草津宿整備(1601)
草津宿は、1601年に徳川家康が整備した東海道と中山道の結節点。関ヶ原後の国家交通網の中核として、伝馬制度により人流・物流・情報流を掌握し、江戸時代の安定を支える重要な役割を担った。
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慶長六年 草津宿整備の真相:戦国終焉の刻、徳川家康が描いた国家交通の設計図
第一章:序論 - 天下統一の礎石としての街道整備
関ヶ原の戦いがもたらした権力構造の変革
慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原における徳川家康の勝利は、単に一つの合戦の雌雄を決したに留まらず、日本の権力構造を根底から覆す歴史的転換点であった 1 。この勝利により、豊臣政権下で維持されていた大名連合という分権的体制は事実上崩壊し、徳川家を絶対的な頂点とする新たな中央集権的支配体制への道が拓かれたのである。
徳川家康が直面した課題:軍事力から統治力へ
しかし、勝利の余韻に浸る時間は家康にはなかった。彼が直面したのは、軍事力による制圧から、恒久的な支配体制、すなわち幕藩体制をいかにして構築するかという、より困難な課題であった。特に、大坂城には豊臣秀頼が依然として存在し、西国には島津氏をはじめとする潜在的な敵対勢力も残存していた。広大に膨れ上がった徳川の直轄領と与力大名の所領を実効的に支配し、国家を運営していくためには、武力のみに依存するのではなく、精緻な行政・経済システムを早急に確立する必要があった 3 。政策の重心は、軍事から統治へと急速に移行したのである。
「道を制する者は天下を制す」- 交通・情報網掌握の戦略的重要性
この新たな統治システムの根幹として家康が最重要視したのが、全国的な交通・通信網の整備であった 4 。彼は、自らの拠点である江戸と、天皇の座する京都、そして経済の中心地である大坂を結ぶ大動脈を完全に掌握することが、天下の安定に不可欠であると看破していた。街道整備の目的は、以下の四点に集約される。
- 軍事的側面: 有事の際、幕府軍を迅速に全国へ展開するための軍用道路を確保する。
- 政治的側面: 大名に江戸への参勤交代を義務付けることで、そのルートを支配下に置き、大名統制の具とする 3 。
- 経済的側面: 全国の物資流通を活性化させ、江戸を中心とする新たな経済圏を創出し、幕府財政の基盤を強化する 5 。
- 情報的側面: 幕府の法令や指令を迅速に全国へ伝達するための飛脚制度、すなわち伝馬制を確立し、情報格差によって優位を確立する 5 。
これは、それまでの京都を中心とした交通体系を解体し、江戸を新たな起点とする国家交通網へと再編する、壮大なパラダイムシフトであった 7 。関ヶ原の戦い終結からわずか4ヶ月後の慶長6年(1601年)正月に、東海道における伝馬制度が発令されたという事実は、この事業が平時のインフラ整備ではなく、天下統一戦争の最終段階、すなわち「第二の戦い」であったことを物語っている 1 。家康は、物理的な人の流れと情報の流路を完全に掌握することで、いまだ盤石とは言えない自らの覇権を、政治的・心理的に確立しようとしたのである。
【特記事項】近江国草津宿と上野国草津温泉の区別について
本報告書で論じる「草津」は、近江国栗太郡(現在の滋賀県草津市)に位置し、東海道と中山道が交わる交通の要衝「草津宿」である。戦国武将が傷を癒すために訪れた湯治場として名高い上野国(現在の群馬県草津町)の「草津温泉」とは、地理的にも歴史的文脈においても全く異なる存在である 9 。読者の混乱を避けるため、ここに明確に記しておく。
第二章:戦国乱世の近江路 - 整備前夜の交通事情
徳川家康による街道整備が、いかに画期的なものであったかを理解するためには、まずその前夜、すなわち戦国時代の近江国における交通事情を把握する必要がある。
古代・中世における近江の交通:東山道と東海道
近江国は、古来より畿内と東国・北陸を結ぶ「衢(ちまた)」として、極めて重要な地理的位置を占めていた 13 。律令時代には官道である東山道が国の中央を貫き、平安時代後期には草津の近傍に「野路宿(のじしゅく)」が存在した記録があるなど、交通の結節点としての長い歴史を有していた 14 。
戦国大名による領域支配と交通路の分断
しかし、応仁の乱以降の戦国時代に入ると、この地の交通は大きく様変わりする。近江国は、南部の六角氏、北部の京極氏、そして浅井氏といった守護大名や戦国大名が覇を競う、激しい抗争の舞台となった 15 。彼ら各大名は、自らの領国経済圏を防衛・維持するため、街道の要所に私的な関所を乱立させ、通行税を徴収した。これにより、かつて統一されていた交通路は寸断され、広域的な人や物の移動は著しく阻害された。旅の安全性や定時性は失われ、物流コストは高騰し、経済活動は停滞した。織田信長が上洛し、近江を平定した際に「関所の撤廃」を断行したことは、こうした状況を打破し、自由な経済活動を促すための画期的な政策であったが、信長の死後は再び豊臣政権下で各大名の支配が強化され、全国規模で統一された交通システムは未確立のままであった 17 。
琵琶湖水運の盛衰:「矢橋の渡し」が果たした役割と限界
分断された陸路を補完するように、戦国期の近江では琵琶湖の水運が重要な役割を担っていた 19 。特に、草津の西に位置する矢橋湊(やばせみなと)と対岸の大津を結ぶ航路、通称「矢橋の渡し」は、陸路で瀬田の唐橋を大きく迂回するよりも遥かに短時間で両岸を移動できるため、多くの旅人に利用されていた 21 。矢橋湊は、東海道から分岐する矢橋街道によって草津の町と直結しており、水陸交通の乗り換え地点として機能していたのである 24 。
しかし、この便利な水運にも、国家の幹線交通路としては致命的な欠陥があった。第一に、天候への極端な依存である。特に比叡山から吹き降ろす強風、いわゆる「比叡おろし」が吹くと、小さな舟は容易に転覆の危険に晒され、欠航が頻発した 25 。第二に、堅田衆に代表される湖上勢力の存在である 18 。彼らは琵琶湖の水運を実質的に支配しており、その通航には彼らの許可や事実上の通行料が必要となる場合があった。これは、中央権力にとって直接的なコントロールが及ばない、不安定要素であった。
この状況は、「武士(もののふ)の 矢橋の船は早くとも 急がば廻れ 瀬田の唐橋」という有名な諺に象徴されている 27 。この諺は単なる旅人の知恵ではない。それは、戦国時代の交通システムが抱える「速度」と「確実性」という、二律背反のジレンマを的確に表現している。矢橋の渡し(水路)は「速度」に優れるが、天候や人的要因といった不確定要素が多く「確実性」に欠ける。一方、瀬田の唐橋経由(陸路)は時間はかかるが、天候に左右されにくく「確実性」が高い。家康が目指した伝馬制度による街道整備とは、まさにこのトレードオフを解消し、「速度と確実性を両立させた陸路」を国家の公式ルートとして確立する壮大な試みであった。皮肉にも、矢橋の渡しという魅力的なショートカットの存在が、逆に安定した陸路幹線網を整備する必要性を浮き彫りにしたのである。
【表1】戦国期と江戸初期の交通・輸送システム比較表
項目 |
戦国時代(16世紀後半) |
江戸時代初期(慶長6年以降) |
主体 |
各地の戦国大名、寺社勢力、湖上衆 |
徳川幕府(中央集権) |
目的 |
領国経済の維持、軍事物資の輸送 |
全国支配、公用交通の確保、経済振興 |
制度 |
不統一、関所の乱立、私的な支配 |
伝馬制度(統一規格)、宿駅の公認 |
安定性 |
低い(紛争、天候、勢力争いに左右) |
高い(幕府による制度的保証) |
主要ルート |
分断・割拠、水運も重要(例:矢橋) |
五街道(陸路)が公式幹線として確立 |
担い手 |
在地の馬借・問丸、非公式な宿 |
公認された問屋、本陣、助郷村 |
第三章:慶長五年(1600年)- 決戦と構想
関ヶ原の戦いと戦後処理
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原での勝利を確実にした家康は、大津城を拠点に迅速な戦後処理を開始した。西軍に与した大名の所領を容赦なく没収・削減し、それらを徳川の直轄領(天領)や、信頼の置ける譜代大名・旗本へと再配分した 2 。この過程で特に重視されたのが、畿内および東海道・中山道といった主要街道沿いの要衝地であった。近江国も例外ではなく、石田三成の佐和山城をはじめ、豊臣氏の蔵入地(直轄領)などがことごとく収公され、徳川の直接支配下に組み込まれていった 2 。
家康の視線:京・大坂と江戸を結ぶ大動脈の必要性
戦後処理と並行して、家康の視線はすでに未来の国家設計に向けられていた。彼の構想の中心にあったのは、自身の本拠地である江戸と、旧来の政治的中心である京都、そして豊臣家の本拠であり経済の中枢でもある大坂を結ぶ、交通路の完全掌握であった 2 。家康自身、関ヶ原の合戦直後に矢橋の渡しを使い、大津へと渡っている記録が残っており、このルートの戦略的重要性を身をもって認識していた 23 。戦国の世を終わらせ、恒久的な平和を築くためには、この大動脈を徳川の絶対的な管理下に置き、人・モノ・情報の流れを意のままに制御する必要があった。
近江国の戦後統治:代官・小堀正次らの配置とその役割
この壮大な構想を具体化するため、家康は近江をはじめとする新たな直轄領の統治を、腹心の能吏たちに委ねた。近江国において、この重責を担ったのが代官・小堀正次(通称:新介)であった 29 。茶人として名高い小堀遠州(政一)の父である正次は、元々近江の土豪出身で、豊臣秀吉の弟・秀長に仕え、検地奉行などを歴任した極めて行政手腕の高い人物であった 31 。秀吉の死後、いち早く家康に接近し、その能力を高く評価されていた 33 。
家康は、正次のような実務能力に長けたテクノクラート(技術官僚)を現地の責任者に任命することで、自らの構想を現場レベルで、迅速かつ正確に実行させようとした。美濃国では代官頭の大久保長安が交通政策を主導しており 2 、彼らのような官僚が、来るべき街道整備事業の実行部隊となったのである。慶長7年(1602年)には、正次の指揮下で近江国全域の惣検地(慶長検地)が実施されるが 29 、街道整備は、この土地支配の再編と並行して進められた、徳川による支配権確立のための両輪であった。草津宿の整備は、家康個人の鶴の一声だけで実現したのではなく、小堀正次のような、戦国時代を通じて行政実務能力を培ってきた官僚たちの存在なくしては、あれほどの速度で実現しえなかった。これは、戦国時代の「武」の論理から、近世の「吏」の論理へと、時代の主役が移り変わっていく象徴的な出来事でもあった。
第四章:慶長六年(1601年)正月 - 新時代の号砲
江戸城からの指令:東海道諸宿への「伝馬朱印状」一斉発令
関ヶ原の戦いからわずか4ヶ月、年が明けた慶長6年(1601年)正月。江戸城の家康は、天下統一事業の次なる一手として、東海道沿いの各宿場に対し、「伝馬朱印状」を一斉に下付した 1 。これが、その後260年以上にわたって日本の大動脈を支えることになる、近世宿駅制度の公式な発足であった。この時、東海道の宿場として指定されたのは品川から大津に至る37宿程度であり、草津宿もその最初期の一つとして名を連ねた 36 。
朱印状の徹底解剖:その文面、意匠、そして強制力
この「伝馬朱印状」は、単なる行政文書ではない。それは、徳川の新たな支配が、いかなる理念と技術に基づいているかを示す、象徴的なメディアであった。
- 文面: 朱印状に記された文面は、「此御朱印なくして伝馬を出すべからざる者也(この御朱印なくして伝馬を出してはならない)」という、極めて簡潔かつ絶対的な命令であった 1 。これは、幕府が発行する正規の通行許可証(伝馬手形)を持つ者以外には、宿場が用意する公用の人馬(伝馬)を提供してはならない、という厳格な利用制限を定めたものである。これにより、街道の利用は幕府の厳格な管理下に置かれることとなった。
- 意匠(駒曳朱印): 朱印そのものにも、深い意図が込められていた。使用されたのは、朱色の印影の中に馬と、その手綱を引く馬丁の姿が描かれた「駒曳朱印(こまひきしゅいん)」と呼ばれるものであった 38 。これは、当時の社会において識字率が決して高くなかったことを考慮し、文字が読めない者にも、この朱印状が馬の徴発に関する幕府の絶対的な命令であることを一目で理解させるための、巧みな視覚的デザインであった。
- 機能: 幕府からこの駒曳朱印が押された「伝馬手形」を所持する公用の旅行者(大名、幕府役人など)は、各宿場の問屋場で、そこに備え付けられた伝馬朱印状と手形を照合させることで、無賃または定められた公定料金で、次の宿場までの人馬の提供を受けることができた 39 。
この伝馬朱印状は、徳川の支配が「法(成文法)による支配」と「視覚(シンボル)による支配」を巧みに組み合わせた、高度な統治技術に基づいていることを示している。簡潔な命令文は、解釈の余地をなくし、全国一律のルールを適用する「法の支配」を。そして駒曳朱印の意匠は、万人に徳川の権威を理解させる「視覚的シンボル」としての役割を果たした。家康は、戦国大名のような個人的な武力やカリスマに依存する支配から、文書と印章に基づいた、客観的で普遍的な権威による支配へと、統治のあり方を根本的に変革しようとしたのである。
伝馬制度とは何か:公用輸送を支える仕組みと宿場の義務
この朱印状によって確立された伝馬制度は、宿場を中継点として、公用の旅行者や物資をリレー形式で輸送するシステムである 36 。各宿場は、幕府の命令に基づき、定められた数の人足と馬(伝馬)を常に用意しておく義務(伝馬役)を負わされた。東海道の宿では、当初36疋の人馬を常備することが求められたという 42 。この伝馬役は宿場にとって極めて重い負担であったが、その代償として、家屋敷にかかる税金である地子(じし)の免除といった経済的特権が与えられた 2 。宿場の運営は、人馬の継立業務を統括する問屋(といや)や、それを補佐する年寄といった宿役人によって担われ、近世的な交通・通信システムの中核を形成していった 7 。
第五章:なぜ「草津」だったのか - 結節点の選定
慶長6年、徳川家康が東海道の宿駅制度を定めた際、なぜ草津がこれほど重要な拠点として位置づけられたのか。その理由は、地理的、戦略的、そして政治的な要因が複合的に絡み合った結果であった。
東海道と中山道:二大幹線の戦略的意味合い
家康が構想した全国交通網において、東海道と中山道は二本の柱となる最重要幹線であった。
- 東海道: 江戸と京・大坂を最短距離で結び、経済・文化の交流が最も盛んな、文字通り日本の大動脈であった 8 。幕府の威信を示す参勤交代の大名行列の多くがここを通り、その整備は最優先事項とされた。
- 中山道: 東海道に比べて大井川のような大規模な渡河点が少なく、天候による川留めのリスクが低い、より安定した内陸ルートであった 1 。また、信濃や美濃といった中部山岳地帯に所領を持つ大名を監視し、有事の際には彼らを動員する上でも、極めて重要な軍事路線としての性格も帯びていた 45 。
家康は、この性格の異なる二大幹線を並行して整備することで、片方のルートが何らかの理由で寸断された場合でも、もう片方で代替できる冗長性を確保し、国家交通網全体の安定性と強靭性を高めようとしたのである。
草津の地理的優位性:水陸交通の交差点としての価値
この二大幹線構想において、草津は他のどの宿場も持ち得ない、唯一無二の地理的優位性を持っていた。それは、東海道と中山道が日本全国でただ一ヶ所、合流・分岐する地点であるという事実である 44 。これにより、江戸から西へ向かう全ての公用交通、あるいは西から江戸へ向かう全ての交通の流れが、一度草津に集約され、ここでそれぞれの目的地に応じて分岐していくことになった。草津は、文字通り東西交通の全ての流路を制御できる、交通ネットワーク上の最重要結節点(ハブ)となったのである。
さらに、第二章で述べたように、草津は矢橋湊を通じて琵琶湖水運とも接続しており、陸路と水路が交差する複合的な交通ハブとしての機能も有していた 22 。この地理的条件が、草津を戦略的要衝として際立たせた。
この家康の選択は、現代のネットワーク理論の観点から見ても極めて合理的である。国家の交通網を一つのネットワークとして捉えた場合、草津は最も重要な「幹線(東海道)」と「副幹線(中山道)」が交わる「最重要ハブ」に位置する。このハブを幕府の厳格な管理下に置くことは、ネットワーク全体の流れを制御し、安定性を確保する上で決定的に重要であった。家康の選択は、単なる目先の利便性だけでなく、国家規模の交通ネットワーク全体の最適化と脆弱性の低減という、極めて高度な戦略思想に基づいていたと評価できる。草津宿の整備は、徳川260年の安定を支える交通インフラの「要石(キーストーン)」を設置する行為だったのである。
政治的判断:既存の町や勢力を活用した効率的なインフラ構築
戦略的重要性に加え、現実的な政治判断も草津の選定に影響した。草津には、戦国時代以前からある程度の規模の町が形成されており、交通を担う人的・物的な基盤がすでに存在していた。全くの更地に新たな町を建設するよりも、既存の集落を宿場として公的に認定し、再編する方が、はるかに迅速かつ低コストで目的を達成できる。徳川政権は、在地で力を持つ有力者(後の本陣となる田中家など)を問屋や本陣といった宿役人に任命し、彼らに特権を与える見返りに、その経済力と地域社会への影響力を利用して宿場運営を円滑に進めようとした。これは、一方的な支配ではなく、在地勢力との協力関係を築きながら統治を進める、近世的な支配手法の典型であった。
第六章:「草津宿整備」のリアルタイム・シークエンス(慶長六年中)
慶長6年(1601年)の「草津宿整備」は、単一の出来事ではなく、一年を通じて様々な主体が関わりながら進行した一連のプロセスであった。幕府の指令が、いかにして現地の具体的な形へと落とし込まれていったのか、その流れを時系列で再構築する。
【表2】慶長六年(1601年)草津宿整備関連年表
時期 |
幕府(江戸)の動向 |
近江国(代官等)の動向 |
草津での具体的な動き |
慶長5年9月 |
関ヶ原の戦いで勝利 |
- |
戦火の影響、福島正則による一時的な掌握 47 |
慶長5年後半 |
戦後処理、大名配置の決定 |
代官として小堀正次らが着任 |
徳川方の支配下に入る |
慶長6年1月 |
東海道諸宿へ伝馬朱印状を発令 |
朱印状を受領、管内への通達準備 |
朱印状の内容が有力者に伝達される |
慶長6年春 |
- |
小堀正次らによる実地調査開始 |
宿場の範囲策定、問屋・高札場の場所選定 |
慶長6年夏 |
- |
周辺村落との交渉(助郷役の原型) |
伝馬人馬の確保体制の構築 |
慶長6年秋 |
- |
宿場機能の稼働状況を監督 |
宿泊・休憩施設の準備、食事提供体制の整備 |
慶長6年冬 |
- |
- |
宿場としての試験的運用開始、公用旅行者の往来 |
慶長7年 |
中山道の伝馬制度を定める |
中山道筋の宿場整備に着手 |
中山道との結節点としての機能が本格化 |
初頭~春 (1月~3月): 伝馬朱印状の伝達と在地への浸透
慶長6年の正月、江戸城で発せられた伝馬朱印状は、幕府の使者によって東海道を西へと運ばれ、近江国草津にもたらされた。これを受け、近江国を管轄する代官・小堀正次は、草津の有力者たちを招集し、朱印状の内容を伝達したと推測される。そこでは、新たに課される伝馬役という重い義務と、その見返りとして与えられる地子免除などの特権について、詳細な説明が行われたであろう。この時点で、後の本陣となる田中家や、問屋役を担うことになる有力商人たちは、新たな支配者である徳川家に協力することで、宿場町における特権的な地位を確保するという、重大な決断を下したと考えられる。これは、彼らにとって新たな時代の波に乗るための好機であった。
春~夏 (4月~6月): 宿場の物理的・制度的設計
指令が伝達された後、次はそれを物理的な形にする段階に入る。小堀正次ら代官の指揮のもと、宿場の具体的な設計作業が開始された。まず、東海道と中山道の追分(分岐点)を中心に、どこからどこまでを公式な「草津宿」とするか、その範囲(町割り)が定められた 48 。次に、人馬の継立業務の中核施設となる「問屋場」と、幕府の法令を掲示する「高札場」という、二つの公的施設の設置場所が、街道沿いの最も目立つ場所に選定された 47 。さらに、大名や公家が宿泊・休憩するための「本陣」「脇本陣」にふさわしい家屋の指定、あるいは新築・改築の計画が立てられた。ただし、現存する田中七左衛門本陣が正式に本陣職を拝命するのは後の寛永12年(1635年)であるため 48 、この慶長6年の時点では、まだ非公式な内定段階であったか、あるいは別の家がその役を一時的に担っていた可能性も考えられる。
夏~秋 (7月~9月): 運営体制の構築
宿場のハードウェア(物理的施設)の設計と並行して、ソフトウェア(運営体制)の構築も進められた。最大の課題は、定められた数の伝馬人足と馬を、いかにして常時確保するかであった。宿場内の住民だけでは到底賄いきれないため、周辺の村々に対し、要請に応じて人馬を提供する義務(後の助郷役の原型)を課す必要があった 40 。代官は、各村の石高や宿場からの距離などを勘案し、負担を割り振るための台帳作成や、村役人との交渉を開始した。これは、宿場と周辺農村との間に、新たな支配・被支配の関係性を構築する、極めて政治的なプロセスであった。同時に、公用旅行者を受け入れるための具体的な準備も進められた。食事の献立、寝具の確保、警備体制の確立など、細部にわたる規定が定められていった 51 。
年末 (10月~12月): 宿場機能の試験的運用開始
年末に近づく頃には、基本的な体制が整い、草津宿としての機能が部分的に、あるいは全面的に稼働を開始したと考えられる。江戸や京・大坂を往来する幕府の役人や、家康に挨拶へ向かう諸大名が、早速この新しい伝馬制度を利用し始めた。当初は、必要な人馬が時間通りに揃わなかったり、手続きに不慣れなために混乱が生じたりすることもあったであろう。しかし、現場での試行錯誤と代官による監督・指導を通じて、運営は徐々に改善され、新たな交通システムが地域社会に根付いていった。
この一連のプロセスから見えてくるのは、「整備」という言葉が、ゼロからの創造ではなく、既存の社会構造や資源の「再編」であったという事実である。家康と彼の代官たちは、戦国時代から存在した非公式な交通機能や在地有力者を、徳川幕府という新たな秩序の中に巧みに組み込み、公認することで、低コストかつ迅速に宿場機能を立ち上げることに成功した。これは、中央権力と在地社会との間の、ある種のギブアンドテイクに基づいた、極めて現実的な統治手法であった。
第七章:新たな秩序の誕生 - 整備がもたらしたもの
慶長6年の整備事業を経て、草津宿は新たな時代を迎えた。徳川幕府による国家インフラの一部として公的に位置づけられたことは、この町の構造、経済、そして周辺地域との関係性を根本から変容させた。
草津宿の構造:機能分化と町の発展
整備後の草津宿は、東海道五十三次の中でも屈指の規模を誇る宿場町へと発展した。天保14年(1843年)の記録によれば、本陣2軒(田中七左衛門家、田中九蔵家)、脇本陣が2軒から4軒、そして一般旅行者向けの旅籠が72軒も軒を連ねていた 47 。これにより、大名や公家といった支配階級から、武士、商人、そして伊勢参宮に向かう庶民に至るまで、あらゆる階層の旅人を受け入れる体制が整った。
町の中心部には、人馬の継立と荷物輸送の拠点である問屋場が置かれ、そこには街道を往来する荷物の重量を検査する貫目改所も併設された 46 。これは、草津が単なる宿泊地ではなく、近世日本の物流における重要なハブとして機能していたことを示している。これらの施設が街道沿いに機能的に配置され、近世的な宿場町の景観が形成されていったのである。
在地経済への影響:人・モノ・情報の集積地として
宿場機能の確立は、草津の経済に爆発的な成長をもたらした。参勤交代で江戸と国元を往復する大名行列、公用で旅する幕府役人、全国の商品を運ぶ商人、そして信仰の旅に出る庶民など、多様な人々が絶えずこの町を往来するようになった 3 。この膨大な人の流れは、宿泊業はもちろん、飲食業、土産物屋などの小売業、さらには両替商や飛脚といったサービス業を大いに潤した。草津は、近江国南部における経済の中心地の一つへと、急速にその地位を高めていった。
同時に、草津は情報の一大集積地ともなった。江戸の政治情勢、大坂の米相場、各地の事件など、全国からの最新情報が最も早く集まる場所となり、文化交流の拠点としての役割も担うようになった 40 。
矢橋湊との関係性の変化
一方、草津宿の繁栄は、古くからの競争相手であった「矢橋の渡し」との関係性にも大きな変化をもたらした。幕府によって安定性と確実性が制度的に保証された東海道(陸路)が公用の公式ルートとして確立されたことで、天候に左右されやすい矢橋の渡し(水路)の相対的な地位は低下した。公的な交通・輸送の主役は、完全に陸路へと移ったのである。
しかし、矢橋の渡しが完全に寂れたわけではなかった。公式ルートから外れたことで、むしろ新たな価値を見出されることになった。急ぎの旅人にとっては依然として魅力的なショートカットであり、また、琵琶湖の美しい風景を楽しむ遊覧ルートとしての性格を強めていった。「近江八景」の一つとして「矢橋帰帆(やばせのきはん)」が選ばれ、風光明媚な名所として絵画の題材となったのは、その役割の変化を象徴している 23 。草津宿の繁栄は、矢橋湊の交通ハブとしての機能を一部吸収・代替しつつも、湊へのアクセスポイントとして共存共栄する、新たな関係性を築き上げたのである。
この一連の変化は、徳川幕府という中央権力が主導する国家規模のインフラプロジェクトが、いかにして一つの地域の経済構造と社会を根本から変容させたかを示す、歴史の好例である。戦国時代までの草津の価値が、琵琶湖水運との接続を含む地理的利便性という「自然発生的な要因」に大きく依存していたのに対し、整備後の繁栄は、伝馬制度という「政治的・制度的な要因」によって保証されたものであった。これは、地域の盛衰が、もはや自然条件や在地勢力の力関係だけでなく、中央の政策と制度設計に大きく左右される「近世」という新しい時代の到来を、明確に告げるものであった。
第八章:結論 - 戦国の終焉と近世日本の黎明を告げた一里塚
慶長6年(1601年)に行われた草津宿の整備は、単なる一宿場の設置という局所的な事象に留まらない、極めて広範で深遠な歴史的意義を持つ。それは、徳川家康による天下統一事業の総仕上げであり、戦国の世の終焉と、それに続く新たな時代の幕開けを告げる、象徴的なプロジェクトであった。
第一に、この整備事業は、日本の社会構造が「軍事」優先から「行政と経済」主導へと移行する、決定的な転換点であった。戦国時代の特徴であった、武力による領地の奪い合いと、それに伴う交通の分断・混乱は終わりを告げた。それに代わり、伝馬朱印状に象徴される法と制度に基づいた統一的な行政システムが全国を覆い、安定した物流と人流が経済を支える「近世」という新しい社会の礎が、この時に築かれたのである。
第二に、草津宿の選定と整備は、徳川家康の卓越した国家構想能力を如実に示している。東海道と中山道という二大幹線を束ね、琵琶湖水運とも接続するこの地を最重要結節点として掌握することは、日本の大動脈を完全に制御下に置くことを意味した。これは、単なる地理的利便性を超えた、国家規模の交通ネットワーク全体を俯瞰する戦略的思考の産物であり、その後の徳川幕府260年間の安定を支える基盤の一つとなった。
そして最後に、家康が整備した五街道のルートは、驚くべきことに、その多くが現在の国道や鉄道路線に引き継がれ、現代日本の交通網の骨格を形成している。その意味で、慶長6年の草津宿整備は、単なる過去の歴史的事件ではなく、今日の我々の生活にまで繋がる交通インフラの原点を形成した、不朽の価値を持つ画期であったと評価できる。草津宿に立てられた追分の道標は、単に二つの街道の分岐点を示しただけでなく、戦国という旧時代と、近世という新時代の分かれ道を示す、歴史の一里塚だったのである。
引用文献
- 江戸幕府の街道施策の正確な伝承・発信にご尽力されている志田 威(しだ たけし)先生より、令和4年5月29日(日)に開催された『東海道57次講演』についてのお知らせをいただきました。 - 戸谷八商店 https://www.toyahachi.com/20230222/
- 慶長~寛永期における美濃国中山道の陸上交通政策 https://aichiu.repo.nii.ac.jp/record/4155/files/p59-69%E3%80%80%E6%A9%98%E6%95%8F%E5%A4%AB.pdf
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- 矢橋港跡 - 草津市観光物産協会 https://kanko-kusatsu.com/spot/yabasekouato