甲斐国総検地(1582)
天正10年、武田氏滅亡後の甲斐国で徳川家康が総検地を断行。天正壬午の乱を制し、石高制導入と蔵入地化で支配を再編。武田遺臣を登用し、近世的統治の礎を築き、天下取りの基盤とした。
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甲斐国総検地(1582年):戦国終焉の動乱と徳川氏新秩序構築の礎石
序論:天正十年、激動の甲斐国 ― 新たな秩序の胎動
天正10年(1582年)は、甲斐国(現在の山梨県)の歴史において、未曾有の転換点として刻まれている。この年、甲斐はわずか数ヶ月の間に、あたかも歴史の奔流に翻弄されるかのごとく、支配者の劇的な変転を経験した。年初には戦国最強と謳われた武田氏が君臨していたが、春には織田・徳川連合軍の侵攻により、その栄華は脆くも崩れ去った 1 。続く織田信長による束の間の支配も、6月の本能寺の変によって突如として終焉を迎え、甲斐は再び権力の空白地帯と化した。この混乱に乗じ、徳川家康、北条氏直、上杉景勝という隣接する三大名が、旧武田領を巡って熾烈な争奪戦を繰り広げた。これが世に言う「天正壬午の乱」である 3 。
本報告書が主題とする「甲斐国総検地」は、この一連の軍事的・政治的激動の最終局面に位置づけられる。それは単なる土地調査や税制改革を意味するものではない。天正壬午の乱を制し、甲斐国の新たな支配者となった徳川家康が、武力による平定から行政による支配へと移行する過程を象徴する、いわば新時代の幕開けを告げる総決算であった。利用者様がご存知の「石高確定と蔵入地化による支配再編」という要点は、まさにこの新秩序構築の中核をなすものである。
したがって本報告書は、この検地がなぜ天正10年という激動の年に断行されねばならなかったのか、その背景にある武田氏の滅亡から天正壬午の乱に至るまでの詳細な経緯を時系列に沿って解き明かす。そして、徳川家康がいかにして甲斐国を掌握し、検地という手段を用いて新たな支配体制の礎を築き上げたのか、その歴史的意義を多角的に分析・考察することを目的とする。
第一章:巨星墜つ ― 甲斐武田氏の滅亡と権力の空白(1582年2月~6月)
第一節:甲州征伐 ― 戦国最強軍団の瓦解
天正10年の幕開けと共に始まった武田氏の崩壊は、驚くべき速さで進行した。その背景には、単一の敗戦にとどまらない、複合的な要因が存在した。天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける大敗は、武田軍団の神話を揺るがし、山県昌景や馬場信春といった信玄以来の宿老を数多く失うという、人的資源における致命的な損失をもたらした 4 。さらに、武田勝頼の外交政策の失敗が、その孤立を決定的なものとした。天正6年(1578年)に越後で勃発した上杉氏の後継者争い「御館の乱」において、勝頼は当初、北条氏政の実弟である上杉景虎を支持する姿勢を見せながら、最終的に上杉景勝と結んだ。この決定は、長年の同盟国であった北条氏との関係を完全に破綻させ、甲相駿三国同盟は名実ともに消滅した 5 。これにより武田氏は、西の織田・徳川、東の北条という二大勢力に挟撃される、絶望的な戦略的劣勢に立たされたのである。
この状況下で、武田氏滅亡の直接的な引き金となったのが、信濃木曽谷の領主であり、信玄の娘婿でもあった木曽義昌の離反であった 6 。これを好機と捉えた織田信長は、天正10年2月、嫡男・織田信忠を総大将とする大軍を信濃へ向けて出陣させた。世に言う「甲州征伐」の開始である 6 。
織田軍の侵攻に対し、武田方の抵抗は驚くほど脆弱であった。信濃伊那方面では、松尾城の小笠原信嶺や飯田城の保科正直が次々と織田方に寝返り、あるいは戦わずして城を放棄した 9 。武田一門の仁科盛信が守る高遠城は孤軍奮闘したものの、わずか一日で陥落した 6 。この電撃的な崩壊は、単なる軍事力の差によるものではなく、勝頼政権に対する家臣団の求心力が著しく低下していたことを物語っている。多くの国人領主にとって、滅びゆく武田氏に殉じるよりも、新たな強者である織田氏に従うことこそが、家名を存続させる唯一の道であった。武田氏の滅亡は、外部からの軍事侵攻であると同時に、内部からの崩壊でもあったのである。
勝頼は、織田軍を迎え撃つべく築城した新府城(山梨県韮崎市)に火を放ち、一族を率いて逃避行を開始する 8 。最後の頼みとしたのは、郡内領主であり重臣の小山田信茂が守る岩殿城であった。しかし、信茂は土壇場で勝頼を裏切り、入城を拒否した 8 。万策尽きた勝頼一行は、天目山(甲州市)へと追い詰められ、天正10年3月11日、滝川一益率いる織田軍に捕捉された。土屋昌恒らが最後の奮戦を見せるも衆寡敵せず、勝頼は嫡男・信勝、北条夫人と共に自害して果てた 6 。ここに、源氏の名門であり、戦国最強と恐れられた甲斐武田氏の嫡流は、滅亡したのである。
第二節:織田信長による戦後処理と甲斐統治
武田氏を滅ぼした信長は、速やかに戦後処理に着手した。旧武田領の分割、すなわち「知行割」が行われ、甲斐国は、武田一門でありながら信長に内通した穴山梅雪(信君)の本領が安堵されたのを除き、織田家重臣の河尻秀隆に与えられた 1 。一方、長年の同盟者として甲州征伐に貢献した徳川家康には、念願の駿河国が与えられた 3 。この時点で、甲斐は織田政権下に組み込まれた一領国となったのである。
甲斐統治を任された河尻秀隆は、信長が発した「国掟」に基づいて支配を開始した。この国掟には、関所の撤廃や百姓への不当な課税の禁止といった民政安定化を目指す条項が含まれる一方で、「忠節を尽くす者以外、抵抗する侍は自害させるか追放せよ」という厳しい内容も盛り込まれていた 13 。信長の統治は、領民の負担を軽減するという「飴」と、旧勢力への徹底した弾圧という「鞭」を使い分けるものであった。
その「鞭」は、旧武田氏関係者に対して容赦なく振るわれた。信長の命により、武田信廉(信玄の弟)や諏訪頼豊といった一族縁者が探索され、処刑された 7 。さらに、信玄の菩提寺である恵林寺(甲州市)に対しては、武田の残党を匿ったとして、住職の快川紹喜をはじめとする百数十名の僧侶を山門に閉じ込め、焼き殺すという暴挙に出た 7 。この苛烈な処置は、武田氏の威光を根絶やしにし、新たな支配者としての信長の権威を誇示する狙いがあった。しかし、それは同時に、甲斐の国人衆や民衆の心に、新支配者に対する恐怖と潜在的な反感を深く刻み込む結果となった。信長の統治は、力による支配であり、その基盤は極めて脆弱で不安定なものであったと言わざるを得ない。
第三節:本能寺の変と甲斐国人衆の蜂起 ― 再び訪れた混沌
天正10年6月2日早朝、京都本能寺において、明智光秀の謀反により織田信長が横死した。この衝撃的な報は、数日のうちに旧武田領にも伝播し、信長が築き上げたばかりの脆弱な支配体制を根底から揺るがした 2 。
甲斐国では、信長の恐怖政治によって押さえつけられていた武田遺臣や国人衆の不満が一気に噴出した。彼らは一斉に蜂起し、織田の支配者を駆逐しようと動き出したのである(甲州一揆) 14 。甲斐統治者であった河尻秀隆は、この混乱の中で完全に孤立した。家康が状況確認のために派遣した使者・本多信俊を、家康による甲斐簒奪の陰謀と疑い殺害するなど、その対応は混迷を極めた 16 。そして6月18日、甲斐からの脱出を図った秀隆は、一揆勢によって討ち取られた 1 。
信濃や上野に配置されていた他の織田家臣、森長可や滝川一益らも、同様の国人一揆や北条氏の侵攻に遭い、領地を放棄して本国への撤退を余儀なくされた 3 。これにより、武田氏滅亡からわずか3ヶ月にして、旧武田領は再び統治者不在の「空白地帯」へと逆戻りした。甲斐国は、新たな支配者を巡る争乱の渦中へと、再び引きずり込まれることとなったのである。
第二章:天正壬午の乱 ― 甲斐国を巡る三つ巴の争覇(1582年6月~10月)
第一節:各勢力の動向 ― 徳川、北条、上杉の甲斐侵攻
本能寺の変によって生じた旧武田領の権力空白は、周辺の大大名にとって、領土拡大のまたとない好機であった。徳川、北条、上杉の三者が、甲斐・信濃・上野を舞台に、覇権を賭けた争奪戦を開始した。
徳川家康の動き :変報に接した時、家康は信長への戦勝御礼のため堺に滞在していた。穴山梅雪と共にいたが、梅雪は帰路で一揆に襲われ落命する 2 。家康自身も、わずかな供回りで危険な伊賀越えを敢行し、命からがら本国三河へ帰還した 2 。帰国後、家康は直ちに旧武田領の確保へと動いた。彼は武田旧臣を保護し、彼らを通じて甲斐・信濃の国人衆への調略を開始した 18 。6月28日には、大久保忠世ら譜代の重臣を先遣隊として甲斐へ派遣し、一揆を鎮圧して甲府を占領させた 17 。そして7月9日、家康自らも甲府へ着陣し、甲斐平定の拠点とした 17 。
北条氏直の動き :関東の雄、北条氏は、この機を逃さなかった。当主・北条氏直は5万とも言われる大軍を動員し、まず上野国へ侵攻した 17 。6月19日、神流川の戦いで織田方の大将・滝川一益の軍勢を撃破し、上野国を完全に掌握した 17 。勢いに乗る北条軍は、さらに碓氷峠を越えて信濃へ進軍し、甲斐を目指して南下を開始した 2 。
上杉景勝の動き :越後の上杉景勝もまた、機敏に動いた。本能寺の変の報を受けると、直ちに北信濃へ侵攻し、旧武田領であった川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)を制圧した 17 。これにより、信濃北部は上杉氏の勢力圏となった。
この三つ巴の争いの中で、現地の国人衆は自らの生き残りをかけて、めまぐるしい選択を迫られた。その象徴が、真田昌幸の動きである。武田氏滅亡後は織田氏の滝川一益に属していた昌幸は、本能寺の変後、滝川氏が敗走すると、一時は上杉景勝に服従を申し出た 17 。しかし、南から北条の大軍が迫ると、今度は北条氏に臣従した 17 。そして最終的には、徳川方の調略に応じて家康の麾下に入ることになる 17 。昌幸の行動は、絶対的な主君を失った国人領主たちが、いかにして自らの家と領地を守るため、三大名の狭間で巧みに立ち回ったかを示している。天正壬午の乱は、大大名による領土争奪戦であると同時に、主を失った旧武田家臣団にとっての、いわば集団的な「再就職活動」の場でもあったのである。
第二節:若神子対陣と黒駒合戦 ― 徳川・北条の直接対決
信濃で上杉軍と対峙していた北条軍は、やがて上杉方と停戦し、主力を甲斐へと向けた 17 。天正10年8月7日、北条氏直率いる本隊は甲斐国若神子城(現在の北杜市)に布陣した 17 。これに対し、家康は8月10日に甲府から新府城へと本陣を移し、北条軍と対峙した 20 。北条軍約5万に対し、徳川軍は約8千から1万と、兵力では北条方が圧倒的に優位な状況であった 16 。両軍は塩川を挟んで80日間に及ぶ長い睨み合いに入った(若神子対陣)。
この膠着状態を打破する一撃を放ったのが、徳川方であった。8月12日、家康の命を受けた鳥居元忠率いる約2千の別動隊が、甲斐東部の郡内地方から御坂峠を越えて国中(甲府盆地)へ侵攻しようとしていた北条氏忠(氏政の弟)の軍勢約1万を、黒駒(現在の笛吹市御坂町)で奇襲した 20 。不意を突かれた北条軍は混乱に陥り、徳川軍が勝利を収めた(黒駒の戦い) 17 。
この黒駒合戦の勝利が持つ意味は、単なる一局地戦の勝利にとどまらなかった。兵力で圧倒的に劣る徳川軍が、大軍の北条軍に一矢報いたという事実は、甲斐国内で日和見を決め込んでいた旧武田家臣や国人衆の心に、大きな影響を与えた。「家康につけば勝機あり」という印象を強く植え付け、彼らの多くが徳川方へと靡く決定的な契機となったのである。家康がこの戦いで討ち取った首級を槍先に掲げ、北条本陣に向けて晒したという逸話は 21 、自らの武威と支配の正当性を内外に誇示する、巧みな心理戦であった。この勝利は、軍事的な戦果以上に、甲斐国における「人心」の帰趨を決した象徴的な事件であったと言える。
さらに徳川方は、戦局を有利に進めるための次なる一手を打つ。家康は、旧武田家臣で佐久郡の地理に明るい依田信蕃に命じ、北条方に寝返っていた真田昌幸の調略にあたらせた 21 。依田は昌幸に対し、所領の安堵を条件に徳川方への寝返りを説得。9月、昌幸はこれに応じ、徳川方へと転じた 17 。徳川方となった昌幸や依田信蕃らは、北条軍の背後にあたる信濃佐久郡の諸城を次々と攻略し、北条本隊と本国・小田原を結ぶ補給路を遮断した 17 。これにより、若神子に布陣する北条軍は、戦略的に極めて困難な状況に追い込まれた。
第三節:和睦成立と徳川家康による甲斐平定
補給路を脅かされ、戦線が膠着する中、北条氏にとって戦を継続する意義は薄れていった。時を同じくして、中央政界では、信長の後継者を巡る羽柴秀吉と柴田勝家の対立が先鋭化しており、織田信雄・信孝ら信長の子息は、徳川・北条という織田家の旧同盟者同士が争い続けることを望まなかった 2 。彼らからの和睦勧告もあり、両者は和平交渉へと向かうことになった 16 。
天正10年10月29日、徳川・北条間で和睦が成立した。その条件は、以下の通りであった 16 。
- 甲斐国および信濃国(上杉領の北信四郡を除く)は徳川家康の領有とする。
- 上野国は北条氏の領有とする。
- 和睦の証として、家康の次女・督姫を北条氏直に嫁がせる。
この和睦により、本能寺の変に端を発した天正壬午の乱は終結した。徳川家康は、従来の三河・遠江・駿河の三国に加え、甲斐・信濃の大部分を新たに領有することとなり、一挙に五カ国を支配する大大名へと飛躍を遂げたのである 23 。甲斐国は、名実ともに徳川家康の支配下に入った。
表1:天正壬午の乱 関連年表(天正10年/1582年)
月日 |
徳川家 |
北条家 |
上杉・真田家など |
主要な出来事(於:甲斐・信濃・上野) |
3月11日 |
甲州征伐に参戦 |
甲州征伐に参戦 |
(武田方) |
武田勝頼、天目山にて自害。武田氏滅亡。 |
6月2日 |
- |
- |
- |
本能寺の変、織田信長死去。 |
6月18日 |
穴山家来に一揆鎮圧を命じる |
甲斐都留郡で決起を促す |
- |
甲斐にて一揆発生。織田方・河尻秀隆が殺害される。 |
6月19日 |
- |
滝川一益を破る |
- |
神流川の戦い 。北条氏が上野国を掌握。 |
7月9日 |
家康、甲府に着陣 |
上野から信濃へ侵攻 |
上杉景勝、北信濃を制圧 |
徳川・北条・上杉による旧武田領の争奪戦が本格化。 |
8月7日 |
- |
氏直、甲斐若神子城に布陣 |
- |
北条本隊が甲斐へ侵攻。 |
8月10日 |
家康、新府城に本陣を置く |
- |
- |
若神子対陣 開始。徳川・北条が80日間対峙。 |
8月12日 |
鳥居元忠が北条別動隊を破る |
別動隊が敗北 |
- |
黒駒の戦い 。徳川方が勝利し、戦局の転換点となる。 |
9月 |
依田信蕃が真田昌幸を調略 |
- |
真田昌幸が徳川方へ寝返る |
真田氏の離反により、北条軍はさらに苦境に陥る。 |
10月 |
真田・依田らが北条の補給路を遮断 |
- |
- |
徳川方が戦略的優位を確立。 |
10月29日 |
北条氏と和睦成立 |
徳川氏と和睦成立 |
- |
和睦成立 。甲斐・信濃は徳川、上野は北条の領有と決定。 |
12月 |
酒井忠次が諏訪頼忠を降伏させる |
- |
- |
家康、信濃国内の支配を固める。 |
第三章:新しき支配者の肖像 ― 徳川家康の甲斐統治と支配体制の構築
天正壬午の乱を制し、甲斐国の新たな領主となった徳川家康の次なる課題は、軍事的な勝利を、安定的かつ永続的な支配体制へと転換させることであった。彼の甲斐統治は、信長のような旧体制の徹底的な破壊ではなく、武田氏が築き上げた人的・制度的遺産を巧みに「継承し再編する」という、現実的かつ安定志向のアプローチによって特徴づけられる。
第一節:武田遺臣の懐柔と登用 ― 旧体制の人的資源活用
家康は、甲斐統治の根幹に、旧武田家臣団の積極的な登用を据えた。これは単なる恩情ではなく、彼らが持つ高い軍事能力と、甲斐・信濃の地理や統治に関する豊富な知識を、自らの支配体制に組み込むという極めて合理的な戦略であった 3 。
乱の最中から、家康は味方についた国衆に対し、その所領の所有権を保証する「本領安堵」や、新たな知行地を与える「新知行」を約束することで、彼らの忠誠心を確保した 18 。乱の終結後、これらの約束は着実に履行され、多くの武田遺臣が徳川家臣団へと組み込まれていった。
その象徴的な事例が、武田軍最強部隊の代名詞であった「赤備え」の継承である。家康は、かつて山県昌景が率いた赤備えの旧臣らを、若き猛将・井伊直政の配下に付けた。こうして編成された「井伊の赤備え」は、後の関ヶ原の戦いなどで徳川軍の精鋭として名を馳せることになる 25 。これは、武田軍団の強さを自軍が継承したことを内外に示す、巧みなパフォーマンスでもあった。家康は、武田家そのものを滅ぼした一方で、その「強さの記憶」を自らの権威に取り込むことで、支配の正当性を高めようとしたのである。
第二節:統治機構の整備 ― 専門家集団による実務
家康は、甲斐国の統治にあたり、譜代の重臣と、在地出身の専門官僚を組み合わせた、二元的な支配機構を構築した。これは、後の江戸幕府の統治システムの原型とも言えるものであった。
全体の統括者として甲府に置かれたのは、家康が幼少期からの側近であり、同い年の譜代の重臣・平岩親吉であった 26 。親吉は甲府郡代として、武田氏の居館であった躑躅ヶ崎館に入り、甲斐国全体の政務を統括した 28 。彼の任務は、政情不安な甲斐の秩序を回復し、武田旧臣を取りまとめ、新たな支配体制を軌道に乗せることであった。甲府城の築城に着手したのも親吉であると伝えられている 27 。
一方で、実際の行政実務、特に現地の事情に精通している必要のある業務については、旧武田家臣の中から抜擢された奉行たちが担当した。三枝虎吉、石原昌明、市川元松、工藤喜盛らは「徳川四奉行」と呼ばれ、親吉を補佐して知行割や訴訟などの実務を担った 30 。
この統治機構において、特に異彩を放ち、重要な役割を果たしたのが、大久保長安と伊奈忠次という二人のテクノクラート(技術官僚)であった。大久保長安は、元々武田信玄に仕えた猿楽師の子であったが、鉱山経営や経理の才能を見出され、武田氏滅亡後に家康に仕えた人物である 31 。家康は長安の非凡な実務能力を高く評価し、甲斐の民政再建、特に武田氏の財政を支えた金山の復興と経営、そして後述する検地の実施において、中心的な役割を担わせた 31 。
また、伊奈忠次も、家康の領国経営において欠かせない人物であった。彼は代官頭として、後の関東移封後には広大な天領(幕府直轄領)の支配や利根川の治水事業で巨大な功績を挙げるが、その手腕は甲斐統治の時代から発揮されていた 34 。
このように、全体の統括は譜代の重臣(平岩親吉)が担い、専門的な実務は在地出身の官僚(大久保長安ら)が執行するという役割分担は、家康が甲斐国という「実験場」で確立した、効率的かつ安定的な統治モデルであった。これは、後の徳川幕府が、大名や旗本といった武士階級による統治と、勘定奉行などの専門官僚による財政・民政運営を両立させた支配構造の、まさに先駆けと言えるものであった。
第三節:支配正当性の確立と経済基盤掌握の焦眉の急
家康は、新たな支配者として、領民の支持を早急に得る必要があった。そのために彼が取った方策の一つが、武田氏が築いた優れた制度を尊重し、継承することであった。例えば、高品質で知られた「甲州金」の貨幣体系や、度量衡の基準である「甲州枡」は、徳川氏の支配下でもそのまま使用が認められた 26 。これは、既存の経済システムを維持することで、領民の生活の混乱を最小限に抑え、新体制への移行を円滑に進めるための、極めて現実的な政策であった。
しかし、乱を制したとはいえ、家康にとって甲斐は未知の領土であった。新たな支配を確固たるものにするためには、この国の経済的実態、すなわち、どれだけの生産力(石高)があるのかを正確に把握することが焦眉の急であった。この実態把握は、以下の三つの側面から不可欠であった。
- 安定的な税収の確保 :領国の正確な石高を把握することは、年貢徴収の基礎となり、徳川家の財政基盤を安定させるために必須であった。
- 家臣への論功行賞(知行割) :天正壬午の乱で功績のあった家臣や、新たに帰順した武田遺臣に対し、その働きに見合った知行地を公平に分配するためには、土地の価値を客観的に評価する基準が必要であった。
- 軍役の賦課 :石高は、家臣たちに課す軍役(動員すべき兵士や武具の数)を算出する際の基準ともなる。領国の軍事力を正確に把握し、効率的に運用するために、石高の確定は不可欠であった。
これらの喫緊の課題を解決し、甲斐国における徳川氏の支配を名実ともに確立するための手段、それこそが「甲斐国総検地」の断行だったのである。
第四章:甲斐国総検地の断行 ― 新秩序の礎(1582年末~)
天正壬午の乱が終結し、甲斐国の軍事的平定が完了した天正10年(1582年)末から、徳川家康は直ちに新たな支配体制の根幹をなす事業、すなわち甲斐国総検地に着手した。この検地は、豊臣秀吉が全国的に展開する「太閤検地」とほぼ同時期に、家康が自らの領国再編プロジェクトとして独自に推進したものであり、彼の先進的な国家構想を反映するものであった 38 。
第一節:検地の目的 ― 石高確定と蔵入地化が意味するもの
甲斐国総検地の目的は多岐にわたるが、その核心は、土地と人民に対する支配権を、旧来の複雑な関係から、大名である家康を頂点とする一元的なものへと再構築することにあった。
石高制の導入と支配権の可視化 :検地の最大の目的は、土地の生産力を米の収穫量(石高)という統一された基準で評価する「石高制」を導入することであった 39 。これにより、領国全体の経済力を客観的な数値として把握することが可能となり、年貢徴収、家臣への知行給付、軍役負担の基準が明確化された 38 。検地という行為、すなわち領国内の全ての土地を測量し、等級を定め、その価値を決定するプロセス自体が、家康が甲斐国全土における唯一絶対の支配者であることを内外に示す、極めて強力な政治的パフォーマンスであった。
蔵入地(直轄領)の設定 :検地によって確定した石高の中から、特に生産性が高く、経済的・戦略的に重要な地域は、徳川家の直轄領(蔵入地)として確保された 41 。これにより、家康は家臣の知行地を介さない安定した財政基盤を直接掌握し、大名としての権力を飛躍的に強化することができた。
一地一作人の原則と兵農分離 :検地では、検地帳にその土地を実際に耕作している農民の名前を登録する「一地一作人」の原則が適用された 38 。これにより、荘園時代から続く複雑な土地の権利関係が整理され、中間搾取を行っていた在地領主(国人や名主など)の経済的基盤が削がれた。農民は土地に直接結びつけられ(土地への緊縛)、領主である家康に直接年貢を納める存在として位置づけられた 40 。これは、武士を土地から切り離し、城下町に集住させる「兵農分離」を強力に促進するものであり、戦国的な社会構造から近世的な封建社会へと移行する上で、決定的な役割を果たした 44 。
第二節:実施体制と手法 ― 実務官僚の手腕
この画期的な事業の実施にあたっては、家康が全幅の信頼を置く実務官僚たちがその手腕を振るった。検地奉行の中心となったのは、前章でも触れた大久保長安や伊奈忠次であったと考えられている 31 。彼らは、徳川氏がそれまでの領国経営で培ってきた独自の検地法を用いつつも、当時最新の測量技術や、豊臣秀吉が進めていた太閤検地の基準(例えば、一反を300歩とする単位統一など)も柔軟に取り入れたと見られる 45 。
検地の具体的な手法については、天正10年末という戦乱直後の混乱期であったことを考慮する必要がある。領内の全ての田畑を役人が竿を入れて直接測量する、厳密な「竿入検地」を全域で一斉に行うことは、時間的にも人的にも困難であった可能性が高い。戦国時代には、領主が家臣や名主に対し、自らの所領の面積や収穫量を自己申告させる「指出検地」という手法が一般的であった 46 。
したがって、甲斐国総検地は、これら二つを組み合わせた、現実的かつ段階的な手法が取られたと推察される。すなわち、まずは在地領主や村の名主からの「指出」を基本として全体の概要を迅速に把握しつつ、蔵入地に設定する予定の重要地域や、申告内容に疑義のある土地については、長安配下の役人が直接現地に入って実測を行う、というハイブリッド方式である。この手法により、在地勢力の反発をある程度緩和しながら、支配の根幹となる経済情報を効率的に収集することを目指したと考えられる。
第三節:検地がもたらした影響 ― 甲斐国の再編と徳川領国経営の礎石
甲斐国総検地の断行は、甲斐国の社会構造を根底から再編し、徳川氏の領国経営に巨大な影響を与えた。検地の真の目的は、単なる「静的な土地調査」ではなく、新たな支配者である家康を頂点とする「動的な権力関係の再構築」にあった。検地帳に誰の名前を耕作者として登録するのか、どの土地を誰の知行地として認定するのか、その決定プロセスそのものが、新たな権力秩序を創り出す政治的行為であった。家康は検地を通じて、旧武田家臣団の序列を再編成し、自らに忠実な者を優遇し、潜在的な敵対勢力の経済基盤を削ぐことができたのである。完成した検地帳は、単なる土地台帳ではなく、徳川家を頂点とする新しい甲斐国の身分秩序を記した「設計図」そのものであった。
この設計図に基づき、家臣団への知行割が円滑に進められ、甲斐国における徳川氏の安定した統治体制が確立された。また、正確な石高の把握と蔵入地の設定、そして大久保長安による金山経営の再建は、徳川家の財政基盤を著しく強化し、後の天下取りに向けた軍事力・経済力の源泉となった 31 。
さらに、甲斐国での検地の成功体験は、家康にとって貴重なノウハウの蓄積となった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命により関東へ移封された際、家康は広大な旧北条領において大規模な総検地を実施するが、その際の実施体制や手法の多くは、この甲斐国での経験が基盤となっている 34 。その意味で、甲斐国は、徳川氏が近世大名としての領国経営モデルを確立した、重要な「実験場」であったと言えるだろう。
結論:戦国史における甲斐国総検地の歴史的意義
天正10年(1582年)の「甲斐国総検地」は、単なる一地方における土地調査事業ではない。それは、戦国最強と謳われた武田氏の滅亡という歴史の大きな転換点から、天正壬午の乱という激しい軍事闘争を経て、徳川家康が新たな支配者として君臨するに至るまでの一連の歴史的プロセスの、必然的な到達点であった。
この検地が持つ最大の意義は、権力の質を、武力による「制圧」から、法と帳簿による「支配」へと転換させた点にある。それは、個々の武将の力量や忠誠心といった不確定な要素に依存する戦国的な「力による支配」から、検地帳という客観的なデータに基づいて体系的に領国を管理する、近世的な「制度による統治」への大きな一歩を意味した。家康は、甲斐の土地と人民を数字と言葉によって再定義し、自らの支配下に完全に組み込んだのである。
そして、この甲斐国統治の成功は、徳川家康の天下取りへの道程において、決定的に重要な基盤となった。甲斐国を平定し、検地を通じてその経済力(石高と金山)と人的資源(旧武田家臣団)を完全に掌握したことは、家康が後の小牧・長久手の戦いで、天下人への道を突き進む羽柴秀吉と互角に渡り合うことを可能にした。さらに、ここで得られた統治のノウハウは、関東二百五十万石という広大な領地を経営する上での礎となった 24 。
甲斐国の平定と、その総仕上げとしての総検地の成功なくして、後の天下人・徳川家康は存在し得なかったと言っても過言ではない。天正10年の甲斐国総検地は、戦国の世の終焉と、二百六十年以上続く泰平の世の到来を準備した、輝かしい道程における確かな礎石の一つとして、日本史にその名を刻んでいるのである。
引用文献
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