『八条流幸秀論』は、八条房繁が創始した八条流馬術の伝書。戦国関東の動乱で実戦的騎法を追求し、片手綱による馬上武芸を重視。中山家が継承し、徳川幕府の指南役。
日本の武芸史において、数多の流派が勃興と衰退を繰り返す中で、その実態が霧に包まれた伝書は少なくない。『八条流幸秀論』(はちじょうりゅうこうしゅうろん)もまた、そうした謎を秘めた書物の一つである。一般には、戦国時代に成立した馬術流派「八条流」の極意を記した書と認識されている 1 。しかし、その一方で、日夏繁高が著した武将列伝『干城小伝』の別名であるという、全く異なる内容を示唆する情報も存在する 1 。この一見して矛盾する二つの顔は、我々を深い探求へと誘う。一体、『八条流幸秀論』とは何なのか。それは特定の流派の秘伝書なのか、あるいは著名な武道書の異名に過ぎないのか。
この長きにわたる混乱に一条の光を投じるのが、京都大学附属図書館に現存する一冊の写本である。その書誌情報には、表題として明確に『八条流幸秀論』と記され、著者として「幸玄、重秀」という二人の名が連ねられている 2 。この物理的な証拠は、『八条流幸秀論』が単なる異名や架空の存在ではなく、特定の個人によって編纂された、実体を持つ伝書であったことを強く示唆する。書名に含まれる「幸」と「秀」の文字が、著者とされる「幸玄(こうげん)」「重秀(しげひで)」の名と響き合うことから、本書が彼らによって著された八条流の論書、すなわち「幸玄と重秀による(八条流の)論」であった可能性は極めて高い。
しかしながら、「幸玄」「重秀」という馬術家が歴史の表舞台で活躍した記録は、現在のところ管見に入らない。これは、彼らが後世に名を轟かせるほどの高名な武芸家ではなかったか、あるいは特定の藩内でのみその技を伝えた師範であった可能性を示している。いずれにせよ、この写本の発見は、我々の調査の確固たる出発点となる。
本報告書は、この『八条流幸秀論』という具体的な書物の謎を解き明かすことを第一の目標とする。そして、その探求を糸口として、戦国時代という激動の時代背景を深く掘り下げ、八条流馬術そのものの創始の経緯、その技術的特質、歴史的変遷、そして戦国武士にとっての馬術の存在意義を、あらゆる角度から徹底的に解明することを目的とする。戦乱の関東に生まれ、実戦の中で磨かれた一つの騎法が、いかにして生まれ、継承され、そして変容していったのか。その軌跡を追うことは、戦国という時代の武と技のリアリズムに迫ることに他ならない。
八条流馬術の源流を遡る時、必ず一人の傑出した武人の名に行き着く。八条近江守源房繁(はちじょう おうみのかみ みなもとの ふさしげ)、その人である。彼は、室町時代前期に大坪流を興した大坪慶秀と並び、「騎法中興の祖」と称されるほどの馬術家であった 1 。戦国時代前期、大永から天文年間(1521-1555年)にかけて活躍したとされ、日本の古流馬術史において、大坪流、小笠原流、内藤流と並ぶ「古流四流」の一角を担う八条流を創始した人物として、その名は不動のものである 3 。
房繁の出自は、関東の名門武家である上杉氏の一族、「八条上杉氏」に連なるとされる 5 。しかし、この「八条」という呼称の由来については、長らく二つの説が存在し、議論の的となってきた。一つは京都の地名に由来するという説であり、もう一つは武蔵国の地名に由来するという説である 6 。
前者は、京都の八条通り周辺に上杉氏の屋敷があったことに起因すると考えられるが、後者の武蔵国説の方がより具体的かつ有力な証左に恵まれている。房繁の人物像を「武蔵八条郷(現在の埼玉県八潮市)の人」とする記録 7 や、「東國の人なり」と記す文献 6 が存在することは、彼が関東に根差した武士であったことを示唆する。
この武蔵国説を強力に裏付けるのが、埼玉県八潮市に鎮座する八條八幡神社の存在と伝承である。この神社の由緒には、扇谷上杉氏の祖である上杉朝顕が武蔵国埼玉郡八条の里に館を構え、「八條上杉」と称されたこと、そしてその子孫である房繁もこの地に住み、独自の馬術流儀を大成したと記されている 5 。さらに同社には、八条房繁の姿を描いたとされる「紙本着色八條殿社神像」という掛幅が伝来しており、白馬にまたがるその姿は、近世の馬術書が伝える房繁のイメージと酷似している 9 。これらの物証と伝承は、房繁が京都の公家文化圏の人物ではなく、まさしく関東の土が生んだ武人であったことを物語っている。
房繁の馬術は、全くの独学で生まれたものではない。彼は、当時、弓馬術の宗家として最高の権威を誇っていた小笠原流の門を叩き、その奥義を究めている。具体的には、小笠原民部少輔稙盛(おがさわら みんぶのしょう たねもり)に師事し、永正5年(1508年)に甲斐源氏に伝わる馬芸の印可(免許皆伝)を授かったと記録されている 3 。
小笠原流は、単なる乗馬技術に留まらず、「弓馬故実」、すなわち武家社会における礼法や儀式と一体化した総合的な武芸体系を特徴としていた 11 。流鏑馬(やぶさめ)、笠懸(かさがけ)、犬追物(いぬおうもの)といった「騎射三物」に代表されるその技術は、儀礼的な側面が強く、武士の嗜みとして、また神事として高度に様式化されていた 14 。房繁がこの権威ある流派の教えを完全に習得したという事実は、彼が卓越した技術と深い学識を兼ね備えた人物であったことを示している。そして、この強固な基礎があったからこそ、彼は既存の枠組みに留まることなく、新たな時代が求める実戦的な馬術、すなわち八条流を創始することができたのである。それは、伝統の継承と革新の精神が結実した瞬間であった。
八条房繁が八条流を創始したとされる享禄年間(1528-1532年) 8 、関東地方はまさしく混沌の渦中にあった。この時代の激しい動乱こそが、八条流という新たな実戦騎法を生み出す土壌となったのである。
室町時代を通じて関東に君臨してきた関東管領上杉氏は、この頃には山内上杉家と扇谷上杉家という二つの家に分裂し、長年にわたる内紛(長享の乱など)によってその権威と勢力を著しく減退させていた 16 。特に房繁が活動した時期は、扇谷上杉氏の当主・上杉朝興らが、相模国から武蔵国へと勢力を急拡大する新興勢力・後北条氏の当主・北条氏綱の猛攻に晒され、存亡の危機に立たされていた時代と重なる 18 。
さらに、上杉氏の内部でも「関東享禄の内乱」(1529-1531年)が勃発し、山内上杉家当主の座を巡って上杉憲寛と上杉憲政が争うなど、敵味方が入り乱れる複雑な抗争が絶え間なく続いていた 19 。このような状況下では、かつての権威や伝統は意味をなさず、ただ戦場で勝利を掴むための、より実践的で効果的な戦闘技術が渇望されるのは必然であった。
戦国時代の戦闘形態は、それ以前の時代から大きく変容していた。源平合戦に象徴される平安・鎌倉時代の戦いが、名乗りを上げての一騎討ちを主体とし、馬上からの弓射(騎射)が中心であったのに対し 14 、戦国時代の戦いは、足軽による集団戦が基本となった。この中で騎馬武者の役割も変化し、個人の武勇を示す一騎討ちから、集団を率いての偵察、敵陣への奇襲、側面の攪乱といった、部隊としての機動力を活かした戦術が重視されるようになったのである 14 。
この変化を決定的にしたのが、鉄砲の伝来と普及である。火縄銃の威力は、従来の弓矢を凌駕し、騎馬武者の主たる武器も、遠距離から射る弓から、近接戦闘で威力を発揮する槍へと移行していった 14 。馬上で自在に槍を振るうためには、弓を射るのとは全く異なる馬の操法が求められる。特に、両手で扱う長大な槍を操りながら馬を制御するには、片手で手綱を巧みに操る高度な技術が不可欠であった。
八条流が生まれた背景には、こうした戦場のリアリズムがあった。儀礼的な側面が強かった従来の弓馬術から、槍働きを主体とする新たな馬上戦闘術へ。この時代の要請こそが、武蔵国という古くからの馬産地 21 で、実戦経験豊かな武人・八条房繁をして、新流派の創始へと向かわせた原動力であったと言えよう。
戦国関東の動乱が生んだ八条流は、その技術体系と思想において、先行する他の古流馬術とは一線を画す、際立った実戦性を有していた。その核心は、騎馬武者を一個の独立した戦闘単位として完成させるための、徹底したリアリズムの追求にあった。
戦国期の合戦において、大将たる武士は、馬上から部隊に下知を下し、同時に自らも槍や刀を手に戦うことが求められた。軍記物『甲陽軍鑑』には、武将たる者が片手で手綱を操る「片手綱」の重要性を説く逸話が記されており、これが当時の武士にとって必須の技能であったことを物語っている 23 。八条流馬術は、まさにこの「片手綱」による高度な操馬術を技術体系の中核に据え、武器の使用を前提とした騎乗法を追求した流派であったと推察される。
この特徴は、他の主要な古流馬術と比較することで、より鮮明に浮かび上がる。
表1:主要古流馬術の比較
流派名 |
流祖 |
成立時期 |
拠点 |
思想・特徴 |
主要技術・儀式 |
大坪流 |
大坪慶秀 |
室町前期 |
不詳(将軍家師範) |
「馬術専一、馬上武芸は避ける」 11 |
五馭の法 11 |
小笠原流 |
小笠原長清(遠祖) 小笠原稙盛(房繁の師) |
鎌倉期(原型) 室町期(確立) |
鎌倉・京都(中央) |
「弓馬故実、礼法との一体化、儀礼重視」 13 |
騎射三物(流鏑馬、笠懸、犬追物) 13 |
八条流 |
八条房繁 |
戦国期(大永・天文年間) |
武蔵国八条郷(関東) |
実戦的、馬上武芸との融合、片手綱重視(本報告書の推論) |
不明(馬上槍術などと推察) |
上表が示すように、小笠原流が礼法や儀式と一体化した「弓馬故実」の体系として、ある種の様式美と精神性を追求したのに対し 13 、八条流はその対極に位置する。また、大坪流は「馬術専一」を掲げ、馬を乗りこなすこと自体を深く探求し、「馬上武芸を深く扱うことを避けている」と評された 11 。この評価は、裏を返せば「馬上武芸と一体化した馬術」という専門分野の存在を示唆しており、戦乱の関東で生まれた八条流こそが、その分野を担う流派であったと考えられる。
この実戦的な騎乗法は、当時の馬の特性とも密接に関連していた。戦国武将が騎乗していたのは、現代のサラブレッドのような大型馬ではなく、木曽馬に代表される、体高130cm前後の小型の在来馬であった 14 。これらは現在の分類ではポニーに相当するが、ずんぐりとした頑健な体躯と、時に荒々しい気性を持っていた。この日本在来馬の特性を熟知し、その能力を戦場で最大限に引き出すための、機能的で無駄のない操法こそが、八条流の真髄であっただろう。それは単なる乗り方の技術ではなく、騎手、馬、そして武器を三位一体の戦闘システムとして機能させるための、総合的な方法論だったのである。
武芸流派の教えは、その神髄を後世に伝えるため、様々な形で体系化された。『八条流幸秀論』もまた、そうした伝承の営みの中で生まれた書物である。
冒頭で述べた京都大学附属図書館所蔵の写本 2 は、この書物が八条流の具体的な技術や極意を記した、実体のある伝書であったことを示している。著者として記された「幸玄」と「重秀」という名は、流祖・房繁から数えていずれかの代の師範であった可能性が高い。彼らが自らの修得した技と理論を体系的にまとめ、後進のために書き記したものが、この『八条流幸秀論』であったと考えられる。その内容は、単なる技術の羅列に留まらず、流派の思想や心構えを含む、包括的なものであったと推察される。
一方で、武芸の奥義は、必ずしも文字だけですべてが伝えられるわけではない。後述する八条流の名手、中山照守が残した馬術書も、その重要な部分は「口伝」、すなわち師から弟子へ直接、言葉と身体をもって伝えられたという 5 。
このように口伝が重視された背景には、いくつかの理由がある。第一に、奥義が外部に漏洩し、敵に利用されることを防ぐという実際的な目的があった。第二に、流派の最も神聖な教えを、安易に触れられない特別なものとして権威付ける意図もあっただろう。そして最も重要なのは、馬を操る際の微妙な力加減や、相手の動きに応じた瞬時の判断といった、文字や図では到底表現しきれない身体感覚や無意識の領域に属する「コツ」を伝達するためには、師弟間の人格的な接触と、長年にわたる稽古を通じた体験の共有が不可欠であったからである。
口伝が重視されたとはいえ、八条流の教えが具体的な書物の形で後世に伝えられていたことも事実である。その代表例が、神奈川県の馬の博物館に所蔵されている、中山照守の自筆と伝わる全20冊にも及ぶ馬術書である 5 。また、仙台藩に伝来した八条流の伝書や秘伝巻も、同博物館の展示などでその存在が確認されている 29 。
これらの現存する伝書は、『八条流幸秀論』と同様に、失われた八条流の技術体系を復元し、戦国武士の身体知を探る上で、極めて貴重な一次史料と言える。それらは、文字と口伝という二つの伝達方法が、互いに補完し合いながら、一つの武芸の伝統を形作っていたことを雄弁に物語っているのである。
いかなる優れた武芸も、それを継承する者がいなければ歴史の彼方に消え去る。八条流は、戦国時代から江戸時代への大きな時代の転換期を乗り越え、その命脈を保つことに成功した。その過程で、流派は新たな担い手を得て、さらには「高麗八条流」という新たな名を冠するに至る。この変遷の物語は、武士の生存戦略と立身出世のドラマそのものであった。
戦国後期の関東において、八条流の技を継承し、その名を高めたのが中山家であった。
八条流は、流祖・房繁の後、後北条氏に仕えた武将・中山勘解由家範(なかやま かげゆ いえのり)へと伝えられた 5 。興味深いことに、家範の師は、後北条氏と敵対関係にあった上杉氏の一族、上杉憲勝であったとする説が存在する 5 。もしこれが事実であれば、敵味方という政治的な立場を超えて、個人の技量を尊び、優れた武芸を求めるという、戦国時代ならではの文化交流の一端を垣間見ることができる。家範は、主君である北条氏照の家臣として、八条流馬術の腕を磨き、その技を家中に広めたと考えられる。
中山家の運命、そして八条流の運命を大きく左右したのは、天正18年(1590年)の小田原征伐による後北条氏の滅亡であった。主家を失った中山家であったが、家範の子・照守(てるもり、家守とも)は、その卓越した馬術の技をもって新たな支配者である徳川家康に見出される 30 。
照守は徳川家の旗本として取り立てられ、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、父から受け継いだ八条流の馬術を駆使して戦功を挙げ、加増を受けた 30 。その武芸は高く評価され、後には将軍家の馬術指南役という、武芸者として最高の名誉の一つである要職に就任するに至る 5 。これにより、八条流は一地方豪族の武芸から、天下を治める徳川幕府の公式な武芸として認知され、その存続と権威が確固たるものとなった。まさに、一つの芸が身を助け、家を興した典型例と言えよう。
中山家の繁栄は照守に留まらない。照守の弟である中山信吉は、徳川御三家の一つ、水戸藩の初代藩主・徳川頼房の附家老という重職に就き、1万5000石の大身として家名を大いに高めた 5 。このように、中山家は兄が馬術をもって幕府中枢で、弟が行政手腕をもって有力な親藩で、それぞれ確固たる地位を築き、武門の名家として江戸時代を通じてその家名を保ち続けたのである。
中山家によって継承され、徳川将軍家のお墨付きを得た八条流は、やがて「高麗八条流(こうらいはちじょうりゅう)」という名を冠して知られるようになる 6 。この「高麗」という一語は、流派の出自と権威を考える上で、極めて重要な意味を持つ。
なぜ、武蔵国発祥の八条流が「高麗」の名を冠するようになったのか。その直接的な理由は史料上明らかではないが、その背景には武蔵国と古代朝鮮半島との深い歴史的関係があったと考えられる。
古墳時代、朝鮮半島からの渡来人が日本列島に馬や馬具、そしてそれらを扱う先進的な技術をもたらした 33 。特に武蔵国には、7世紀に高句麗からの渡来人たちが移住して「高麗郡(こまぐん)」(現在の埼玉県日高市周辺)が設置され、彼らが優れた馬産や馬具生産の文化(例えば「武蔵鐙」など)をこの地に根付かせたという歴史がある 34 。
この「武蔵国は古来、高麗伝来の優れた馬術文化を持つ地である」という歴史的記憶は、後世に至るまで人々の意識の中に存在し続けたであろう。中山家に伝わった八条流が、その発祥地である武蔵国の歴史的権威を借り、他の馬術流派との差別化を図るために、意図的に「高麗」の名を冠した可能性は高い。これは、自らの流派の価値と古格を高めるための、一種の「ブランド戦略」であったと見ることができる。古代の権威を借りるという手法は、武芸に限らず日本の多くの芸道に見られる伝統的な権威付けの方法である。
高麗八条流の名声は、幕府内だけに留まらなかった。その技術は地方の有力大名家にも広まり、特に仙台藩伊達家では厚く用いられた。仙台藩では、八条流は「高麗流八条家馬術」と称され、岩淵家、及川家、そして草苅家という三つの家が、代々馬術師範の家としてその技を世襲した 3 。
62万石を領する有力な外様大名である仙台藩がこの流派を公式に採用したという事実は、高麗八条流が極めて高い評価を得ていたことの証左である。そこには、徳川将軍家が採用した流派であるという「お墨付き」が大きく影響したことは想像に難くない。こうして八条流は、関東の一流派から、全国的な知名度と権威を持つ武芸へと発展を遂げたのである。
『八条流幸秀論』という一冊の伝書から始まった我々の探求は、戦国時代という激動の時代が生んだ一つの武芸の流派、八条流の壮大な歴史を明らかにした。
本報告書を通じて結論付けられるのは、八条流が、戦国時代の関東という極めて実践的な要請に応える形で誕生した、リアリズムの極致とも言うべき馬術であったということである。その創始者、八条近江守房繁は、武家の弓馬術の宗家たる小笠原流の伝統と権威を完全に体得した上で、それに留まることなく、眼前の戦乱を生き抜くための新たな技術を模索した。彼が創始した流派は、儀礼的な騎射ではなく、槍や刀を駆使した馬上での近接戦闘を想定し、それを可能にするための「片手綱」をはじめとする実用的な操馬術を中核に据えていた。それは、先行する大坪流や小笠原流とは明確に異なる、戦場の現実から生まれた革新的な技術体系であった。
八条流の歴史はまた、戦国から江戸という時代の大きな転換期を、武士がいかにして生き抜いたかを示す縮図でもある。後北条氏の滅亡という危機に際し、中山家は「馬術」という専門技能を拠り所に徳川家に取り立てられ、ついには将軍家指南役という名誉ある地位を得た。そして、泰平の世が訪れると、実戦の「術」であった八条流は、古代の権威を借りた「高麗八条流」という名を冠することで、その出自を権威付け、様式化された武家の「道」として大成していく。この「術」から「道」への昇華は、剣術や柔術など、日本の多くの武芸が辿った普遍的な道程であり、八条流もまたその一つの典型であった。
今日、八条流の技術体系そのものは失われ、その全貌を知ることは困難である。しかし、横浜の馬の博物館などに所蔵される『八条流幸秀論』の写本や中山家伝来の伝書、そして仙台藩の記録は、今なお我々にその姿の一端を垣間見せてくれる 29 。これらの貴重な史料の研究は、単に失われた技術を復元する試みに留まらない。それは、戦国武士たちがどのような身体感覚を持ち、いかにして馬と一体となり、戦場を駆け抜けたのか、その精神性の深奥にまで迫るための、現代に遺された重要な鍵なのである。戦国という時代が生んだ武芸の遺産は、書物の中に静かに息づき、我々の知的好奇心を未来永劫にわたって刺激し続けるであろう。