『伊勢物語』は戦国武将に教養、政治、精神的支柱として重んじられた。その「みやび」は武将の生き様と共鳴し、乱世を生き抜く力となった。
平安時代中期に成立したとされる歌物語『伊勢物語』は、在原業平とおぼしき一人の男の、生涯にわたる恋と流離の物語である 1 。優雅で洗練された宮廷文化の精華ともいえるこの作品が、約六百年の時を経て、全く異なる精神風土を持つ時代、すなわち「下剋上」を是とし、絶え間ない戦乱に明け暮れた戦国時代において、武将たちの必読書、必須の「教養」として重んじられたのはなぜか。本報告書は、この一見すると矛盾に満ちた問いの探求を目的とする。
平安朝の貴族社会が生んだ洗練された美意識「みやび」(雅)と、戦国時代の武士たちが体現した実力主義の精神は、まさに対極に位置するように見える 3 。しかし、本報告書が明らかにするように、戦国武将にとって『伊勢物語』は、現実から逃避するための甘美な夢物語では決してなかった。むしろそれは、自らの武力支配を正当化し、権威を装飾するための文化的資本であり、和歌や連歌の会といった政治・外交の駆け引きの場で必須となる実践的な手引きであり、そして権力、情熱、運命に翻弄される自らの生き様を映し出す鏡であった。
本報告書は、まず『伊勢物語』自体の文学的本質と、その中核をなす美意識「みやび」を分析する。次いで、戦国武将たちがこの古典をいかに受容したか、彼らが依拠した室町時代以来の解釈の潮流、さらには桃山文化における美術的展開を多角的に論じる。これらの分析を通じて、平安の恋歌が乱世の武将たちの心に深く響き、彼らの時代を形成する上で不可欠な「力」として機能した様相を、徹底的に解明する。
『伊勢物語』の起源は、多くの謎に包まれている。作者、そして正確な成立年代も未詳であり、平安時代前期から中期にかけて、複数の人物の手によって段階的に形成されていったというのが、今日における通説である 1 。この作者不詳という匿名性が、かえって後世の読者による多様な解釈を許容する豊かな土壌となった。
その成立過程については、在原業平(ありわらのなりひら)個人の私家集であった『業平集』を母体として、そこに収められた和歌にまつわる詞書(ことばがき)が、後人の手によって追補され、次第に脚色・物語化されていった結果、現在我々が知るような「昔男」の一代記という壮大な物語へと成長していったとする「段階的成長説」が有力視されている 2 。この説は、『伊勢物語』が単一の作者による一度きりの創造物ではなく、長い時代の流れの中で、多くの人々の手によって練り上げられていった集合的な作品であることを示唆している。
物語の構造もまた特異である。現在に伝わる諸本は、約125の章段(段)から構成され、各段が和歌とその背景を語る詞書からなる、短い独立した物語の集合体として成立している 6 。全体の配列は必ずしも厳密な時系列には沿っておらず、主題や登場人物の関係性によって緩やかに繋がっているに過ぎない 9 。この断章形式の構造は、読者が物語全体を連続的に追うだけでなく、個々のエピソードを独立して鑑賞し、それぞれに深い解釈を施すことを可能にした。戦国武将たちが、外交の場で特定の場面を引用したり、教訓を引き出したりする上で、この構造は極めて好都合であったと考えられる。
『伊勢物語』の多くの段は、「むかし、男ありけり」という象徴的な句で始まる 2 。主人公の名をあえて「男」と匿名にすることで、彼は単なる特定の歴史上の人物であることを超え、時代や身分を超越した普遍的な「恋する男」の理想像、あるいはその典型として機能する。この普遍性こそが、平安貴族のみならず、後世の武士や庶民に至るまで、幅広い読者の共感を獲得した源泉であった。
しかし、この「昔男」のモデルが、平安時代前期に実在した歌人、在原業平(825年~880年)であることは、古くから広く信じられてきた 1 。業平は、和歌の名手三十六人を集めた三十六歌仙、そして『古今和歌集』仮名序で名が挙げられた六歌仙の一人に数えられる、情熱的な作風で知られた歌人である 2 。彼は平城天皇の孫、阿保親王の第五子という極めて高貴な血筋に生まれながらも、藤原氏が摂関政治によって権勢を拡大する中で、政治的には不遇な生涯を送った 5 。その生涯は、時の権力者藤原良房の養女であり、後に清和天皇の后となる二条后(藤原高子)との禁断の恋の伝説や 10 、天皇に仕える斎宮との許されざる密通の逸話など 5 、数々のスキャンダラスで伝説的な恋愛に彩られており、物語の主人公として格好の題材を提供した。
業平に投影された主人公の人物像は、単なる色好み、いわゆる「プレイボーイ」には留まらない 6 。彼の行動の数々は、当時の絶対的な権力者であった藤原氏への、一種の反骨精神の表れとして解釈することができる。体制に安易に順応せず、家柄や身分といった社会的な規範よりも、自らの内なる情熱と美意識に忠実に生きようとするその姿は、旧来の権威を武力で打倒し、実力でのし上がった戦国武将たちの自己像と、深く共鳴する部分があったのである。
『伊勢物語』の世界を貫く中核的な理念は、「みやび」(雅)という美意識である。これは、田舎風で野暮な様を指す「鄙び(ひなび)」の対義語であり、宮廷風・都会風に洗練された優雅な美、繊細な感受性、そして洗練された言動や振る舞いを包括する概念である 3 。『伊勢物語』は、この「みやび」の精神を文学的に体現した最高傑作として、後の『源氏物語』をはじめとする物語文学や和歌の世界に、計り知れない影響を与えた 13 。
しかし、『伊勢物語』が提示した「みやび」は、単に静的で優美なものに留まらなかった。物語の冒頭、第一段において、主人公の行動は「いちはやきみやび」と評される 11 。「いちはやし」とは、激しい、性急な、大胆な、といった意味を持つ言葉であり、これは従来の優雅さの観念とは一線を画す、行動的で情熱的な新しい美意識の提示であった 15 。奈良の春日の里で、美しい姉妹を垣間見た男が、即興で情熱的な和歌を詠み、狩りの装束の裾を切り取ってそれに書きつけ、贈るという行動は、洗練された文化的教養と、ためらわない大胆な実行力が結びついた、新しい「みやび」の理想像を示している。
この「みやび」が持つ二面性、すなわち静的な優雅さと動的な情熱の共存こそ、戦国武将たちの精神性と深く共鳴するものであった。一見すると、平安貴族の優雅な「みやび」と、戦国武将の荒々しい「武」は対極にあるように思われる。しかし、『伊勢物語』が提示する「いちはやきみやび」は、「激しい」「大胆な」という、まさに武士的な行動原理と通底する性質を内包していた。戦国時代とは、大胆不敵な行動力と一瞬の決断力が個人の運命を左右する「下剋上」の時代である。それゆえに武将たちは、この「行動を伴う情熱的な優雅さ」に、自らの生き方を肯定し、理想化しうる価値観を見出したのである。彼らにとって『伊勢物語』の「みやび」とは、単に憧れるべき過去の理想ではなく、自らが実践し、体現しうる「力強い美学」として受容された。彼らの古典への関心は、単なる懐古趣味ではなく、自己肯定と精神的共鳴を求める、極めて能動的な行為であったと理解することができる。
応仁の乱(1467年~1477年)以降、室町幕府の権威は地に堕ち、日本社会は実力が全てを決定する「下剋上」の時代へと突入した 4 。武力によって領国を切り従えた戦国大名たちは、しかし、その支配を恒久的かつ正統なものとするために、武力以外の権威を渇望した。彼らがその源泉として求めたものの一つが、古典文化、特に天皇を中心とする宮廷文化の伝統に連なる「教養」であった。
『伊勢物語』や『源氏物語』といった古典を学び、和歌を詠む能力を身につけることは、自らが単なる成り上がりの「蛮勇ばかりの猪武者」ではなく、文化の伝統を理解し継承する、正統な支配者であることを内外に示すための、極めて有効な手段であった 17 。北条早雲が遺した家訓に「歌の嗜みがないようでは品格が劣る」と記されているように、古典の教養は武将の品格を測る指標と見なされていたのである 17 。
さらに、和歌や連歌の会は、単なる風流な遊興の場ではなかった。それは、大名間の情報交換や同盟交渉、あるいは主従間の結束を確認するための、高度に政治的な意味合いを帯びた外交・社交の場として機能した 17 。こうした場において、『伊勢物語』や『古今和歌集』の知識は、参加者間の共通言語、いわば文化的なコードであった。古典の名場面や名歌を引用して当意即妙な歌を詠む能力は、個人の才覚と教養の深さを示す絶好の機会であり、その巧拙が外交交渉の成否を左右することさえあった。伊達政宗が、自筆の書状の中でさりげなく『伊勢物語』や『源氏物語』の一節を引用しているのは、彼がこの文化的なコードを熟知し、それを政治的な自己演出の道具として巧みに利用していたことを示す好例である 20 。古典の知識は、乱世を生き抜くための実践的な武器でもあったのだ。
戦国武将たちの文化への関心は、個人の教養に留まらず、国家的な文化事業へと発展した。その最も顕著な例が、天下統一を目前にした徳川家康による一連の文治政策である。家康は、戦乱の中で散逸した貴重な古典籍を全国から収集させ、「駿河文庫」と呼ばれる一大コレクションを築き上げた 21 。この事業は、失われた文化遺産を保存するという純粋な文化的目的と同時に、新たな時代を統治するための知的インフラを整備するという、極めて高度な政治的意図を持っていた。
家康はさらに、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって日本にもたらされた銅活字の技術を用い、「伏見版」「駿河版」と呼ばれる出版事業を推進した 23 。これにより、中国の帝王学の書である『群書治要』や儒教の経典などが印刷され、新たな治世の担い手となるべき武士階級の教育に広く利用された。これらの文化事業は、家康が目指した「武」による支配から「文」による統治、すなわち「文治政治」への転換を象徴するものであった。幕府の法度を制定し、統治機構を整備するためには、過去の歴史や法制に関する深い知識が不可欠であり、古典籍の収集と出版は、そのための知的基盤を固めるための戦略的な投資だったのである 24 。
通説では、戦国時代は「武」の時代、江戸時代は「文」の時代と、両者が断絶しているかのように語られがちである。しかし、家康の事例が示すように、天下統一の最終段階という、まさに「武」の力が最大限に発揮された時代において、大規模な「文」の事業が並行して進められていた。そして、その「文」の事業の目的は、戦によって得た「武」の成果を安定させ、恒久的な統治体制を構築することにあった。逆に、戦国時代の「武」の成功には、外交や交渉を円滑に進めるための「文」の教養が不可欠であった。このように、「武」と「文」は対立・断絶するものではなく、戦国時代において既に共存し、互いを補強し合う、いわば車の両輪のような関係にあった。戦国時代とは、後の江戸時代に理想とされる「文武両道」の精神が、現実的な政治・社会の必要性から鍛え上げられた時代であったと言えるだろう。
武将 |
『伊勢物語』・和歌への関与 |
書籍収集・出版 |
茶の湯・能楽 |
主な文化的交流相手 |
織田信長 |
連歌会を主催し、自らも和歌を詠む 18 |
(収集よりは利用) |
茶の湯・能楽の積極的保護 |
千利休、公家衆 |
豊臣秀吉 |
醍醐の花見で歌会を催し、自らも詠歌 26 |
(収集よりは利用) |
北野大茶湯など大規模な茶会、能楽を愛好 28 |
千利休、神屋宗湛 |
徳川家康 |
古典籍の出版を後援 |
「駿河文庫」創設、伏見版・駿河版の刊行 21 |
茶の湯を嗜む |
林羅山、金地院崇伝 |
細川幽斎 |
『伊勢物語闕疑抄』を執筆、古今伝授の継承者 29 |
優れた学者・収集家 |
茶の湯を嗜む |
三条西実枝、八条宮智仁親王 |
伊達政宗 |
書状で『伊勢物語』『源氏物語』を引用 20 |
書籍を収集 |
茶の湯・能楽を奨励 |
|
この表は、信長、秀吉、家康といった天下人から、幽斎のような専門家的大名に至るまで、主要な武将たちが例外なく深く文化活動に関与していたことを示している。これにより、本報告書が論じる「教養の政治的価値」が、一部の数寄者の趣味ではなく、戦国時代の支配者層に共通する普遍的な現象であったことが補強される。
戦国時代における「文武両道」を最も高次元で体現した人物が、細川幽斎(藤孝、1534年~1610年)である 31 。彼は足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という時の権力者に仕え、数々の戦功を挙げた一流の武将であると同時に、和歌、連歌、儒学、有職故実など、あらゆる学問に通じた当代最高の文化人であった 32 。
幽斎の文化的権威を象徴するのが、彼が歌人・三条西実枝から、和歌の解釈に関する秘伝「古今伝授」を受け継いだ唯一の人物であったという事実である 30 。この文化的権威は、時に武力をも凌駕した。関ヶ原の戦いの前哨戦である田辺城籠城の際、城が落城すれば古今伝授の血脈が絶えることを恐れた後陽成天皇が、勅命を発して敵将に包囲を解かせたという逸話は、あまりにも有名である 31 。この出来事は、幽斎個人が持つ文化的な価値が、国家的な損失と見なされるほどの重みを持っていたことを示している。
幽斎の文化的業績の中でも、特に後世に大きな影響を与えたのが、彼が著した『伊勢物語』の注釈書『伊勢物語闕疑抄(けつぎしょう)』である 29 。この書は、当代随一の教養人であった後陽成天皇の弟宮、八条宮智仁親王に『伊勢物語』を進講するにあたり、その草稿として執筆されたものであった 30 。これは、武家最高の文化人が、天皇家最高の文化人に対して行った講義の記録であり、その権威は絶大なものがあった。
その内容は、幽斎自身が学んだ三条西家流の解釈を基盤としながらも、室町中期の一条兼良による『愚見抄』や、連歌師・宗祇による『肖聞抄』など、室町時代に成立した主要な注釈書の学説を網羅し、整理した、まさに「旧注」の集大成と呼ぶにふさわしいものであった 30 。
書名に冠された「闕疑」という言葉は、『論語』の一節「多聞闕疑(多くを聞きて疑わしきを闕く)」に由来する 30 。これは、単に先行する諸説を羅列するのではなく、数ある解釈の中から信頼できるものだけを選び取り、疑わしく根拠の薄い説を排除するという、強い批判的精神と知的意志の表れであった。
この幽斎の知的態度は、彼が生きた時代の精神と深く共鳴している。戦国時代は、政治的・社会的な旧秩序が崩壊した時代であった。同様に、『伊勢物語』の解釈の世界もまた、鎌倉時代の「古注」と室町時代の「旧注」が対立するなど、諸説が乱立し混乱した状況にあった 35 。細川幽斎は、八条宮という最高の文化的権威を前にして、この解釈の混乱に終止符を打ち、信頼に足る「正統な」解釈を打ち立てようとしたのである。この「疑いを闕き、秩序を立てる」という知的行為は、徳川家康が武力と法によって天下に新たな政治秩序を構築しようとしていた、時代の精神と完全に同期していた。したがって、『伊勢物語闕疑抄』の執筆は、単なる一個人の文学研究に留まるものではなく、戦乱の世から泰平の世へと移行する時代の大きな潮流の中で、文化の領域において新たな「秩序」を創造しようとする、壮大な知的プロジェクトの一環であったと位置づけることができる。
時代 |
注釈の型 |
主人公・物語の捉え方 |
主な特徴 |
代表的な注釈書・人物 |
鎌倉時代 |
古注 (こちゅう) |
在原業平の史実に基づく一代記と見なす。登場人物や事件を特定の史実と結びつける。 |
事実考証的・伝記的解釈。 |
『和歌知顕集』など 35 |
室町中期 |
旧注 (きゅうちゅう) - 批判期 |
「古注」の事実考証を批判。物語の虚構性を認識。 |
合理的・実証的な態度。 |
『伊勢物語愚見抄』(一条兼良) 35 |
室町後期 |
旧注 (きゅうちゅう) - 道徳期 |
主人公の「色好み」を否定し、情け深い人物として解釈。相手の女性も貞女として描く。 |
教訓的・道徳的な解釈が主流となる。 |
『伊勢物語山口記』(宗祇) 37 、三条西家流の注釈 35 |
南北朝~室町 |
秘伝 (ひでん) - 密教的 |
主人公を悟りを求める菩薩、恋愛を悟りへの道と解釈。 |
密教(特に立川流)の影響を受けた秘教的・異端的解釈。 |
『伊勢物語髄脳』 38 |
安土桃山 |
旧注 (きゅうちゅう) - 集大成 |
「旧注」の学説を取捨選択し、集大成する。 |
体系的・学問的な態度。「疑いを闕く」という批判的精神。 |
『伊勢物語闕疑抄』(細川幽斎) 30 |
この表が示すように、戦国武将たちが接した『伊勢物語』の解釈は一枚岩ではなかった。彼らが主に依拠したのは、室町後期に主流となった、主人公を道徳的に理想化する教訓的な「旧注」であり、細川幽斎の仕事はその頂点に位置づけられる。このことは、彼らが『伊勢物語』から何を学ぼうとしていたのか、その知的背景を具体的に理解する上で重要な示唆を与える。
中世から近世にかけての日本の芸道の世界では、知識や奥義が師から弟子へと一子相伝の形で秘密裏に伝えられる「秘伝」の文化が広く見られた 39 。和歌の世界における「古今伝授」はその代表例である。知識を秘匿化し、神秘的な儀式を通じて伝授するという形式は、その知識自体の価値と権威を飛躍的に高める装置として機能した。誰もがアクセスできる公開された知識よりも、限られた者のみが知ることを許された秘密の知識の方が、より尊いものと見なされたのである。
『伊勢物語』の解釈史においても、こうした秘伝の潮流は存在した。その代表が、南北朝時代から室町時代にかけて成立したとされる異端の注釈書『伊勢物語髄脳(ずいのう)』である 38 。
この書は、細川幽斎らが依拠した公的で学問的な注釈とは全く異なる世界観を提示する。本書は、『伊勢物語』の「伊」を女性原理(陰)、「勢」を男性原理(陽)と解釈し、物語全体を、男女の「和合」(性的な結合を含む)を通じて究極の「悟り」へと至る道筋を説いた、一種の宗教的な秘伝書として読み解く 38 。この特異な解釈は、当時、真言宗内の異端派とされた立川流の思想的影響を強く受けていると考えられている 38 。この文脈において、主人公・在原業平はもはや単なる恋多き男ではなく、迷える女性を肉体的な交わりを通じて悟りへと導く、菩薩のような聖なる存在として描かれるのである。
このような秘教的な文学解釈が、戦国武将たちの精神世界に受け入れられる土壌は、十分に存在した。上杉謙信をはじめ、多くの戦国武将が、現世利益(戦勝祈願、息災延命など)と精神的な救済を求めて、加持祈祷をその教義の中心に据える密教(真言宗・天台宗)に深く帰依していたからである 40 。高野山には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家など、数多くの戦国大名の墓塔や供養塔が今なお林立しており、彼らの信仰の篤さを物語っている 43 。
戦国武将たちの密教信仰は、抽象的な教義の探求よりも、護摩を焚き、呪文を唱えるといった具体的な儀式を通じて、戦に勝利したり、敵を呪詛したりといった、極めて実践的な目的を達成することに主眼が置かれていた 44 。一方で、『伊勢物語髄脳』のような秘教的解釈もまた、文学鑑賞という抽象的な行為を、「悟り」という具体的な目標を達成するための、一種の実践的な修行の道として捉え直している。両者は、「秘密の知識」と「特定の作法」を通じて、現実世界に具体的な変革をもたらそうとする点で、その思考の構造が酷似している。
したがって、細川幽斎のような正統派の学者が依拠した公的な「教養」としての解釈とは別に、武将たちの間には、物語を現世利益的な願望成就の書として読むような、より呪術的・秘教的な受容の仕方が存在した可能性は高い。これは、戦国武将の精神性の、公的な「教養」とは異なる、もう一つの深層を明らかにするものである。
安土桃山時代の美術は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人の壮大な気宇と好みを反映し、権力と富を誇示するような、豪華絢爛で力強い様式を特徴とする。狩野永徳に代表される、金箔をふんだんに用いた背景に極彩色のモチーフを描き出す金碧障壁画(きんぺきしょうへきが)は、その美意識を最も象徴するものであった 46 。
この時代、『伊勢物語』は屏風絵の格好の画題となり、俵屋宗達や狩野派の絵師たちによって、数多くの名作が生み出された 48 。中でも特に好んで描かれたのが、「東下り」と「芥川」の場面であった。
「東下り」(第九段)は、都での生活に嫌気がさし、自らを「えうなきもの(役に立たない者)」と思い定めた主人公が、東国へと旅立つ場面である 51 。栄華を極めた都からの離脱、未知の土地への不安な旅、そして三河国八橋の沢辺で杜若(かきつばた)を見て、都に残してきた妻への望郷の念を切々と詠んだ歌は、栄枯盛衰が激しく、常に領地を離れて戦地に赴かなければならなかった武将たちの心に、深い共感を呼び起こしたであろう 53 。
一方、「芥川」(第六段)は、主人公が高貴な女性を盗み出して逃げる途中、雷雨を避けるために立ち寄った荒れ寺で、女が突如現れた「鬼」に一口で食われてしまうという、衝撃的で悲劇的な場面である 55 。この超自然的な「鬼」は、後の注釈では、女を権力によって連れ戻しに来た兄たち(藤原氏)の比喩であると解釈されるのが一般的であった 56 。
この「芥川」の物語は、戦国武将たちにとって特別な意味を持っていたと考えられる。表面的には悲恋物語であるが、「鬼=権力者の兄」という比喩的解釈を当てはめると、物語の構造は一変する。それは、「個人の純粋な情熱(男の恋)が、組織的な権力(藤原一族)によって無慈悲に踏みにじられる」という、極めて政治的で非情な物語となる。この構図は、一個人の武将が、より強大な大名や幕府といった権力構造に挑み、そして敗れ去るという、戦国時代の日常そのものであった。したがって、戦国武将が「芥川」図屏風を鑑賞する時、彼らはそれを単なる悲恋物語としてではなく、自らが生きる世界の非情な現実、すなわちパワーポリティクスの力学を映し出す寓話として見ていた可能性が高い。優美な絵画表現の内に、極めて現実的な権力闘争のドラマを読み取っていたのである。
桃山文化の豪華絢爛さの背景には、常に色濃い死の影があった。画壇の巨匠・狩野永徳は、信長や秀吉から膨大な作画注文を受け、過労が原因で48歳の若さで急逝したと伝えられる 46 。豊臣秀吉は、3歳で夭逝した愛息・鶴松の菩提を弔うために壮大な寺院(祥雲寺、後の智積院)を建立し、その内部を飾る障壁画を長谷川等伯に描かせた 60 。
この時代の美術は、生の謳歌と死の意識が分かちがたく結びついている。金箔でまばゆく輝く豪華な屏風に、都落ちの悲哀(東下り)や理不尽な死(芥川)といった『伊勢物語』の悲劇的な場面が好んで描かれたことは、この時代の特異な死生観の象徴と言える。それは、はかなく散るからこそ美しいという、桜の花に自らの運命を重ね合わせた武士階級に、古くから通底する美意識とも深く繋がっていた。
本報告書は、平安時代の恋愛歌物語『伊勢物語』が、戦国時代の武将たちにとっていかに多機能で、不可欠な存在であったかを多角的に論じてきた。その受容の様相は、単なる文学鑑賞や懐古趣味といった言葉では到底捉えきれない、複雑で戦略的なものであった。
結論として、戦国武将にとって『伊勢物語』とは、以下のすべてであったと言える。
第一に、それは「権威の鎧」であった。武力でのし上がった彼らが、その支配を正当化し、自らが単なる粗野な武人ではないことを証明するために、古典の教養は不可欠な文化的装飾であった。
第二に、それは「外交の剣」であった。敵対と協調が入り乱れる大名間のコミュニケーションにおいて、和歌や連歌の場で『伊勢物語』を引用する能力は、自らの才覚を示し、交渉を有利に進めるための実践的な武器となった。
第三に、それは「秩序の礎」であった。細川幽斎の『伊勢物語闕疑抄』に見られるように、混乱した解釈に終止符を打ち、正統な解釈を打ち立てるという知的行為は、戦乱の世に新たな政治的・文化的秩序をもたらそうとする時代の精神と同期していた。
第四に、それは「魂の救済」であった。現世での成功と来世での救済を求める武将たちの密教信仰と、『伊勢物語髄脳』のような秘教的解釈は、物語を不安な魂を鎮める力を持つ書として捉える点で親和性を持っていた。
そして最後に、それは「自己の鏡」であった。主人公「昔男」の生涯に描かれる、燃えるような情熱、許されざる恋、栄光と挫折、そして流離の果ての死といった諸相は、常に死と隣り合わせで生きた武将たちが、自らの人生を映し出し、その意味を問い直すための格好の物語を提供した。
平安の「みやび」の世界は、戦乱の世を生きる武将たちにとって、現実から逃避するための甘美な夢ではなかった。それは、現実を乗りこえ、新たな時代を創造するために不可欠な「力」そのものであった。千年の時を超えて、在原業平の恋歌は、戦国武将たちの魂を強く捉え、彼らの時代を形作る上で、決定的に重要な役割を果たしたのである。