古伊賀花入「からたち」は、桃山時代に焼かれた重要文化財。口縁の欠けを枳殻の棘に見立てた銘が特徴。土と炎の作為と偶然が織りなす剛毅な造形は、戦国時代の破格の美を体現し、古田織部の美意識を反映している。
桃山時代。応仁の乱に端を発する百余年の戦乱が終焉を迎え、織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業が成し遂げられようとしていた、日本の歴史上、類例を見ないほどの激動と創造の時代である。旧来の価値観が覆され、実力主義が社会を席巻する「下剋上」の気風は、政治や社会構造のみならず、文化や美意識の領域にも根源的な変革をもたらした。この時代に生まれた数多の美術工芸品の中でも、ひときわ異彩を放ち、後世の数寄者たちを魅了し続けてきたのが、伊賀の地で焼かれた茶陶、すなわち「古伊賀」である。
本報告書は、その古伊賀を代表する最高傑作にして、国の重要文化財に指定される、畠山記念館所蔵の伊賀花入 銘「からたち」を主題とする 1 。この花入について、ご依頼者は「趣は、ますらお、剛毅。口が一部割れていて、朽ちてなお立ち続けるが如き様は、観る者に力強さを感じさせる」という、的確かつ鋭い印象をお持ちである (ユーザー提供情報)。その印象は、まさしくこの花入が放つ本質的な魅力の一端を捉えている。
しかし、その圧倒的なまでの力強さ、すなわち「ますらお」ぶりの源泉は、一体どこに求められるのであろうか。それは、窯の中で偶然に生じた単なる幸運の産物なのか。それとも、あの時代の精神が、土と炎を介して必然的に生み出した造形の奇跡なのか。「朽ちてなお立ち続ける」その姿は、現代に生きる我々に何を語りかけるのか。
本報告書は、この「からたち」という一つの工芸品を基点として、その造形を徹底的に分析し、それが生まれた歴史的・美意識的背景を深く掘り下げ、さらには近代に至るまでの伝来の軌跡を追うことで、桃山という時代が生んだ「破格の美」 1 の深層に迫ることを目的とする。それは、一つの花入の物語を通して、戦国武将たちの美意識の変遷、日本陶磁史における革命、そして文化がいかに継承されていくかを解き明かす試みでもある。
古伊賀花入 銘「からたち」の美しさを理解するためには、まずその物質的な存在、すなわち土、形、そして焼成が生み出した肌合いを詳細に観察することから始めなければならない。この花入は、桃山時代、16世紀後半から17世紀初頭にかけて製作されたとみられる古伊賀の耳付花生(みみつきはないけ)であり、昭和28年(1953年)に重要文化財に指定されている 2 。現在は、近代を代表する数寄者・畠山即翁のコレクションを核とする畠山記念館に所蔵され、同館を象徴する名品として知られる 1 。その寸法は、高さがおよそ28cmから29cm、胴径は約15cmを測り、ずっしりとした重量感と安定感を備えている 1 。
古伊賀焼の特性を決定づける最も根源的な要素は、その原料となる土にある。伊賀の陶土は、約400万年前にこの地にあった古琵琶湖の湖底に堆積した花崗岩が風化してできたもので、亜炭など有機物を多く含む 8 。この土は、第一に極めて高い耐火性を持つという特徴がある。この性質があったからこそ、後述する高温での長時間焼成が可能となり、他の産地では見られない独特の窯変(ようへん)を生み出すことができた 3 。第二に、土の粒子が粗く、内部に細かな気孔を多く含むため、熱を蓄える能力に優れる 3 。これは現代においても伊賀の土鍋が珍重される理由であるが、茶陶においては、この粗い土質が焼成時に独特の景色を生み出す要因となった。「からたち」の素地は、こうした伊賀の土を用い、極めて高い火度で焼き締められた結果、灰白色の堅い半磁質となっている 7 。この強靭な土台こそが、激しい炎の洗礼に耐え、剛毅な姿を今に伝えることを可能にしたのである。
「からたち」の器形は、一見すると自然で奔放な姿に見えるが、細部を観察すると、そこには陶工による明確な造形意識、すなわち「作為」が隅々まで行き渡っていることがわかる。
全体の構成は、口をやや外に開き、その縁を内側に抱え込むように曲げたいわゆる「姥口(うばくち)」とし、そこからすっと引き締まった頸(くび)を経て、どっしりとした胴へと続く 1。そして、安定感のある裾広がりの腰部へと至る。この基本的な形態の中に、古伊賀を特徴づける作為的な要素が大胆に盛り込まれている。
第一に、器全体の「歪み(ゆがみ)」である。轆轤(ろくろ)で成形された端正な円筒形に、意図的に力を加えて歪ませ、あるいはへこませることで、静的な器物に動的な表情を与えている 8 。これは、左右対称の整った形を良しとする従来の価値観を覆す、桃山時代特有の革新的な美意識の現れに他ならない。
第二に、頸部の左右につけられた一対の「耳」である 1 。この装飾的な突起は、古伊賀の大きな特徴であり、しばしば「伊賀に耳あり、信楽に耳なし」という言葉で、隣接する信楽焼との違いを語る際の指標とされる 12 。この耳は、器の輪郭に変化を与え、視覚的なアクセントとして機能している。
第三に、胴部に刻まれた力強い「箆目(へらめ)」である。胴は緩やかな六角に面取りされ、その稜線を際立たせるように、竹箆などの道具を用いて大胆な縦の線が刻まれている 1 。また、古伊賀には「山道手(やまみちで)」と呼ばれる波状の文様も見られ、これらは器の表面にリズムと力感を与えるための、計算された装飾であった 8 。
陶工による明確な作為が施された器は、次に登り窯の中で、人間の制御を超えた炎と灰の洗礼を受ける。古伊賀には「七度焼き」という言葉が伝わるように、器が砕ける寸前まで、極めて高い温度で何度も繰り返し焼かれたと信じられている 1 。この過酷な焼成プロセスこそが、「からたち」の表面を彩る複雑で変化に富んだ「景色」を生み出した。
その景色の主役となるのが、美しい緑色を呈する自然釉「ビードロ」である。これは、焼成中に燃料である薪の灰が器に降りかかり、摂氏1300度を超えるような高温によって溶け、ガラス質となって表面を覆ったものである 1 。作為的に釉薬を掛けるのではなく、窯の中の自然現象を利用して得られるこの緑の輝きは、古伊賀の最大の魅力の一つである。
さらに、窯の中での置かれた場所や、炎の当たり方の強弱によって、器の表面には様々な変化が生じる。炎が強く当たった部分は黒く「焦げ」、そうでない部分は土本来の色が赤褐色に発色した「火色(ひいろ)」となる 1 。この焦げと火色、そしてビードロ釉の緑が、一つの器の上で複雑なコントラストをなし、二つとして同じもののない、唯一無二の表情を創り出すのである。
ここで重要なのは、「からたち」の造形美が、人間の「作為」と窯の中の「自然」という、二つの要素のどちらか一方に帰せられるものではないという点である。むしろ、それは両者の緊張感に満ちた対話、あるいは交響とでも言うべき関係性の中から生まれている。
古伊賀の陶工は、単に自然の偶然に身を任せていたわけではない。「何れも自然の窯変の結果に見えるが、実は、最初からそうなることを想定して焼かれている」という指摘があるように 8 、彼らは伊賀の土の特性を熟知し、どのような焼成をすればどのような景色が生まれるかを計算していた。意図的に器を歪ませることは、灰の掛かり方や炎の通り道に変化を与え、より劇的な窯変を誘発するための仕掛けであった。耐火性の高い土(自然)という素材があったからこそ、作為的な高温焼成が可能となり、その結果として美しいビードロ(自然)が生まれる。
つまり、「からたち」の造形とは、自然の力を支配しようとするのではなく、その力を最大限に引き出し、受け入れ、その中で人間の創造性を存分に発揮しようとする、きわめて日本的な世界観の物質的な現れなのである。この作為と自然の絶妙な均衡の上に、「からたち」の剛毅にして繊細な美は成り立っている。
一つの工芸品に特定の名前、すなわち「銘」を与えるという行為は、日本の茶道文化において極めて重要な意味を持つ。銘は単なる識別記号ではなく、その器の来歴、特徴、そして美の本質を凝縮した詩的な表現であり、鑑賞の指針となる。「からたち」という銘もまた、この花入の個性を決定づけ、その価値を不朽のものとした、核心的な要素である。
「からたち」という銘の由来として最も広く知られているのは、その物理的な特徴に根差したものである。この花入は、激しい焼成の過程で口縁の一部が耐えきれずに欠け落ち、その三角形の鋭い破片が、あたかも飛び散るように頸部や肩に付着している 1 。桃山の茶人たちは、この偶然の産物である鋭利な破片を、鋭い棘を持つ植物「枳殻(からたち)」に見立てたのである 1 。この見立てによって、焼成中の偶発的な「破損」は、力強く生命力あふれる「棘」へとその意味を転換させた。
しかし、銘の由来にはもう一つの解釈も伝えられている。それは、花入全体の姿、その佇まいが、枳殻の白い花そのものの風情を思わせるから、というものである 1 。枳殻は、鋭い棘を持つ一方で、初夏には清らかで気品のある白い花を咲かせる。この解釈は、「からたち」が持つ、荒々しい「剛」の側面と、花を生ける器としての「柔」の側面、その二面性を捉えたものとして興味深い。銘一つの中に、棘の力強さと花の気品という二重のイメージが込められているのである。
「からたち」の美しさを語る上で決定的に重要なのは、窯の中で生じた「口のくずれ」や「孔(あな)」、胴に付着した「破片」といった、通常の陶芸の基準では「欠点」や「傷」と見なされる要素が、ここでは全く欠点として扱われていないという事実である 1 。むしろ、それらの「山疵(やまきず)」こそが、この花入に「自然の山野を想わせる景色」を与え、他に類のない力強さの源泉となっている 1 。
この価値観の転換は、器の表面に現れた様々な変化を、あたかも自然の風景のように見立てて能動的に鑑賞する、日本独自の美学「景色(けしき)」の思想に基づいている 15 。茶碗の釉薬の垂れを「滝」、素地が見える部分を「月」と呼ぶように、鑑賞者は自らの想像力を働かせて、器という小宇宙の中に無限の風景を見出す。この美的実践は、完璧な美よりも不完全さの中に、完成された調和よりも予測不能な変化の中にこそ真の美を見出そうとする、侘び茶の精神と深く結びついている 17 。
この思想の源流は、室町時代の茶人・村田珠光が、それまで至上とされてきた完璧な中国製の「唐物」に対し、冷え枯れた趣のある国産の器物に新たな価値を見出したことに求められる 16 。「からたち」の場合、焼成時に生じた「棘」という劇的な「景色」が、この花入の「正面(しょうめん)」、すなわち最も重要な見どころを決定づけ、その美的価値の中核を形成しているのである 17 。
以上の考察から明らかなように、「からたち」という銘は、単なる名札ではない。それは、焼成中の「失敗」や「欠損」という、本来であればネガティブな事象を、詩情豊かな物語へと昇華させる、一種の錬金術的な行為なのである。
客観的に見れば、「からたち」の口は不規則に割れ、その破片が無秩序に付着している。これは、陶芸の技術的な観点からすれば「失敗作」と断じられても不思議ではない 17 。しかし、桃山時代の茶人たちは、この姿に「枳殻の棘」という新たな意味と物語を付与した。なぜなら、当時の茶の湯の世界では、均質で完璧な美よりも、一つ一つ異なる個性や、その器だけが持つ歴史性を尊ぶ価値観が支配的になりつつあったからだ。「割れ」や「欠け」は、その器がくぐり抜けてきた過酷な焼成、すなわち「試練」の痕跡であり、その器が唯一無二の存在であることの証明に他ならない。それはまた、いつ命を落とすとも知れぬ戦国の世を、満身創痍になりながらも生き抜く武将たちの生き様とも、深く共鳴したであろう。
「からたち」と名付ける行為は、この「欠損の物語」を積極的に評価し、鑑賞の中心に据えるという宣言である。これにより、名もなき一個の陶器は、特定の物語を背負った「からたち」という固有名詞を持つ特別な存在へと昇華される。このプロセスは、破損した器を漆と金で修復し、その傷跡を新たな景色として愛でる「金継ぎ」の精神—古田織部に至っては、わざと器を割って金で継ぎ、茶会で披露したという逸話さえある 19 —にも通底する、破壊と再生、不完全さの中にこそ真の美を見出す、日本的な価値創造のあり方を象徴している。この物語性の付与こそが、器に魂を吹き込み、その価値を飛躍的に高めているのである。
古伊賀花入「からたち」が持つ、常識を打ち破るような「破格の美」は、それが生まれた時代の精神と切り離して理解することはできない。その背景には、戦国時代から桃山時代にかけての、茶の湯をめぐるダイナミックな美意識の変遷が存在した。
戦国時代、茶の湯は単なる喫茶の習慣や趣味の領域を超え、きわめて高度な政治的・社会的機能を持つ文化装置として発展した。茶室は、武将たちが一時の安らぎを得る場であると同時に、腹心との密談や同盟者との交渉が行われる、重要な政治的空間でもあった 20 。
さらに、茶の湯は武将たちのステータスシンボルとしての役割を担った。高価な茶道具、特に「名物」と呼ばれる由緒ある道具を所持することは、その武将の権力と文化的洗練度を示す証であった。名物茶入一つが城一つに匹敵すると言われるほど、その価値は高騰し、織田信長や豊臣秀吉は、戦功のあった家臣への恩賞として、領地の代わりに名物茶道具を与えることさえあった 21 。このように、茶の湯は信長や秀吉の天下統一政策において、武力と並ぶ重要な統治の手段として活用されたのである 22 。
この時代の茶の湯の美意識を主導したのは、二人の天才であった。一人は、茶聖と称えられる千利休。もう一人は、利休の弟子でありながら独自の道を切り拓いた武将茶人、古田織部である。
千利休と「侘び」の完成
千利休は、禅の思想を深く背景に持ち、それまでの華美で豪華な茶の湯に対し、精神性を重んじる「侘び」「寂び」の美学を打ち立て、大成させた 21。彼の美意識は、無駄を削ぎ落とした簡素さ、静けさ、そして不完全さの中にこそ見出される、内省的な美を理想とした。黒一色で手捏ねの歪みを持つ樂茶碗や、わずか二畳の茶室「待庵」などは、その「侘び」の精神を究極の形で具現化したものである。しかし、この利休の求める静謐でミニマルな美の世界は、天下人として権威の象徴を求めた豊臣秀吉の「黄金の茶室」に代表されるような「華の美」とは次第に対立を深め、利休の悲劇的な最期に至る一因になったとも言われている 25。
古田織部と「へうげもの」の登場
利休の死後、茶の湯の第一人者となったのが、大名でもあった古田織部(古田重然)である。彼は利休の高弟でありながら、師の世界観をただ継承するのではなく、それを乗り越えようとするかのように、全く新しい美の価値観を提示した。それが「へうげもの(剽軽物)」の美学である 25。
「へうげもの」とは、諧謔的、斬新、意表を突く、といった意味合いを持つ言葉であり、織部の美意識はまさにこの言葉に集約される。彼は、利休の静謐な「静」の世界に対し、躍動感あふれる「動」の世界を対置した。左右対称(シンメトリー)を意図的に崩し、器を極端に歪ませ、見る者に「違和感」や「驚き」を与えることに新たな価値を見出したのである 29 。彼が指導して美濃で焼かせた「織部焼」は、鮮やかな緑色の釉薬、抽象的で大胆な文様、そして沓(くつ)のように歪んだ「沓形茶碗」に代表されるように、まさに「へうげもの」の精神そのものであった 28 。
ここで、「からたち」の持つ「破格の美」を振り返ると、それが利休の「侘び」とは明らかに異質であり、織部の「へうげもの」の美学と強く共鳴していることがわかる。意図的な歪み、激しい窯変、そして何よりも「破損」というアクシデントを「棘」という景色として積極的に愛でる姿勢は、まさに織部が追求した、常識を打ち破る大胆な美意識の現れである。
この美意識の変遷は、単に個人の好みの問題ではなく、時代の精神を色濃く反映している。戦国時代とは、旧来の権威や秩序が絶対的なものではなく、実力によって覆されうることを誰もが実感した「下剋上」の時代であった 33 。この社会のダイナミズムは、美の世界にも投影された。
まず、中国渡来の完璧な「唐物」が至上であるという旧来の権威に対し、利休は国産の素朴な道具に新たな価値を見出す「侘び」を提唱した。これは、茶の湯における第一の革命、あるいは「下剋上」であったと言える。しかし、利休によって完成された「侘び」もまた、一つの静的で内省的な様式として、新たな権威となりつつあった。
これに対し、武将としての気質と天性の美的センスを併せ持った古田織部は、利休の「静」の世界に、戦国の世の荒々しいエネルギーを体現するかのような「動」の要素—すなわち「歪み」「破れ」「諧謔」—を持ち込んだ。これは、美の世界における第二の革命であった。
したがって、古伊賀花入「からたち」は、単に美しい花入というだけでなく、戦国という時代の激しい精神的エネルギーが、古田織部という類稀なる個性を触媒として、茶の湯という文化装置の中で結晶化した、時代の記念碑的な作品なのである。その「破格」の姿は、まさに下剋上の時代の精神そのものを体現していると言っても過言ではない。
「からたち」を生み出した古伊賀焼は、いかにしてその特異な「破格の美」を獲得するに至ったのか。その成立の背景には、伊賀という土地の風土と、一人の天才的プロデューサー、古田織部の存在が大きく関わっている。
伊賀の地におけるやきものの歴史は古いが、今日我々が「古伊賀」として認識するような、独創的な茶陶が焼かれるようになるのは、安土桃山時代、具体的には天正年間(1573-1592)以降のことである 8 。茶の湯が文化の中心的地位を占めるようになると、伊賀の領主であった筒井定次、そして彼に続いて伊賀を治めた藤堂高虎といった大名たちが、茶陶の生産を大いに奨励したことが記録に残っている 36 。大名自らがパトロンとなり、茶の湯の道具を生産させたのである。
しかし、古伊賀の造形を決定的に特徴づけたのは、時の茶の湯の第一人者であった武将茶人、古田織部の指導であったと、多くの専門家や資料が一致して指摘している 1 。織部は単に伊賀焼を愛好しただけではない。彼は自らの美意識—すなわち「へうげもの」の精神—を具現化するために、伊賀の陶工たちに具体的な指示を与え、全く新しいやきものを「作らせた」のである 26 。
彼の指導の下、伊賀の陶工たちは、轆轤で挽いた端正な器に、意図的に「歪み」や「へこみ」を加え、箆(へら)を用いて器表に大胆な文様を刻み、一対の「耳」を付けるなど、極めて作為性の強い意匠を施すようになった 8 。さらに、焼成においても、美しい緑の「ビードロ釉」や景色豊かな「焦げ」、そして時には器が割れる「山割れ」さえも、失敗ではなく、狙うべき景色として計算のうちに入れていたと考えられている 8 。この、織部の好みを色濃く反映した様式は「織部好み」と呼ばれ、伊賀焼のみならず、彼が直接指導した美濃の「織部焼」や、備前焼など、当時の日本の主要な窯に絶大な影響を与えた 30 。
古田織部の介在が伊賀焼に与えた影響の大きさは、隣接する信楽焼と比較することでより鮮明になる。伊賀と信楽は山一つ隔てただけの距離にあり、同じ古琵琶湖層に由来する類似した土を用いていたため、中世までは極めてよく似た甕や壺、擂鉢などを生産していた 8 。
しかし、茶の湯が隆盛を極める桃山時代に至り、両者の道は大きく分かれる。織部の指導という強力な外的要因を得た伊賀焼が、前述のような大胆で作為的、装飾的な「破格の美」を追求したのに対し、信楽焼はそうした作為性をあまり加えることなく、土の味わいを活かした、比較的自然で素朴な造形を保ち続けた 8 。
この両者の作風の決定的な違いは、古くから「伊賀に耳あり、信楽に耳なし」「伊賀に焦げあり、信楽に焦げなし」といった言葉で端的に表現されてきた 12 。これは、伊賀焼の特徴である装飾的な「耳」や、高温焼成による劇的な「焦げ」が、信楽焼にはあまり見られないことを指している。同じような原料と風土を持ちながら、なぜこれほどまでに異なる発展を遂げたのか。その答えは、まさしく古田織部という稀代のプロデューサーの存在の有無にあったのである。
これらの事実を総合すると、古田織部の役割は、単なる茶人や数寄者の域を遥かに超えるものであったことがわかる。彼は、現代におけるアートディレクターや音楽プロデューサーのように、明確な美的ビジョン(コンセプト)を持ち、それを実現するための最適な素材と技術者を見出し、具体的なディレクションを与えて作品を世に送り出す、卓越したプロデューサーであった。
織部は、伊賀の土が持つ「高温焼成に耐えうる」という類稀な技術的ポテンシャル 3 を見抜き、それを自らが追求する「へうげた美」「破格の美」を実現するための最高のメディア(媒体)と捉えたのであろう。激しい焦げや美しいビードロ、そして dramatic な窯割れといった、他の窯では「失敗」とされる現象さえも、彼は自らの美学を表現するための絶好の要素として、積極的に活用したのである。
したがって、古伊賀花入「からたち」の真の作者は、その器を轆轤で挽き、窯で焼いた名もなき陶工一人だけではない。その背後には常に、プロデューサー古田織部の強烈な個性が存在しており、この花入は、伊賀の土と陶工の技術、そして織部のビジョンという三者が奇跡的に出会うことで生まれた、共同制作の傑作と見なすべきなのである。
古伊賀の「破格の美」を理解する上で、「からたち」と並び称されるもう一つの傑作が存在する。五島美術館が所蔵する重要文化財、伊賀耳付水指 銘「破れ袋(やぶれぶくろ)」である 3 。この二つの名品は、しばしば古伊賀を代表する双璧として挙げられ、両者を比較考察することは、「からたち」の個性をより深く、立体的に捉えるための有効な視座を与えてくれる 41 。
「破れ袋」は、茶席で釜に水を補給するための器、水指(みずさし)である。その銘は、「からたち」と同様、焼成時に生じた劇的な景色に由来する。袋のように大きく膨らんだ胴部の一方が、窯の中で自重に耐えかねてか、雷光が走るように大きく裂けている 9 。この豪快な「焼け破れ」を、あたかも袋が破れた様子に見立てて「破れ袋」と名付けられた 45 。
ここにもまた、焼成中のアクシデントを欠点とせず、むしろ最大の魅力、すなわち「景色」として捉える、古伊賀に共通する価値観が明確に見て取れる。若草色と評される美しいビードロ釉、口縁に付けられた鋲(びょう)のような装飾「擂座(るいざ)」、そして力強い箆使いなど、古伊賀茶陶の持つ特徴を余すところなく備えた、まさに名品中の名品である 9 。
この二つの名品は、共に「破格の美」を体現しながらも、その趣は好対照をなしている。花入である「からたち」が、すっくと立ち上がるような垂直性を強調し、「剛毅」「荘重」といった、天に向かうような緊張感のある印象を与えるのに対し、水指である「破れ袋」は、大地にどっしりと据えられたような水平的な広がりを持ち、「豪放」「重厚」といった、内にエネルギーを溜め込んだような量感を感じさせる。
その伝来も対照的である。「からたち」が、加賀百万石という大大名の前田家に伝来し、その権威を象徴する道具として珍重されたのに対し、「破れ袋」は、この様式を生み出した張本人である茶人・古田織部自身が所持していたと伝えられている 3 。両者の個性の違いは、その後の伝来のあり方にも影響を与えたのかもしれない。
以下の表は、両者の特徴を比較したものである。
項目 |
伊賀花入 銘「からたち」 |
伊賀水指 銘「破れ袋」 |
種別 |
花入 |
水指 |
文化財指定 |
重要文化財 2 |
重要文化財 3 |
所蔵 |
畠山記念館 4 |
五島美術館 42 |
寸法(高さ) |
約28-29cm 1 |
約20-22cm 9 |
主な特徴 |
焼成中に欠けた口辺の破片が胴に付着し「棘」となる 4 。左右の耳 4 。強い焦げとビードロ釉 1 。 |
胴部に生じた大きな「焼け破れ」 44 。袋状の器形 9 。擂座 9 。 |
銘の由来 |
胴に付着した破片が枳殻(からたち)の棘を思わせるため 1 。 |
袋が破れたような景色から 9 。 |
主な伝来 |
加賀前田家 → 畠山即翁 1 |
古田織部 → 松平不昧(伝) → 五島慶太 3 |
美的評価 |
剛毅、ますらお、力強い、荘重 1 |
豪放、大胆、重厚 9 |
この比較から浮かび上がってくるのは、一見すると異なる個性を持つ二つの名品の根底に、共通の強固な美学が貫かれているという事実である。それは、「破壊と創造の一体化」「偶然と必然の融合」、そして「欠損の美化」という、まさしく「織部好み」としか言いようのない、一貫した思想である。
この共通の思想的プラットフォームの上で、「からたち」は花入という用途にふさわしく、天を目指すような垂直的な緊張感を表現し、「破れ袋」は水指として、大地に根差すような水平的な安定感を表現している。両者は、同じ美学から出発しながら、それぞれ異なる方向に表現のベクトルを伸ばした、いわば兄弟のような存在なのである。
「からたち」を単体で鑑賞するだけでも、その美しさに圧倒されることは間違いない。しかし、「破れ袋」というもう一つの極と並べて考察することで、古伊賀の美が、単一の画一的な様式ではなく、一つの強固な思想のもとに、多様で個性的な表現を生み出した、豊かで懐の深い創造の現場であったことが明らかになる。この創造性の豊かさこそが、古伊賀焼が後世の陶芸や美意識に与えた影響の大きさの源泉であり、「からたち」の価値をより一層、深く理解する鍵となるのである。
美術品、特に茶道具の価値は、その造形的な美しさや歴史的な重要性のみによって定まるものではない。それがどのような人々の手を経て、いかなる物語をまとって現代に伝えられてきたかという「伝来」の歴史もまた、その価値を構成する重要な要素である。「からたち」の伝来史は、桃山時代から現代に至る日本の社会と文化の変遷を映し出す、壮大な物語そのものである。
桃山時代に伊賀の地で生み出された「からたち」は、その後、長きにわたって加賀百万石の大名、前田家に秘蔵されることとなる 1 。前田家は、藩祖・利家が豊臣秀吉の信頼厚い武将であったことからもわかるように、桃山文化の中心にいた大名家であり、文化・芸術を厚く保護したことでも知られる。「からたち」は、そのような大名家の権威と文化的洗練を象徴する至宝として、江戸時代を通じて大切に守り伝えられてきたと考えられる。
しかし、明治維新によって武家社会が終焉を迎えると、多くの旧大名家は経済的に困窮し、先祖代々受け継いできた貴重な美術品、いわゆる「大名物」を手放さざるを得ない状況に追い込まれた 47 。この流れは、大正から昭和初期にかけてピークに達し、東京美術倶楽部などを舞台に、旧大名家や旧華族の所蔵品の大規模な売立(入札会)が、世間の注目を集めながら頻繁に開催された 49 。
加賀前田家もその例外ではなく、大正14年(1925年)5月には、東京美術倶楽部にて「前田侯爵家御蔵器入札」と題する大規模な売立を行っている 50 。「からたち」がいつ、どのような経緯で前田家から離れたかの正確な記録は確認できないものの、この時期に新たな所有者のもとへ移った可能性は極めて高いと考えられる。
大名家の手から離れた名品たちの新たな受け手となったのが、明治以降の産業の発展によって財を成した、新興の実業家たちであった。彼らの中には、茶の湯を深く愛好し、独自の審美眼で美術品を蒐集する「近代数寄者」と呼ばれる人々が数多く現れた。
畠山一清(はたけやま いっせい、号は即翁、1881-1971)は、ポンプ製造のトップメーカーである荏原製作所の創業者であり、三井物産の創始者である益田鈍翁(ますだ どんのう)などとも交流した、この時代を代表する数寄者の一人である 53 。彼は、能登の旧守護大名・畠山氏の末裔という出自を持ち、事業家として成功を収める一方で、茶の湯と能楽に深く傾倒し、50年以上にわたって優れた美術品を蒐集した 55 。
彼の蒐集活動の根底には、「與衆愛玩(よしゅうあいがん)」という高潔な精神があった 55 。これは、「自らが蒐集した宝物を独り占めにするのではなく、広く衆と共にこれを愛で、楽しみたい」という思いであり、この精神こそが、後に彼のコレクションを公開する私設美術館、畠山記念館の設立へと繋がっていくのである。
この畠山即翁のもとへ、「からたち」が渡る際に交わされた逸話は、この花入がいかに特別な存在として人々に敬愛されていたかを物語る、感動的なエピソードとして語り継がれている。
「からたち」は前田家から、金沢在住のある数寄者の手に渡っていた。その人物から即翁へと譲渡されることが決まった日、金沢駅のホームには、この名品の旅立ちを惜しむ地元の数寄者たち数十人が、正装である紋付袴を着用して集まり、静かに見送ったという 56 。
一方、その知らせを電話で受けた東京の即翁は、ただ到着を待つだけでは礼を失すると考えた。彼もまた、急ぎ数寄者の仲間たちを集め、同じく紋付袴の正装で東京駅(あるいは品川駅)のホームに降り立ち、長旅を経て到着した「からたち」を、あたかも高貴な賓客を迎えるかのように、丁重に出迎えたのである 57 。
この一連の出来事は、単なる美術品の売買や移動ではない。それは、一つの文化の象徴が、旧来の土地(金沢)から新たな文化の中心地(東京)へ、そして旧来の文化の担い手から新たな時代の担い手(実業家数寄者)へと、最大限の敬意をもって引き継がれていく、荘厳な「文化継承の儀式」であったと解釈することができる。
「からたち」の伝来史は、単なる所有者の名前の羅列ではない。それは、封建領主である前田家、地方の文化人である金沢の数寄者、そして新興の実業家である畠山即翁へと、所有者が変遷していく様が、そのまま日本の近代化のプロセスと重なり合う、歴史の縮図なのである。
前田家が守り伝えたのは、大名家の権威の象徴としての「モノ」の価値であったかもしれない。しかし、それを引き継いだ近代の数寄者たちは、そのモノに新たな物語と、散逸の危機から文化財を保護し、次代に伝えるという公共的な使命を付与した。畠山即翁が「與衆愛玩」を掲げ、美術館を設立したことは、彼がその文化継承者としての重い責任を自覚していたことの証左である。「からたち」の現在の価値は、その物理的な存在だけでなく、それを愛し、守り、語り継いできた人々の熱い情熱と記憶によっても、厚く織りなされているのである。
本報告書で詳述してきたように、桃山時代に生まれた古伊賀花入 銘「からたち」は、単に「ますらお」「剛毅」という言葉で評されるに留まらない、きわめて重層的で深遠な価値を内包する、日本陶磁史上、稀有な存在である。
第一に、その 造形 は、伊賀の土と炎という強大な自然の力と、それを最大限に引き出そうとする人間の作為とが、窯という極限空間の中でせめぎ合い、奇跡的な均衡を保った結果生まれた、作為と自然の交響の産物である。
第二に、その 美学 は、焼成中の「破損」や「欠損」という、通常は失敗と見なされる事象を、「棘」という詩的な「景色」へと読み替え、それを最大の魅力として愛でる、日本独自の価値転換の精神、すなわち不完全さの中にこそ真の美を見出す美意識の結晶である。
第三に、その 歴史的背景 は、旧来の権威が覆され、新たな価値観が模索された戦国・桃山という時代の「下剋上」の気風と、千利休の静的な「侘び」とは対極にある、古田織部の動的で大胆な「へうげもの」の精神が生み出した、時代の記念碑である。
そして第四に、その 物語性 は、加賀前田家という封建領主から、畠山即翁という近代産業資本家へと、時代の大きなうねりの中で文化の担い手が変わっていく様を体現し、人々の情熱によって大切に守り継がれてきた、文化継承の生きた象徴である。
ご依頼者が最初に抱かれた「朽ちてなお立ち続けるが如き様」という印象は、この花入の本質を見事に射抜いている。そして本報告書の探求は、その「立ち続ける」力の源泉が、単なる物理的な頑強さにあるのではなく、むしろその「朽ちた」部分—すなわち、傷つき、欠け、歪んだ部分—にこそ宿っていることを明らかにした。完璧さや均質性を求める現代社会の価値観に対し、「からたち」の姿は、不完全さの中にこそ宿る個性、回復力、そして物語の豊かさを示唆している。
激しい炎の試練を乗り越え、その身に受けた傷跡さえもが唯一無二の景色となって輝く「からたち」。その剛毅なる姿は、変化を恐れず、安易な調和に安住せず、自らの個性を貫くことの価値と尊さを、四百年の時を超えて、今なお我々に静かに、しかし力強く語りかけているのである。