赤穂塩田開発着手(1600)
慶長五年、関ヶ原の戦後、池田輝政は播磨国赤穂に塩田開発を着手。これは徳川政権の経済基盤を固め、赤穂を「塩の国」へと変貌させる画期となった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長五年「赤穂塩田開発着手」の深層:戦国終焉と新秩序構築の視点から
序章:慶長五年、天下分け目の関ヶ原と播磨国
慶長五年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原において、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍が激突した。この天下分け目の決戦は、わずか一日で東軍の圧勝に終わり、日本の権力構造を根底から覆す歴史的な転換点となった 1 。この戦いの帰結は、豊臣政権の実質的な終焉と、それに続く徳川幕藩体制の確立を決定づけた。本報告書が主題とする「赤穂塩田開発着手」は、この関ヶ原の合戦という戦国時代の最終局面が生み出した、新たな政治・経済秩序構築のダイナミズムの中で理解されなければならない。
関ヶ原の戦いの影響が最も劇的に現れた地域の一つが、播磨国であった。西軍の主力であった宇喜多秀家は敗北し、その広大な所領は没収された 2 。さらに、播磨国内を治めていた木下家定・勝俊親子をはじめとする豊臣恩顧の大名たちは、西軍に与したか、あるいは日和見的な態度を取ったかに関わらず、そのほとんどが戦後の領地再編の中で除封・転封の憂き目に遭った 1 。その結果、播磨一国は一時的に統治者を失った「無主空白の国」と化したのである 1 。
この権力の空白は、徳川家康にとって、自らの覇権を西国に及ぼすための絶好の機会であった。家康は戦後処理において、豊臣恩顧の勢力を畿内近国から巧みに排除し、代わりに自らの子飼いや信頼の厚い縁戚の大名を戦略的に配置する、壮大なグランドデザインに着手した。その中で、大坂城に座す豊臣秀頼や、依然として強大な力を持つ西国の毛利氏、島津氏といった外様大名を監視・牽制する上で、播磨国は地政学的に最重要拠点と位置づけられた 4 。
この文脈において、赤穂における塩田開発の開始は、単なる戦後復興や地方の産業振興という次元の出来事ではなかった。それは、関ヶ原の勝利によって日本の統治システムがリセットされ、播磨国という「更地」の上に、徳川の新体制を根付かせるための国家的なプロジェクトの一環として始動したのである。旧体制の継承ではなく、全く新しい秩序を軍事的、そして経済的に構築する過程で、赤穂の地に眠る潜在的な価値が見出された。したがって、1600年の塩田開発着手は、戦国という時代の終焉と、新たな時代の幕開けを象徴する経済的布石であったと言える。
第一章:新領主・池田輝政の播磨入封と赤穂の戦略的価値
播磨国という権力の空白地帯に、徳川家康が白羽の矢を立てた人物こそ、池田輝政であった。彼は単なる一武将ではなく、新時代の西国統治を託すに足る、家康にとって不可欠なパートナーだったのである。
「西国将軍」池田輝政の人物像
池田輝政は、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という戦国三英傑に仕え、数々の戦で武功を挙げて重用された歴戦の武将であった 5 。その経歴もさることながら、彼の地位を決定的にしたのは、徳川家康との血縁関係であった。輝政は家康の次女・督姫を正室に迎えており、家康の娘婿という極めて近しい間柄にあった 3 。この強固な姻戚関係は、外様大名でありながら破格の信頼と待遇を受ける最大の要因となった。
『名将言行録』によれば、輝政は「剛直」な性格でありながら、「下の者に臨む態度は寛容で、徳行を賞して顕彰した」と評され、また口数の少ない寡黙な人物であったと伝わる 6 。これらの人物評は、彼が単なる勇猛な武将に留まらず、冷静な判断力と統治能力を兼ね備えた為政者であったことを示唆している。家康が西国の要というべき播磨国を託したのは、輝政の武将としての実力のみならず、その重厚な人柄と統治者としての器量を見込んでのことであった 4 。
播磨52万石への入封とその意味
慶長五年(1600年)10月、池田輝政は関ヶ原の戦功により、それまでの三河国吉田15万石から、一挙に播磨一国52万石へと大加増され、姫路城に入った 2 。これは戦後に行われた論功行賞の中でも最大級のものであり、徳川政権における輝政の傑出した地位を物語っている。
この破格の待遇の裏には、家康の明確な戦略的意図があった。輝政に与えられた役割は、大坂城の豊臣秀頼と西国の有力外様大名に対する強力な「楔」となることであった。輝政とその息子たちは、播磨、備前、淡路といった西日本の要衝を支配し、一門で合計100万石に迫る石高を領有した 7 。これにより、輝政は「西国将軍」の異名で呼ばれるようになり、事実上、西日本全域を徳川家のために監視する絶大な権限を委ねられたのである 4 。その任務を象徴するのが、輝政が慶長六年(1601年)から9年の歳月をかけて行った姫路城の大改築である。今日我々が目にする壮麗な白鷺城の姿は、単なる居城ではなく、徳川の威光を西国に示すための軍事・政治的拠点として輝政によって築かれたものであった 8 。
赤穂の地政学的・経済的ポテンシャル
広大な播磨52万石の統治を安定させるため、輝政は国内の要所に信頼できる一族を配置した。その中で、赤穂は極めて重要な意味を持つ場所であった。軍事的には、西に隣接する備前国との国境に位置していた。当時の備前は、関ヶ原で西軍から東軍に寝返った小早川秀秋が治めており、その動向は依然として不透明であったため、赤穂は播磨国西部の防衛線を固めるための戦略的要衝だったのである 10 。輝政はこの地に末弟の池田長政を2万2千石で配し、城と城下町の建設に着手させた 2 。
しかし、赤穂の価値は軍事的な側面だけではなかった。この地には、古代から製塩が行われてきた長い歴史があった 11 。そして何より、中国山地から流れる千種川が長年にわたって良質な砂を運び、海岸線には広大な干潟が形成されていた 13 。これは、新たな時代の領国経営を構想する輝政にとって、計り知れない経済的ポテンシャルを秘めた「宝の山」に他ならなかった。
輝政の統治構想は、姫路城の改築に象徴される「軍事」と、領国の富を最大化する「経済」の両輪によって成り立っていた。52万石という巨大な領国を安定的に治め、姫路城のような国家的な大事業を成し遂げるには、米の年貢収入(石高)だけでは不十分であった。そこで着目されたのが、塩であった。塩は食料保存に不可欠な戦略物資であると同時に、市場で売買されることで藩に莫大な現金収入をもたらす重要な商品であった 15 。輝政が赤穂の未開発の干潟に目を付け、大規模な塩田開発を計画したのは、自らの軍事戦略を経済的に裏付けるための、極めて合理的かつ先見性に富んだ経営判断であった。壮大な姫路城の石垣と、広大な赤穂の塩田は、共に「徳川体制の確立」という一つの目的のために計画された、表裏一体の国家プロジェクトだったのである。
第二章:「赤穂塩田開発」着手の実相:1600年前後の動向
慶長五年(1600年)に「赤穂塩田開発着手」と記録されるこの事象は、具体的にどのような経緯で始まったのか。特定の日に鍬入れ式が行われたというよりは、関ヶ原の戦後処理から新領主の統治開始に至る一連のプロセスの中に、そのリアルタイムな姿を見出すことができる。
慶長五年(1600年)前後における赤穂関連の時系列年表
年月日 |
出来事 |
典拠 |
慶長5年(1600年)9月15日 |
関ヶ原の戦い。徳川家康率いる東軍が勝利する。 |
1 |
慶長5年(1600年)9月23日 |
池田輝政と福島正則の連名で、播州赤穂仮屋中に禁制が出される。徳川方の支配が迅速に及んだことを示す。 |
2 |
慶長5年(1600年)10月 |
池田輝政が播磨一国52万石を与えられ、姫路城に入る。 |
2 |
慶長5年(1600年)内 |
輝政の末弟、池田長政が2万2千石で赤穂の加里屋に入り、統治を開始する。領内の資源調査(検地)に着手したと推定される。 |
2 |
慶長年間(1600年~1615年) |
この期間に、池田氏による塩田開発が開始されたことが、後世の複数の史料で確認されている。 |
10 |
元和6年(1620年) |
『浜方播州赤穂塩屋検地帳』に塩田の記録が見られ、開発が具体的に進んでいたことがわかる。 |
17 |
寛永2年(1625年) |
池田政綱(長政の後継)による赤穂検地が実施され、『塩屋村検地帳』などが作成される。 |
17 |
統治の第一歩:禁制と検地
時系列で注目すべきは、関ヶ原の合戦終結からわずか8日後の9月23日に、池田輝政と福島正則(安芸広島藩主)の連名で赤穂に禁制が出されている点である 2 。これは、徳川方が軍事行動と並行して、新しく支配下に置く地域の秩序維持と経済活動の掌握をいかに迅速かつ周到に進めていたかを示す証左である。混乱に乗じた略奪などを禁じ、民心の安定を図ることは、新統治者が最初に行うべき最優先課題であった。
続いて、輝政の弟・長政が赤穂に入ると、新領主として領国経営の基礎を固めるための実務に着手した。その核心となるのが「検地」である。検地は、単に田畑の面積を測量して年貢量を決めるだけでなく、山林、河川、そして海岸に至るまで、領内のあらゆる資源を網羅的に調査し、その経済的価値を評価する総合的な資源アセスメントであった。長政もまた、赤穂入封後速やかに領内の調査を開始したことは想像に難くない。この過程で、千種川河口に広がる広大な干潟と、古くから続く小規模な製塩業の実態が公式に報告され、これを大規模な藩の事業として開発する計画が具体化していったと推察される。
「着手」の証拠を求めて
1600年という特定の年に開発が始まったことを直接示す一次史料は限られている。しかし、後の浅野家時代の記録をはじめ、複数の資料が「塩田開発は池田家の時代から始まっていた」と一致して証言している 10 。
その動かぬ証拠となるのが、元和六年(1620年)の『浜方播州赤穂塩屋検地帳』や、寛永二年(1625年)に池田政綱(長政の後継)が行った検地の際に作成された『塩屋村検地帳』といった古文書の存在である 17 。これらの検地帳に塩田(塩浜)が記載され、年貢が課せられている事実は、1600年の統治開始から間もない時期に開発が着手され、すでに藩の財源として機能するレベルにまで進展していたことを明確に示している。
これらの事実を総合すると、慶長五年(1600年)の「開発着手」とは、物理的な土木工事の開始点のみを指すのではなく、より広範なプロセスを含むものと解釈するのが最も事実に近い。すなわち、①関ヶ原の戦勝による播磨国の掌握、②新領主池田氏の入封と統治体制の確立、③検地による領内資源の評価、そして④塩田を領国経営の柱とする政策決定、という一連の知的なプロセスこそが、1600年という時点における「開発着手」の最もリアルな実態であった。物理的な塩田の造成は、この政策決定に基づき、翌慶長六年(1601年)以降、本格的に進められていったと考えられる。
第三章:技術革新の波:近世的「入浜式塩田」の導入と赤穂の地理的優位性
池田輝政が赤穂の地に壮大な塩田開発を構想できた背景には、当時の製塩技術における画期的なパラダイムシフトがあった。それは「入浜式塩田」という新技術の登場であり、赤穂の地理的条件はこの新技術のポテンシャルを最大限に引き出す、まさに理想的な場所であった。
製塩技術のパラダイムシフト
日本の製塩は、古代の土器製塩や藻塩焼に始まり、中世には砂浜を利用した「揚浜式塩田」へと発展した 11 。揚浜式は、塩田に人力で海水を汲み上げて撒き、天日で水分を蒸発させた後、塩分が付着した砂を集めて濃い塩水(かん水)を採るという、極めて労働集約的な製法であった 14 。
この状況を一変させたのが、室町時代末期から江戸時代初期にかけて開発された「入浜式塩田」である。この新技術の最大の革新は、潮の干満差という自然のエネルギーを利用して、海水を塩田に自動的に引き込む点にあった 14 。満潮時に海水を引き込み、塩田の砂層に毛細管現象で染み渡らせることで、人力で海水を汲み上げる過酷な労働から解放された。これにより、生産性は飛躍的に向上し、大規模な塩の生産が可能となったのである 12 。赤穂は、この最新鋭の入浜式製塩技術を大規模に導入し、そのシステムを完成させた最初の地であったとされている 14 。
赤穂における製塩技術の変遷と比較
技術名 |
時代 |
原理 |
生産性 |
労働力 |
立地条件 |
土器製塩 |
弥生~ |
海水を直接煮詰める。 |
低 |
高 |
燃料と海水があれば可。 |
揚浜式塩田 |
平安~ |
人力で海水を汲み上げ、砂浜に撒き、天日で濃縮する。 |
中 |
極高 |
砂浜が必要。 |
古式入浜塩田 |
鎌倉~ |
小規模な潮の干満を利用して海水を引き込む。 |
中高 |
中 |
小規模な干潟が必要。 |
入浜式塩田 |
江戸初期~ |
大規模な堤防と水路を整備し、大きな潮の干満差と毛細管現象を利用して自動的に海水を供給する。 |
高 |
低 |
広大で遠浅な干潟と大きな干満差が必要。 |
赤穂の地理的アドバンテージ
入浜式塩田という革新的な技術を適用する上で、赤穂の地はまさに天恵とも言うべき条件を完璧に満たしていた。
第一に、瀬戸内海特有の穏やかな気候である。塩づくりは天日を利用するため、日照時間が長く、年間の降水量が少ないことは絶対的な条件であった 13 。
第二に、広大で良質な干潟の存在である。中国山地を源流とする千種川が、長年にわたり上流から質の良い砂を運び、河口付近に広大かつ遠浅の干潟を形成していた 13。これは大規模な塩田を造成するための基盤となった。
第三に、大きな潮位の干満差である。瀬戸内海は潮の満ち引きの差が大きく、これが一切の動力を必要とせず塩田に海水を供給する、入浜式の「エンジン」となった 14。
第四に、豊富な燃料の供給源である。塩田で濃縮されたかん水を煮詰めて塩の結晶を得るためには、莫大な量の薪が必要となる。赤穂の背後に控える山々は、この燃料を安定的に供給する役割を果たした 11。
これらの地理的条件が奇跡的に揃っていた赤穂は、入浜式塩田による大規模開発を行う上で、日本で最も恵まれた土地の一つだったのである 14 。
注目すべきは、赤穂の地理的優位性は古代から存在していたにもかかわらず、江戸時代初頭まで全国的に有名な塩の産地ではなかったという事実である 12 。一方で、「入浜式」という新技術は、播磨の他の地域などで萌芽的に開発されつつあった 17 。池田輝政という、旧来の慣習に縛られない新しい領主が赤穂に入ったことで、初めてこの土地のポテンシャルと最新技術が結びつけられた。彼、あるいは彼の配下の技術官僚たちが、「この場所で、この技術を用いれば、莫大な富を生み出すことができる」という結論に至ったことこそ、1600年の「着手」の核心であった。それは単なる地理的幸運に頼ったものではなく、潜在的な資源(土地)と革新的な技術(入浜式)の最適な組み合わせを意図的に見出し、実行に移した、高度な経営判断の結果だったのである。この戦略的なマッチングの成功こそが、赤穂を後の「日本第一の塩の国」へと押し上げる原動力となった。
第四章:池田家統治下の塩田経営とその経済的意義
慶長五年(1600年)に池田長政が赤穂に入ってから、正保二年(1645年)に池田輝興が改易されるまでの約45年間、池田家による統治は、赤穂が塩の町として飛躍する上で決定的な基礎を築いた。この時期の塩田開発は、藩の財政構造を根底から変え、赤穂の町の姿をも一変させる原動力となった。
初期開発の規模と実態
池田家時代の塩田開発は、主に千種川の東岸に広がる干潟、すなわち後の「東浜」と呼ばれる地域で進められたと推定されている 11 。前述の通り、寛永二年(1625年)に作成された『塩屋村検地帳』や『真殿村検地帳』といった史料には、すでに塩田(塩浜)が藩の検地対象として記載されており、そこから年貢が徴収されていたことが記録されている 2 。これは、塩田が単なる試行錯誤の段階を越え、藩の公式な財源として安定的に組み込まれていたことを示すものである。
赤穂の統治者は、池田家の内部で目まぐるしく交代したが、塩田開発という基本政策は一貫して継続された。この開発が順調に進み、藩の財政を大いに潤していたことは、当時の城郭整備の状況からも窺い知ることができる 10 。
江戸時代初期における赤穂領主の変遷
領主 |
家系 |
統治期間 |
石高 |
特記事項 |
池田 長政 |
輝政の末弟 |
1600年~1615年 |
2万2千石 |
赤穂統治を開始。塩田開発に着手。 |
池田 政綱 |
輝政の五男 |
1615年~1631年 |
3万5千石 |
塩田の検地を実施。城内に大書院などを整備。 |
池田 輝興 |
輝政の六男 |
1631年~1645年 |
3万5千石 |
城内に多門櫓や隅櫓を整備し、城郭を拡充。 |
浅野 長直 |
- |
1645年~ |
5万3千石 |
池田家の基礎を引き継ぎ、大規模な塩田開発を推進。 |
塩が生み出す富と藩政への影響
塩田開発によってもたらされた潤沢な財源は、赤穂の町の発展に直接的な影響を与えた。特に顕著だったのが、赤穂城の拡充である。池田政綱の代には城内に藩邸の大書院、玄関、土蔵などが設けられ、続く輝興の代には金の間、多門、隅櫓、馬屋が整備された 2 。これにより、赤穂城は17世紀中頃までには本格的な城郭としての体裁を整えるに至った。公式な石高が3万5千石程度の小藩であった赤穂が、これほど積極的な城郭整備を行えたのは、石高には現れない塩からの莫大な「内高(実質収入)」があったからに他ならない 10 。
塩がもたらす富は、米とは本質的に異なっていた。米が年貢として現物で納められるのに対し、塩は「天下の台所」と呼ばれた大坂などの大市場で販売され、藩に直接的な現金収入(銀や銭)をもたらした 24 。これは、赤穂藩の経済が、自給自足的な農業経済から、貨幣を媒介とする商品経済へと構造転換を始めたことを意味する。
池田家が統治した約45年間は、後の浅野家による爆発的な発展のための、いわば「基礎工事」の期間であった。この時期に、入浜式塩田の技術が導入・改良され、技術者が育成された。塩田に海水を供給し、生産された塩や燃料を運搬するための水路(水尾)といったインフラが整備された 11 。そして、大坂市場へと至る流通ルートが開拓された。これらの目に見える資産と目に見えないノウハウの蓄積こそが、池田家が後世に残した最大の遺産であった。1600年の開発着手は、赤穂を単なる「米の石高」という旧来の物差しでは測れない、高い付加価値を生み出す経済特区へと変貌させる、決定的な第一歩だったのである。
第五章:礎の継承と発展:「塩の国・赤穂」への道程
慶長五年(1600年)に池田家が蒔いた種は、その後の領主たちによって見事に育てられ、赤穂を名実ともに「日本第一の塩の国」へと押し上げていった。領主の家は交代しても、塩田開発という赤穂の経済的根幹は揺らぐことなく、一貫して継承・拡大されていったのである。
浅野家による大規模開発
正保二年(1645年)、池田輝興が不行跡を理由に改易されると、その後を受けて常陸国笠間から浅野長直が5万3千石で赤穂に入封した 19 。長直は、池田家が築いた塩田経営の基礎をただ引き継ぐだけでなく、それを飛躍的に拡大させるという強力なリーダーシップを発揮した。彼は、大塩(現在の姫路市)など、当時の先進的な製塩地から技術者を積極的に招聘し、科学的かつ大規模な塩田開発事業に着手した 12 。
浅野家の三代にわたる治世で、特に東浜の塩田は目覚ましい発展を遂げ、その面積は約100ヘクタール(甲子園球場約25個分)にまで拡大された 11 。この大規模開発によって赤穂藩の財政は磐石のものとなり、その富は寛文元年(1661年)に完成した壮大な赤穂城の築城費用を賄うことを可能にした 14 。浅野家の時代、赤穂藩の公式な表高は5万3千石であったが、塩業による莫大な利益により、実質的な石高は7万石から8万石に相当したとさえ言われている 19 。
「赤穂塩」ブランドの確立と全国展開
浅野家の時代に生産量が飛躍的に増大した赤穂の塩は、その品質の高さも相まって、大坂や江戸の市場を席巻し、全国にその名を知られるトップブランドへと成長した 11 。偽物が出回るほどその人気は高く、江戸時代後期の高名な蘭学者であり絵師でもあった司馬江漢は、その旅日記『江漢西遊日記』の中で「赤穂塩日本第一也」と記し、その名声を裏付けている 11 。
さらに、赤穂で完成された入浜式塩田の技術は「赤穂流」として、瀬戸内海沿岸の各地(後に「十州塩田」と呼ばれる一大産地を形成)や、遠くは仙台藩にまで伝えられた 11 。赤穂は、単なる塩の生産地であるだけでなく、日本の製塩業全体の技術革新をリードする先進地としての役割をも担うようになったのである。
森家への継承と完成
元禄十四年(1701年)の江戸城松の廊下での刃傷事件、いわゆる「元禄赤穂事件」によって浅野家が断絶した後も、赤穂の塩業が衰えることはなかった。永井家の短期支配を経て赤穂に入封した森家によって、塩田開発の方針は忠実に引き継がれた 14 。森家の時代には、これまで未開発であった千種川西岸(西浜)の開拓が本格化し、18世紀には塩田の総面積は最終的に400ヘクタールという広大なものに達した 11 。
このように、赤穂の統治者は池田家、浅野家、森家と目まぐるしく変わったが、塩田開発という基本政策は驚くほど一貫して継承・拡大された。これは、池田家による初期の成功が、「赤穂を統治する上で、塩田を経営することが最も合理的かつ収益性の高い道である」という、後継者たちが抗うことのできない強力な成功モデルを創出したからに他ならない。後から入封した浅野家や森家にとって、このモデルを否定する理由はなく、むしろそれを踏襲し拡大することが、自らの藩財政を豊かにする最善の策であった。慶長五年(1600年)の池田氏による決断は、単なる一過性の政策に終わらず、赤穂という土地の経済的な「宿命」そのものを決定づけた。それは、この土地の経済的なOS(オペレーティングシステム)を「塩業」としてインストールするほどの絶大なインパクトを持っていたのである。
結論:戦国終焉の画期点としての一六〇〇年
慶長五年(1600年)の「赤穂塩田開発着手」は、単なる一地方における産業史の黎明を告げる出来事ではない。それは、日本の歴史が大きく転換する、戦国終焉のダイナミズムの中から生まれた、新時代を象徴する事業であった。
この開発は、関ヶ原の合戦という戦国時代の最終局面が生み出した播磨国の政治的空白に、徳川家康の絶対的な信頼を得た新時代の大名・池田輝政が送り込まれたことから始まった。輝政に課せられた西国監視という軍事的・政治的任務を経済的に支えるため、彼は赤穂の広大な干潟という地理的優位性と、入浜式塩田という最新技術を戦略的に結合させ、近世的な領国経営の新たなモデルを始動させたのである。
この事業の着手は、赤穂という土地の価値基準を、米の生産量を示す旧来の「石高」から解放した。塩という商品作物の大量生産は、藩に莫大な現金収入をもたらし、赤穂を農業地帯から、貨幣経済を牽引する先進的な産業都市へと変貌させる礎を築いた。池田家が蒔いたこの種は、次代の浅野家、そして森家へと着実に受け継がれ、大規模な投資と経営努力によって見事に開花し、やがて「日本第一」と称される塩の国を現出させた。
したがって、1600年のこの出来事は、大名がもはや「武」の力のみによって競い合うのではなく、「算(経済)」の力によって領国を治め、富を築く新しい時代の到来を告げるものであった。それは、戦乱の時代が終わりを告げ、徳川幕藩体制下における安定と経済発展の時代、すなわち江戸時代の真の幕開けを告げる、画期的な一歩であったと結論づけることができる。
引用文献
- 【関ヶ原の戦いのあと】 - ADEAC https://adeac.jp/takarazuka-city/text-list/d100020/ht200990
- 赤穂城の歴史 http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/akojo/history.html
- 姫路藩(1/2)池田輝政や酒井家など名門が治める - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/han/417/
- 徳川家康の婿殿と孫~池田輝政と光政 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/ikeda-terumasa-mitsumasa/
- 池田輝政 兵庫の武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/kansai-warlords/kansai-terumasa/
- 池田輝政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%94%BF
- 姫路城城主:池田家(1600-1617) 池田輝政の姫路 池田輝政(1565-1613)は義理の父、徳川家康(1543-16 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001553716.pdf
- 池田家ゆかりの地 - 姫路・岡山・鳥取城下町物語推進協議会 https://www.city.tottori.lg.jp/hottriangle/ikedake.html
- 名城に見る池田家 繁栄の足跡|兵庫遺産が紡ぐ11の物語 https://www.hyogo-tourism.jp/hyogoisan/ikedake/
- 赤穂城築城史 https://ako-castle.jp/learn/the-construction-of-ako-castle/
- 塩づくりの歴史 https://ako-salt.jp/main/scroll-2.html
- ~ 赤 穂 の 塩 と そ の 歴 史 ~ - 赤穂市教育情報ネットワーク http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/unekokokan/pdf/2018tokubetusiryo.pdf
- 「日本第一」の塩を産したまち 播州赤穂|日本遺産ポータルサイト https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story077/
- 日本遺産を訪ねる西への旅 「日本第一」の塩を産したまち 播州赤穂 播磨灘の塩の国 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/20_vol_189/issue/01.html
- 塩の歴史 https://www.shionavi.com/salt/history
- 塩の世界史 http://www.kana-smart.sakura.ne.jp/New-SMART-12-07-23/Sio-141119.htm
- 事業・産業43:製塩業(6)製塩業史(江戸時代) : 佐渡広場 - ライブドアブログ http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/51858581.html
- 天明6年(1786)の「赤穂沖付洲新開場絵図」=前川良継氏蔵 - 赤穂民報 https://www.ako-minpo.jp/smp/news_15033.html
- 赤穂藩とは - 文楽編・仮名手本忠臣蔵|文化デジタルライブラリー https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc21/yomoyama/y1/yo2.html
- 日本の塩つくりの歴史 - 伯方塩業株式会社 https://www.hakatanoshio.co.jp/salt/history/
- 国産塩を知る | 日本の塩づくりの歴史 https://www.sio.or.jp/knowledge/history.html
- 「ここに行ったよ!ここ行きたい!!」その3 塩の国、赤穂を歩く① 塩の国の塩づくり - note https://note.com/nihonisan_mag/n/n14492d398db8
- 塩づくりの歴史 - 香川県坂出市から http://www.sanuki-shio.co.jp/siodukuri/
- 大阪府 - 塩と暮らしを結ぶ運動公式サイト https://www.shiotokurashi.com/kokontozai/osaka
- 兵庫県 - 塩と暮らしを結ぶ運動公式サイト https://www.shiotokurashi.com/kokontozai/hyogo
- ダイジェスト忠臣蔵(第14巻)内蔵助と安兵衛の対立 http://chushingura.biz/gisinews09/news274.htm