戦国期、ビスケットは南蛮菓子として伝来。硬く甘味薄く嗜好品としては不人気も、保存食として海外貿易で重用。兵糧としての潜在力秘め、後の乾パンへと繋がる。
戦乱の世であった戦国時代、日本の食文化は現代とは大きく異なる様相を呈していた。食事は基本的に朝夕の一日二食が中心であり、主食は白米ではなく、玄米に麦や粟などの雑穀を混ぜて炊いた飯、あるいは雑炊が一般的であった 1 。味付けの基本は塩、酢、そして味噌であり、今日我々が多用する醤油はまだ広く普及するには至っていなかった 1 。当時の人々が口にする「甘味」といえば、干し柿や栗といった果物や木の実、あるいは蜂蜜といった自然の恵みが主であり、米粉で作った団子のような、素朴な菓子がその中心を占めていたのである 3 。
この比較的質実な食の世界に、一大衝撃をもたらしたのが、16世紀半ばに始まるポルトガルやスペインとの「南蛮貿易」であった 5 。彼らがもたらした文物は鉄砲やキリスト教だけではない。日本の食文化の根幹を揺るがす、新たな味覚を持ち込んだのである。その象徴が、ふんだんに使われる「砂糖」と「卵」であった。
当時、砂糖は中国からの輸入品として存在はしていたものの、極めて高価な薬品扱いであり、一般の食卓に上ることはなかった 7 。また、仏教思想の影響が根強かった日本では、鶏は時を告げる神聖な鳥とされ、その卵を食べることさえ長らく避けられてきた 6 。南蛮人たちは、この貴重な砂糖と禁忌であった卵を惜しげもなく使い、甘く、香り高く、そして見たこともない菓子、すなわち「南蛮菓子」を伝えた。カステラ、金平糖、有平糖といった菓子は、その濃厚な甘美さで、たちまち支配者層の心を捉えた 10 。
永禄12年(1569年)、宣教師ルイス・フロイスが織田信長に謁見した際に献上したフラスコ入りの金平糖は、信長を大いに喜ばせたと記録されている 3 。これらの菓子は、キリスト教布教を円滑に進めるための有効な贈り物として 10 、あるいは茶の湯の席を彩る目新しい一品として 3 、大名や公家の間で瞬く間に人気を博した。
このように、戦国時代における南蛮菓子のイメージは、「甘く、柔らかく、目新しい高級嗜好品」という言葉に集約される。しかし、同じく南蛮菓子として日本に伝来しながら、この華やかなイメージとは全く異なる道を歩んだ食品が存在する。それが本報告書で主題とする「ビスケット」である。一般に「当時の日本人の口に合わず、人気がなかった」と語られるこの食品は、果たして単なる「失敗した菓子」だったのだろうか。本報告書は、語源、製法、そして貿易や軍事といった多角的な視点からビスケットの実像に迫り、戦国史におけるその知られざる役割を徹底的に解明することを目的とする。
ビスケットという食品の本質を理解する上で、その語源は極めて重要な示唆を与えてくれる。現代の我々が慣れ親しんでいる甘い焼き菓子としてのイメージを一度離れ、その言葉の起源に遡ることで、本来の姿が浮かび上がってくる。
ビスケットの語源は、ラテン語の「ビス・コクトゥス・パーニス(bis coctus panis)」、あるいは「ビス・コクトゥス(bis coctus)」に由来する 16 。これは直訳すれば「二度焼かれたパン」または「二度焼かれたもの」を意味する言葉である。このラテン語が、時を経てヨーロッパ各地の言語に派生していった。フランス語では「ビスキュイ(biscuit)」、ポルトガル語では「ビスコイト(biscoito)」、オランダ語では「ビスクヴィー(biscui)」となり、いずれも「二度焼き」という本来の意味を色濃く残している 17 。
日本にこの食品が伝わったのは16世紀の南蛮貿易期であり、主たる交易相手であったポルトガルの言葉、すなわち「ビスコイト」が語源となった。当時の文献には「びすかうと」や「びすこいと」といった表記で記録されており、これがポルトガル語に由来することは明らかである 17 。
重要なのは、この「二度焼き」という製法が、単なる調理法の特徴を指す言葉ではないという点である。生地を一度焼き、さらに乾燥させるために再度低温でじっくりと火を通す。この工程の目的は、生地内部の水分を極限まで除去することにある。水分を飛ばすことで微生物の繁殖を防ぎ、驚異的な保存性を実現する。つまり、「二度焼き」という言葉自体が、ビスケットが嗜好品ではなく、長期保存を目的とした「機能性食品」であったことを雄弁に物語っているのである。
「二度焼き」によって高い保存性を獲得したビスケットは、15世紀から始まる大航海時代において、ヨーロッパの船乗りたちの命を繋ぐ上で不可欠な存在となった。数ヶ月、時には数年に及ぶ航海では、生鮮食料の確保は不可能であり、腐敗しない食料の備蓄が絶対条件であった。ビスケットは、軽量で嵩張らず、そして何よりも長期間の保存に耐えるという特性から、船員たちの主食、すなわち航海に必須の「船上食」として重用されたのである 22 。
この出自は、同じく南蛮菓子として日本で絶大な人気を博したカステラとは全く対照的である。カステラの原型とされるポルトガルの菓子「パォン・デ・ロー(Pão de Ló)」は、卵、砂糖、小麦粉を主原料とする、柔らかく甘いスポンジケーキ状の菓子であった 3 。これは明らかに特別な機会に食される嗜好品であり、その目的は人々に喜びと満足を与えることにあった。
一方で、ビスケットは喜びや美食とは対極にある、生存のための実用的な食料であった。この根本的な出自の違いが、後の日本における両者の受容のされ方を決定的に分かつことになる。
大航海時代の保存食という背景から、戦国時代に日本にもたらされたビスケットが、現代の我々が想像するようなサクサクとした甘い菓子とは似ても似つかぬものであったことは容易に推察できる。
その硬度は、極めて高かったと考えられる。水分を極限まで抜いているため、その食感は「硬い」という表現が生易しく感じられるほどであっただろう。後の時代の軍用堅パンが「アイアンプレート(鉄板)」と俗称されたように 23 、当時のビスケットもまた、そのままでは歯が立たないほどの硬さを持っていた可能性がある。
風味に関しても、非常に質素なものであったと推定される。主原料は小麦粉と水、そして塩。保存性を高めるために、腐敗の原因となる糖分や脂肪分は極力抑えられていた。したがって、その味わいは小麦粉本来の風味と塩味が主体であり、甘味はほとんど感じられなかったであろう 22 。その姿は、今日の「乾パン」や、北九州名物の「堅パン」に極めて近いものであったと考えられる 24 。
結論として、戦国時代の日本人が初めて遭遇した「ビスコイト」とは、「二度焼き」という製法に由来する、極めて硬く、甘味のない、塩味の保存食であった。それは、甘美な嗜好品としての「南蛮菓子」を期待した人々にとっては、全く予想を裏切る食品であり、この物理的特性こそが、「日本人の口に合わなかった」という評価の根源にあると言えるのである。
戦国時代に伝来したビスケットが、日本においてどのように認識され、作られていたのか。その具体的な手がかりを残す極めて貴重な史料が存在する。それが、17世紀中頃の成立とされる『南蛮料理書』である 27 。この書物は、鎖国によって南蛮文化との直接的な交流が途絶える前後の、料理や菓子の製法を伝える唯一無二の記録であり、本書に記された「びすかうと」の製法は、文化受容の過程を考察する上で非常に興味深い内容を含んでいる。
『南蛮料理書』は、その著者や正確な成立年は不明ながら、日本に伝わった南蛮料理と菓子のレシピを45種にわたって記録した写本である 28 。その内容の三分の二以上は、「あるへいと(有平糖)」や「かすていら(カステラ)」といった菓子の製法に割かれており、当時の人々がいかに南蛮の甘い菓子に強い関心を抱いていたかが窺える 27 。
この菓子中心の記録の中に、「びすかうと」の製法が明確に記されていることは、ビスケットがカステラや金平糖などと並び、南蛮菓子の一つとして確かに認識され、日本国内で製造が試みられていたことを示す動かぬ証拠である 21 。しかし、その製法は、ヨーロッパのそれとは一線を画す、日本独自の工夫が凝らされたものであった。
『南蛮料理書』に記されたビスケットの製法は、驚くべきことに「小麦粉を甘酒でこねて焼く」というものであった 22 。本来、水や牛乳、あるいは卵といった材料で生地を作るのがヨーロッパの基本であったはずが、日本では「甘酒」という、全く異なる材料が選択されている。この一点をもって、伝来したビスケットが日本で独自の変容を遂げようとしていたことがわかる。
ここで用いられた甘酒は、日本古来の発酵飲料である。その歴史は古く、平安時代中期の法令集『延喜式』には、米と麹と酒で造る「醴酒(れいしゅ)」の記述が見られ、これが甘酒の原型と考えられている 29 。戦国時代から江戸時代にかけて、甘酒は夏場の栄養補給飲料として庶民に広く親しまれていた。「飲む点滴」と称されるほど栄養価が高く、食欲が落ちる夏の暑さを乗り切るための重要な飲み物だったのである 31 。
なぜ、ビスケットの生地に日本独自の「甘酒」が用いられたのか。その背景には、いくつかの複合的な理由が推察される。これは単なる材料の代用ではなく、異文化の産物を自国の文脈で理解し、再構築しようとする能動的な試みであったと考えられる。
第一に、「文化のローカライゼーション」の可能性である。ポルトガル人から伝えられた製法には、当時の日本では手に入りにくい、あるいは馴染みのない材料が含まれていた可能性がある。そこで、日本人が古くから親しみ、容易に入手できた甘酒を用いて、その製法を再現しようとしたという見方である。
第二に、「機能性の追求」という視点である。第一章で述べた通り、ビスケットの本質は「保存食」にある。当時の日本人もまた、ビスケットを単なる菓子ではなく、栄養価の高い保存食、あるいは兵糧として捉えていた可能性がある。そうであれば、当時から栄養ドリンクとして認識されていた甘酒を添加することで、その栄養価をさらに高め、機能性を向上させようという意図があったとしても不思議ではない。
第三に、「風味の改良」という目的も考えられる。本来のビスケットが塩味で味気ないものであったとすれば、甘酒の持つ自然な甘みと発酵由来の豊かな風味を加えることで、少しでも食べやすくしようと工夫した可能性である。これは、硬く味気ない保存食を、日本の味覚に少しでも近づけようとする、ささやかながらも創造的な試みと言えるだろう。
いずれの理由であったにせよ、『南蛮料理書』に見られる「甘酒の使用」という記述は、極めて示唆に富んでいる。それは、戦国から江戸初期の日本人が、ビスケットを「嗜好品」としてではなく、その実用的な価値、すなわち「機能性食品」として理解していたことを製法面から裏付ける強力な傍証となる。そして、単に異文化を模倣するのではなく、自国の食文化や材料を駆使してそれを解釈し、改変しようとした、当時の人々のしたたかで創造的な精神を今に伝えているのである。
「当時の日本人の口に合わず、人気がなかった」 25 。これは、戦国時代のビスケットを語る上で、半ば定説として繰り返されてきた評価である。しかし、この一面的な評価だけでは、ビスケットが辿った複雑な歴史の全貌を捉えることはできない。嗜好品としては確かに失敗だったかもしれないが、その価値は全く別の次元に存在した。ビスケットは「味わう」ものではなく、「利用する」ものであり、その実用性ゆえに、当時の国際貿易と軍事において無視できない役割を担っていたのである。
ビスケットが一般の日本人に受け入れられなかった理由は、その物理的特性と、当時の日本の食文化との間に存在した、埋めがたい溝に求めることができる。
第一に、食感の問題である。当時の日本人の主食は、柔らかく炊き上げた米飯であった 1 。日常的に口にするものが柔らかい食感である文化において、歯が立つかどうかもわからないほど硬いビスケットは、食事として、あるいは菓子として受け入れがたい存在であっただろう。
第二に、味覚の不一致である。南蛮菓子に期待されたのは、砂糖をふんだんに使った、脳を痺れさせるような強烈な甘みであった。カステラや金平糖が熱狂的に受け入れられたのは、まさにその期待に応えたからである。それに対し、甘味がほとんどなく、塩味が主体であったビスケットは、多くの日本人にとって期待外れの、味気ない食品としか感じられなかった可能性が高い。味付けの基本が味噌や酢であった当時の食生活 1 から見ても、小麦粉と塩だけのシンプルな風味は、魅力的には映らなかったであろう。
このように、嗜好品としてのビスケットは、食感と味覚の両面で、当時の日本の食文化とは相容れない存在であった。これが「不人気」の真相である。
しかし、物語はここで終わらない。「不人気」という国内での評価とは裏腹に、ビスケットは当時の日本の国際貿易において、極めて重要な商品としての地位を確立していた。17世紀初頭の長崎とマニラ(呂宋)間の貿易記録である『呂宋船積帳』などを分析すると、驚くべき事実が浮かび上がる。ビスケット(史料では「ひすからと」などと表記)は、小麦粉と並び、日本からマニラへ輸出される主要な品目の一つだったのである 22 。
これは、従来の「日本は南蛮文化の受容者」という単純な構図を覆す、歴史的に重要な事実である。日本はビスケットを輸入するだけでなく、自国で生産し、それを海外の市場、特にスペインの拠点であったマニラへと再供給する「生産拠点・輸出国」として機能していたのだ。マニラに駐留するスペイン人や、アジアの海を往来する船乗りたちにとって、日本の長崎は良質なビスケットを補給できる重要な港であった。
この背景には、当時の日本の高い農業生産力と加工技術があったと推察される。日本は良質な小麦を安定的に生産し、それを製粉する優れた技術を持っていた。だからこそ、国際商品としてのビスケットを大量に生産し、輸出することが可能だったのである 22 。国内では見向きもされなかった食品が、国境を越えた先では価値ある商品として取引される。この逆説的な状況こそ、ビスケットの真の価値が「嗜好性」ではなく「実用性」にあったことを何よりも明確に示している。
ビスケットの持つ「極めて高い保存性」「軽量で携帯に便利」「調理不要で即座にカロリーを摂取可能」という特性は、本来、戦乱に明け暮れる戦国武将たちが兵糧に求める条件と完全に合致していた。では、なぜ日本の戦場でビスケットが広く採用されることはなかったのか。その答えを探るため、当時の日本で実際に用いられていた代表的な携行食と比較検討する必要がある。
当時の武士たちが戦場に携行した食料には、「干し飯(ほしいい)」、「兵糧丸(ひょうろうがん)」、「芋がら縄(いもがらなわ)」などがあった。
これらの伝統的な兵糧と比較した時、ビスケットの優位性は明らかである。干し飯や芋がら縄のように調理のための水や火を必要とせず、兵糧丸のように複雑な材料や製法もいらない。しかし、それでもなお、ビスケットが日本の兵糧として定着することはなかった。その理由としては、前述の食味の問題に加え、米を主食とする日本の食文化への根強い固執、そして小麦の生産が米に次ぐものであったことや、南蛮由来の製法への馴染みの薄さなどが複合的に影響したと考えられる。実用性では勝っていても、文化的な壁を越えることはできなかったのである。
以下の表は、ビスケットと日本の伝統的な携行食の特性を比較したものである。この比較を通じて、ビスケットが兵糧として持っていた潜在能力と、それが現実には受け入れられなかった背景がより明確になるだろう。
項目 |
ビスコイト(推定) |
兵糧丸 |
干し飯(糒) |
芋がら縄 |
主原料 |
小麦粉、甘酒、塩 22 |
米粉、そば粉、大豆、胡麻、薬草(高麗人参等)、砂糖、酒 34 |
米(うるち米、もち米) 35 |
里芋の茎、味噌、酒、鰹節 2 |
製法 |
混捏、成形、焼成(二度焼き) 17 |
材料を粉末化し、酒などで練り、丸めて蒸し、乾燥させる 40 |
炊いた米を水で洗い、天日で乾燥させる 35 |
芋がらを縄状にし、味噌などで煮しめて乾燥させる 34 |
栄養価(推定) |
炭水化物中心のエネルギー源。甘酒による若干の糖分とアミノ酸。 |
総合栄養食。炭水化物、タンパク質、脂質、薬効成分をバランス良く配合 41 |
炭水化物中心のエネルギー源(アルファ化米) 36 |
塩分、ミネラル、わずかなタンパク質 34 |
特徴(保存性・食味) |
極めて高い保存性。硬く、甘味は少ない。調理不要で即食可能 22 。 |
高い保存性と栄養価。薬草由来の独特の風味。1日に数粒で空腹を凌ぐ 34 。 |
非常に高い保存性。軽量。そのままでは硬いが、水や湯で戻して食す 37 。 |
縄として利用可能。保存性が高い。お湯に溶かせば即席の味噌汁になる 2 。 |
ビスケットが実用品として貿易の舞台裏で活躍する一方、同じ南蛮菓子でありながら、全く異なる運命を辿り、日本の食文化に深く根を下ろしたのがカステラである。なぜカステラは日本化に成功し、ビスケットはそうならなかったのか。この二つの食品の対照的な歴史は、単なる味覚の優劣では説明できない、文化受容の力学を鮮やかに映し出している。
ビスケットとは対照的に、カステラは日本で熱狂的に受け入れられ、その後、日本独自の菓子として目覚ましい進化を遂げた 46 。その成功の要因は、いくつかの点に集約される。
第一に、その圧倒的な「嗜好性」である。ふんだんに使われた砂糖と卵が織りなす濃厚な甘みと、しっとりとした柔らかな食感は、当時の日本人にとって未知の美味であった 3 。これは、南蛮菓子に期待された「贅沢な甘さ」というイメージに完璧に応えるものであった。
第二に、その「社会的価値」である。高価な材料を用いて作られるカステラは、それ自体が富と権威の象徴であった。時の権力者である織田信長や豊臣秀吉、あるいは諸大名への献上品として、また重要な饗応の席での菓子として重宝された記録が数多く残っている 9 。カステラを贈る、あるいは振る舞うという行為は、単に菓子を供する以上の、政治的・社会的な意味合いを帯びていたのである。
第三に、その「適応性」である。カステラの製造は、鎖国時代においても唯一の国際貿易港であった長崎で途絶えることなく続けられた。長崎は豊富な輸入砂糖の入手が比較的容易であり、その恵まれた環境の中で、職人たちは日本人の繊細な味覚に合わせて、よりきめ細かく、よりしっとりとした食感を追求する改良を重ねていった 46 。こうして、ポルトガルの「パォン・デ・ロー」は、日本独自の「長崎カステラ」へと昇華していったのである。
ビスケットとカステラの運命を分けたのは、両者が持つ本質的な性格の違い、すなわち「実用品」と「嗜好品」の差異に他ならない。
ビスケットの価値は、その「機能性」にあった。長期間保存でき、携帯に便利なエネルギー源。この価値は、船乗りや商人、兵士といった、実務を担う人々にとっては極めて重要であった。事実、ビスケットは貿易品として、その実用性ゆえに高く評価された 22 。
一方、カステラの価値は、その「儀礼性」や「奢侈性」にあった。それは、日常の糧ではなく、特別なハレの日のための菓子であり、権力構造の中で贈答品として流通することで、その文化的・社会的価値を高めていった。信長や秀吉といった戦国の覇者が魅了されたのは、ビスケットの地味な実用性ではなく、金平糖やカステラが持つ、希少で華やかな魅力であった 8 。
結局のところ、戦国から江戸初期の日本の支配者層が、南蛮という異文化に求めたのは、自らの権威を高めるための「珍奇で贅沢な品々」であった。カステラはこの需要に完璧に応えたが、ビスケットはその需要から外れていた。食品の受容とは、味や物理的特性のみならず、それが時代の求める社会的・文化的記号性といかに合致するかによって、大きく左右される。カステラとビスケットの対比は、その典型的な事例と言えよう。
両者の受容のされ方の違いは、その後の日本の食文化への影響にも明確な差となって現れた。
カステラの普及は、それまで食用としては一般的でなかった鶏卵を、菓子の主要な材料として用いる文化を日本に定着させる上で、決定的な役割を果たした 6 。卵の持つ起泡性や凝固性、豊かな風味は、和菓子の表現の幅を大きく広げ、その発展に多大な貢献をした。
一方で、ビスケットの製法や食文化が、日本の一般社会に広まることはついになかった。しかし、それはビスケットの物語の終わりを意味するものではない。「小麦粉を主原料とする、焼き固められた長期保存可能な固形食」という概念そのものは、歴史の水面下で静かに受け継がれ、後の時代に再び脚光を浴びる日を待つことになるのである。
本報告書を通じて、戦国時代における「ビスケット」の実像を多角的に検証してきた。その結果、従来語られてきた「日本人の口に合わず、人気がなかった南蛮菓子」という一面的な評価は、この食品が持つ歴史的意義の半分しか捉えていないことが明らかになった。ビスケットの物語は、嗜好品としての失敗の歴史ではなく、実用品としての成功と、その概念が時代を超えて継承されていく壮大な歴史なのである。
ビスケットを「菓子」という枠組みだけで評価すること自体が、誤解の始まりであった。本報告で詳述した通り、ビスケットの原点は、大航海時代が生んだ「機能性食品」であり、その本質は保存性と携帯性にあった。甘美な嗜好品を期待した当時の日本人にとって、硬く味気ないビスケットが魅力的に映らなかったのは当然の帰結である。
しかし、その実用性に着目すれば、評価は一変する。ビスケットは、国際貿易の舞台では価値ある「商品」として確固たる地位を築き、日本の優れた小麦生産・加工技術を背景に、長崎からマニラへと輸出される重要品目となっていた。これは、ビスケットが単なる文化の輸入品ではなく、当時の日本の経済活動に組み込まれた存在であったことを示している。したがって、ビスケットは「不人気な菓子」ではなく、「成功した実用品」として再評価されるべきである。
ビスケットが日本の輸出品であったという事実は、戦国末期から江戸初期にかけての日本の国際的地位を再考する上で重要な示唆を与える。日本は、単に西洋の文物を受け入れる受動的な存在ではなく、それを自国で生産し、国際市場に再供給するだけの技術力と経済力を持っていた。ビスケットの輸出は、そのことを示すささやかながらも確かな証拠であり、日本の経済史・技術史において見過ごされがちな側面を照らし出している。
また、兵糧としての可能性は、米を中心とする日本の食文化の強固な枠組みの中で開花することはなかった。しかし、「小麦粉ベースの長期保存可能な固形食」という概念そのものは、日本の兵糧史において一つの重要な問いを投げかけた。それは、後の時代に、より切実な形で再び浮上することになる。
戦国時代に伝来したビスケットの物語は、そこで途絶えることはなかった。その「保存食」という本質的な遺伝子は、歴史の水面下で静かに眠りにつき、約250年の時を経て、幕末の動乱期に再び呼び覚まされる。
安政2年(1855年)2月28日、水戸藩の蘭医であった柴田方庵は、欧米列強の脅威が迫る中、軍用食料としてのビスケットの重要性に着目した。彼は長崎留学中にオランダ人からその製法を学び、詳細なレシピを「パン・ビスコイト製法書」として水戸藩に宛てて送ったのである 19 。これは、ビスケットを嗜好品としてではなく、明確に「兵糧」として捉え直し、国家的課題としてその製造に取り組もうとした、日本史上画期的な出来事であった。
この柴田方庵の先見性は、明治時代に入り、近代的な軍隊を創設した日本政府によって受け継がれる。日本陸軍は、兵士の携行食料として、ヨーロッパの軍用ビスケットを参考に、独自の固形食料の開発に着手した。こうして生まれたのが、「重焼麺麭(じゅうしょうめんぽう)」、後の「乾パン」である 26 。「重く焼いたパン」というその名は、奇しくもビスケットの語源である「二度焼き」と響き合う。
かくして、16世紀にポルトガル船がもたらした「ビスコイト」は、一度は歴史の表舞台から姿を消したかのように見えながら、その実用的な魂は死なず、幕末の蘭医の手に、そして近代日本の軍隊の糧食へと受け継がれていった。戦国時代に蒔かれた一粒の種は、長い雌伏の時を経て、形を変えながらも、現代の我々が知る非常食「乾パン」として結実したのである。ビスケットの歴史とは、単なる食文化の一コマではなく、日本の近代化へと繋がる、知られざる伏線であったと言えよう。