乙御前釜は、ふっくらした形状と姥口が特徴の茶の湯釜。信長が柴田勝家に狂歌と共に下賜した天明釜で、戦国武将の威信と茶人の精神を映す。
茶の湯釜の一種である「乙御前釜(おとごぜがま)」は、その名を聞くだけで、我々の心に温かく、どこか人間味のある姿を思い起こさせる。この釜を理解する上でまず重要なのは、その名称の由来である。「乙御前」とは、古くから福をもたらす女性の象徴として親しまれてきた「お多福」の異名である 1 。その名の通り、乙御前釜は全体的に丈が低く、ふっくらとした丸みを帯びた形状を特徴とする 3 。その姿は、しばしば布団を思わせるような量感を持つことから「布団釜」に似ているとも評され、豊かな膨らみが視覚的な安らぎと満足感を与える 4 。
しかし、乙御前釜の個性を決定づける最も核心的な特徴は、その口造りにある。「姥口(うばぐち)」と呼ばれるこの様式は、釜の口縁が器の内側へと一度落ち込み、再びわずかに立ち上がる独特の形状を指す 5 。この名称は、歯を失った老婆が唇を固く結んだ姿に似ていることに由来するとされる 8 。この「姥口」は、単なる機能的な形状ではなく、釜の表情に深みと複雑なニュアンスを与える重要な意匠である。
ここで一つの重要な視点が浮かび上がる。それは、この釜が単なる器物としてではなく、一つの人格を宿した存在として捉えられていた可能性である。「乙御前」という福々しく、どこか若々しささえ感じさせる名と、「姥口」という老いを連想させる名。この二つの人間的な特徴が一つの釜に同居している事実は、この器物が単なる形状の比喩を超えて、複雑な物語性を持つ一個の「キャラクター」として認識されていたことを示唆している。ふくよかな頬を持つお多福の顔に、人生の年輪を刻んだ老婆の口元が重ねられる。この人格化ともいえる認識こそが、後に織田信長がこの釜に寄せた狂歌のように、人間関係になぞらえた豊かな物語性を生み出す土壌となったのである。乙御前釜は、その誕生の時点から、単に湯を沸かす道具ではなく、人々の感情や物語を映し出す鏡としての役割を運命づけられていたと言えよう。
戦国時代、茶の湯は単なる遊芸の域を超え、高度な政治的意味を帯びるようになった。その中心にいたのが、天下布武を掲げた織田信長である。信長は、茶の湯を家臣団の統制や論功行賞の手段として巧みに利用した。これは「御茶湯御政道」とも呼ばれ、名物茶器を所有し、茶会を催す許可を与えることが、大名としてのステータスを認める証となった 9 。信長自らも、松永久秀から献上された「九十九髪茄子」に代表されるように、天下の名物を次々と手中に収め、その権威を絶対的なものにしていった。この時代、優れた茶道具は一国一城にも匹敵する価値を持ち、武将たちの渇望の的となっていたのである 9 。
このような背景の中、信長の重臣であった柴田勝家が拝領したのが、乙御前釜の代表作として名高い一品であった。この釜は、漠然とした「姥口釜」ではなく、より具体的にその出自を特定することができる。現在、藤田美術館が所蔵する釜の箱書きには、表に「天猫姥口釜」、裏には「信長公御所持 柴田修亮拝領姥口釜」との墨書が残されている 11 。これにより、勝家が下賜されたのは、下野国天明(てんみょう、現在の栃木県佐野市)で制作された「天猫(てんみょう)」作の姥口釜であることが明らかとなる 10 。
この下賜の逸話が今日まで語り継がれる最大の理由は、信長がその際に詠んだとされる狂歌の存在にある。複数の史料に、わずかな字句の違いはあれど、次のような歌が伝えられている。
「朝夕になれしなしみの姥口を、人に吸せんことおしぞ思ふ」 3
(異伝:「なれなれて あかぬなじみの姥口を 人に吸わせんことをしぞおもふ」11)
この歌は、巧みな二重の意味(ダブルミーニング)が込められた、機知に富んだ表現である。表面的には、「長年見慣れて愛着の湧いたこの釜の口(姥口)を、人に使わせることになるのは実に名残惜しい」という、愛用の品を手放す際の素直な心情を詠んだものと解釈できる。しかし、その背後には、「長年連れ添って馴染んだ老婆の口を、他の男に吸わせるのは惜しくてたまらない」という、好色的で諧謔に満ちた意味が隠されている。
この信長の行為は、単なる君臣間の恩賞の授受に留まるものではない。それは、信長という人物の類稀なる才覚を示す、高度に計算された政治的パフォーマンスであった。茶の湯や和歌といった共通の文化教養を土台としたウィットに富んだ歌を添えることで、信長は自身の圧倒的な文化的優位性を示すと同時に、この冗談を解する勝家を「粋な計らいを理解できる格の高い家臣」として遇するという、巧みなメッセージを発したのである。この一連の出来事は、単なる鉄の塊であった釜に、「信長が柴田勝家へ、あの有名な狂歌と共に与えた釜」という、唯一無二の来歴(ストーリー)を付与した。この物語こそが、釜の物質的価値を飛躍的に増幅させ、後世まで語り継がれる「名物」へと昇華させた決定的な要因であった。それは、武力のみならず文化によっても天下を支配しようとした信長の、まさに「御茶湯御政道」を象徴する一幕と言えるだろう。
信長から勝家へと渡った名物「天猫姥口釜」の運命は、主君の非業の死からわずか一年後、大きく揺れ動くこととなる。天正11年(1583年)、羽柴秀吉との覇権を争った賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は、その居城である越前北ノ庄城(現在の福井県福井市)にて、信長の妹であり妻であったお市の方と共に自刃を遂げた 13 。城は燃え盛り、戦国の世の儚さを象徴する壮絶な最期であった 15 。
この落城の混乱の中、多くの貴重な品々が灰燼に帰したであろうことは想像に難くない。しかし、信長所縁のこの名物釜は、奇跡的に戦火を免れた。その具体的な経緯、すなわち誰がどのようにして城から持ち出し、どのような経路を辿ったのかを記す詳細な記録は残されていない。しかし、確かなことは、この釜が最終的に加賀百万石の礎を築いた前田家の手に渡ったという事実である。
この事実は、江戸時代中期に稲垣休叟(いながききゅうそう)によって著された茶書『茶道筌蹄(さどうせんてい)』の記述によって裏付けられる。同書には、「乙御前 信長公御所持、当時加賀公御所持」と明確に記されており、この釜が江戸時代には加賀藩主前田家の所蔵品として、茶人の間で広く知られていたことがわかる 3 。戦国の覇者・信長から猛将・勝家へ、そして泰平の世の大藩・前田家へ。この釜の流転は、それ自体が時代の移り変わりを物語る歴史の証人なのである。
さらに興味深いのは、前田家がこの釜を単に秘蔵するだけでなく、その文化的な価値を積極的に活用していた点である。『茶道筌蹄』は先の記述に続けて、「このカマの写しは加賀侯御所持故寒雉(かんち)をよしとす」と記している 3 。宮崎寒雉とは、加賀藩三代藩主・前田利常に召し抱えられ、代々同藩の御用釜師を務めた名工の一族である 16 。この一文が意味するのは、乙御前釜の「写し」を作るのであれば、その本歌(オリジナル)を所蔵する前田家のお抱えである寒雉の作こそが、最も正統であり、最高品質であるという、当時の茶人たちの共通認識であった。
この一連の事実は、前田家の巧みな文化戦略を浮き彫りにする。彼らが乙御前釜を所蔵し、その写しを名工に作らせた行為は、単なる美術品の保護や趣味の範囲に留まるものではない。それは、織田信長という天下人の文化遺産を正統に継承し、それを自家の権威の下で管理・再生産する「文化資本戦略」とでも言うべきものであった。本歌を所有することは、過去の絶対的な権威(信長)と自らを接続させることを意味する。そして、その最高品質の写しを生産し、流通させる能力を独占することは、その権威を自らの管理下で増幅させ、世に知らしめる行為に他ならない。これにより、加賀藩は武力や経済力といった物理的な力だけでなく、茶の湯文化における一つの基準点を形成する文化的な中心地として、その威信を不動のものとしていったのである。乙御前釜は、前田家にとって、過去の栄光を未来の権威へと転換するための、極めて重要な装置として機能したと言えるだろう。
乙御前釜の造形的な魅力を深く理解するためには、それが制作された「天明(てんみょう)」という産地の特性に目を向ける必要がある。日本の茶の湯釜の歴史において、古くから「東の天明、西の芦屋」と並び称される二大産地が存在した 17 。この二つは、対照的な美意識を体現しており、その違いを知ることは、乙御前釜がなぜ戦国の武将たちに愛されたのかを解き明かす鍵となる。
信長が勝家に与えた乙御前釜の作例とされる天明釜は、その名の通り、下野国天明(現在の栃木県佐野市)で鎌倉時代末期から桃山時代にかけて作られた鋳鉄製の釜である 11 。天明釜の最大の特徴は、その荒々しく、力強い肌合いにある。鋳型に用いられる粒子の粗い砂の質感をそのまま活かした「荒肌(あらはだ)」や、まるで絹織物の縮緬(ちりめん)のように表面が細かく波打ち、複雑な陰影を生み出す「縮緬肌」と呼ばれる独特のテクスチャーを持つ 11 。意図的な文様はほとんど施されず、装飾を排して鉄という素材そのものの持つ武骨な力強さ、素朴さを前面に押し出した作風が身上である 11 。
これに対して、双璧をなすもう一方の雄、筑前国芦屋(現在の福岡県芦屋町)で制作された芦屋釜は、優美で典雅な趣を持つ。端正で均整の取れた「真形(しんなり)」と呼ばれる釜の形を基本とし、その表面は滑らかで艶やかな「鯰肌(なまずはだ)」に仕上げられる 17 。そして、その滑らかなキャンバスの上には、松や竹、鳥や動物といった絵画的な文様が陽鋳(浮き彫り)の技法で繊細に施され、公家や武家上層部の洗練された趣味を反映した、華やかで格調高い世界観を創出している 19 。
特徴 |
天明釜(てんみょうがま) |
芦屋釜(あしやがま) |
京釜(きょうがま) |
産地 |
下野国天明(現・栃木県佐野市) |
筑前国芦屋(現・福岡県芦屋町) |
京都 |
時代 |
鎌倉時代末期~桃山時代 |
鎌倉時代~桃山時代 |
桃山時代以降 |
形状 |
真形(しんなり)は少なく、多様。武骨な姿。 |
端正な真形が基本。 |
茶人の好みを反映した多様な形状。 |
地肌 |
荒々しい「荒肌」「縮緬肌」。文様は少ない。 |
滑らかな「鯰肌(なまずはだ)」。 |
作風により多様。「弾き肌」など。 |
文様 |
ほとんど見られない。 |
優美な絵画的文様を陽鋳(浮き彫り)で表現。 |
多様だが、芦屋釜ほど絵画的ではない。 |
美意識 |
わび・さび。力強さ、素朴さ。 |
典雅、優美。公家や武家上層部の趣味。 |
わび茶の精神を色濃く反映。 |
代表例 |
乙御前釜(本作例) 、不動釜 |
芦屋霰釜、真形羽釜 |
与次郎作の釜など |
ここで重要なのは、信長や千利休が生きた桃山時代、すなわち「わび茶」が勃興し、茶の湯の主流となった時代に、華麗な芦屋釜ではなく、むしろ武骨な天明釜がその精神に合致するものとして高く評価されたという事実である 18 。乙御前釜の持つ、飾り気のない力強い鉄の質感と、どっしりとした安定感のあるフォルムは、絢爛豪華な唐物趣味から一線を画し、華美を削ぎ落とした先にこそ真実の美を見出そうとする「わび」の思想と深く共鳴した。それは、生死の狭間で日々を送る戦国武将たちの、飾り気のない、しかし強靭な精神性とも通底するものであっただろう。
そして、その武骨で力強い器に、「乙御前」という人間味あふれる柔和な名が与えられている点に、この釜の尽きない魅力の源泉がある。剛と柔、厳しさとユーモア、武張った精神と人間的な温かみ。この一見矛盾する要素が同居する様にこそ、戦乱の世の緊張感と、その中で一服の茶に安らぎを求めた人々の、複雑で奥行きのある精神性が見事に映し出されているのである。
乙御前釜の価値は、戦国時代という特定の時代に限定されるものではない。その形状と物語は、後の時代の茶人たちによって再発見され、新たな意味を付与されながら、茶の湯の歴史の中に確固たる地位を築いていった。
その系譜を遡ると、まず「わび茶」の大成者である千利休の存在に行き着く。利休は、乙御前釜の最大の特徴である「姥口」の釜を特に好んだと伝えられている 8 。利休が追求した、無駄を削ぎ落とし、静寂の中に深い精神性を見出す茶の湯の世界において、姥口釜の持つ控えめでありながら強い存在感を放つ造形は、彼の美意識と完全に合致するものであった。乙御前釜は、その形状において、利休が切り開いたわび茶の正統な流れを汲むものと位置づけることができる。
時代は下り、戦乱の記憶も遠くなった江戸時代中期。乙御前釜は、新たな光を当てられることとなる。表千家六代家元であった覚々斎原叟宗左(かくかくさいげんそうそうさ、1678-1730)が、この乙御前釜を自らの「好み物」としたことが、『茶道筌蹄』に記録されているのである 3 。好み物とは、家元など茶道の指導的立場にある人物が、その美意識に基づいて特定の意匠や形式を選び、職人に作らせた茶道具を指す。原叟という高名な茶匠が乙御前釜を好んだという事実は、この釜が単なる過去の遺物ではなく、当代一流の審美眼によって選び抜かれた、普遍的な美を持つ存在であることを示している。
原叟が生きた元禄から享保にかけての時代は、徳川の治世が安定し、町人文化が爛熟期を迎えた頃である。彼は、伝統的な利休の茶道を深く継承しつつも、形式にとらわれない自由闊達で洒脱な茶風で知られ、多くの門人を魅了した 20 。茶の湯が一部の特権階級のものではなく、より広い層に浸透していく時代の転換点において、新たな茶道のあり方を模索した人物であった。
この文脈で原叟が乙御前釜を好んだという事実を考察すると、この釜の持つ意味合いの歴史的な変容が見えてくる。信長の時代、乙御前釜は紛れもなく「武将の威信の象徴」であり、政治的な駆け引きの道具としての側面を強く持っていた。しかし、泰平の世が続き、社会が成熟した原叟の時代には、その政治的な意味合いは薄れ、一つの完成された「古典」として享受されるようになっていた。信長と勝家の逸話は、もはや生々しい権力闘争の記憶ではなく、茶の湯の歴史を彩る雅やかな物語として語り継がれていた。
原叟は、乙御前釜の持つふくよかな造形、力強い天明の肌合い、そしてそれにまつわる豊かな物語性の中に、自らの茶の湯の理想とする「侘びと洒落の調和」を見出したのではないだろうか 21 。乙御前釜が原叟の「好み物」とされたことで、この釜は「権威の象徴」から「美学の古典」へと、その価値の重心を移した。戦国武将の魂が宿る器は、江戸の茶人によってその普遍的な造形美を再発見され、茶の湯の歴史における不朽の名作として、新たな命を吹き込まれたのである。
本報告を通じて詳述してきたように、「乙御前釜」は、単に湯を沸かすための鉄器という物理的な存在を遥かに超えた、多層的な意味と価値を内包する文化遺産である。そのふくよかな姿と「姥口」という特徴的な口造りは、この器物に一つの人格を与え、物語を紡ぎ出すための素地となった。
戦国の世にあっては、乙御前釜は織田信長が推し進めた「御茶湯御政道」という権力構造を体現する、極めて重要な 政治の道具 であった。信長から柴田勝家へと、機知に富んだ狂歌と共に下賜された逸話は、この釜が武将の威信と忠誠を媒介する装置として機能したことを如実に物語っている。同時に、その作風は、東国・天明の地で育まれた、飾り気のない力強い美の表れであり、華美を排して本質を尊ぶ「わび茶」の精神と深く共鳴する 美学の結晶 でもあった。
乙御前釜の価値は、その来歴の劇的な変転によって、さらに深みを増している。それは、信長と勝家の人間的な機知と情愛が込められた 物語の器 であり、北ノ庄城落城の煙を越えて加賀百万石の至宝へと流転し、名工・宮崎寒雉の手でその「写し」が作られる過程で、文化を継承し、自らの権威の礎としようとした人々の情熱を宿した 歴史の証人 でもある。
そして、泰平の江戸時代に至り、表千家六代・覚々斎原叟のような当代一流の茶人によって「好み物」として再評価されたことは、この釜の持つ意味の変容を象徴している。戦国武将の威信の象徴であった釜は、後世の茶人たちによってその政治性から切り離され、純粋な造形美と歴史的背景を持つ「美学の古典」として新たな命を吹き込まれた。
このように、乙御前釜とは、一つの器の中に、日本の歴史、権力、美意識、そして人の想いが幾重にも鋳込まれた、稀有な存在である。それは、激動の時代を生きた武将の気概と、静寂の中に真理を求めた茶人の精神とを、等しく映し出す鏡として、時代を超えて我々に語りかけ続けている。