『一遍上人絵伝』は鎌倉時代の国宝絵巻。一遍の遊行と時宗の教えを描き、当時の社会を詳細に記録。戦国期には時宗が陣僧・同朋衆として活躍し、絵巻は風俗画の源流に。
本報告書は、時宗の開祖・一遍の生涯を描いた鎌倉時代末期の国宝『一遍上人絵伝』(以下、『絵伝』と略記)を、単なる美術史・宗教史の枠内で分析するに留めない。これを一つの「基準点」とし、約200年後の「戦国時代」という激動の時代を映し出す鏡、あるいはその変化を測定する尺度として用いることを目的とする。具体的には、『絵伝』に描かれた鎌倉後期の社会・経済・文化・思想の様相と、戦国時代のそれが、いかに連続し、あるいは断絶しているのかを多角的に解明する。
本報告書の核心をなす問いは、なぜ、すべてを「捨てる」ことを理想とした「捨聖」一遍の物語が、欲望と実力が渦巻く戦国の世と響き合うのか、という点にある。この問いを解く鍵は、『絵伝』そのものが持つ多層的な価値と、一遍の死後に時宗が遂げた社会的な役割の劇的な変容にある。本稿では、この変容の軌跡を追いながら、『絵伝』が戦国時代を理解する上で持つ、隠された重要性を明らかにする。
報告書は三部構成を採る。第一部では『絵伝』そのものを徹底的に解剖し、鎌倉時代後期という時代の理想と現実を浮き彫りにする。第二部では、時宗が一遍の死後、いかにして戦国社会の深部にまで浸透していったかを、特に「陣僧」と「同朋衆」という二つの貌(かお)に焦点を当てて分析する。最終第三部では、第一部・第二部の知見を統合し、「戦国」という視点から『絵伝』を再読解することで、芸術様式、社会経済、死生観、権力との関係性における連続と非連続を論証する。
本章では、『絵伝』をその制作背景、描かれた思想、そして内包する社会情報という三つの側面から詳細に分析し、鎌倉時代後期という時代精神の複合的な現れとして位置づける。
『一遍上人絵伝』は、時宗の開祖である一遍の没後10周年にあたる正安元年(1299年)に完成した 1 。この制作は、一遍の生涯と教えを後世に伝えるという目的を超え、新興宗教であった時宗の教団としての正統性を確立し、開祖を神格化するための記念碑的事業であった。詞書(ことばがき)は一遍の異母弟、あるいは弟子と伝えられる聖戒(しょうかい)が起草し、絵は法眼(ほうげん)という高位の僧位にあった画僧・円伊(えんい)が手がけたと奥書に記されている 2 。この絵巻が、単なる一個人の伝記ではなく、時宗教団の「根本聖典」として極めて重要視されたことは、後世において数多くの転写本が制作された事実からも明らかである 5 。それは、教団のアイデンティティと教義の源泉として、時代を超えて参照され続ける存在であったことを示している。
『絵伝』の物質的な形態は、その制作意図と価値を雄弁に物語っている。
第一に、その材質である。通常の絵巻物が紙に描かれることが多いのに対し、本作は極めて高価で制作に手間のかかる「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)」、すなわち絹地に彩色して描かれている 2 。中世に制作された絵巻のうち、絹本で現存するものはわずか三組しかなく、この事実は『絵伝』が教団の威信をかけて制作された最高級の作品であることを示唆している。
第二に、その寸法である。『絵伝』の縦幅は約38cmから40cmに及び、一般的な絵巻の32cmから33cmというサイズを大きく上回る 6 。この巨大な画面は、一遍が旅した日本各地の雄大な風景を描き出すことを可能にし、観る者に圧倒的な視覚的インパクトを与える。それは、一遍の教えが日本全国に及ぶ普遍性を持つことを視覚的に宣言する効果を持っていた。
第三に、その画風である。絵画様式は、平安時代以来の日本の伝統的な絵画である大和絵(やまとえ)を基盤としながらも、山水描写などには当時最新の中国・宋元画の技法が大胆に取り入れられている 1 。この和漢の様式を融合させたハイブリッドな作風は、外来文化を積極的に受容した鎌倉時代という時代の文化的な開放性と先進性を象徴している。
『一遍上人絵伝』には、主に二つの系統が存在する。
一つは、本稿で主たる分析対象とする 聖戒本 である。これは詞書を聖戒が、絵を円伊が担当したもので、通称「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」または「歓喜光寺本」と呼ばれる 2 。全12巻からなり、現在は神奈川県の清浄光寺(通称・遊行寺)と、江戸時代に流出した第7巻のみを東京国立博物館が所蔵しており、国宝に指定されている 1 。
もう一つは、一遍の別の弟子である**宗俊(そうしゅん)**が編纂した系統で、こちらは全10巻からなる 3 。聖戒本が比較的客観的で写実的な描写を特徴とするのに対し、宗俊本はより教団色が強く、一遍と時宗二祖である他阿真教(たあしんきょう)を神格化する意図が明確に見られる 2 。
これらの原本系統に加え、江戸時代中期作と伝わる来迎寺本(十日町市指定有形文化財) 8 や、天保11年(1840年)に制作された模本 10 など、数多くの模本・転写本が現存する。この事実は、『絵伝』の物語と図像が、時代や階層を超えて広く受容され、再生産され続けたことを物語っている。
項目 |
聖戒本(国宝・歓喜光寺本系) |
宗俊本(一遍上人縁起絵) |
通称 |
一遍聖絵 |
遊行上人縁起絵 |
成立年 |
正安元年(1299年) |
鎌倉時代末期~南北朝期 |
編纂者 |
聖戒(詞書)、円伊(絵) |
宗俊 |
巻数 |
全12巻 |
全10巻 |
材質 |
絹本著色 |
紙本著色 |
特徴 |
写実的で客観的な描写。風景描写に優れ、教団色は比較的弱い。一遍個人の遊行に焦点。 |
教団色が強く、一遍と二祖他阿の神格化の意図が見られる。奇瑞・霊験譚が多い。 |
所蔵 |
清浄光寺、東京国立博物館(巻七) |
金台寺本、真光寺本など |
この比較から浮かび上がるのは、一見矛盾するような教団の二重戦略である。国宝に指定された聖戒本の比類なき豪華さは、時宗という新興教団の権威を確立し、他の宗派に対する示威として機能した。それは教団内部の結束を高めるための、カリスマ的な象徴であった。一方で、より安価な紙本の模本を制作・流布させることで、一遍の物語と教えを、文字の読めない人々を含むより広範な階層へ視覚的に届けることが可能になった。すなわち、『絵伝』は原本を頂点とする一種のメディア・ピラミッドを形成し、エリート層への「権威の確立」と、大衆への「教義の拡散」という二つの目的を同時に達成する、極めて高度な戦略的装置だったのである。
『絵伝』が物語る一遍の生涯と実践は、鎌倉新仏教の中でも特にラディカルなものであった。
一遍は伊予国(現在の愛媛県)の有力な武士である河野氏の出身でありながら、10歳で母と死別したことを機に出家する 11 。その後、父の死をきっかけに一度は還俗し、半僧半俗の生活を送るが、やがて再び出家の道を選び、文字通り全てを「捨てる」遊行の旅に出立した 9 。彼の思想の核心は、あらゆる所有から自らを解放することにあり、その徹底ぶりは「捨聖」という尊称に集約されている 13 。死の直前に自らの著作をすべて焼き捨てたという有名な逸話は、知識や言葉さえも所有の対象と見なし、それを放棄しようとした彼の姿勢を象徴している(ユーザー提供情報)。
一遍の活動は、三つの特徴的な実践によって定義される。
一遍の活動は、純粋な仏教の枠組みに収まるものではなかった。賦算の正当性を熊野権現という神の託宣に求めるように、日本の土着的な神祇信仰を積極的に取り入れた 6 。また、彼の遊行ルートは、熊野、善光寺、四天王寺、石清水八幡宮といった、古くから信仰を集めてきた既存の霊場や寺社を巧みに結びつけている 2 。これは、全く新しい聖地を創造するのではなく、古来の聖地が持つ権威とネットワークを利用して自らの教えを効果的に広めるという、極めて戦略的な布教手法であった。
これらの実践を総合的に捉えると、一遍の活動は単なる宗教運動に留まらず、一種の「中世のメディア革命」であったと評価できる。第一に、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と記された賦算の札は、複雑な仏教教義を、誰にでも理解可能な短いフレーズと携帯可能な「モノ」へと集約した、優れた情報の パッケージ化 であった 15 。これにより、文字の読めない民衆にも教えの核心が直感的に伝播した。第二に、遊行僧が全国を移動しながら賦算を行うシステムは、中央からの情報を組織的に、広範囲の民衆(マス)に直接届ける
マス・コミュニケーション のネットワークであった 14 。これは、荘園や幕府といった既存の権力構造を飛び越える、新たな情報伝達網の出現を意味した。第三に、踊念仏は、教義を静かに「聞く」のではなく、集団的な熱狂の中で「体験」させる、没入型の
体験型コンテンツ であった 7 。身体的な高揚感を伴うこの宗教体験は、人々の心に深く刻み込まれ、強力な求心力を生み出した。一遍は、身体、モノ、そして集団的熱狂というメディアを駆使し、民衆の心に直接働きかける、全く新しい宗教運動を創造したのである。
『絵伝』のもう一つの特筆すべき価値は、一遍の伝記という枠を超え、鎌倉時代後期の社会の姿を驚くほど詳細かつ網羅的に記録している点にある。
『絵伝』は、一遍の遊行の軌跡に沿って、鎌倉から京都、熊野、さらには雪深い奥州に至るまで、日本各地の具体的な風景を極めて写実的に描いている 2 。絵巻には、霊峰富士を背景に流れる富士川の雄大な景観 24 、多くの人々で賑わう京都の四条京極や市屋 7 、あるいは寂寥感漂う東北の冬景色 23 など、多様な自然と都市の姿が収められている。特定の場所の景観を主題とするこうした描写は、後の時代に隆盛する「名所図絵」や浮世絵風景画の源流として、美術史上、高く評価されている 20 。
『絵伝』は、鎌倉時代の社会経済史を研究する上で欠かせない、一級の視覚史料である。その白眉は、備前国(現在の岡山県)の「福岡の市」を描いた場面であろう 12 。
この場面には、米、反物、魚、そして当時最新の工業製品であった備前焼の壺などを商う店が軒を連ね、活発な売買の様子が描かれている 12 。これは、貨幣経済(絵には宋銭が描かれている 20 )の浸透とともに、商品経済が勃興しつつあった時代の息吹を活写している。特に注目すべきは、商いの担い手の多くが女性として描かれている点である 20 。これは、家父長的な社会というステレオタイプな中世像を覆し、女性が経済活動において重要な役割を果たし、社会に進出していたことを示す力強い証拠となっている。
さらに絵巻全体を見渡せば、高位の武士や僧侶、貴族から、商人、職人、そして画面の隅には物乞いや病人(癩病患者など)まで、実に多様な階層の人々が、それぞれの生活を営む姿で生き生きと描き込まれている 7 。これにより、我々は鎌倉時代の社会構造と人々の日常生活を、文字史料だけでは得られない豊かさで、トータルに理解することができるのである 20 。
一遍の「遊行」は、当時の交通インフラを駆使して行われた。そのため『絵伝』には、鎌倉時代の交通網の実態が詳細に記録されている。
例えば、三大急流の一つである富士川を渡る場面では、流れの速い場所に架けられた「舟橋」の精緻な構造が描かれており、これは当時の土木技術を知る上で極めて貴重な資料である 24 。また、京都の堀川で筏を操る人々や、桂川で鵜飼いを行う鵜匠の姿は、河川が物流や漁業の重要な舞台であったことを示している 7 。陸路においても、一遍一行が旅する街道や、関所が置かれた近江の関寺などが描かれ、人々の移動の実態を具体的に伝えている 1 。
これらの描写を総合すると、『絵伝』が描き出しているのは、単なる風景や風俗ではないことがわかる。それは、歴史家・網野善彦が提示した「無縁」の世界、すなわち荘園や武家社会といった固定的な主従関係(有縁)の外側に広がる、流動的で開かれた社会領域の可視化である。一遍自身が、寺を持たず定住しない「遊行」という生き方そのもので「無縁」を体現する存在であった 6 。そして彼が布教の場として選んだのは、寺社の境内だけでなく、市場(福岡の市)、浜辺(片瀬の浜)、橋の上、関所の周辺といった、多様な人々が往来し交錯する境界領域、すなわち「無縁所」であった。
『絵伝』に熱狂する群衆は、まさにこの「無縁」の民である。武士、商人、職人、遊女、乞食といった、本来なら交わることのない身分や職業の人々が、踊念仏という一つの目的のもとに混じり合う様は、固定的な身分秩序が一時的に解体される「無縁」の祝祭空間そのものである 7 。したがって、『絵伝』は、鎌倉時代の公式な記録からは見えにくい、もう一つの日本社会――流動的で、活気に満ち、既存の秩序の外側で躍動する人々の世界――を我々の眼前に描き出した、比類なきドキュメントなのである。そして、この「無縁」の世界が内包するダイナミズムこそが、後の戦国時代に下剋上や商業の爆発的発展といった形で社会を根底から揺るがすエネルギーの源泉となることを、我々はこの絵巻から予感することができる。
本章では、開祖一遍の死後、時宗がいかにしてその教義や社会的役割を変容させ、戦国という時代状況に適応していったかを分析する。特に、戦場における「陣僧」と、支配者の側近としての「同朋衆」という二つの貌に焦点を当てる。
一遍自身は教団の組織化には否定的であり、自らの著作さえも焼き捨てたが、彼のカリスマ的な活動によって形成された信徒集団は、その死後も存続した。この教団をまとめ上げ、制度を整えたのが、一遍の高弟であった他阿真教である 9 。他阿真教は、一遍を「開祖」、自らを「二祖」と位置づけ、教団の継承と発展の礎を築いた。
彼が率いた系統は「遊行派」と呼ばれ、相模国藤沢(現在の神奈川県藤沢市)に清浄光寺(通称・遊行寺)を建立し、ここを教団の拠点とした 33 。一遍の代名詞であった「遊行」は、教団の制度として継承され、歴代の法主(ほっす)は「遊行上人」として全国を巡回する伝統が確立された 14 。こうして、一遍の個人的な宗教活動は、強固な組織と拠点を持つ一つの宗派として、日本の宗教界に確固たる地位を築いていったのである。
組織化された時宗は、特に南北朝の動乱期から戦国時代にかけて、他の宗派には見られない特異な社会的役割を担うことになった。
時宗の僧侶(時衆)は、「陣僧」として戦乱の世の戦場にその姿を現した 34 。彼らの主な任務は、戦闘に直接参加することではなかった。その役割は、敵味方の区別なく、戦場で傷つき死にゆく武士たちに寄り添い、「最後の十念」(臨終の際に十回念仏を唱えさせること)を授けて、阿弥陀仏の浄土への安らかな往生を助けることにあった 33 。さらに、その臨終の様子を記録し、遺族に伝えるという、現代の従軍記者や看取りの役割も果たしていたのである。『太平記』などの軍記物語に描かれる戦闘場面の多くは、こうした陣僧たちの見聞に基づいているとも言われる 34 。
陣僧がこのような活動を可能にした最大の要因は、その「中立性」にあった。時衆の教えでは、「時衆において敵方と謂い、御方と云うは、更に出家の道に非ず」とされ、世俗的な敵味方の区別を超越することが厳しく求められていた 34 。この宗教的立場ゆえに、彼らは両軍の陣営を比較的自由に行き来することができた。その行動規範は細かく定められており、例えば、攻撃用の武器である弓矢兵杖を武士に取り次ぐことは禁じられていたが、防御用の鎧甲を取り次ぐことは許されていた 34 。
常に死と隣り合わせであった戦国の武士たちにとって、自らの罪を悔い、来世での救済を保証してくれる陣僧の存在は、計り知れない精神的な支えであった 14 。また、その中立性から、戦後の死体処理や埋葬、敵方への使者、遺族への連絡といった、極めて実務的な役割を担う存在としても重宝された。
戦場とは対照的な、権力の中枢においても時衆の系譜を引く人々は重要な役割を果たした。室町時代以降、足利将軍家や戦国大名に近侍し、雑務から高度な芸能までを担った「同朋衆」あるいは「阿弥衆」と呼ばれる人々である 38 。彼らの多くが「〇〇阿弥」という阿弥号を名乗ったことから、その起源は時衆にあるとされている。
彼らの職能は驚くほど多岐にわたった。茶の湯(能阿弥、千阿弥)、立花(りっか)、作庭(善阿弥)、猿楽(観阿弥・世阿弥親子も阿弥号を持つが、彼ら自身が時宗の僧であったかは議論がある)、水墨画、連歌、香道といった諸芸能を司り、支配者層の文化的活動を支えた 38 。さらに、将軍家が所蔵する中国渡来の美術品(唐物)の鑑定、管理、そしてそれらを用いた室内装飾(座敷飾り)といった、現代でいう学芸員やアートディレクターのような役割も担った 36 。
特に、足利義政の時代に東山文化の形成に大きく貢献した能阿弥・芸阿弥・相阿弥の「三阿弥」は、同朋衆の代表格として名高い 43 。彼らが確立した美意識や文化的作法は、後の時代にも大きな影響を与え、織田信長や豊臣秀吉に仕えた同朋衆にも引き継がれた 39 。彼らは、戦国大名の権威を示すための文化政策や、外交儀礼の演出において不可欠な存在となっていった。
時代 |
主な活動形態 |
社会的役割・機能 |
権力者との関係 |
鎌倉後期(一遍の時代) |
遊行、賦算、踊念仏 |
民衆の直接的救済、既存秩序への挑戦 |
警戒、時に追放(北条時宗) |
南北朝~室町時代 |
陣僧、同朋衆(阿弥衆) |
戦死者の慰霊、文化・芸能の担い手、調停役 |
利用、庇護(足利将軍家) |
戦国時代 |
陣僧、同朋衆、寺院ネットワーク |
軍事・文化両面での大名への奉仕、情報伝達 |
統制、領国支配への編入(後北条氏など) |
江戸時代 |
遊行(制度化)、檀家寺院 |
幕藩体制下の宗教的権威、民衆教化 |
公認、手厚い保護(徳川幕府) |
この変遷を深く考察すると、開祖一遍の「捨てる(無所有・無縁)」というラディカルな思想が、歴史のダイナミズムの中で逆説的な転回を遂げたことが見えてくる。時宗が戦国時代に果たした「陣僧」と「同朋衆」という二つの役割は、一遍の思想が皮肉にも真逆の形で社会的に機能した結果に他ならない。「俗世から超越している」という宗教的権威が、逆に「俗世の最も生々しい現場(戦場と権力の中枢)へのアクセスパス」となったのである。
陣僧が敵味方の区別なく戦場に入れたのは、彼らが特定の主君や領地に属さない「無縁」の存在であり、世俗的な利害から超越していると見なされたからに他ならない。一遍が「捨てた」はずの世俗との関わりが、後継者たちに「中立性」という社会的な価値を与えた。同様に、同朋衆が身分制の厳しい社会で将軍や大名の側近になれたのも、彼らが遁世した「世捨て人」であるため、通常の武士や貴族とは異なるルートで権力者に接近できたからである 41 。彼らの持つ芸能や目利きの才は、世俗の身分とは別の価値基準で評価された。ここでも「世俗的身分を捨てた」ことが、逆に最高権力への道を拓く鍵となった。
結論として、一遍の非俗の思想は、後継者たちの時代において、極めて高度な「俗世での生き残り戦略」へと転化したと言える。彼らは「阿弥陀仏への絶対帰依」という宗教的アイデンティティを保持しつつ、その超越性を巧みに利用して、戦乱の世における不可欠な社会的ニッチ(隙間)を確保したのである。これは、理想が現実の中で変容し、新たな意味と機能を持つに至る、歴史のダイナミズムを示す好例である。
本章では、これまでの分析を踏まえ、『絵伝』を戦国時代の文脈の中に置き、芸術、社会経済、思想、権力という四つの側面から、その歴史的意味を再評価する。
『一遍上人絵伝』が日本の絵画史にもたらした最大の革新は、特定の個人の伝記(聖者の物語)と、彼が旅する日本各地の具体的な風景や人々の風俗を、一つの壮大なパノラマの中に融合させた点にある 45 。特に、歴史の主役とは見なされてこなかった名もなき庶民の生活を、これほど生き生きと、かつ詳細に描き出したことは画期的であった 3 。この写実的な群衆・風俗描写のスタイルは、後の日本の風俗画に直接的かつ決定的な影響を与えた。
この系譜の頂点に位置するのが、戦国時代から桃山時代にかけて数多く制作された**「洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)」**である 46 。『絵伝』が確立した、高い視点から都市空間全体を俯瞰し、その中で活動する無数の人々の姿を細密に描き出すという技法は、洛中洛外図の基本的な構図として明確に受け継がれている。
この芸術様式の継承の背後には、しかし、制作目的の根本的な変質が存在する。『絵伝』と「洛中洛外図」は、視覚的な言語において親子関係にあると言えるが、その制作を支えるイデオロギーは大きく異なる。『絵伝』が描いたのは**「聖なる遊行の軌跡」**であり、その主役はあくまで一遍上人であった。絵を見る者は、一遍の視点に寄り添い、彼と共に日本全国を旅する宗教的な体験を共有する 7 。
これに対し、洛中洛外図の多くは、足利将軍や織田信長、豊臣秀吉といった時の権力者が発注したものである。そこに描かれる京都の繁栄した景観は、単なる風景ではなく、発注者の「支配領域(テリトリー)」の誇示に他ならない。屏風を見る者は、神のような視点から、支配者が統べる平和で豊かな都市を一望し、その圧倒的な権勢を認識させられるのである 46 。
つまり、『絵伝』が生み出した「社会全体を一枚の絵に収める」というリアリズムの技法は、戦国時代に至って、宗教的な物語を語る手段から、政治的な権力を可視化し、正当化するためのプロパガンダの手段へと転用されたのである。この変化は、芸術様式が時代の要請に応じてその社会的機能を劇的に変化させる様を見事に示している。
『絵伝』は、戦国時代に起こる社会経済の大きな変革を理解するための、貴重な「ビフォー」の姿を記録している。
『絵伝』に描かれた「福岡の市」は、鎌倉時代の荘園制という枠組みの中で生まれつつあった、活気ある自由市場の姿を伝えている 20 。しかし、それはまだ点在する市場であり、その間には多くの関所が存在し、自由な物流を妨げていた。
これに対し、戦国大名、特に織田信長は、領国経営の一環として大胆な経済政策を実行した。「楽市・楽座」は、座(同業者組合)が持っていた特権を廃止し、誰でも自由に商売ができるようにすることで、商業の活性化を狙ったものである 48 。さらに、領国内の
関所を撤廃したことは、物流コストを劇的に下げ、経済の一体化を促進した 48 。これらは、単なる経済政策に留まらず、軍事費を捻出し、城下町を繁栄させることで国力を高めるという、極めて合理的な戦略であった 49 。
『絵伝』の時代から戦国時代にかけて、商業は「自然発生的な賑わい」から「国家(大名)による戦略的な産業振興」へと、その性格を大きく変えたのである。
交通網に対する考え方もまた、大きく変化した。『絵伝』に描かれる道や橋は、主に巡礼者や商人が利用する生活・経済路であった 24 。
一方、戦国大名にとって、街道は兵員や兵糧、鉄砲といった軍需物資を迅速に輸送するための 軍事インフラ としての意味合いが強かった 52 。戦国初期には、敵の侵入を防ぐためにあえて道を狭くし、川に橋を架けないという防御的な発想が主流であった 52 。しかし、天下統一を目指す織田信長は、逆に道を拡幅し、真っ直ぐに整備することで、自軍の機動力を高めた 52 。この思想は、後の徳川家康による五街道整備へと繋がっていく 55 。道は、人々が交わる場から、権力が支配し動員するための装置へと、その意味合いを転換させたのである。
一見すると、すべてを捨て去ることを説いた一遍と、領土拡大の野望に生きた戦国武将は、水と油のように相容れない存在に見える。しかし、その根底には意外な共鳴点が存在した。
一遍の思想の根底には、この世のあらゆるものは常に移ろいゆくという、仏教的な「無常観」が深く横たわっている 13 。彼の「捨てる」実践は、この無常の真理を受け入れ、執着から解放されるための道であった。
一方、戦国武将は、文字通り「今日生きていることが、明日の保証にはならない」という日常を生きていた 57 。彼らにとって無常は、観念的な哲学ではなく、日々向き合わねばならない生々しい現実であった。この共通の基盤が、一見対極にある両者をつなぐ、精神的なブリッジとなった。
生き方において、戦国武将が自らの武力と才覚で運命を切り拓こうとする「自力」の世界の住人であるのに対し、一遍が説いたのは、阿弥陀仏の本願にすべてを任せる「他力」の救済であった。この点では両者は対立する。
しかし、人の命を奪うことを生業とする武士たちは、その罪深さゆえに死後は地獄に堕ちるという、仏教的な業(ごう)の思想に深く苛まれていた 58 。そのような彼らにとって、一遍の「信不信を問わず、善悪の別なく」すべての者が救われるという絶対他力の教えは、自らの罪の意識に対する、究極的な救済の論理として響いた可能性がある。上杉謙信が自らを軍神・毘沙門天の化身と信じ 60 、多くの武将が仏教に深く帰依したのは、現世での勝利という願いと、来世での救済という恐怖からの解放を、同時に満たそうとしたからに他ならない 59 。強烈な欲望と執着の世界に生きる武将たちにとって、すべてを「捨てる」一遍の思想は、逆説的ながらも強い精神的魅力を放っていたと考えられる。
時宗と権力者との関係性は、時代と共に劇的に変化した。
弘安5年(1282年)、一遍は布教のために鎌倉入りを試みるが、時の執権・北条時宗はこれを拒絶した 32 。これは、踊念仏がもたらす民衆の熱狂が、幕府の統治秩序を乱すことを警戒したためと考えられている。
しかし、皮肉なことに、その北条時宗自身が、二度にわたる元寇の戦没者を敵味方の区別なく弔うため、禅宗寺院である円覚寺を建立している 63 。また、時宗の子・貞時は、女性救済の駆け込み寺として知られる東慶寺を開いている 65 。一遍の民衆レベルでの救済思想と、北条氏の為政者としての国家レベルでの鎮魂政策は、異なる次元で同じ「救い」という課題に向き合っていた。
戦国時代になると、大名たちは時宗の持つ社会的機能を、より積極的に自らの領国経営に利用、あるいは統制するようになる。
小田原を本拠とした後北条氏の二代・氏綱は、時宗の僧を城中に招いて連歌の会を催しており 67 、また、領国支配のために発給した虎の印判状が時宗寺院にも残されていることから 68 、時宗が統治システムの一部に組み込まれていたことが窺える。
さらに、徳川家康に至っては、その祖先である松平親氏が時宗の僧「徳阿弥」であったという伝承が存在する 69 。この伝承の歴史的真偽はともかく、江戸時代に入ると、これが徳川幕府が時宗を公認し、手厚く保護するための正当性の根拠として機能した 33 。その結果、遊行上人の全国巡回は、幕府公認のもと「大名行列」さながらの威容を誇る制度へと変貌を遂げるのである 33 。
この鎌倉時代から戦国、江戸時代へと至る過程は、時宗と権力者の関係が、**「警戒される異端」 から 「利用価値のある社会装置(インフラ)」**へと大きく変質したことを示している。鎌倉時代、一遍の活動は既存の秩序を揺るがしかねない、コントロール不能な民衆エネルギーとして北条時宗に警戒された。しかし、南北朝・室町時代にその中立性や文化的スキルが「陣僧」「同朋衆」として権力者に「発見」され、その利用価値が認識されると、戦国大名たちは時宗の持つネットワークや文化的権威を、領国支配のための有効なツールとして積極的に利用・統制するようになった。最終的に、一遍のラディカルな宗教運動は、時代を経て、社会を安定させるための文化的・宗教的インフラへと姿を変えていったのである。
本報告書は、『一遍上人絵伝』が、単に鎌倉時代の宗教美術の傑作であるに留まらず、後代の戦国時代を理解するための多層的なテクストであることを論証した。
第一に、 芸術的には 、その写実的な風景・群衆描写が、戦国期に花開く「洛中洛外図」などの風俗画の直接的な源流となった。しかしその技法は、聖者の物語を語る手段から、権力者の支配を誇示する手段へと転用された。
第二に、 社会経済的には 、そこに描かれた「福岡の市」や交通網は、戦国大名による「楽市・楽座」や軍事インフラ整備といった革命的変革の大きさを測定するための、貴重な「基準点」となる。
第三に、 思想的には 、一遍の「捨てる」思想と絶対他力の救済論は、死と隣り合わせに生きた戦国武将たちの無常観や罪の意識と深く共鳴し、彼らの複雑な精神世界を理解する鍵を提供する。
第四に、 歴史的には 、一遍の死後に時宗が「陣僧」や「同朋衆」として果たした役割は、宗教が戦乱の世でいかに現実と関わり、権力と結びついていくかのダイナミズムを鮮やかに示している。
『一遍上人絵伝』を戦国時代の視点から読み解く作業は、一つの文化財が、制作された時代の文脈を超え、後代の社会や人々と対話し、新たな意味を生成し続けることを示している。それは、過去を固定されたものとしてではなく、現代に繋がる流動的なプロセスとして捉える歴史学の醍醐味そのものである。この絵巻は、鎌倉時代の記録であると同時に、戦国の、そして現代の我々自身の姿をも映し出す、時を超えた鏡なのである。