最終更新日 2025-10-03

犬山職人町拡充(1600)

1600年の犬山職人町拡充は、関ヶ原前哨戦による支配体制刷新の結果。無血開城で職人基盤が温存され、後の城下町整備と経済発展の礎となった。
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慶長五年犬山事変の真相:関ヶ原前哨戦と職人町形成の黎明

序章: 1600年、「犬山職人町拡充」の謎

慶長五年(1600年)に尾張国犬山で起こったとされる「犬山職人町拡充」という事変は、一般的な歴史年表や公的な市史において、その名称で記録された出来事として見出すことは極めて困難である 1 。ご提示いただいた「鋳物・木工の職人町を拡充」という簡潔な記述は、一見すると平穏な時代の都市計画事業を想起させる。しかし、この慶長五年という年は、日本の歴史における最大の分水嶺の一つ、「関ヶ原の戦い」が勃発した激動の年であった。豊臣秀吉の死後、徳川家康が天下統一へと大きく舵を切る中、日本全土が東西両軍に分かれ、動乱の渦中にあった。このような緊迫した状況下で、尾張と美濃の国境に位置する軍事上の要衝・犬山において、平穏な「職人町の拡充」が実施されたと考えることには、歴史的整合性の観点から大きな疑問符が付く。

この一見矛盾した歴史認識は、どこから生じたのであろうか。本報告書は、この謎を解き明かすことを目的とする。その核心的な仮説は、「犬山職人町拡充(1600)」とは、文字通りの土木事業や都市開発を指すのではなく、**関ヶ原の戦いの前哨戦として犬山城で起こった一連の軍事・政治的「事変」**そのものを指し、その結果として犬山の支配体制が刷新され、 後の江戸時代における本格的な職人町形成の「礎」が築かれた と解釈すべきである、というものである。

この仮説は、歴史的事実の「原因」と「結果」が、後世の視点から時間軸を超えて結合し、一つの圧縮された歴史認識として形成された可能性を示唆する。すなわち、慶長五年に犬山城で繰り広げられた支配者の交代劇という「原因」と、その後に続く新たな統治体制下で実現した計画的な職人町の整備という「結果」が、長い年月を経て「1600年の拡充」という一つの象徴的な出来事として語り継がれるに至ったのではないか。本報告書は、この圧縮された歴史の記憶を丁寧に解きほぐし、慶長五年という転換点における犬山の真実の姿を、時系列に沿って詳細に描き出すものである。

第一章: 天下分け目の渦中へ ― 慶長五年夏の犬山

関ヶ原に至る道

慶長三年(1598年)八月、天下人豊臣秀吉がその波乱の生涯を閉じると、彼が築き上げた巨大な権力構造は徐々にその均衡を失い始めた。秀吉の遺言により、幼い嫡子・秀頼の政務は五大老と五奉行による合議制で運営されることとなったが、大老筆頭の徳川家康の存在感は日増しに強大化していく。これに対し、奉行筆頭の石田三成は、豊臣家への忠義を掲げ、家康の専横を警戒する諸大名を糾合し、両者の対立はもはや避けられない状況にあった。慶長五年六月、家康が会津の上杉景勝討伐のために大坂を離れると、三成はその機を捉えて挙兵。ここに、全国の大名を巻き込む天下分け目の戦い、関ヶ原の戦いの火蓋が切られたのである。

犬山城の戦略的価値

この天下の動乱において、尾張国犬山城は極めて重要な戦略的価値を持つ拠点であった。木曽川の南岸、断崖絶壁の上に築かれたこの城は、川を天然の巨大な堀とし、背後からの攻撃を許さない「後堅固(うしろけんご)の城」として知られていた 4 。地理的には、徳川家康の本拠地である東国と、石田三成らが拠点とする畿内とを結ぶ東山道の要衝であり、美濃国と尾張国の国境を扼する位置にある。この城を制する者は、濃尾平野の支配権を掌握し、東西交通の動脈を断つことが可能であった 5

その重要性は、歴史が証明している。犬山城は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人すべてが、その覇業の過程で争奪戦を繰り広げた稀有な城である 4 。信長は永禄八年(1565年)に従兄弟の織田信清を破ってこの城を手にし、秀吉は天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いで池田恒興に奇襲させ占拠した。そして家康もまた、この慶長五年(1600年)、天下統一の総仕上げとしてこの城の確保を目指すことになる 5 。まさに犬山城は、戦国時代のクライマックスを常に最前線で体感してきた、歴史の証人ともいえる存在であった。

城主・石川貞清の肖像

慶長五年当時、この戦略的要衝・犬山城を預かっていたのは、石川貞清(いしかわ さだきよ)という武将であった。諱は光吉(みつよし)とも伝わる 7 。彼は美濃国鏡島の出身で、早くから豊臣秀吉に仕えた譜代の家臣であり、その能力と忠誠心は高く評価されていた 9 。特に、戦場において主君の命令を伝達し、戦況を監察するという極めて重要な役職である「使番(つかいばん)」の中でも、特に選び抜かれた精鋭集団「金切裂指物使番(きんきりさしものつかいばん)」の一員に列せられていた事実は、彼が秀吉から絶大な信頼を得ていたことを物語っている 7

天正十八年(1590年)の小田原征伐では、北条氏政・氏照兄弟の切腹に際して検使役を務めるという大役を果たし、その功績により尾張犬山城1万2千石の領主となった 8 。しかし、彼の重要性は単なる一城主に留まらなかった。彼は同時に、信濃国木曽の広大な豊臣家直轄領(太閤蔵入地)10万石の代官にも任じられていたのである 7 。この事実は、犬山という場所が持つ二重の性格、すなわち「軍事拠点」と「経済拠点」としての性格を象徴している。石川貞清は、犬山城を拠点として、美濃・尾張の国境を守る軍事司令官であると同時に、豊臣政権の巨大な建設事業(大坂城や伏見城の普請など)を支える膨大な木材資源を管理する経済官僚でもあった。木曽川下流に位置する犬山は、木曽の材木を集積し、各地へ輸送するための重要な中継基地であり、貞清の存在は豊臣政権の兵站と財政を支える上で不可欠であった。

秀吉の死後もその忠誠は揺らがず、慶長四年(1599年)には豊臣秀頼の側近である奏者番に任じられ、政権中枢の一角を担った 8 。したがって、関ヶ原の戦いが勃発した際、彼が迷わず西軍に与したのは、個人的な利害得失を超えた、豊臣家への深い恩義と忠義に基づく、必然的な選択であったと言える。

第二章: 前哨戦のリアルタイム・クロニクル ― 犬山城、無血開城に至る道

慶長五年夏、徳川家康率いる東軍主力が東国へと向かう中、石田三成ら西軍は、東軍の西上を阻止すべく、濃尾平野に強固な防衛線を構築しようと試みた。その最前線に位置づけられたのが、石川貞清の守る犬山城であった。ここから関ヶ原の本戦に至る約一ヶ月間、犬山城を舞台に繰り広げられた軍事と調略の応酬は、まさにリアルタイムの緊迫感に満ちたものであった。

西軍の防衛拠点化(慶長五年八月上旬~)

関ヶ原の戦端が開かれると、石田三成は濃尾国境を流れる木曽川を天然の要害とし、織田秀信が守る美濃岐阜城を中核に、犬山城、竹ヶ鼻城を結ぶ防衛ラインを形成した 14 。慶長五年八月十日頃、三成の指示により、犬山城には城主・石川貞清のもとへ、稲葉貞通・典通親子、加藤貞泰、関一政、竹中重門といった美濃・尾張を本拠とする西軍方の諸将が援軍として続々と入城した 7 。これにより犬山城は、尾張国における唯一かつ最前線の西軍拠点として、籠城体制を固めることとなった。

東軍の調略と包囲(八月中旬~)

一方、東軍の先鋒隊を率いる福島正則、池田輝政らは尾張清洲城に入り、犬山城への軍事的圧力を強め始めた。しかし、東軍の総大将たる家康の真骨頂は、武力による攻城と並行して行われる巧みな調略にあった。東軍の軍監を務めていた井伊直政と本多忠勝は、犬山城に籠城する諸将に対し、水面下で接触を開始する。特に、もともと家康に心を寄せていたとされる加藤貞泰や、その義兄である竹中重門らに密書を送り、東軍への内応を執拗に働きかけた 7 。この調略は着実に籠城側の結束を蝕んでいった。八月十九日付けの黒田長政らの書状によれば、この時点で東軍は犬山城に対抗するための付城(包囲用の砦)を築き、物理的な包囲網も完成させていたことが記録されている 15

岐阜城の落城と動揺(八月二十三日~二十五日)

犬山城内の空気を決定的に変えたのは、西軍防衛ラインの中核であった岐阜城の陥落である。八月二十三日、福島正則、池田輝政ら東軍主力は岐阜城に総攻撃を開始。城主の織田秀信は奮戦したものの、衆寡敵せず、わずか一日で城は陥落し、秀信は降伏した 17 。この報は、木曽川を挟んで岐阜城と連携していた犬山城の籠城将兵に計り知れない衝撃を与えた。西軍の後詰(援軍)が期待できないという現実を突きつけられ、城内では動揺が走る。この機を逃さず、かねてより東軍への内応を画策していた加藤貞泰は、他の籠城諸将の説得を本格化させた 15 。八月二十五日付で加藤貞泰の叔父・光政が、東軍の山内一豊に宛てた書状には、「貞泰の犬山籠城は『めいわく』(不本意)である。城主の石川光吉(貞清)が決断せねば開城できないが、貞泰も尽力している」とあり、城内の緊迫した交渉の様子が生々しく伝わってくる 15

開城交渉と貞清の決断(八月下旬~九月三日)

岐阜城を攻略した東軍は、すぐさま犬山城に使者を送り、降伏を勧告した 17 。城内では加藤貞泰、竹中重門らを中心に開城論が完全に主流となり、彼らは秘密裏に家康に対して開城の意思を伝える書状を送った 15 。援軍として馳せ参じた諸将の離反がもはや確実となり、城主・石川貞清は孤立無援の状況に追い込まれる。豊臣家への忠義を貫き、徹底抗戦を望んだ貞清であったが、関一政らの説得もあり、これ以上の籠城は無益と判断。ついに開城を決断する 7

しかし、彼の決断は単なる降伏ではなかった。貞清は、加藤貞泰らとは異なり、東軍に寝返ることを潔しとしなかった。彼は、城を明け渡すにあたり、籠城中に人質として捕らえていた東軍方の木曽の有力者・山村良候らを解放した 14 。そして、自らは城を去り、関ヶ原で西軍本隊と合流して決戦に臨む道を選んだのである 7 。これは、城兵の命を救うための開城という現実的な判断と、主家への忠義を貫くという武士としての矜持を両立させようとした、貞清の苦渋の決断であった。

無血開城(九月三日)

慶長五年九月三日、犬山城は一切の戦闘を経ることなく、静かに東軍の手に渡った 5 。この「無血開城」は、結果として、後に国宝に指定される現存天守を戦火から守るという、極めて重要な歴史的意義を持つことになった 18 。九月五日付で徳川家康が加藤貞泰に送った書状には、「犬山の問題、貞泰殿の知恵の働きで早々に解決したことを大変満足です」と記されており、東軍がいかにこの無血開城を重要視していたかが窺える 18

【慶長五年(1600年)犬山城攻防 詳細時系列表】

日付(慶長五年)

犬山城(西軍)の動向

東軍の動向

関連する周辺の出来事

根拠資料

八月上旬

石川貞清、籠城を開始。稲葉貞通・典通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らが入城し、防衛を固める。

福島正則、池田輝政らが清洲城に入る。軍監の井伊直政・本多忠勝が籠城諸将への調略を開始。

西軍、伏見城を攻略(八月一日)。石田三成、大垣城に入る(八月十日)。

14

八月十九日頃

籠城が継続中。城内では東軍の調略により、開城か抗戦かで意見が対立し始める。

黒田長政らが軍監に対し、犬山城に対する付城を築いたことを報告。包囲網が完成する。

東軍先鋒隊、木曽川を渡り美濃へ侵攻。

15

八月二十三日

岐阜城からの戦況を注視。城内の動揺が広がる。

福島正則、池田輝政らが岐阜城への総攻撃を開始。

岐阜城の戦いが始まる。

17

八月二十四日

岐阜城落城の報を受け、城内の開城論が主流となる。加藤貞泰らが他の諸将の説得を本格化。

岐阜城を陥落させ、城主・織田秀信を降伏させる。

岐阜城が落城。西軍の濃尾防衛線が崩壊する。

17

八月二十五日

加藤貞泰の叔父が山内一豊に書状を送り、貞泰の籠城が不本意であることを伝え、開城への協力を要請。

岐阜城落城後、犬山城に降伏を勧告。

東軍、岐阜城の戦後処理を進める。

15

八月下旬~九月二日

加藤・竹中らが家康に開城の意思を伝える。石川貞清、孤立し、関一政らの説得を受け開城を決断。

籠城諸将からの内応の申し出を受け、開城の準備を進める。

家康、江戸を出発し西上を開始(九月一日)。

7

九月三日

犬山城、無血開城。 石川貞清は城を去り、関ヶ原の西軍本隊へ合流。籠城していた諸将は東軍に降る。

犬山城を接収。尾張における西軍の拠点を完全に排除する。

東軍、関ヶ原へ向けて進軍を本格化。

5

九月五日

-

徳川家康が加藤貞泰に対し、犬山城開城の功を賞する書状を送る。

家康、清洲城に到着。

18

第三章: 経済拠点としての犬山 ― 職人町のポテンシャル

慶長五年の犬山における事変が、純粋な軍事行動に留まらなかったことは、この地が持つ経済的な重要性を理解することで明らかになる。ご依頼の「鋳物・木工の職人町」というキーワードは、犬山が単なる城塞都市ではなく、豊かな自然資源と高度な技術が集積する経済拠点としての側面を持っていたことを示唆している。

木曽川水運と木材集散地

犬山の経済的価値の根幹をなしていたのは、その目前を流れる木曽川の存在である。木曽川上流の木曽谷や飛騨地方は、ヒノキをはじめとする良質な木材を産出する日本有数の森林地帯であった 12 。自動車も鉄道もない時代、山深くから伐り出された巨大な木材を輸送する手段は、川の流れを利用した「流送」以外になかった 21 。伐採された木材は筏に組まれ、木曽川を流れ下り、犬山に至って一旦陸揚げされた。犬山は、この木材流送における最も重要な中継基地であり、集散地としての機能を担っていたのである 22

この地理的条件は、犬山に木材加工に携わる「木工」職人が集住する必然的な土壌を形成した。上流から運ばれてきた原木は、犬山で角材や板材に加工され、尾張国内はもとより、伊勢湾を経由して全国各地へと供給された。この木材産業こそが、犬山の経済を支える大動脈であった。

石川貞清の木曽支配と経済基盤

第一章で述べた通り、城主・石川貞清は木曽10万石の代官を兼務していた。これは、彼が犬山を拠点に、日本最大級の木材供給地を管理・運営する責任者であったことを意味する 7 。豊臣政権下で行われた大坂城の再建や伏見城の造営といった国家的な巨大プロジェクトは、木曽から供給される膨大な木材なしには成り立たなかった。その木材はすべて、貞清の管理下で犬山を経由して供給されており、彼の支配は豊臣政権の財政と兵站を支える上で死活的に重要な役割を果たしていた。東軍にとって犬山城を奪うことは、尾張への侵攻ルートを確保するという軍事目的と同時に、西軍の重要な経済基盤と戦略物資の供給ラインを断ち切るという、より深い戦略的意味を持っていたのである。

美濃・尾張の金属加工技術

「鋳物」職人に関しても、犬山には彼らが活躍する素地があった。美濃・尾張地方は、古くから製鉄や金属加工が盛んな地域であり、特に刀鍛冶や梵鐘などの鋳造において高い技術を誇っていた 23 。戦国時代において、城の存在は必然的に武具の需要を生み出す。鉄砲の製造・修理、鎧や兜の金物細工、無数の矢尻の生産など、戦争を遂行するためには鍛冶・鋳物職人の技術が不可欠であった 25 。彼らは城の維持管理(たとえば、城門の蝶番や金具の製作)にも欠かせない存在であった。石川貞清が治めた犬山城下にも、こうした軍事需要に応えるための鍛冶・鋳物職人たちが集住し、工房を構えていた可能性は極めて高い。

戦国期城下町における職人の役割

戦国時代の城下町において、職人たちは領主の富国強兵策を支える重要な担い手であった 27 。彼らは、平時には城主や武士、町人のための生活用具(鍋、釜、農具など)を製造して町の経済を潤し、ひとたび戦時となれば、その技術を兵器生産に振り向け、兵站を支える軍需産業の担い手へと姿を変えた 25 。領主にとって、優れた職人集団を城下に誘致し、集住させることは、領国の経済力と軍事力を同時に高めるための重要な政策であった。石川貞清の時代、犬山城下には、木曽川水運がもたらす木材産業と、城がもたらす軍事需要を背景に、木工や鋳物・鍛冶といった職人たちが一定の集団を形成し、町の経済を支えていたと考えるのが自然である。慶長五年の事変は、こうした職人たちの庇護者と、彼らの生産活動が依拠する需要の構造を、根本から変える出来事となったのである。

第四章: 新たな支配者の下で ― 城下町の本格的整備へ

慶長五年九月三日の無血開城は、犬山の歴史における大きな転換点となった。豊臣恩顧の大名が支配した「国境の軍事拠点」から、徳川の世における「尾張藩の支城」へと、その性格を大きく変えていくことになる。この政治体制の変化こそが、後の計画的な職人町形成を可能にする直接的な原動力となった。

戦後処理と城主の変遷

関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると、西軍本隊に合流し宇喜多隊の右翼で奮戦した石川貞清もまた敗将となった 7 。彼は改易され、犬山1万2千石と木曽10万石の所領はすべて没収された。しかし、犬山籠城中に東軍方の人質を解放したことや、東軍の有力大名・池田輝政の助命嘆願が功を奏し、死罪は免れている 7

貞清が去った後の犬山城は、徳川方の支配下に入った。まず、関ヶ原の戦功により尾張一国を与えられた家康の四男・松平忠吉の付家老として、小笠原吉次が城主となった 14 。その後、慶長十二年(1607年)には平岩親吉が城主となるなど、関ヶ原後の犬山は短期間で支配者が交代する過渡期を迎えた 30

近世城郭への改修と職人需要

この過渡期において、犬山城は戦国時代の砦から近世城郭へと姿を変えるための改修が行われた。特に小笠原吉次の時代には、天守が増築されるなど、大規模な工事が実施されたと考えられている 14 。こうした城の大改修は、当然ながら多くの職人たちを必要とした。天守の構造材を加工する大工や木工職人、石垣を修築する石工、そして建物の金具や武具を製作する鍛冶・鋳物職人など、多種多様な技術者たちがこの事業に動員されたはずである。慶長五年の事変は、犬山の支配者を交代させただけでなく、その直後から新たな職人需要を生み出す契機ともなった。

成瀬氏の入城と安定統治の始まり

目まぐるしい城主交代の時代を経て、犬山に長期的な安定がもたらされるのは、元和三年(1617年)のことである。この年、尾張徳川家の付家老である成瀬正成が3万石で犬山城主として入城した 29 。これ以降、犬山は江戸時代を通じて、幕末に至るまで成瀬家九代の居城として泰平の世を歩むことになる。この成瀬氏による長期安定統治の確立こそが、場当たり的な修築ではない、計画的で恒久的な城下町整備を可能にした最大の要因であった。

計画的職人町の形成

現在我々が目にすることができる犬山の歴史的な城下町の骨格は、この成瀬氏の時代に本格的に整備されたものである 32 。成瀬氏は、犬山城の大手門から南へ一直線に伸びる「本町通り」を基軸とし、その両側に武家屋敷や町人町を計画的に配置した。その際、商工業の発展を促すため、商人や職人を同業者ごとに特定の区画に集住させる政策がとられた。その結果、「鍛冶屋町」や「魚屋町」といった、職能や業種に由来する町名が生まれ、現在にまでその名を留めている 32 。寛文六年(1666年)頃には定期市も開設され、犬山城下は経済的にも大いに繁栄した 34

この一連の歴史的経緯を俯瞰すると、ご依頼の「職人町拡充」の実態が明確になる。それは、慶長五年(1600年)の事変を「原因」とし、十数年の移行期間を経て、成瀬氏の安定治世下において「結果」として実現した、長期的な都市形成のプロセスだったのである。

そして、この円滑な移行を可能にした隠れた要因として、慶長五年の「無血開城」の意義を再評価する必要がある。もし犬山城が激しい攻城戦の末に落城していれば、城郭だけでなく城下町も焼き払われ、そこに住んでいた職人や商人といった人的資源(ソーシャルキャピタル)は離散していただろう。しかし、戦闘が回避されたことで、町は物理的な破壊を免れ、そこに蓄積されていた技術、工房、そして人的な繋がりといった経済活動の基盤が温存された。新支配者となった成瀬氏は、ゼロから町を建設するのではなく、石川貞清の時代から受け継がれたこの人的・経済的基盤を活かし、それを再編成・計画的に配置することで、効率的に近世城下町を整備することができたのである。1600年の事変は、支配者を交代させただけでなく、近世へと続く町の発展の礎を破壊から守ったという点においても、決定的な意味を持っていた。

結論: 慶長五年事変の歴史的意義 ― 「拡充」の真実

本報告書における詳細な検証の結果、「犬山職人町拡充(1600)」という事象は、慶長五年という特定の年に完結した単独の都市開発事業として存在したわけではないことが明らかになった。その歴史的実態は、日本の運命を二分した関ヶ原の戦いの前哨戦という、巨大な歴史のうねりの中で、犬山城の支配権が豊臣恩顧の石川貞清から徳川方の武将へと移譲された、一連の軍事・政治的「事変」であった。

この慶長五年の事変は、後の犬山における職人町の「拡充」、すなわち本格的な形成に対して、二つの側面から決定的な影響を与えた。

第一に、 体制の刷新 である。この事変により、犬山は豊臣政権の広域的な経済圏(特に木曽の資源管理拠点)から、尾張藩の安定した地方統治体制下にある支城へと、その政治的・経済的性格を根本的に転換させた。この体制の変化が、戦国時代の軍事優先の場当たり的な町づくりから、泰平の世における計画的な都市整備へと移行するための政治的土壌を創出した。

第二に、 基盤の温存 である。犬山城の帰趨が「無血開城」という形で決着したことは、極めて重要な意味を持つ。これにより、国宝となる天守を含む城郭そのものが戦火から守られただけでなく、石川貞清の時代から城下に存在したであろう職人や商人といった、町の経済を支える人的・経済的資源が破壊と離散から免れた。この温存された基盤があったからこそ、新支配者である成瀬氏は、その後の城下町整備を円滑に進めることができたのである。

結論として、慶長五年(1600年)の犬山における出来事は、戦乱の時代(戦国)から泰平の時代(江戸)への移行期を象徴する、まさに歴史の縮図であったと言える。城の役割が純粋な軍事拠点から、藩の行政と経済を支える中心地へと変貌していく過程そのものであり、その中で行われた計画的な「職人町」の形成は、この時代の変化を最も象徴する現象の一つであった。ご依頼にあった「犬山職人町拡充(1600)」とは、この歴史的転換点そのものを指し示す、示唆に富んだ言葉であり、その背後には、天下分け目の戦いにおける武将たちの苦渋の決断と、新しい時代を築こうとする人々の確かな営みが存在していたのである。

引用文献

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  3. 城とまちミュージアム | 観光・体験 | 【公式】犬山観光ナビ https://inuyama.gr.jp/experience/detail/3/
  4. 犬山城|「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー|シリーズ記事 - 未来へのアクション https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro/08/
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  7. 【第十三代・犬山城主】石川貞清(いしかわさだきよ=石川光吉(みつよし)は豊臣に忠義を尽くし https://www.takamaruoffice.com/inuyama-jyo/ishikawa-sadakiyo-13th-owner/
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