方広寺鐘銘寄進(1602)
慶長7年、豊臣秀頼が再建中の方広寺大仏殿が火災で焼失。豊臣家の威信回復を阻み、徳川家康が豊臣家を経済的に疲弊させる口実となった。鐘銘事件を経て、大坂の陣の遠因となる。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
方広寺、炎上 ― 豊臣家の栄華と滅亡を刻んだ鐘
序論:方広寺、豊臣家の栄華と悲劇の象徴
本報告書は、慶長七年(1602年)に発生した「方広寺大仏殿炎上」という事変を、単一の歴史的事件としてではなく、豊臣秀吉による天下統一の野望の具現化から始まり、徳川家康による天下平定の総仕上げに至る、約三十年にわたる壮大な権力闘争の物語における決定的な転換点として描き出すものである。
方広寺は、その創建からして豊臣家の権威の象徴であった。しかし、その歴史は度重なる災禍に見舞われ、ついには豊臣家そのものを滅亡へと導く悲劇の舞台と化した。なぜ、栄光の記念碑となるはずだった寺院が、その創建主一族の墓碑銘となってしまったのか。この問いを主軸に、本報告書は、太閤秀吉の壮大な夢、天災と人災、そして天下人となった家康の深謀遠慮が京の東山で交錯した様を、時系列に沿って克明に解き明かしていく。
表1:方広寺を巡る主要年表(1586年~1615年)
年代(和暦/西暦) |
主な出来事(方広寺関連、政治情勢) |
関係者の動向 |
事象の意義・影響 |
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天正14年 (1586) |
豊臣秀吉、東大寺に倣い京での大仏造立を発願 1 。 |
秀吉:天下人としての権威確立を目指す。 |
豊臣政権による国家事業の開始。 |
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天正16年 (1588) |
刀狩令を発布。没収武具を大仏殿の釘等に用いると布告 3 。 |
秀吉:民衆の武装解除と寺社建立を結びつけ正当化。 |
兵農分離の推進と、大仏建立の政治的プロパガンダ。 |
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文禄4年 (1595) |
大仏殿、ほぼ完成。木造漆箔の大仏が安置される 2 。 |
秀吉:権威の象徴が完成に近づく。 |
当時日本最大の木造建築物として豊臣の威光を示す 5 。 |
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慶長元年 (1596) |
慶長伏見地震発生。完成間近の大仏が大破 2 。 |
秀吉:激怒し、大仏に矢を放ったと伝わる 6 。 |
豊臣政権の権威に打撃。不吉な前兆と見なされる。 |
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慶長3年 (1598) |
豊臣秀吉、死去。大仏再建は中断 2 。 |
秀頼:幼くして豊臣家を継承。 |
豊臣政権、指導者を失い不安定化。 |
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慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦い。徳川家康が天下の実権を掌握。秀頼、方広寺再建に着手 2 。 |
家康:天下人としての地位を固める。秀頼:父の遺志を継ぎ、威信回復を図る。 |
徳川と豊臣の二元権力状態が始まる。 |
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慶長7年 (1602) |
鋳造中の金銅大仏から出火。大仏殿と共に焼失 8 。 |
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秀頼・淀殿:計画が頓挫し、経済的・精神的に大打撃を受ける。 |
豊臣家の自力再建能力に疑問符が付き、家康介入の口実を与える。 |
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慶長8年 (1603) |
徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開く 14 。 |
家康:名実ともに武家の棟梁となる。 |
豊臣家は一大名の地位に事実上転落。 |
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慶長13年 (1608) |
家康の勧めにより、秀頼が再度大仏殿再建を企図 2 。 |
家康:豊臣家の財力消耗を狙う。秀頼:威信回復のため、勧告を受け入れざるを得ない。 |
豊臣家の財政が巨大事業により圧迫され始める。 |
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慶長19年 (1614) |
春:大仏殿・大仏・梵鐘が完成 17 。 |
7月:梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」が問題化(鐘銘事件) 17。 |
9月:交渉役の片桐且元が大坂城を退去 21。 |
10月:家康、諸大名に大坂攻めを命令 22。 |
家康:鐘銘を口実に豊臣家討伐の大義名分を得る。 秀頼・淀殿:且元を追放し、主戦派が主導権を握る。 且元:両家の板挟みとなり、失脚。 |
豊臣家滅亡の直接的な引き金となる。 |
慶長20年 (1615) |
大坂夏の陣。大坂城落城、豊臣秀頼・淀殿自害。豊臣家滅亡 4 。 |
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戦国時代が完全に終焉し、徳川による泰平の世が確立。 |
第一章:天下一の夢 ― 豊臣秀吉と京の大仏創建
1-1. 建立の動機:権威の可視化と天下平定の仕上げ
天正十四年(1586年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、かつて聖武天皇が奈良に東大寺大仏を建立し国家の安寧を図った故事に倣い、京の地にそれを凌駕する大仏を造立するという壮大な計画を発願した 1 。これは単なる敬虔な信仰心の発露ではなかった。農民から身を起こし、血統ではなく実力で頂点に立った秀吉にとって、その権威を万人の目に明らかにする「可視化された権力」の象徴が不可欠だったのである。奈良の大仏に代わる新たな国家的シンボルを自らの手で生み出すことは、秀吉が天皇をも凌ぐ存在として君臨することを天下に宣言する、極めて高度な政治的行為であった 6 。
この国家事業は、秀吉の巧みな統治術と一体化していた。天正十六年(1588年)に発布された刀狩令は、農民から武器を取り上げ一揆を防ぐ目的があったが、秀吉はこれを「今度大仏御建立の釘、かすかひに仰せ付けられるべし」と結びつけた 3 。戦乱の道具である刀や槍を、仏に捧げる神聖な建材へと転換させるという論理は、民衆の武装解除を正当化し、彼らの不満を仏への功徳へと昇華させる、見事なプロパガンダであった 5 。
さらに秀吉は、徳川家康をはじめとする全国の諸大名に対し、方広寺建立のための巨木や資材の献上を厳命した 6 。屋久島の巨大な杉までもが京へと運ばれた記録が残っている 6 。この「御普請手伝い」は、大名たちにとって豊臣政権への忠誠を試される踏み絵であり、方広寺の建立過程そのものが、秀吉を中心とする新たな政治秩序の確認作業でもあったのだ。
1-2. 度重なる災禍:夢の頓挫と不吉な前兆
幾多の困難を乗り越え、文禄四年(1595年)には、方広寺大仏殿はほぼその偉容を現した 2 。間口約88メートル、奥行き約55メートルという、当時世界最大級の木造建築物であり、その中に鎮座する高さ約19メートルの大仏は、京の都を見下ろす豊臣政権の絶対的な力の象徴となるはずであった 4 。
しかし、その夢は完成を目前にして、人知を超えた力によって無残に打ち砕かれる。翌慶長元年(1596年)閏7月、畿内を巨大な揺れが襲った。慶長伏見地震である 2 。堅牢な大仏殿の建物自体は倒壊を免れたものの、工期を短縮するために木造に漆を塗り固める乾漆造で造られていた大仏は、この揺れに耐えきれず大破してしまった 8 。
自らの権威の象徴が、開眼供養を前にして崩れ落ちたという報告に、秀吉は激怒したと伝わる。「うぬは、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者が!」と叫び、大破した大仏に向かって弓矢を放ったという逸話は、彼の深い失望と焦燥を物語っている 6 。この出来事は、秀吉の晩年と豊臣家の行く末を暗示する不吉な事件として、京の民衆の心に深く刻まれた 27 。秀次一族の粛清事件と結びつけ、その祟りであると囁く声も上がった 26 。
結局、秀吉は方広寺の再建を見ることなく、慶長三年(1598年)にその波乱の生涯を閉じた 2 。天下人の壮大な夢は、主を失い、東山の麓で無残な姿を晒したまま、一時中断を余儀なくされたのである。
第二章:関ヶ原後の静かなる戦い ― 徳川の天下と豊臣の財力
2-1. 二元権力の併存と潜在的脅威
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いは、日本の権力構造を決定的に塗り替えた。勝利した徳川家康は天下の実権を掌握し、慶長八年(1603年)には征夷大将軍に任官され、江戸に幕府を開府する 10 。これにより、名実ともに武家の棟梁としての地位を確立した。
しかし、豊臣家が完全に滅亡したわけではなかった。関ヶ原の戦いは、あくまで豊臣家家臣団の内紛という建前で遂行されたため、家康には豊臣秀頼を直接討伐する大義名分が存在しなかった 29 。結果として、秀頼は摂津・河内・和泉の約65万石を領する一大名として存続を許された 22 。石高の上では徳川家(当時約400万石)に遠く及ばないものの、故太閤の子としての権威は依然として絶大であり、朝廷内でも関白家に次ぐ高い家格を維持していた 33 。
家康が最も警戒したのは、大坂城に眠る、秀吉が遺した莫大な金銀の存在であった 16 。この潤沢な財力は、有事の際に全国の浪人を雇い入れ、徳川に対抗しうる一大軍事力を組織することを可能にする、極めて危険な潜在的脅威であった 35 。こうして、江戸の徳川将軍家と大坂の豊臣宗家という、二つの権力が併存する不安定な時代が始まったのである。
2-2. 家康の深謀:財政による締め付け
この二元権力状態を解消するため、家康が選択したのは、武力による性急な討伐ではなく、時間をかけた経済的な消耗戦であった。豊臣家の最大の武器である財力を、平和的な手段で、かつ豊臣家自身の手で蕩尽させること。これが、家康の対豊臣政策の基本戦略となった 4 。
家康は、秀頼に対し、父・秀吉の追善供養や豊臣家の威光を示すという名目で、大規模な寺社の造営や修復を盛んに勧めた 16 。これは一見、豊臣家への配慮に見えるが、その真の狙いは、大坂城の金蔵を空にすることにあった 16 。豊臣家が自らの権威を示そうとすればするほど、その経済的基盤が蝕まれていく。家康が仕掛けたのは、豊臣家を自滅へと導くための、長期にわたる巧妙な「罠」であった。そして、その罠の中でも最大規模の仕掛けこそが、頓挫していた方広寺大仏殿の再建事業だったのである。
第三章:慶長七年(1602年)の災禍 ― 炎に消えた大仏殿
3-1. 威信を賭けた再建事業の開始
関ヶ原の戦いを経て、豊臣家の立場は大きく揺らいでいた。父・秀吉の遺志を継ぎ、そして何よりも失墜した豊臣家の威信を天下に示すため、若き当主・豊臣秀頼は、慶長五年(1600年)から方広寺の再建事業に本格的に着手した 2 。地震で脆さを露呈した木造大仏に代わり、今度はより恒久的な金銅製の大仏を鋳造するという、一層野心的な計画であった 11 。この一大事業の作事奉行には、秀吉の代から豊臣家に仕え、関ヶ原後は徳川家との重要な交渉窓口ともなっていた家老・片桐且元が任じられた 39 。豊臣家にとって、この再建は単なる建築事業ではなく、その存亡を賭けた威信回復の象徴だったのである。
3-2. 鋳造所の悲劇:リアルタイム・ドキュメント
しかし、豊臣家の悲運はまだ終わらなかった。慶長七年(1602年)、金銅大仏の鋳造作業が着々と進む中、再び悲劇が方広寺を襲う。当時の僧、西笑承兌が記した日記『鹿苑日録』には、その惨状が生々しく記録されている 12 。
その日、鋳物師たちは溶かした銅(金湯)を巨大な大仏の膝部分にあたる鋳型へと流し込む作業を行っていた。その最中、一人の職人が、鋳型から溢れた灼熱の銅を、あろうことか懐に入れてしまうという致命的な過ちを犯した 12 。高熱の銅は瞬時に職人の衣服に燃え移り、彼は全身を炎に包まれた。苦悶の叫びとともに鋳造中の大仏の周りを駆け巡った職人は、やがて力尽きる。その炎が、大仏の背面に設けられていた風穴(通気口)から内部へと侵入したのである 12 。
火は、大仏の内部に組まれていた巨大な木製の足場や支柱に瞬く間に燃え広がった。内部から噴き出した炎は、鍍金された後光の装飾仏を焼き落とし、やがて大仏殿そのものへと燃え移った。義演の日記によれば、秀吉が数年の歳月と国中の良材を費やして築き上げた壮大な大仏殿は、わずか六時間ほどで、轟音とともに焼け落ちたと記されている 8 。
この火災は、豊臣家にとって計り知れない打撃となった。莫大な経済的損失はもとより、地震に続く二度目の災禍は、「豊臣家は天に見放された」という印象を世間に決定づけるのに十分であった 27 。発掘調査によって発見された、火災で赤く変色した敷石や、大量の焼土と炭化した瓦は、千載一遇の威信回復の機会が、一瞬にして灰燼に帰したその日の悲劇の激しさを、今に伝えている 13 。この慶長七年の炎上事件は、豊臣家が自力で始めたプロジェクトが、自らの管理下で起きた事故によって破綻したという事実を天下に示してしまった。それは、徳川家康が豊臣家の「後見人」として介入する、またとない口実を与える結果となったのである。
第四章:家康の勧め ― 威信を賭けた再興事業
4-1. 再建の停滞と家康の介入
慶長七年(1602年)の火災による衝撃は、豊臣家から再建への気力を奪った。莫大な経済的損失と、二度も天災・人災に見舞われたという心理的打撃により、方広寺の再建計画はその後数年間にわたって完全に停滞する 4 。東山の麓には、焼け落ちた大仏殿の無残な残骸が広がるばかりであった。
この状況を、駿府城から静かに見据えていたのが徳川家康であった。豊臣家が自力での再起に苦しむのを見計らったかのように、慶長十三年(1608年)頃、家康は豊臣秀頼に対し、方広寺の再建を改めて「勧告」した 2 。その口上は、「亡き太閤殿下の追善供養のため、そして豊臣家の隆盛と秀頼公の武運長久を祈るため」という、非の打ちどころのないものであった 16 。
この家康の「勧め」は、事実上、豊臣家が拒否することのできない命令であった。これを断れば、父・秀吉への不孝を天下に晒すことになり、豊臣家の権威はさらに失墜する。秀頼の母・淀殿をはじめとする大坂方首脳は、これを豊臣家の威信を回復するための最後の好機と捉え、家康の勧告を受け入れる決断を下した 17 。こうして、徳川家康の思惑のもと、豊臣家の存亡を賭けた最後の巨大プロジェクトが再始動したのである。
4-2. 豊臣家を蝕む巨大プロジェクト
再開された方広寺の再建事業は、以前にも増して壮大な規模で進められた。その莫大な費用は、すべて大坂城に蓄えられていた秀吉の遺産、いわゆる「太閤の蔵金」から賄われた 16 。家康の狙いは的中した。この巨大公共事業は豊臣家の財政を凄まじい勢いで圧迫し、当時の記録である『当代記』には「太閤御貯えの金銀払底」と記されるほど、その財力は枯渇していった 16 。
通説では、この事業は家康が豊臣家の財力蕩尽のみを狙ったものとされる。しかし、一方で幕府も一部財政的な支援を行っていたとする記録も存在しており 43 、家康の政策には、単なる経済的締め付けだけでなく、豊臣家を幕府の管理・監督下に置き、その政治的独立性を徐々に奪っていくという、より複雑な意図が含まれていた可能性も考えられる。
この事業の総責任者である家老・片桐且元は、豊臣家の威信回復という至上命題、枯渇していく財政、そして徳川家の真意という、三つの要素の狭間で、極めて苦しい立場に立たされ続けた 39 。彼は、この巨大プロジェクトが豊臣家を栄光へと導く道ではなく、緩やかな破滅へと続く道であることを、薄々感じていたのかもしれない。
第五章:鐘銘、動乱を呼ぶ ― 方広寺鐘銘事件の全貌
5-1. 梵鐘の完成と問題の銘文
幾多の困難と莫大な費用を経て、慶長十九年(1614年)春、方広寺大仏殿と新たな金銅大仏はついに完成の時を迎えた 17 。同年4月16日には、寺の威容を飾る巨大な梵鐘も鋳造された 18 。この梵鐘は、高さ約4.2メートル、重さ約82.7トンにも及ぶ、当時としては比類なき大鐘であった。
その鐘に刻まれる銘文の起草は、豊臣家と縁の深い南禅寺の長老・文英清韓に依頼された 4 。清韓は、仏法の興隆と天下泰平を願う荘重な文章を練り上げた。その数多の美辞麗句の中に、後に豊臣家の命運を断つことになる二つの句が含まれていた。一つは「
国家安康 」、もう一つは「 君臣豊楽 」である。
5-2. 徳川方の「解釈」という名の言いがかり
大仏の開眼供養は同年8月3日と定められ、大坂方はその準備に追われていた。ところが7月に入り、供養を目前にして、駿府の徳川方からこの梵鐘の銘文に対し、突如としてクレームが寄せられた 17 。
家康の政治顧問であった金地院崇伝や、当代随一の朱子学者・林羅山らは、この銘文を驚くべき論法で「解釈」してみせた 37 。
- 「国家 安康 」の句は、「家康」の名を「家」と「康」の字で分断し、その身体を切断することを願う呪詛である 18 。
- 「 君臣豊 楽 子孫殷昌」の句は、「豊臣を君として臣らが楽しむ」と読み替えられ、豊臣家の天下君臨とその子孫繁栄を祈るものであり、徳川への謀反の意図が隠されている 18 。
これは、豊臣家を討伐するための口実を何としても探し出そうとしていた家康にとって、まさに天啓であった。家康はこの問題を一大政治問題へと発展させ、豊臣家の不遜を理由に、予定されていた開眼供養の一切の延期を厳命した 17 。鐘銘事件は、徳川が豊臣に対して仕掛けた、もはや後戻りの許されない政治的最終通牒だったのである。
5-3. 片桐且元の絶望的な交渉と決裂
事態の深刻さを悟った片桐且元は、弁明のため急ぎ駿府の家康のもとへ向かった 17 。しかし、家康は且元との直接の面会をなかなか許可せず、焦燥と屈辱の中で時間だけが過ぎていった 45 。約一ヶ月にわたる絶望的な交渉の末、家康側からようやく提示された和解の条件は、豊臣家が主権を完全に放棄することを意味する、到底受け入れがたい三箇条であった 50 。
- 豊臣秀頼が江戸へ参勤すること。
- 秀頼の母・淀殿を人質として江戸に居住させること。
- 秀頼が大坂城を明け渡し、他の国へ移ること(国替え) 20 。
この過酷な要求を大坂城に持ち帰った且元を待っていたのは、ねぎらいの言葉ではなく、猜疑の眼差しであった。淀殿や大野治長ら城内の強硬派は、且元が家康に懐柔され、豊臣家を売り渡そうとしていると激しく詰問した 21 。穏健な対話路線は完全に否定され、身の危険を感じた且元は、ついに大坂城を退去せざるを得なくなった。
豊臣家内部の穏健派の筆頭であり、徳川との唯一の交渉パイプであった且元の追放は、豊臣家が徳川との交渉を打ち切り、武力抗争を選択したことを天下に示すに等しかった。大坂城内は主戦論一色に染まり、もはや戦争以外の選択肢は完全に失われたのである 21 。
第六章:滅亡への序曲 ― 大坂の陣へ
6-1. 開戦口実の確立
片桐且元が大坂城から追われるように退去したという報告は、家康に豊臣家討伐の完璧な大義名分を与えた。徳川方はこれを「豊臣家に和解の意思なし」と断定し、鐘銘に込められた呪詛と、その後の不誠実な対応を理由として、豊臣家を「天下の安寧を乱す逆賊」と位置づけたのである 4 。
慶長十九年(1614年)10月、家康は鐘銘事件を公式な開戦理由として全国の諸大名に動員令を発し、自ら大軍を率いて大坂城の包囲を開始した。世に言う「大坂冬の陣」の勃発である。
6-2. 方広寺が果たした役割
振り返れば、一連の出来事はあまりにも皮肉な結末を辿った。豊臣秀吉が、自らの栄華と天下の安寧を願い、その象徴として建立した方広寺。その存在は、秀吉の死後、豊臣家の威信を回復するための最後の希望となった。しかし、その再建事業は家康の策略によって豊臣家の財力を枯渇させ、そして、完成を祝うはずだった梵鐘が、結果として豊臣家滅亡の口実を与えるという、最も悲劇的な役割を果たすことになったのである 4 。
方広寺を巡る一連の出来事は、戦国時代的な武力による覇権争いが終焉を迎え、徳川幕府による法と秩序、そしてそれを裏打ちする冷徹な謀略による統治が始まる、時代の大きな転換点を象徴する事件であった。鐘の音は、開眼供養で鳴り響くことなく、一つの時代の終わりを告げる弔いの鐘となったのである。
結論:方広寺が物語る豊臣家の興亡
本報告書で詳述した通り、慶長七年(1602年)の「方広寺大仏殿炎上」という一点の事象は、それ自体が終着点なのではなく、より大きな歴史のうねりの中に位置づけられるべき、決定的な転換点であった。それは、太閤秀吉が遺した壮大な夢の残滓、関ヶ原の戦いを経て生まれた新たな政治秩序、そして徳川家康の冷徹な国家構想が交錯する中で、豊臣家が滅亡へと向かう不可避のプロセスを加速させた触媒だったのである。
方広寺の創建、度重なる災禍、そして再建を巡る物語は、一個人の強烈な野望がいかにして国家的な事業となり、それが次代の権力者によって政争の具とされ、ついには一つの時代を終わらせる引き金となったかという、権力の非情なダイナミズムを見事に示している。
豊臣秀吉にとって、方広寺は永遠の栄光を刻む記念碑であった。しかし、歴史はそれを許さなかった。結果として方広寺は、豊臣家の栄光と悲運、その興亡の全てをその巨大な礎石と梵鐘に刻み込んだ、壮大な墓碑銘として、今にその記憶を伝えている。
引用文献
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- 方 広 寺 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza219.pdf
- 奈良より大きかった!幻の「京都大仏」の悲劇。豊臣秀吉の死は「仏像遷座の祟り」なのか? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/102274/
- 方広寺鐘銘事件/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97921/
- 方広寺の概要と歴史 方広寺は日本で建てられた建築物の中でも最も壮観な建物のひとつがあっ https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001554749.pdf
- かつて京都に日本一の大仏があった!? 現存すれば世界最大の木造建築物だった「京都の大仏・大仏殿」はなぜ生まれ、なぜ消滅したのか。京都市内の遺構を巡りながら、日本一わかりやすく徹底解説! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Qem-dbIUaoU
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- 江戸時代を再検討する Ⅰ | 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/category/history/edo_kentou_1/
- 方広寺鐘銘事件|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents5_03/
- 方広寺鐘銘事件は、まったくの「言いがかり」とも言い切れない? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5027
- 方広寺鐘銘事件の鐘が残る 方広寺へ - 古寺とお城の旅日記 - Seesaa https://mahopika.seesaa.net/article/201410article_4.html
- 京都:方広寺の梵鐘~徳川家康が疑義を唱えた銘鐘事件~ https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/hokoji/hokoji-kane.html
- 方広寺鐘銘事件「国家安康」なにが問題?わかりやすくしたまとめ - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/hoko-ji-jiken
- 方広寺鐘銘事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
- 豊臣秀頼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC
- 方広寺 | 京阪グループ https://www.keihan.co.jp/visiting/spot/detail/022.html
- 豊臣氏の栄枯盛衰を見つめた京の大仏 - 歴史街道 https://www.rekishikaido.gr.jp/club/event/lecture/2086/
- 方広寺大仏殿の石垣 - 古城万華鏡Ⅱ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou2/kojyou2_8.html
- 【京都の摩訶異探訪】不運続きだった、京の大仏さん - Leaf KYOTO https://www.leafkyoto.net/makai/2017/11/%E4%BA%AC%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E3%81%95%E3%82%93/
- 東大寺を超える大仏が京都にあった!? https://kyotolove.kyoto/I0000521/
- 関ヶ原の戦い前後の勢力図 - ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/sekigahara-seiryoku-zu/
- 【関ヶ原の舞台をゆく②】関ヶ原の戦い・決戦~徳川と豊臣の運命を賭けた戦い - 城びと https://shirobito.jp/article/486
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- 「豊臣秀頼」家康が恐れた秀吉の血、桁外れの人気 謎に包まれたまま育ち母と自害した豊臣の後継者 - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/716869
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