『一品流水学集』は、伝承に反し村上武吉らが永禄11年(1568年)に著した、毛利氏配下「一品流」の兵法書。信長上洛後の戦乱に対応、実践的な海戦術を体系化した書。
日本の戦国時代、瀬戸内海を舞台に繰り広げられた海上の覇権争いは、数多の物語を生み出した。その中でも、安芸の雄・毛利氏とその配下にあった村上水軍の活躍は、後世の我々を強く惹きつけてやまない。この毛利氏と村上水軍の関係を象徴する一冊の書物として、しばしば『一品流水学集』(いっぽんりゅうすいがくしゅう)の名が挙げられる。
広く知られている伝承によれば、この書物は、毛利元就の三男であり、水軍の統率に長けた小早川隆景が、能島・因島といった村上水軍の拠点に伝わる秘伝の戦法をまとめ上げ、父・元就に献上したものであるという。その卓越した内容に深く感銘を受けた元就が、自らの家紋である「一に三つ星」(通称、一品紋)にちなんで、この書物に『一品流水学集』の名を与えた、とされている。この物語は、智将・元就とその子・隆景の父子関係、そして毛利家と村上水軍の強固な結びつきを描き出す、英雄譚として非常に魅力的である。
しかしながら、歴史学の領域において、このような逸話的な伝承は、その根拠となる一次史料の裏付けが不可欠である。この「元就献上・命名説」は、残念ながら同時代の信頼できる史料によって直接的に証明されているものではない。それは史実そのものというよりは、むしろ後世の人々によって「そのように語られてきた」という歴史、すなわち一種の文化的記憶と見なすべきものである。
本報告書の目的は、この広く流布する伝承の検証を出発点とし、現存する書誌情報や関連史料を丹念に調査・分析することを通じて、『一品流水学集』の真の姿を明らかにすることにある。具体的には、一体誰が、いつ、どのような歴史的背景のもとでこの書物を著したのか。そして、その書名に込められた真の意味とは何か。本書が戦国時代の軍事史において持つ本来の価値とは何かを、実証的に解明していく。
そのために、本報告書は以下の構成をとる。まず第一章では、現存する写本の書誌情報に基づき、本書の著者、成立年代、書名の由来といった基礎的な事実を確定させる。続く第二章では、本書が成立した永禄十一年(1568年)という特定の年に焦点を当て、当時の瀬戸内海を取り巻く政治・軍事的情勢を分析し、本書が編纂された歴史的必然性を探る。第三章では、断片的な情報からその内容を推察するとともに、後世に与えた影響、特に郷土文化との関わりについて考察する。最後に、これらの分析を総合し、『一品流水学集』の歴史的価値を再定義するとともに、伝承が持つ意味についても論じたい。
伝承の霧を払い、『一品流水学集』の客観的な輪郭を捉えるためには、まず現存する史料そのものに目を向ける必要がある。幸いにも、この書物は完全に失われたわけではなく、その存在を証明する確かな記録が残されている。
『一品流水学集』の存在を今日に伝える最も重要な史料は、九州大学附属図書館記録資料館に所蔵されている写本(長沼文庫)である 1 。この記録は、本書に関する議論の揺るぎない土台となる、以下の書誌情報を提供している。
これらの情報は、極めて重要な事実をいくつも示している。第一に、小早川隆景が献上し、毛利元就が命名したという伝承とは異なり、本書には明確な三名の著者と、永禄十一年十月という極めて具体的な成立年月が存在することである。これにより、『一品流水学集』は曖昧な「元就の時代」の産物ではなく、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした歴史的転換点である1568年という、特定の瞬間に生み出された歴史的文書として位置づけることが可能となる。これは、本書を個人の逸話から解放し、具体的な歴史的文脈の中で分析するための決定的な出発点である。
第二に、本書が我々の目に触れるに至った経緯そのものが、その価値の一端を物語っている。戦国時代に生み出されたこの兵法書が、村上氏の子孫とみられる人物(村上弥太郎氏)によって近代まで守り伝えられ、そして大正期における郷土史研究の高まりの中で、伊予史談会という地域の歴史研究団体によって「再発見」され、記録されたという事実である 1 。これは、本書が単なる古文書としてだけでなく、ある一族の記憶を継承し、近代の学術的関心によってその価値を見出された文化財としての側面を持つことを示唆している。本書の歴史は戦国時代で完結したのではなく、近代に至るまでの伝承と研究の歴史もまた、その物語の重要な一部なのである。
書誌情報が明らかになったことで、次に問われるべきは書名の由来である。「元就が家紋から命名した」という伝承は、著者と成立年が確定した時点でその信憑性が大きく揺らぐが、では「一品流」とは一体何を指すのであろうか。
この問いに対する答えは、関連資料を統合することで見えてくる。ある古書店の目録によれば、「一品流」とは「瀬戸内水軍の一流派で、三島流水軍が毛利元就の配下に属したのを契機に、三島流の分派として一流を形成したもの」と説明されている 5 。さらに、その名の由来は「元就は大江氏で、平城天皇の皇子一品阿保親王の後裔にあたるところからいう」と記されている 5 。
この記述は、毛利氏の家紋の由来と照らし合わせることで、より明確になる。毛利氏の定紋である「一に三つ星」紋は、毛利氏の遠祖とされる一品阿保親王(いっぽんあぼしんのう)が、皇親に与えられる最高の品位である「一品」を賜ったことを図案化したものと伝えられている 6 。
つまり、『一品流水学集』という書名と、毛利氏の家紋である「一品紋」は、毛利元就という一個人の感銘を介して結びついたのではなく、両者がともに毛利氏の祖先である一品阿保親王という共通の源流を持つ、いわば「兄弟」のような関係にあったのである。村上水軍が毛利氏の指揮下に組み込まれる中で、毛利家の権威の象徴である「一品」を冠した「一品流」という流派名を名乗るようになった。そして、その流派の兵法書として著されたのが『一品流水学集』であったと考えられる。
この解釈は、物語の焦点を大きく転換させる。元就のカリスマ性を強調する個人的な逸話から、毛利氏と村上水軍が形成した軍事システムの組織論へと視点が移るからである。これは、両者の関係が単なる殿様と家来という属人的な主従関係に留まらず、「一品流」という共通の看板(ブランド)を掲げる、より制度化・組織化された軍事同盟であったことを強く示唆している。書名一つを正しく解釈するだけで、戦国大名・毛利氏の統治構造の一端が垣間見えるのである。
本書の価値を測る上で、著者三名の正体は決定的に重要である。
著者筆頭に挙げられる「村上武慶」は、その名と活動時期から、能島村上氏の当主であり、「日本最大の海賊」の異名で知られる 村上武吉 (むらかみ たけよし)と同一人物である可能性が極めて高い 9 。武吉の名は「武慶」とも表記されることがあり、本書が能島・因島の水軍戦法を記したものであるという伝承の内容とも合致する。もし著者がまさしくあの村上武吉であるならば、本書は単なる兵法書ではなく、戦国時代屈指の海の将が自らの経験と知見を注ぎ込んだ、第一級の軍事史料ということになる。
共著者である「因島吉充」と「村上景継」については、その姓から因島村上氏に連なる人物であると推察される 1 。村上水軍は、能島、因島、来島(くるしま)の三家で構成され、これらは「三島村上氏」と総称される 10 。彼らは同族意識を持ちつつも、それぞれが独立した勢力として、時には協力し、時には反目し合うライバル関係にあった 11 。
その中で、三家の中心的存在であった能島の当主(武吉)と、因島の将が共同で一冊の兵法書を執筆したという事実は、極めて示唆に富んでいる。これは、永禄十一年という時期において、毛利氏の強力な統制のもと、三家間の対立や利害を超えて、軍事技術の標準化と共有を図るという、より大きな戦略的要請が存在したことを物語っている。個々の海賊衆の集合体であった村上水軍が、毛利家の軍事機構に正式に組み込まれた「正規水軍」へと変質していく、その過渡期を象徴する物証こそが、『一品流水学集』であったと言えるだろう。
以上の分析をまとめ、利用者の方が当初お持ちであった伝承と、史料に基づく事実を比較すると、以下の表のようになる。
項目 |
広く知られる伝承 |
史料に基づく事実 |
献上者・著者 |
小早川隆景が編纂し献上 |
村上武慶(武吉)、因島吉充、村上景継の三名が共同で執筆 1 |
命名者 |
毛利元就 |
不明(流派名に由来すると考えられる) |
成立年 |
元就の時代(不明確) |
永禄十一年(1568年)十月 2 |
書名の由来 |
元就が毛利家の家紋(一品紋)にちなんで命名 |
毛利氏配下の水軍流派「一品流」の兵法書であるため 5 |
位置づけ |
元就と隆景の個人的な逸話 |
毛利氏の軍事機構に組み込まれた村上水軍の公式な兵法書 |
『一品流水学集』が永禄十一年十月に成立したという事実は、我々に新たな問いを投げかける。なぜ、この特定の年に、この書物は書かれなければならなかったのか。その歴史的必然性を探るためには、当時の日本全体、そして瀬戸内海を取り巻く情勢に目を向ける必要がある。
天文二十四年(1555年)の厳島の戦いにおいて、毛利元就は陶晴賢の大軍を破り、中国地方の覇権を確立した。この勝利の背後には、村上水軍をはじめとする毛利方水軍の決定的な活躍があった。この戦い以降、毛利氏にとって瀬戸内海の制海権を掌握することは、領国の維持と拡大における死活問題となった。
村上水軍は、単に海上での戦闘力に秀でていただけではない。彼らは毛利氏の勢力圏拡大において、兵員や兵糧、物資の安全な輸送、敵対勢力の海上封鎖、そして海戦における主力部隊として、不可欠な役割を果たした 10 。彼らはもはや独立した「海賊衆」ではなく、毛利氏という巨大な政治権力の国家戦略に組み込まれた、専門家集団としての「水軍」であった。毛利氏の陸上における支配力と、村上水軍の海上における機動力が一体となることで、毛利氏は西国に一大勢力圏を築き上げたのである。この強固な同盟関係こそが、『一品流水学集』が生まれる土壌であった。
『一品流水学集』が著された永禄十一年(1568年)は、日本の歴史が大きく動いた年であった。この年の九月、尾張の織田信長が、室町幕府の次期将軍候補であった足利義昭を奉じて京に上洛し、瞬く間に畿内を制圧した。これにより、日本の政治的中心に、旧来の権威とは異なる、圧倒的な軍事力を背景とした巨大な新興勢力が誕生したのである。
この中央情勢の激変は、西国の雄であった毛利氏にとって看過できない事態であった。信長の存在は、いずれ自らの覇権を脅かすであろう将来的な脅威として、明確に認識されたはずである。東から迫り来るであろう圧力に対抗するためには、西国、特に毛利氏の影響力が及ぶ四国や九州への支配をより一層強固なものにし、背後を固める必要性が急速に高まった。
まさにその永禄十一年、伊予国(現在の愛媛県)では、毛利氏が支援する河野氏を巡る動きが活発化しており、毛利・村上水軍が深く関与していたことが史料から確認できる 12 。これは、当時の瀬戸内海が決して平穏ではなく、毛利氏がその制海権を維持するために、常に軍事的な緊張を強いられていたことを示している。
このような状況下で、なぜ兵法書が編纂されたのか。それは、戦いがより大規模化、長期化し、個々の船頭や指揮官が持つ経験則、すなわち「暗黙知」だけでは対応しきれなくなるという危機感の表れであったと考えられる。信長という新たな強敵の出現は、これからの戦争が従来とは質的に異なるものになることを予感させた。来るべき大規模海戦に備え、村上水軍が長年にわたって培ってきた海戦術や操船術を、『一品流水学集』という「形式知」に変換し、組織全体で共有・伝承可能なものにすることは、極めて高度な戦略的判断であったと言える。
つまり、『一品流水学集』の編纂は、単なる知識の整理や記録という受動的な行為ではない。それは、毛利・村上連合が次の時代の戦争に備えるための、知的な軍備拡張であり、組織としての生存と勝利を追求する能動的な戦略行動だったのである。
『一品流水学集』の本文そのものは現存が確認されておらず、その具体的な内容を完全に知ることはできない。しかし、残された断片的な記述や関連資料から、その輪郭をある程度推察することは可能である。
本書の内容を推し量る上で最も重要な手がかりは、九州大学附属図書館の記録に残された「家来水学に私功を加へて水軍兵法を記す」という一文である 1 。この簡潔な記述には、本書の性格が凝縮されている。
「家来水学」(けらいすいがく)とは、村上家に代々伝わってきた伝統的な操船術、潮流の知識、そして基本的な戦法を指すと考えられる。これは、組織として継承されてきた基礎となる知識体系である。一方、「私功」(しこう)とは、著者たち、特に百戦錬磨の将であった村上武吉自身の、実際の戦いの中で得た新たな戦功や、そこから生み出された創意工夫を意味する。つまり本書は、古くからの伝統(家来水学)を土台としながらも、それに安住することなく、最新の戦訓(私功)を取り入れてアップデートされた、極めて実践的なマニュアルであったと推察される。
具体的に記述されていたであろう内容は、以下のようなものであったと考えられる。
本書は孤立した存在ではなく、村上水軍が育んだ一連の兵法書群の中に位置づけられる。例えば、今治市村上海賊ミュージアムが所蔵する、能島村上家伝来の兵法書『舟戦以律抄』(ふないくさ いりっしょう)もその一つである 13 。また、時代は下るが、日露戦争でバルチック艦隊を破った秋山真之が、海軍戦術を考案する際に村上水軍の古法を熱心に研究したという逸話も残っており 15 、村上水軍の兵法が後世まで高い評価を受けていたことがわかる。『一品流水学集』は、この知の潮流の源流に位置する、重要な一冊であったと言えよう。
多くの兵法書が中国の古典(『孫子』など)の引用や観念的な議論に終始しがちなのに対し、『一品流水学集』は「私功を加へて」という記述から明らかなように、戦場の指揮官自身がペンを執ったからこそ可能な、極めて実践的かつ経験的な知見に満ちていたと考えられる。本書の真の価値は、抽象的な理論ではなく、瀬戸内という具体的な海で、戦国の動乱を生き抜いた者たちの、血の通ったノウハウが凝縮されていた点にある。
『一品流水学集』は、歴史的史実としてだけでなく、後世の文化にもその名を留めている。その代表例が、広島県尾道市因島に伝わる郷土芸能「因島水軍太鼓」である。この太鼓は、「『一品流水学集』に記された鼓譜を基に、現代風にアレンジして再現したもの」と紹介されている 17 。
この伝承は、歴史的蓋然性の観点からは慎重な検討を要する。前述の通り、戦国時代の海戦において太鼓が信号伝達の手段として重要な役割を果たしたことは間違いない。しかし、それが現代的な意味での演奏用の「鼓譜」(楽譜)として詳細に記されていた可能性は極めて低い。当時の記録は、あくまで「進め」「退け」といった単純な命令を伝達するための符号(合図)の規定であったと考えられ、芸能としての音楽的旋律やリズムを記した楽譜とは、その性格を全く異にする。
しかし、この伝承を単に「史実ではない」と切り捨てるのは早計である。これは、史実とは異なる次元で、非常に興味深い文化的現象を示しているからだ。地域の人々が、自らの郷土芸能(水軍太鼓)のルーツを、地域が誇る歴史的英雄(村上水軍)と、その知の結晶とされる伝説的な書物(『一品流水学集』)に結びつけることで、その文化に歴史的な権威と物語性を付与しようとする、文化創造の一つの形なのである。
ここから、『一品流水学集』が持つ二重の構造が見えてくる。一つは「歴史的史実」としての側面、すなわち1568年に村上武吉らによって書かれた軍事専門書という事実である。もう一つは「文化的記憶」の核としての側面であり、元就の逸話や水軍太鼓の起源譚といった、後世の人々がその名のもとに紡ぎ出した物語の源泉となっている。専門的な歴史研究においては、この二つを明確に区別することが求められる。しかし同時に、後者の「文化的記憶」が、なぜ、どのようにして生まれてきたのかを分析することで、歴史というものが人々の間でどのように受容され、新たな文化を生み出す力となっていくのかという、より大きなテーマに迫ることができるのである。
本報告書で行ってきた詳細な調査と分析の結果、『一品流水学集』の姿は、広く知られる伝承とは大きく異なる、より具体的で歴史的な輪郭をもって立ち現れてきた。
まず結論として、 『一品流水学集』は、小早川隆景が父・毛利元就に献上した書物ではなく、永禄十一年(1568年)に、能島村上氏の当主・村上武吉(武慶)と因島村上氏の将たちが中心となり、毛利氏配下の公的な水軍流派である「一品流」の兵法書として著した、極めて専門的な軍事技術書である。 その成立の直接的な引き金は、同年に織田信長が上洛を果たしたことに伴う中央情勢の激変であり、将来の大規模な戦争に備えて、毛利・村上連合が組織的な知識の体系化を図った、高度な戦略的行動の一環であった。
この事実に基づき、本書の歴史的価値を再定義することができる。その価値は、元就という英雄を感銘させたという個人的な逸話にあるのではない。本書の真の価値は、以下の三点に集約される。
最後に、なぜ「元就献上・命名説」のような、史実とは異なる伝承が生まれ、語り継がれてきたのかについて考察したい。それは、毛利氏の覇業にとって村上水軍の力が絶対に不可欠であったという、誰もが認める歴史的な「本質」を、人々が記憶し、後世に語り継いでいく上で、最も魅力的で分かりやすい「物語」の形に結晶させた結果であろう。複雑な政治的・軍事的背景を捨象し、智将・元就とその息子・隆景、そして最強の水軍という、英雄たちの個人的な関係性に集約することで、歴史はより親しみやすいものとなる。
伝承は史実そのものではない。しかし、それは史実の重要性を映し出す鏡として、独自の価値を持っている。本報告書は、その鏡の向こう側に広がる、より複雑で、より豊かな歴史の真実を提示することを試みたものである。魅力的な伝承を手がかりとしながらも、それに留まることなく、史料に基づいた探求を進めることによってのみ、我々は歴史の深奥に触れることができるのである。