赤坂宿整備(1601)
慶長6年、家康は伝馬制度を定め、赤坂宿を公式宿場とした。隣の御油宿と距離が近く、当初は一体で運営。後に上下線で業務を分担するなど、競争と共存の特殊な関係を築き、共に発展した。
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戦国時代の終焉を告げるインフラ戦略:慶長六年(1601年)三河国赤坂宿整備の時系列的考察
序章:関ヶ原の戦い後の「天下」と交通網の再編
慶長5年(1600年)9月、徳川家康は関ヶ原の戦いにおいて天下分け目の勝利を収めた。しかし、この勝利は直ちに徳川による盤石な支配体制を意味するものではなかった。大坂城には依然として豊臣秀頼が君臨し、その権威は西国大名を中心に根強く残存していた。島津氏や毛利氏といった有力大名の動向は未だ不透明であり、日本の政治情勢は依然として薄氷を踏むような緊張状態にあったのである 1 。この時点での家康の「天下」は、軍事的な優位によって辛うじて維持されているに過ぎず、恒久的な統治体制の確立は喫緊の課題であった。
この危うい均衡状態において、家康が戦後処理と並行して最優先で着手したのが、全国的な交通網、特に江戸を起点とする主要街道の整備であった。この政策は、単に物資の流通を円滑化させるという経済的な目的を遥かに超える、高度に戦略的な意図を内包していた。第一の目的は、全国の大名を統制するための軍事的・政治的インフラの確立である 2 。江戸と各地を結ぶ街道を完全に掌握することは、有事の際の迅速な軍隊展開を可能にし、謀反の企てを物理的に抑止する力となる。さらに、整備された街道網は、江戸を中心とする新たな「通信ネットワーク」の構築を意味し、幕府の命令を迅速かつ正確に全国へ伝達するための神経系として機能した 4 。これは、伝統的な京都中心の交通体系から、江戸中心の新たな国家体制へと構造転換を図る、物理的な国土改造計画であった。
この思想は、戦国時代の兵站(へいたん)概念の直接的な発展形と見なすことができる。天下統一を推し進めた豊臣秀吉は、大軍を動かす上で兵站の重要性を深く認識し、軍用道路として「太閤道」と呼ばれる道を各地に整備した 5 。家康の街道整備は、秀吉の戦略思想を継承しつつ、その目的を一時的な軍事行動から恒久的な国家統治へと昇華させたものであった。
したがって、慶長6年(1601年)に開始された一連の街道整備、そしてその一環である赤坂宿の整備は、平和な時代の到来を告げる牧歌的な公共事業ではない。それは、関ヶ原の戦いの延長線上にあり、武力によらない天下統一戦争の最終段階であった。軍事力で覇権を握った家康が次に取り組んだのは、土木事業による国土の再編成、すなわち「インフラによる天下布武」だったのである。
第一章:慶長六年正月、徳川家康の「国家構想」と伝馬制度の発令
関ヶ原の戦いからわずか3ヶ月後という異例の速さで、家康は具体的な行動を開始した。慶長6年(1601年)正月、徳川政権は東海道の宿駅制度整備に関する画期的な命令を発令する 7 。この迅速さは、本事業が家康の描く国家構想において、いかに高い優先順位を占めていたかを如実に物語っている。
この時、東海道筋の各宿場に対して交付されたのが、「伝馬朱印状(てんましゅいんじょう)」と「御伝馬之定(ごてんまのさだめ)」という二種類の文書であった 8 。この二重構造こそが、家康の統治思想の核心を示すものであった。
「伝馬朱印状」は、家康自身の朱印が押された公的な命令書であり、伝馬制度が最高権力者の絶対的な意思に基づくものであることを示す象徴であった。これにより、各宿場は徳川政権から直接、公的な権威と義務を賦与されることになった 8。
一方、「御伝馬之定」は、奉行人の連署による、より実務的な運用細則であった。これには、宿場が常備すべき人馬の数、公用荷物の継ぎ立て手順、利用料金といった具体的な規定が盛り込まれており、東海道全域で統一された規格の輸送サービスを実現するための技術的なマニュアルとして機能した 8。
この国家的大事業の執行を命じられたのは、伊奈忠次(いなただつぐ)、彦坂元正(ひこさかもとまさ)、大久保長安(おおくぼながやす)という三人の代官頭であった。彼らは戦場で武功を立てた猛将というよりは、検地、治水、財政といった分野に卓越した能力を持つ、いわば専門官僚(テクノクラート)であった 11 。家康が、新たな国づくりの根幹をなす事業を、旧来の武功主義ではなく実務能力に基づいて選抜した専門家集団に委ねたという事実は、彼の合理的で近代的な統治ビジョンを明確に示している。
特に彦坂元正は、元々三河国の国人で今川氏に仕えた後、徳川氏に帰属した経歴を持つ 14 。徳川氏配下となってからは、天正17年(1589年)に三河・遠江・駿河を含む5ヶ国の総検地を奉行として執行し、小田原攻めの際には同地域の道路普請も担当するなど、この地域の地理と事情に誰よりも精通していた 14 。三河国に位置する赤坂宿への命令伝達と事業監督において、彼が中心的役割を果たしたことは疑いようがない。
この「朱印状」による権威の付与と、「御伝馬之定」による実務の標準化という組み合わせは、極めて高度な統治技術であった。それは、戦国時代に散見された大名個人の属人的な支配や、領国ごとに閉じたローカルルールを乗り越える試みであった。徳川の支配は、単なる忠誠心や恐怖に依存するのではなく、法と規格に基づくシステマティックなものとして全国に展開される。慶長6年正月の伝馬制度発令は、まさにその第一歩であり、近世という新たな時代の幕開けを告げる号砲だったのである。
第二章:赤坂宿への「御朱印状」下付:1601年、三河国におけるリアルタイムな動向
慶長6年正月、江戸で発せられた伝馬制度確立の命令は、整備された指揮系統を通じて迅速に地方へと伝達された。東海道筋の多くは徳川家の直轄領(天領)に組み込まれており、代官頭の厳格な管理下に置かれていた 17 。家康の故郷であり、最重要拠点の一つである三河国も例外ではない。赤坂宿を含むこの地域の管轄は、前述の通り、三河の事情に明るい代官頭・彦坂元正が担っていた可能性が極めて高い 14 。
命令伝達の具体的なプロセスは、次のようなものであったと推察される。まず、江戸の彦坂元正が家康から直接、あるいは幕府中枢から朱印状と定書を受領する。次に、彼は配下の代官や手代といった実務官僚を現地に派遣し、対象となる宿場、すなわち赤坂宿の有力者に対してこれらの文書を伝達させ、その確実な履行を監督する、という流れである 11 。
この時、赤坂宿において幕府からの公的命令を受け取り、実行責任者となったのが、地域の有力者であった松平彦十郎家であった 19 。松平彦十郎は、大名などが宿泊する本陣と、人馬の継ぎ立て業務を統括する問屋を兼務しており、宿場の運営における中心人物であった 21 。注目すべきは、彼が「松平」の姓を名乗っている点である。これは、徳川宗家と何らかの縁故を持つ家柄であったことを示唆しており、家康が旧来の在地勢力との関係性を巧みに利用し、支配の円滑な浸透を図ったことを物語っている。
1601年の年明け間もない、まだ冬の寒さが残る赤坂宿の光景を想像してみよう。彦坂元正の命を受けた代官が数人の供を連れて宿場に到着する。松平彦十郎をはじめとする宿場の主だった者たちが緊張した面持ちで集められ、その面前で、徳川家康の鮮やかな朱印が押された厳かな文書と、詳細な規則が記された定書が厳粛に読み上げられる。その内容は、公用旅行者のために規定数の人馬を常に準備すること、次の宿場まで責任を持って継ぎ送ること、そしてそのための組織を整備することなど、宿場全体に重い公的義務を課すものであった。彦十郎らは、この命令が関ヶ原を制した新たな支配者の、決して覆すことのできない厳命であることを瞬時に理解し、謹んでその履行を誓ったであろう。この瞬間こそ、赤坂宿が中世以来の交通の結節点から、近世的な国家交通網の一翼を担う公的機関へと変貌を遂げた、歴史的な画期であった。
この一連の出来事は、単なる行政手続きの記録に留まらない。関ヶ原の戦いというマクロな歴史的変動が、いかにして三河国の一宿場というミクロな社会の構造と経済活動に直接的な影響を及ぼしたかを示す、生きた証拠である。松平彦十郎という一個人が幕府の命令文書を拝受するプロセスは、戦国時代の終焉と新たな中央集権的支配秩序への移行が、具体的にどのように進行したかを鮮やかに描き出している。遠い美濃国での戦いの結果が、数ヶ月後には「伝馬朱印状」という一枚の紙の形となって地方社会に届き、人々の生活と役割を根本から再定義したのである。これは、徳川の権威がもはや抵抗不可能なレベルにまで達していたことの証左に他ならない。
第三章:「赤坂宿整備」の具体相:戦国時代の遺産から近世宿場町への変貌
慶長6年(1601年)の「整備」が赤坂宿にもたらした変化は、物理的、制度的両面にわたるものであった。それは、戦国時代の軍事拠点の遺産の上に、近世的な統治システムを構築する作業であった。
制度的整備の中核をなしたのは、伝馬役(てんまやく)の確定である。これは、幕府の公用旅行者や公用貨物のために、定められた数の人足と馬を常に準備し、次の宿場まで継ぎ送る義務を宿場全体で負う制度であった 22 。この極めて重要な業務を円滑に遂行するため、その統括機関として「問屋場(といやば)」が正式に設置、あるいは既存の施設が大幅に機能強化された。問屋場は、問屋、年寄、帳付といった宿役人によって運営され、人馬の割り振りから賃銭の計算、幕府への報告まで、輸送事務の全てを担う宿場の心臓部となった 21 。赤坂宿においては、前述の通り、当初はこの重責を本陣役の松平彦十郎が兼務しており、宿場内における彼の権限と責任の大きさが窺える 19 。
制度の確立と並行して、宿場の物理的な施設も整えられた。まず、大名や公家、幕府の高級役人といった要人が宿泊・休憩するための施設として「本陣」が正式に指定された。赤坂宿では松平彦十郎家がその任に当たり、一般の旅籠(はたご)とは明確に区別される、玄関、書院、上段の間などを備えた格式高い建物が公的な迎賓館としての役割を担った 21 。次に、幕府の法令や禁制を民衆に周知させるための「高札場(こうさつば)」が、宿内の中央など最も人目に付きやすい場所に設けられた。ここには、親子兄弟の道徳を説く儒教的な教えから、キリシタン禁制といった幕府の重要政策までが掲げられ、徳川の権威を日常的に視覚化する装置として機能した 21 。さらに、宿場の出入り口には「見附(みつけ)」と呼ばれる土塁や石垣が築かれ、治安維持や人々の往来を管理する役割を果たした 21 。
これらの整備事業は、戦国時代からの連続性と断絶の両側面を持っている。例えば、天正19年(1591年)、当時この地域を支配していた豊臣秀吉の家臣・池田輝政(吉田城主)は、赤坂宿に対して毎日馬46疋を常備するよう命じている 21 。これは、豊臣政権下における軍事輸送や領国支配のための兵站維持策であり、その目的はあくまで軍事的な必要性に根差していた。
これに対し、慶長6年の徳川の伝馬制度は、こうした戦国時代のシステムを基盤としつつも、その目的と構造を根本的に転換させた。目的は、軍事という非常時のためだけでなく、参勤交代や公文書輸送といった恒常的な公用、ひいては将来的な民間の物流も見据えたものであった 2。そして、その運営は、一地方領主の個別命令ではなく、全国統一規格である「御伝馬之定」に基づく、恒久的な国家システムとして設計された。軍事のための臨時動員体制から、国家統治のための常設インフラへと、その本質が質的に変化したのである。この変化は、以下の表に集約することができる。
項目 |
天正19年(1591年)時点(池田輝政支配下) |
慶長6年(1601年)以降(徳川幕府制度下) |
支配者 |
豊臣政権(吉田城主・池田輝政) |
徳川家康(江戸幕府) |
主要目的 |
軍事行動、兵站輸送(軍隊移動、物資輸送) |
公用交通(参勤交代、公文書輸送)、民生物資流通 |
根拠法 |
大名による個別命令 |
伝馬朱印状・御伝馬之定(全国統一規格) |
伝馬規模 |
馬46疋を常備(個別指示) |
御伝馬之定に基づく規定数(標準化) |
宿場の位置づけ |
豊臣政権の地方兵站拠点 |
江戸を中心とする全国交通網の結節点 |
中心人物 |
(不明だが、地域の有力者) |
松平彦十郎家(本陣・問屋役として公式に任命) |
この比較から明らかなように、1601年の赤坂宿整備は、単なる既存施設の改良ではなかった。それは、戦国時代の論理を過去のものとし、新たな時代の支配秩序を宿場というミクロな単位にまで刻み込む、国家的なプロジェクトであった。
第四章:隣宿・御油宿との関係性:競争と共存の力学
赤坂宿の歴史的性格を考察する上で、東隣の御油宿(ごゆしゅく)との特異な関係性を抜きにして語ることはできない。両宿の問屋場間の距離はわずか16町(約1.7キロメートル)しかなく、これは東海道五十三次全ての宿場間の中で最も短いものであった 21 。この異例の近さは、後に松尾芭蕉が「夏の月 御油より出でて 赤坂や」と詠んだ句によって、後世にまで広く知られることとなる。夏の夜は短く、せわしないものだが、御油で月が出たと思ったら、歩いているうちにもう赤坂に着いてしまった、というこの句は、両宿の物理的な近接性を見事に表現している 27 。
これほど近接して二つの宿場が公式に並立された背景には、伝馬役という宿場に課せられた重い負担があった。一つの宿場だけで定められた人馬を常に維持することは、経済的にも労役的にも極めて困難であったため、近隣の村落が協力して義務を分担する「加宿(かしゅく)」や、二つの宿場が一体となって運営する「合宿(あいしゅく)」といった仕組みが各地で見られた 28 。赤坂と御油の関係も、まさにこの典型であった。
史料によれば、「赤坂・五位(御油)」と併記された伝馬朱印状が存在したとされ、制度発足当初は両宿が一体のものとして扱われていた可能性が指摘されている 21。また後年には、より具体的な分担体制が確立された。例えば、江戸方面へ向かう「下り」の継立業務は主に御油宿が担い、京方面へ向かう「上り」は主に赤坂宿が担う、というように、上下線で主要な業務を分担していた時期もあった 21。これは、慶長6年に幕府が両宿を同時に公式宿場として指定したことから生まれた、負担を軽減するための合理的な知恵であった。
しかし、この公的業務における協力関係は、裏を返せば、私的な経済活動における熾烈な競争関係を生み出す土壌ともなった。幕府の公用輸送を担うという点では協力しつつも、一般の旅人を自身の宿場に引き込み、旅籠に宿泊させ、飲食を提供するといった商業活動においては、両宿は互いにライバルであった。
この競争こそが、後年、赤坂と御油が東海道でも有数の歓楽的な性格を持つ宿場町として発展する遠因となった。旅人の気を引くために、多くの旅籠が「飯盛女(めしもりおんな)」と呼ばれる、食事の給仕を名目とした女性を雇い入れた。やがてそのサービスは遊興的な色彩を帯び、「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と俗謡で歌われるほど、両宿はその種の賑わいで全国に名を馳せることになる 21。慶長6年の時点では、このような発展はまだ未来のことであっただろう。しかし、二つの宿場を公式に並立させた幕府の制度設計そのものが、意図せずして将来の競争と、それに伴う独特な町の性格を規定したと言える。
徳川幕府が1601年に赤坂と御油を共に宿場として公認した決定は、伝馬役の負担分散という実務的な合理性に基づいていた。しかし、その行政的な判断は、結果として「公務における協力」と「私経済における競争」という二重構造を二つの宿場にもたらした。この制度設計が生み出したダイナミズムこそが、両宿のその後の数世紀にわたる独特な文化と経済的発展の力学を形成する、根源的な要因となったのである。
結論:戦国時代の終焉と新たな支配秩序の礎として
慶長6年(1601年)の三河国赤坂宿整備という事象は、単なる一地方における交通インフラの整備事業という枠組みを遥かに超える、重層的な歴史的意義を有している。それは、関ヶ原の戦いという軍事行動によって掴んだ覇権を、恒久的かつ安定的な支配体制へと転換させようとする徳川家康の壮大な国家構想の、具体的かつ象徴的な一歩であった。
本報告で詳述したように、この事業は戦国時代を通じて培われた軍事目的の兵站路整備の思想と技術を直接的な起源としている。しかし、家康はそれを単に継承するのではなく、全国規模の民生・行政インフラへとその目的と構造を昇華させた。軍事のための動員システムが、統治のための常設システムへと変貌を遂げたこの一点にこそ、まさに「戦国」から「近世」へと時代が移行する画期を見出すことができる。
赤坂宿という一点を深く掘り下げることで、その後の260年以上にわたって日本を統治した江戸幕府のシステムの原型が、既にこの時点で明確に見て取れる。
第一に、「伝馬朱印状」と「御伝馬之定」が示すように、最高権力者の権威と標準化された法規を組み合わせた、システマティックな支配。
第二に、伊奈忠次や彦坂元正といった専門官僚(テクノクラート)を重用し、実務能力に基づいた行政を推進する姿勢。
第三に、松平彦十郎家を本陣・問屋役に任命したように、在地有力者を統治機構の末端に取り込み、支配の円滑化を図る巧みな政治手腕。
そして第四に、赤坂と御油の「合宿」に見られるように、画一的な命令を押し付けるだけでなく、地域の現実に即した柔軟な制度運用を許容するプラグマティズム。
これら全ての要素は、徳川による新たな支配秩序が、いかにして中央の構想から末端の村落レベルにまで浸透し、社会に根付いていったかのダイナミックな過程を物語っている。赤坂宿の整備は、戦国の動乱が終わり、新たな秩序が形成される時代の大きな転換点に立つ、極めて重要な歴史的道標なのである。
引用文献
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- 「五街道」とは?地域文化を育んだのは、江戸時代から賑わう“道”でした。 | Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/148734
- 江戸時代に整備された「五街道」に思いを馳せる - 関東通信工業株式会社 https://kantuko.com/ncolumns/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AB%E6%95%B4%E5%82%99%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%8C%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93%E3%80%8D%E3%81%AB%E6%80%9D%E3%81%84%E3%82%92%E9%A6%B3%E3%81%9B%E3%82%8B/
- 【太閤道 豊臣秀吉、田川地方を通過】 - ADEAC https://adeac.jp/tagawa-lib/text-list/d300010/ht000750
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- #1 なぜ家康は東海道を整備したのか|不二考匠 - note https://note.com/takamasa_jindoh/n/nc89e576a7126
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- 赤坂宿 | あいち歴史観光 - 愛知県 https://rekishi-kanko.pref.aichi.jp/place/akasaka.html
- 宿場町と助郷村との関係 http://hist-geo.jp/img/archive/026_147.pdf
- 御油・赤坂の飯盛女 遊女たちの光と影 - 歩き旅応援舎ホームページ https://arukitabi.biz/blog/20250112a/