最終更新日 2025-09-30

琵琶湖水運座廃止(1587)

天正15年、豊臣秀吉は琵琶湖水運座を廃止。中世的権益を解体し、大津百艘船を組織。船奉行による一元管理で、大坂中心の物流を確立。中央集権化政策の一環として、近世国家形成を促進した。
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天正十五年 琵琶湖水運改革の真相 ― 中世的権益の解体と豊臣中央集権体制の確立

序章:静謐なる湖面の裏側 ― 問い直される「座の廃止」

天正十五年(1587年)、豊臣秀吉政権によって断行された琵琶湖水運における一連の改革は、通説において「水運座の廃止」として知られ、「独占を廃し自由取引で流通を活性化させた」政策として理解されてきた。しかし、この簡潔な要約は、歴史的現実の複雑性と、政策が内包する真の戦略的意図を見過ごさせる危険性をはらんでいる。本報告書は、この天正十五年の改革を、単なる「座の廃止」や「自由化」として捉える通説的理解を批判的に検証し、その実態が中世以来の多元的で分権的な支配構造を根底から解体し、豊臣政権による一元的かつ中央集権的な国家独占体制へと再編する、近世国家成立過程における画期的な経済政策であったことを論証するものである。

利用者によって提示された「独占を廃し自由取引で流通を活性」という認識は、結果として物流が効率化された側面を捉えているものの、政策の本質を正確に反映しているとは言い難い。本件は旧来の「座」という中世的独占を解体しつつも、決して無秩序な自由競争を導入したのではなく、豊臣政権の公権力に奉仕する新たな特権的独占体を創出するものであった。すなわち、これは「独占から自由へ」の移行ではなく、支配者の交代と独占形態の質的転換であった。この視座の転換こそが、本報告書の議論の根幹をなす。

そもそも琵琶湖は、古代より日本の経済と軍事を支える大動脈であった。若狭や敦賀で陸揚げされた北陸・東国からの物資(米、塩、海産物など)は、山を越えて湖北の港から湖上輸送され、湖南の大津や坂本で再び陸揚げされて京へと運ばれた 1 。このルートの支配は、莫大な経済的利益のみならず、軍事行動における兵站線の確保という点でも、天下統一を目指す権力者にとって死活的に重要な意味を持っていた 2 。この地理的・経済的価値こそが、歴代の権力者がその支配に執心し、そして秀吉が抜本的な改革に乗り出した根本的な理由なのである。

第一章:神仏と衆徒が支配する湖 ― 改革前夜の琵琶湖水運

豊臣秀吉による改革が対象とした「旧秩序」は、単一の権力によって支配された単純な構造ではなかった。それは、宗教的権威、武装した自律的集団、そして同業者の排他的組合が複雑に絡み合った、重層的かつ強固な中世的社会経済システムであった。この旧秩序の構造を理解することなくして、改革の歴史的意義を正しく評価することはできない。

1-1. 中世における物流大動脈としての琵琶湖

前述の通り、琵琶湖は日本海と畿内を結ぶ最重要幹線であった。特に、年貢米や各種物資を京・奈良の消費地へ運ぶ上で、その役割は絶大であった。陸上輸送に比べ、水運は一度に大量の物資を低コストで輸送することが可能であり、琵琶湖はその中継地として比類なき重要性を誇っていた 1 。湖の南北を往来する無数の丸子船が、中世日本の経済を文字通り支えていたのである 3 。この経済的価値の高さゆえに、湖上の支配権をめぐっては、様々な勢力が激しい角逐を繰り広げることとなった。

1-2. 聖域の支配者 ― 比叡山延暦寺と日吉大社

中世の琵琶湖を語る上で、比叡山延暦寺の存在を無視することはできない。延暦寺は、強大な宗教的権威と、それを背景とした経済力・軍事力(僧兵)を以て、琵琶湖全域に絶大な影響力を及ぼしていた 4 。特に、その麓に位置する坂本は、延暦寺の門前町であると同時に、湖上交通の最重要港であり、延暦寺はここを拠点として湖上の支配権を実質的に掌握していた 5

延暦寺と一体の関係にあった日吉大社もまた、湖上の安全や漁業権といった形で広範な利権を確保していた 6 。湖上で活動する人々にとって、彼らの権威は不可侵であり、その支配は単なる経済活動の管理を超え、信仰と結びついた「聖なる秩序」として認識されていた 7 。通行料の徴収や特定の港の使用許可は、延暦寺や日吉大社の神仏の加護を得るための対価という意味合いをも帯びていたのである。

1-3. 湖上の実力者「堅田衆」― 自律する武装水運集団

延暦寺という宗教的権威の下で、湖上の実務を担い、独自の勢力を築き上げたのが「堅田衆」であった。元来は漁民であった彼らは、やがて湖上交通の警備や水先案内を担うことで実力をつけ、堅田の地を拠点とする自律的な共同体を形成した 8 。彼らは武装し、湖賊の取り締まりを行う一方で、自らが湖上の「警察権」を掌握するに至る。

堅田衆は、延暦寺や室町幕府といった上位権力から、様々な特権を公認されていた。その代表的なものが「上乗権」である。これは、航行する船に堅田衆が乗り込み、その安全を保障する見返りに、船主から料金を徴収する権利であった 9 。また、湖上に独自の関所を設け、通行税(関銭)を徴収する権利も認められていた 9 。これらの特権により、堅田衆は琵琶湖水運における一種の独立勢力として君臨し、その支配は国家の公権力が容易に介入できない領域となっていた。

1-4. 「座」制度の本質 ― 保護と独占の構造

こうした多元的な支配構造を経済的に支えていたのが「座」のシステムである。「座」とは、特定の権威(本所と呼ばれる寺社や公家など)に「座役」と呼ばれる金銭や奉仕を納める見返りに、特定の商品の生産・販売や営業活動に関する独占権を保障される同業者組合であった 5

琵琶湖水運においては、延暦寺などを本所とし、坂本や堅田の船主たちがその構成員(座衆)となることで「水運座」が形成されていた。座衆は座役を負担する代わりに、湖上輸送の独占権を保障され、座に属さない新規参入者を実力で排除した 5 。もし座に属さない者が商売をしようものなら、座の構成員がやってきて暴力的に妨害することもあった。このシステムは、座衆に安定した収益をもたらし、経済秩序の維持に寄与する一方で、自由な経済活動を阻害し、既得権益の温床となるという負の側面も持っていた。

改革前夜の琵琶湖は、単一の主体に支配されていたのではなく、延暦寺という宗教的権威、堅田衆という武装実力集団、そして「座」という経済システムが重層的に絡み合った、極めて多元的かつ分権的な支配構造下にあった。これらは独立して存在するのではなく、延暦寺が堅田衆に特権を与え、堅田衆が座を組織して実務を担うという、相互依存関係によって成り立っていたのである。これは、中央政府の統制が及ばず、各地域の権門や自立集団が独自の法(慣習法)と実力(武力)で権益を維持する、典型的な中世社会の姿であった。したがって、秀吉の改革は、単に一つの「座」を廃止するという単純な政策ではなく、この複雑に絡み合った中世的な社会経済構造そのものにメスを入れる、体制変革であったと理解しなければならない。

第二章:旧秩序の破壊者 ― 織田信長による琵琶湖支配の試み

豊臣秀吉による体系的な水運改革は、全くの白紙状態から始まったわけではない。その地ならしとも言うべき役割を果たしたのが、織田信長の破壊的な軍事行動と革新的な経済政策であった。信長の行動は、意図せずして、秀吉が新たな秩序を構築するための決定的な前提条件を作り出したのである。

2-1. 元亀二年(1571)比叡山焼き討ちの衝撃

元亀二年(1571年)九月、信長は浅井・朝倉連合を支援する比叡山延暦寺に対し、容赦のない焼き討ちを敢行した。この事件は、単に敵対勢力への軍事行動というだけでなく、琵琶湖の支配構造を根底から揺るがす経済戦争としての側面を持っていた。

中世を通じて琵琶湖の支配者であり続けた延暦寺は、その宗教的権威によって不可侵の存在と見なされてきた。湖上の諸勢力が持つ特権も、その多くが延暦寺の権威を根拠とするものであった。信長による焼き討ちは、この最大の権威(本所)を物理的に破壊し、その神聖性を剥奪するものであった。これにより、延暦寺の権威に依存していた坂本や堅田衆の特権はその正統性の根拠を失い、湖上の支配構造に巨大な権力の空白が生まれたのである 9

2-2. 楽市楽座との思想的連続性

信長は、琵琶湖東岸に築いた安土城の城下町において、楽市楽座令を発布したことで知られる 11 。これは、既存の「座」が持つ独占権を否定し、商人が身分や所属に関わらず自由に営業活動を行えるようにすることで、城下の経済的繁栄を図る画期的な政策であった。この政策の根底には、中世的な座の特権が経済発展を阻害するという認識があり、琵琶湖の水運座が持つ独占権を否定する思想と軌を一にするものであった。

しかし、信長の関心はあくまで安土周辺の支配と繁栄に限定されており、琵琶湖全体の水運システムを体系的に再構築するまでには至らなかった。彼は旧秩序の強力な「破壊者」ではあったが、それに代わる新たな秩序の「建設者」ではなかったのである。

2-3. 信長政権下での湖上勢力の再編と限界

焼き討ちによって延暦寺の権威を失墜させた信長は、堅田衆をはじめとする湖上の実力者たちを武力で支配下に組み込んでいった 3 。彼はこれらの勢力を自身の水軍として組織し、石山合戦などで活用した 13 。これにより、湖上の支配は信長個人の軍事力に直結するものとなった。

しかし、その支配はあくまで軍事的な従属関係に留まり、湖上交通のルールや利権構造そのものを体系的に作り変えるものではなかった。旧来の慣習の多くは温存され、信長の死後、再び湖上の秩序が不安定化する要因を内包していたのである 9

信長の政策が持つ最大の歴史的意義は、琵琶湖における中世的権威の「聖域性」を剥奪し、純粋な実力支配の対象へと転換させた点にある。焼き討ち以前、延暦寺への攻撃は神仏への冒涜であり、政治的にも宗教的にも一種のタブーであった。信長はこのタブーを破り、延暦寺を単なる敵対勢力として武力で排除した。これにより、琵琶湖の支配権は、もはや宗教的権威や古来の慣習法によって保障されるものではなく、天下人の軍事力によって決定されるという新たな原則が確立された。この「脱聖域化」こそが、秀吉がより合理的かつ体系的な経済政策として水運改革に着手することを可能にした、決定的な土壌となったのである。

第三章:天下人のグランドデザイン ― 豊臣秀吉の国家構想と琵琶湖

織田信長が切り開いた地平の上に、豊臣秀吉は壮大な国家改造の設計図を描いた。彼が断行した琵琶湖水運改革は、単発の地域政策ではなく、天下統一事業という壮大な文脈の中に戦略的に位置づけられた、国家構想の重要な一翼を担うものであった。

3-1. 新たな中心地、大坂の誕生と物流革命の必要性

信長の後継者となった秀吉は、天正十一年(1583年)に大坂城の築城を開始し、日本の政治・経済の中心を、伝統的な都である京都から、自らが築いた新たな拠点である大坂へと移した 3 。この国家の中心地の戦略的移転は、物流システムに革命的な変化を要求した。

北陸・東国から琵琶湖を経て運ばれてくる膨大な物資は、もはや従来の終着点であった京都で消費されるだけでなく、大坂まで効率的かつ安定的に輸送される必要が生じた。大津から京都を経由し、淀川を下って大坂に至る新たなルートが、国家的な大動脈として最重要視されることになったのである 2 。この新たな物流網を確立するためには、その最重要区間である琵琶湖水運を、旧来の複雑で非効率な利権構造から解放し、豊臣政権が一元的に管理する、合理的で高速な輸送システムへと再編することが不可欠の課題となった。

3-2. 中央集権化政策との連動

琵琶湖水運改革は、秀吉が進めた他の中央集権化政策と密接に連動していた。太閤検地、刀狩・兵農分離といった一連の政策は、全国の「人・モノ・カネ」を豊臣政権が一元的に管理・動員する体制を構築することを目的としており、水運改革もまた、この壮大なプロジェクトの一部として理解されなければならない。

  • 太閤検地と石高制: 秀吉は、全国の田畑を統一された基準(同じ面積の検地竿と京枡)で直接測量させ、その土地の予想収穫量を米の体積である「石高」で表示させた 16 。これにより、荘園領主や名主といった中間搾取層を排除し、複雑な土地所有関係を「領主-農民」という直接的な支配関係に一本化した 18 。これは、国家が全国の土地と人民を直接把握し、安定した年貢収入を確保するための画期的なシステムであった。
  • 刀狩と兵農分離: 天正十六年(1588年)に発布された刀狩令は、百姓が刀や鉄砲などの武器を所持することを厳しく禁じた 19 。これにより、農民による一揆を未然に防ぎ、彼らを耕作に専念させると同時に、武士を戦闘の専門家集団として城下町に集住させる「兵農分離」を徹底した 20 。これは、社会の身分を固定化し、自律的な武装集団を解体して、国家の軍事力を武士階級に独占させるための政策であった。

これらの政策に共通するのは、中世以来の多元的で私的な権力を解体し、あらゆるものを国家(豊臣政権)の直接的な管理下に置こうとする強い意志である。

この文脈で琵琶湖水運改革を捉え直すと、その本質がより明確になる。この改革は、太閤検地や刀狩と思想的・構造的に完全に同質のものであった。それは、水運という特定の経済セクターにおける「検地」であり、「兵農分離」であったと言える。

太閤検地が、土地に対する複雑な中間利権(名主など)を排除し、「領主(秀吉)-農民」という直接的な支配関係を構築したように 18 、琵琶湖水運改革は、水運に対する複雑な中間利権(延暦寺、堅田衆、座)を排除し、「領主(秀吉)-船主」という直接的な支配関係を構築しようとした。

また、刀狩・兵農分離が、武装し自律していた農民(地侍など)を非武装化し、統治される客体へと変えたように 20 、琵琶湖水運改革は、武装し自律していた水運業者(堅田衆など)を、国家の管理下で営業する単なる輸送業者へと変質させた。後に導入される、船奉行による全船舶への焼き印(極印)による船籍管理 22 は、検地帳に農民を一人ひとり登録する発想と全く同じである。

したがって、この改革は単発の経済政策ではなく、秀吉の国家改造プロジェクト全体の一部であり、陸の支配(検地・刀狩)と水の支配(水運改革)が対となって初めて、彼の目指す中央集権国家が完成するという、壮大な構想の中に位置づけられていたのである。

第四章:激動の刻(天正十四年~十五年) ― 新秩序構築のリアルタイム・ドキュメント

秀吉の壮大な構想は、天正十四年から十五年にかけて、琵琶湖を舞台に具体的な行動として展開された。それは、旧秩序の解体と新秩序の構築が同時進行する、まさに激動の瞬間であった。

4-1. 天正十四年(1586):布石

改革断行に先立つ天正十四年、秀吉は周到な布石を打っていた。

  • 拠点の戦略的移転: 秀吉は、中世以来の比叡山の拠点であった坂本城を廃城とし、新たに湖南の要衝である大津に城を築かせた 14 。これは、物流ルートの中心を、伝統的な京都中心の坂本から、自らの本拠地である大坂・伏見へと繋がる大津へと転換させる、明確な意思表示であった 15 。琵琶湖の重心を、意図的に南東へずらしたのである。
  • キーパーソンの配置: この新たな戦略拠点である大津城の城主として、腹心である浅野長吉(後の長政)を任命した 24 。長吉は、単なる城主ではなく、この困難な水運改革を断行する実行責任者として送り込まれた。
  • 新組織の胎動: 当時の大津には、政権の公用を担うだけの船が不足していた。そこで長吉は、近在の坂本、堅田、木浜などから有力な船主たちを大津に集め始めた。彼らに対し、旧来の特権に代わる新たな特権を与えることを示唆し、政権に忠実な新たな船持仲間「大津百艘船」の編成に着手したのである 2 。これは、旧来の地縁や寺社との繋がりで結ばれた共同体を解体し、豊臣政権への奉仕という新たな原理に基づき、人々を再組織化する作業であった。

4-2. 天正十五年(1587)二月十六日:Xデー ― 「定」高札の公布

布石が整った天正十五年二月十六日、浅野長吉の名において、琵琶湖水運の新たな秩序を宣言する五箇条の「定(さだめ)」が高札として大津の地に掲げられた 24 。この高札こそ、旧秩序の死亡宣告であり、新秩序の誕生を高らかに告げるものであった。その条文を詳細に分析する。

  • 第一条「一、当所へ役義つかまつらさる舟に、荷物・旅人のせましき事」
  • 第二条「一、当津荷物・諸旅人、いりふねにのせましき事」
    分析: この二条が改革の核心である。「当所(大津)への役義(公役)を務めない船」や「入船(他所から大津へやってきた船)」に、大津から出港する荷物や旅人を積むことを固く禁じている。これは、通説で言われるような「自由化」とは全く逆の政策である。すなわち、 大津からの積み出しを、「役義」を務める特定の船団(=大津百艘船)に独占させる ことを意味しており、国家による新たな独占権の付与に他ならない 24
  • 第三条「一、他浦にてくしふねにとられ候ハヽ、此方へ可申上候、かたく可申付事」
    分析: 大津百艘船に所属する船が、他の港で(その土地の領主などから)公用船として徴用されることを禁じている。もしそのような事態が起きた場合は、大津城主(此方)へ報告せよと命じている。これは、大津百艘船の身分を豊臣政権直属の公用船として国家的に保障し、他のいかなる権力からの干渉も排除するという、強力な保護宣言である 24
  • 第四条「一、くしふねにめしつかい候とき、あけおろしの儀、せんとう共仕ましき事」
    分析: 公用船として徴用した際、船頭に荷物の揚げ降ろし(荷役)をさせてはならない、と定めている。これは船頭の負担軽減という側面もあるが、より重要なのは、船の運航と荷役という業務を分離し、輸送の専門化・効率化を図る狙いがあった可能性が考えられる。
  • 第五条「一、家中の者下にて舟めしつかい候儀、曲事候、もし舟つかい候ハんと申もの候ハヽ、此方へ可申上候事」
    分析: 大津城主である浅野長吉の家臣であっても、個人的な目的で船を使ってはならないと厳命している。これは、公私の別を徹底し、この改革が豊臣政権という「公儀」によるものであり、浅野家の私的な利益追求ではないことを内外に示すと同時に、新たな利権の私物化を防ぐための厳格な規律である 24
  • 罰則「右之旨相そむくともからあらハ可加成敗者也」
    分析: 条文の最後に、これらの定めに背く者は「成敗」、すなわち死罪を含む厳しい処罰の対象となることを宣言している。これは、この改革が交渉の余地のない、国家権力による絶対的な命令であることを示している 24

天正十五年の改革は、現代の政策用語で言うところの「規制緩和」では決してない。むしろ、それは「国家戦略特区」の創設に近い概念であったと理解すべきである。「規制緩和」や「自由化」は、原則として全てのプレイヤーに等しく市場を開放する行為を指す。しかし、浅野長吉の「定」は、市場を解放するどころか、「大津百艘船」という特定の事業者グループに、大津港からの輸送という極めて有利な事業独占権を与えている 24 。その見返りとして、大津百艘船は豊臣政権の「役義」(軍事物資輸送などの公役)を担う義務を負う 2 。これは、国家が特定の戦略的目的(大坂への物資集積)のために、特定の地域(大津)において、特定の事業者(大津百艘船)に既存の規制(旧来の座の特権など)を適用せず、新たな特権を与えるという構造である。この「戦略的目的のための、特定の担い手への特権付与」というモデルは、現代の「国家戦略特区」の概念と酷似している。したがって、「座の廃止」を「自由化」と捉えるのは時代錯誤であり、「豊臣政権による水運戦略特区の創設」と理解する方が、その本質をより正確に捉えていると言えよう。

第五章:新たな支配のメカニズム ― 大津百艘船と船奉行

高札の公布によって旧秩序の解体が宣言された後、豊臣政権はそれに代わる新たな支配システムを矢継ぎ早に構築していった。それは、特権的な実行部隊と、広域的な管理機構を組み合わせた、巧妙かつ緻密な二元的支配体制であった。

5-1. 特権的御用船団「大津百艘船」

改革の核となったのが、新たに組織された「大津百艘船」である。これは、大津城主・浅野長吉の指揮下で、豊臣政権の公役を担う特権的な御用船団であった 15 。その構成員は、かつて坂本や堅田で権勢を誇った有力な船主たちであった。秀吉は、彼らを完全に排除するのではなく、旧来の特権を剥奪する代わりに、大津からの積み出し独占権という、国家が保障する新たな、そして莫大な経済的利益を与えることで、新体制へと巧みに取り込んだ 23 。これにより、政権は旧勢力の抵抗を和らげると同時に、彼らが持つ湖上輸送に関する豊富な知識と経験(ノウハウ)を、新体制のために活用することに成功したのである 15

5-2. 湖上の一元管理機構「船奉行」

大津百艘船という直属の実行部隊を組織する一方で、秀吉は琵琶湖全体の船舶を網羅的に管理するための、もう一つの機構を設置した。それが「船奉行」である。天正十九年(1591年)、秀吉は湖南の有力寺院であった芦浦観音寺の住職・詮舜を正式に船奉行に任命し、朱印状を与えた 26

船奉行の役割は、琵琶湖を航行するすべての船を対象に、その所属を登録管理し、その証として「焼き印(極印)」を押すことであった 22 。さらに、湖上を運ばれる物資に対して運送税(運上銀)を徴収する権限も持っていた 22 。これは、湖上交通のすべてを国家が直接把握し、課税するという画期的なシステムであり、これにより、大津百艘船以外の一般の船もすべて豊臣政権の管理下に置かれることになった。

5-3. 二元的支配システムの完成

秀吉は、この二つの機構を組み合わせることで、琵琶湖に対する二元的な支配システムを完成させた。

  1. 直接的・軍事経済的支配ルート: 大津城主(浅野長吉)を通じて、直属の実行部隊である「大津百艘船」を動かし、大津という最重要拠点の物流を確実に掌握するルート 25
  2. 間接的・広域行政的支配ルート: 船奉行(詮舜)を通じて、湖全体の一般船舶を登録・管理し、課税することで、湖上の津々浦々にまで支配を浸透させるルート 25

この二元的システムにより、重点拠点の物流を確実に掌握しつつ、湖全体の隅々にまで行政権を及ぼすことが可能となった。それは、硬軟織り交ぜた、極めて高度な統治技術の表れであった。

5-4. 新たな紛争の火種

しかし、この新秩序の構築は、ただちに湖上に安定をもたらしたわけではなかった。大津に特権が集中したことで、かつての中心地であった堅田やその他の港との間に、新たな利害対立が生まれた 15 。旧来の秩序が崩壊した後に生じる、新たな秩序をめぐる競争である。

豊臣政権は、こうした紛争を調停するため、「とも折廻船」規定(港に複数の船が同時に到着した場合、先に舳先を岸につけた方から荷を積む権利を得る)のような、新たなルールを設ける必要に迫られた 15 。これは、旧秩序の解体がゴールではなく、新たな秩序を安定的に運用するための、継続的な努力と調整が必要であったことを示している。

秀吉が構築したこの支配システムは、「アメとムチ」の巧みな使い分けであったと言える。「大津百艘船」への参加は、旧来の特権を失う代わりに、新たな国家公認の特権を得るという「アメ」であり、有力な船主たちを自発的に新体制へと誘導した。一方で、船奉行による焼き印と課税は、体制に従わない船の存在を許さず、すべての船を国家の管理下に置くという「ムチ」であった。さらに、船奉行に在地で人望のある宗教者(詮舜)を任命することで、支配の正当性を演出し、物理的な強制力だけでなく、在地社会の権威をも利用して改革を円滑に進めようとした。この硬軟織り交ぜたアプローチは、単なる武力による支配とは一線を画す、豊臣政権の統治の洗練性を示している。

以下の表は、改革の前後で琵琶湖の支配構造がいかに劇的に変化したかをまとめたものである。

表1:豊臣政権による琵琶湖水運支配体制の新旧比較

項目

改革以前(中世的支配)

改革以後(豊臣政権支配)

根拠資料

支配主体

比叡山延暦寺、日吉大社、堅田衆などの多元的・在地勢力

豊臣政権(中央権力)

2

権威の根源

宗教的権威、古来の慣習法、在地での実力(武力)

関白・太政大臣としての公的権力、朱印状による命令

5

主要な担い手

各浦の「座」に所属する船主・衆徒

大津百艘船(公役負担)、その他(船奉行の管轄下の全船舶)

5

利権の形態

関銭、上乗権など、私的に徴収する通行料・保護料

公役と引き換えの国家的特権(大津からの積出独占)、運上銀(国家への税)

9

管理方法

分権的・多元的(各勢力が個別に利権を主張し、実力で維持)

一元的・二元的(大津城主による直接支配と船奉行による広域管理)

9

この表が示すように、改革は単なる部分的な変更ではなく、支配のパラダイムそのものを中世的なものから近世的なものへと転換させる、質的な大改革であったことがわかる。

終章:琵琶湖が映した時代の転換

天正十五年の琵琶湖水運改革は、日本の歴史における大きな転換点を象徴する出来事であった。それは、単に一つの湖の物流システムが変更されたという以上の、深い歴史的意義を持っている。

天正十五年の改革が持つ歴史的意義の総括

この改革の最大の意義は、中世以来の多元的・分権的な荘園制的支配構造を、経済・流通という領域において完全に解体し、近世的な一元的・中央集権的支配体制を確立する上で、決定的な一歩を記した点にある。陸上における太閤検地・刀狩が、土地と人民に対する旧来の支配構造を破壊したとすれば、この水運改革は、物流という国家の血脈に対する旧支配を破壊するものであった。それはまさに「湖上の太閤検地」であり、豊臣政権による天下統一が、単なる軍事的な制圧だけでなく、経済インフラの完全な掌握によって完成したことを示している。

「座の廃止」がもたらした光と影

この改革がもたらした影響は、多岐にわたる。

  • 光(メリット): 複雑な中間利権や関所が排除され、輸送ルートが国家管理の下で一本化されたことで、物流は大幅に効率化・高速化した。かつて「急がば回れ」と詠まれたほど危険と時間がかかった湖上輸送は 31 、より安全で予測可能なものとなった。これは、秀吉が目指した大坂を中心とする全国市場の形成を強力に促進し、近世日本の経済発展の礎の一つとなったことは間違いない。
  • 影(デメリット): しかし、それは「自由な取引」が生まれたことを意味するものではなかった。むしろ、国家による強力な経済統制の始まりであった。かつては武装し、自律的な共同体を形成していた船主たちは、国家の許可と管理の下でのみ営業できる一介の事業者となり、その自由度は大きく失われた。経済活動が、国家の戦略に奉仕するものへと変質していく過程でもあった。

その後の琵琶湖水運の変遷と、豊臣政権の遺産

秀吉が構築した大津百艘船と船奉行を中核とするシステムは、その後の江戸幕府にもほぼそのまま引き継がれ、近世を通じて琵琶湖水運の基本構造となった 2 。豊臣政権の遺産は、徳川の世においても生き続けたのである。

しかし、時代の流れとともに、琵琶湖水運の相対的な重要性は低下していく。江戸時代中期以降、日本海と瀬戸内海を直接結ぶ西廻り航路など、より大規模な海上水運が発達すると、琵琶湖を経由するルートの優位性は薄れていった 2 。そして明治期に入り、鉄道網が全国に張り巡らされると、湖上水運はその物流の主役としての座を完全に明け渡すことになった 33

それでもなお、天正十五年の改革が示した思想、すなわち「国家が経済インフラを直接管理し、国益のために最適化する」という発想は、形を変えながらも近代国家へと受け継がれていく。琵琶湖の静かな湖面は、中世が終わり、近世という新たな時代が幕を開けた、あの激動の瞬間を、今も静かに映し出しているのである。

引用文献

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  3. 【ビワズ通信 No.48】琵琶湖・淀川のなかまたち|水のめぐみ館「アクア琵琶」 https://www.kkr.mlit.go.jp/biwako/aquabiwa/biwazu/48/02.html
  4. 比叡山延暦寺と貨幣経済:日本中世の「中央銀行」だった?|松尾靖隆 - note https://note.com/yaandyu0423/n/n2c8235108b81
  5. 強大な経済力・文化力を持つ寺社 中世の主役は「寺社」だ! - 京都府教育委員会 http://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/social0_18.pdf
  6. 近江の平安時代 - 滋賀県埋蔵文化財センター https://shiga-mc.sakura.ne.jp/pdf/%E5%9F%8B%E3%82%82%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%81%AE%E8%A9%B130.pdf
  7. 日本遺産巡り#19 琵琶湖とその水辺景観 -祈りと暮らしの水遺産 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/special/114/
  8. 第3回世界水フォーラム開会式における皇太子殿下記念講演 - 宮内庁 https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/koen/koen-h15az-mizuforum3th.html
  9. するための保証金として、堅 60~66年)に下付され - 滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/wp-content/uploads/pdf/biwako/biwako2_39.pdf
  10. 京都北山の昔話 第309話「中世の自由都市をつくった堅田衆と沖島」 https://kitayama.blog.jp/archives/39453482.html
  11. 豊臣秀次が開いた近江商人発祥の地・近江八幡。滋賀県近江八幡市 | 東洋精器工業株式会社 https://www.toyoseikico.co.jp/blog/5581/
  12. 【しがライターReport】琵琶湖の水運と織田信長「安土城考古博物館で見つけた織田信長の天下静謐(せいひつ)」 | 海と日本PROJECT in 滋賀県 https://shiga.uminohi.jp/information/nobunaga/
  13. 第1部:琵琶湖をめぐる交通と経済力 - シガブンシンブン びわこの考湖学 - 公益財団法人滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/lake-biwa-archeology/lake-biwa-archeology-1/
  14. 山中比叡平歴史散歩 http://yhieidaira.xsrv.jp/tanaka-rekishi/tanaka-sampo-13.html
  15. 大津百艘船 https://www.kaho.biz/main/biwakokinsei.html
  16. ak:安土桃山3 豊臣秀吉単語カード | Quizlet https://quizlet.com/jp/585050450/ak%E5%AE%89%E5%9C%9F%E6%A1%83%E5%B1%B1-%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89-flash-cards/
  17. 豊臣秀吉が行った政策とは?太閤検地や刀狩を理解しよう! | 学びの日本史 https://kamitu.jp/2023/08/31/hideyoshi-toyotomi/
  18. 問題 - Z会 https://www.zkai.co.jp/wp-content/uploads/sites/18/2021/06/06215141/92124b5c41740638a95b8f199294e39d.pdf
  19. 秀吉の国内・対外政策 - ちとにとせ|地理と日本史と世界史のまとめサイト https://chitonitose.com/jh/jh_lessons69.html
  20. Lesson: "World Trends and the Unification Project III - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=YIEk85VTsWE
  21. 兵農分離 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/heino-bunri/
  22. 第4章 関連文化財群とそのテーマ - 草津市 https://www.city.kusatsu.shiga.jp/bunka/rekishi/keikaku/bunkazai12024.files/4-6syou.pdf
  23. 企画展 江戸時代の琵琶湖水運 -大津百艘船の航跡- |お知らせ - 大津市歴史博物館 https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/2002.html
  24. 近世の高札 ― 大津百艘船を例にして https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/660/660PDF/sugie.pdf
  25. 第108回ミニ企画展 大津の古文書7 居初家文書の世界 - 大津市歴史博物館 https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/1305.html
  26. 大津百艘船(2005年7月 METRO No.163) - ぶらり近江のみち http://www.honnet.jp/metro/oumi/oumi_25.htm
  27. 芦浦観音寺跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/140194
  28. 芦浦観音寺-その景観と歴史の特性 https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/site-archives/download-kyoshitsu-k217.pdf
  29. 1.室町・戦国の城 2.織田信長の城と琵琶湖 3. https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5526676.pdf
  30. 黒船々頭申状写 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/221784
  31. 井伊美術館資料紹介 | iimuseum https://www.ii-museum.jp/blank-59
  32. 湖族の郷「堅田」探訪 - FC2 http://kusahato.web.fc2.com/soukyuan-2/walking/uo-78katata/katata.html
  33. 湖上水運の歴史 http://www.koti.jp/marco/suiun.htm
  34. 第 3 回県政 150 周年記念展 展示図録 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5355977.pdf