由比宿整備(1601)
1601年の由比宿整備は、徳川家康が戦国期の今川・武田氏の交通網を継承しつつ、江戸中心の全国的システムへ再編した。薩埵峠の地理的要請と在地領主の活用により、幕府の統治強化と経済発展に貢献した。
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由比宿整備(1601)の再構築:戦国終焉のダイナミズムと徳川国家構想
序章:問いの設定
慶長六年(1601年)、徳川家康は東海道に宿駅伝馬制度を制定した。この政策の一環として、駿河国に「由比宿」が公式に設置・整備された。この事象は、一般に「海沿い宿場の再整備による輸送体制強化」と簡潔に要約される 1 。しかし、この一行の記述の背後には、戦国の動乱を終結させ、新たな国家秩序を構築しようとする徳川政権の壮大な構想と、それに伴う在地社会の劇的な変容が隠されている。
本報告書は、「由比宿整備(1601)」という歴史的瞬間を、単なる江戸時代の交通政策の起点として静的に捉えるのではなく、その直前まで続いた「戦国時代」というレンズを通して、動的に再構築することを目的とする。1601年という年は、戦国の終焉と新たな秩序構築が交差する、極めて象徴的な時点である。したがって、この事象を深く理解するためには、戦国時代の視座が不可欠となる。
具体的には、以下の三つの視角から分析を進める。第一に、今川氏や武田氏といった戦国大名が築いた領国交通網が、徳川の全国的システムにいかに継承され、あるいは再編されたのか。第二に、由比氏のような戦国期の在地領主層が、いかにして近世的な支配層(本陣・問屋)へと転換していったのか。第三に、軍事優先であった戦国期のインフラ思想が、経済・統治を優先する近世のそれへといかに変化したのか。
さらに本報告書は、ユーザーの要請に応えるべく、「事変中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」での解説を試みる。これは、断片的な史料を組み合わせた知的再構築作業であり、政策決定者(家康と奉行)、伝達過程(朱印状)、現地担当者(岩辺家)、そして地理的条件(薩埵峠)の相互作用を時系列で追うことで、単一の「整備」という行為を、一年間にわたる動的なプロセスとして描き出すことを目指すものである。このアプローチによって、「由比宿整備」が内包する国家レベルの戦略、在地社会の変容、そして歴史の連続性と断絶性のダイナミズムを、より深く解明することが可能となるであろう。
第一部:前史 ― 戦国動乱と交通の変容
第1章:戦国期駿河における伝馬制度の萌芽
徳川家康による慶長六年(1601年)の東海道宿駅伝馬制度は、全くの無から創出されたものではない。特に、制度が導入された駿河国においては、戦国大名今川氏による先進的な交通政策の蓄積が存在した。
今川氏の先進的交通政策と伝馬制の実態
駿河国は、東国において最も早く伝馬制が確認できる地域の一つであった 2 。戦国大名としての地位を確立した今川氏は、領国経営の一環として交通網の掌握を重視した。特に今川義元の時代には、商業の活性化を目的として、宿場ごとに人馬を交替させて物資を運ぶ伝馬制が積極的に整備された 3 。これは、東西交通の要衝である駿河・遠江・三河を支配下に置いた今川氏にとって、領国内の物流を円滑化し、経済的基盤を強化するための重要な政策であった。
今川氏の伝馬制は、幕府の公権力によるものではなく、特定の御用商人がその運営の中核を担っていた点に特徴がある。義元は、駿河府中の今宿を拠点とする商人頭・友野二郎兵衛尉を任命し、領国内外の商人の統制と伝馬の発着を担当させた 2 。公用で伝馬を利用する際には、1日5疋を限度に1里あたり10銭を支払う有料制であり、利用には伝馬手形が必要であった 2 。これは、領主の公権力と特権商人の経済活動が結びついた、戦国期に特有の属人的なシステムであったと言える。
在地領主・由比氏の存在と武田氏の侵攻
この地域の交通と軍事の要衝を管理していたのが、在地領主の由比氏であった。彼らは今川氏の重臣として由比城を拠点としていたが 4 、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いで当主・由比助四郎光教が主君今川義元と共に討死した 6 。その後、子孫は武士の身分を離れて帰農し、在地に根を下ろし続けた。この由比氏の末裔が、後の江戸時代に由比宿の本陣・問屋職を世襲する岩辺家となる 6 。
永禄十一年(1568年)、武田信玄が駿河に侵攻すると、今川氏が築いた交通網は軍事的に再編される。東海道の難所である薩埵峠は、今川氏真が武田軍の侵攻を阻止しようとした最後の防衛線となり、古戦場となった 10 。武田氏の支配下では、交通網の重点は東西を結ぶ東海道軸から、甲斐と駿河を南北に結ぶ中道往還などへと一時的にシフトした。武田勝頼は、根原村などに伝馬制度を定め、江尻から甲府に至る交通路の整備を行った記録が残っている 11 。
徳川の伝馬制は、こうした今川氏の先行的な制度を土台としつつも、その本質を大きく変革するものであった。特定の商人や在地領主の特権に依存した属人的な運営から、幕府の直接管理下にある宿役人が公的な役務として担う、標準化・官僚化された全国的システムへと「換骨奪胎」したのである。また、家康は由比氏の末裔である岩辺家のような旧来の在地勢力を排除せず、新たな宿場制度の末端管理者(本陣・問屋)として再編・登用することで、既存の権威と人的ネットワークを利用し、新制度を円滑に浸透させるという巧みな統治術を見せた。これは、単なるインフラ整備に留まらない、高度な政治的プロセスであった。
第2章:天下統一事業と交通政策の連続性
徳川家康の交通政策は、織田信長、豊臣秀吉によって推進された天下統一事業の延長線上にあり、その集大成と位置づけることができる。しかしそれは、単なる継承ではなく、政策目的の質的な転換を伴うものであった。
織田・豊臣政権による交通網の再統合
戦国時代、各大名が領国ごとに分断して管理していた交通網を、初めて全国的な視点から再統合しようと試みたのが織田信長であった。信長は、商業の自由化を妨げていた関所を撤廃し、荒廃していた道路や橋梁を整備した 13 。さらに、距離の基準を統一するため、36町を1里と定め、一里塚の設置を試みたことも、彼の先進性を示している 14 。これらの政策は、軍隊の迅速な移動を可能にすると同時に、支配地域の経済を活性化させる「天下布武」のためのインフラ革命であった。
豊臣秀吉は信長の政策を継承し、さらに発展させた。特に天正二十年(1592年)の文禄の役に際しては、兵站線確保のため、京都・大坂から九州の肥前名護屋に至る広域的な駅伝制を採用した 14 。これは、大規模な軍事行動という明確な目的のために、全国規模の交通網を動員するものであり、徳川の全国的伝馬制の直接的な前駆形態と見なすことができる。
徳川家康による集大成とパラダイムシフト
家康は、自身の三河時代からの伝馬制運営の経験に加え、今川、武田、後北条といった滅ぼした戦国大名たちの交通制度を研究し、その長所を摂取・継承した 14 。そして、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利を収めると、これらの経験の集大成として、江戸を中心とした全国的交通体系の確立に迅速に着手したのである 15 。
家康の政策が信長・秀吉と決定的に異なるのは、その中心拠点の転換である。秀吉の交通網が京都・大坂という伝統的な政治・経済の中心地を基点としていたのに対し、家康は明確に江戸を基点とする五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)の整備を構想した 17 。これは、日本の政治・経済の中心を上方から関東へと移すという、国家構造の根本的な転換をインフラ面から支えるものであった。
信長・秀吉の交通政策が、主に軍事行動と商業圏の拡大という、天下統一という「過程」における動的な政策であったのに対し、家康のそれは、確立された権力を「維持」するための静的で恒常的な支配システムの構築を目的としていた。宿駅に人馬の常備を義務付け、公用通行のルールを厳格化し、関所で人の流れを監視する仕組みは、平時における大名統制(特に参勤交代)や幕府による情報伝達の高速化、全国市場の掌握といった、恒久的な「全国支配」の根幹をなすものであった。この目的の質的転換こそが、戦国期と江戸初期の交通政策を分かつ最も重要な点である。
項目 |
戦国期(今川・織田・豊臣) |
江戸初期(徳川) |
典拠 |
主体 |
各戦国大名、天下人 |
江戸幕府(将軍) |
3 |
目的 |
領国経営、軍事行動、商業圏拡大 |
全国支配体制の維持、大名統制、情報伝達 |
3 |
範囲 |
領国内、特定の軍事ルート(例:名護屋まで) |
全国(五街道を基軸とする) |
14 |
制度 |
伝馬制(有料・手形制)、駅伝制、関所撤廃 |
宿駅伝馬制(公用は原則無賃)、伝馬朱印状による厳格な利用許可制、関所による監視 |
2 |
標準化 |
限定的(例:信長の一里36町) |
全国規模(伝馬数、積載量、道幅などを規定) |
14 |
担い手 |
特権商人、在地領主 |
宿役人(問屋、年寄など)、本陣(旧在地領主層)、助郷村 |
2 |
第二部:慶長六年(1601年) ― 国家プロジェクトの始動
第3章:天下人のグランドデザイン ― 東海道宿駅伝馬制度の確立
慶長五年(1600年)九月の関ヶ原の戦いにおける勝利は、徳川家康に天下の実権をもたらした。家康はこの好機を逃さず、戦後処理と並行して、新たな国家の礎を築くための諸政策を矢継ぎ早に断行する。その中でも最優先課題の一つとされたのが、全国の動脈となる街道の整備、とりわけ江戸と京・大坂を結ぶ東海道の掌握であった。
年月 |
中央(幕府)の動向 |
在地(駿河・由比)の動向 |
典拠 |
慶長5年 (1600) 9月 |
関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利。天下の実権を掌握。 |
- |
15 |
慶長6年 (1601) 正月 |
家康、東海道宿駅伝馬制度の確立を指令。品川、藤沢、府中、岡崎、吉田、御油など主要宿駅が成立。 |
由比宿が初期宿駅の一つとして指定される。蒲原、興津、江尻、府中、丸子も同時に指定。 |
23 |
慶長6年 (1601) 正月以降 |
大久保長安、伊奈忠次、彦坂元正ら奉行連署の「御伝馬之定」と家康の「伝馬朱印状」が各宿に交付される。 |
由比宿の本陣・問屋職に任命された岩辺家が、朱印状と定書を受領。 |
7 |
慶長6年 (1601) 春~夏(推察) |
奉行または配下の役人が東海道を巡察し、各宿場の実情を調査。 |
巡察の役人が由比宿を検分。岩辺家は宿場の規模と伝馬役負担の過重を訴える。 |
- |
慶長6年 (1601) 夏~秋(推察) |
街道の本格的な整備(道幅拡張、一里塚設置準備など)が開始される。 |
本陣、問屋場、枡形などの物理的な整備が開始。伝馬継立業務が始まる。 |
9 |
慶長6年 (1601) 年末~(推察) |
由比宿など小規模宿場の実情報告に基づき、負担軽減策として「加宿(助郷)」制度の導入が検討・許可される。 |
伝馬役の負担が顕在化。周辺11ヶ村が「加宿」に指定され、由比宿の運営を支援する体制が構築される。 |
30 |
慶長7年 (1602) 以降 |
中山道など他の街道にも伝馬制が拡大される。岡部宿など、追加の宿駅が設置される。 |
- |
15 |
関ヶ原の戦いからわずか数ヶ月後の慶長六年正月、家康は東海道に宿駅を設置し、伝馬制を施行する指令を発した 1 。この驚異的な迅速性は、家康が交通網の国家的管理を、新政権の権威確立と統治基盤の安定に不可欠な最重要政策と位置づけていたことを明確に示している。この時、品川、藤沢、府中、吉田、御油といった宿場と共に、駿河国の由比宿も初期宿駅の一つとして指定された 1 。
この制度の根幹をなしたのは、幕府が各宿場にセットで交付した二つの文書、「伝馬朱印状」と「御伝馬之定」であった 20 。
伝馬朱印状 は、徳川の権威そのものを象徴する文書であった。そこには複雑な条文はなく、「此の御朱印なくしては伝馬を出すべからざる者也(この御朱印なくして伝馬を出してはならない)」という簡潔な一句が記されているのみであった 27 。そして、その下には馬士が馬の手綱を曳く図案が描かれた「駒曳朱印」と呼ばれる朱印が鮮やかに押されていた 21 。これは、伝馬の使用許可権が徳川将軍にのみ帰属することを全国に宣言するものであり、文字の読めない人々にも一目でその権威を理解させる、強力な視覚的シンボルとして機能した。
一方、 御伝馬之定 は、制度の具体的な運用ルールを定めた実務的な文書であった 28 。そこには、各宿場が常備すべき伝馬の数(当初は36疋)、隣の宿場までの継立区間、伝馬役を負担する代償として与えられる屋敷地の地子(税金)免除、そして伝馬一疋あたりの積載量(当初は30貫目、約112.5 kg)などが詳細に規定されていた 20 。これは、全国規模で標準化された、近代的ロジスティクスシステムの設計図とも言えるものであった。
1601年の政策の本質は、単に宿場という物理的な施設(ハードウェア)を設置した点にあるのではない。むしろ、「伝馬朱印状」による権威付け、「御伝馬之定」による全国統一の運用ルール、そして地子免除という経済的インセンティブという、精緻に設計された制度(ソフトウェア)を同時に導入した点にこそ、その革新性がある。戦国大名の交通政策が、それぞれの領国内での部分的な最適化に留まっていたのに対し、徳川のシステムは、ハードとソフトを統合し、東海道を単なる道から国家の統治を支える動脈へと変貌させたのである。
第4章:プロジェクトの実行者たち
徳川家康の壮大な国家構想は、それを現実に落とし込む有能な実務官僚(テクノクラート)たちの存在なくしては実現し得なかった。東海道宿駅伝馬制度の確立という一大事業も例外ではなく、「御伝馬之定」には、家康の側近である伊奈忠次、彦坂元正、そして大久保長安という三人の奉行の名が連署されていた 27 。彼らは、家康の構想を具体的な行政システムへと翻訳し、実行する専門家集団であった。
この三人の中でも特に注目すべき人物が、 大久保長安 である。彼は元々武田信玄に仕えた能吏であり、武田氏滅亡後に家康に登用された 36 。彼の最大の功績は鉱山開発にあり、石見銀山や佐渡金山、伊豆金山の奉行を歴任し、幕府の財政基盤を支える貴金属の産出を飛躍的に増大させた 36 。その長安が、宿駅制度の確立という交通政策に深く関与した事実は、この事業が単なる土木事業や軍事・行政目的のものではなく、国家の経済基盤を確立するプロジェクトとして位置づけられていたことを強く示唆している。安全で効率的な輸送路は、鉱山から産出される金銀を江戸や大坂の市場へ運び、貨幣経済を循環させる上で不可欠であった。長安の頭の中では、「資源の産出」と「街道による輸送」は一体の経済システムとして構想されていた可能性が高い。
伊奈忠次 は、関東代官頭として家康の関東入府後の領国経営を支え、大規模な検地や利根川の治水事業(利根川東遷事業)でその手腕を発揮した人物である 37 。天正十八年(1590年)の段階で、駿河・遠江・三河における道路普請や富士川の船橋整備を奉行した経験も持っており、街道整備に関する実務知識も豊富であった 37 。
彦坂元正 もまた、家康の側近として財政・民政に明るい奉行であった 27 。彼らのような民政・財政の専門家がこのプロジェクトを主導したことは、宿駅制度が、民衆の生活を安定させ、経済活動を促進するという、平時の統治政策の一環として重視されていたことを物語っている。
慶長六年正月、家康から基本方針が示されると、長安ら三奉行は「御伝馬之定」の具体的な条文を作成した。その後、彼ら自身、あるいは配下の役人が東海道の各宿場候補地を巡察し、人口、地理的条件、既存のインフラなどを調査した上で、正式な宿駅指定と朱印状・定書の交付を行ったと推察される。奉行たちが連署で定書を交付するという形式は、特定の個人の裁量に頼る戦国的な統治から、合議と文書主義に基づく近世的な官僚統治への移行を象徴している。彼らが現地の実情を調査し、それに基づいて制度を適用したであろうことは、データに基づいた政策決定の萌芽と見なすことができるだろう。
第三部:由比宿 ― ミクロコスモスとしての宿場整備
第5章:宿場選定の地理的・歴史的背景
慶長六年に数ある候補地の中から由比が宿駅として選定された背景には、避けては通れない地理的条件と、巧みに利用された歴史的・社会的条件が存在した。由比宿の成立は、幕府の政策が、地域の「自然地理」と「社会地理」が交差する点に的確に投下された結果であった。
第一に、克服すべき「自然地理」的要請として、東海道屈指の難所「薩埵峠」の存在があった。薩埵峠は、山塊が駿河湾にまで迫り出した断崖絶壁の道であり、古くから「親知らず子知らず」の難所として旅人たちを苦しめてきた 8 。歌川広重が描いた浮世絵にも、その険しい地形が dramatic に表現されている 38 。この過酷な峠越えを目前に控えた旅人にとって、その東麓に位置する由比は、休息を取り、峠越えの準備を整えるための不可欠な拠点であった 8 。幕府にとって、この地点に公式な宿場機能を設置することは、東海道の安定的な交通を確保する上で、戦略的に極めて重要であった。
第二に、活用すべき「社会地理」的要請として、在地に根を張る旧領主層の末裔、岩辺家の存在があった。由比宿の本陣と問屋職は、戦国時代にこの地を治めた由比城主・由比氏の直系の子孫である岩辺家が代々務めることになった 7 。今川家の家臣であった由比氏は、桶狭間の戦いで没落した後も在地に留まり、地域社会において依然として隠然たる影響力を保持していた 7 。徳川政権は、この旧来の在地権威を武力で排除するのではなく、宿場運営の中核を担う「本陣」「問屋」という新たな公的役割に任命することで、支配体制に巧みに組み込んだのである。これにより、在地社会の反発を最小限に抑え、岩辺家が持つ既存の人的ネットワークや地域の知見を活用して、新制度を迅速かつ円滑に立ち上げることが可能となった。
さらに、家康自身がこの地域を熟知していたことも見逃せない。家康は鷹狩りのために由比の北田に御殿を建てて滞在したことがあり 40 、由比本陣の庭には家康お手植えの松があったとの伝承も残っている 7 。このような個人的な知見が、宿駅の選定や岩辺家の登用といった意思決定に影響を与えた可能性は十分考えられる。
このように、由比宿の選定は、地図上の距離だけで機械的に決定されたものではなく、薩埵峠という地理的必然性と、岩辺家という在地権力の歴史的継承性を深く理解した上での、高度に戦略的な判断であったと言える。
第6章:由比宿における「整備」の実相
慶長六年の幕府の指令に基づき、由比宿では具体的な「整備」が開始された。それは、物理的な施設の建設と、それを運営するための社会的なシステムの構築という二つの側面を持っていた。しかし、幕府が全国一律に課した義務と、由比という小規模な町の現実との間には、大きな乖離が存在した。
物理的な整備としては、まず宿場の中心機能である問屋場、そして大名や公儀の役人が宿泊・休憩するための本陣、脇本陣、一般の旅人のための旅籠などが設置された 20 。由比の本陣となった岩辺家の屋敷は、間口33間(約60m)、奥行40間(約72m)、面積1300坪(約4300平方メートル)という広大な敷地を持ち、街道に直接面さず石垣と木塀で囲まれた遮蔽形の特殊な構造をしていた 9 。また、宿場の東西の入口には、軍事的な防衛の名残である、道を直角に曲げた「枡形」が設けられ、有事への備えも考慮されていた 29 。
しかし、由比宿にとって最大の課題は、制度の根幹である伝馬役の負担であった。幕府は東海道の各宿に対し、当初36疋、後には100人・100疋の人馬を常備することを義務付けた 20 。ところが、由比宿は天保年間(1830-1844)の記録でも戸数160軒、人口707人という、静岡県内の宿場の中でも最小規模の町であった 29 。このような小さな宿場が単独で膨大な伝馬役を維持することは、到底不可能であった 30 。
この矛盾を解決するために生み出されたのが、「加宿(かしく)」というシステムであった。由比宿は幕府に窮状を訴え、周辺の11の郷村を「加宿」として指定してもらい、伝馬役の負担を分担する許可を得たのである 30 。これは、後の助郷(すけごう)制度の先駆けとも言えるもので、宿場という「点」の機能が、周辺農村という「面」の広域的な協力なしには維持できなかった現実を如実に示している。この制度の導入は、幕府のトップダウンによる画一的な命令が、そのまま現地で実現されたわけではないことを物語る。むしろ、現地の窮状に基づく請願(ボトムアップ)と、それに対する幕府の追認という「交渉」のプロセスを経て、地域の実情に合わせた制度へと修正・発展していったのである。
この新たなシステムは、宿場と農村の間に、経済的な相互依存関係を生み出すと同時に、負担をめぐる新たな社会的緊張関係をもたらすことにもなった。宿場の住民にとっては地子免除という利益があったが、加宿に指定された農村にとっては、見返りの少ない新たな負担の始まりであった。1601年の由比宿整備は、単に旅人の利便性を高めただけでなく、地域社会の構造そのものを大きく変容させる契機となったのである。
第7章:慶長六年、由比宿のリアルタイム・クロノロジー(再構成)
「由比宿整備(1601)」とは、単一の静的な事変ではなく、一年という時間をかけて展開された動的なプロセスであった。史料の断片を繋ぎ合わせることで、そのリアルタイムな様相を以下のように再構成することができる。
慶長六年(1601年)正月~春:指令の伝達
年の初め、江戸または駿府城において、徳川家康は東海道伝馬制の確立という国家プロジェクトの始動を宣言した。これを受け、大久保長安、伊奈忠次、彦坂元正ら三奉行は、具体的な運用規則である「御伝馬之定」を起草。家康の権威の象徴である「伝馬朱印状」と共に、東海道の各要地へ伝達する準備を整えた 27 。
ほどなくして、駿府の代官、あるいは幕府からの直接の使者を通じて、由比の岩辺家のもとに、由比が宿駅に指定され、岩辺家がその本陣・問屋職に任じられる旨の公式な命令が届いた。彼らは、徳川の権威を示す「伝馬朱印状」と、これから遵守すべき義務を記した「御伝馬之定」を、厳粛な面持ちで受け取ったであろう 1。
慶長六年(1601年)春~夏:現地調査と課題の顕在化
指令を受け、岩辺家は直ちに宿場整備の具体的な計画に着手した。最大の懸案は、定書に定められた伝馬36疋とそれに付随する人足を、この小さな町でいかにして確保するかであった。
その頃、三奉行本人か、あるいはその配下の役人が、東海道の現地巡察を開始した。彼らは由比を訪れ、薩埵峠の険しさ、町の規模、そして本陣となるべき岩辺家の屋敷などを実地検分した。この検分に基づき、本陣の敷地規模や問屋場の設置場所、枡形の構造などが具体的に指示され、あるいは岩辺家の計画が承認された 9。
この実地調査と計画策定の過程で、由比宿が単独で伝馬役の重責を担うことが物理的に不可能であることは、双方にとって明らかになったはずである。岩辺家は、巡察の役人を通じて、負担軽減のための何らかの方策を講じるよう、幕府に強く要請したと推察される。
慶長六年(1601年)夏~秋:物理的整備と業務の開始
夏から秋にかけて、宿場の物理的な整備が本格化した。本陣の改修や敷地の確定、問屋場の建設、幕府の法令を掲示する高札場の設置などが、町の各所で行われた 20 。同時に、伝馬役を担う人馬の登録と確保が進められ、周辺の村々に対しても、非公式な形での協力要請が始まっていたであろう。
やがて宿場としての基本的な機能が整い、伝馬の継立業務が、まずは試験的に、そして次第に本格的に開始された。幕府の役人や公用を帯びた使者が、「駒曳朱印」の押された手形を携えて由比宿を通過し始める。岩辺家は、問屋として初めて、人馬の手配や荷物の差配という公的な業務を遂行した。
慶長六年(1601年)秋~年末:問題の顕在化と制度の修正
業務が本格化するにつれ、人馬不足という問題は、もはや懸念ではなく、日々の運営を脅かす現実の危機として顕在化した。由比宿からの度重なる報告と要請を受け、幕府はついに制度の修正を決断する。
年末にかけて、幕府は由比宿からの請願を正式に認め、周辺の11ヶ村を「加宿」に指定し、由比宿への助力を命じる御触れを出した 30。これにより、由比宿の運営体制は、当初の計画とは異なる形で、しかしより現実的な形で、ようやく確立されるに至った。
このように、1601年の一年間は、中央からのトップダウンの指令が、現地のボトムアップの要求と衝突・交渉を重ねながら、新たな社会システムを形成していく、ダイナミックなプロセスであったのである。
結論:由比宿整備が象徴するもの
慶長六年(1601年)の由比宿整備は、単なる一宿場の成立に留まらず、日本の歴史が戦国の分断から近世の統一へと移行する画期的な瞬間を凝縮した、象徴的な事象であった。
第一に、由比宿の整備プロセスは、 戦国から近世への統治思想の転換 を如実に示している。徳川家康は、今川氏や武田氏が築いた地域的・属人的な交通支配の遺産を継承しつつも、それを根本的に変革した。「伝馬朱印状」と「御伝馬之定」という二つのツールは、特定の商人の特権や在地領主の裁量に依存した戦国期のシステムを、幕府の権威の下で全国的に標準化された、官僚的で公的なシステムへと転換させた。旧在地領主である岩辺家を新体制の末端(本陣・問屋)に組み込み、一方で小規模宿場の現実に応じて「加宿」という柔軟な修正を加える手法は、まさに戦国の遺制を巧みに利用・再編しながら、統一国家を築き上げた徳川の統治術そのものであった。
第二に、由比宿を含む東海道宿駅ネットワークの確立は、 江戸を中心とする中央集権体制を支えるインフラストラクチャーの構築 であった。これにより、人、モノ、そして何よりも幕府の指令という「情報」が、江戸を起点として迅速かつ確実に全国へ伝達される体制が整った。これは、参勤交代による大名統制や、全国市場の形成といった、広大な幕藩体制を維持するための最も重要な物理的基盤であり、由比宿の整備は、その巨大な国家システムの歯車の一つを、薩埵峠という戦略的要衝に組み込む作業であった。
最後に、1601年に行われたこの行政的・軍事的な決定は、 その後の日本の文化と経済に長期的な影響 を与えた。この整備によって確立された由比宿の機能は、江戸時代の安定期において、多くの大名行列や商人、巡礼者たちの往来を支えた。やがて、歌川広重が薩埵峠からの絶景を不朽の名作として描き 8 、『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛・喜多八が名物のさとう餅に舌鼓を打つといった 8 、豊かな旅の文化が花開く土台となったのである。戦国の終焉を告げる一つの行政的措置が、数世紀にわたる文化的・経済的な繁栄の礎を築いた。由比宿整備(1601)は、まさにその歴史的転換点に立つ、静かなる、しかし決定的な一歩だったのである。
引用文献
- 東海道~東と西が出会う場所 - 静岡市 https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/p009497.html
- 今川氏(いまがわうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F-32206
- 今川義元、北条氏康から学ぶ社内業務の大切さ|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-042.html
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- 家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて - 由比・蒲原方面 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/13_19.htm
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