最終更新日 2025-10-04

神奈川宿整備(1601)

1601年、徳川家康は神奈川宿を整備。戦国期の遺産を継承し、海陸交通の要衝である神奈川湊と東海道を連結。江戸中心の経済圏形成と幕府支配強化に貢献した。
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戦国期の遺産と徳川の天下布武:神奈川宿整備(1601年)の歴史的深層

序論: 1601年、神奈川における「点」の成立とその歴史的文脈

本報告書は、慶長6年(1601年)の神奈川宿整備を、江戸幕府による画期的な政策という一面的な理解にとどめず、その歴史的深層に光を当てることを目的とする。具体的には、戦国時代、特に関東地方を約一世紀にわたり支配した後北条氏の統治システムと交通政策という「遺産」を、徳川家康がいかに継承し、そして自身の全国支配体制へと再編・昇華させたか、という「連続性と革新性」の視点から深く掘り下げるものである。利用者が既に把握している「港隣接の宿場整備で海陸中継を強化」という事実は、この壮大な歴史的転換の一断面に過ぎない。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、名実ともに関東の一大名から天下人へとその地位を確立した徳川家康にとって、交通網の整備は単なるインフラストラクチャーの構築ではなかった。それは、江戸を中心とする新たな政治秩序の確立、すなわち幕藩体制の根幹を支えるための、極めて高度な政治的・軍事的・経済的事業であった。後に制度化される参勤交代による大名統制、幕府の指令を迅速に伝達するための公用通信網の確立、そして江戸という巨大都市を支える経済圏の創出、これらすべてが全国規模で整備された街道網に依存していた 1 。神奈川宿の設置は、この壮大な国家構想の初期段階における、象徴的かつ戦略的な一手だったのである。

第一部: 前史 ― 戦国動乱と交通網の変容

第一章: 戦国大名の領国経営と伝馬制

徳川家康による全国的な宿駅伝馬制度は、全くの無から創造されたものではない。それは、戦国時代の約150年間にわたる群雄割拠の中で、各大名が自らの領国を維持・拡大するために生み出した統治技術の集大成であり、その発展形であった。

古代律令制の下で整備された駅伝制度は、中央集権体制の弛緩とともに中世には形骸化していた。これに代わり、戦国大名は自らの領国(分国)を効率的に支配し、軍事行動を円滑化するため、独自の交通・通信網を構築する必要に迫られた 4 。特に、本城と各地に配置した支城との間の迅速な情報伝達や兵員・物資の輸送は、領国経営の生命線であった。この要請に応える形で整備されたのが「伝馬制」である 5 。これは、領国内の主要な街道沿いの集落(宿)に、公用のための馬(伝馬)を常備させ、リレー方式で通信や輸送を行う制度であった 7

関東地方において、この伝馬制を最も高度に発達させたのが、約一世紀にわたり支配を確立した後北条氏であった。後北条氏は、本拠地である小田原城を基点として、玉縄城、小机城、八王子城といった主要な支城を結ぶ街道網を整備し、そこに伝馬宿を配置することで、広大な領国を組織的に管理した 8 。彼らの統治は、軍事面だけでなく内政面でも優れており、日本史上最も低いと言われる四公六民の税制や、家臣団による合議制「小田原評定」など、安定した領国経営を実現するための様々な工夫を凝らしていた 10 。交通網の整備もまた、その優れた統治能力の現れの一つであった。

このような交通政策は、後北条氏に限らず、武田氏や今川氏といった東国の有力大名によっても同様に採用されていた 4 。徳川家康は、今川氏の人質時代から始まり、武田信玄との激しい抗争、そして最終的に後北条氏を小田原征伐で滅ぼすに至る過程で、これらの敵対勢力が築き上げた統治システム、とりわけ兵站と情報伝達を支える交通網の重要性を肌身で理解していた。

したがって、慶長6年(1601年)に家康が開始した東海道の整備は、これら戦国大名のシステムを否定し、新たなものを創造したというよりは、むしろ彼らの遺産を継承し、その目的と規模を飛躍的に拡大・発展させたものと捉えるべきである。戦国期の伝馬制が、あくまで各大名の「分国」という閉じた領域内での軍事・政治的必要性を主目的としていたのに対し、家康の制度は、統一国家「日本」全域を覆い、参勤交代という政治統制や全国規模の経済振興といった、より恒久的かつ多角的な目的を担うものへと昇華されたのである 2 。運営主体も各大名から幕府へと一元化され、ここに初めて、近世的な国家交通網の基礎が築かれた。

比較項目

戦国大名の伝馬制(後北条氏など)

徳川幕府の伝馬制(五街道)

目的

軍事連絡、軍需物資輸送、領内統治が主

参勤交代(大名統制)、公用通信、全国的な経済・文化交流

規模

各大名の領国(分国)内に限定

江戸を中心とする全国規模のネットワーク

運営主体

各戦国大名

江戸幕府(道中奉行)による一元的管理

規格

大名ごとに不統一

道幅、一里塚、伝馬数など全国的な規格化

利用者

原則として公用に限定

公用優先だが、次第に庶民の旅行や商業利用も活発化

第二章: 神奈川湊の戦略的重要性

徳川家康が東海道の宿場を設けるにあたり、神奈川の地を選定したことは、決して偶然の産物ではない。その背景には、この地が戦国時代を通じて培ってきた、海陸交通の結節点としての極めて高い戦略的価値が存在した。そして、その価値を最大限に引き出し、体系的な支配下に置いたのが、徳川氏以前の関東の支配者、後北条氏であった。

神奈川湊は、鎌倉時代から江戸湾(当時は東京湾、内海とも)における重要な港湾として機能し、長い歴史的蓄積を持つ流通拠点であった 11 。戦国時代に入り、後北条氏が関東に進出すると、その重要性はさらに増す。後北条氏は、房総半島を拠点とする里見氏と江戸湾の制海権を巡って激しい抗争を繰り広げており、その中で神奈川湊は、後北条氏水軍の重要な基地であり、同時に相模国や武蔵国多摩郡方面への物資を集積・中継する兵站拠点としての役割を担っていた 9

後北条氏による神奈川湊の支配体制は、非常に巧みであったことが記録からうかがえる。彼らは、武力で完全に制圧するのではなく、古くからこの地を拠点としていた在地土豪の矢野氏などを巧みに自らの支配体制下に組み込み、現地の知見や影響力を活用しながら統治を進めた 13

特筆すべきは、後北条氏がこの地に対して二元的な支配構造を適用していた点である。すなわち、農村集落としての「神奈川郷」の支配と、港湾機能を持つ「神奈川湊」の支配を分離し、後者を代官による直接的な管理下に置いたのである 13 。これは、港がもたらす経済的利益や軍事的な価値を、後北条氏が領国経営における特別な資産として深く認識し、直接掌握しようとしていたことの明確な証左である。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐によって後北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入封すると、彼は後北条氏の広大な旧領を接収した。この過程で、家康および彼の懐刀であった伊奈忠次ら代官頭は、新たな支配地の資産価値を徹底的に調査した。これには、各地の石高や鉱山だけでなく、神奈川湊のような収益性の高い港湾も含まれていたことは想像に難くない 14

後北条氏が約一世紀かけてその価値を証明し、発展させてきた神奈川湊という「資産」。家康がその入封から11年後の慶長6年(1601年)、東海道整備という国家プロジェクトにおいて、この価値ある湊に隣接する形で宿場を設置したことは、極めて合理的な経営判断であった。それは、前任者が築き上げた海運拠点としての機能と経済的集積を、自らが構築する新たな陸上交通網とダイレクトに連結させ、その相乗効果を最大化しようとする明確な戦略意図の現れであった。神奈川宿の立地選定は、戦国時代の統治遺産を、徳川の新たな天下布武の礎として戦略的に利用した象徴的な事例と言えるだろう。

第二部: 慶長六年の刻 ― 神奈川宿成立のリアルタイム分析

第三章: 関ヶ原直後の政治情勢と家康の国家構想

慶長6年(1601年)という年は、徳川の治世における「創世記」とも呼ぶべき重要な画期であった。神奈川宿の整備は、この年に同時多発的に始動した、徳川による国家建設プロジェクト群の一つとして位置づけることで、その真の歴史的意義が明らかになる。

慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いにおける劇的な勝利により、徳川家康は事実上の天下人としての地位を固めた。しかし、軍事的な勝利は、新たな時代の始まりを告げる号砲に過ぎなかった。彼の目前には、戦乱で疲弊した国家の再建と、恒久的な平和を担保する新たな支配秩序の構築という、壮大かつ困難な課題が山積していた。

関ヶ原の戦い直後から慶長6年の初頭にかけて、家康は驚くべき速度で戦後処理と新体制の構築に着手する。西軍に与した大名の改易や減封、東軍に味方した大名への論功行賞を断行し、大名配置を刷新することで、徳川の覇権を不動のものとした 16 。同時に、長年の戦乱によって乱れた社会の治安回復も急務であった。各地の村々は、自衛のために家康へと接近し、軍資金の提供などを条件に治安維持の保障(禁制)を求めるなど、新たな支配者への期待と不安が渦巻いていた 17

家康の国家構想の中心にあったのは、豊臣政権の大坂や京を中心とした体制から、自らの本拠地である江戸を新たな日本の政治・経済の中心へと転換させるという明確なビジョンであった 1 。このビジョンを実現するためには、軍事力による威圧だけでなく、国家の根幹を支える経済システムと、それを円滑に機能させる物流網の確立が不可欠であった。

この文脈の中で、慶長6年(1601年)に実行された一連の政策は、相互に密接に連携したパッケージであったと見なすことができる。

第一に、通貨制度の統一である。家康はこの年、京都の伏見に銀座を設置し、全国に流通させるための新たな銀貨(丁銀、豆板銀)の鋳造を開始した。これは、金貨(慶長小判)と合わせて、戦国時代を通じて各地で多様化・混乱していた貨幣制度を統一し、幕府の経済的支配力を確立しようとするものであった 19。

第二に、幕府主導の外交の開始である。同じく慶長6年、家康は安南(現在のベトナム)との間で公式な国書の交換を開始し、朱印船貿易の管理に乗り出した 21。これは、対外関係を幕府の管理下に置き、貿易の利益を独占しようとする意図の現れであった。

そして第三に、これら通貨と貿易の円滑な流通を物理的に担保するための 全国交通網の整備 である。慶長6年正月、家康は東海道に宿駅伝馬制度を施行する。これは、新たな経済システムと外交政策を支えるための、いわば国家の「血管」を整備する事業であった。神奈川宿の整備は、この壮大な国家建設プロジェクト群が同時進行する、まさにその渦中で始動したのである。それは単なる一つの宿場の設置ではなく、徳川による新時代の到来を、経済、外交、そして交通という国家の根幹をなす全ての領域において内外に宣言する、統合的な国家戦略の一環だったのである。

第四章: 東海道宿駅伝馬制度の発令

慶長6年(1601年)正月、徳川家康は天下統一事業の具体的な一歩として、日本の大動脈である東海道の機能強化に着手した。彼は、東海道筋の主要な地点を「宿(宿場)」として指定し、幕府の公用輸送を担わせるための具体的な指令書である『伝馬定書』と、その権威を証明する『伝馬朱印状』を下付したのである 22 。これが、徳川二百六十年の平和と経済を支えることになる宿駅伝馬制度の幕開けであった。

この新制度の骨子は、宿場に「義務」と「権益」をセットで与えるという、巧みな仕組みに基づいていた。

  • 義務(伝馬役) : 指定された各宿は、幕府の公用(公家、武家、幕府役人の通行や公用貨物の輸送)のために、規定数の人馬を常に用意しておくことが義務付けられた。これを「伝馬役」と呼ぶ 23 。東海道の各宿に課せられたのは伝馬36疋であり 22 、後に人足100人・馬100疋に増強される。これは、他の中山道(50人・50疋)や甲州道中など(25人・25疋)と比較して突出しており、幕府が東海道をいかに最重要路線と位置づけていたかを明確に示している 22 。また、伝馬一頭が運ぶ荷物の重量も、当初は30貫目(約112.5 kg)と厳密に規定されていた 22
  • 権益(見返り) : この重い伝馬役の負担に対する見返りとして、宿場の住民には屋敷地に課せられる年貢(地子)が免除されるという大きな経済的特権が与えられた 22 。さらに、公用のない時には、一般の旅行者を宿泊させたり(旅籠屋)、その荷物を運んで駄賃を得たりする商業活動も公認された 24 。これにより、宿場は公的義務を負う一方で、交通の要衝という立地を活かした経済活動の中心地としても発展することが可能となった。

この国家的な大事業の関東地方における実務的な執行を全面的に担ったのが、徳川家康の最も信頼するテクノクラート(技術官僚)の一人、関東代官頭の伊奈備前守忠次であった 14 。忠次は、天正18年(1590年)に家康が関東へ移封されて以来、関八州の広大な天領(幕府直轄領)の民政を統括し、大規模な検地(総検地)の実施、利根川東遷事業に代表される治水・灌漑事業、そして新田開発などを次々と成功させ、徳川政権の財政基盤を築き上げた傑出した行政官であった 15

神奈川を含む東海道の宿場設置は、この伊奈忠次が指揮する関東地方の行政改革の一環として、彼の卓越した実務能力のもとで着実に遂行された。家康が描く国家のグランドデザインを、具体的な形として地上に実現する「実行部隊長」が忠次であり、彼の存在なくして、この迅速かつ体系的な交通網整備は不可能であっただろう。

第五章: 神奈川宿の誕生 ― 計画から実行へ

慶長6年(1601年)に発令された東海道宿駅伝馬制度に基づき、武蔵国橘樹郡神奈川村は、日本橋から数えて三番目の宿場として、新たな歴史を歩み始めることになった。その誕生は、幕府の明確な計画と行政執行力によって、迅速に進められた。

行政プロセスと管轄

神奈川宿は、特定の大名が治める藩領ではなく、幕府が直接統治する天領(幕府直轄領)として設置された。これは、国家の最重要幹線である東海道の、とりわけ江戸に近い要衝を幕府が完全に管理下に置くという、強い政治的意志の表れであった 28。宿場の日常的な行政や警察機能は、現地に設けられた神奈川陣屋が担い、その上位には関東全体の天領を統括する関東代官頭・伊奈忠次が位置するという指揮系統が確立された 12。

普請(建設)と町割り

宿場の建設、すなわち「普請」は、計画的に行われた。高札場などの公的施設の建設費用は、幕府が負担する「御普請所」として扱われたことから、宿場全体の初期整備も幕府主導で行われたと考えられる 30。

宿場の基本的な構造は、既存の集落を基盤としつつも、東海道に沿って計画的な「町割り」が行われ、新たな町並みが形成された。神奈川宿は、その中心を流れる滝野川を境として、江戸寄りの「神奈川町」と京(上方)寄りの「青木町」という二つの町から構成されるという特徴を持っていた 29。この二町体制は、宿場の規模の大きさと、その運営の効率化を図るためのものであったと推測される。

主要施設の配置

宿場には、その機能を果たすための様々な施設が計画的に配置された。

  • 本陣・脇本陣 : 大名や公家、旗本といった幕府の要人が宿泊するための公式な施設である本陣は、宿場の格を示す最も重要な施設であった。神奈川宿には、その規模の大きさから二つの本陣が置かれ、神奈川町では在地の名家であった石井家が、青木町では同じく鈴木家が、それぞれ世襲で本陣役を命じられた 29 。これにより、幕府は地域の有力者を宿場運営の中核に据え、地域社会との円滑な連携を図った。また、本陣を補佐する脇本陣も設けられた。
  • 問屋場 : 伝馬役で定められた人馬の交替(継立)を差配し、公用貨物の輸送を管理する、宿場の行政センターである。問屋役人や年寄といった宿役人が詰め、宿場運営の実務を取り仕切った 22
  • 高札場 : 幕府の定めた法度(法律)や掟、あるいは隣の宿場までの公定駄賃などを木の札に記して高く掲げる施設である。これは、情報を伝達する機能と同時に、街道を往来するすべての人々に幕府の権威を可視化する強力な装置でもあった 12 。神奈川宿の高札場は、神奈川地区センター前に復元されている。

地域社会の変容

宿場に指定されたことは、この地に住む人々の生活を根底から変えた。彼らは伝馬役という、時に過酷な公的義務を負うことになった 35。しかしその一方で、地子免除の特権や、全国から往来する旅人や物資を相手にした商業活動の活発化は、新たな経済的機会をもたらした。これにより、神奈川は単なる半農半漁の村落から、交通と商業を基盤とするダイナミックな「宿場町」へと、その社会経済構造を大きく転換させていくことになる。

構成要素

具体的内容(慶長6年時点での想定)

根拠

主要施設

本陣(神奈川町:石井家、青木町:鈴木家)、脇本陣、問屋場、高札場、旅籠、茶屋

29

運営主体

名主、年寄、問屋役人などの宿役人

22

課された義務

常備伝馬数:36疋、公用通行の優先、人馬継立の実施

22

与えられた権利

地子(年貢)の免除、旅籠・商業の営業権、一般旅行者からの駄賃徴収権

22

管轄

江戸幕府(関東代官頭)、神奈川陣屋

12

第三部: 意義と影響 ― 新時代への布石

第六章: 海陸交通の結節点としての完成

慶長6年(1601年)の神奈川宿の設置は、単に東海道という線の上に一つの点を加えた以上の、はるかに大きな地政学的・経済的意義を持っていた。それは、中世以来の歴史を持つ海運拠点「神奈川湊」と、徳川の新時代を象徴する陸上幹線「東海道」とを機能的に統合し、この地を江戸湾における比類なき海陸交通の結節点として完成させる事業であった。

この統合がもたらした最も直接的な効果は、物資中継地としての役割の飛躍的な強化である。宿場の成立以前から、神奈川湊は相模国や武蔵国多摩郡方面からの産物を江戸や房総半島へ、あるいはその逆方向へ輸送する中継地として栄えていた 12 。宿場の設置により、この既存の海上ルートに、京・大坂と江戸を結ぶ国家の最重要陸路が接続された。これにより、例えば内陸部で生産された絹や農産物は、神奈川まで陸送された後、神奈川湊で効率的に船に積み替えられ、巨大消費地である江戸へと大量輸送されることが可能になった。逆に、江戸や上方からの物資は神奈川湊で陸揚げされ、東海道を通じて内陸各地へと迅速に届けられた。

この海陸のシームレスな連携は、徳川家康が目指した「江戸を中心とする新たな経済圏」の形成に不可欠な要素であった。戦国時代まで、日本の経済の中心は依然として京・大坂を中心とする畿内にあった。家康は江戸を新たな中心に据えようとしたが、都市を建設するだけでは中心にはなれない。人、モノ、情報、そして資本が絶えず流入し、循環するハブ機能が不可欠である。東海道の整備、とりわけ江戸からわずか七里(約28 km)という近距離に位置する神奈川宿を、既存の優良港湾と一体化させる形で整備したことは、江戸へ向かう物流のベクトルを物理的に作り出し、強力に方向付けるものであった 36

このようにして神奈川宿は、江戸という新たな心臓に血液を送り込むための、極めて重要な動脈と静脈の合流点となった。その整備は、日本の経済地理を根本から書き換え、その中心を関西から関東へとシフトさせる、壮大な地政学的革命の重要な布石だったのである。

第七章: 徳川二百六十年の平和を支えたインフラ

神奈川宿の整備を含む慶長6年(1601年)の東海道宿駅伝馬制度の確立は、徳川幕府による二百六十余年にわたる長期安定政権、すなわち「天下泰平」の世を支える、物理的かつ制度的な基盤を築いた事業であった。当初は軍事的・政治的な色彩が濃かった街道は、時代の経過とともにその性格を変容させ、日本の近世社会の発展に多大な貢献を果たした。

第一に、街道は幕府による全国支配、特に大名統制の道具として機能した。後に制度として確立される参勤交代において、西国大名の多くはこの東海道を利用して江戸と自領を往復した 2 。神奈川宿をはじめとする宿場は、大名行列の宿泊地や休憩地となり、その往来を支えた。この制度は、大名に経済的負担を強いると同時に、彼らを定期的に江戸に滞在させることで、幕府への忠誠を誓わせ、謀反の機会を奪うという、極めて効果的な統制策であった。

第二に、整備された交通網は、人・モノ・情報の全国的な流通を劇的に促進した。当初は公用に限定されていた伝馬制も、次第に民間の需要に応える形で利用されるようになる。飛脚制度が発達し、江戸と京・大坂の間で手紙や商業情報が迅速にやり取りされるようになった。また、平和な時代が続くと、庶民の間でも伊勢神宮への参詣(お伊勢参り)や各地の寺社への巡礼、温泉地への湯治といった旅行が盛んになり、東海道は多くの旅人で賑わうようになった 2 。神奈川宿も、風光明媚な景観と江戸からの近さから、多くの旅籠や茶屋が軒を連ねる人気の宿場として繁栄した 11

この人々の往来は、経済的な効果だけでなく、文化的な交流も促した。江戸で生まれた化政文化や上方の元禄文化が街道を通じて全国に伝播し、逆に地方の文化が江戸にもたらされる双方向の交流が生まれた。

このように、神奈川宿の整備は、戦国時代には主に軍事目的で利用されていた「道」を、近世的な政治・経済・文化の大動脈へと質的に転換させる、文明史的な転換点に位置する事業であった。それは、武力による支配が中心であった戦国の世から、法と制度による統治が社会の隅々まで浸透する近世の世への移行を象徴していた 37 。神奈川宿という一つの「点」の整備は、結果として日本の社会全体を動かす巨大な「線」と「面」のネットワークを創出し、徳川の平和を支える揺るぎないインフラとなったのである。

結論: 神奈川宿整備にみる連続性と革新性

慶長6年(1601年)の神奈川宿整備は、徳川幕府による新たな時代秩序の構築を象徴する事業であると同時に、その内実には戦国時代からの深い歴史的連続性が刻印されている。この事象を分析する上で、徳川家康という人物が、旧時代の優れた統治手法の巧みな「継承者」であった側面と、それを全く新しい国家構想へと昇華させた比類なき「革新者」であった側面の両方から捉えることが不可欠である。

第一に、「継承」の側面である。家康が創設した宿駅伝馬制度は、彼が滅ぼした後北条氏をはじめとする戦国大名が、領国経営の死活的な必要性から生み出した伝馬制や、要衝港湾を重視する地政学的戦略を深く学び、それを自らの構想の中に巧みに取り込んだものであった。特に、後北条氏が約一世紀にわたりその戦略的価値を高めてきた神奈川湊のポテンシャルを見抜き、その海運機能と自らの陸上交通網を直結させるという着想は、戦国期の統治遺産を否定するのではなく、最大限に活用しようとする家康の現実的な思考を明確に示している。

第二に、それを凌駕する「革新性」である。家康は、戦国大名が築いたシステムを単に模倣したのではない。彼は、それまで一個の「分国」の枠内に留まっていた交通網を、江戸を中心とする全国規模の標準化・体系化されたネットワークへと再編した。そして、その目的を、短期的な軍事支配から、参勤交代や全国規模の物流に支えられた長期的かつ恒久的な政治・経済支配へと根本的に転換させた。神奈川宿が、藩領ではなく幕府直轄領として設置され、伊奈忠次のような高度な専門知識を持つ官僚によって計画的に整備された事実は、この事業がもはや戦国大名のそれとは次元の異なる、近世的な国家プロジェクトであったことを物語っている。

結論として、神奈川宿整備は、戦国という旧時代の終焉と、江戸という新時代の黎明が交差する一点に位置する。そこには、乱世の知恵を継承しつつ、それを泰平の世の礎へと作り変えていく徳川家康の国家構想が見事に体現されている。神奈川宿は、単なる東海道の一宿場ではなく、日本の歴史が「力による支配」から「制度による支配」へと大きく舵を切ったことを示す、重要な一里塚であったと言えるだろう。

引用文献

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  21. 幕府等の権威者が許可した正式な貿易船であることを示す「朱印状」を携え、貿易を行うようになりました。このような朱印船は、安南、 交趾 こうち 等と呼ばれたベトナム地域をはじめ、 呂宋 ルソン (フィリピン)や 暹羅 シャム (タイ)などの東南アジア諸地域に対し - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/event/jp_vn45/ch02.html
  22. 江戸時代の陸上・河川交通 ~スライド本文~ - 静岡県立中央図書館 https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/1649/1/2-2.pdf
  23. 【伝馬役と歩行役】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht012910
  24. 駿河歩人(するがあいんど):東海道と宿場の豆知識 https://www.suruga-aind.biz/tokaido/
  25. 【関東郡代】 - ADEAC https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000010/ht001810
  26. 幕府領のご先祖調べ https://www.kakeisi.com/han/bakufu.html
  27. 伊奈忠次について | バラのまち埼玉県伊奈町公式ホームページ Ina Town Official Web site https://www.town.saitama-ina.lg.jp/0000004028.html
  28. 静岡駿府城の徳川家康像写真提供 - 歴史 https://www.yokokan-minami.com/site/rekishi/kaido_toku.html
  29. 東海道五十三次の解説 4 神奈川 - 一般社団法人日本製品遺産協会 https://www.n-heritage.org/2025/04/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%AC%A1%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%80%804%E3%80%80%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D/
  30. 東海道と宿場の施設【高札場】 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/03_sisetu/05index.htm
  31. 街道の整備や清掃はどうやっていたのですか? - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index3/answer6.htm
  32. 武蔵国橘樹郡神奈川宿本陣 石井家文書 - 資料詳細 https://wwwy4.musetheque.jp/kanagawa_archives/detail?cls=07_collect_anc_mokuroku&pkey=9199400024
  33. 旧東海道 神奈川宿の歴史散策【歴旅コラム】 - 観光かながわNow https://www.kanagawa-kankou.or.jp/features/tokaido-column515943
  34. ~旧東海道 「神奈川宿」を歩く~ - Amazon S3 https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/img.p-kit.com/kanazawakushiren/sub04ibento/1733294384089668200.pdf
  35. (第377号)箱根八里の難所と三島宿の伝馬役(令和元年10月1日号) https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn042368.html
  36. 五 街 道 と 主 な 脇 往 還 https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/content/000300214.pdf
  37. 【かながわ東海道】宿場町について知ろう! |特集 |【公式】神奈川県のお出かけ・観光・旅行サイト「観光かながわNOW」 https://www.kanagawa-kankou.or.jp/features/tokaido-syukuba