最終更新日 2025-10-03

駿府銀座再編(1607)

徳川家康が駿府に設けた駿府銀座は、貨幣経済を統一し、大御所政治を財政面で支えた。短命ながら江戸銀座の礎となり、日本の貨幣制度に貢献した。
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駿府銀座の設立と展開(1606-1612)―徳川家康の天下統一と貨幣経済の再編―

序章:問いの再定義―「駿府銀座再編」から「駿府銀座の設立と展開」へ

本報告書は、徳川家康による天下統一事業の一環として行われた貨幣制度改革の中で、駿河国駿府(現在の静岡市)に設置された銀貨鋳造所、すなわち「駿府銀座」の歴史的意義を詳細に解明するものである。当初提示された「駿府銀座再編(1607)」というテーマは、慶長12年(1607年)に徳川家康が駿府城へ正式に入城し、大御所政治を本格化させたことに伴い、銀座の機能が強化された重要な年次を指し示すものと理解される 1 。しかし、史料を精査すると、この事象は単一の「再編」という出来事として切り取るよりも、慶長11年(1606年)の設立から慶長17年(1612年)の江戸への移転に至るまでの一連の動的なプロセスとして捉えることが、その本質をより正確に理解する上で不可欠である。したがって、本報告書では分析の射程を広げ、「駿府銀座の設立と展開」という視座から、その歴史的役割を多角的に論じる。

駿府銀座の存在は、戦国時代以来続いてきた貨幣経済の混乱に終止符を打ち、徳川幕府による全国規模での貨幣制度統一を成し遂げる過程における、過渡的かつ極めて戦略的な一手であった 3 。それは、豊臣秀吉が試みた通貨統一政策を継承し、さらに発展させるものであり 5 、二百六十余年にわたる江戸幕府の財政基盤を盤石にするための重要な布石であったと位置づけられる。

本報告書は、以下の三部構成で論を進める。第一部では、駿府銀座設立に至るまでの前史として、戦国時代の貨幣事情から徳川家康による慶長金銀の創出までを概観する。第二部では、本報告書の中核として、慶長6年(1601年)の伏見銀座開設から慶長17年(1612年)の駿府銀座の江戸移転までを、可能な限り時系列に沿って詳述する。第三部では、駿府銀座の組織構造や鋳造技術、そしてそこで生み出された銀貨の流通といった側面から、多角的な分析を加える。以上の分析を通じて、駿府銀座が徳川政権の確立期において果たした短くも重要な役割を明らかにする。

第一部:前史―統一通貨への道程

第一章:戦国乱世の貨幣事情

渡来銭の時代とその限界

室町時代から戦国時代にかけて、日本列島には統一された公的貨幣が存在せず、経済活動は主に中国大陸から輸入された銅銭によって支えられていた 3 。特に、明代に鋳造された「永楽通宝」は、品位が高く品質が安定していたため、広範囲にわたって基軸通貨としての地位を確立した 3 。しかし、これらの渡来銭は海外からの供給に依存するため、国際情勢の変化によって流入量が左右されるという構造的な脆弱性を抱えていた。さらに、戦国の混乱期には、利益を求めて私的に鋳造された品質の劣る「鐚銭(びたせん)」が大量に出回り、貨幣価値の混乱を招いた。良質な銭を退蔵し、悪質な銭を使用する「悪貨は良貨を駆逐する」現象が各地で発生し、円滑な経済活動の深刻な阻害要因となっていた。

戦国大名の領国貨幣

このような状況下で、各地の戦国大名は自らの領国経済を安定させ、富国強兵を推進するために、独自の貨幣政策を展開した。その代表例が、甲斐の武田信玄である。信玄は領内の豊富な甲斐金山を背景に、「甲州金」と呼ばれる金貨を発行した 7 。甲州金は「両・分・朱」という四進法の単位を持つ計数貨幣であり、額面によって価値が保証されるという点で画期的な試みであった。しかし、これらの領国貨幣は、あくまで各大名の支配領域内での通用を前提としたものであり、国境を越えた全国的な通貨統一には至らなかった。戦国時代の貨幣経済の混乱は、単なる経済問題にとどまらず、天下統一を目指す者にとって克服すべき重大な政治課題であった。物流の円滑化、兵糧の全国規模での調達、あるいは論功行賞の基準統一など、あらゆる軍事・政治活動の効率化のためには、誰もが信用できる統一通貨の確立が不可欠だったのである。

織田信長・豊臣秀吉の布石

天下統一事業の過程で、この課題に本格的に取り組んだのが織田信長と豊臣秀吉である。信長は、永禄12年(1569年)に発した法令などで、高額取引における決済手段として金銀を公的に認めた 3 。これは、それまで主に贈答品や退蔵の対象であった金銀に、実用的な「貨幣」としての地位を与え、市場での流通を促進する画期的な政策転換であった。

信長の後を継いだ秀吉は、佐渡金山や石見銀山など全国の主要鉱山を政権の直轄下に置き、その莫大な産出量を背景に、通貨の品位と形式の統一を推し進めた 5 。世界最大級の金貨として知られる「天正長大判」の鋳造はその象徴である。ただし、これらの大判は依然として恩賞や贈答用としての性格が強く、庶民が日常的に使用する通貨として広く普及するには至らなかった 5 。しかし、全国の富の源泉を中央政権が掌握し、統一規格の貨幣を鋳造するという秀吉の政策は、徳川家康による本格的な貨幣改革の重要な土台を築いたと評価できる 6

第二章:徳川家康の経済構想と慶長金銀の誕生

財源の掌握:金銀山の直轄化

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利し、事実上の天下人となった徳川家康は、武力による支配体制の構築と並行して、経済基盤の確立を驚くべき速さで進めた。その第一歩が、貨幣の原料となる金銀の供給源を完全に掌握することであった。家康は、佐渡金山や石見銀山といった日本を代表する鉱山を次々と幕府の直轄地(天領)とし、豊臣政権の遺産を確実なものとした 8

さらに家康は、鉱山経営に卓越した手腕を持つ大久保長安を代官として現地に派遣した 8 。長安は、鉱脈の探査や採掘技術の改良のみならず、鉱山への幹線道路や産出した金銀を輸送するための港湾の整備、さらには職人や商人が集住する計画的な町づくりを一体的に推進し、金銀の産出量を飛躍的に増大させた 8 。これにより、家康は安定した貨幣鋳造を可能にする潤沢な原料を確保することに成功したのである。

慶長6年(1601年):全国統一通貨の始動

盤石な財源を確保した家康は、江戸に幕府を開く慶長8年(1603年)よりも2年早い、慶長6年(1601年)に、全国統一通貨「慶長金銀」の鋳造を開始した 4 。この迅速な対応は、家康が武力平定後の国家統治において、経済の安定と掌握がいかに重要であるかを深く認識していたことを示している。

慶長金銀は、金貨と銀貨の二本立てで構成された。金貨である「慶長小判」および「慶長一分判」は、1枚を1両、1/4両と数える計数貨幣として、主に関東を中心とする東日本で流通した 4 。一方、銀貨である「慶長丁銀」および「慶長豆板銀」は、重さを量って価値を決める秤量貨幣として、商都大坂を中心とする西日本で広く使用された 4 。これは、東西で異なる商慣習を無視して画一的な制度を押し付けるのではなく、既存の経済実態を巧みに取り込んだ、現実的かつ巧みな制度設計であった。

貨幣鋳造機関の創設:「金座」と「銀座」

家康は、貨幣の鋳造を幕府の独占事業とし、その品質と信用を国家の権威によって保証するため、専門の鋳造機関を設立した。金貨を扱うのが「金座」、銀貨を扱うのが「銀座」である 6 。これらの機関は、現代の中央銀行と造幣局を兼ね備えたような役割を担っていた 6

家康は、これらの重要機関の責任者に、当代随一の技術者を抜擢した。金座の統括者には、徳川家が江戸入府以来用いてきた金細工師の名門、後藤家の後藤庄三郎を任命した 12 。そして銀座の責任者には、当時、銀の精錬・加工技術で名高かった堺の銀吹職人、湯浅作兵衛を登用した 12

大黒常是の誕生

特に湯浅作兵衛に対する家康の期待は大きかった。家康は慶長3年(1598年)の段階で既に作兵衛を召し出し、銀貨鋳造の責任者としての地位を約束していた 14 。そして、慶長金銀の鋳造開始にあたり、家康は作兵衛に「大黒」という縁起の良い姓と、「常是」という名を与えた 13 。これは単なる名誉ではなく、幕府が発行する銀貨の品質と権威を、大黒常是という個人の名声と一体化させるという高度な政治的演出であった。以後、大黒常是家は代々にわたって銀座の技術部門の長として銀貨鋳造を世襲し、その名は幕府銀貨の信用の証となった 13

家康の貨幣政策は、単に経済を合理化するだけのものではなかった。それは、鉱山の直轄化という「実利」(富の源泉の独占)と、大黒常是への改姓や貨幣への極印といった「権威」(徳川の支配の象徴)を巧みに結合させることで、新たな貨幣への絶対的な信頼を社会に浸透させ、経済を通じて全国支配を盤石にするという、極めて高度な国家戦略だったのである。

第二部:駿府銀座の胎動から終焉まで―リアルタイム・クロニクル

徳川家康による貨幣制度改革は、全国に複数の銀座を戦略的に配置し、段階的にその機能を再編していくという形で進められた。駿府銀座は、この壮大な計画の中で、ある特定の時期に特定の目的を持って設立され、そしてその役目を終えるとともに江戸へと集約されていった。以下に、その詳細な時系列を追う。

表1:慶長期における銀座ネットワークの変遷

所在地

設立年

移転・廃止年

主な目的・役割

関連人物

伏見

慶長6年 (1601)

慶長13年 (1608) 京都へ移転

全国初の幕府銀座。西国への権威誇示。

大黒常是(初代)

駿府

慶長11年 (1606)

慶長17年 (1612) 江戸へ移転

大御所家康の蓄財、駿府城の財源確保。

大黒常春

京都

慶長13年 (1608)

幕末まで存続

伏見銀座の機能継承。西国経済圏の拠点。

大黒常好

大坂

慶長13年 (1608)頃

不明

銀貨鋳造機能を持たない出張所的機能か。

-

江戸

慶長17年 (1612)

幕末まで存続

駿府銀座の機能継承。幕府貨幣鋳造の中枢。

大黒常是(2代)

出典: 13 に基づき作成

第三章:銀座ネットワークの形成(1601年~1605年)

慶長6年(1601年):伏見銀座の開設

関ヶ原の戦いからわずか1年後、家康が幕府公式の銀貨鋳造所として最初に銀座を設置した場所は、江戸ではなく京都の伏見であった 17 。伏見は豊臣秀吉が築いた伏見城の城下町であり、秀吉の死後も依然として日本の政治・経済における中心地の一つであった 20

この立地選定には、家康の周到な政治的計算があった。豊臣恩顧の大名が多く残る西国や、京・大坂の巨大な商人たちに対し、貨幣鋳造権という経済の根幹を徳川が完全に掌握したことを明確に宣言する、強力なデモンストレーションだったのである。この日本初の幕府銀座において、初代大黒常是が銀吹役(技術責任者)として着任し、全国統一通貨である慶長丁銀の鋳造が開始された 13

第四章:駿府銀座の設立と大御所政治(1606年~1607年)

慶長10年(1605年):家康、将軍職を秀忠に譲る

慶長10年(1605年)、家康は征夷大将軍の職を息子の秀忠に譲り、自らは大御所として一線を退く姿勢を見せた 2 。これは、徳川家による将軍職の世襲を天下に示すための早期の権力移譲であったが、実権は依然として家康が握り続けるという「大御所政治」の始まりでもあった。この特殊な二元政治体制への移行が、駿府銀座設立の直接的な引き金となる。

慶長11年(1606年):駿府銀座の設立

家康は、自らの隠居地として駿府城の大改築を進め、それに伴い、慶長11年(1606年)に駿府の城下町に新たな銀座を設立した 13 。これは、伏見にあった銀座を駿府に移転、あるいはその機能を分割・移管したものであった 2 。この駿府銀座の主管者には、初代大黒常是の次男である大黒常春が任命された 13

駿府の都市計画(町割り)において、銀座役所が置かれた区画とその周辺には、銀の売買や鑑定を行う両替商が集積した。このことから、この一帯は「両替町」と名付けられ、その名は現在も静岡市葵区の地名として残っている 1 。銀座役所の正確な場所は、現在の両替町一丁目から二丁目のあたりであったと伝えられている 19

慶長12年(1607年):大御所政治の本格化と駿府銀座の機能強化

慶長12年(1607年)、家康は江戸城から駿府城へ正式に移り住み、ここを拠点とする「大御所政治」を本格的に始動させた 2 。これにより、駿府は将軍のいる江戸と並ぶ、もう一つの政治・経済の中心地となった。それはまさに「徳川幕府のシンクタンクであり、ドウタンク(金庫)」と評されるほどの重要拠点であった 29

この大御所政治体制下で、駿府銀座の役割は一層重要性を増す。史料によれば、その主たる目的は、幕府の公式財政とは別に、大御所家康個人の財産として駿府城の御金蔵に納めるための分銅銀や丁銀を鋳造することであったとされる 1 。これは、家康が外交交渉や大規模なインフラ整備、あるいは自身の側近集団の維持など、江戸の幕閣の承認を経ずに迅速かつ自由裁量で動かせる莫大な資金を手元に確保しようとしたことを示唆している。この観点から見れば、駿府銀座は単なる幕府の地方造幣局ではなく、江戸の幕府本体とは別系統で機能する「大御所家康直轄の財源確保・資金運用機関」、すなわちプライベートバンクとしての性格を色濃く帯びていたと分析できる。

第五章:複数銀座体制の展開と駿府の役割(1608年~1611年)

慶長13年(1608年):伏見銀座、京都へ移転

家康が駿府に腰を据えた翌年の慶長13年(1608年)、政治的役割を終えた伏見銀座は、より商業活動の中心地に近い京都の両替町通へと移転し、「京都銀座」として再出発した 13 。これにより、銀遣いが主流である西日本経済圏における銀貨の鋳造・供給拠点としての機能が強化された 19 。また、ほぼ同時期に大坂にも銀座が設置された記録があるが、これは鋳造機能を持たない出張所のような役割であったと考えられている 18 。この時点で、幕府の銀座は駿府と京都の二大鋳造拠点を中心とするネットワーク体制へと移行した。

慶長16年(1611年):京都・駿府間の連携体制

駿府銀座の運営が軌道に乗ると、その組織体制に新たな動きが見られる。慶長16年(1611年)から、拠点である京都銀座の座人(事務方の役人)および常是役人(技術者の役人)が、駿府銀座へ一年交代で勤務する「勤番交代制」が始まった 19

この事実は、駿府銀座が完全に独立した組織ではなく、いわば京都銀座の「出見世(でみせ)」、すなわち支店として機能していたことを明確に物語っている。最新の鋳造技術や運営ノウハウ、そして熟練した人材は、本拠地である京都から定期的に供給される体制が構築されていたのである。これにより、駿府で鋳造される銀貨も、京都で鋳造されるものと全く同等の品質と信用が保証されることになった。

第六章:江戸への集約―駿府銀座の終焉(1612年)

慶長17年(1612年):駿府銀座、江戸へ移転

設立からわずか6年後の慶長17年(1612年)、駿府銀座の機能は江戸へと移転されることになった 13 。移転先は、江戸城に近い京橋地区の一角であった 24 。当時、江戸には既に金座が置かれた日本橋の「本両替町」が存在したため、新たに銀座が移ってきたこの地は「新両替町」と命名された 30 。しかし、人々は通称として「銀座」と呼び始め、やがてそれが正式な地名として定着した 31 。これが、今日の世界的商業地である東京・銀座の直接のルーツである 26

移転の理由と背景

駿府銀座の移転は、いくつかの複合的な理由によって決定された。

第一に、政治的理由として、徳川政権の重心を名実ともに江戸へ一元化するという国家方針があった。家康が健在なうちに、大御所政治という過渡的な二元体制から、江戸の将軍を中心とする恒久的な中央集権体制への移行を円滑に進めるための布石であった。

第二に、この動きは同時代の他の政策とも連動していた。奇しくも同じ慶長17年(1612年)、幕府は直轄領に対してキリスト教を禁止する禁教令を発布している 35。これは、幕府が全国への統制を一段と強化し始めた時期と一致しており、貨幣鋳造という国家の根幹をなす機能の首都集約も、この中央集権化の流れの中で理解することができる。

第三に、経済的理由として、江戸が全国の物資が集まる一大消費地・流通拠点として急速な発展を遂げていたことが挙げられる。貨幣鋳造の中枢機能を、発展しつつある首都に集約することは、経済合理性の観点からも必然的な判断であった。

駿府銀座がわずか6年でその役目を終えたことは、政策の失敗を意味するものではない。むしろ、それは当初から計画されていたものであった可能性が高い。駿府銀座は、大御所政治という家康一代限りの特殊な統治形態を財政的に支えるための「時限的な装置」であり、その歴史的使命を終えた後、徳川幕府の恒久的な首都である江戸の機能強化のために、計画通りに移管されたのである。家康自身が、自らの影響力が及ぶうちに、政権の円滑な移行を見据えて重要機関の江戸への移管を主導したと考えるのが自然であろう。

第三部:駿府銀座の多角的分析

第七章:組織と技術

銀座の内部構造:二重構造

江戸時代の銀座は、一枚岩の組織ではなかった。その内部は、大きく分けて二つの部門によって構成される二重構造となっていた。一つは、銀地金の調達、帳簿管理、完成した銀貨の幕府への上納といった事務・管理業務全般を担当する「銀座役所」である 19 。ここで働く役人たちは「座人(ざにん)」と呼ばれた 19

もう一つが、実際の鋳造作業を行う技術・製造部門である「常是吹所(じょうぜふきしょ)」であった 19 。この部門を率いたのが、世襲の技術長官である大黒常是である。常是とその配下の職人たちは、座人とは一線を画す存在であり、銀貨鋳造の機密技術を独占する特権的な専門家集団であった 16 。この事務方の「座人」と技術方の「常是」という役割分担と、両者の間に存在する身分的な区別が、銀座という組織の安定的かつ効率的な運営を支える根幹となっていた。

駿府銀座の職人たち

駿府銀座の運営は、前述の通り、慶長16年(1611年)からは京都銀座からの勤番交代制が採られていた 19 。このことから、駿府に常駐する最高位の職人は限られており、鋳造の最盛期には、京都から派遣された熟練工が現場監督や若手への技術指導を行っていたと推察される。彼ら専門職人集団は、銀座役所が置かれた両替町周辺に居住区を与えられ、一種の職人町を形成していたと考えられる 24 。そこでは、大工や鍛冶屋といった他の城下町の職人たちと同様に 37 、独自のコミュニティを築き、高度な専門技術を父子相伝で受け継いでいく生活が営まれていたであろう。

慶長丁銀の鋳造技術

駿府銀座で鋳造されていた慶長丁銀の製造工程は、極めて高度な技術を要するものであった。

  1. 取組み(調合) : まず、鉱山から産出され、「灰吹法」という当時最新の精錬技術で高純度にされた灰吹銀を原料とする 39 。この銀に、規定の品位である銀80%を達成するために、割り金として銅(差銅)を正確に20%の割合で混ぜ合わせる 16
  2. 鋳造 : 調合された銀合金を「留鉢(るつぼ)」と呼ばれる耐火性の坩堝に入れ、高温で完全に溶解させる。融解した銀を、職人が鉄製の柄杓で汲み上げ、熱湯を張った丁銀および豆板銀の鋳型へと素早く流し込む 19
  3. 極印打刻 : 鋳型から取り出された銀塊は、形の良否で選別される。合格したものには、大黒常是の厳格な管理の下で、幕府の権威の象徴である「大黒印」「常是印」「寳印」といった極印が表面に複数打刻される 16 。これらの極印の数や組み合わせは必ずしも一定ではなかった 44
  4. 色揚げ : 最後に、極印が打たれた銀貨を焼鈍し(焼きなまし)、梅酢に浸ける 19 。この工程により、表面にわずかに浮き出た銅が化学的に溶解され、内部から美しい銀白色が引き出される。

この一連の工程を経て、高い品位と信用を兼ね備えた慶長丁銀が完成し、銀座役所へと納められたのである。

第八章:鋳造された銀貨とその流通

駿府銀座で鋳造された慶長丁銀は、その高い品質により、国内経済のみならず、当時の国際貿易においても重要な役割を果たした。

表2:主な江戸時代の丁銀の品位比較

丁銀の名称

鋳造期間

銀品位(含有率)

慶長丁銀

1601年~1695年

銀 80%

元禄丁銀

1695年~1706年

銀 64%

宝永丁銀 (各種)

1706年~1714年

銀 50%~20%

正徳・享保丁銀

1714年~1736年

銀 80%

元文丁銀

1736年~1818年

銀 46%

文政丁銀

1820年~1837年

銀 36%

天保丁銀

1837年~1858年

銀 26.1%

安政丁銀

1859年~1865年

銀 13.5%

出典: 42 に基づき作成

慶長丁銀の規格と特徴

慶長丁銀の最大の特徴は、その品位の高さにある。銀80%、銅20%という規格は 42 、上表が示すように、後の時代に幕府の財政難から品位を下げて発行された多くの丁銀と比較して突出して高かった。この高品位こそが、慶長丁銀が国内のみならず海外でも決済通貨として信用を得た最大の要因であった。形状は不揃いのナマコ型をしており、価値は重さによって決まる秤量貨幣であったため、取引の際には天秤で正確に重量が測定された 4

駿府鋳造銀貨の流通ルート

駿府銀座で鋳造された銀貨の流通ルートは、国内と国外の二つの側面から考えることができる。

国内流通 : まず第一に、鋳造された銀貨の多くは、駿府銀座の設立目的であった大御所家康の財源として、駿府城内の御金蔵に直接蓄えられた 1 。これらの潤沢な資金は、家康が主導する全国の寺社建立や城郭普請といった公共事業の費用、あるいは諸大名への下賜金や側近への給与として支払われ、そこから全国、特に銀遣いが主流であった西日本の商業圏へと流通していったと考えられる 6

国外(対外貿易) : 慶長期の日本は、世界有数の銀産出国であり、その銀は国際経済を動かす重要な要素であった。駿府銀座で鋳造されたものを含む高品質な慶長銀は、当時唯一の国際貿易港であった長崎を通じて、大量に海外へと輸出された。特に、当時の日本にとって最大の輸入品であった中国産の高級生糸(白糸)の対価は、主にこの銀で支払われていた 48 。幕府は慶長9年(1604年)、ポルトガル商人による生糸価格の独占と吊り上げを防ぐために「糸割符制度」を導入したが 51 、その貿易決済を支える高品質な国際通貨として、慶長銀は不可欠な存在であった。駿府銀座は、この活発な国際貿易を支える決済手段の重要な供給拠点の一つだったのである。

結論:駿府銀座が歴史に残した遺産

駿府銀座は、慶長11年(1606年)の設立から慶長17年(1612年)の江戸移転まで、わずか6年間という短い期間しか存在しなかった。しかし、その歴史的役割は、存続期間の短さからは想像できないほど大きいものであった。

第一に、駿府銀座は、徳川政権が将軍秀忠(江戸)と大御所家康(駿府)による二元政治という過渡期を経て、江戸を中心とする強力な中央集権体制を確立する上で、財政的に不可欠な役割を果たした。それは、大御所家康個人の絶大な権力基盤を財政面から支え、来るべき秀忠の単独政権への円滑な権力移行を可能にするための、極めて戦略的な機関であった。

第二に、駿府銀座は、現代日本の、そして世界の商業の中心地である「銀座」の直接的な起源となった。駿府銀座の機能、人材、そして「銀座」という名称そのものが江戸に引き継がれ、今日の東京・銀座の礎を築いたのである 26 。江戸の都市計画が駿府の町割りをモデルにしたという説 26 と併せて考えると、駿府銀座は単なる地方の造幣局ではなく、徳川による壮大な国家建設プロジェクトの一翼を担う、重要なプロトタイプであったと言える。

最後に、駿府銀座は、徳川二百六十余年の平和の財政的礎を築く上で、重要な貢献を果たした。慶長期に確立された金座・銀座による全国統一的な貨幣鋳造システムは、その後、時代の要請に応じて改鋳による品位の変動を経ながらも、江戸時代を通じて幕府の財政基盤を支え続けた。駿府銀座は、その盤石なシステムが確立される黎明期において、重要な歯車の一つとして機能した。その歴史的意義は、今後さらに深く評価されるべきである。

引用文献

  1. 『 駿府九十六ヶ町町名碑めぐり 』と講演会『 駿府と渋沢栄一 』を9月29日(日)開催しました。 https://sumpuwave.com/1002%E3%80%8E-%E9%A7%BF%E5%BA%9C%E4%B9%9D%E5%8D%81%E5%85%AD%E3%83%B6%E7%94%BA%E7%94%BA%E5%90%8D%E7%A2%91%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8A-%E3%80%8F%E3%81%A8%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A%E3%80%8E-%E9%A7%BF/
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  30. 徳川家康ゆかり、静岡と中央区の共通点を探る https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=5121
  31. 銀座 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E5%BA%A7
  32. 江戸の銀座跡-ここが銀座発祥の地 - ひとりで東京歴史めぐり https://taichi-tokyo.com/edo-ginza/
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  35. 禁教令(きんきょうれい)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%A6%81%E6%95%99%E4%BB%A4-54061
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  37. ここに技あり 江戸時代の職人さん・明治以降の職人仕事 - 仙台市 https://www.city.sendai.jp/waka-katsudo/wakabayashiku/machizukuri/miryoku/shokunin.html
  38. 江戸―東京の左官組合の歴史 - 東左連 http://www.tousaren.jp/history_edo-tokyo1.html
  39. 我が国の鉛需給の変遷と世界大戦前後の 鉛需給動向 - JOGMEC金属資源情報 https://mric.jogmec.go.jp/wp-content/old_uploads/reports/resources-report/2007-11/MRv37n4-08.pdf
  40. 石見銀山の発見と採掘の始まり https://ginzan.city.oda.lg.jp/wp-content/uploads/2020/04/b10b1aa9502c20ae6af005a03b414f60.pdf
  41. 世界遺産・石見銀山の真価 岡部陽二 https://www.y-okabe.org/stone/post_75.html
  42. 丁銀の買取相場は?オススメの買取方法や高額買取のコツまとめ | バイセル公式 https://buysell-kaitori.com/column/coin-column-kosen10/
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  44. 切り取って使えた江戸時代の銀貨「丁銀」とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20982
  45. 古銭「丁銀」高価買取|創業35年大阪梅田の宝スタンプコイン https://www.takarastampcoin.com/info/post-51/
  46. 【丁銀買取】丁銀の価値と買取相場、高く売れるおすすめ業者を紹介 https://kosenkaitori.info/cho-gin/
  47. 慶長丁銀の買取価格 - 金貨買取本舗 https://www.politicalstaples.com/coin/oval/cyougin/keicyougin/
  48. 江戸時代1 3回目 幕藩体制の確立2 要点学習 [ 見本 ] 高校コース 本科 https://service.zkai.co.jp/ad/mihonK122019/QNT5F1Z1J354.pdf
  49. 鎖国 - 世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh0801-119.html
  50. 徳川家康の駿府外交体制 https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2013/10/6134a1fc8efebbd1feb80ac78b6d2aca.pdf
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  52. 糸割符(イトワップ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%B3%B8%E5%89%B2%E7%AC%A6-31768
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