ゆかりの地めぐり https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/yukari/detail.html?p=1773
  10. 甲府城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%BA%9C%E5%9F%8E
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  13. 桜の名所、甲府城〜武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康。甲斐の国と城は名将と共に - 週末はじめました。 https://www.ritocamp.com/entry/31
  14. 甲斐国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E5%9B%BD
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  25. 甲 府 城 下 町 絵 図 - 山梨県 https://www.pref.yamanashi.jp/documents/99115/kouhujoukamati-ezu1.pdf
  26. 甲府城下町でグルメ散策! 江戸に負けない煌びやかな町だった - 城びと https://shirobito.jp/article/864
  27. 甲府城跡渭 - 全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/29/29898/6451_1_%E7%94%B2%E5%BA%9C%E5%9F%8E%E8%B7%A1.pdf
  28. 〇甲府プチ散歩〇②:躑躅ヶ崎館跡(武田氏館跡)とその城下町 - note https://note.com/chatareau/n/n95c1239cae05
  29. 秀吉、太閤検地で構造改革を推進 - 郷土の三英傑に学ぶ https://jp.fujitsu.com/family/sibu/toukai/sanei/sanei-23.html
  30. 太閤検地 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E6%A4%9C%E5%9C%B0
  31. 太閤検地をわかりやすく知りたい!豊臣秀吉の政策の目的とは - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/taiko-kenchi
  32. 第六編 産業と経済 - 山梨県身延町 https://www.town.minobu.lg.jp/chosei/choushi/T06_C01_S01_1.htm
  33. 豊臣秀吉は、なぜ検地や 刀狩をしたの https://kids.gakken.co.jp/box/syakai/06/pdf/B026109100.pdf
  34. 慶長三年の太閤検地 - ADEAC https://adeac.jp/nagano-city/texthtml/d100030/ct00000003/ht000090
  35. 甲府城下町の形成と変遷 https://www.pref.yamanashi.jp/documents/34469/sasakirejume.pdf
  36. 甲府市の基盤 https://www.city.kofu.yamanashi.jp/rekishi_bunkazai/documents/tiikikeikaku2.pdf
  37. 【日本100名城・甲府城(山梨)】駅チカなのに豊臣・徳川のスゴイ城が楽しめる https://shirobito.jp/article/904