『兵法雄鑑』は、北条氏長が著した兵学書。戦国期の軍事知識を江戸の統治学へ再構築。合理的な築城術を説き、赤穂城などに具現化。
『兵法雄鑑』は、一般に「北条流兵法の祖・北条氏長が著した築城書」として知られている。この認識は、本書の一側面を的確に捉えてはいるものの、その歴史的・思想的価値の全貌を理解するには十分ではない。本報告書は、この限定的な理解を超克し、『兵法雄鑑』を「戦国時代」という視座から多角的かつ徹底的に分析・考察することを目的とする。
まず、極めて重要な前提として、著者である北条氏長(1609-1670)について正確に理解する必要がある。彼は、戦国時代に関東に覇を唱えた後北条氏(小田原北条氏)の当主ではなく、その血統を受け継ぐ江戸時代初期の徳川幕府旗本であり、高名な軍学者であった 1 。この時代的な隔たりこそが、『兵法雄鑑』を理解する上での鍵となる。氏長は戦乱の世を直接生きた武将ではなく、戦国という時代に蓄積された膨大な実戦の知見を、泰平の世の「学問」として体系化し、理論的に再構築した「継承者」であり「整理者」であった。彼の立ち位置は、戦闘の渦中にいた戦国武将のそれとは本質的に異なり、戦闘を客観的に分析し、そこから普遍的な原理を抽出しようとする学者の視点に貫かれている。
したがって、本報告書は『兵法雄鑑』を、戦国時代の直接的な産物としてではなく、戦国という時代の経験知を、江戸という新たな時代の要請に応じて再構築した「知的遺産」として分析する。本書は、戦国時代の精神主義や経験則が色濃く反映された「軍法」が、合理的かつ体系的な近世「兵学」へと移行する、思想史上の重大な転換点に位置づけられる。それは単なる築城術の解説書に留まらず、戦国終焉期の軍事思想と、そこから芽生えた近世兵学の黎明を映し出す、記念碑的な文献なのである。
北条氏長の兵学思想を理解するためには、まず彼が生きた時代と、その出自を把握することが不可欠である。氏長は慶長14年(1609年)、江戸に生まれた 1 。彼の家系は、戦国時代に相模国小田原を拠点として関東一円を支配した大名、後北条氏に連なる。この出自は、彼の兵学研究に対して、一種の正統性と権威を与える上で重要な役割を果たした。戦国の雄として名を馳せた一族の末裔であるという事実が、彼の言葉に重みを与え、多くの門人を惹きつける要因の一つとなったことは想像に難くない。
しかし、彼自身は戦国の動乱を経験していない。彼の生涯は、徳川幕府の治世下で旗本として送られた。寛永2年(1625年)に小姓組に列し、700石を与えられて以降、御徒頭などを歴任し、最終的には明暦元年(1655年)に幕政を監察する要職である大目付に就任し、5000石を領するに至った 1 。この経歴は、氏長が単なる在野の軍事研究家ではなく、幕府の中枢で実務に携わりながら、学問と現実の統治を結びつけようとした、卓越した知識人であったことを示している。
ここで注意すべきは、日本の歴史上、著名な「北条」姓の人物との混同である。氏長は、鎌倉幕府の執権を務めた北条氏、特に北条長時 2 や、戦国大名として名高い北条早雲 3 、北条氏康 5 とは全くの別人である。彼の兵学は「北条流」と称されるが、それは後北条氏の伝統を直接継承したという意味合いよりも、氏長個人が創始した学派であることを示すものである。
北条氏長の兵学、すなわち北条流は、二つの異なる知の源流から成り立っている。一つは日本の戦国時代に完成された伝統的兵法、もう一つは当時最先端であった西洋の軍事技術である。この二つの融合こそが、北条流の独自性と先進性を生み出した。
氏長の兵学の根幹をなすのは、甲州流兵学である。彼は寛永13年(1636年)頃、甲州流の祖として知られる小幡景憲の門下に入り、その教えを受けた 1 。甲州流は、武田信玄の遺臣らが編纂したとされる『甲陽軍鑑』を聖典とし、戦国時代の武田軍の実践的な戦術や組織論、さらには武士としての心構えといった精神論を豊富に含んでいた 7 。氏長は、この甲州流の膨大な知見を吸収することで、戦国乱世のリアリズムを学んだ。
しかし、氏長は単なる模倣者ではなかった。彼は甲州流に含まれる非合理的な要素、例えば軍配を用いた占いや日柄・方角の吉凶判断といった中世的な迷信を「無用」として断固として退けた 1 。これは、兵法を神秘的な呪術から、論理と実践に基づく「学問」へと転換させようとする強い意志の表れであった。彼は甲州流を基礎としながらも、それを批判的に乗り越え、より合理的で体系的な兵学を志向したのである。
氏長の先進性を最も象徴するのが、西洋軍事技術への深い関心である。慶安3年(1650年)、彼は武蔵国牟礼野(現在の井の頭公園付近)で行われたオランダ人による火砲の演習を見学し、砲手のユリアン・スハーデル(Jurien Schaedel)に攻城法について詳細な質問を行った。その問答をまとめたのが、『攻城阿蘭陀由里安牟相伝』である 1 。
この書物には、火砲を効果的に用いて城を攻略するための具体的な戦術や、幾何学的な思考に基づく陣地の構築法などが図解入りで記されている 10 。氏長がこのオランダ流攻城術に注目したことは、単なる異国趣味ではない。彼は、日本の伝統的な城攻めや築城術が、火器の威力が増大した新たな時代において限界を迎えつつあることを鋭く見抜いていた。そして、その限界を突破するための鍵を、西洋の合理的な軍事思想に求めたのである 12 。
甲州流という日本の実戦知の集大成と、オランダ流というヨーロッパの最新軍事技術。この二つを学んだ氏長の試みは、日本の兵法家として初めて、和漢の古典的軍学と西洋の近代的軍事技術を意識的に統合しようとするものであった。それは、約200年後の幕末に叫ばれる「和魂洋才」の思想を先取りする、画期的な知的冒険であったと言える。『兵法雄鑑』は、まさにその最初の、そして最も重要な結実なのである。
北条流兵学の伝書群を理解する上で、『兵法雄鑑』と『兵法雌鑑』の関係性を把握することは極めて重要である。この二書は、単なる別々の書物ではなく、対をなすことで北条流の兵法体系の全体像を構成している。
『兵法雌鑑』は、『兵法師鑑』あるいは『兵法私鑑』とも呼ばれ、氏長が師である小幡景憲から受けた甲州流の教えを基に、自身の研究や考察を書き留めた、いわば私的な研究ノートであり秘伝書であった 13 。その内容は口伝を多く含み、師から弟子へと直接伝授されることを前提とした、閉鎖的な知の体系であったと考えられる 15 。
これに対し、『兵法雄鑑』は、その『雌鑑』の内容を整理・体系化し、より普遍的で公開可能な形に再編成したものである。特に、三代将軍・徳川家光への献上を目的として著されたという側面は重要である 14 。これは、兵学が特定の流派の秘伝から、為政者が学ぶべき公的な「学問」へとその性格を変容させていく過程を象徴している。「私(雌)」から「公(雄)」へという構造は、近世兵学の成立過程そのものを映し出していると言えよう。
さらに、この体系には『士鑑用法』という書物が加わる 13 。これは『兵法雄鑑』の膨大な内容を、一般の武士向けに要約・簡略化したテキストであり、北条流の教えを広く普及させるための入門書としての役割を担った 1 。治内・知外・応変の三綱、計三十か条と城取の一編から構成され、北条流の講義で広く用いられた 16 。この三部作(雌鑑・雄鑑・士鑑用法)によって、北条流は秘伝の奥義から将軍が学ぶべき統治術、そして一般武士が修めるべき教養までをカバーする、重層的な知の体系を完成させたのである。
北条流兵法の核心をなす思想は、徹底した「合理主義」と「実践主義」である。氏長は、それまでの軍学にありがちだった抽象的、概念的な議論や、精神論に偏った心得を排し、「実践に役立つ軍事学のみ」を追求した 12 。
その最も顕著な例が、籠城戦における具体的な戦術指南である。氏長は次のように説く。「籠城している際、敵が遠方から銃弾や弓矢を撃ちかけてきても、こちらもむきになって反撃するのは損失である。そのような状況で敵がいきなり城内に突入してくることはない。本当に矢玉を使うべき好機は、敵兵がこちらの石垣や塀に取り付いてきた時である。その瞬間こそ、攻め手側の射撃手は味方兵に当たることを恐れて援護射撃を止めるため、こちらは身を乗り出してでも集中攻撃を浴びせるべきだ」 12 。これは、敵味方の心理状態と物理的な状況を冷静に分析し、最も効率的かつ効果的な戦術を選択しようとする、極めて合理的な思考に基づいている。
さらに氏長は、兵学を単なる戦闘技術に留めず、泰平の世における武士の存在価値を示すための修養法、すなわち「士道」として再定義しようと試みた。その思想は、特に『士鑑用法』に色濃く表れている 1 。彼は、孫子の「兵は詭道なり(戦争とは敵を欺くことである)」という言葉を、単なる騙し討ちの奨励と浅く解釈する人々を批判した 18 。氏長にとって「兵」とは、国を治め民を安んじるための「天下の大道」であり、そのための手段として「詭道」も含まれるという、より高次の視点に立っていた。
戦いの技術を学ぶことを通じて、自己を律し、組織を治め、ひいては天下を泰平に導く普遍的な統治術やリーダーシップ論を構築しようとするこの思想は、戦国時代の「武」の価値観を、近世的な「文武両道」の理想へと昇華させる重要な布石であった。そしてこの思想は、彼の高弟である山鹿素行へと受け継がれ、さらに洗練された形で展開されていくことになるのである 13 。
『兵法雄鑑』が築城書として認識されることが多いのは、その記述が従来の経験則に頼ったものから、計画性と合理性に基づいた科学的アプローチへと大きく舵を切っているからである。本書に見られる築城術は、戦国時代の実戦経験を昇華させ、近世的な技術論へと体系化したものであった。
『兵法雄鑑』における築城術の第一歩は、地形の選定と、それに基づいた綿密な計画、すなわち「縄張」である。特に注目すべきは、山城を築く際に「土図盤」を用いることを推奨している点である 19 。土図盤とは、現地の地形を再現した一種の立体模型や、詳細な設計図盤を指すと考えられる。
これは、日本の築城史において画期的なことであった。それまでの城作りが、現地の地形に合わせて場当たり的に曲輪を配置していくことが多かったのに対し、土図盤を用いる手法は、築城前に全体の配置、防御線の連携、兵の動線などを俯瞰的に検討し、最適化を図ることを可能にする。これは、建築家が模型や設計図を用いて建物を設計するのに等しい、極めて近代的で科学的なアプローチである。氏長が、地形の利を最大限に活かしつつ、無駄のない効率的な防御システムを構築するために、事前の計画とシミュレーションをいかに重視していたかが窺える。
北条流の防御思想の核心をなすのが、「横矢掛かり(よこやがかり)」という概念である。これは、城壁や土塁、石垣といった防御線(塁線)を直線的に作るのではなく、意図的に「折れ」や「屈曲」を多用することで、城壁に取り付こうとする敵兵に対し、正面からだけでなく側面からも攻撃を加えられるようにする設計思想である 20 。
この思想の狙いは、城の防御における「死角」を徹底的に排除することにある。直線的な城壁では、壁の真下は城内からの攻撃が届きにくい死角となる。しかし、塁線をジグザグに屈曲させることで、突出部から別の突出部に取り付く敵を側面攻撃でき、相互に支援し合うことが可能となる。これにより、城壁のどの部分に敵が取り付いても、必ず複数の方向から十字砲火を浴びせることができる、極めて効果的な防御システムが生まれる。
この「相互支援」と「死角の排除」という発想は、同時期のヨーロッパで発展した「稜堡式城郭(りょうほしきじょうかく)」、いわゆる星形要塞の設計思想と軌を一にするものである 21 。氏長がオランダ人から学んだ攻城術の知識には、当然、それに対抗するための防御側の思想も含まれていたと考えられる。彼が、その幾何学的で合理的なヨーロッパの築城思想を日本の伝統的な城郭設計に導入し、「横矢掛かり」という概念として理論化した可能性は極めて高い。
『兵法雄鑑』が提唱する築城思想の独自性と先進性は、戦国時代を代表する武田氏や後北条氏の築城術と比較することで、より鮮明に浮かび上がる。
武田氏の築城術は、甲州流兵学の拠点となった城郭群にその特徴を見ることができる。『甲陽軍鑑』に「人は城、人は石垣、人は堀」という言葉があることから、信玄が城を軽視したかのような印象を持たれがちだが、実際には当時最先端の土の城を築いていた 7 。その最大の特徴は、虎口(城の出入口)の防御を徹底的に強化する「丸馬出(まるうまだし)」と呼ばれる半円形の防御施設と、それを三日月形の堀で囲む「三日月堀」の多用である 7 。これは、城の最も脆弱な部分である虎口という「点」の防御を極限まで高めようとする思想の表れである。
一方、関東に広大な領国を築いた後北条氏の城では、「角馬出(かくうまだし)」と呼ばれる方形の馬出が多用された 24 。これも虎口を守るための施設であるが、丸馬出に比べてより多くの兵員を配置できるなどの特徴があった。
これら戦国期の築城術が、城の特定の部分、すなわち「点」の防御を高度化させることに主眼を置いていたのに対し、『兵法雄鑑』が志向し、その弟子である山鹿素行が赤穂城などで具現化した思想は、全く異なる次元にあった。それは、城郭全体の塁線を複雑に屈曲させ、城全体を一個の巨大な「横矢掛かり装置」として設計する思想である 20 。これは、個別のパーツの強化から、システム全体の最適化への思想的飛躍を意味する。武田・後北条の築城術が「点の防御」の高度化であるとすれば、北条流・山鹿流のそれは、城郭全体を有機的な防御システムとして捉える「線の防御」「面の防御」へのパラダイムシフトであった。
この思想的変遷を視覚的に理解するため、以下の表にまとめる。
表1:主要兵学流派の築城思想比較
流派/勢力 |
時代 |
主要な防御施設・特徴 |
縄張りの思想 |
根拠資料 |
甲州流(武田氏) |
戦国中期~後期 |
丸馬出、三日月堀、河岸段丘の利用 |
虎口の重点的強化、地形の巧みな活用 |
7 |
後北条氏 |
戦国中期~後期 |
角馬出、障子堀 |
虎口防御と広範囲の領域支配を両立 |
24 |
北条流(北条氏長) |
江戸初期 |
(理論上)横矢掛かり、土図盤による計画 |
合理的・効率的な防御システムの構築、迷信の排除 |
12 |
山鹿流(山鹿素行) |
江戸初期~中期 |
複雑な折れを持つ塁線、横矢枡形、稜堡式に近い発想 |
城郭全体のシステム化、徹底した死角の排除 |
20 |
『兵法雄鑑』の射程は、城壁の内側に留まらない。本書は、戦争を築城、攻城、野戦といった個別の事象としてではなく、兵站、諜報、心理戦を含む包括的な戦略活動として捉えている。
『兵法雄鑑』は、開戦前の準備の重要性を繰り返し説く。食料や武器・弾薬の備蓄といった基本的な兵站の確保はもちろんのこと 27 、より能動的な戦略も詳述されている。例えば、敵国に侵攻する際には、まず敵の生産基盤を破壊することを推奨している。田畑を荒らし、民家を焼き払うといった焦土作戦によって敵の兵糧供給を断ち、敵国を内側から疲弊させる 14 。さらに、敵の城を包囲した際には、城外の水源に不浄物を沈めて飲料水を断つといった、兵站を標的とした非情な戦術も記されている 27 。これらは、直接的な戦闘による勝利だけでなく、敵の戦争継続能力そのものを奪うことを目的とした、極めて合理的な戦略思想である。
本書が描く戦術の中で、特に北条流の思想を象徴するのが、欺瞞工作としての「見せ旗」の活用である 28 。これは、高度な心理戦術の一種である。
『兵法雄鑑』の原文にはこう記されている。「見せ旗というは、たとえば物見などに出るに、をくり足軽、迎備もなくして、深く働き入る事など叶がたき時は、指物を抜き山影木立の中に立て置き、同勢と敵に見せて進み行くを、見せ旗というなり」 28 。
現代語に訳せば、「見せ旗とは、例えば偵察部隊が、後続の援護部隊も伏兵もなしに敵地深くに侵入するのが困難な場合に、自分たちの旗指物を抜き、山陰や林の中に立てておくことで、あたかも味方の伏兵が潜んでいるかのように敵に見せかけながら進むことを言う」となる。
この戦術の目的は、主に二つある。一つは、敵地深くで活動する偵察部隊の安全確保である。万が一、偵察部隊が敵に発見され追撃を受けた場合、彼らはこの「見せ旗」を立てた地点へと退却する。追撃してきた敵は、林立する旗を見て伏兵の存在を警戒し、追撃を躊躇、あるいは断念する。その隙に偵察部隊は安全に自陣へ帰還することができるのである 28 。もう一つの目的は、敵の進軍を遅延させることである。敵の進軍が予測される経路上に「見せ旗」を設置しておくことで、敵に伏兵の存在を疑わせ、慎重な索敵行動を強いる。これにより時間を稼ぎ、自軍が迎撃態勢を整えるための猶予を生み出すことができる 28 。
この「見せ旗」の記述は、北条流が物理的な兵力差だけでなく、情報と心理を巧みに利用して戦局を有利に導こうとする、洗練された戦略眼を持っていたことを雄弁に物語っている。それは、単なる力と力のぶつかり合いではない、知略の戦いを重視する近世兵学の萌芽を示すものであった。
北条氏長が創始した北条流兵学は、彼一代で終わることはなかった。その合理的かつ実践的な思想は、一人の傑出した弟子によって継承され、さらに独自の発展を遂げることになる。
北条氏長の高弟の中で、最も重要な人物が山鹿素行(1622-1685)である 13 。素行は15歳で氏長の門下に入り、北条流兵学の神髄を学んだ 6 。彼は、氏長から受け継いだ合理主義的な兵学に、自身が深く学んだ儒学、特に古典に直接立ち返ろうとする古学の思想を融合させ、独自の「山鹿流」兵学を創始した 13 。
山鹿流の特徴は、兵法を単なる戦術論に留めず、武士の生き方そのものを規定する「士道」の学問として体系化した点にある 30 。素行にとって、武士とは農工商の三民の上に立ち、彼らを治める存在であり、そのためには戦闘技術だけでなく、自己を修め、国を治めるための高い倫理観と教養が不可欠であると考えた 31 。この思想は、氏長が『士鑑用法』で示した、兵学を武士の修養法と位置づける考え方を、さらに深化・発展させたものであった。
興味深いことに、この師弟関係には複雑な側面も存在する。寛文5年(1665年)、素行は主著『聖教要録』で当時幕府公認の学問であった朱子学を批判したため、幕府の忌諱に触れた 29 。翌年、彼に播磨国赤穂藩への配流を申し渡したのは、他ならぬ師の北条氏長であった 32 。この事実は、公儀の役人としての氏長の立場と、思想家としての素行の信念が交錯する、当時の思想界の緊張関係を物語っている。しかし、この赤穂での配流生活が、後に「忠臣蔵」で知られる赤穂藩士たちに山鹿流兵学が深く浸透するきっかけとなったことは、歴史の皮肉と言えるだろう。
北条氏長が理論として構築し、山鹿素行が「士道」として深化させた兵学思想は、机上の空論では終わらなかった。それは、実際の城郭という物理的な形として、後世にその姿を留めている。その代表例が、赤穂城(兵庫県赤穂市)と平戸城(長崎県平戸市)である。
赤穂城は、浅野氏の時代に近藤正純が縄張を行い、その設計には山鹿流兵学が取り入れられたとされる。その縄張は、日本の近世城郭の中でも極めて特異なものである。本丸と二の丸の塁線は、まるで定規で引いたかのように直線と角度で構成され、いたるところで屈曲し、徹底した横矢掛かりを実現している 20 。特に本丸の隅部は鋭く突出し、その形状はヨーロッパの稜堡式城郭を彷彿とさせる 35 。これは、城全体を一つの巨大な防御システムとして捉え、死角をなくし、あらゆる方向からの攻撃に対応しようとする、北条流・山鹿流の思想が具現化した姿である。
平戸城もまた、藩主松浦氏が山鹿素行に設計を依頼し、その指導のもとに築かれたと伝えられる山鹿流の城である 36 。この城も、丘陵の複雑な地形を巧みに利用しながら、櫓や門を効果的に配置し、幾重にも重なる防御線を構築している 37 。特に、虎口(門)の構造は巧妙で、敵は侵入するために何度も進路を直角に折れ曲がることを強いられ、その間、常に周囲の櫓や城壁から側面攻撃に晒される設計となっている 38 。
これら二つの城は、北条氏長が蒔いた合理主義の種子が、弟子・山鹿素行の手によって実際に花開き、堅固な要塞として結実した証である。戦国の経験知から生まれた理論が、泰平の世において精緻な城郭建築として完成に至る過程を、我々はこれらの遺構から見て取ることができるのである。
『兵法雄鑑』とその継承者たちが示した城郭設計の思想は、単なる過去の軍事技術論に留まらない。その根底にある、脅威に対してシステム全体で対処するという原則は、時代を超えた普遍性を持ち、現代の様々な分野における戦略思想とも深く共鳴する。
北条流・山鹿流の城郭は、一つの防御線が破られても、次の防御線で敵を食い止め、損害を局地化するという思想で設計されている。城を例に取れば、外周の堀と土塁(外郭)、堅固な門と枡形(虎口)、内部を区画する曲輪(内郭)、そして最後の拠点である本丸や天守というように、防御機能が階層的に配置されている。この構造は、現代のサイバーセキュリティにおける「多層防御(Defense in Depth)」の概念と驚くほど類似している 39 。多層防御は、外部ネットワークとの境界を守るファイアウォール(入口対策)、侵入を検知する内部監視システム(内部対策)、そして情報流出を防ぐ仕組み(出口対策)など、複数の防御層を設けることで、一つの層が突破されてもシステム全体が致命的な被害を受けることを防ぐ戦略である 41 。城の堀がファイアウォール、曲輪が内部のセグメント、そして本丸が守るべき最重要データサーバーに対応すると考えれば、その構造的類似性は明らかである。
また、この思想は経営戦略にも通じる。例えば、事業戦略論における「プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM)」は、企業が持つ複数の事業を、市場成長率と市場占有率から「金のなる木」「花形」「問題児」「負け犬」に分類し、それぞれに最適な資源配分を行うことで、企業全体の持続的成長を目指すフレームワークである 43 。これは、戦国大名が領国内に点在する複数の城の役割(前線の攻撃拠点、後方の兵站基地、政治の中心である居城など)を戦略的に定め、兵力や物資を最適に配分する思考と本質的に同じである。一つの事業(城)が不振に陥っても、他の事業(城)がそれを補い、全体としての競争優位性を維持しようとする、ポートフォリオ的なリスク管理思想がそこにはある 45 。
さらに、現代の防災都市計画における思想とも共通点が見出せる。延焼を食い止めるための延焼遮断帯の設置や、災害時に複数の避難経路を確保しておく計画は、被害の拡大を防ぎ、住民の安全を確保するための多層的な防御思想の応用である 46 。
このように、『兵法雄鑑』に示された合理的な防御思想は、その中から抽象化することで、脅威の性質や時代背景が異なっても適用可能な、普遍的な戦略原則を内包している。戦国の城壁に込められた知恵は、数世紀の時を経て、現代社会が直面する様々な課題に対処するための、貴重な示唆を与え続けているのである。
本報告書を通じて、『兵法雄鑑』が単なる一介の築城書ではなく、日本の軍事思想史における一大転換点を画する、極めて重要な文献であることが明らかになった。
本書は、戦国乱世という血塗られた時代に蓄積された膨大な実戦経験という「素材」を、北条氏長という類稀な知性が、オランダ流兵学という新たな「触媒」を用いて、近世的な「兵学」という論理的・体系的な「学問」へと昇華させた、歴史的な記念碑である。それは、戦国時代の終焉と、徳川による泰平の時代の始まりという、大きな社会構造の転換期に生まれたからこそ持ち得た、特異な性格と価値を有している。
氏長は、戦国武将の経験則や精神論の中から普遍的な原理を抽出し、非合理的な迷信を排除した。そして、西洋の軍事技術が持つ幾何学的な合理性を取り入れ、城郭を個々のパーツの集合体としてではなく、相互に連携する一つの有機的な防御システムとして捉え直した。この思想は、高弟・山鹿素行によって継承・発展され、赤穂城や平戸城といった物理的な形で結実し、日本の築城史に新たな一ページを刻んだ。
その根底に流れる「多層防御」の思想は、現代のサイバーセキュリティや経営戦略、防災計画にも通じる普遍的な戦略原則を内包しており、我々に多くの示唆を与える。
『兵法雄鑑』を深く理解することは、戦国から江戸へと至る軍事思想のダイナミックな変遷を追体験することであり、ひいては、戦いを終えた武士たちが自らの存在意義を「士道」という新たな価値観に見出していく、近世武士の精神史そのものを理解する上で不可欠な作業である。本書は、まさに戦国と江戸という二つの時代を繋ぐ、堅固にして精緻な知の架け橋なのである。
『兵法雄鑑』は、その重要性から江戸時代を通じて多くの写本が作られたが、現存するものは限られており、貴重書として厳重に管理されている。主要な所蔵機関としては、日本の国立国会図書館 49 、愛知県の西尾市岩瀬文庫 50 、九州大学附属図書館 51 、京都大学附属図書館 52 、奈良県立図書情報館 53 などが挙げられる。
特筆すべきは、海外にも重要なコレクションが存在することである。米国の名門、イェール大学のバイネッキ貴重書・写本図書館は、「日本イエール協会コレクション」および「日本文書コレクション」の中に『兵法雄鑑』の写本を所蔵している 53 。これは、20世紀初頭に同大学の歴史学者であった朝河貫一らの尽力によって収集されたものであり、日米間の学術交流の歴史を物語る貴重な史料群の一部である 55 。
近年、これらの機関の一部ではデジタル化が進められており、研究者はオンライン上で『兵法雄鑑』の画像データにアクセスすることが可能となっている。例えば、国立国会図書館デジタルコレクションや、西尾市岩瀬文庫の「古典籍書誌データベース」、奈良県立図書情報館の「まほろばデジタルライブラリー」などで、その一部または全部を閲覧することができる 49 。
ただし、全ての写本がデジタル化されているわけではなく、また研究目的で原本の閲覧を希望する場合には、各所蔵機関の規定に従った厳格な手続きが必要となる。通常、所属機関からの紹介状や、具体的な研究計画を記した閲覧願の事前提出が求められる 58 。これらの貴重な史料へのアクセスを通じて、『兵法雄鑑』に関する更なる研究が進展することが期待される。