金谷宿整備(1601)
1601年、徳川家康は東海道金谷宿を整備。関ヶ原後の天下統一に向け、大井川越えの要衝として、戦国終焉と泰平への布石を担う重要な役割を果たした。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長六年 金谷宿整備の深層 ―戦国終焉の地政学と泰平への布石―
序章:1601年、関ヶ原の残響
慶長5年(1600年)秋、美濃国関ヶ原における天下分け目の合戦は、徳川家康の決定的な勝利に終わった。この一戦は、家康の軍事的覇権を確立させたが、それは新たな時代の始まりを告げる号砲に過ぎなかった。真の天下統一とは、武力による制圧の先にある、恒久的な支配体制の構築、すなわち「制度」による統治の確立を意味する。家康が描く泰平の世のグランドデザインにおいて、その最初にして最重要の一手と位置づけられたのが、全国交通網の抜本的な再編であった。
驚くべきことに、関ヶ原の戦いの硝煙がまだ冷めやらぬ慶長6年(1601年)正月、家康は早くも東海道の各宿に対し、宿駅伝馬制度を敷く法令を発布した 1 。この驚異的な迅速さは、家康が戦の勝敗のみならず、その後の統治構想をいかに周到に練り上げていたかを物語っている。これは単なる戦後処理ではなく、江戸を政治・経済の中心とする新たな国家体制を現出させるための、断固たる意志の表明であった。
整備の対象は最終的に五街道全般に及んだが、その中でも最優先されたのが、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈、東海道であった 1 。その戦略的意図は明白である。新幕府の拠点である江戸と、依然として政治的・文化的権威の中心である京都の朝廷、そして豊臣秀頼が君臨し、西国大名の精神的支柱ともなっている大坂城との間の連絡を迅速かつ確実に掌握することにあった 5 。これは、平時における公用通信や物流の円滑化という側面を持ちつつも、その根底には、豊臣氏残存勢力や西国大名への睨みを効かせ、有事の際に迅速な情報伝達と軍隊移動を可能にするという、極めて軍事的な要請が色濃く存在していた。すなわち、1601年の街道整備は「平和のためのインフラ」でありながら、その本質は「来るべき戦いに備えるための軍事インフラ」という二重性を宿していたのである。
この壮大な国家プロジェクトの中で、遠江国最東端、駿河国との国境をなす大井川の西岸に位置する金谷は、東海道二十四番目の宿駅として、歴史の表舞台にその名を刻むこととなる 6 。本報告書は、この「金谷宿整備」という一点に凝縮された、戦国という「武」の時代から近世という「治」の時代への劇的な転換を、その歴史的背景からリアルタイムの状況に至るまで、徹底的に解き明かすことを目的とする。
第一部:金谷前史 ―戦国動乱と大井川の変容―
慶長6年(1601年)の整備事業が、なぜ金谷という地で、あの形で行われたのかを理解するためには、時計の針を戦国時代にまで巻き戻す必要がある。徳川家康自身の遠江支配の記憶と、大地そのものを造り変えた巨大土木事業。この二つの要素が、金谷宿の誕生を運命づけていた。
第一章:遠江を巡る攻防―家康の原点―
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川氏の人質であった松平元康(後の徳川家康)は、独立への道を歩み始める。岡崎城を拠点に三河一国の統一を成し遂げた家康は、次なる標的として、今川氏の支配下にあった隣国・遠江に狙いを定めた 9 。
永禄11年(1568年)、家康は甲斐の武田信玄と密約を結び、今川領への挟撃を開始する。家康は遠江へ、信玄は駿河へと、東西から侵攻した 10 。家康は三河勢を率いて本坂峠を越え、井伊谷城、白須賀城など今川方の諸城を次々と攻略し、浜名湖周辺を制圧。遠江の要衝・引馬城(後の浜松城)に入城した 12 。
遠江における今川方の最後の拠点となったのが、今川氏真が籠る掛川城であった。家康はこれを包囲し、半年にわたる籠城戦の末、氏真を降伏させ、ついに遠江一国をその支配下に置いた 10 。この遠江国は、父祖伝来の地である三河の外に、家康が自らの実力で初めて獲得した領国であり、その後の天下取りの基礎を築く上で、極めて重要な意味を持つ土地となった 14 。
しかし、遠江支配は平穏ではなかった。信玄との同盟は破綻し、遠江は徳川・武田両軍が雌雄を決する最前線と化した。特に遠江中部の高天神城を巡る攻防は熾烈を極め、両軍の抗争は実に13年の長きにわたって続いた 13 。この長年の死闘を通じて、家康は遠江国の地政学的重要性、とりわけ防衛拠点としての価値を骨身に染みて理解したであろう。そしてこの時代、家康は単なる武将としてだけでなく、有力代官を配置し、国奉行を置くなど、領国経営における行政手腕を着実に磨いていった 9 。それは、武勇が全てを決定した戦国乱世から、政治的手腕による統治が重んじられる新時代への移行を、家康自身が体現していく過程でもあった。
第二章:天正の瀬替え―大地への刻印―
金谷宿が成立するための、もう一つの重要な前提条件は、人間の手による大地の改変であった。天正18年(1590年)、小田原北条氏の滅亡後、豊臣秀吉の命により家康は旧領の東海五カ国を離れ、関東へと移封される。代わって駿河・遠江には、山内一豊をはじめとする豊臣系の家臣が入封した 9 。
掛川城主となった山内一豊らは、新領地の経営に着手する中で、後世に絶大な影響を与える巨大な土木事業を行った。新田開発と、かねてより氾濫を繰り返していた大井川の洪水防止を目的とした、大規模な治水工事である 15 。
「天正の瀬替え」と呼ばれるこの事業は、大井川中流域の相賀(旧島田市)と牛尾(旧金谷町)の間を新たに掘削し、強固な堤防(一豊堤)を築くことで、蛇行していた川の流路を現在の位置へと大きく、そして恒久的に変更するものであった 8 。この瀬替えの結果、大井川の両岸、すなわち後の島田宿と金谷宿が立地する場所に、広大で安定した平野部が人為的に創出されたのである 16 。
この事業の歴史的意義は計り知れない。それは、単に耕作地を増やしただけでなく、近世東海道のルートを事実上、決定づけたからである。この瀬替えにより、西の日坂宿から間の宿である菊川を経て金谷に至り、新たに生まれた金谷の河原から大井川を渡り、対岸の島田の河原町へと抜けるという、交通の道筋が確立された 15 。
ここに、歴史の連続性と一つの皮肉が見て取れる。慶長6年(1601年)の金谷宿整備は、徳川家康の天下統一事業の一環として行われた。しかし、その宿場が立地する物理的な土地そのものは、家康が遠江を離れていた豊臣政権時代に、ライバルとも言える豊臣系大名の手によって準備されていたのである。家康は、いわば敵方が整地した土地の上に、自らの支配システムを構築したことになる。これは、歴史が決して断絶するのではなく、前時代の遺産を巧みに継承し、自らの体制に組み込んで活用するという、家康の極めて現実的かつ老練な為政者としての一面を浮き彫りにしている。
第二部:天下統一の礎 ―慶長六年の伝馬制度令―
金谷宿の整備は、単独の事業として行われたわけではない。それは、徳川家康が描いた新たな国家統治システムの根幹をなす、「宿駅伝馬制度」という壮大な構想の一部であった。この制度そのものを理解することなくして、金谷宿の誕生の意義を正しく捉えることはできない。
第一章:江戸を起点とする情報・物流網
人馬を利用して公用の通信や物資をリレー形式で運ぶ伝馬制度の原型は、古くは奈良時代の駅制にまで遡ることができる。戦国時代にも、各大名が自らの領国内で同様の制度を運用していたが、家康の功績は、これを全国規模で統一的に再編し、幕府の厳格な管理下に置くことで、中央集権的な支配の道具へと昇華させた点にある 3 。
慶長6年(1601年)に公布された制度の骨子は、極めて合理的であった。まず、江戸の日本橋を起点として全国に延びる主要幹線道、すなわち東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中の五街道を定め、その道筋に一定の間隔で「宿場」を公式に設置する 18 。そして、指定された各宿場に対し、幕府の公用書状や荷物を次の宿場まで滞りなく継ぎ送るための人足と「伝馬」と呼ばれる公用馬を、常に一定数用意しておくことを義務付けたのである 1 。
この義務は、宿場にとって大きな経済的負担であったことは想像に難くない。幕府の役人や、将軍が発行した朱印状を持つ者は、これらの人馬を無料で利用できたからである 1 。しかし、幕府は負担に対する見返りも用意していた。宿場には地租などの免税特権が与えられたのである 18 。さらに重要なことは、公用交通の拠点となることで、宿場には自然と人や物が集まるようになった。大名行列をはじめとする武士や、商人、巡礼者といった一般の旅行者が往来するようになり、彼らを相手にした旅籠(旅館)や茶屋、商店が軒を連ね、宿場町として大いに繁栄することができた 18 。かくして、宿場は幕府への奉仕と引き換えに、経済的な繁栄を享受するという共存関係が築かれたのである。
第二章:最優先された東海道
家康は、この全国的なインフラ整備において、明確な優先順位をつけていた。慶長6年(1601年)にまず着手されたのは東海道であり、中山道の整備はそれに続いた 2 。この選択は、当時の政治・軍事状況を色濃く反映している。
江戸と京都・大坂を結ぶ東海道は、単なる交通路ではなかった。それは、徳川政権の正統性を担保する朝廷のある京都、そして依然として豊臣家が強大な影響力を保持する大坂城を、江戸の直接的な監視下に置くための生命線であった 5 。関ヶ原の戦いは終わったが、豊臣秀頼は大坂城に健在であり、多くの西国大名も豊臣家への恩顧を忘れてはいなかった。いつ再び天下が動乱に帰すとも限らない緊張感の中で、江戸から発せられる命令や情報が、迅速かつ確実に西国へ伝達される体制を確立することは、家康にとって焦眉の急であった。
この制度において、伝馬を動かす権限は「伝馬朱印状」によって厳格に管理された 1 。将軍の発行した朱印状を持つ者だけが、この公的輸送システムを無料で利用できる。これは、幕府の権威を全国津々浦々にまで示すと同時に、誰が重要な情報を運び、誰がそうでないかという、情報伝達のヒエラルキーを明確化する効果も持っていた。
このようにして構築された宿駅伝馬制度は、江戸を中枢とする国家の神経網そのものであった 18 。それは、物理的な道という「ハードウェア」の上に、全国統一規格の運用ルールという「ソフトウェア」を実装する試みであったと言える。前時代の「天正の瀬替え」が金谷の地に物理的な基盤(ハード)を用意したとすれば、慶長6年の伝馬制度令は、その上で徳川の支配を機能させるための運用システム(ソフト)を導入するものであった。金谷宿の整備とは、まさにこのハードとソフトが結合し、一つの宿駅として生命を吹き込まれる歴史的な瞬間だったのである。
第三部:金谷宿の誕生 ―1601年、大井川西岸のリアルタイム―
慶長6年(1601年)正月、江戸城から発せられた伝馬制度令は、東海道を駆け巡り、遠江国大井川西岸の小さな村にも届いた。この一通の法令が、いかにして金谷を東海道五十三次の一翼を担う宿場町へと変貌させていったのか。その過程を、時系列を意識しながら再現する。
第一章:宿駅指定の瞬間
1601年以前の金谷は、歴史の表舞台に立つ存在ではなかった。室町時代にはすでに宿としての機能を持っていたとされるが、それは小規模なものであり、当時はむしろ西に位置する菊川の宿の方が栄えていたという 6 。戦国時代には、諏訪原城を巡る徳川・武田の争奪戦の舞台となるなど、軍事的な緊張に晒される一地域に過ぎなかった 7 。
しかし、慶長6年の法令は、その運命を一変させた。金谷は、江戸・品川宿から数えて二十四番目、遠江国に属する九つの宿駅の最東端に位置する公式な宿場として、国家プロジェクトの中に明確に位置づけられたのである 6 。これは、一地方の小さな集落が、徳川幕府が構築する全国交通網の重要な結節点へと、いわば国家の命令によって格上げされた瞬間であった。
金谷がこの重要な役割に選ばれたのには、明確な地理的理由があった。東には、馬子唄に「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ」と唄われた東海道最大の難所・大井川が横たわる。そして西には、鬱蒼とした森に覆われた険しい小夜の中山峠が控えていた 20 。東へ向かう旅人は大井川越えに、西へ向かう旅人は峠越えに備え、ここで旅装を整え、心身を休める必要があった。金谷は、二つの難所に挟まれた、必然的な休憩・準備地点だったのである。
第二章:町の設計と役割分担―二元構造の宿場―
宿駅としての指定を受け、金谷の町は新たな都市計画のもとに再編されていった。その最大の特徴は、町が「金谷本町」と「金谷河原町」という二つの区画に明確に分けられ、それぞれが異なる役割を担うという、他に類を見ない二元的な構造にあった 6 。
この二つの町には、以下のような明確な役割分担が定められた。
- 金谷本町 : 街道沿いの中心部に位置し、他の多くの宿場と同様、幕府の公用荷物を次の宿場まで継ぎ送るという、伝馬制度の根幹をなす「伝馬役」を担った。ここには本陣や脇本陣、主要な旅籠が置かれ、宿場の中心機能を果たした 6 。
- 金谷河原町 : 大井川の河岸に位置し、東海道最大の難所である大井川の渡河業務、すなわち「川越し」を専門に取り仕切る「川越役」を担った。川会所や川越人足の待機所である番宿などがここに集中し、川越業務の一大拠点となった 6 。
この特殊な二元構造は、幕府が全国一律に課した伝馬制度という「国家の論理」と、大井川という巨大な自然の障壁を人力に頼らざるを得ないという「地域の特殊事情」とが、金谷の地で融合した結果、必然的に生まれたものであった。伝馬役は全国標準の公務であり、川越役はこの土地固有の特殊業務である。幕府の計画図には、単に「金谷に宿駅を置く」と記されていただけかもしれない。しかし、現場では、この二つの異なる機能を効率的に運営するため、空間的な分業という、きわめて合理的で有機的な都市構造が自律的に形成されていったのである。これは、トップダウンの計画と、現場の知恵によるボトムアップの適応が相互に作用し合う「創発的」な都市形成の好例と言えよう。
第三章:宿場のインフラ構築
宿駅としての指定と同時に、具体的なインフラ整備が急ピッチで進められた。制度制定当初、金谷宿には、幕府の命令通り、公用の人足と36疋の馬を用意することが義務付けられた 7 。これは伝馬制度における標準的な規模であり、金谷が他の宿場と同格の公的責任を負ったことを示している。
次に、公用の旅行者、特に大名や公家、幕府の役人などが宿泊・休憩するための施設が整えられた。大名などが宿泊する公式の宿舎である本陣が3軒、それに準ずる脇本陣が1軒設置された記録が残っている 6 。これらはおそらく、村の有力者の邸宅などが指定され、幕府の威光を示すにふさわしい施設へと改築されたものと考えられる。
さらに、金谷の地理的条件が、一般旅行者向けの宿泊施設の集積を促した。西の小夜の中山峠越えに備える旅人、そして何より、大井川の増水による「川留め」で足止めを食らった旅人たちの膨大な宿泊需要に応えるため、宿場の規模に比して非常に多くの旅籠が軒を連ねることになった。最盛期にはその数が51軒にも達したという 6 。
興味深いのは、宿場の防御設計である。通常、宿場の出入り口には、敵の侵入速度を削ぐために道をクランク状に曲げた「桝形」が設けられるのが通例であった。しかし、金谷宿にはこの桝形が存在しなかった。その代わりに、宿場の東の入り口、大井川の岸から続く松並木の先に架けられた「八軒屋橋」という板橋が、実質的な防御線の役割を担っていたとされる 6 。これは、北に牧之原台地が迫り、南に大井川が流れるという狭隘な地形を最大限に活用し、橋をボトルネックとすることで防御効果を高めるという、合理的かつ地形に適応した設計思想の現れであったと考えられる。
第四部:「越すに越されぬ」大井川 ―慶長年間の川越と金谷宿の使命―
金谷宿の性格、そしてその繁栄と苦悩を決定づけた最大の要因は、東に横たわる大井川の存在であった。慶長6年(1601年)の宿駅整備は、金谷に「川越し」という特殊かつ重大な使命を課すことになった。制度がまだ確立されていない慶長年間、人々はどのようにしてこの暴れ川と向き合っていたのか。そのリアルタイムな状況を考察する。
第一章:制度化以前の川越し―黎明期の混沌―
徳川幕府は、江戸の西の守りを固めるという軍事戦略上の理由から、大井川への架橋や、渡し船の運航を厳しく禁じた 23 。この絶対的な国策により、東海道を往来する旅人は、身分や富の多寡にかかわらず、自らの足、あるいは川越人足の助けを借りて川を歩いて渡る「徒渡し(かちわたし)」を強いられることになった 25 。
今日知られるような、川の深さに応じた詳細な料金体系や、川越業務を専門に管理する川庄屋・年行事といった役職が任命され、厳格な「川越制度」が確立されるのは、時代が下った元禄9年(1696年)のことである 23 。
したがって、金谷宿が整備された慶長6年(1601年)の時点では、そのような洗練された制度はまだ存在しなかった。この時期の川越しの管理・統制は、幕府の直轄地を治める島田代官や、宿場の役人たちが直接行っていたと推測される 23 。これは、専門組織がまだ分化しておらず、行政官が現場業務を直接監督する、いわば制度の「揺籃期」であった。渡河の料金や人足の手配も、定められた規則よりは、その時々の慣習や当事者間の交渉に頼る部分が大きかった可能性が高い。現場は、日々変化する川の状況と、絶え間なく訪れる旅人への対応に追われる、ある種の秩序ある混沌の中にあったであろう。
第二章:川越しの作法と経済
黎明期とはいえ、大井川を渡るための基本的な方法は、後の時代と大きく変わるものではなかったと考えられる。旅人の身分や経済力、そして何よりその日の川の水位に応じて、様々な渡河方法が用いられていた。
最も一般的で安価な方法は「肩車(かたくま)」であった。旅人が屈強な川越人足の肩に馬乗りになり、川を渡るのである 28 。川の水位が高くなると、「連台(れんだい)」と呼ばれる、梯子や神輿に似た乗り物が用いられた。これは複数の人足で担がれるため料金は高額となり、その意匠や担ぎ手の人数によって階級が分かれ、大名が用いる豪華なものまで存在した 23 。
また、身分による特権も存在した。武士以上の身分の者には、馬に乗ったまま川越人足が馬の口を取って川を渡る「馬越し」が許されていた 28 。一方で、社会的な弱者への配慮もあった。巡礼者や旅費を持たない無銭の者などは、例外的に無賃で渡ることが認められており、その際は二人のベテラン人足が持つ一本の丸太につかまって渡る「棒渡し」という方法が用いられた 28 。
これらの渡河サービスに対する料金は、後の制度では「川札」(人足一人を雇うための切符)と「台札」(連台を使用するための切符)によって支払われた 24 。料金は毎朝計測される川の水位によって変動する仕組みであったが、慶長年間にはまだ体系化されておらず、島田代官の裁量によるところが大きかったとみられる。以下の表は、後の時代の記録から、慶長年間における渡河方法を類推したものである。
渡河方法 |
概要・特徴 |
担ぎ手(川越人足)の人数(推定) |
料金(後の制度からの類推) |
主な利用者層 |
備考 |
肩車(かたくま) |
人足の肩にまたがり渡る最も基本的な方法。 |
1名(常水以上は補助者1名追加) |
川札1枚~2枚 |
庶民、下級武士 |
慶長年間から最も一般的な渡河方法であったと推測される 28 。 |
平連台(1人乗り) |
梯子状の簡素な乗り物。庶民が利用できる最も安価な連台。 |
4名 |
川札4枚+台札1枚(計 川札6枚分) |
裕福な庶民、商人 |
団体旅行や荷物が多い場合に利用されたか 28 。 |
平連台(2人乗り) |
1人乗りより大型の平連台。 |
6名 |
川札6枚+台札1枚(計 川札8枚分) |
裕福な庶民、商人 |
料金は割安になるが、より多くの人足を必要とした 28 。 |
馬越し |
馬に乗ったまま人足が馬を引いて渡る。 |
1名以上 |
不明(別途規定があったか) |
武士以上の身分 |
身分の象徴であり、実用性と共に権威を示す意味合いがあった 28 。 |
棒渡し |
丸太の両端を人足が持ち、それに旅人がつかまって渡る。 |
2名 |
無料 |
巡礼者、無銭者、非人など |
幕府の慈恵的措置と、社会の安全弁としての役割を担っていた 28 。 |
第三章:「川留め」という宿命
金谷宿の経済と人々の生活を根底から規定していたのが、「川留め」という宿命的な現象であった。大井川は南アルプスを源流とする日本有数の急流河川であり、ひとたび上流で大雨が降ると、瞬く間に濁流と化し、渡河が不可能になる。水深が一定の基準(後の制度では四尺五寸、約136cm)を超えると、安全のため川越しは全面的に禁止された 25 。
この「川留め」は頻繁に発生し、年間で合計50日前後に及ぶこともあったという 25 。数日で解除されることもあれば、長雨が続けば半月以上も足止めされることもあった 25 。東海道という日本の大動脈が、自然の力によっていとも簡単に遮断されてしまうのである。
この川留めは、旅人にとっては旅程を狂わせ、余分な滞在費を強いる大きな災難であった。しかし、その一方で、大井川の両岸に位置する金谷宿と島田宿にとっては、逆説的な繁栄をもたらす「天の恵み」でもあった。足止めされた膨大な数の旅人たち――大名行列から商人、庶民に至るまで――が、両宿の旅籠に滞在し、食事をとり、金銭を消費する。これにより、両宿には莫大な経済的利益がもたらされた 6 。「越すに越されぬ大井川」の難所ぶりが、川越宿場町を潤すという特殊な経済構造が、ここに生まれていた。
この大井川の川越し経済圏は、単なる自然現象の結果ではない。それは、幕府が「架橋しない」という政治的・軍事的決定を貫いたことによって、「人為的に」創出され、維持された経済圏であった。もし橋が架かっていれば、数百人規模の川越人足という大規模な雇用も、川留めによる滞在型消費も存在しなかったであろう。つまり、金谷宿の経済の根幹は、徳川幕府の戦国時代から引き継がれた防衛思想に深く依存していたのである。これは、戦国の論理が、泰平の世における特殊な経済システムを生み出す触媒となった、歴史のダイナミズムを示す興味深い事例と言える。金谷宿は、徳川幕府の軍事思想と経済政策が交錯する、一種の壮大な「政策実験場」としての側面をも担っていたのである。
終章:戦国の終焉、泰平の起点として
慶長6年(1601年)の金谷宿整備は、単なる一宿場の設置という事象にとどまらない、深い歴史的意義を内包している。それは、関ヶ原の勝利によって軍事的覇権を握った徳川家康が、その権力を恒久的な支配体制へと転換させるために描いた、壮大なグランドデザインにおける、具体的かつ象徴的な一歩であった。
家康は、戦国武将として遠江の地で繰り広げた熾烈な攻防の経験から、この土地の地政学的重要性、とりわけ大井川が持つ防衛線としての価値を熟知していた。その記憶は、泰平の世においても大井川への架橋を禁じるという、戦国的な防衛思想を近世にまで持ち込ませる決断へと繋がった。しかし、家康の非凡さは、その政策がもたらす不便を、単なる交通の障害として放置しなかった点にある。彼は、その不便を逆手に取り、「川越制度」という新たな経済・社会システムへと転換させることで、戦国の経験を破壊するのではなく、泰平の世の礎として巧みに昇華させたのである。
この国家的な事業によって、金谷は大きくその役割を変えた。かつては徳川・武田がしのぎを削る軍事的な要衝であったこの地は、1601年を境に、人・物・情報が絶えず交差し、川留めという特殊な状況が新たな文化や経済を生み出す「結節点」へと変貌を遂げた。金谷宿の整備とは、まさにこの劇的な変貌の起点であった。
一つの宿場の誕生というミクロな視点から歴史を深く掘り下げることで、戦国という「武」の時代が終焉を迎え、徳川による「治」の時代がどのように始まったのか、その移行期のダイナミズムが鮮明に浮かび上がってくる。金谷宿の整備は、江戸を中心とする中央集権体制の確立、情報と物流の国家管理、そして戦国時代の遺産の近世的システムへの再編という、徳川の天下泰平を支える幾つもの要素が凝縮された一断面であった。それは、日本のその後の二百五十年にわたる平和の、ささやかだが、しかし確かな礎石の一つであったと結論付けられる。
引用文献
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- 旧東海道を歩く(藤枝~金谷)その7:川越遺跡・川会所~あさがほ堂 | JINさんの陽蜂農遠日記 https://plaza.rakuten.co.jp/hitoshisan/diary/201905120000/
- 島田宿 http://home.q08.itscom.net/you99/simada.htm
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