最終更新日 2025-09-29

高野街道整備(1600)

慶長五年、関ヶ原の戦乱下、高野街道は西軍の軍事確保、高野山の防衛、徳川の新秩序構築という三様の「整備」を経験。この動乱が街道を軍事路から信仰・経済路へと変え、近世の礎を築いた。
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慶長五年(1600年)における高野街道整備の実態:戦国末期動乱下の軍事・政治的機能に関する考察

序論:慶長五年「高野街道整備」の謎

慶長五年(1600年)の事変として記録される「高野街道整備」は、「参詣路と物流路の整備で往来円滑化」という簡潔な説明が付されることがある。しかしこの記述は、当該年が持つ歴史的な特異性を看過している。慶長五年は、豊臣秀吉の死後、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍が激突した「関ヶ原の戦い」の年であり、日本全土が未曾有の内乱の渦中にあった。このような状況下で、平和的なインフラ整備事業が計画的に行われたとは到底考え難い。

したがって、この「整備」という言葉が、近代的な土木事業を指すものではなく、戦国末期の動乱期特有の、軍事的、政治的、そして治安維持的な諸活動の総体を指すものであるという仮説が成り立つ。本報告の目的は、単一の事業内容を詳述することではない。慶長五年という極めて限定された時間軸の中で、高野街道が、誰によって、何の目的で、そしてどのように「管理・統制・改変」されたのか。その実態を、天下分け目の戦いのリアルタイムな展開に沿って解き明かすことにある。

本報告では、まず第一章で、高野街道が持つ信仰・経済路としての側面と、軍事路としての側面を明らかにし、その歴史的背景を概観する。続く第二章では、慶長五年の政治・軍事状況を時系列で追い、高野街道が置かれた緊迫した状況を再現する。第三章では、この動乱の中で行われたであろう「整備」の実態を、西軍、高野山、そして勝利した東軍という三つの異なる主体の視点から多角的に考察する。最後に結論として、慶長五年という年が、高野街道の歴史においてどのような転換点であったのかを総括する。

第一章:高野街道の成り立ちと戦国期の変容

第一節:聖地への道 — 参詣路としてのネットワーク形成

高野街道の起源は、平安時代初期、弘法大師空海による高野山開創にまで遡る 1 。聖地・高野山への信仰が高まるにつれ、京の都や周辺の主要都市から高野山を目指す道が自然発生的に形成されていった 3 。これらの道は単一の路線ではなく、複数のルートからなる広域的なネットワークであった。

主要なものとして、京の八幡(京都府八幡市)を起点とし、河内国を南北に縦断する「東高野街道」、商都・堺から南東へ延びる「西高野街道」、そして摂津国平野郷や天王寺を起点とする「中高野街道」「下高野街道」が存在した 4 。これらの街道は、それぞれ異なる地域からの人々の流れを受け止めつつ、交通の要衝である河内国の長野(現在の河内長野市)で合流し、一本の道となって紀見峠を越え、紀伊国の橋本を経て高野山へと至るという地理的特徴を有していた 1

このネットワークは、単なる移動経路にとどまらなかった。街道沿いには、長野神社、烏帽子形八幡神社、月輪寺といった古くからの社寺が点在し、旅人や参詣者の信仰を支え、休息を提供する拠点として機能していた 7 。平安後期から鎌倉時代にかけて貴族や武士の間で高野詣が流行し、室町時代には高野聖の活動も相まって庶民にまで広がると、街道は多くの人々で賑わいを見せるようになった 2

第二節:経済と軍事の動脈 — 戦国期の機能変容

室町時代後期、特に戦国時代に突入すると、高野街道は単なる信仰の道ではなく、経済と軍事の道としての性格を急速に強めていく。当時、国際貿易港として「黄金の日々」を謳歌した自治都市・堺と、高野山およびその周辺地域を結ぶ物流ルートとして、高野街道は極めて重要な役割を担った 10 。堺の商人たちによって、米、酒、綿製品などの多様な物資がこの道を通じて活発に輸送され、街道は経済的な大動脈としての機能を果たしたのである 9

一方で、高野街道が貫く河内国は、守護の畠山氏、その家臣であった遊佐氏、そして三好長慶に代表される三好氏、さらには織田信長、豊臣秀吉と、支配者が目まぐるしく入れ替わる戦乱の中心地であった 12 。そのため、高野街道は軍勢の進軍や兵站物資の輸送に頻繁に利用され、その支配権を巡って幾度となく争奪の対象となった。

この街道の戦略的重要性を象徴するのが、河内長野に位置する烏帽子形城の存在である 8 。烏帽子形山の山頂に築かれたこの山城は、高野街道を眼下に見下ろす絶好の位置にあり、街道の通行を監視・統制するための軍事拠点として機能した。戦国大名にとって、領国内の街道を掌握することは、迅速な軍事展開と領国経営の安定に不可欠であり、街道沿いに城郭を配置するのは定石であった 13

このように、高野街道は平時においては信仰と経済を支える開放的な道でありながら、有事においては特定の勢力が支配し、軍事行動のために利用する排他的な道へと、その姿を即座に変える「二重性」を内包していた。平時は人々の往来を許容し、関銭などを通じて経済的利益をもたらすが、ひとたび戦乱となれば、城を拠点に関所を設け、敵の通行を遮断し、自軍の移動と補給を確保する戦略ルートへと転換される。慶長五年という未曾有の戦乱の年に起きた「整備」を理解する上で、この街道の二重性は極めて重要な前提となる。それは「往来円滑化」という言葉が持つ平和的な響きとは裏腹に、特定の勢力による排他的な軍事利用を目的としたものであった可能性を強く示唆している。

第二章:リアルタイム・ドキュメント 慶長五年、河内国の動乱

この章では、慶長五年(1600年)の畿内、特に高野街道が位置する河内国の状況を、月ごとの時系列で追跡する。これにより、「整備」がどのような政治・軍事状況下で起こったのかを臨場感をもって再現する。

第一節:関ヶ原前夜(1月~7月)— 大坂城下の不穏

慶長三年(1598年)の豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康は、秀吉が禁じた大名間の私的な婚姻を主導するなど、その影響力を急速に拡大させていた 15 。年が明けた慶長五年、家康は大坂城西の丸を拠点とし、事実上の政務を執り行う中で、豊臣恩顧の大名たちを巧みに自派へと引き入れていった 17

この時期、高野街道が貫く河内国は、依然として豊臣家の直轄領(蔵入地)であり、幼い豊臣秀頼が座する大坂城の膝元であった 12 。街道は表面的には平穏を保ち、参詣者や商人の往来も続いていたと考えられる。しかし、大坂城内では家康派と反家康派の対立が日に日に深刻化しており、その政治的緊張は、大坂城に出入りする諸大名や物資の往来を通じて、街道にも確実に影を落としていたと推察される。

均衡が破れたのは6月16日、家康が会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、その討伐を名目に大軍を率いて大坂城を進発したことであった 18 。この家康の東征は、大坂城に巨大な軍事的・政治的空白を生み出し、石田三成ら反家康派が蜂起する絶好の機会を与えることになった。家康の出立後、大坂城周辺、すなわち河内国では、留守を預かる豊臣恩顧の大名たちによる防衛体制の強化が急遽始まったと考えられ、高野街道をはじめとする主要街道の監視も、にわかに厳しさを増していったであろう。

第二節:西軍蜂起と畿内制圧(7月~8月)— 軍事管理下の街道

家康不在の好機を捉え、7月17日、石田三成、大谷吉継らは「内府ちがひの条々」と題した家康弾劾状を諸大名に発し、公然と兵を挙げた 19 。彼らは五大老の一人である毛利輝元を総大将として大坂城に迎え入れ、西軍を結成した 21

西軍の当面の最大目標は、畿内およびその周辺地域を完全に掌握し、東征した家康の背後を固めることであった。その手始めとして、7月19日から8月1日にかけて、家康の重臣・鳥居元忠が守る山城国の伏見城に4万の大軍を差し向け、これを陥落させた 18 。並行して、丹後田辺城や伊勢安濃津城など、畿内に点在する東軍方の大名の居城も次々と攻撃した 22

この大規模な軍事行動に伴い、大坂城には毛利氏をはじめとする西国の大名が続々と集結し、河内国は西軍の巨大な兵站基地と化した。このような状況下で、高野街道は極めて重要な軍事的役割を担うことになる。紀伊方面に領地を持つ西軍方の武将(例えば、九鬼嘉隆など 23 )の動員ルートとして、あるいは大坂城南方を防衛するための兵員展開路として、街道は完全に西軍の軍事管理下に置かれたはずである。この時期に行われたと記録される「整備」とは、まさに西軍による軍事行動を円滑化するための措置、すなわち、大軍の迅速な通行を可能にするための応急的な道普請(障害物の除去、ぬかるみの補修など)や、敵対勢力や間者の侵入を防ぐための関所の設置といった、交通統制そのものであった可能性が極めて高い。

第三節:決戦の刻(9月)— 封鎖される南への道

8月下旬から9月上旬にかけて、西軍の主力は石田三成の指揮のもと美濃国へ進出し大垣城に入城。一方、東軍も家康の江戸帰還と西上を経て、美濃赤坂に布陣し、両軍は決戦の時を待った 24

そして9月15日、美濃国関ヶ原において、東西両軍合わせて十数万の兵力が激突した 26 。戦いは当初西軍有利に進んだものの、かねてより東軍に内通していた小早川秀秋の裏切りを皮切りに、西軍は総崩れとなり、わずか半日で壊滅的な敗北を喫した 15

この間、西軍総大将の毛利輝元は、10万ともいわれる大軍と共に大坂城に留まり、戦況の報告を待っていた 21 。大坂城周辺、すなわち河内国は、決戦の報を待つ極度の緊張状態に包まれていた。高野街道は、西軍の敗残兵の逃走路となる可能性、あるいは紀伊方面に潜む親徳川勢力(後述する高野山など)からの攻撃に備えるため、厳重に封鎖されていたと考えるのが自然である。人や物資の自由な往来は完全に停止され、街道は静寂と緊張の中にあったであろう。

第四節:戦後処理(10月~12月)— 新たな支配者の「整備」

関ヶ原での劇的な勝利の後、徳川家康は戦後処理を迅速に進めた。9月27日には、大きな抵抗を受けることなく大坂城に入城し、総大将であった毛利輝元を交渉の末に城から退去させた 12 。これにより、河内国を含む畿内一帯の支配権は、事実上、豊臣氏から徳川氏へと移行した。

この支配者の交代に伴い、高野街道の管理も新たな段階に入る。この時期の「整備」とは、徳川方による新秩序構築の一環として行われた一連の措置を指すと考えられる。具体的には、まず西軍の敗残兵や、戦乱に乗じて活動を活発化させた盗賊などを掃討し、街道の治安を回復させることが急務であった。次に、新たな領主の配置が行われた。例えば、高野街道沿いの狭山には、小田原北条氏の末裔である北条氏規の子、氏盛が1万石で入封し、狭山藩が成立した 12 。これは、交通の要衝を譜代または信頼のおける大名に管理させるという、徳川政権の基本戦略の現れであった。

徳川方によるこれらの戦後処理、すなわち治安維持活動と新たな行政管理体制の構築こそが、後世から見て「参詣路と物流路の整備で往来円滑化」に繋がる、最も本質的な「整備」であったと言える。それは、戦国的な軍事利用の時代を終わらせ、近世的な平和利用の時代へと移行させるための、体制転換そのものであった。

慶長五年 高野街道関連動向時系列表

年月日(慶長五年)

畿内・全国の主要動向

河内国・高野街道周辺の推定状況

1月~5月

家康、大坂城西の丸で影響力拡大。諸大名との私的な婚姻を進める 15

豊臣家蔵入地として表面的には平穏。しかし大坂城内の政治的緊張が街道の往来にも影響を及ぼし始める。

6月16日

家康、会津征伐のため大坂城を出発 18

大坂城に軍事的空白が発生。豊臣恩顧の武将による防衛体制が強化され、街道の監視が始まる。

7月17日

三成ら、家康弾劾状を発布し西軍蜂起。毛利輝元が大坂城に入城 19

西軍諸将が大坂城へ集結開始。高野街道は兵員・物資の動員ルートとなり、軍事利用が本格化。「西軍による整備(軍事通行の確保)」が開始される。

8月1日

西軍、伏見城を落城させる 18 。畿内をほぼ制圧。

西軍による街道の完全な軍事管理体制が確立。関所等を設置し、通行を厳しく制限。

9月15日

関ヶ原の戦い。東軍が勝利 15

大坂城は西軍の最後の拠点として緊迫。高野街道は敗残兵の逃走や敵の侵入を防ぐため、厳重に封鎖される。

9月27日

家康、無血で大坂城に入城。戦後処理を開始 12

支配者が徳川方に交代。街道の管理主体が移行し、西軍残党の掃討と治安維持活動が始まる。

10月以降

論功行賞。狭山藩(北条氏、1万石)など新領主の配置 12

徳川方による交通網の再編・管理が本格化。「東軍による整備(新秩序構築)」が開始される。

第三章:「高野街道整備」の実態に関する多角的考察

第一節:軍事ロジスティクスとしての「整備」— 西軍の視点

戦国時代において、街道の整備は軍事行動と分かち難く結びついていた。織田信長が断行した道幅の拡張や、多くの戦国大名が実施した伝馬制の導入は、いずれも軍隊の迅速な移動と補給線の確保を主目的としていた 13 。慶長五年夏、大坂城を本拠地とした西軍にとって、河内国の街道網は自らの存亡を左右する生命線であった。

高野街道は、大坂城の南方を固める重要な防衛線であると同時に、紀伊方面の勢力(例えば、かつての雑賀衆の残党や、親徳川派の動き)を牽制・監視するための戦略ルートでもあった。したがって、7月から9月にかけて西軍が行ったであろう「整備」とは、平和的な公共事業とは全く異なり、純粋に軍事的なロジスティクス確保のための活動であったと結論付けられる。具体的には、大軍の迅速な移動を可能にするための道幅の確保、橋梁の応急的な補強、敵による妨害工作を防ぐための障害物の除去などが考えられる。これは確かに一種の「円滑化」ではあるが、その恩恵を受ける対象は自軍に限定された、極めて排他的なものであった。

第二節:高野山の動向と街道 — 聖地の自衛戦略

高野街道の南端に位置する聖地・高野山は、この動乱の中で独自の動きを見せていた。天正十三年(1585年)の豊臣秀吉による紀州征伐の際、高野山は焼き討ちの危機に瀕したが、客僧であった木食応其の巧みな交渉により全面的な破壊は免れた 31 。しかし、この一件で寺領を大幅に削減され、豊臣政権の強い統制下に置かれることになった 33

この経験から、高野山内部では豊臣政権に対する潜在的な反感が根強く存在した。秀吉の死後、高野山は新たな実力者である徳川家康に接近を図る。その動きは決定的であり、関ヶ原の戦いの最中、高野山行人方の代表である文殊院勢誉は、美濃大津に陣を張る家康のもとを自ら訪れ、高野山一山の支配権を認める朱印状を得ることに成功している 34 。これは、高野山が明確に東軍(徳川方)に与したことを示す動かぬ証拠である。

この事実は、慶長五年の高野街道が置かれた状況を理解する上で、決定的に重要な意味を持つ。街道の北側、河内国は西軍の本拠地・大坂城の膝元であり、西軍が完全に掌握していた。一方で、街道の南端に位置する高野山は、明確に親東軍の立場をとっていた。これは、一本の街道が二つの敵対勢力によって南北から挟撃され、事実上の「最前線」と化していたことを意味する。街道が合流する河内長野や、河内と紀伊の国境である紀見峠 2 は、両勢力が睨み合う緩衝地帯、あるいは緊張の最前線であった可能性が高い。

この文脈において、高野山側もまた、自衛のために何らかの「整備」を行っていたと推察できる。それは、西軍の侵攻に備えて紀見峠周辺の道を封鎖したり、見張りを置いたり、あるいは徳川方との連絡路を確保したりといった、純粋な防衛措置であっただろう。したがって、1600年の「高野街道整備」は、西軍による北からの軍事利用と、高野山による南からの防衛措置という、二つの異なる主体による、目的の異なる活動が同時に行われていた複合的な事象であったと捉えるべきである。

第三節:戦後処理と治安維持 — 東軍(徳川)の視点

関ヶ原の戦いに勝利した徳川方にとって、最大の課題は旧豊臣支配地を迅速に掌握し、新たな支配秩序を確立することであった。その過程において、交通網の再編と管理は最優先事項の一つであった。

戦後の「整備」の第一段階は、治安の回復である。西軍の敗残兵や、戦乱に乗じて活動する盗賊などを取り締まり、荒廃した街道の安全な通行を確保する必要があった。これは、新たな支配者としての権威を示し、民心の安定を図る上でも不可欠な措置であった。

次に、恒久的な管理体制の構築が行われた。前述の通り、街道沿いの要衝である狭山に譜代大名ではないものの、信頼のおける北条氏を配置し、狭山藩を立藩させたのはその象徴である 12 。これにより、街道の軍事的・経済的要衝は徳川の支配体制に組み込まれ、安定的な管理が可能となった。

この徳川方による一連の戦後処理、すなわち治安維持と新たな行政管理体制の構築こそが、結果として「参詣路と物流路の整備で往来円滑化」に繋がる、最も本質的な「整備」であったと言える。それは、戦国時代を通じて街道が担ってきた軍事路としての性格を過去のものとし、近世社会における平和的なインフラとしての役割を再定義する、体制転換そのものであった。西軍による軍事目的の「整備」が一時的なものであったのに対し、徳川による秩序構築のための「整備」は、その後二百数十年続く江戸時代の平和の礎を築く、恒久的な意味を持っていたのである。

結論:1600年における高野街道の歴史的意義

慶長五年(1600年)の「高野街道整備」とは、単一の計画的な土木事業を指すものではない。本報告で明らかにしたように、それは天下分け目の動乱の中で、異なる主体がそれぞれの目的のために行った、複合的な事象の総体であった。具体的には、以下の三つの異なる位相を持つ活動として理解することができる。

  1. 西軍による「交通路の軍事的確保」 : 大坂城を本拠とした西軍が、本拠地の防衛と軍事行動の円滑化のために行った、応急的かつ排他的な交通路の管理・統制。
  2. 高野山による「国境の防衛措置」 : 親徳川の立場を明確にした高野山が、西軍の侵攻に備え、自衛のために紀見峠周辺で行った防衛的な交通遮断。
  3. 東軍(徳川)による「治安維持と行政管理体制の確立」 : 関ヶ原の戦いに勝利した徳川方が、新秩序を構築する過程で実施した、治安回復と新たな支配体制へのインフラの再編。

この一連の出来事は、高野街道が長らく内包してきた「二重性」に、決定的な変化をもたらした。戦国時代を通じて、有事の際には常に優位に立ってきた「軍事の道」としての性格は、この年を境に終止符が打たれた。そして、徳川の治世下で再編・安定化された街道は、近世社会の基盤として「信仰と経済の道」としての性格を再び前面に押し出すことになった。

つまり、慶長五年は、高野街道の歴史におけるまさに「分水嶺」であった。この年の動乱を経て徳川の天下泰平の世が訪れると、高野街道は江戸時代を通じて多くの参詣者や商人たちで賑わい、三日市宿をはじめとする沿道の宿場町は繁栄を迎えることになる 4 。この平和な時代の礎が、まさに慶長五年という戦乱の年の、血生臭い「整備」の上に築かれたのである。この事実は、歴史におけるインフラの役割が、時代の要請によっていかに劇的に変化し、新たな時代の到来を象徴するかを示す好例と言えよう。

引用文献

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